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'''内大臣'''(ないだいじん)とは日本の官名の一つ。時代により職掌が異なる。 |
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#[[律令制度]]の[[令外官]]の日本の[[大臣 (日本)|大臣]]の一つ。[[左大臣]]、[[右大臣]]に次ぐ。 |
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#明治時代における[[大日本帝国]]政府における役職の一つ。[[1885年]]制定。[[1945年]]廃止。 |
#明治時代における[[大日本帝国]]政府における役職の一つ。[[1885年]]制定。[[1945年]]廃止。[[内大臣府]]を参照。 |
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*藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、同様の職掌を掌った官職に就いた者として記載する。 |
*藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、同様の職掌を掌った官職に就いた者として記載する。 |
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==明治== |
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'''内大臣'''(ないだいじん)は、[[明治]]の[[大日本帝国]]においては宮中の役職で、[[内閣]]には加わらず、[[国務大臣]]には含まれず、'''[[内大臣府]]'''にあって[[天皇]]の側近として常時[[天皇]]を輔弼し、[[国璽]]・[[御璽]]の管理や[[詔書]]の事務を扱った。当初は、[[太政官]]制廃止直後の前[[太政大臣]][[三条実美]]の処遇のための役職の意味合いもあった。[[昭和]]に入ると[[元老]]に代わって、首相の奏薦に大きな役割を果たし、宮中だけでなく府中(政府内)にも力を持った。内大臣が欠けた緊急の場合、[[枢密院]]議長が臨時に内大臣に就任し天皇に侍立する。これは、[[二・二六事件]]の直後の、枢密院議長[[一木喜徳郎]]が内大臣に就任し即日辞職した例がある。 |
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内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、[[憲法]]学者ですら明確に定義することが出来ない程、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した人物と天皇の信頼関係のみで成立するという、非常に特殊なポストだった。また、特殊なケースとして[[皇族]]の[[貞愛親王]]が内大臣を務めた例([[1912年]] - [[1915年]])がある。 |
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[[降伏]]後の[[1945年]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)によって廃止された。 |
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歴代の内大臣については、[[内大臣府]]を参照。 |
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{{Wikisource|內大臣府官制|内大臣府官制}} |
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==脚注== |
==脚注== |
2008年10月22日 (水) 00:14時点における版
内大臣(ないだいじん)とは日本の官名の一つ。時代により職掌が異なる。
律令制度
内大臣(ないだいじん、うちのおおまえつぎみ、うちのおとど)とは、律令制度下における令外官の日本の大臣の一つ。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。正・従二位に相当。
左大臣および右大臣の両人が何らかの事情のため出仕できない場合、代理に政務をつかさどる。令外官となっているが、もともと令が成立する以前にも除目(じもく)された記録がある。645年より孝徳・斉明・天智の3代において内臣に任じられた中臣鎌足(藤原鎌足)が死の直前に内大臣に任じられたのが嚆矢とされている。
以後、特殊の事情によって内大臣が設置される例が複数回あった[1]が、常置の官としての内大臣は、平安中期の藤原道隆以後と考えられている[2]。以後、内大臣には主として摂関家の若手公卿に摂政・関白就任資格を付与するための任命、宿老もしくは功績多大な公卿[3]に対する礼遇のための任命、単に筆頭大納言に相当する公卿への待遇が「3番目の大臣(太政大臣を除く)」に改められた任命、武家政権の長あるいはそれに次ぐ地位の者に対して与えられる任命[4]の4つに分けられるようになる。
明治維新に際して廃止。安土桃山時代・豊臣政権下、五大老筆頭で最大の大名であった徳川家康も叙任された。以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている。
主な内大臣
名前 | 在職年 | 在職時の天皇 | 備考 |
---|---|---|---|
藤原鎌足 | 645年 - 669年 | 天智 | 内臣、内大臣としては669年 |
藤原房前 | 721年 - 737年 | 元正、聖武 | 内臣 |
藤原仲麻呂 | 757年 - 760年 | 孝謙、淳仁 | 紫微内相、大保 |
道鏡 | 764年 - 765年 | 淳仁、称徳 | 大臣 |
藤原良継 | 771年 - 777年 | 光仁 | 内臣、内大臣としては777年 |
藤原魚名 | 778年 - 781年 | 光仁、桓武 | 内臣、忠臣、内大臣としては779年-781年 |
藤原高藤 | 900年 | 醍醐 | 勧修寺内大臣 |
藤原兼通 | 972年 - 974年 | 円融 | |
藤原道隆 | 989年 - 991年 | 一条 | |
藤原道兼 | 991年 - 994年 | 一条 | |
藤原伊周 | 994年 - 996年 | 一条 | 帥内大臣 |
藤原公季 | 997年 - 1017年 | 一条、三条、後一条 | |
藤原頼通 | 1017年 - 1021年 | 後一条 | |
藤原教通 | 1021年 - 1047年 | 後一条、後朱雀、後冷泉 | |
藤原頼宗 | 1047年 - 1060年 | 後冷泉、後三条 | |
藤原師実 | 1060年 - 1065年 | 後三条 | |
源師房 | 1065年 - 1069年 | 後三条、白河 | |
藤原信長 | 1069年 - 1080年 | 白河 | 九條太政大臣 |
藤原能長 | 1080年 - 1082年 | 白河 | 三條内大臣 |
藤原師通 | 1083年 - 1099年 | 白河、堀河 | 後二條殿 |
源雅実 | 1100年 - 1115年 | 堀河、鳥羽 | |
藤原忠通 | 1115年 - 1122年 | 鳥羽 | |
源有仁 | 1122年 - 1131年 | 鳥羽、崇徳 | |
藤原宗忠 | 1131年 - 1136年 | 崇徳 | |
藤原頼長 | 1136年 - 1149年 | 崇徳、近衛 | |
源雅定 | 1149年 - 1150年 | 近衛 | |
徳大寺実能 | 1150年 - 1156年 | 近衛、後白河 | |
藤原伊通 | 1156年 - 1157年 | 後白河 | |
三条公教 | 1157年 - 1160年 | 後白河、二条 | 高倉内大臣 |
藤原基房 | 1160年 - 1161年 | 二条 | |
中御門宗能 | 1161年 - 1165年 | 二条 | |
九条兼実 | 1165年 - 1166年 | 二条、六条 | |
平清盛 | 1166年 - 1167年 | 六条 | |
花山院忠雅 | 1167年 - 1168年 | 六条 | |
源雅通 | 1168年 - 1175年 | 六条、高倉 | |
藤原師長 | 1175年 - 1177年 | 高倉 | 妙音院殿 |
平重盛 | 1177年 - 1179年 | 高倉 | 小松内大臣 |
近衛基通 | 1179年 - 1182年 | 高倉、安徳 | |
平宗盛 | 1182年 - 1183年 | 安徳 | 屋島内大臣 |
徳大寺実定 | 1183年 | 安徳 | |
松殿師家 | 1183年 - 1184年 | 安徳 | |
徳大寺実定 | 1184年 - 1186年 | 安徳、後鳥羽 | |
九条良通 | 1186年 - 1188年 | 後鳥羽 | |
花山院兼雅 | 1189年 - 1190年 | 後鳥羽 | |
藤原兼房 | 1190年 - 1191年 | 後鳥羽 | |
中山忠親 | 1191年 - 1194年 | 後鳥羽 | 中山内大臣 |
九条良経 | 1195年 - 1199年 | 後鳥羽、土御門 | |
源通親 | 1199年 - 1201年 | 土御門 | 土御門内大臣 |
藤原隆忠 | 1201年 - 1204年 | 土御門 | |
西園寺実宗 | 1205年 - 1206年 | 土御門 | 大宮入道内大臣 |
花山院忠経 | 1206年 - 1207年 | 土御門 | |
近衛道経 | 1207年 - 1208年 | 土御門 | |
九条良輔 | 1208年 - 1209年 | 土御門 | |
徳大寺公継 | 1209年 - 1211年 | 土御門、順徳 | |
坊門信清 | 1211年 - 1212年 | 順徳 | |
九条道家 | 1212年 - 1215年 | 順徳 | |
三条公房 | 1215年 - 1218年 | 順徳 | |
源実朝 | 1218年 | 順徳 | 鎌倉右大臣 |
近衛家通 | 1218年 - 1219年 | 順徳 | |
久我通光 | 1219年 - 1221年 | 順徳、仲恭 | 後久我太政大臣 |
西園寺公経 | 1221年 - 1222年 | 後堀河 | |
大炊御門師経 | 1222年 - 1224年 | 後堀河 | |
九条良平 | 1224年 - 1227年 | 後堀河 | |
近衛兼経 | 1227年 - 1231年 | 後堀河 | |
西園寺実氏 | 1231年 - 1235年 | 後堀河、四条 | |
二条良実 | 1235年 - 1236年 | 四条 | |
土御門定通 | 1236年 - 1237年 | 四条 | |
九条基家 | 1237年 - 1238年 | 四条 | 後九条内大臣 |
大炊御門家嗣 | 1238年 - 1240年 | 四条 | |
衣笠家良 | 1240年 - 1241年 | 四条 | |
鷹司兼平 | 1241年 - 1244年 | 四条、後嵯峨 | |
九条忠家 | 1244年 - 1246年 | 後嵯峨、後深草 | |
徳大寺実基 | 1246年 - 1250年 | 後深草 | |
堀川具貫 | 1250年 | 後深草 | |
二条道良 | 1250年 - 1252年 | 後深草 | |
花山院定雅 | 1252年 | 後深草 | |
西園寺公相 | 1252年 - 1254年 | 後深草 | |
西園寺公基 | 1254年 - 1257年 | 後深草 | |
山階実雄 | 1257年 - 1258年 | 後深草 | |
近衛基平 | 1258年 - 1261年 | 後深草、亀山 | |
三条公親 | 1261年 - 1262年 | 亀山 | |
鷹司基忠 | 1262年 - 1265年 | 亀山 | |
大炊御門冬忠 | 1265年 - 1267年 | 亀山 | |
一条家経 | 1267年 - 1268年 | 亀山 | |
花山院通雅 | 1268年 - 1269年 | 亀山 | |
中院通成 | 1269年 | 亀山 | |
二条師忠 | 1269年 - 1271年 | 亀山 | |
花山院師継 | 1271年 - 1275年 | 亀山、後宇多 | 花山院内大臣 |
近衛家基 | 1275年 - 1288年 | 後宇多、伏見 | |
久我通基 | 1288年 | 伏見 | |
鷹司兼忠 | 1288年 - 1289年 | 伏見 | |
西園寺実兼 | 1289年 - 1291年 | 伏見 | 後西園寺入道相国 |
大炊御門信嗣 | 1291年 | 伏見 | |
洞院公守 | 1291年 - 1292年 | 伏見 | |
二条兼基 | 1292年 | 伏見 | |
三条実重 | 1292年 - 1293年 | 伏見 | |
九条師教 | 1293年 - 1296年 | 伏見 | |
土御門定実 | 1296年 - 1297年 | 伏見 | |
久我通雄 | 1297年 - 1298年 | 伏見 | |
西園寺公衡 | 1298年 - 1299年 | 伏見、後伏見 | |
鷹司冬平 | 1299年 - 1302年 | 後伏見、後二条 | |
二条内実 | 1302年 - 1304年 | 後二条 | |
近衛家平 | 1305年 | 後二条 | |
一条実家 | 1305年 - 1306年 | 後二条 | |
二条道平 | 1306年 - 1309年 | 後二条、花園 | |
近衛経平 | 1309年 - 1313年 | 花園 | |
堀川具守 | 1313年 - 1314年 | 花園 | |
洞院実泰 | 1315年 - 1316年 | 花園 | |
西園寺公顕 | 1316年 - 1317年 | 花園 | |
三条公茂 | 1317年 - 1318年 | 花園、後醍醐 | |
一条内経 | 1318年 - 1319年 | 後醍醐 | |
六条有房 | 1319年 | 後醍醐 | |
中院通重 | 1319年 | 後醍醐 | |
花山院師信 | 1319年 - 1321年 | 後醍醐 | |
大炊御門冬氏 | 1322年 | 後醍醐 | |
鷹司冬教 | 1322年 - 1324年 | 後醍醐 | |
西園寺実衡 | 1324年 - 1326年 | 後醍醐 | |
近衛基嗣 | 1326年 - 1330年 | 後醍醐 | |
久我長通 | 1330年 | 後醍醐 | |
洞院公賢 | 1330年 - 1331年 | 後醍醐 | |
大宮季衡 | 1331年 - 1332年 | 後醍醐 | |
中院通顕 | 1332年 - 1333年 | 後醍醐 | |
洞院公賢 | 1333年 - 1334年 | 後醍醐 | |
吉田定房 | 1334年 - 1335年 | 後醍醐 | |
一条経通 | 1335年 - 1337年 | 後醍醐 | |
鷹司師平 | 1337年 - 1339年 | 後醍醐、後村上 | |
堀川具親 | 1339年 - 1340年 | 後村上 | |
二条良基 | 1340年 - 1343年 | 後村上 | |
三条実忠 | 1343年 - 1345年 | 後村上 | |
大炊御門冬信 | 1345年 - 1346年 | 後村上 | |
徳大寺公清 | 1346年 - 1347年 | 後村上 | |
近衛道嗣 | 1347年 - 1349年 | 後村上 | |
四辻公重 | 1349年 - 1351年 | 後村上 | |
花山院実定 | 1351年 | 後村上 | |
三条公秀 | 1352年 - 1353年 | 後村上 | |
久我通相 | 1356年 - 1360年 | 後村上 | |
三条公忠 | 1360年 - 1362年 | 後村上 | |
洞院実夏 | 1363年 - 1364年 | 後村上 | |
西園寺実俊 | 1364年 - 1366年 | 後村上 | |
二条師良 | 1366年 - 1367年 | 後村上 | |
三条実継 | 1367年 - 1370年 | 後村上、長慶 | |
勧修寺経顕 | 1370年 - 1371年 | 長慶 | |
近衛兼嗣 | 1375年 - 1378年 | 長慶 | |
今出川公直 | 1378年 - 1381年 | 長慶 | |
足利義満 | 1381年 - 1382年 | 長慶 | |
徳大寺実時 | 1382年 - 1388年 | 長慶、後亀山 | |
一条経嗣 | 1388年 - 1394年 | 後亀山、後小松 | |
四辻善成 | 1394年 | 後小松 | |
花山院通定 | 1394年 - 1395年 | 後小松 | |
洞院公定 | 1395年 | 後小松 | |
正親町三条公豊 | 1395年 | 後小松 | |
三条実冬 | 1395年 - 1396年 | 後小松 | |
万里小路嗣房 | 1396年 | 後小松 | |
九条教嗣 | 1396年 - 1399年 | 後小松 | |
近衛忠嗣 | 1399年 - 1402年 | 後小松 | |
今出川公行 | 1402年 - 1403年 | 後小松 | |
二条満基 | 1403年 - 1409年 | 後小松 | |
足利義持 | 1409年 - 1419年 | 後小松、称光 | |
西園寺実永 | 1419年 - 1420年 | 称光 | |
大炊御門宗氏 | 1420年 - 1421年 | 称光 | |
一条兼良 | 1421年 - 1424年 | 称光 | |
洞院満季 | 1424年 - 1426年 | 称光 | |
近衛房嗣 | 1426年 - 1429年 | 称光、後花園 | |
久我清通 | 1429年 - 1432年 | 後花園 | |
足利義教 | 1432年 | 後花園 | |
大炊御門信宗 | 1432年 - 1433年 | 後花園 | |
鷹司房平 | 1435年 - 1438年 | 後花園 | |
西園寺公名 | 1438年 - 1441年 | 後花園 | |
花山院持忠 | 1441年 - 1443年 | 後花園 | |
万里小路時房 | 1445年 - 1446年 | 後花園 | |
洞院実煕 | 1446年 - 1450年 | 後花園 | |
三条西公保 | 1450年 | 後花園 | |
三条実量 | 1450年 - 1452年 | 後花園 | |
一条教房 | 1452年 - 1455年 | 後花園 | |
近衛教基 | 1455年 - 1457年 | 後花園 | |
正親町三条実雅 | 1457年 - 1458年 | 後花園 | |
足利義政 | 1458年 - 1460年 | 後花園 | |
徳大寺公有 | 1460年 - 1461年 | 後花園 | |
久我通尚 | 1461年 - 1464年 | 後花園 | |
九条政忠 | 1464年 - 1465年 | 後花園、後土御門 | |
今出川教季 | 1465年 - 1466年 | 後土御門 | |
西園寺実遠 | 1466年 - 1467年 | 後土御門 | |
日野勝光 | 1467年 - 1468年 | 後土御門 | |
鷹司政平 | 1468年 - 1475年 | 後土御門 | |
近衛政家 | 1475年 - 1476年 | 後土御門 | |
三条公敦 | 1476年 - 1479年 | 後土御門 | |
大炊御門信量 | 1479年 - 1481年 | 後土御門 | |
徳大寺実淳 | 1481年 - 1485年 | 後土御門 | |
中院通秀 | 1485年 | 後土御門 | 十輪院内府 |
花山院政長 | 1485年 - 1486年 | 後土御門 | |
一条冬良 | 1486年 - 1488年 | 後土御門 | |
足利義尚 | 1488年 - 1489年 | 後土御門 | |
今出川公興 | 1489年 - 1491年 | 後土御門 | |
二条尚基 | 1491年 - 1497年 | 後土御門 | |
久我豊通 | 1497年 - 1499年 | 後土御門 | |
九条尚経 | 1499年 - 1501年 | 後土御門、後柏原 | |
西園寺公藤 | 1501年 - 1506年 | 後柏原 | |
三条西実隆 | 1506年 | 後柏原 | |
鷹司兼輔 | 1506年 - 1507年 | 後柏原 | |
三条実香 | 1507年 - 1515年 | 後柏原 | |
嵯峨実望 | 1515年 | 後柏原 | |
二条尹房 | 1515年 - 1518年 | 後柏原 | |
大炊御門経名 | 1518年 - 1521年 | 後柏原 | |
徳大寺公胤 | 1521年 - 1523年 | 後柏原 | |
久我通言 | 1523年 - 1528年 | 後柏原、後奈良 | |
九条稙通 | 1528年 - 1534年 | 後奈良 | |
西園寺実宣 | 1535年 - 1537年 | 後奈良 | |
一条房通 | 1539年 - 1541年 | 後奈良 | |
三条西公条 | 1541年 | 後奈良 | |
三条公頼 | 1541年 - 1543年 | 後奈良 | |
今出川公彦 | 1543年 - 1545年 | 後奈良 | |
二条晴良 | 1545年 - 1546年 | 後奈良 | |
万里小路秀房 | 1546年 | 後奈良 | |
一条兼冬 | 1546年 - 1547年 | 後奈良 | |
近衛晴嗣 | 1547年 - 1553年 | 後奈良 | |
西園寺公朝 | 1553年 - 1554年 | 後奈良 | |
正親町三条公兄 | 1554年 | 後奈良 | |
花山院家輔 | 1557年 | 後奈良 | |
広橋兼秀 | 1557年 | 後奈良 | |
勧修寺尹豊 | 1572年 | 正親町 | |
万里小路惟房 | 1573年 | 正親町 | |
一条内基 | 1575年 - 1576年 | 正親町 | |
織田信長 | 1576年 - 1577年 | 正親町 | |
二条昭実 | 1577年 - 1579年 | 正親町 | |
三条西実枝 | 1579年 | 正親町 | |
今出川晴季 | 1579年 - 1580年 | 正親町 | |
徳大寺公維 | 1580年 | 正親町 | |
今出川晴季 | 1580年 | 正親町 | |
近衛信尹 | 1580年 - 1585年 | 正親町 | |
豊臣秀吉 | 1585年 - 1586年 | 正親町、後陽成 | |
織田信雄 | 1587年 - 1590年 | 後陽成 | |
豊臣秀次 | 1591年 - 1592年 | 後陽成 | |
徳川家康 | 1596年 - 1603年 | 後陽成 | |
豊臣秀頼 | 1603年 - 1605年 | 後陽成 | |
徳川秀忠 | 1605年 - 1606年 | 後陽成 | |
鷹司信房 | 1606年 | 後陽成 | |
鷹司信尚 | 1611年 - 1612年 | 後陽成、後水尾 | |
近衛信尋 | 1612年 - 1614年 | 後水尾 | |
西園寺実益 | 1614年 - 1618年 | 後水尾 | |
広橋兼勝 | 1618年 - 1619年 | 後水尾 | |
花山院定煕 | 1619年 | 後水尾 | |
一条昭良 | 1619年 - 1621年 | 後水尾 | |
二条康道 | 1621年 - 1629年 | 後水尾 | |
徳川家光 | 1623年 - 1626年 | 後水尾 | |
三条西実条 | 1629年 - 1631年 | 後水尾、明正 | |
西園寺公益 | 1631年 - 1632年 | 明正 | |
鷹司教平 | 1632年 | 明正 | |
九条道房 | 1632年 - 1640年 | 明正 | |
近衛尚嗣 | 1640年 - 1642年 | 明正 | |
二条光平 | 1642年 - 1647年 | 明正、後光明 | |
中院通村 | 1647年 | 後光明 | |
三条実秀 | 1648年 | 後光明 | |
花山院定好 | 1649年 | 後光明 | |
西園寺実晴 | 1649年 - 1650年 | 後光明 | |
一条教良 | 1650年 - 1655年 | 後光明、後西 | |
徳川家綱 | 1651年 - 1653年 | 後光明 | |
徳大寺公信 | 1655年 - 1656年 | 後西 | |
大炊御門経孝 | 1656年 | 後西 | |
三条公富 | 1656年 - 1658年 | 後西 | |
鷹司房輔 | 1658年 - 1661年 | 後西 | |
清閑寺共房 | 1661年 | 後西 | |
中御門広通 | 1661年 - 1663年 | 後西、霊元 | |
九条兼晴 | 1664年 - 1665年 | 霊元 | |
近衛基煕 | 1665年 - 1671年 | 霊元 | |
徳大寺実維 | 1671年 - 1672年 | 霊元 | |
一条冬経 | 1672年 - 1677年 | 霊元 | |
大炊御門経光 | 1677年 - 1681年 | 霊元 | |
徳川綱吉 | 1680年 - 1705年 | 霊元、東山 | |
鷹司兼煕 | 1681年 - 1683年 | 霊元 | |
今出川公規 | 1683年 - 1684年 | 霊元 | |
花山院定誠 | 1684年 - 1686年 | 霊元 | |
近衛家煕 | 1686年 - 1688年 | 霊元、東山 | |
中御門宗条 | 1688年 | 東山 | |
近衛家煕 | 1688年 - 1693年 | 東山 | |
三条実治 | 1693年 | 東山 | |
九条輔実 | 1693年 - 1704年 | 東山 | |
中院通茂 | 1704年 | 東山 | |
二条綱平 | 1704年 - 1708年 | 東山 | |
今出川伊季 | 1708年 - 1709年 | 東山 | |
久我通誠 | 1709年 - 1711年 | 東山、中御門 | |
徳川家宣 | 1709年 - 1712年 | 東山、中御門 | |
近衛家久 | 1711年 - 1715年 | 中御門 | |
徳川家継 | 1713年 - 1716年 | 中御門 | |
二条吉忠 | 1715年 - 1719年 | 中御門 | |
徳川吉宗 | 1716年 - 1742年 | 中御門、桜町 | |
徳大寺公全 | 1719年 | 中御門 | |
二条吉忠 | 1719年 - 1722年 | 中御門 | |
一条兼香 | 1722年 - 1723年 | 中御門 | |
櫛笥隆賀 | 1723年 | 中御門 | |
広幡豊忠 | 1723年 | 中御門 | |
一条兼香 | 1723年 - 1726年 | 中御門 | |
中御門宗顕 | 1726年 | 中御門 | |
中院通躬 | 1726年 | 中御門 | |
九条幸教 | 1726年 - 1728年 | 中御門 | |
西園寺致季 | 1728年 | 中御門 | |
醍醐冬煕 | 1728年 | 中御門 | |
鷹司房煕 | 1728年 - 1730年 | 中御門 | |
久我惟通 | 1730年 - 1736年 | 中御門、桜町 | |
花山院常雅 | 1736年 - 1737年 | 桜町 | |
二条宗熙 | 1737年 - 1738年 | 桜町 | |
一条道香 | 1738年 | 桜町 | |
花山院常雅 | 1738年 - 1739年 | 桜町 | |
九条稙基 | 1739年 - 1743年 | 桜町 | |
鷹司基輝 | 1743年 | 桜町 | |
近衛内前 | 1743年 - 1745年 | 桜町 | |
二条宗基 | 1745年 - 1748年 | 桜町、桃園 | |
徳川家重 | 1745年 - 1760年 | 桜町、桃園 | |
烏丸光栄 | 1748年 | 桃園 | |
二条宗基 | 1748年 - 1749年 | 桃園 | |
大炊御門経秀 | 1749年 | 桃園 | |
三条実顕 | 1749年 - 1750年 | 桃園 | |
久我通兄 | 1750年 | 桃園 | |
九条尚実 | 1750年 - 1755年 | 桃園 | |
醍醐兼潔 | 1755年 | 桃園 | |
西園寺公晃 | 1755年 - 1756年 | 桃園 | |
鷹司輔平 | 1756年 - 1759年 | 桃園 | |
九条道前 | 1759年 - 1770年 | 桃園、後桜町 | |
徳川家治 | 1760年 - 1780年 | 桃園、後桜町、後桃園、光格 | |
三条季晴 | 1770年 - 1771年 | 後桜町、後桃園 | |
一条輝良 | 1771年 - 1775年 | 後桃園 | |
広幡前豊 | 1775年 | 後桃園 | |
西園寺賞季 | 1775年 | 後桃園 | |
一条輝良 | 1775年 - 1779年 | 後桃園 | |
大炊御門家孝 | 1787年 - 1789年 | 光格 | |
徳川家斉 | 1787年 - 1816年 | 光格 | |
鷹司政煕 | 1789年 - 1791年 | 光格 | |
久我信通 | 1791年 - 1792年 | 光格 | |
大炊御門家孝 | 1792年 | 光格 | |
西園寺賞季 | 1792年 | 光格 | |
一条忠良 | 1792年 - 1796年 | 光格 | |
三条実起 | 1796年 - 1797年 | 光格 | |
二条斉通 | 1797年 - 1798年 | 光格 | |
徳大寺実祖 | 1798年 | 光格 | |
今出川実種 | 1798年 - 1799年 | 光格 | |
近衛基前 | 1799年 - 1814年 | 光格 | |
花山院愛徳 | 1814年 - 1815年 | 光格 | |
二条斉信 | 1815年 - 1820年 | 光格、仁孝 | |
三条公修 | 1820年 - 1821年 | 仁孝 | |
九条尚忠 | 1821年 - 1824年 | 仁孝 | |
徳川家慶 | 1822年 - 1837年 | 仁孝 | |
大炊御門経久 | 1824年 | 仁孝 | |
久我通明 | 1824年 | 仁孝 | |
広幡経豊 | 1824年 | 仁孝 | |
近衛忠煕 | 1824年 - 1847年 | 仁孝、孝明 | |
花山院家厚 | 1847年 | 孝明 | |
醍醐輝弘 | 1847年 - 1848年 | 孝明 | |
徳大寺実堅 | 1848年 | 孝明 | |
鷹司輔煕 | 1848年 - 1857年 | 孝明 | |
徳川家定 | 1853年 - 1858年 | 孝明 | |
三条実万 | 1857年 - 1858年 | 孝明 | |
一条忠香 | 1858年 - 1859年 | 孝明 | |
徳川家茂 | 1858年 - 1864年 | 孝明 | |
二条斉敬 | 1859年 - 1862年 | 孝明 | |
久我建通 | 1862年 | 孝明 | |
徳大寺公純 | 1862年 - 1863年 | 孝明 | |
近衛忠房 | 1863年 - 1867年 | 孝明、明治 | |
大炊御門家信 | 1867年 | 明治 | |
広幡忠礼 | 1867年 | 明治 | |
徳川慶喜 | 1867年 - 1868年 | 明治 |
- 藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、同様の職掌を掌った官職に就いた者として記載する。
脚注
- ^ 藤原良継・魚名の例は位階序列が上位の先任の大臣(右大臣大中臣清麻呂)と実際の太政官首班との地位のバランスを取るための措置、藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言への礼遇措置、藤原兼通は序列下位の公卿(当時兼通は権中納言)が次期関白に内定したために大臣に就任して関白就任資格を整えるための措置であり、いずれも律令制が想定する規定から外れた大臣任官を実現させるための臨時の措置であり、事態が解消すれば廃止される性質のものであった(実際に、魚名は左大臣、兼通は太政大臣就任に伴い、良継・高藤は病死によって廃止されている)。
- ^ 当時の摂政藤原兼家は、自分の没後に自分の子弟が摂政関白を継承できなくなることを憂慮して、万が一に備えて長男道隆を大臣に任じようとしたが、太政大臣藤原頼忠・左大臣源雅信・右大臣藤原為光がいずれも健在であった。そのため、道隆を内大臣に据えようとしたのである。これに対して円融法皇(一条天皇実父)は、律令に定められた大臣定員3名を無視するものとして強く反対したため、兼家が法皇に奏上を行って漸く許可されている(『小右記』永祚元年2月5日条)。道隆は関白就任後に内大臣を辞任したが、そのまま弟の道兼、次いで道隆嫡男の伊周が内大臣に任命され、これを先例としてそれ以後も断続的に後任の内大臣が任命された。
- ^ この場合の「功績」には天皇や院の外戚や側近の権臣も含まれる。
- ^ 内大臣廃止後に左大臣となった島津久光を例外とすれば、武家の大臣任官者は全て最初は内大臣に任じられている。
参考文献
- 倉本一宏「内大臣沿革考」(『摂関政治と王朝貴族』(吉川弘文館、2000年)ISBN 978-4-642-02349-8
関連項目