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[[1968年]]、[[第2次佐藤内閣第2次改造内閣|第2次佐藤再改造内閣]]の[[運輸大臣]]として初入閣。その後自民党国会対策委員長、[[第2次田中角栄内閣第1次改造内閣|第2次田中改造内閣]]の[[郵政大臣]]などを歴任したが、[[1979年]]の総選挙では、[[日本共産党]]の[[村上弘]]の返り咲きを許し落選する。大阪は自民党の地盤が脆弱であることを露呈した。自民党では[[大野伴睦]]→[[村上勇]]→[[水田三喜男]]派に所属したが、水田の死去後は[[木曜クラブ|田中派]]に加入。


[[1988年]]12月、[[竹下内閣改造内閣|竹下改造内閣]]の[[経済企画庁長官]]に就任したが、[[リクルートホールディングス]]からの献金問題で在職わずか30日で辞任に追い込まれた。[[1992年]]、[[東京佐川急便事件]]に関連して[[平成研究会|経世会]][[金丸信]]会長辞任後の後継会長選びで、座長見解として「[[小渕恵三]]君が適当と思う」とコメントしたことから、小渕会長への流れが急加速、その後の竹下派分裂・政界再編の遠因となった。
[[1988年]]12月、[[竹下内閣改造内閣|竹下改造内閣]]の[[経済企画庁長官]]に就任したが、[[リクルートホールディングス|リクルート]]からの献金問題で在職わずか30日で辞任に追い込まれた。[[1992年]]、[[東京佐川急便事件]]に関連して[[平成研究会|経世会]][[金丸信]]会長辞任後の後継会長選びで、座長見解として「[[小渕恵三]]君が適当と思う」とコメントしたことから、小渕会長への流れが急加速、その後の竹下派分裂・政界再編の遠因となった。


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[[1996年]]、新しく導入された[[小選挙区制]]の[[大阪府第9区|大阪9区]]から出馬。次期[[衆議院議長]]の最有力候補と目されていたが、世代交代の波に逆らえず[[新進党]]の[[西田猛]]に敗れ落選。翌年の1997年1月29日、[[肺炎]]のため大阪府[[池田市]]の病院で死去。[[享年]]79(満77歳)。

2019年9月13日 (金) 16:03時点における版

原田憲
はらだ けん
生年月日 1919年2月12日
出生地 日本の旗 日本 大阪府
没年月日 (1997-01-29) 1997年1月29日(77歳没)
死没地 日本の旗 日本 大阪府池田市
出身校 明治大学専門部政治科
所属政党 自由民主党
親族 長男・原田憲治

内閣 竹下内閣
在任期間 1988年12月27日 - 1989年1月25日

日本の旗 第33代 郵政大臣
内閣 第2次田中第1次改造内閣
在任期間 1973年11月25日 - 1974年11月11日

日本の旗 第33代 運輸大臣
内閣 第2次佐藤第2次改造内閣
在任期間 1968年11月30日 - 1970年1月14日

選挙区 旧大阪3区
当選回数 14回
在任期間 1947年4月26日 - 1996年9月27日
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原田 憲はらだ けん1919年2月12日 - 1997年1月29日)は、日本政治家衆議院議員(14期)、運輸大臣郵政大臣経済企画庁長官を歴任した。長男は衆議院議員の原田憲治大阪府池田市生まれ[1]

来歴・人物

大阪府出身。父親は大阪府議会議長を務めた。大阪府立第十三中学校(現大阪府立豊中高等学校)、関西大学予科を経て、明治大学専門部政治科卒業。1947年、旧大阪3区より第23回衆議院議員総選挙日本自由党から立候補し初当選(当選同期に田中角栄鈴木善幸中曽根康弘増田甲子七中山マサ松野頼三倉石忠雄石田博英園田直櫻内義雄根本龍太郎佐々木秀世中村寅太など)。通算当選14回。

1968年第2次佐藤再改造内閣運輸大臣として初入閣。その後自民党国会対策委員長、第2次田中改造内閣郵政大臣などを歴任したが、1979年の総選挙では、日本共産党村上弘の返り咲きを許し落選する。大阪は自民党の地盤が脆弱であることを露呈した。自民党では大野伴睦村上勇水田三喜男派に所属したが、水田の死去後は田中派に加入。

1988年12月、竹下改造内閣経済企画庁長官に就任したが、リクルートからの献金問題で在職わずか30日で辞任に追い込まれた。1992年東京佐川急便事件に関連して経世会金丸信会長辞任後の後継会長選びで、座長見解として「小渕恵三君が適当と思う」とコメントしたことから、小渕会長への流れが急加速、その後の竹下派分裂・政界再編の遠因となった。

1996年、新しく導入された小選挙区制大阪9区から出馬。次期衆議院議長の最有力候補と目されていたが、世代交代の波に逆らえず新進党西田猛に敗れ落選。翌年の1997年1月29日、肺炎のため大阪府池田市の病院で死去。享年79(満77歳)。

所属していた団体・議員連盟

脚注

関連項目

議会
先代
大出俊
日本の旗 衆議院懲罰委員長
1993年 - 1996年
次代
奥田敬和
先代
越智伊平
日本の旗 衆議院運輸委員長
1982年 - 1983年
次代
福家俊一
公職
先代
中尾栄一
日本の旗 経済企画庁長官
第39代:1988年 - 1989年
次代
愛野興一郎
先代
久野忠治
日本の旗 郵政大臣
第33代:1973年 - 1974年
次代
鹿島俊雄
先代
中曽根康弘
日本の旗 運輸大臣
第39代:1968年 - 1970年
次代
橋本登美三郎
党職
先代
金丸信
自由民主党国会対策委員長
第17代:1972年 - 1973年
次代
福田一