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| 芸名 = 宮崎 駿 |
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| ふりがな = みやざき はやお |
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| 画像コメント = [[文部科学省]]より公表された肖像<br />([[2012年]]) |
| 画像コメント = [[文部科学省]]より公表された肖像<br />([[2012年]]) |
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| 別名義 = 秋津 三朗(あきつ さぶろう)<br />照樹 務(てるき つとむ または てれこむ) |
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| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> |
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| 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.d-aiba.com/top-page/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E7%B3%BB/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF/ |title=宮崎駿 |publisher=タレントデータベース deta house aiba |accessdate=2014-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140923081629/http://www.d-aiba.com/top-page/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E7%B3%BB/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF/|archivedate=2014-09-23}}</ref> |
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| 生年 = 1941 |
| 生年 = 1941 |
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| 活動期間 = [[1963年]] - |
| 活動期間 = [[1963年]] - |
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| 活動内容 = |
| 活動内容 = |
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| 配偶者 = [[大田朱美|宮崎朱美]](妻) |
| 配偶者 = [[大田朱美|宮崎朱美]](妻) |
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| 著名な家族 = [[宮崎富次郎 (初代)|初代宮崎富次郎]](祖父)<br />[[宮崎勝次]](父)<br />[[宮崎富次郎 (二代)|2代目宮崎富次郎]](伯父)<br />[[宮崎富夫]](従甥)<br />[[大田耕士]](義父)<br />宮崎至朗(弟){{Efn2|宮崎家の四男で末弟。駿とは6歳差。[[博報堂]]のアカウント・ディレクターとして活動。『[[風の谷のナウシカ]]』など、[[徳間書店]]・博報堂の映画共同製作に参加。1989年に発行の『アニメージュ特別編集ガイドブック 魔女の宅急便』(徳間書店)に「家族の風景-兄・宮崎駿」という記事を寄稿している<ref>これは『文春ジブリ文庫 ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ』の253-273ページに掲載されている。</ref>。}}<br />[[宮崎吾朗]](長男)<br />[[宮崎敬介]](二男)<br />[[堤大介]](義甥) |
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| 事務所 = [[スタジオジブリ]] |
| 事務所 = [[スタジオジブリ]] |
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| 公式サイト = [https://www.ghibli.jp/ スタジオジブリ] |
| 公式サイト = [https://www.ghibli.jp/ スタジオジブリ] |
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| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--> |
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--> |
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'''アニメーション映画''' |
'''アニメーション映画''' |
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* 『[[ |
* 『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(場面設計、[[原画]]) |
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* 『[[ |
* 『[[長靴をはいた猫]]』(原画) |
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* 『[[ |
* 『[[空飛ぶゆうれい船]]』(原画) |
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* 『[[どうぶつ宝島]]』(アイデア構成、原画) |
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* 『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』(脚本、[[監督]]) |
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* 『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』([[原作]]・脚本、監督) |
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* 『[[天空の城ラピュタ]]』(原作・脚本・監督) |
* 『[[天空の城ラピュタ]]』(原作・脚本・監督) |
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* 『[[となりのトトロ]]』(原作・脚本・監督) |
* 『[[となりのトトロ]]』(原作・脚本・監督) |
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* 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』( |
* 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』([[プロデューサー]]・脚本・監督) |
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* 『[[紅の豚]]』(原作・脚本 |
* 『[[紅の豚]]』(原作・脚本、監督) |
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* 『[[もののけ姫]]』(原作・脚本 |
* 『[[もののけ姫]]』(原作・脚本、監督) |
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* 『[[千と千尋の神隠し]]』(原作・脚本 |
* 『[[千と千尋の神隠し]]』(原作・脚本、監督) |
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* 『[[ハウルの動く城]]』(脚本 |
* 『[[ハウルの動く城]]』(脚本、監督) |
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* 『[[崖の上のポニョ]]』(原作・脚本・監督) |
* 『[[崖の上のポニョ]]』(原作・脚本・監督) |
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* 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』(原作・脚本・監督) |
* 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』(原作・脚本・監督) |
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* 『[[君たちはどう生きるか (映画) |君たちはどう生きるか]]』(原作・脚本・監督) |
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'''テレビアニメ''' |
'''テレビアニメ''' |
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* 『[[ |
* 『[[ルパン三世]]』([[演出]]) |
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* 『[[ |
* 『[[アルプスの少女ハイジ]]』(場面設定・画面構成) |
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* 『[[母をたずねて三千里]]』(場面設定・レイアウト) |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメ映画賞]]'''<br />[[第75回アカデミー賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br /> [[第87回アカデミー賞|2014年]] |
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* 『[[未来少年コナン]]』(絵コンテ、演出) |
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* 『[[名探偵ホームズ]]』(監督、脚本、絵コンテ・演出) |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメ映画賞]]'''<br />[[第75回アカデミー賞|2003年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br/>[[第96回アカデミー賞|2023年]]『[[君たちはどう生きるか (映画) |君たちはどう生きるか]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br /> [[第87回アカデミー賞|2015年]] |
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| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|2005年]] 長年の功績に対して |
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|2005年]] 長年の功績に対して |
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| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第52回ベルリン国際映画祭|2002年]]『 |
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第52回ベルリン国際映画祭|2002年]]『千と千尋の神隠し』 |
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| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第68回ニューヨーク映画批評家協会賞|2002年]]『 |
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第68回ニューヨーク映画批評家協会賞|2002年]]『千と千尋の神隠し』<br />[[第71回ニューヨーク映画批評家協会賞|2005年]]『ハウルの動く城』<br />[[第79回ニューヨーク映画批評家協会賞|2013年]]『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』<br />[[第89回ニューヨーク映画批評家協会賞|2023年]]『君たちはどう生きるか』 |
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| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br/>[[第77回英国アカデミー賞|2023年]]『君たちはどう生きるか』 |
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| 英国アカデミー賞 = |
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| セザール賞 = |
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| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第28回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2002年]]『 |
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第28回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2002年]]『千と千尋の神隠し』<br />'''生涯功労賞'''<br />[[第44回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2018年]] |
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| 放送映画批評家協会賞 = '''[[クリティクス・チョイス・ムービー・アワード アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第8回放送映画批評家協会賞|2002年]]『 |
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[クリティクス・チョイス・ムービー・アワード アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第8回放送映画批評家協会賞|2002年]]『千と千尋の神隠し』 |
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| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第81回ゴールデングローブ賞|2023年]]『君たちはどう生きるか』 |
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| ゴールデングローブ賞 = |
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| ゴールデンラズベリー賞 = |
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| ゴヤ賞 = |
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| ローレンス・オリヴィエ賞 = |
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| 全米映画俳優組合賞 = |
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| ブルーリボン賞 = {{Plainlist| |
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| ブルーリボン賞 = '''作品賞'''<br />[[2001年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''特別賞'''<br />[[1988年]]『[[となりのトトロ]]』<br />[[1997年]]『[[もののけ姫]]』 |
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* '''特別賞''' |
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| 日本アカデミー賞 = '''最優秀作品賞'''<br />[[第21回日本アカデミー賞|1997年]]『[[もののけ姫]]』<br />[[第25回日本アカデミー賞|2001年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''最優秀アニメーション作品賞'''<br />[[第32回日本アカデミー賞|2008年]]『[[崖の上のポニョ]]』<br />[[第37回日本アカデミー賞|2013年]]『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』<br />'''話題賞'''<br />[[第13回日本アカデミー賞|1989年]] 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』<br />'''会長功労賞'''<br />[[第25回日本アカデミー賞|2002年]] |
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* [[ブルーリボン賞 (映画)#第31回(1988年度)|1988年]]『[[となりのトトロ]]』 |
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| その他の賞 = {{See also|[[#受賞歴]]}} |
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* [[ブルーリボン賞 (映画)#第40回(1997年度)|1997年]]『もののけ姫』 |
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| 日本アカデミー賞 = {{Plainlist| |
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* '''最優秀アニメーション作品賞''' |
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* [[第32回日本アカデミー賞#最優秀アニメーション作品賞|2008年]]『崖の上のポニョ』 |
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* [[第37回日本アカデミー賞#最優秀アニメーション作品賞|2013年]]『風立ちぬ』 |
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* [[第47回日本アカデミー賞#アニメーション作品賞|2023年]]『君たちはどう生きるか』 |
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* '''会長功労賞''' |
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* [[第25回日本アカデミー賞#会長功労賞|2002年]] |
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}} |
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| その他の賞 = [[マグサイサイ賞]](2024年)<ref name="yomiuri20240831"/> |
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| 備考 = |
| 備考 = |
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| 学歴 = 学習院大学政治経済学部卒業 |
| 学歴 = 学習院大学政治経済学部卒業 |
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'''宮崎 駿'''(みやざき はやお、[[1941年]]〈[[昭和]]16年〉[[1月5日]] - )は、[[日本]]の[[ |
'''宮崎 駿'''('''宮﨑 駿'''、みやざき はやお、[[1941年]]〈[[昭和]]16年〉[[1月5日]] - )は、[[日本]]の[[アニメ監督]]、[[アニメーター]]。[[スタジオジブリ|株式会社スタジオジブリ]][[取締役]]、[[公益財団法人]][[徳間記念アニメーション文化財団]][[理事長]]、[[三鷹市立アニメーション美術館]]([[三鷹の森ジブリ美術館]])名誉館主(初代館主){{R|ghibli_20210210}}。 |
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[[1963年]]に[[東映アニメーション|東映動画]]にアニメーターとして入社。その後いくつかの会社を経てフリーとなり、その間に[[テレビアニメ]]『[[未来少年コナン]]』、初の劇場用アニメ『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』で頭角を現した。 |
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[[1984年]]に個人事務所の[[二馬力]]を設立し、翌年に[[高畑勲]]らとアニメーション制作会社[[スタジオジブリ]]の設立に参加([[2005年]]に同社取締役に就任)。以後『[[となりのトトロ]]』『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』『[[もののけ姫]]』などの劇場用アニメーションを監督し、『[[千と千尋の神隠し]]』で[[ベルリン国際映画祭]][[金熊賞]]と[[アカデミー長編アニメ映画賞]]を受賞した。[[2014年]]には日本人で2人目の[[アカデミー名誉賞]]を受賞した |
[[1984年]]に個人事務所の[[二馬力]]を設立し、翌年に[[高畑勲]]らとアニメーション制作会社[[スタジオジブリ]]の設立に参加([[2005年]]に同社取締役に就任)。以後『[[天空の城ラピュタ|天空の城ラピュタ』]]『[[となりのトトロ]]』『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』『[[もののけ姫]]』などの劇場用アニメーションを監督し、『[[千と千尋の神隠し]]』で[[ベルリン国際映画祭]][[金熊賞]]と[[アカデミー長編アニメ映画賞]]、『[[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]]』でアカデミー長編アニメ映画賞、[[英国アカデミー賞 アニメ映画賞]]を受賞した。[[2014年]]には日本人で2人目の[[アカデミー名誉賞]]を受賞した。 |
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== 来歴 == |
== 来歴 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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数千人の従業員を擁した一族が経営する[[宮崎航空機製作所|宮崎航空興学]]の[[役員]]を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に[[東京市]]で生まれた。比較的 |
数千人の従業員を擁した一族が経営する[[宮崎航空機製作所|宮崎航空興学]]の[[役員]]を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に[[東京市]]文京区で生まれた。父は東洋ラジエーター(現:[[ティラド]])元常務取締役の[[宮崎勝次]]<ref>{{Cite web |title=稲門紳士録刊行会『稲門紳士録』637頁 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/12249144/1/322 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2024-09-23}}</ref>。比較的裕福な暮らしをしていたという。 |
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太平洋戦争が始まり、宮崎航空機製作所が[[宇都宮市|宇都宮]]に移転したこともあり、幼児期に家族で宇都宮に疎開し、小学校3年生まで暮らしていた{{efn2|会社が[[中島飛行機]]の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が[[空襲]]を受け、親類の運転する[[貨物自動車|トラック]]で4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている<ref>宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))</ref>。}}。1947年、母親が[[結核]]を発症し、以後9年間にわたり寝たきりの状態となる<ref>{{Cite book |和書|edition=復刻版 |series=ロマンアルバム |title=映画天空の城ラピュタGUIDE BOOK|publisher=徳間書店 |date=2010-12|isbn=9784197203208}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://realsound.jp/movie/2023/07/post-1378533.html |title=『君たちはどう生きるか』と2010年以降のジブリ作品の関係 共通する“家族の肖像”と“死” |newspaper=RealSound映画部 |date=2023年07月19日}}</ref>{{efn2|母親はその後、新薬によって回復しており、後述の通り『風の谷のナウシカ』制作中まで存命した。}}。1950年、小学校4年に進級時に東京都[[杉並区]][[永福|永福町]]に転居。 |
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幼少時は身体が弱く、医者からは20歳まで生きられないと言われており、これは後の創作に影響を与えたと言う<ref name="nhk-pro">『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』2008年8月5日。</ref>。運動は苦手で丸眼鏡だったため、学校では冷やかされることが多かったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、[[手塚治虫]]や[[杉浦茂]]の漫画、特に[[福島鉄次]]の[[絵物語]]『[[沙漠の魔王]]』のファンという“漫画少年”でもあった。 |
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少年時代は、親戚が営む老舗旅館である[[元湯・陣屋]]の庭を遊び場にしていた<ref>{{Cite web |title=【鶴巻温泉】ジブリ映画ゆかりの鶴巻温泉元湯「陣屋」で温泉を満喫! |url=https://www.odakyu-life.jp/entry/003820.html |website=小田急のくらし |date=2021-02-04 |access-date=2024-09-22}}</ref><ref>{{Cite web |title=トトロの木もある!神奈川・ジブリゆかりの老舗旅館「陣屋」で日帰り温泉を楽しむコツ |url=https://www.oricon.co.jp/article/101881/ |website=ORICON NEWS |date=2017-01-27 |access-date=2024-09-22}}</ref>。 |
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太平洋戦争が始まり、宮崎航空機製作所が[[宇都宮市|宇都宮]]に移転したこともあり、幼児期に家族で宇都宮に疎開し、小学校3年生まで暮らしていた{{efn2|会社が[[中島飛行機]]の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が[[空襲]]を受け、親類の運転する[[貨物自動車|トラック]]で4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている<ref>宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))</ref>。}}。1950年、小学校4年に進級時に東京都[[杉並区]][[永福|永福町]]に転居。 |
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===学生時代=== |
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幼少時は身体が弱かった{{efn2|医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う<ref name="nhk-pro">『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』2008年8月5日。</ref>。}}ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、[[手塚治虫]]や[[杉浦茂]]の漫画、特に[[福島鉄次]]の[[絵物語]]『[[沙漠の魔王]]』のファンという“漫画少年”でもあった。 |
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進学校である[[東京都立豊多摩高等学校]]在学中、高校3年生の時に観た[[東映アニメーション|東映動画]]製作『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』に感動し{{Sfn|宮崎|1996|p=563}}、[[アニメーション]]にも関心を持つようになる。学生時代に、中学の恩師・佐藤文雄のアトリエで[[デッサン]]を独学で学び、[[ポール・セザンヌ]]のような印象派に影響されている<ref>{{Cite book |和書|edition=復刻版 |series=ロマンアルバム |title=映画天空の城ラピュタGUIDE BOOK |page=142 |publisher=徳間書店 |date=2010-12 |isbn=9784197203208}}</ref>。 |
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[[学習院大学]]に進学後、[[児童文学]]サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの[[人形劇]]を企画しつつ、[[漫画家]]を志していたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する<ref>「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年){{Full citation needed |date=2019-04-19 |title=「THIS IS ANIMATION」というのは小学館の出版物のシリーズ名かと思われますが、このシリーズにあてはまるものは数十冊あるようで、どれを指しているのか不明です。}}</ref>。 |
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進学校である[[東京都立豊多摩高等学校]]在学中、中学3年生の時に観た[[東映アニメーション|東映動画]]製作『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』に感動し{{Sfn|宮崎|1996|p=563}}、[[アニメーション]]にも関心を持つようになる。学生時代に、中学の恩師・佐藤文雄のアトリエで[[デッサン]]を独学で学び、[[ポール・セザンヌ]]のような印象派に影響されている<ref>{{Cite book |和書|edition=復刻版 |series=ロマンアルバム |title=映画天空の城ラピュタGUIDE BOOK |page=142 |publisher=徳間書店 |date=2010-12 |isbn=9784197203208}}</ref>。 |
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=== |
=== 東映動画時代 === |
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{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
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学習院大学を卒業後、[[東映アニメーション|東映動画]]にアニメーターとして入社する。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観た[[ソビエト連邦|ソ連]]製作長編アニメーション映画『[[雪の女王 (1957年の映画)|雪の女王]]』に強い感銘を受け<ref>「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年){{Full citation needed |date=2019-04-19 |title=「THIS IS ANIMATION」というのは小学館の出版物のシリーズ名かと思われますが、このシリーズにあてはまるものは数十冊あるようで、どれを指しているのか不明です。}}</ref>、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。 |
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そして、入社間もない宮崎は『[[ガリバーの宇宙旅行]]』のラストシーンを変更し、原画も担当するなど、早くから才能を現した。[[大塚康生]]は「あ、これはぼくより沢山絵を描いている」と感じたという<ref>[http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/ohtuka/oh_interv/oh_interv17.html ●大塚康生氏ロングインタビュー「アニメーターは演技者である」]</ref>。 |
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[[学習院大学]]を卒業し、[[アニメーター]]として[[東映アニメーション|東映動画]]に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観た[[ソビエト連邦|ソ連]]製作長編アニメーション映画『[[雪の女王 (1957年の映画)|雪の女王]]』に強い感銘を受け<ref>「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年){{Full citation needed |date=2019-04-19 |title=「THIS IS ANIMATION」というのは小学館の出版物のシリーズ名かと思われますが、このシリーズにあてはまるものは数十冊あるようで、どれを指しているのか不明です。}}</ref>、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。 |
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結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。そして、1965年に制作が開始した『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』に参加する。まだ、新人で原画に昇格したばかりの宮崎は[[高畑勲]]の脚本作りを手伝ったり、場面のイメージボードを提出したりして、作品の完成度に貢献した。そのため、入社5年目で「場面設計」というメインスタッフのクレジットを与えられた。また、宮崎は本作に原画としても貢献し、[[森康二]]・[[大塚康生]]・[[小田部羊一]]らと共に途中中断期間を挟んで、3年がかりで作画を完了し、なんとか公開させた。 |
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1965年秋には、 |
1965年秋には、東映動画の同僚で、アニメーターの[[大田朱美]]と24歳で結婚し、その後2人の男児をもうける。 |
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『太陽の王子 ホルスの大冒険』の後は、『長靴をはいた猫』『空飛ぶゆうれい船』などで原画を描いた後、最後の長編『どうぶつ宝島』にてアイデア構成と原画を担当する。しかし、『どうぶつ宝島』が興業的に失敗したことから、これまでのような長編は作れないという気分が宮崎たちの間に広がった。 |
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===ルパン三世で初監督=== |
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1971年、高畑勲、[[小田部羊一]]と共に東映動画を退社し、新企画『[[長くつ下のピッピ]]』を制作するために[[Aプロダクション]]に移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。 |
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=== Aプロダクション時代 === |
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その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]』で宮崎にとって事実上の初監督の仕事を引き受ける(高畑と共同。名義上は[[シンエイ動画|Aプロダクション演出グループ]])。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくは[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン]]の項を参照)。 |
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1971年、30歳になった宮崎は、高畑勲、[[小田部羊一]]と共に東映動画を退社し、新企画『[[長くつ下のピッピ]]』を制作するために[[Aプロダクション]]に移籍する。 原作者([[アストリッド・リンドグレーン]])との交渉に向かう[[藤岡豊]](東京ムービー社長)に同行する形で宮崎はスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描いていたが、原作者の許諾を得られず企画は立ち消えになってしまう。 |
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その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]』での初めて演出の仕事を引き受ける(高畑と共同。名義上は[[シンエイ動画|Aプロダクション演出グループ]])。スケジュールが逼迫しており、演出の宮崎が原画も大量に描かなければならなかった。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。 |
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「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『[[パンダコパンダ]]』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。 |
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その後宮崎は、1972年に『[[パンダコパンダ]]』、翌1973年に『[[パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻]]』に参加。原案・脚本・美術設定・画面構成、原画を担当。本作は『長くつ下のピッピ』でやろうとしていたアイデアを活用している。 |
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===アルプスの少女ハイジ=== |
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高畑、小田部とともに[[ズイヨー映像]](のちの[[日本アニメーション]])に移籍し、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』の準備に入る。1974年TVアニメ、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均[[視聴率]]が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。 |
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=== 日本アニメーション時代 === |
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『パンダコパンダ』制作後は、高畑、小田部とともに[[ズイヨー映像]](のちの[[日本アニメーション]])に移籍し、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』の準備に入り、宮崎は全話数全カットの場面設定・画面構成を担当。この作品は最高平均[[視聴率]]が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。 |
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[[1978年]]、『[[未来少年コナン]]』([[日本放送協会|NHK]])で監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。 |
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その後も『ハイジ』の1年後、1976年に『[[母をたずねて三千里]]』でも宮崎は全話数全カットの場面設定・レイアウトを担当。さらに、2話の原画も担当している。この宮崎による『ハイジ』『三千里』における前代未聞の仕事量は現在でも伝説的に語り継がれている。 |
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=== 未来少年コナンで初監督 === |
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[[1978年]]、37歳の宮崎は、『三千里』終了後に当時シンエイ動画にいた大塚康生を作画監督に誘い、TVアニメ『[[未来少年コナン]]』([[日本放送協会|NHK]])で初めての演出(監督)を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。 |
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毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の[[絵コンテ]]、レイアウトを描いた上、スタッフの作った[[脚本]]・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした<ref>NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康生の証言。及び{{Cite book |和書 |author=大塚康生 |title=作画汗まみれ |edition=増補改訂版 |page=168 |publisher= |date=2019-04-19}}{{Full citation needed |date=2019-04-19 |title=2001年刊行の単行本と2013年刊行の文庫版がありますが、どちらを用いたのか不明です。}}</ref>。 |
毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の[[絵コンテ]]、レイアウトを描いた上、スタッフの作った[[脚本]]・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした<ref>NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康生の証言。及び{{Cite book |和書 |author=大塚康生 |title=作画汗まみれ |edition=増補改訂版 |page=168 |publisher= |date=2019-04-19}}{{Full citation needed |date=2019-04-19 |title=2001年刊行の単行本と2013年刊行の文庫版がありますが、どちらを用いたのか不明です。}}</ref>。 |
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=== テレコム・アニメーションフィルム時代 === |
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=== カリオストロの城 === |
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{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
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{{Main|ルパン三世 カリオストロの城}} |
{{Main|ルパン三世 カリオストロの城}} |
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『コナン』が終わり、高畑の『赤毛のアン』の場面設定・画面構成を担当していた宮崎は、リニューアルされ人気を博していた『[[ルパン三世]]』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受け、『赤毛のアン』を15話で降板し、[[テレコム・アニメーションフィルム]]([[東京ムービー|東京ムービー新社]]内)に移籍した。 |
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38歳の宮崎は、映画『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』([[1979年]])で映画作品の監督デビューをした。 |
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宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた<ref>{{Cite news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130907032313/http://mainichi.jp/enta/news/20130906mog00m200014000c6.html |archivedate=2013-09-07 |url=http://mainichi.jp/enta/news/20130906mog00m200014000c6.html |title=宮崎駿監督:ナウシカ続編「ありません」 引退会見の主な発言 |newspaper=毎日jp |date=2013年09月06日}}</ref><ref>{{Cite news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150110085911/http://www.sankei.com/entertainments/news/130906/ent1309060003-n3.html |archivedate=2015-01-10 |url=https://www.sankei.com/entertainments/news/130906/ent1309060003-n3.html |title=【宮崎監督引退会見ライブ(7)完】「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」(3/3ページ) |newspaper=産経ニュース |date=2013年09月06日}}</ref><ref>{{Cite news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130907065017/http://news.mynavi.jp/articles/2013/09/07/miyazaki/007.html |url=https://news.mynavi.jp/article/20130907-miyazaki/8 |archivedate=2013-09-07 |title=宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし |date=2013年09月07日 |newspaper=マイナビニュース}}</ref>。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風<!--第一シリーズの後半(水色FIATに乗るルパン)は、宮崎・高畑コンビの影響をモロうけた作品なので、違う作風ってのはちょっとありえないんじゃないかな?-->や、[[サイエンス・フィクション|SF]]アニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には[[ルパン三世 ルパンVS複製人間|前作]]に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。 |
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宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた<ref>{{Cite news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130907032313/http://mainichi.jp/enta/news/20130906mog00m200014000c6.html |archivedate=2013-09-07 |url=https://mainichi.jp/enta/news/20130906mog00m200014000c6.html |title=宮崎駿監督:ナウシカ続編「ありません」 引退会見の主な発言 |newspaper=毎日jp |date=2013年09月06日}}</ref><ref>{{Cite news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150110085911/http://www.sankei.com/entertainments/news/130906/ent1309060003-n3.html |archivedate=2015-01-10 |url=https://www.sankei.com/entertainments/news/130906/ent1309060003-n3.html |title=【宮崎監督引退会見ライブ(7)完】「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」(3/3ページ) |newspaper=産経ニュース |date=2013年09月06日}}</ref><ref>{{Cite news |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130907065017/http://news.mynavi.jp/articles/2013/09/07/miyazaki/007.html |url=https://news.mynavi.jp/article/20130907-miyazaki/8 |archivedate=2013-09-07 |title=宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし |date=2013年09月07日 |newspaper=マイナビニュース}}</ref>。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風<!--第一シリーズの後半(水色FIATに乗るルパン)は、宮崎・高畑コンビの影響をモロうけた作品なので、違う作風ってのはちょっとありえないんじゃないかな?-->や、[[サイエンス・フィクション|SF]]アニメ全盛の時代ということもあって不発におわり、興行的には[[ルパン三世 ルパンVS複製人間|前作]]に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。 |
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この直後には、『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]] PART2』で第145話と最終回の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『[[天空の城ラピュタ]]』に登場するロボット兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『[[アニメージュ]]』副編集長で取材に訪れた[[鈴木敏夫]]と出会っている。 |
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しかし[[ロリコン]]ブームを追い風にヒロインのクラリスが美少女アニメファンからカルト的支持を受け<ref>[http://www.style.fm/as/05_column/animesama69.shtml WEBアニメスタイル_COLUMN]</ref>、後に再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。 |
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美術担当の[[小林七郎]]は「宮崎駿監督は大変優れた人で、常識的なセンスの中で完成度を上げていき現在のような大衆的な支持を得たが、自分で全部やりたい人で、すべてを自分の枠にはめようとする。なので、ジブリからは新しい可能性は出てこない、というのが私の考えです。」と評している<ref>[https://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201202120130.html 朝日新聞デジタル:小林七郎、背景美術を語る - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能]</ref>。 |
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宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。 |
宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。 |
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この直後には、『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]] PART2』で第145話と最終回の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『[[天空の城ラピュタ]]』に登場するロボット兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『[[アニメージュ]]』副編集長で取材に訪れた[[鈴木敏夫]]と出会っている。 |
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1984年の『ルパン三世 PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた[[押井守]]が監督を務めることになった(詳細は「[[押井版ルパン三世]]」参照)。 |
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1984年の『[[ルパン三世 PartIII]]』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた[[押井守]]が監督を務めることになったが頓挫した(詳細は「[[押井版ルパン三世]]」参照)。 |
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=== 風の谷のナウシカ === |
=== 風の谷のナウシカ === |
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{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
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テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『[[NEMO/ニモ|リトル・ニモ]]』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間を行き来したが、企画への疑問から降板。 |
テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『[[NEMO/ニモ|リトル・ニモ]]』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間を行き来したが、企画への疑問から降板。1981年4月に公開された『[[じゃりン子チエ]]』を監督予定だったが原作をそのまま使わない意向を示して高畑勲が監督することになった<ref name="テレコム座談会">「昔と今 テレコムスタッフが語る『宮崎駿像』 テレコム座談会」『千と千尋の神隠し 千尋の大冒険』別冊COMIC BOX Vol.6 コミックボックスジュニア8月号増刊、ふゅーじょんぷろだくと、2001年、p.59。大塚康生の証言</ref>。 |
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テレビシリーズについては1981年4月から製作開始した『名探偵ホームズ』の監督に就任していたが、合作相手のイタリア側の事情で4話分が完成した段階で制作が中断した<ref>「制作開始から3年。やっと日の目を見た『名探偵ホームズ』」『アニメージュ』1985年2月号、徳間書店、p.24</ref>。同時期には『[[花王名人劇場]]』の枠で1981年8月に放送されたテレコム制作の『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』も最初は宮崎が監督をすることになっていたが、宮崎が推薦した大塚康生に変更になった<ref name="テレコム座談会" />。 |
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この時期、『[[となりのトトロ]]』『[[もののけ姫]]』『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』『[[天空の城ラピュタ]]』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。 |
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宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた[[徳間書店]]の『アニメージュ』誌編集長・[[尾形英夫]]は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『[[風の谷のナウシカ]]』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる{{efn2|漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の[[1994年]]に完結。}}。 |
宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は、『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた[[徳間書店]]の『アニメージュ』誌編集長・[[尾形英夫]]は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『[[風の谷のナウシカ]]』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる{{efn2|漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の[[1994年]]に完結。}}。 |
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さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった[[徳間書店]]の[[徳間康快]]社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し<ref>尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年。{{要ページ番号|date=2019-04-18}}</ref>、宮崎の弟が勤務する[[博報堂]]がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、[[1984年]]にアニメーション映画として製作・公開された。 |
さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった[[徳間書店]]の[[徳間康快]]社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し<ref>尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年。{{要ページ番号|date=2019-04-18}}</ref>、宮崎の弟が勤務する[[博報堂]]がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、[[1984年]]にアニメーション映画として製作・公開された。 |
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=== スタジオジブリ設立 === |
=== スタジオジブリ設立 === |
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{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
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1985年に徳間書店の出資を得て[[スタジオジブリ]]を設立し、以後の制作の基盤とし |
1985年、44歳になった宮崎は、徳間書店の出資を得て[[スタジオジブリ]]を設立し、以後の制作の基盤とした。 |
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[[1986年]]には、『[[天空の城ラピュタ]]』を公開。本作はナウシカとは異なる「純粋な漫画映画」であり、未来少年コナンの路線を踏襲するものとなった。 |
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[[1988年]]には、『[[となりのトトロ]]』を公開。当初、徳間書店へ企画書を提出したものの、「昭和初期の田舎の話などヒットしない」と一蹴されていた。そこで鈴木は、高畑の「火垂るの墓」と同時公開することを提案し、各出版社が共同出資することでようやく許可を得られた。しかし当初は、2作品とも60分前後の中編作品の予定が、高畑が長編へと変更したことに対抗して、宮崎も大幅にストーリーを膨らませ主人公が姉妹2人の長編作品となり、有能なスタッフの取り合いとなった<ref>ジブリはこうして生まれた。 ~再現映像で綴る誕生物語~ (風の谷のナウシカ 特典ディスク)</ref>。 |
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この頃、ラピュタ、トトロは高い評価を受ける一方で、ナウシカ以降興行収入は下がる一方であり、スタジオ存続をが危ぶまれる状況だった。しかしその後、後述する『魔女の宅急便』の成功に伴い、ジブリ作品が認知されて人気は著しく高まり、1990年頃にぬいぐるみメーカーからの要望で「トトロのぬいぐるみ」が発売され、その他のグッズの販売やビデオ販売の収入により、苦しいジブリの経営状態を支えた<ref>ジブリはこうして生まれた。 ~再現映像で綴る誕生物語~ (風の谷のナウシカ 特典ディスク)</ref>。 |
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また1986年頃、宮崎が推薦した[[押井守]]による[[ルパン三世]]劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている{{efn2|宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。}}。 |
また1986年頃、宮崎が推薦した[[押井守]]による[[ルパン三世]]劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている{{efn2|宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。}}。 |
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=== 日本での大ヒット連発 === |
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『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(1989年)はスポンサーの意向により、当初指名されていた[[佐藤順一]]、次に指名された[[片渕須直]]が降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。 |
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『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(1989年)はスポンサーの意向により、当初指名されていた[[佐藤順一]]、次に指名された[[片渕須直]]が降板し宮崎が後を継いだ。プロデューサーの鈴木が広告宣伝に注力したことで、本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けて、ジブリはそれまで作品ごとにスタッフを召集・解散をしていた体制から、労働環境を整えるため社員化することを決定する。 |
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『[[紅の豚]]』(1992年)は、もともと[[日本航空]]の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。 |
『[[紅の豚]]』(1992年)は、もともと[[日本航空]]の機内で上映される30分程度の中編作品として企画されたが、次第に構想が膨らみ、最終的に93分の長編作品として公開されることになった。本作の主要スタッフには女性が多く採用されており、作中に出てくる工房で女性ばかりが働いているのは、当時のジブリを描いたものである。 |
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『[[耳をすませば]]』(1995年)で、脚本、絵コンテ、製作プロデューサーを担当。 |
『[[耳をすませば]]』(1995年)で、脚本、絵コンテ、製作プロデューサーを担当。初夏に休暇で訪れた山小屋に、姪たちが残した漫画雑誌「[[りぼん]]」があり、その中に柊あおいの『耳をすませば』が掲載されていたことがキッカケとなった。宮崎駿の後継者候補として将来を期待されていた[[近藤喜文]]が監督を行ったが、公開から2年後に近藤は亡くなっている。 |
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[[1997年]]に公開された『[[もののけ姫]]』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『[[E.T.]]』が持っていた日本の映画[[興行成績|興行記録]]を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。 |
[[1997年]]に公開された『[[もののけ姫]]』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『[[E.T.]]』が持っていた日本の映画[[興行成績|興行記録]]を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。 |
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=== 世界的な巨匠として評価 === |
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[[2001年]]に発表した『[[千と千尋の神隠し]]』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2,350万人、興行収入308億円<ref>{{cite web|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|accessdate=2016-09-28|title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信 |publisher=興行通信社|date=2016-09-26}}</ref>と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年の[[ベルリン国際映画祭]]では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の[[金熊賞]]を受賞し、[[2003年]]には[[アカデミー賞]]'''[[アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞]]'''を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。 |
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[[2001年]]に発表した『[[千と千尋の神隠し]]』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2,350万人、興行収入308億円<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|accessdate=2016-09-28|title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信 |publisher=興行通信社|date=2016-09-26}}</ref> と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年の[[ベルリン国際映画祭]]では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の[[金熊賞]]を受賞し、[[2003年]]には[[アカデミー賞]]'''[[アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞]]'''を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。 |
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[[2004年]]公開の『[[ハウルの動く城]]』は、もともと[[細田守]]監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらに[[ヴェネツィア国際映画祭]]のオゼッラ賞、[[ニューヨーク映画批評家協会]]最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米[[アカデミー賞]]の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価され |
[[2004年]]公開の『[[ハウルの動く城]]』は、もともと[[細田守]]監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらに[[ヴェネツィア国際映画祭]]のオゼッラ賞、[[ニューヨーク映画批評家協会]]最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米[[アカデミー賞]]の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。 |
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[[2005年]]には、[[ヴェネツィア国際映画祭]]において優れた世界的映画人に贈られる[[栄誉金獅子賞]]を受賞。[[2006年]]には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。 |
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[[2006年]]公開の『[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]』は、宮崎が1983年に刊行した「シュナの旅」(徳間書店刊)が原案としてクレジットされており、各所に同書に登場する設定が用いられている。また、鈴木敏夫や宮崎吾朗によれば、イメージボードやアイデアスケッチ等を書いていたようである。なお、「ゲド戦記」原作者の[[ル=グウィン]]は宮崎が監督を務めることを希望していたが、息子の吾郎が監督となった<ref>https://www.ghibli.jp/storage/000457/</ref>。 |
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===息子・吾朗の監督就任=== |
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[[2008年]][[7月19日]]に、新作『[[崖の上のポニョ]]』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた<ref>監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日</ref>。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという<ref>東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日。</ref>{{efn2|映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言<ref>東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日。</ref>。}}。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した<ref>第65回[[ヴェネツィア国際映画祭]] 記者会見時のインタビュー{{出典無効|date=2019-04-19|title=どこを読めば/見れば確認できるか不明なので、検証可能でない。}}</ref>。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという<ref>「フレデリック・バック展」のトークイベント「話をする二人」での、鈴木敏夫の発言{{出典無効|date=2019-04-19|title=どこを読めば/見れば確認できるか不明なので、検証可能でない。}}</ref>。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時に[[日本放送協会|NHK]]によって2度、「[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の[[日本外国特派員協会]]に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。[[2012年]]には、[[文化功労者]]に選ばれた。 |
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[[2006年]]公開の『[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]』は、宮崎が1983年に刊行した「シュナの旅」(徳間書店刊)が原案としてクレジットされており、各所に同書に登場する設定が用いられている。また、鈴木敏夫や宮崎吾朗によれば、イメージボードやアイデアスケッチ等を書いていたようである。宮崎は20年来『ゲド戦記』の映画化を希望していたが叶わず、原作者の[[アーシュラ・K・ル=グウィン|ル=グウィン]]から逆に依頼が舞い込んだ際には『ハウルの動く城』の制作中であったため、鈴木が提案した息子の吾朗に監督を任せることになった。この承諾を得るためル=グウィンに会見した際には、宮崎は吾朗が描いたイメージボードを批判したり、自分がいかに原作を理解し、『風の谷のナウシカ』以降の全作品が影響を受けており、一番の適任であるかを熱弁した上で、歳をとったため吾朗が作ると説得したという<ref>https://www.ghibli.jp/storage/000457/</ref><ref>吾朗を監督として認めさせたかった鈴木は、「この時、初めて宮崎を殴りたくなった」と語った。</ref>。 |
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[[2008年]][[7月19日]]に、新作『[[崖の上のポニョ]]』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた<ref>監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日</ref>。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという<ref>東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日。</ref>{{efn2|映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言<ref>東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日。</ref>。}}。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した<ref>第65回[[ヴェネツィア国際映画祭]] 記者会見時のインタビュー{{出典無効|date=2019-04-19|title=どこを読めば/見れば確認できるか不明なので、検証可能でない。}}</ref>。 |
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[[2013年]]に、自身の漫画作品、『[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)|風立ちぬ]]』を原作とした、アニメーション映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』を公開。同年[[9月1日]]、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長[[星野康二]]が発表<ref name="mainichi130901">{{cite news|url=http://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html|title=宮崎駿:長編映画製作から引退へ 「風立ちぬ」が最後の作品に|newspaper=毎日jp(毎日新聞)|date=2013-09-01|accessdate=2013-09-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202101300/http://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html |archivedate=2014-02-02}}</ref>。 |
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マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時に[[日本放送協会|NHK]]によって2度、「[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の[[日本外国特派員協会]]に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。[[2012年]]には、[[文化功労者]]に選ばれた。 |
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[[2013年]]に、自身の漫画作品、『[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)|風立ちぬ]]』を原作とした、アニメーション映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』を公開。同年[[9月1日]]、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長[[星野康二]]が発表<ref name="mainichi130901">{{cite news|url=https://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html|title=宮崎駿:長編映画製作から引退へ 「風立ちぬ」が最後の作品に|newspaper=毎日jp(毎日新聞)|date=2013-09-01|accessdate=2013-09-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202101300/http://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html |archivedate=2014-02-02}}</ref>。 |
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=== 長編監督引退後 === |
=== 長編監督引退後 === |
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2013年、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を舞台にした漫画を執筆中であると『[[月刊モデルグラフィックス]]』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『[[アーマーモデリング]]』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。 |
2013年、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を舞台にした漫画を執筆中であると『[[月刊モデルグラフィックス]]』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『[[アーマーモデリング]]』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。 |
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三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた<ref>「やっぱり宮崎さんはメルヘンが好きなんだ」『AERA』2014年8月11日号、朝日新聞出版、18頁。</ref>。同年11月、第87回[[アカデミー名誉賞]]を受賞。日本人としては[[黒澤明]]以来2人目の快挙となる<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFK29H05_Z20C14A8000000/ |title=宮崎駿監督にアカデミー名誉賞 「クロサワ」以来 |newspaper=日本経済新聞 |date=2014年8月29日}}</ref>。同時受賞となった女優の[[モーリン・オハラ]]は長年の憧れで、会えたことに感動したという<ref>{{ |
三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた<ref>「やっぱり宮崎さんはメルヘンが好きなんだ」『AERA』2014年8月11日号、朝日新聞出版、18頁。</ref>。同年11月、第87回[[アカデミー名誉賞]]を受賞。日本人としては[[黒澤明]]以来2人目の快挙となる<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFK29H05_Z20C14A8000000/ |title=宮崎駿監督にアカデミー名誉賞 「クロサワ」以来 |newspaper=日本経済新聞 |date=2014年8月29日}}</ref>。同時受賞となった女優の[[モーリン・オハラ]]は長年の憧れで、会えたことに感動したという<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.cinematoday.jp/news/N0068020| title =宮崎駿監督にアカデミー名誉賞授与 「やれることをやっていく」笑顔で会見 |website=シネマトゥデイ| date= 2014-11-09| accessdate =2014-11-23}}</ref>。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。[[京都府]][[八幡市]]の[[石清水八幡宮]]の本殿で奉納された。 |
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[[2015年]]、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『[[毛虫のボロ]]』を制作中であることを明らかにした<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASH7B5RS5H7BUCVL01G.html |title=宮崎駿監督、短編を制作中 ジブリ美術館用の初CG作品 |newspaper=朝日新聞デジタル ||date=2015-07-10}}</ref>。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作は[[スティーブンスティーブン]]が担当している<ref>{{Cite web |
[[2015年]]、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『[[毛虫のボロ]]』を制作中であることを明らかにした<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASH7B5RS5H7BUCVL01G.html |title=宮崎駿監督、短編を制作中 ジブリ美術館用の初CG作品 |newspaper=朝日新聞デジタル ||date=2015-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150710143043/https://www.asahi.com/articles/ASH7B5RS5H7BUCVL01G.html|archivedate=2015-07-10}}</ref>。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作は[[スティーブンスティーブン]]が担当している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.stst.co.jp/?p=791 |title=宮崎駿監督の新作短編アニメーションに参加 |publisher=STEVE N' STEVEN |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304105713/http://www.stst.co.jp/?p=791 |archivedate=2016-03-04 |accessdate=2019-04-18}}</ref>。 |
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2015年5月8日、[[在日米軍再編]]における[[普天間飛行場]]の[[名護市]][[辺野古]]移転計画に反対する[[辺野古基金]]の共同代表に就任した<ref>{{Cite news |url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/07/miyazaki-hayao-henoko-okinawa_n_7238168.html |title=「辺野古基金」とは? 宮崎駿氏が共同代表に就任へ |newspaper=ハフポスト |date=2015年5月7日}}</ref>。同年7月13日、[[日本外国特派員協会]]の要請に応じて[[東京都]][[小金井市]]にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく[[沖縄県]]に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて[[鳩山由紀夫内閣]]が提案した県外移設の実現を強く求めた<ref name="blo">{{Cite web |
2015年5月8日、[[在日米軍再編]]における[[普天間飛行場]]の[[名護市]][[辺野古]]移転計画に反対する[[辺野古基金]]の共同代表に就任した<ref>{{Cite news |url=https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/07/miyazaki-hayao-henoko-okinawa_n_7238168.html |title=「辺野古基金」とは? 宮崎駿氏が共同代表に就任へ |newspaper=ハフポスト |date=2015年5月7日}}</ref>。同年7月13日、[[日本外国特派員協会]]の要請に応じて[[東京都]][[小金井市]]にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく[[沖縄県]]に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて[[鳩山由紀夫内閣]]が提案した県外移設の実現を強く求めた<ref name="blo">{{Cite web|和書|url=https://blogos.com/article/122316/?p=1 |title=【全文】「世界がもっと根元の方でみしみしと悪くなっていくようです」〜宮﨑駿監督が会見 (1/3) |website=BLOGOS |accessdate=2019-04-19}}</ref>。 |
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=== 引退撤回 === |
=== 引退撤回 === |
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[[2016年]][[11月13日]]午後9時から[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[特別番組]]「終わらない人 宮﨑駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容は[[モザイク処理|モザイク]]で隠されていたが、「[[2019年]]完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された |
[[2016年]][[11月13日]]午後9時から[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[特別番組]]「終わらない人 宮﨑駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容は[[モザイク処理|モザイク]]で隠されていたが、「[[2019年]]完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。 |
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[[2017年]][[2月24日]]、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1702/24/news107.html |title=宮崎駿監督が長編復帰へ 鈴木敏夫プロデューサー「一生懸命、東京で作ってます」(※鈴木Pの発言追記) |website=ねとらぼ |accessdate=2019-04-19}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/entertainments/news/170224/ent1702240022-n1.html |title=宮崎駿監督が新作長編の準備に 事実上の「引退」撤回 |newspaper=産経ニュース |accessdate=2017年2月24日 |date=2017-02-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170225210455/https://www.sankei.com/entertainments/news/170224/ent1702240022-n1.html|archivedate=2017-02-25}}</ref>。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートし<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0091692 |title=宮崎駿監督の新作、始動!ジブリがスタッフ募集を開始 今度こそ本当に最後の監督作品に… |website=シネマトゥデイ |accessdate= 2017-05-19}}</ref>、10月28日には早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『[[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]]』であると明かされた<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASKBX5T4ZKBXUCLV008.html |title=宮崎駿監督、新作タイトルは「君たちはどう生きるか」 |newspaper=朝日新聞DIGITAL |accessdate= 2017年10月29日 |date=2017-10-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171028095758/https://www.asahi.com/articles/ASKBX5T4ZKBXUCLV008.html|archivedate=2017-10-28}}</ref>。 |
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[[2018年]][[5月15日]]、4月に死去した高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた<ref>[https://news.yahoo.co.jp/pickup/6282575 宮崎監督、号泣・・・高畑勲監督お別れ会] - スポーツ報知、2018/5/15閲覧{{リンク切れ|date=2019-04-19}}</ref>。 |
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[[2018年]][[5月15日]]、4月に死去した[[高畑勲]]のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた<ref>[https://hochi.news/articles/20180515-OHT1T50042.html?page=1 宮崎監督、号泣・・・高畑勲監督お別れ会] - スポーツ報知、2018/5/15閲覧</ref>。 |
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[[2023年]][[7月14日]]、『君たちはどう生きるか』が公開。9月に行われた[[第48回トロント国際映画祭]]で日本映画史上初となるオープニング作品となり、観客賞の次点第2位となる。翌年には[[ゴールデングローブ賞]]と[[英国アカデミー賞]]で日本映画史上初となるアニメ映画賞を連続して受賞し、[[2024年]][[3月11日]]に行われた[[第96回アカデミー賞]]では自身としては2度目となる長編アニメ映画賞を受賞した<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0141800 長編アニメ映画賞はジブリ『君たちはどう生きるか』!『千と千尋の神隠し』以来21年ぶり2度目の快挙] - シネマトゥデイ、2024/3/12閲覧</ref>。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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{{出典の明記|date=2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)|section=1}} |
{{出典の明記| date = 2019年4月18日 (木) 08:12 (UTC)| section = 1| ソートキー = }} |
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[[ファイル:HayaoMiyazakiCCJuly09.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[7月28日]]、[[ジョン・ラセター]]との対談にて]] |
[[ファイル:HayaoMiyazakiCCJuly09.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[7月28日]]、[[ジョン・ラセター]]との対談にて]] |
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* [[1941年]] - [[1月5日]]、東京府東京市に生まれる。同年生まれのアニメ監督に、[[りんたろう]]、[[芝山努]]、[[富野由悠季]]、[[鳥海永行]]がいる。 |
* [[1941年]] - [[1月5日]]、東京府東京市文京区に生まれる。同年生まれのアニメ監督に、[[りんたろう]]、[[芝山努]]、[[富野由悠季]]、[[鳥海永行]]がいる。 |
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* [[1945年]] - [[7月12日]]、[[宇都宮空襲]]に遭遇。 |
* [[1945年]] - [[7月12日]]、[[宇都宮空襲]]に遭遇。 |
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* [[1950年]] - 杉並区[[永福|永福町]]に転居。[[杉並区立永福小学校]]、[[杉並区立大宮中学校]]、[[東京都立豊多摩高等学校]]卒。 |
* [[1950年]] - 杉並区[[永福|永福町]]に転居。[[杉並区立永福小学校]]、[[杉並区立大宮中学校]]、[[東京都立豊多摩高等学校]]卒。 |
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* [[2000年]] - 第3回[[司馬遼太郎賞]]を受賞。 |
* [[2000年]] - 第3回[[司馬遼太郎賞]]を受賞。 |
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* [[2001年]] - [[三鷹の森ジブリ美術館]]を創立し、初代館主に就任。第49回[[菊池寛賞]]、第25回山路ふみ子映画賞を受賞。 |
* [[2001年]] - [[三鷹の森ジブリ美術館]]を創立し、初代館主に就任。第49回[[菊池寛賞]]、第25回山路ふみ子映画賞を受賞。 |
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* [[2002年]] - [[朝日賞]]<ref>{{Cite web|title=朝日賞 2001-2019年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738075 |accessdate=2023-01-07}}</ref>、[[フランス]][[国家功労勲章]]、[[パリ]]市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。 |
* [[2002年]] - [[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 2001-2019年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738075 |accessdate=2023-01-07}}</ref>、[[フランス]][[国家功労勲章]]、[[パリ]]市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。 |
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* [[2003年]] - [[埼玉県]]民栄誉賞を受賞。『[[TIME]]』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。 |
* [[2003年]] - [[埼玉県]]民栄誉賞を受賞。『[[タイム (雑誌)|TIME]]』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。 |
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* [[2004年]] - 12月、[[パリ造幣局美術館]]にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。 |
* [[2004年]] - 12月、[[パリ造幣局美術館]]にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。 |
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* [[2005年]] - [[徳間書店]]より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回[[ヴェネツィア国際映画祭]]・[[栄誉金獅子賞]]、[[国際交流基金賞]]を受賞。『 |
* [[2005年]] - [[徳間書店]]より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回[[ヴェネツィア国際映画祭]]・[[栄誉金獅子賞]]、[[国際交流基金賞]]を受賞。『TIME』誌の「[[タイム100|世界で最も影響力のある100人]]」に選出。 |
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* [[2006年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]2階・[[マイスタジオ|マイスタ]]外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。 |
* [[2006年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]2階・[[マイスタジオ|マイスタ]]外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。 |
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* [[2008年]] - スタジオジブリ社内[[保育園]]『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都[[小金井市]]名誉市民に選出<ref>{{Cite web |
* [[2008年]] - スタジオジブリ社内[[保育園]]『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都[[小金井市]]名誉市民に選出<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.koganei.lg.jp/smph/shisei/gaiyou/meiyoshimin.html |title=小金井市名誉市民: |publisher=小金井市 |accessdate=2019-04-19}}</ref>。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。 |
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* [[2009年]] - 第2回[[バークレー日本賞]]を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。 |
* [[2009年]] - 第2回[[バークレー日本賞]]を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。 |
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* [[2010年]] - 東京都[[三鷹市]]の名誉市民に選出。 |
* [[2010年]] - 東京都[[三鷹市]]の名誉市民に選出。 |
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* [[2019年]] - [[世界幻想文学大賞]]生涯功労賞を受賞。 |
* [[2019年]] - [[世界幻想文学大賞]]生涯功労賞を受賞。 |
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* [[2021年]] - 2月、[[新型コロナウイルス禍]]に対応するため、三鷹の森ジブリ美術館の館主に前館長の中島清文が就任{{R|ghibli_20210210}}。宮崎は名誉館主となった。 |
* [[2021年]] - 2月、[[新型コロナウイルス禍]]に対応するため、三鷹の森ジブリ美術館の館主に前館長の中島清文が就任{{R|ghibli_20210210}}。宮崎は名誉館主となった。 |
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* [[2024年]] - 『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出(2005年に続き2度目)<ref>{{Cite web |title=米 タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に宮崎駿氏ら {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240418/k10014425501000.html |website=NHKニュース |date=2024-04-18 |access-date=2024-04-25 |last=日本放送協会}}</ref>。[[マグサイサイ賞]]報道・文学・創造的情報伝達部門を受賞<ref name="yomiuri20240831">{{Cite news|url= https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20240831-OYT1T50108/ |title= 宮崎駿監督にアジアのノーベル賞「マグサイサイ賞」…「アニメで人間性を照らし出した」 |newspaper= 読売新聞 |date= 2024-08-31 |accessdate= 2024-08-31 }}</ref><ref>[https://rmaward.asia/rmawardees/hayao-miyazaki/ Ramon Magsaysay Awardee Miyazaki Hayao]</ref>。 |
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== 人物 == |
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[[埼玉県]][[所沢市]]在住<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160119/ddl/k13/040/096000c|title=淵の森 20年目の下草刈り 宮崎駿監督らボランティア300人、森守る活動振り返る /東京|publisher=毎日新聞 |date=2016-01-19|accessdate=2016-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160201175335/https://mainichi.jp/articles/20160119/ddl/k13/040/096000c|archivedate=2016-02-01}}</ref>。[[喫煙|愛煙家]]<ref name ="MT">{{Cite web|和書|url= https://www.moderntimes.tv/articles/20230209-01miya/ |title= 宮崎駿が抱え続ける矛盾。自然への思いと、アニメ制作という仕事|author=小松原織香|publisher=MODERNTIMES |date=2023-02-10|accessdate=2024-09-01}}</ref>。 |
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愛車は[[シトロエン・2CV]]<ref name ="toyota">{{Cite web|和書|url= https://www.toyota.co.jp/jpn/sustainability/social_contribution/vision/smiles/resolution-can-open-up-a-path-to-the-future/ |title= スペシャル対談 志が未来を拓く。|publisher=TOYOTA |accessdate=2024-09-01}}</ref>。[[ルイ・マル]]監督のフランス映画『[[恋人たち (1958年の映画)|恋人たち]]』に登場しているのを見て興味を持ったことがきっかけで、簡素で合理的な設計の2CVに「このクルマそのものが文明批判だ!」と感銘を受け、1967年に初めて購入<ref name ="moby">{{Cite web|和書|url=https://car-moby.jp/article/entertainment/general-entertainment/miyazaki-hayao-favorite-car/|title= 宮崎駿監督の愛車はシトロエン!独自のセンスで選んだクルマを徹底紹介|publisher=MOBY |date=2017-03-16|accessdate=2024-09-01}}</ref>。以後少なくとも5台以上2CVを乗り継いでいる<ref name ="moby"/>。なお宮崎は、2CVについて戦前のフランス[[航空機]]との設計思想の類似性を指摘している<ref name ="moby"/>。2CVは「2[[馬力]]」の愛称で知られ、宮﨑が1984年に設立した個人事務所「[[二馬力]]」の名称の由来にもなった<ref name ="toyota"/>。 |
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愛用時計は、[[ジャガー・ルクルト]]のレベルソ<ref name ="chronos">{{Cite web|和書|url= https://www.webchronos.net/features/51619/ |title= アニメ映画界の巨匠、スタジオジブリの宮崎駿監督が愛用する腕時計は? |publisher=webChronos |date=2021-11-04|accessdate=2024-09-01}}</ref>。2005年の[[第62回ヴェネツィア国際映画祭]]で「[[栄誉金獅子賞]]」を受賞した際に贈呈されたもので、ケースバックに映画祭のシンボルが刻印されている<ref name ="chronos"/>。 |
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== 作風 == |
== 作風 == |
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: 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、[[脚本]]なしで[[絵コンテ]]と同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界の[[ウォルト・ディズニー]]」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的な制作管理能力と、クオリティとスピードを両立した作画能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。 |
: 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、[[脚本]]なしで[[絵コンテ]]と同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界の[[ウォルト・ディズニー]]」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的な制作管理能力と、クオリティとスピードを両立した作画能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。 |
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: また、漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」という<ref>宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店、2008年、p389。</ref>。 |
: また、漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」という<ref>宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店、2008年、p389。</ref>。 |
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; キャラクターデザイン |
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: まず宮崎によるキャラクターのオリジナルデザインの原案イラストが描かれ、それを作画監督がトレースする形で設定表を作っていく。設定表が作られた後も物語の展開によって、キャラクターデザインそのものが変わる場合もある。[[井上俊之]]曰く「90%は宮崎さんのもの」とのこと<ref name="full">{{Cite web|和書|url=https://fullfrontal.moe/inoue-kimi-tachi/|title=井上俊之による『君たちはどう生きるか』- ロングインタビュー|publisher=fullfrontal.moe|date=2023-10-20|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 |
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; 作画作業 |
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: 他のアニメーターによる原画が上がった段階で、宮崎が簡単に修正した後、作画監督がクリンナップしていく<ref name="full"/>。 |
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; 軍事マニア |
; 軍事マニア |
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: [[軍事史|戦史]]・[[兵器]]マニアとして知られ、[[第二次世界大戦]]から前の[[甲冑]]・鎧兜や兵器([[装甲戦闘車両]]、[[軍用機]]など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊[[モデルグラフィックス]]』誌の『[[宮崎駿の雑想ノート]]』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている{{efn2|一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。}}。 |
: [[軍事史|戦史]]・[[兵器]]マニアとして知られ、[[第二次世界大戦]]から前の[[甲冑]]・鎧兜や兵器([[装甲戦闘車両]]、[[軍用機]]など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊[[モデルグラフィックス]]』誌の『[[宮崎駿の雑想ノート]]』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている{{efn2|一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。}}。 |
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: 2009年から2010年にかけて『[[モデルグラフィックス]]』誌に[[零式艦上戦闘機]]の開発者である[[堀越二郎]]の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]の活躍と[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[エース・パイロット]]の戦果を記録した、戦史家[[梅本弘]](市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている<ref>{{Cite web |
: 2009年から2010年にかけて『[[モデルグラフィックス]]』誌に[[零式艦上戦闘機]]の開発者である[[堀越二郎]]の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]の活躍と[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[エース・パイロット]]の戦果を記録した、戦史家[[梅本弘]](市村弘)の著作『[[第二次大戦の隼のエース]]』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.modelkasten.com/book/osprey/230285.html |website=MODELKASTEN |title=- 書籍 - オスプレイ軍用機シリーズ56/第二次大戦の隼のエース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304192938/http://www.modelkasten.com/book/osprey/230285.html |archivedate=2016-03-04 |publisher=ARTBOX |accessdate=2019-04-19}}</ref>。 |
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: ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、[[モールス符号]]での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。最も本人の趣味が反映された『[[紅の豚]]』に関しては製作後も「[[道楽]]でくだらない物を作ってしまった」と[[罪悪感]]に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている<ref name="cut091119" />。 |
: ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、[[モールス符号]]での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。最も本人の趣味が反映された『[[紅の豚]]』に関しては製作後も「[[道楽]]でくだらない物を作ってしまった」と[[罪悪感]]に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている<ref name="cut091119" />。 |
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; 声優の起用方針 |
; 声優の起用方針 |
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: [[イギリス]]の新聞『[[ガーディアン]]』での[[インタビュー]]の中で「日本の女性[[声優]]は、男性を惹きつけるコケティッシュな[[声]]を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている<ref>{{cite news | author = Xan Brooks | url = https://www.theguardian.com/film/2005/sep/14/japan.awardsandprizes | title = A god among animators | language = en | newspaper = [[ガーディアン]] | publisher = [[ガーディアン・メディア・グループ]] | date = 2005-09-14 | accessdate = 2020-06-18 }}</ref>。 |
: [[イギリス]]の新聞『[[ガーディアン]]』での[[インタビュー]]の中で「日本の女性[[声優]]は、男性を惹きつける[[コケティッシュ]]な[[声]]を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている<ref>{{cite news | author = Xan Brooks | url = https://www.theguardian.com/film/2005/sep/14/japan.awardsandprizes | title = A god among animators | language = en | newspaper = [[ガーディアン]] | publisher = [[ガーディアン・メディア・グループ]] | date = 2005-09-14 | accessdate = 2020-06-18 }}</ref>。 |
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; 作品名の共通点 |
; 作品名の共通点 |
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{{see also|「の」の法則}} |
{{see also|「の」の法則}} |
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: 監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋'''の'''神隠し、崖の上'''の'''ポニョなど、平仮名の「 |
: 監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋'''の'''神隠し、崖の上'''の'''ポニョなど、平仮名の「の」が含まれている。 |
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: ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』{{efn2|「𦻙記」の読みは「せっき」。「𦻙」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。これに相当するものが台湾の漢字に存在し、[[Unicode]]ではU+ |
: ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』{{efn2|「𦻙記」の読みは「せっき」。「[[:wikt:𦻙|𦻙]]」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。これに相当するものが台湾の漢字に存在し、[[Unicode]]ではU+26ED9([[CJK統合漢字拡張B]])に収録されている。「聶」(耳を三つ)は誤記あるいは代用表記。}}を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない<ref>鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波書店〈岩波新書〉、2008年、p.86</ref>。 |
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; 作風の変化 |
; 作風の変化 |
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:『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕は、もう既成の[[起承転結]]のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。 |
:『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕は、もう既成の[[起承転結]]のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。 |
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アニメーション作家・映画監督の[[高畑勲]]は[[東映アニメーション|東映動画]](現・[[東映アニメーション]])時代の先輩であり、宮崎に多大な影響を与えた。東映動画の[[労働組合]]に[[書記長]]として従事した際、高畑は副委員長として宮崎を支え交流を深めていった。 |
アニメーション作家・映画監督の[[高畑勲]]は[[東映アニメーション|東映動画]](現・[[東映アニメーション]])時代の先輩であり、宮崎に多大な影響を与えた。東映動画の[[労働組合]]に[[書記長]]として従事した際、高畑は副委員長として宮崎を支え交流を深めていった。 |
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高畑の初監督作品・映画『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが、次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 [[場面設定]])として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人[[ギルド]]・[[コミューン]]の形成と[[善悪]]の |
高畑の初監督作品・映画『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが、次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 [[場面設定]])として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人[[ギルド]]・[[コミューン]]の形成と[[善悪]]の彼岸を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、[[ベトナム戦争]]が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆な[[レイアウト]]で魅せる高畑の演出も宮崎にとっては憧れの的だった<ref name=":0">{{Cite web|和書|date=2018-04-08 |url =https://www.oricon.co.jp/special/50964/ |title =「監督・宮崎駿」を生み出した高畑勲の功績 肉親以上の関係だった2人の天才 |work= |publisher =ORICON |accessdate =2018-05-20 }}</ref>。 |
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[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世第一シリーズ]](共同演出)、[[パンダコパンダ]](高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、[[アルプスの少女ハイジ]]、[[母をたずねて三千里]](高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した<ref name=":0" />。宮崎の監督作『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』、『[[天空の城ラピュタ]]』では高畑が[[プロデューサー]]を務めている<ref name=":0" />。 |
[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世第一シリーズ]](共同演出)、[[パンダコパンダ]](高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、[[アルプスの少女ハイジ]]、[[母をたずねて三千里]](高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した<ref name=":0" />。宮崎の監督作『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』、『[[天空の城ラピュタ]]』では高畑が[[プロデューサー]]を務めている<ref name=":0" />。 |
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ハイジや三千里で共に仕事をした[[富野由悠季]](絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」<ref name="oricon51017">{{Cite news|title=富野由悠季が語る『ガンダム』のリアルを生んだ“高畑勲イズム” 「高畑さんは僕にとっても師匠」|url=https://www.oricon.co.jp/special/51017/|accessdate=2018-05-18|language=ja-JP|work=ORICON NEWS}}</ref>。 |
ハイジや三千里で共に仕事をした[[富野由悠季]](絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」<ref name="oricon51017">{{Cite news|title=富野由悠季が語る『ガンダム』のリアルを生んだ“高畑勲イズム” 「高畑さんは僕にとっても師匠」|url=https://www.oricon.co.jp/special/51017/|accessdate=2018-05-18|language=ja-JP|work=ORICON NEWS}}</ref>。 |
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その後、[[ファンタジー]]や[[リアリティ]]の考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮崎の畏敬の念は特別だった。『[[千と千尋の神隠し]]』の制作の際、宮崎は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑 |
その後、[[ファンタジー]]や[[リアリティ]]の考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮崎の畏敬の念は特別だった。『[[千と千尋の神隠し]]』の制作の際、宮崎は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑に教わったためである<ref name=":0" />。 |
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ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている<ref name=":0" />。 |
ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている<ref name=":0" />。 |
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宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある<ref>{{Cite web|url=https://lite-ra.com/2018/04/post-3937.html|title=高畑勲監督の死に宮崎駿監督は…鈴木敏夫Pは「宮崎駿はただひとりの観客、高畑勲を意識して映画を作っている」と|accessdate=2018-05-18|website=本と雑誌のニュースサイト/リテラ|language=ja-JP}}</ref>。 |
宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://lite-ra.com/2018/04/post-3937.html|title=高畑勲監督の死に宮崎駿監督は…鈴木敏夫Pは「宮崎駿はただひとりの観客、高畑勲を意識して映画を作っている」と|accessdate=2018-05-18|website=本と雑誌のニュースサイト/リテラ|language=ja-JP}}</ref>。 |
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== アニメ界への意見 == |
== アニメ界への意見 == |
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: [[1989年]]、[[手塚治虫]]が亡くなった際に、漫画史における手塚の功績に敬意を表した上で、手塚のアニメーション作品は、店子を集めて無理やり義太夫を聴かせる落語(『[[寝床]]』)の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚が[[リミテッド・アニメーション]]と[[フルアニメーション]]の違いもろくに理解せず喧伝していたことなどに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べた。また、手塚作品の悲劇性についても否定的な見解を示しており、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても否定的評価を下し、「趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば」と総括している<ref>「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」『[[コミックボックス]]』ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979〜1996』に所収)。</ref>。 |
: [[1989年]]、[[手塚治虫]]が亡くなった際に、漫画史における手塚の功績に敬意を表した上で、手塚のアニメーション作品は、店子を集めて無理やり義太夫を聴かせる落語(『[[寝床]]』)の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚が[[リミテッド・アニメーション]]と[[フルアニメーション]]の違いもろくに理解せず喧伝していたことなどに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べた。また、手塚作品の悲劇性についても否定的な見解を示しており、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても否定的評価を下し、「趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば」と総括している<ref>「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」『[[コミックボックス]]』ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979〜1996』に所収)。</ref>。 |
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: 宮崎の監督作、『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』について手塚が意見を述べたことがあり、作画を担当した[[テレコム・アニメーションフィルム]]のアニメーター達に対し、カリオストロは3コマ作画だそうだが、手塚が総監督した『[[火の鳥2772 愛のコスモゾーン]]』は2コマのフルアニメーションであると語ったという。しかし、宮崎の盟友であり、『カリオストロ』で作画監督を務めた[[大塚康生]]によると、『火の鳥』には、2コマ特有の描き方や工夫が全く入っていなかったという。大塚は「手塚先生は理念としてのフルアニメーションに憧れていらっしゃるが、技術的な使い方はご存じない、もしくは関心はお持ちでないのだとわかりました」と指摘している<ref>大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』「第4章 テレビアニメーション時代の幕開け」文藝春秋、2013年。</ref>。 |
: 宮崎の監督作、『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』について手塚が意見を述べたことがあり、作画を担当した[[テレコム・アニメーションフィルム]]のアニメーター達に対し、カリオストロは3コマ作画だそうだが、手塚が総監督した『[[火の鳥2772 愛のコスモゾーン]]』は2コマのフルアニメーションであると語ったという。しかし、宮崎の盟友であり、『カリオストロ』で作画監督を務めた[[大塚康生]]によると、『火の鳥』には、2コマ特有の描き方や工夫が全く入っていなかったという。大塚は「手塚先生は理念としてのフルアニメーションに憧れていらっしゃるが、技術的な使い方はご存じない、もしくは関心はお持ちでないのだとわかりました」と指摘している<ref>大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』「第4章 テレビアニメーション時代の幕開け」文藝春秋、2013年。</ref>。 |
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:一方で、手塚がテレビアニメ『[[鉄腕アトム]]』を安価な予算で作って以来、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件に関して、宮崎は、[[日本]]が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている。その上で、あのタイミングで手塚さんが始めなければ自分達はあと2、3年は(当時の東映動画で)腰を据えて長編アニメーションを作れたかもしれないが、それも今となってはどうでもいいことだと述べている{{Sfn|宮崎|1996|p235}}。 |
: 一方で、手塚がテレビアニメ『[[鉄腕アトム]]』を安価な予算で作って以来、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件に関して、宮崎は、[[日本]]が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている。その上で、あのタイミングで手塚さんが始めなければ自分達はあと2、3年は(当時の東映動画で)腰を据えて長編アニメーションを作れたかもしれないが、それも今となってはどうでもいいことだと述べている{{Sfn|宮崎|1996|p235}}。 |
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: それ以降、宮崎が手塚について語る事はほとんど無かったが、[[2009年]]に行われたインタビューにおいて、7歳の時に手塚の「[[新宝島]]」を読み「言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かし、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。だがアニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた<ref>{{Cite news |url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm |title=宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」 |date=2009年4月14日 |newspaper=読売新聞 |accessdate=2019-04-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222044515/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm |archivedate=2014-02-22}}</ref>。 |
: それ以降、宮崎が手塚について語る事はほとんど無かったが、[[2009年]]に行われたインタビューにおいて、7歳の時に手塚の「[[新宝島]]」を読み「言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かし、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。だがアニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた<ref>{{Cite news |url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm |title=宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」 |date=2009年4月14日 |newspaper=読売新聞 |accessdate=2019-04-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222044515/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm |archivedate=2014-02-22}}</ref>。 |
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: 宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の『[[わんわん忠臣蔵]]』にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮崎との合作アニメ映画『ロルフ』も企画されていた<ref>「アニメージュ」1981年8月号、徳間書店。{{要ページ番号|date=2019-04-19}}</ref>。この合作は実現しなかったがロルフの企画は名前を変え『風の谷のナウシカ』の原案になった<ref>「The art of Nausica」1984年6月20日、徳間書店。{{要ページ番号|date=2019-04-19}}</ref>。 |
: 宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の『[[わんわん忠臣蔵]]』にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮崎との合作アニメ映画『ロルフ』も企画されていた<ref>「アニメージュ」1981年8月号、徳間書店。{{要ページ番号|date=2019-04-19}}</ref>。この合作は実現しなかったがロルフの企画は名前を変え『風の谷のナウシカ』の原案になった<ref>「The art of Nausica」1984年6月20日、徳間書店。{{要ページ番号|date=2019-04-19}}</ref>。 |
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: 著名なミリタリーマニアである一方、現実の[[戦争]]行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『[[未来少年コナン]]』『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』『[[もののけ姫]]』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは[[堀田善衛]]<ref>『堀田善衞を読む』(集英社新書、2018年)で「堀田作品は世界を知り抜くための羅針盤」を寄稿。元は講演録</ref>「方丈記私記」をイメージしたものだという<ref>『[[news zero|NEWS ZERO]]』([[日本テレビ系]])ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)</ref>。[[湾岸戦争]]に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、[[小田実]]を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「[[ニューヨーク・タイムズ]]に湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他<ref>「「それでも戦争は正しくない」 文化人ら市民が米紙に意見広告計画」『[[朝日新聞]]』[[1991年]][[3月16日]]朝刊31面</ref>、同時期に製作した『[[紅の豚]]』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという<ref name="cut091119">『CUT』誌 2009年11月19日号。{{要ページ番号|date=2019-04-19}}</ref>。 |
: 著名なミリタリーマニアである一方、現実の[[戦争]]行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『[[未来少年コナン]]』『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』『[[もののけ姫]]』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは[[堀田善衛]]<ref>『堀田善衞を読む』(集英社新書、2018年)で「堀田作品は世界を知り抜くための羅針盤」を寄稿。元は講演録</ref>「方丈記私記」をイメージしたものだという<ref>『[[news zero|NEWS ZERO]]』([[日本テレビ系]])ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)</ref>。[[湾岸戦争]]に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、[[小田実]]を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「[[ニューヨーク・タイムズ]]に湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他<ref>「「それでも戦争は正しくない」 文化人ら市民が米紙に意見広告計画」『[[朝日新聞]]』[[1991年]][[3月16日]]朝刊31面</ref>、同時期に製作した『[[紅の豚]]』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという<ref name="cut091119">『CUT』誌 2009年11月19日号。{{要ページ番号|date=2019-04-19}}</ref>。 |
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; 第二次世界大戦 |
; 第二次世界大戦 |
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:宮崎は、イギリスの[[児童文学]][[作家]][[ロバート・ウェストール]]の『[[ブラッカムの爆撃機]]』に併収された2006年の漫画「ウェストール幻想 タインマスへの旅」でのウェストールとの架空対話において、[[神風特別攻撃隊]]について志願しただろうと語っている<ref name="Blackham">『[[ブラッカムの爆撃機]]』 [[ロバート・ウェストール]]作、宮崎駿・編、金原瑞人訳(岩波書店、2006年)、207頁</ref>。 |
: 宮崎は、イギリスの[[児童文学]][[作家]][[ロバート・ウェストール]]の『[[ブラッカムの爆撃機]]』に併収された2006年の漫画「ウェストール幻想 タインマスへの旅」でのウェストールとの架空対話において、[[神風特別攻撃隊]]について志願しただろうと語っている<ref name="Blackham">『[[ブラッカムの爆撃機]]』 [[ロバート・ウェストール]]作、宮崎駿・編、金原瑞人訳(岩波書店、2006年)、207頁</ref>。 |
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:宮崎「ウェストールさん あなたは間に合えばですが 爆撃機のクルーに志願しましたか? |
: 宮崎「ウェストールさん あなたは間に合えばですが 爆撃機のクルーに志願しましたか? |
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:ウェストール「そうしたとおもいます あなたは?[[神風特別攻撃隊|KAMIKAZE]]は…」 |
: ウェストール「そうしたとおもいます あなたは?[[神風特別攻撃隊|KAMIKAZE]]は…」 |
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:宮崎「おそらく…そうしたと思います 虚勢をはってふるえながら」 |
: 宮崎「おそらく…そうしたと思います 虚勢をはってふるえながら」 |
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:ウェストール「…少年の忠誠心を否定してはいけません 煽ったり利用したりするのはもちろん論外ですが 少年たちの勇気は、本来悲劇的なのです しかし この世界の重要な一部です」|宮崎駿「ウェストール幻想 タインマスへの旅」<ref name="Blackham"/>}} |
: ウェストール「…少年の忠誠心を否定してはいけません 煽ったり利用したりするのはもちろん論外ですが 少年たちの勇気は、本来悲劇的なのです しかし この世界の重要な一部です」|宮崎駿「ウェストール幻想 タインマスへの旅」<ref name="Blackham"/>}} |
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: 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』製作時には作品テーマもあって、[[第二次世界大戦]]における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として[[堀越二郎|二郎]]を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」<ref>「朝日新聞」2013年7月16日。</ref>としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」<ref name="朝日新聞130720">{{Cite news |url=https://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307190544.html |title=(インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん |date= 2013年7月20日 |newspaper= 朝日新聞DIGITAL |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140701204115/http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307190544.html |archivedate=2014-01-01}}</ref>「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」<ref>「しんぶん赤旗」2013年8月11日号。</ref>と述べている。 |
: 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』製作時には作品テーマもあって、[[第二次世界大戦]]における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として[[堀越二郎|二郎]]を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」<ref>「朝日新聞」2013年7月16日。</ref> としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」<ref name="朝日新聞130720">{{Cite news |url=https://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307190544.html |title=(インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん |date= 2013年7月20日 |newspaper= 朝日新聞DIGITAL |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140701204115/http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307190544.html |archivedate=2014-01-01}}</ref>「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」<ref>「しんぶん赤旗」2013年8月11日号。</ref> と述べている。 |
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: 同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている<ref>{{Cite web |
: 同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ghibli.jp/shuppan/np/009348/ |title=小冊子『熱風』2013年7月号の特集は「憲法改正」です。 |publisher=スタジオジブリ出版部 |accessdate=2019-04-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ghibli.jp/info/009354/ |title=小冊子『熱風』7月号特集 緊急PDF配信のお知らせ |publisher=スタジオジブリ |accessdate=2019-04-19}}</ref>{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|pp=4-5}}。この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって『最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?』と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は『ちょっと待て』っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|pp=7, 9}}。 |
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: こうした姿勢は当事者国の一つである[[東アジア]]諸国で広い賞賛を受けており、中国の「[[人民日報]]」は[[微博]](国営[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]])を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている<ref>{{Cite web |
: こうした姿勢は当事者国の一つである[[東アジア]]諸国で広い賞賛を受けており、中国の「[[人民日報]]」は[[微博]](国営[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]])を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.recordchina.co.jp/b114194-s0-c30-d0052.html |title=戦後70年、中国メディアが選んだ「良識ある日本人」に宮崎監督ら9人 |date=2015-07-16 |website=[[Record China]] |accessdate=2019-04-19}}</ref>。韓国でも『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり、「日本の生ける良心」と賞賛されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.recordchina.co.jp/b108450-s0-c30-d0052.html |title=宮崎駿さん、辺野古移設に反対する基金の共同代表に=韓国ネット「生ける良心、尊敬する」「日本では反政府的と批判されるんだろうな」.. |website=レコードチャイナ |accessdate=2019-04-19}}</ref>。 |
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; 憲法改正 |
; 憲法改正 |
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: 2013年に[[憲法改正論議]]が |
: 2013年に[[憲法改正論議]]が過熱した際、スタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「[[憲法改正]]」で現状での改正には反対声明を行った{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=8}}。宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」を寄稿、[[日本国憲法]]の改憲に反対の立場であることを闡明にした{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=8}}。寄稿文の中で、日本国憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=8}}。特に[[日本国憲法第9条|憲法9条]]と[[自衛隊]]については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=8}}、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないから、すぐ手玉に取られてしまいます。もし[[戦争]]になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=9}}。同寄稿文では、現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=9}}。[[災害]]時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」とし、[[イラク戦争]]で行われた海外派遣については「[[イラク]]に行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と評価している{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=9}}。 |
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: また[[日本国憲法第96条|憲法96条]]を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「[[詐欺]]」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためには、ちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=8}}。 |
: また[[日本国憲法第96条|憲法96条]]を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「[[詐欺]]」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためには、ちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている{{Sfn|スタジオジブリ出版部|2013|p=8}}。 |
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; 集団的自衛権 |
; 集団的自衛権 |
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=== 生命倫理・反差別 === |
=== 生命倫理・反差別 === |
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: 2016年[[1月28日]]に東京都港区で開かれた「[[ハンセン病]]の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある[[国立療養所多磨全生園|全生園]]を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「[[ハンセン病療養所の特殊通貨|園内通用券]]」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った<ref name="asa20160129">{{Cite news |title=宮崎駿監督、生への思い 「もののけ姫」ハンセン病患者 |newspaper=朝日新聞DIGITAL |date=2016-01-29 |author=青木美希 |url=https://www.asahi.com/articles/ASJ1X4TX2J1XUTIL01N.html |accessdate=2017-04-27 |location=東京都 |publisher=株式会社朝日新聞社 |language=日本語 |archiveurl=https://archive.fo/evm2F |archivedate=2019-04-18}}</ref><ref name="kinyoubi20160219">{{Cite journal |和書 |author=西川伸一 |title=西川伸一の政治時評 終わらない人権犯罪 ハンセン病家族が提訴 |date=2016-02-19 |publisher=株式会社金曜日 |journal=週刊金曜日 |volume=1076 |page=10 |accessdate=2017-04-27 }}</ref>。 |
: 2016年[[1月28日]]に東京都港区で開かれた「[[ハンセン病]]の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある[[国立療養所多磨全生園|全生園]]を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「[[ハンセン病療養所の特殊通貨|園内通用券]]」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った<ref name="asa20160129">{{Cite news |title=宮崎駿監督、生への思い 「もののけ姫」ハンセン病患者 |newspaper=朝日新聞DIGITAL |date=2016-01-29 |author=青木美希 |url=https://www.asahi.com/articles/ASJ1X4TX2J1XUTIL01N.html |accessdate=2017-04-27 |location=東京都 |publisher=株式会社朝日新聞社 |language=日本語 |archiveurl=https://archive.fo/evm2F |archivedate=2019-04-18}}</ref><ref name="kinyoubi20160219">{{Cite journal |和書 |author=西川伸一 |title=西川伸一の政治時評 終わらない人権犯罪 ハンセン病家族が提訴 |date=2016-02-19 |publisher=株式会社金曜日 |journal=週刊金曜日 |volume=1076 |page=10 |accessdate=2017-04-27 }}</ref>。 |
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=== 人工知能技術への批判 === |
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: [[2016年]]11月、宮崎に密着した[[NHK]]のドキュメンタリー「NHKスペシャル 終わらない人 宮崎駿」が放映され、その中で[[ドワンゴ]]創業者[[川上量生]]のチームが宮崎に対して行ったプレゼンの様子が物議を醸した。当時、CGを使用した短編アニメの制作に取り組んでいた宮崎に対し、川上は自ら開発を進めている[[人工知能]]を応用したCG技術を紹介した。このCGは[[ゾンビ]]のようなキャラクターが頭を足のように使い、体をくねらせ移動させる奇妙なものだった。これに宮崎は激怒した<ref name="jcast-miyazaki-ai">{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2016/11/14283398.html|title=宮崎駿監督「ブチ切れ」説教 ドワンゴ川上量生氏に「極めて不愉快」 |
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|website=J-CAST|accessdate=2023-04-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00620/031100002/|title=宮崎駿を激怒させた「人工生命」の正体|website=日経XTECH|accessdate=2023-05-26}}</ref>。 |
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これを作る人たちは痛みとかそういうものについて何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。〔…〕 |
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そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやってればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。'''極めて何か生命に対する侮辱を感じます'''<ref name="jcast-miyazaki-ai"/>。 |
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: このシーンは多大な反響を呼び、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙などの海外メディアにも取り上げられた<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/2018/12/13/movies/never-ending-man-hayao-miyazaki-review.html|title=‘Never-Ending Man: Hayao Miyazaki’ Review: Animation Giant, Retired and Restless|website=The New York Times|accessdate=2023-5-26}}</ref>。 |
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: 後に宮崎がこの発言の真意について問われると「要するに、人工知能というものを色々もてはやすと、やっぱり馬鹿げた事が起こるんだなって。その時に川上さんみたいにアナーキーな人が歯止めを持っていないなと思いましたね」と回答した<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/tech/2018/10/post-270755.html|title=宮崎駿監督、ドワンゴ会長・川上量生氏に激怒した真相を語る「あのウケ狙いが川上さんの弱点」|website=realsound|accessdate=2023-04-30}}</ref>。 |
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: [[2022年]]に[[Midjourney]]や[[Stable Diffusion]]などの[[著作物]]を無断利用した[[生成AI]]がリリースされ、海外のアーティストによる批判が高まると、宮崎の「'''生命に対する侮辱'''」(英: '''an insult to life itself''')という発言は、クリエイターによる人工知能に対する拒絶のメッセージとして、映画監督の[[ギレルモ・デル・トロ]]などによって引用された<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/technology/2023/01/19/ai-childrens-book-controversy-chatgpt-midjourney|title=He made a children’s book using AI. Then came the rage.|website=The Washington Post|accessdate=2023-5-26}}</ref><ref>{{cite web|url=https://variety.com/2022/film/news/guillermo-del-toro-slams-ai-animation-insult-life-1235463561/|title=Guillermo del Toro Agrees With Miyazaki: Animation Created by AI and Machines Is an ‘Insult to Life Itself’|website=Variety|accessdate=2023-5-26}}</ref>。 |
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=== 左翼・社会主義 === |
=== 左翼・社会主義 === |
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: 学習院大学時代に社会主義や共産主義などの[[左翼]]運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。実際に[[高畑勲]]らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら[[資本論]]などの理論書は読んでいないと率直に述べている<ref name="kaze1">宮崎駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]、[[2013年]])収録、「風が吹き始めた場所([[1990年]][[11月]]収録)」</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=宮崎駿 |title=本へのとびら――岩波少年文庫を語る |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 |date=2011 |isbn=9784004313328 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-20}}</ref>。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。 |
: 学習院大学時代に社会主義や共産主義などの[[左翼]]運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。実際に[[高畑勲]]らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら[[資本論]]などの理論書は読んでいないと率直に述べている<ref name="kaze1">宮崎駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]、[[2013年]])収録、「風が吹き始めた場所([[1990年]][[11月]]収録)」</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=宮崎駿 |title=本へのとびら――岩波少年文庫を語る |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 |date=2011 |isbn=9784004313328 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-04-20}}</ref>。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。希望ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている<ref name="kaze1" />。ただし後年に「[[カール・マルクス|マルクス]]的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や<ref name="cut091119" />、「今は[[プロレタリアート]]がいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている<ref name="kaze3">宮崎駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]、[[2013年]])収録、「風の谷から油屋まで([[2001年]][[11月]]収録)」</ref>。 |
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: 冷戦終結後の1990年代、『[[もののけ姫]]』の公開後にかけて「社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向」と分析する宮崎駿転向論もあったが<ref>これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている。</ref>、しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的な[[ソ連型社会主義]]には懐疑的で、[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[中華人民共和国|中国]]の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]も嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している<ref name="kaze1" />。[[ニューヨーク近代美術館]]での会見で中国の[[毛沢東]]の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが<ref>{{Cite web|和書 |
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; 思想転向があったとする評価 |
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| url = https://www.asahi.com/culture/entertainment/dvd/news/TKY200506110162.html | title = 宮崎監督、毛語録引用し若手に助言 MoMAで会見 | publisher = [[朝日新聞]]| accessdate = 2005-06-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171207014928/http://www.asahi.com/culture/entertainment/dvd/news/TKY200506110162.html |archivedate=2017-12-07}}</ref>、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている<ref name="朝日新聞130720" />。冷戦崩壊直前の[[1990年]][[11月]]にはソ連と対峙する[[ラトビア]]の独立運動で「[[人民戦線]]」という用語が使用されている事に触れながら、「[[社会主義]]が[[自由主義]]っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。[[西ドイツ]]の現状はどうなんですか?[[西ベルリン]]が健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている<ref name="kaze1" />。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている<ref name="kaze1" />。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きた[[ユーゴスラビア紛争]]に触れ、民主化による[[民族主義]]の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の[[共産主義者|赤]]になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している<ref name="kaze2">宮崎駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]、[[2013年]])収録、「豚が人間に戻るまで([[1992年]][[7月]]収録)」</ref>。 |
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: その後も[[左翼]]的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期の[[1989年]]に起きた[[六四天安門事件|天安門事件]]および[[東欧革命]]に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある<ref>これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている。</ref>。 |
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; 思想転向はしていないという評価 |
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: しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的な[[ソ連型社会主義]]には懐疑的で、[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[中華人民共和国|中国]]の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]も嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している<ref name="kaze1" />。[[ニューヨーク近代美術館]]での会見で中国の[[毛沢東]]の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが<ref>{{cite web |
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| url = https://www.asahi.com/culture/entertainment/dvd/news/TKY200506110162.html | title = 宮崎監督、毛語録引用し若手に助言 MoMAで会見 | publisher = [[朝日新聞]]| accessdate = 2005-06-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171207014928/http://www.asahi.com/culture/entertainment/dvd/news/TKY200506110162.html |archivedate=2017-12-07}}</ref>、後に「かつて[[毛沢東]]の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている<ref name="朝日新聞130720" />。冷戦崩壊直前の[[1990年]][[11月]]にはソ連と対峙する[[ラトビア]]の独立運動で「[[人民戦線]]」という用語が使用されている事に触れながら、「[[社会主義]]が[[自由主義]]っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。[[西ドイツ]]の現状はどうなんですか?[[西ベルリン]]が健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている<ref name="kaze1" />。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている<ref name="kaze1" />。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きた[[ユーゴスラビア紛争]]に触れ、民主化による[[民族主義]]の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の[[共産主義者|赤]]になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している<ref name="kaze2">宮崎駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]、[[2013年]])収録、「豚が人間に戻るまで([[1992年]][[7月]]収録)」</ref>。 |
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: 宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている<ref name="kaze1" />。 |
: 宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている<ref name="kaze1" />。 |
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: 2008年の講演で、日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した<ref name="itmedia2008" />。一方で、「世界の問題は多民族にある」とも述べている<ref name="itmedia2008">{{Cite web |
: 2008年の講演で、日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した<ref name="itmedia2008" />。一方で、「世界の問題は多民族にある」とも述べている<ref name="itmedia2008">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0811/27/news004_2.html |title=“ポニョ”を作りながら考えていたこと:悪人を倒せば世界が平和になるという映画は作らない――宮崎駿監督、映画哲学を語る(前編) (2/4) |website=ITmedia ビジネスオンライン |accessdate=2019-04-20}}</ref>。 |
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=== 反原発 === |
=== 反原発 === |
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: スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で{{疑問点|date=2019年4月20日 (土) 00:27 (UTC)|title=「8月号」の誤りでは?}}、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は[[小金井市|東小金井]]で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した[[東日本大震災]]の[[福島第一原子力発電所事故]]に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、[[鈴木敏夫]]、[[河野太郎]]、[[大西健丞]]、[[川上量生]]による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちに[[となりのトトロ|トトロ]]などのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている<ref>『熱風』2011年8号、スタジオジブリ。</ref>。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている<ref>{{Cite web |
: スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で{{疑問点|date=2019年4月20日 (土) 00:27 (UTC)|title=「8月号」の誤りでは?}}、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は[[小金井市|東小金井]]で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した[[東日本大震災]]の[[福島第一原子力発電所事故]]に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、[[鈴木敏夫]]、[[河野太郎]]、[[大西健丞]]、[[川上量生]]による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちに[[となりのトトロ|トトロ]]などのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている<ref>『熱風』2011年8号、スタジオジブリ。</ref>。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.alterna.co.jp/5932/ |title=ジブリ屋上に幕「原発抜きで映画を」 |website=オルタナ |accessdate=2019-04-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0033141 |title=ジブリ横断幕は宮崎駿監督が考案!「攻撃的な意味はありません」とスタジオジブリがコメント |website=シネマトゥデイ |accessdate=2019-04-20}}</ref>。 |
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=== 欧米世界への批判 === |
=== 欧米世界への批判 === |
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; アーシュラ・K・ル=グウィン |
; アーシュラ・K・ル=グウィン |
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{{see also|アーシュラ・K・ル=グウィン|ゲド戦記}} |
{{see also|アーシュラ・K・ル=グウィン|ゲド戦記}} |
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: ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『[[指輪物語]]』を厳しく批判する一方、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]の『[[ゲド戦記]]』からの影響をしばしば公言し、「[[シュナの旅]]」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている<ref>{{Cite web |
: ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『[[指輪物語]]』を厳しく批判する一方、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]の『[[ゲド戦記]]』からの影響をしばしば公言し、「[[シュナの旅]]」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ghibli.jp/storage/000283/ |title=世界一早い「ゲド戦記」インタビュー(完全版) |publisher=スタジオジブリ |accessdate=2019-04-20}}</ref>。 |
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; サン=テグジュペリ |
; サン=テグジュペリ |
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321行目: | 399行目: | ||
; レフ・アタマーノフ |
; レフ・アタマーノフ |
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: 宮崎は{{仮リンク|レフ・アタマーノフ|en|Lev Atamanov}}の『[[雪の女王 (1957年の映画)]]』を見た時に、「目の上のラインは実線で描くが下の所には色線を描くというのを見て、こういう眼差しが優しくなる描き方があるのかと驚嘆した。それまでは上下両方とも実線で繋げた切れ長の目を描いていたが、そこから抜け出すヒントが雪の女王の中にあった。外国人がなんで日本のアニメーションはみんな目の線が切れているんだと言うけれど、僕らは雪の女王から貰った。」と語っている<ref name="想いをつらぬく" />。また、「本当に見事に一筋の想いを貫いてそれを力にしてカイを取り戻そうという、ゲルダのそういう想いを描こうとする時にアニメーションというのは表現方法として非常に可能性を持っているんだなと見た時に思った。アニメーションは貫く想いを描くのに向いていて、それこそが自分がやりたかったものなのではないかと思った。だから色々な映画を見たがアニメーターになっていて良かったと思ったのは雪の女王です。」と語っている<ref name="想いをつらぬく">{{Citevideo|title=宮崎駿インタビュー“想いをつらぬく。"|medium=雪の女王≪新訳版≫映像特典 |
: 宮崎は{{仮リンク|レフ・アタマーノフ|en|Lev Atamanov}}の『[[雪の女王 (1957年の映画)]]』を見た時に、「目の上のラインは実線で描くが下の所には色線を描くというのを見て、こういう眼差しが優しくなる描き方があるのかと驚嘆した。それまでは上下両方とも実線で繋げた切れ長の目を描いていたが、そこから抜け出すヒントが雪の女王の中にあった。外国人がなんで日本のアニメーションはみんな目の線が切れているんだと言うけれど、僕らは雪の女王から貰った。」と語っている<ref name="想いをつらぬく" />。また、「本当に見事に一筋の想いを貫いてそれを力にしてカイを取り戻そうという、ゲルダのそういう想いを描こうとする時にアニメーションというのは表現方法として非常に可能性を持っているんだなと見た時に思った。アニメーションは貫く想いを描くのに向いていて、それこそが自分がやりたかったものなのではないかと思った。だから色々な映画を見たがアニメーターになっていて良かったと思ったのは雪の女王です。」と語っている<ref name="想いをつらぬく">{{Citevideo|title=宮崎駿インタビュー“想いをつらぬく。"|date=2008-07-02|publication-date=2008-07-02|work=|medium=雪の女王≪新訳版≫映像特典}}</ref>。 |
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; 映画化に関連する作家・作品 |
; 映画化に関連する作家・作品 |
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327行目: | 405行目: | ||
; 上記以外の作品 |
; 上記以外の作品 |
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: 20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、[[ブルース・スプリングスティーン]]、映画『[[イージー・ライダー]]』、そして[[ジョン・フォード]]の監督作品、とりわけ『[[荒野の決闘]]』を挙げている<ref name="cut">{{cite journal|和書|title=さよなら、20世紀|journal=[[Cut (雑誌)|Cut]]|publisher=[[ロッキング・オン]]|month=1|year=2001|page=64-81}}</ref>。そのほかに、[[エーリッヒ・フロム]]の『[[自由からの逃走]]』、[[ノーマン・メイラー]]の『[[裸者と死者]]』、[[デヴィッド・リースマン]]の『[[孤独な群衆]]』、フリッツ・パペンハイムの『''The Alienation of Modern Man''』といった本からも影響を受けたと述べている<ref name="cut"/>。 |
: 20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、[[ブルース・スプリングスティーン]]、映画『[[イージー・ライダー]]』、そして[[ジョン・フォード]]の監督作品、とりわけ[[ヘンリー・フォンダ]]主演『[[荒野の決闘]]』を挙げている<ref name="cut">{{cite journal|和書|title=さよなら、20世紀|journal=[[Cut (雑誌)|Cut]]|publisher=[[ロッキング・オン]]|month=1|year=2001|page=64-81}}</ref>。そのほかに、[[エーリッヒ・フロム]]の『[[自由からの逃走]]』、[[ノーマン・メイラー]]の『[[裸者と死者]]』、[[デヴィッド・リースマン]]の『[[孤独な群衆]]』、フリッツ・パペンハイムの『''The Alienation of Modern Man''』といった本からも影響を受けたと述べている<ref name="cut"/>。 |
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== 自身の映画論 == |
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=== 映像について === |
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; 黒澤明 |
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: 現代劇は時代劇と比べて色褪せやすく、その寿命は30年ほどであるとしているが、その年月を過ぎても見る価値のある名作の一本に[[黒澤明]]の[[生きる (映画)|生きる]]を挙げ、役所に勤める主人公の渡辺課長が大量の書類に囲まれて作業的にハンコを押す1カットを特に絶賛しており、「この1カットだけで、この男が何十年も生きながら生きていない、ただ言われるがままにハンコを押しているだけのお役所仕事をしている男ということがわかり、かつ、この作品が名作、それも一人の映画監督が何十年に一本しか取れない名画、たったこの1カットだけでその監督の品格までも分かる名カット」と評しており、名画は途中から見ても、1カット見ただけで分かると持論を展開し、[[ロシア]]の[[アンドレイ・タルコフスキー]]の[[ストーカー (1979年の映画)|ストーカー]]も同様の理由で絶賛した(「生きる」LDの宮崎解説より)<ref>黒澤明―生誕100年総特集 (KAWADE夢ムック 文藝別冊) ムック – 2010/1/1 {{ISBN2|4309977308}} にも収録されている</ref>。 |
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; ルイ・マル |
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: [[ジャン=リュック・ゴダール]]や[[フランソワ・トリュフォー]]同じく[[フランス映画]]の[[ヌーヴェルヴァーグ]]を代表する[[ルイ・マル]]([[死刑台のエレベーター]]や[[鬼火 (1963年の映画)|鬼火]]でしられる)を敬愛しており、[[さよなら子供たち]]公開時には劇場パンフレットに[[山田宏一]]や[[辻邦生]]、[[黒田邦雄]]、[[スタンリー・ホフマン]]らと共に、宮崎は同作の評やマル論などを書いており、この宮崎評なども高く評価されている<ref>[[狩野良規]]「続[[ヨーロッパ]]を知る50の映画」 発売日 2014/09/17判型 四六判 ISBN 978-4-336-05784-6<nowiki/>ページ数 386 頁 Cコード 0074 217p-222p, 354p</ref>。 |
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=== 他者などの指摘 === |
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; 鈴木敏夫 |
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: 鈴木は宮崎に影響を与えた、日本映画の大きな流れとして、「[[黒澤明]]の強さ、[[木下恵介]]の弱さ」と、そして「[[内田吐夢]]作品の祝福されてこずに生まれた者の業」「抑えきれない怒りなどの衝動」を指摘し、内田作品の宮崎への影響として、「ナウシカ」で父を殺されたナウシカの怒りなどを挙げ、特に宮崎が好きな作品として[[たそがれ酒場]]を挙げ、また宮崎が[[山中貞雄]]作品[[河内山宗俊]](1936年)をテレビで見て衝撃&感動を受けた様子などを著書「映画道楽」([[ぴあ]](2005/4/1)。{{ISBN2|4835615409}})に書き記した<ref>文庫版は、映画道楽 ([[角川文庫]]) 文庫 – 2012/11/22。{{ISBN2|4041005663}}</ref>。また宮崎と鈴木はヘンリー・フォンダ主演の[[テキサスの五人の仲間]]が大好きである<ref>https://thetv.jp/news/detail/62358/ 鈴木「ちょっと大げさかもしれないけど、僕と宮崎駿が一緒に仕事をするきっかけになったと言ってもいい映画なんですよね」と懐かしそうに語った。」</ref>。1970年前半ころから映画やテレビを見る習慣を無くしており、宮崎いわく「映画を見てるよりも街を歩いている方が大切」といい、鈴木いわく「宮さんは未だに(2008年当時)[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]([[フランシス・フォード・コッポラ]]監督)すら見てませんから」とのこと<ref>ジブリの森とポニョの海 宮崎駿と「崖の上のポニョ」 単行本 – 2008/8/9 出版社:角川グループパブリッシング (2008/8/9) {{ISBN2|4048542257}}</ref> |
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; 押井守 |
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: 前述のように手塚治虫は漫画家としては尊敬していても、アニメ制作者として批判し、[[リミテッドアニメ]]や虫プロ関連は批判しており嫌いだが、例外が[[富野由悠季]](代表作は[[海のトリトン]]や[[機動戦士ガンダム]]、[[伝説巨神イデオン]])であり、押井いわく「宮さんと富野さんは仲良しでさ、たまに電話して話してるんだ」「宮さんは虫プロは大嫌いだけど、富野さんだけは例外で好きで、富野さんは苦労人だから、そこも気に入ってる」と評し、しかし富野だけが例外であり、手塚アニメや虫プロ関係者は嫌っており、特に[[出崎統]]は痛烈に批判している{{Efn2|ただしアニメーターの遠藤正明は宮崎が出崎を嫌っていたという逸話について否定している<ref>{{Cite tweet|user=T35endou|number= 1701367010452820147 |title=遠藤正明のポスト|date=2023-09-12|accessdate=2023-09-12}}</ref>。}}。またリミテッドアニメについて押井は「宮さんはリミテッドアニメ嫌いだけど、日本アニメはリミテッドアニメで進化した」と評している<ref>押井守の映画50年50本 (立東舎) 単行本 – 2020/8/12 {{ISBN2|4845634449}}。出崎「[[あしたのジョー2]]」や冨野「[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]」</ref>。 |
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; 北爪宏幸 |
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: 自身が関わることの多かった富野由悠季と比較して、作画視点でのアニメーションは素晴らしく完成度が高いが、登場人物の葛藤や確執と言った、映像面では描きにくい深層心理の描写は思いの外少なく、富野由悠季とは対極の位置にいる存在であると述べている<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P42</ref>。 |
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=== お気に入りの作品 === |
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* イギリスのウェブサイトが報じた宮崎のお気に入り映画10選 |
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[[ジョーズ]](1975年) |
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荒野の決闘(1946年) |
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[[ミツバチのささやき]](1973年) |
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河内山宗俊(1936年) |
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[[雪の女王]](1957年) |
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[[灰とダイヤモンド]](1958年) |
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[[誓いの休暇]](1959年) |
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[[七人の侍]](1954年) |
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[[やぶにらみの暴君]]([[王と鳥]])(1952年) |
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[[血煙高田の馬場]](1937年) |
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[[FAR OUT]]より<ref>https://faroutmagazine.co.uk/hayao-miyazaki-10-favourite-films/</ref> |
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}} |
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== 評価 == |
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=== 幾原邦彦 === |
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アニメーション監督で音楽プロデューサーの[[幾原邦彦]]は、宮崎駿の人間性について、同年代の富野由悠季と類似した部分があると前置きした上で、若手に対する強迫観念があり、有能な若手アニメーターの手腕は評価するが、演出については酷評している点に注目して、監督として一番欲しいのは従順で腕のいいアニメーターであり、才能ある若手の演出力とその台頭を恐れていると指摘している<ref>『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』、1993年12月30日発行、庵野秀明・編、ハッピー興行新社、P77</ref>。 |
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== 作品 == |
== 作品 == |
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358行目: | 471行目: | ||
|[[3月18日]] |
|[[3月18日]] |
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|[[長靴猫シリーズ|長靴をはいた猫]] |
|[[長靴猫シリーズ|長靴をはいた猫]] |
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|原画 |
| rowspan="2" |原画 |
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|- |
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|[[7月20日]] |
|[[7月20日]] |
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|[[空飛ぶゆうれい船]] |
|[[空飛ぶゆうれい船]] |
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|原画 |
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|- |
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|rowspan="2"|[[1971年]] |
|rowspan="2"|[[1971年]] |
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394行目: | 506行目: | ||
|[[コブラ (アニメ)|SPACE ADVENTURE コブラ]] |
|[[コブラ (アニメ)|SPACE ADVENTURE コブラ]] |
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|東京ムービー新社<br />([[東宝東和]]) |
|東京ムービー新社<br />([[東宝東和]]) |
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|原画(ノンクレジット)<ref>「保存版 熱烈再見第2シリーズ3 宮崎駿完全作品リスト ―『わんわん忠臣蔵』から『トトロ』まで」『アニメージュ』1988年2月号、徳間書店、p.71</ref> |
|原画(ノンクレジット)<ref>「保存版 熱烈再見第2シリーズ3 宮崎駿完全作品リスト ―『わんわん忠臣蔵』から『トトロ』まで」『アニメージュ』1988年2月号、徳間書店、p.71</ref>{{efn2|当時、テレコム・アニメーションフィルム所属だったアニメーターの遠藤正明によると担当カットは「コブラがエアカーで脱出するシーン」の「装甲車の砲塔上で兵士が射撃する所」とのこと<ref>[https://twitter.com/T35endou/status/1701360645646712953 遠藤正明X](2023年9月12日)2023年9月24日閲覧</ref>。}} |
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|[[1984年]] |
|[[1984年]] |
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501行目: | 613行目: | ||
|[[2009年]] |
|[[2009年]] |
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|[[3月14日]] |
|[[3月14日]] |
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|'''[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世 1st.TVシリーズ]] |
|'''[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世 1st.TVシリーズ]]''' |
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|トムス・エンタテインメント |
|トムス・エンタテインメント |
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(三鷹の森ジブリ美術館) |
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※[https://www.ghibli-museum.jp/lupin/theater/005653.html 特別上映] |
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|'''監督([[高畑勲]]と共同)''' |
|'''監督([[高畑勲]]と共同)''' |
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513行目: | 627行目: | ||
|7月17日 |
|7月17日 |
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|[[借りぐらしのアリエッティ]] |
|[[借りぐらしのアリエッティ]] |
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|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・ジャパン<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />ディーライツ<br /> |
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・ジャパン<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />ディーライツ<br />ワイルドバンチ<br />(東宝) |
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|企画<br />脚本([[丹羽圭子]]と共同)<br />美術設定 |
|企画<br />脚本([[丹羽圭子]]と共同)<br />美術設定 |
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526行目: | 640行目: | ||
|'''[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]''' |
|'''[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]''' |
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|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・ジャパン<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />ディーライツ<br />[[KDDI]]<br />(東宝) |
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・ジャパン<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />ディーライツ<br />[[KDDI]]<br />(東宝) |
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|原作<br />脚本<br />'''監督''' |
| rowspan="2" |原作<br />脚本<br />'''監督''' |
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|[[2023年]] |
|[[2023年]] |
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532行目: | 646行目: | ||
|'''[[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]]''' |
|'''[[君たちはどう生きるか (映画)|君たちはどう生きるか]]''' |
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|スタジオジブリ |
|スタジオジブリ |
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|原作<br />脚本<br />'''監督''' |
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|} |
|} |
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|[[1977年]] |
|[[1977年]] |
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|[[4月23日]] |
|[[4月23日]] |
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|草原の子テングリ |
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|[[雪印乳業]]<br />[[桜映画社]]<br />[[シンエイ動画]] |
|[[雪印乳業]]<br />[[桜映画社]]<br />[[シンエイ動画]] |
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|1973年[[3月2日]]||1973年[[9月28日]] |
|1973年[[3月2日]]||1973年[[9月28日]] |
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|[[ジャングル黒べえ]]||[[ |
|[[ジャングル黒べえ]]||[[毎日放送]]<br />トムス・エンタテインメント||キャラクター原案||全話 |
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|1973年[[10月7日]]||[[1974年]][[9月29日]] |
|1973年[[10月7日]]||[[1974年]][[9月29日]] |
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* [[どうぶつ宝島]] ※以上は初期作品 |
* [[どうぶつ宝島]] ※以上は初期作品 |
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* 妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む) |
* 妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む) |
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* [[風の谷のナウシカ]](全7巻 |
* [[風の谷のナウシカ]](全7巻)※第23回[[日本漫画家協会賞]]大賞受賞 |
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* [[シュナの旅]] 徳間書店[[アニメージュ]]文庫{{efn2|原話は、[[君島久子]]の書いた[[チベット]]の民話「[[犬になった王子]]」、[[岩波書店]]。}} |
* [[シュナの旅]] 徳間書店[[アニメージュ]]文庫{{efn2|原話は、[[君島久子]]の書いた[[チベット]]の民話「[[犬になった王子]]」、[[岩波書店]]。}}※アイズナー賞最優秀アジア作品(Best U.S. Edition of International Material—Asia)受賞 |
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* 駆けろ二馬力 風より疾く(『[[NAVI]]』1989年12月号、『[[CAR GRAPHIC]]』2010年8月号、各[[二玄社]]) |
* 駆けろ二馬力 風より疾く(『[[NAVI]]』1989年12月号、『[[CAR GRAPHIC]]』2010年8月号、各[[二玄社]]) |
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* 空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む) |
* 空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む) |
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* [[神奈川県]]「[[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]]」のマスコットキャラクター「'''かなべえ'''」 |
* [[神奈川県]]「[[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]]」のマスコットキャラクター「'''かなべえ'''」 |
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* [[三鷹の森ジブリ美術館]] |
* [[三鷹の森ジブリ美術館]] |
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** 「[[幽霊塔]]へようこそ展 通俗文化の王道」 展示漫画描き下ろし<ref>{{ |
** 「[[幽霊塔]]へようこそ展 通俗文化の王道」 展示漫画描き下ろし<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20150405/8/|title=宮崎駿が紐解く江戸川乱歩の世界 新企画「幽霊塔へようこそ展」5月から開催|publisher=映画.com|date=2015-04-05|accessdate=2015-04-08}}</ref> |
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* [[三鷹市]]のみたかモールのマスコットキャラクター「'''POKI'''」 |
* [[三鷹市]]のみたかモールのマスコットキャラクター「'''POKI'''」 |
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* [[江戸東京たてもの園]]のシンボルキャラクター「'''えどまる'''」 |
* [[江戸東京たてもの園]]のシンボルキャラクター「'''えどまる'''」 |
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* 崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店) |
* 崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店) |
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* 風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店) |
* 風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店) |
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* 君たちはどう生きるか スタジオジブリ絵コンテ全集23(徳間書店) |
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=== テレビアニメーション === |
=== テレビアニメーション === |
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: 大学時代の子供向け人形劇用の脚本。舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。上演は実現しなかった<ref>{{Cite book |和書|title=映画天空のラピュタGUIDEBOOK |publisher=徳間書店 |date=1986 |page=79}}</ref>。 |
: 大学時代の子供向け人形劇用の脚本。舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。上演は実現しなかった<ref>{{Cite book |和書|title=映画天空のラピュタGUIDEBOOK |publisher=徳間書店 |date=1986 |page=79}}</ref>。 |
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; [[長くつ下のピッピ]] |
; [[長くつ下のピッピ]] |
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: 1971年頃、[[アストリッド・リンドグレーン]]原作の児童文学作品<ref>「本書について」高畑勲・宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、p.2</ref>。企画した東京ムービー社長の[[藤岡豊]]自らスウェーデンに赴いて原作者から映画化の承諾を得ようとしたが、面会できずに頓挫する<ref name="pippip64">宮崎駿「『魔女の宅急便』のコリコの町は、『ピッピ』のロケハンで訪ねたヴィズビーが参考になっています。」高畑勲・宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、pp.64 - 72</ref>。このとき、宮崎はロケハンの目的で藤岡に同行し、現地で見た風景や家屋をもとに帰国後にイメージボードを描いている<ref name="pippip64"/>。そのイメージは後に『[[パンダコパンダ]]』や『[[魔女の宅急便]]』で活かされているほか<ref name="pippip64"/>、『アルプスの少女ハイジ』のオープニングに登場するブランコは、本作で用意した設定の流用である<ref>『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、p.27</ref>。残った制作資料は、子息である宮崎吾朗が『[[山賊のむすめローニャ]]』をアニメ化した際に原作者(の著作権継承者)サイドの許諾が下りて、『幻の「長くつ下のピッピ」』(岩波書店、2014年10月、高畑勲・小田部羊一共著)として刊行され<ref name="pippip147">鈴木敏夫「本書の企画者より 30年越しの胸のつかえ」高畑勲・宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、pp.147 - 149</ref>、宮崎によるイメージとストーリーボードおよびインタビューが掲載されている。また、鈴木敏夫によると、スタジオジブリ設立後も宮崎と何度もアニメ映画化について相談したが結局実現せず、リンドグレーンの没後に著作権継承者からジブリにオファーがあったときには宮崎は「遅すぎる」「時機を逸してしまった」と述べたという<ref name="pippip147"/>。 |
: 1971年頃、[[アストリッド・リンドグレーン]]原作の児童文学作品<ref>「本書について」高畑勲・宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、p.2</ref>。企画した東京ムービー社長の[[藤岡豊]]自らスウェーデンに赴いて原作者から映画化の承諾を得ようとしたが、面会できずに頓挫する<ref name="pippip64">宮崎駿「『魔女の宅急便』のコリコの町は、『ピッピ』のロケハンで訪ねたヴィズビーが参考になっています。」高畑勲・宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、pp.64 - 72</ref>。このとき、宮崎はロケハンの目的で藤岡に同行し、現地で見た風景や家屋をもとに帰国後にイメージボードを描いている<ref name="pippip64"/>。そのイメージは後に『[[パンダコパンダ]]』や『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』で活かされているほか<ref name="pippip64"/>、『アルプスの少女ハイジ』のオープニングに登場するブランコは、本作で用意した設定の流用である<ref>『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、p.27</ref>。残った制作資料は、子息である宮崎吾朗が『[[山賊のむすめローニャ]]』をアニメ化した際に原作者(の著作権継承者)サイドの許諾が下りて、『幻の「長くつ下のピッピ」』(岩波書店、2014年10月、高畑勲・小田部羊一共著)として刊行され<ref name="pippip147">鈴木敏夫「本書の企画者より 30年越しの胸のつかえ」高畑勲・宮崎駿・小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、pp.147 - 149</ref>、宮崎によるイメージとストーリーボードおよびインタビューが掲載されている。また、鈴木敏夫によると、スタジオジブリ設立後も宮崎と何度もアニメ映画化について相談したが結局実現せず、リンドグレーンの没後に著作権継承者からジブリにオファーがあったときには宮崎は「遅すぎる」「時機を逸してしまった」と述べたという<ref name="pippip147"/>。 |
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;頭の上のチッカとボッカ |
; 頭の上のチッカとボッカ |
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:Aプロダクション在籍中の1973年頃に[[楠部三吉郎]]とともに企画したテレビアニメ<ref name="kusube">楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』小学館、2014年、pp.182 - 186</ref>。[[コロポックル]]を主人公とし、彼らが人間のものを「狩猟」と称して勝手に持ち出すストーリーで、キャラクターもデザインした<ref name="kusube"/>。[[毎日放送]]に楠部が持ち込んで好感を得るも、宮崎が当時は無名だった点に難色を示され、楠部が[[藤子 |
: Aプロダクション在籍中の1973年頃に[[楠部三吉郎]]とともに企画したテレビアニメ<ref name="kusube">楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』小学館、2014年、pp.182 - 186</ref>。[[コロポックル]]を主人公とし、彼らが人間のものを「狩猟」と称して勝手に持ち出すストーリーで、キャラクターもデザインした<ref name="kusube"/>。[[毎日放送]]に楠部が持ち込んで好感を得るも、宮崎が当時は無名だった点に難色を示され作品化は実現しなかった。その後、企画は形を変え、楠部が[[藤子不二雄]](ここでは藤本弘を指す。藤本は後の[[藤子・F・不二雄]])を原作にするという修正案を出したことで『[[ジャングル黒べえ]]』として作品化が実現した。宮崎が作ったキャラクター等は使用されなかった<ref name="kusube"/>。 |
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; ユキの太陽 |
; ユキの太陽 |
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: [[ちばてつや]]の漫画。パイロットフィルムのみ製作された(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)。 |
: [[ちばてつや]]の漫画。パイロットフィルムのみ製作された(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)。 |
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: 1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。 |
: 1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。 |
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; [[NEMO/ニモ|NEMO]] |
; [[NEMO/ニモ|NEMO]] |
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: 1981-1982年、[[ウィンザー・マッケイ]]原作の『[[リトル・ニモ]]』の企画に[[テレコム・アニメーションフィルム]]のスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。 |
: 1981年 - 1982年、[[ウィンザー・マッケイ]]原作の『[[リトル・ニモ]]』の企画に[[テレコム・アニメーションフィルム]]のスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。 |
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; 風の谷の一日 |
; 風の谷の一日 |
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: 1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。 |
: 1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。 |
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=== 短編映画 === |
=== 短編映画 === |
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* もののけ姫 in U.S.A.(スタジオジブリ、2000年4月29日公開) |
* もののけ姫 in U.S.A.(スタジオジブリ、2000年4月29日公開) |
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* オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(スタジオジブリ、2002年10月2日公開)<ref>{{Cite web |
* オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(スタジオジブリ、2002年10月2日公開)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ghibli-freak.net/ghibli_museum/hiyoten.html |title=オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号 <nowiki>[</nowiki>空想の空とぶ機械達<nowiki>]</nowiki> <nowiki>[</nowiki>TOPに戻る<nowiki>]</nowiki> <nowiki>[</nowiki>上映作品一覧に戻る<nowiki>]</nowiki> <nowiki>[</nowiki>空想の機械達の中の破壊の発明<nowiki>]</nowiki> |website=ジブリフリーク |accessdate=2021-08-27}}</ref> |
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=== テレビ特集 === |
=== テレビ特集 === |
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* 「NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎 駿×宮崎吾朗〜」(NHK、2011年8月放送)-『コクリコ坂から』の創作現場密着ドキュメンタリー |
* 「NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎 駿×宮崎吾朗〜」(NHK、2011年8月放送)-『コクリコ坂から』の創作現場密着ドキュメンタリー |
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* [[NHKスペシャル]]「終わらない人 宮﨑駿」(NHK、2016年11月13日放送)-『毛虫のボロ』の創作現場密着ドキュメンタリー |
* [[NHKスペシャル]]「終わらない人 宮﨑駿」(NHK、2016年11月13日放送)-『毛虫のボロ』の創作現場密着ドキュメンタリー |
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* [[BS1スペシャル]]「さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜」([[NHK BS1|BS1]]、2021年4月29日放送)<ref>{{Cite web |
* [[BS1スペシャル]]「さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜」([[NHK BS1|BS1]]、2021年4月29日放送)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10347 |title=さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜 |date=2021-04-16 |publisher=NHK |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210416080042/https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=10347 |archivedate=2021-04-16 |accessdate=2021-05-02}}</ref> |
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* プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル「ジブリと宮﨑駿の2399日」(NHK、2023年12月16日放送)-『君たちはどう生きるか』の創作現場密着ドキュメンタリー<ref>{{Cite web |title=明日12/16のNHK総合「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、「ジブリと宮崎駿の2399日」が放送されます - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI |url=https://www.ghibli.jp/info/013801/ |website=www.ghibli.jp |access-date=2023-12-20 |language=ja |first=Shinichi |last=Takai}}</ref> |
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== 受賞歴 == |
== 受賞歴 == |
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|1986年||[[大藤信郎賞]]||『[[天空の城ラピュタ]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web |
|1986年||[[大藤信郎賞]]||『[[天空の城ラピュタ]]』||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/041.html |title=毎日映画コンクール 第41回(1986年) | website=[[毎日新聞]] |accessdate=2020-08-08}}</ref> |
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|2014年||全興連特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zenkoren.or.jp/zenkoren/goldengross/32_goldengross/ |title=第32回ゴールデングロス賞受賞作品 | website=全国興業生活衛生同業組合連合会 |accessdate=2020-08-11}}</ref> |
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!style="text-align:left"|[[アヌシー国際アニメーション映画祭]] |
!style="text-align:left"|[[アヌシー国際アニメーション映画祭]] |
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|1993年||長編部門グランプリ||『紅の豚』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.annecy.org/a-propos/archives/1993/palmares |title=Palmarès 1993 |website=annecy.org |language=フランス語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
|1993年||長編部門クリスタル賞(グランプリ)||『紅の豚』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.annecy.org/a-propos/archives/1993/palmares |title=Palmarès 1993 |website=annecy.org |language=フランス語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
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!style="text-align:left"|[[日本漫画家協会賞]] |
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|rowspan="2"|[[第25回日本アカデミー賞|2001年]]||作品賞||『千と千尋の神隠し』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |
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|会長功労賞||style="text-align:center"|-||{{won}} |
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|[[第32回日本アカデミー賞|2008年]]||[[日本アカデミー賞アニメーション作品賞|アニメーション作品賞]]||『崖の上のポニョ』||{{won}}||<ref>{{Cite web |
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|1997年||部門賞・演出部門||style="text-align:center"|-||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.anime-kobe.jp/archive/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151106004626/http://www.anime-kobe.jp/archive/index.html |archivedate=2015-11-16|title=アーカイブ 第1回〜第10回 |website=アニメーション神戸 |accessdate=2020-08-11}}</ref> |
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|2001年||作品賞・劇場部門||『千と千尋の神隠し』||{{won}} |
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!style="text-align:left"|[[川喜多賞]] |
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|[[第75回アカデミー賞| |
|[[第75回アカデミー賞|2003年]]||[[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメーション映画賞]]||『千と千尋の神隠し』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/2003 |title=THE 75TH ACADEMY AWARDS | 2002 | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
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|[[第78回アカデミー賞|2005年]]||長編アニメーション映画賞||『ハウルの動く城』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/2006 |title=THE 78TH ACADEMY AWARDS | 2006 | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
|[[第78回アカデミー賞|2005年]]||長編アニメーション映画賞||『ハウルの動く城』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/2006 |title=THE 78TH ACADEMY AWARDS | 2006 | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
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|[[第86回アカデミー賞|2013年]]||長編アニメーション映画賞||『風立ちぬ』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/2014 |title=THE 78TH ACADEMY AWARDS | 2014 | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
|[[第86回アカデミー賞|2013年]]||長編アニメーション映画賞||『風立ちぬ』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/2014 |title=THE 78TH ACADEMY AWARDS | 2014 | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
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|[[第87回アカデミー賞| |
|[[第87回アカデミー賞|2015年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.oscars.org/governors/honorary |title=HONORARY AWARD | website=Oscars.org |language=英語 |accessdate=2020年8月11日}}</ref> |
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|[[第96回アカデミー賞|2024年]]||長編アニメーション映画賞||『君たちはどう生きるか』||{{won}}||<ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/2024|title=THE 96TH ACADEMY AWARDS / 2024|website=Oscars.org|publisher=AMPAS|date=2024-03-11|accessdate=2024-03-11|language=en}}</ref> |
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!rowspan="3" style="text-align:left"|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |
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!style="text-align:left"|[[ネビュラ賞]] |
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|2007年||ス |
|2007年||スクリプト部門||『ハウルの動く城』||{{won}}|| |
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!style="text-align:left"|[[インクポット賞]] |
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|2009年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |
|2009年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|date=2010-07-30|url=https://natalie.mu/comic/news/35407 |title=萩尾望都が米コミコンで講演、インクポット賞を受賞 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]] |accessdate=2019-10-27}}</ref> |
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!style="text-align:left"|[[バークレー日本賞]] |
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|2009年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}|| |
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!style="text-align:left"|[[アイズナー賞]] |
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|2014年||漫画家の殿堂||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |
|2014年||漫画家の殿堂||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0065375 |title=宮崎駿「漫画のアカデミー賞」で殿堂入り!日本人5人目 |website=シネマトゥデイ |accessdate=2019-04-20}}</ref> |
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|2023年 |
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|最優秀アジア作品(Best U.S. Edition of International Material—Asia) |
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|『[[シュナの旅]]』||{{won}} |
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|2023年 |
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|[[ゴールデングローブ賞 アニメ映画賞|最優秀アニメーション映画賞]]||『[[君たちはどう生きるか]]』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=https://www.oricon.co.jp/news/2309734/ |title=宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』「第81回ゴールデングローブ賞」最優秀アニメ映画賞受賞 |date=2024-01-08|accessdate=2024-01-19|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン]]}}</ref> |
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!style="text-align:left"|[[マグサイサイ賞]] |
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|2024年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}|| |
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== 注 |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 出典 == |
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|title=「野中くん発 ジブリだより」2021年2月号 |
|title=「野中くん発 ジブリだより」2021年2月号 |
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}} |
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== 参考文献 == |
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<!-- 本記事の出典として実際に使われている文献名のみを記入して下さい。出典でない文献を載せたいときは「関連文献」節にご記入下さい。 --> |
<!-- 本記事の出典として実際に使われている文献名のみを記入して下さい。出典でない文献を載せたいときは「関連文献」節にご記入下さい。 --> |
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* {{Cite journal |和書 |url= |
* {{Cite journal |和書 |url=https://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf |format=PDF |journal=熱風 |volume=2013年7月号 |date=2013|title=特集 憲法改正 |publisher=スタジオジブリ出版部 |ref={{SfnRef|スタジオジブリ出版部|2013}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=宮崎駿 |editor=スタジオジブリ |title=出発点 1979〜1996 |publisher=スタジオジブリ |date=1996 |isbn=4198605416 |ref={{SfnRef|宮崎|1996}} }} |
* {{Cite book |和書 |author=宮崎駿 |editor=スタジオジブリ |title=出発点 1979〜1996 |publisher=スタジオジブリ |date=1996 |isbn=4198605416 |ref={{SfnRef|宮崎|1996}} }} |
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* [[高畑勲]] |
* [[高畑勲]] |
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** 『映画を作りながら考えたこと』([[徳間書店]]、1991年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2014年)、{{ISBN2|4-16-812203-4}} |
** 『映画を作りながら考えたこと』([[徳間書店]]、1991年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2014年)、{{ISBN2|4-16-812203-4}} |
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** 『映画を作りながら考えたことII 1991〜1999』( |
** 『映画を作りながら考えたことII 1991〜1999』(徳間書店、1999年)、{{ISBN2|4-19-861047-9}} |
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* [[大塚康生]] |
* [[大塚康生]] |
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** 『作画汗まみれ』(徳間書店(増補版)、2001年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2013年)、{{ISBN2|4-16-812200-X}} |
** 『作画汗まみれ』(徳間書店(増補版)、2001年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2013年)、{{ISBN2|4-16-812200-X}} |
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** 『リトル・ニモの野望』( |
** 『リトル・ニモの野望』(徳間書店、2004年)、{{ISBN2|4-19-861890-9}} |
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* [[大泉実成]]『宮崎駿の原点 母と子の物語』([[潮出版社]]、2002年)、{{ISBN2|4-267-01653-4}} |
* [[大泉実成]]『宮崎駿の原点 母と子の物語』([[潮出版社]]、2002年)、{{ISBN2|4-267-01653-4}} |
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* [[尾形英夫]]『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』([[オークラ出版]]、2004年)、{{ISBN2|4-7755-0480-0}} |
* [[尾形英夫]]『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』([[オークラ出版]]、2004年)、{{ISBN2|4-7755-0480-0}} |
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* [[鈴木敏夫]] |
* [[鈴木敏夫]] |
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** 『映画道楽』([[ぴあ]]、2005年/角川文庫、2012年)、{{ISBN2|4-04-100566-3}} |
** 『映画道楽』([[ぴあ]]、2005年/[[角川文庫]]、2012年)、{{ISBN2|4-04-100566-3}} |
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** 『仕事道楽 スタジオジブリの現場』([[岩波新書]]、2008年、新版2014年)、{{ISBN2|4-00-431486-0}} |
** 『仕事道楽 スタジオジブリの現場』([[岩波新書]]、2008年、新版2014年)、{{ISBN2|4-00-431486-0}} |
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** 『ジブリの仲間たち』([[新潮新書]]、2016年)、{{ISBN2|4-10-610674-4}} |
** 『ジブリの仲間たち』([[新潮新書]]、2016年)、{{ISBN2|4-10-610674-4}} |
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** 『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』([[文春新書]]、2019年)、{{ISBN2|4-16-661216-6}} |
** 『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』([[文春新書]]、2019年)、{{ISBN2|4-16-661216-6}} |
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* [[叶精二]]『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、{{ISBN2|4-8459-0687-2}} |
* [[叶精二]]『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、{{ISBN2|4-8459-0687-2}} |
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* スーザン・ネイピア『ミヤザキワールド‐宮崎駿の闇と光‐』 |
* スーザン・ネイピア『ミヤザキワールド‐宮崎駿の闇と光‐』仲達志訳([[早川書房]]、2019年11月)、 {{ISBN2|978-4-15-209892-4}} |
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* ステファヌ・ルルー『シネアスト宮崎駿 |
* ステファヌ・ルルー『シネアスト宮崎駿 奇異なもののポエジー』岡村民夫訳([[みすず書房]]、2020年10月)、{{ISBN2|978-4-622-08894-3}} |
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* [[三浦雅士]]『スタジオジブリの想像力 地平線とは何か』(講談社、2021年8月){{ISBN2|978-4-06-524132-5}} |
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=== ビデオ === |
=== ビデオ === |
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* {{imdb name|id=0594503|name=Hayao Miyazaki}} |
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[[Category:学習院大学出身の人物]] |
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[[Category:1941年生]] |
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2024年12月18日 (水) 07:37時点における最新版
みやざき はやお 宮崎 駿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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別名義 |
秋津 三朗(あきつ さぶろう) 照樹 務(てるき つとむ または てれこむ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1941年1月5日(83歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | 日本 東京府東京市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
血液型 | O型[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
職業 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル |
テレビアニメ アニメーション映画 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1963年 - | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 | 宮崎朱美(妻) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
著名な家族 |
初代宮崎富次郎(祖父) 宮崎勝次(父) 2代目宮崎富次郎(伯父) 宮崎富夫(従甥) 大田耕士(義父) 宮崎至朗(弟)[注 1] 宮崎吾朗(長男) 宮崎敬介(二男) 堤大介(義甥) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
事務所 | スタジオジブリ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
公式サイト | スタジオジブリ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アニメーション映画
テレビアニメ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
宮崎 駿(宮﨑 駿、みやざき はやお、1941年〈昭和16年〉1月5日 - )は、日本のアニメ監督、アニメーター。株式会社スタジオジブリ取締役、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)名誉館主(初代館主)[4]。
1963年に東映動画にアニメーターとして入社。その後いくつかの会社を経てフリーとなり、その間にテレビアニメ『未来少年コナン』、初の劇場用アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』で頭角を現した。
1984年に個人事務所の二馬力を設立し、翌年に高畑勲らとアニメーション制作会社スタジオジブリの設立に参加(2005年に同社取締役に就任)。以後『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』などの劇場用アニメーションを監督し、『千と千尋の神隠し』でベルリン国際映画祭金熊賞とアカデミー長編アニメ映画賞、『君たちはどう生きるか』でアカデミー長編アニメ映画賞、英国アカデミー賞 アニメ映画賞を受賞した。2014年には日本人で2人目のアカデミー名誉賞を受賞した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]数千人の従業員を擁した一族が経営する宮崎航空興学の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に東京市文京区で生まれた。父は東洋ラジエーター(現:ティラド)元常務取締役の宮崎勝次[5]。比較的裕福な暮らしをしていたという。
太平洋戦争が始まり、宮崎航空機製作所が宇都宮に移転したこともあり、幼児期に家族で宇都宮に疎開し、小学校3年生まで暮らしていた[注 2]。1947年、母親が結核を発症し、以後9年間にわたり寝たきりの状態となる[7][8][注 3]。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。
幼少時は身体が弱く、医者からは20歳まで生きられないと言われており、これは後の創作に影響を与えたと言う[9]。運動は苦手で丸眼鏡だったため、学校では冷やかされることが多かったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。
少年時代は、親戚が営む老舗旅館である元湯・陣屋の庭を遊び場にしていた[10][11]。
学生時代
[編集]進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中、高校3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し[12]、アニメーションにも関心を持つようになる。学生時代に、中学の恩師・佐藤文雄のアトリエでデッサンを独学で学び、ポール・セザンヌのような印象派に影響されている[13]。
学習院大学に進学後、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志していたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する[14]。
東映動画時代
[編集]学習院大学を卒業後、東映動画にアニメーターとして入社する。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け[15]、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。
そして、入社間もない宮崎は『ガリバーの宇宙旅行』のラストシーンを変更し、原画も担当するなど、早くから才能を現した。大塚康生は「あ、これはぼくより沢山絵を描いている」と感じたという[16]。
結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。そして、1965年に制作が開始した『太陽の王子 ホルスの大冒険』に参加する。まだ、新人で原画に昇格したばかりの宮崎は高畑勲の脚本作りを手伝ったり、場面のイメージボードを提出したりして、作品の完成度に貢献した。そのため、入社5年目で「場面設計」というメインスタッフのクレジットを与えられた。また、宮崎は本作に原画としても貢献し、森康二・大塚康生・小田部羊一らと共に途中中断期間を挟んで、3年がかりで作画を完了し、なんとか公開させた。
1965年秋には、東映動画の同僚で、アニメーターの大田朱美と24歳で結婚し、その後2人の男児をもうける。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』の後は、『長靴をはいた猫』『空飛ぶゆうれい船』などで原画を描いた後、最後の長編『どうぶつ宝島』にてアイデア構成と原画を担当する。しかし、『どうぶつ宝島』が興業的に失敗したことから、これまでのような長編は作れないという気分が宮崎たちの間に広がった。
Aプロダクション時代
[編集]1971年、30歳になった宮崎は、高畑勲、小田部羊一と共に東映動画を退社し、新企画『長くつ下のピッピ』を制作するためにAプロダクションに移籍する。 原作者(アストリッド・リンドグレーン)との交渉に向かう藤岡豊(東京ムービー社長)に同行する形で宮崎はスウェーデンにロケハンに赴き、その経験を生かして大量のイメージボードを描いていたが、原作者の許諾を得られず企画は立ち消えになってしまう。
その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『ルパン三世』での初めて演出の仕事を引き受ける(高畑と共同。名義上はAプロダクション演出グループ)。スケジュールが逼迫しており、演出の宮崎が原画も大量に描かなければならなかった。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた。
その後宮崎は、1972年に『パンダコパンダ』、翌1973年に『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』に参加。原案・脚本・美術設定・画面構成、原画を担当。本作は『長くつ下のピッピ』でやろうとしていたアイデアを活用している。
日本アニメーション時代
[編集]『パンダコパンダ』制作後は、高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入り、宮崎は全話数全カットの場面設定・画面構成を担当。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。
その後も『ハイジ』の1年後、1976年に『母をたずねて三千里』でも宮崎は全話数全カットの場面設定・レイアウトを担当。さらに、2話の原画も担当している。この宮崎による『ハイジ』『三千里』における前代未聞の仕事量は現在でも伝説的に語り継がれている。
未来少年コナンで初監督
[編集]1978年、37歳の宮崎は、『三千里』終了後に当時シンエイ動画にいた大塚康生を作画監督に誘い、TVアニメ『未来少年コナン』(NHK)で初めての演出(監督)を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。
毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした[17]。
テレコム・アニメーションフィルム時代
[編集]『コナン』が終わり、高畑の『赤毛のアン』の場面設定・画面構成を担当していた宮崎は、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受け、『赤毛のアン』を15話で降板し、テレコム・アニメーションフィルム(東京ムービー新社内)に移籍した。
38歳の宮崎は、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。
宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた[18][19][20]。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって不発におわり、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。
しかしロリコンブームを追い風にヒロインのクラリスが美少女アニメファンからカルト的支持を受け[21]、後に再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。
美術担当の小林七郎は「宮崎駿監督は大変優れた人で、常識的なセンスの中で完成度を上げていき現在のような大衆的な支持を得たが、自分で全部やりたい人で、すべてを自分の枠にはめようとする。なので、ジブリからは新しい可能性は出てこない、というのが私の考えです。」と評している[22]。
宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。
この直後には、『ルパン三世 PART2』で第145話と最終回の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『天空の城ラピュタ』に登場するロボット兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。
1984年の『ルパン三世 PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた押井守が監督を務めることになったが頓挫した(詳細は「押井版ルパン三世」参照)。
風の谷のナウシカ
[編集]テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。1981年4月に公開された『じゃりン子チエ』を監督予定だったが原作をそのまま使わない意向を示して高畑勲が監督することになった[23]。
テレビシリーズについては1981年4月から製作開始した『名探偵ホームズ』の監督に就任していたが、合作相手のイタリア側の事情で4話分が完成した段階で制作が中断した[24]。同時期には『花王名人劇場』の枠で1981年8月に放送されたテレコム制作の『東海道四谷怪談』も最初は宮崎が監督をすることになっていたが、宮崎が推薦した大塚康生に変更になった[23]。
この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。
宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は、『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる[注 4]。
さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[25]、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。
映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった[注 5]。
スタジオジブリ設立
[編集]1985年、44歳になった宮崎は、徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。
1986年には、『天空の城ラピュタ』を公開。本作はナウシカとは異なる「純粋な漫画映画」であり、未来少年コナンの路線を踏襲するものとなった。
1988年には、『となりのトトロ』を公開。当初、徳間書店へ企画書を提出したものの、「昭和初期の田舎の話などヒットしない」と一蹴されていた。そこで鈴木は、高畑の「火垂るの墓」と同時公開することを提案し、各出版社が共同出資することでようやく許可を得られた。しかし当初は、2作品とも60分前後の中編作品の予定が、高畑が長編へと変更したことに対抗して、宮崎も大幅にストーリーを膨らませ主人公が姉妹2人の長編作品となり、有能なスタッフの取り合いとなった[26]。
この頃、ラピュタ、トトロは高い評価を受ける一方で、ナウシカ以降興行収入は下がる一方であり、スタジオ存続をが危ぶまれる状況だった。しかしその後、後述する『魔女の宅急便』の成功に伴い、ジブリ作品が認知されて人気は著しく高まり、1990年頃にぬいぐるみメーカーからの要望で「トトロのぬいぐるみ」が発売され、その他のグッズの販売やビデオ販売の収入により、苦しいジブリの経営状態を支えた[27]。
また1986年頃、宮崎が推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている[注 6]。
日本での大ヒット連発
[編集]『魔女の宅急便』(1989年)はスポンサーの意向により、当初指名されていた佐藤順一、次に指名された片渕須直が降板し宮崎が後を継いだ。プロデューサーの鈴木が広告宣伝に注力したことで、本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けて、ジブリはそれまで作品ごとにスタッフを召集・解散をしていた体制から、労働環境を整えるため社員化することを決定する。
『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空の機内で上映される30分程度の中編作品として企画されたが、次第に構想が膨らみ、最終的に93分の長編作品として公開されることになった。本作の主要スタッフには女性が多く採用されており、作中に出てくる工房で女性ばかりが働いているのは、当時のジブリを描いたものである。
『耳をすませば』(1995年)で、脚本、絵コンテ、製作プロデューサーを担当。初夏に休暇で訪れた山小屋に、姪たちが残した漫画雑誌「りぼん」があり、その中に柊あおいの『耳をすませば』が掲載されていたことがキッカケとなった。宮崎駿の後継者候補として将来を期待されていた近藤喜文が監督を行ったが、公開から2年後に近藤は亡くなっている。
1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。
世界的な巨匠として評価
[編集]2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2,350万人、興行収入308億円[28] と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。
2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。
2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。
息子・吾朗の監督就任
[編集]2006年公開の『ゲド戦記』は、宮崎が1983年に刊行した「シュナの旅」(徳間書店刊)が原案としてクレジットされており、各所に同書に登場する設定が用いられている。また、鈴木敏夫や宮崎吾朗によれば、イメージボードやアイデアスケッチ等を書いていたようである。宮崎は20年来『ゲド戦記』の映画化を希望していたが叶わず、原作者のル=グウィンから逆に依頼が舞い込んだ際には『ハウルの動く城』の制作中であったため、鈴木が提案した息子の吾朗に監督を任せることになった。この承諾を得るためル=グウィンに会見した際には、宮崎は吾朗が描いたイメージボードを批判したり、自分がいかに原作を理解し、『風の谷のナウシカ』以降の全作品が影響を受けており、一番の適任であるかを熱弁した上で、歳をとったため吾朗が作ると説得したという[29][30]。
2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[31]。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという[32][注 7]。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した[34]。
マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。
2013年に、自身の漫画作品、『風立ちぬ』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表[35]。
長編監督引退後
[編集]2013年、戦国時代を舞台にした漫画を執筆中であると『月刊モデルグラフィックス』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『アーマーモデリング』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。
三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた[36]。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる[37]。同時受賞となった女優のモーリン・オハラは長年の憧れで、会えたことに感動したという[38]。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。
2015年、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『毛虫のボロ』を制作中であることを明らかにした[39]。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はスティーブンスティーブンが担当している[40]。
2015年5月8日、在日米軍再編における普天間飛行場の名護市辺野古移転計画に反対する辺野古基金の共同代表に就任した[41]。同年7月13日、日本外国特派員協会の要請に応じて東京都小金井市にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄県に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて鳩山由紀夫内閣が提案した県外移設の実現を強く求めた[42]。
引退撤回
[編集]2016年11月13日午後9時からNHKで放送された特別番組「終わらない人 宮﨑駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容はモザイクで隠されていたが、「2019年完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。
2017年2月24日、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった[43][44]。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートし[45]、10月28日には早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた[46]。
2018年5月15日、4月に死去した高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた[47]。
2023年7月14日、『君たちはどう生きるか』が公開。9月に行われた第48回トロント国際映画祭で日本映画史上初となるオープニング作品となり、観客賞の次点第2位となる。翌年にはゴールデングローブ賞と英国アカデミー賞で日本映画史上初となるアニメ映画賞を連続して受賞し、2024年3月11日に行われた第96回アカデミー賞では自身としては2度目となる長編アニメ映画賞を受賞した[48]。
略歴
[編集]- 1941年 - 1月5日、東京府東京市文京区に生まれる。同年生まれのアニメ監督に、りんたろう、芝山努、富野由悠季、鳥海永行がいる。
- 1945年 - 7月12日、宇都宮空襲に遭遇。
- 1950年 - 杉並区永福町に転居。杉並区立永福小学校、杉並区立大宮中学校、東京都立豊多摩高等学校卒。
- 1963年 - 学習院大学政経学部卒業。東映動画入社。なお、同年の政経学部卒業生には、麻生太郎(元内閣総理大臣)、高島肇久(JICT会長、元NHK解説委員長)、三枝輝行(阪神百貨店元社長)、有薗憲一(ベスト電器元社長)らがいる[注 8]。
- 1964年 - 東映動画労働組合の第2代書記長に就任。なお、初代書記長は大塚康生。
- 1965年 - 同僚の大田朱美と結婚[注 9]。
- 1967年 - 長男(宮崎吾朗・(財)徳間記念アニメーション文化財団理事)誕生。
- 1970年 - 所沢市に自宅を移す。次男(宮崎敬介・木口木版画家)誕生。
- 1971年 - 高畑勲、小田部羊一と共にAプロダクション(現・シンエイ動画)に移籍。
- 1973年 - 高畑勲、小田部羊一と共にズイヨー映像(後に日本アニメーションに改組)に移籍。
- 1978年 - 『未来少年コナン』で演出家に転向。
- 1979年 - 東京ムービーの子会社テレコム・アニメーションフィルムに移籍。
- 1982年 - 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。日米合作劇場アニメーション映画『リトル・ニモ』の準備に携わったが企画への疑問から制作から降り、11月22日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。
- 1984年 - 4月、個人事務所二馬力を設立。
- 1985年 - スタジオジブリを設立。
- 1988年 - 第12回山路ふみ子映画賞を受賞。
- 1990年 - 東京都民文化栄誉章を受章。
- 1996年 - 淵の森保全連絡協議会を結成し、会長に就任。
- 1998年 - スタジオジブリを退社し、「豚屋」を設立。第26回アニー賞・生涯功労賞、淀川長治賞を受賞。
- 1999年 - スタジオジブリに所長として復帰。
- 2000年 - 第3回司馬遼太郎賞を受賞。
- 2001年 - 三鷹の森ジブリ美術館を創立し、初代館主に就任。第49回菊池寛賞、第25回山路ふみ子映画賞を受賞。
- 2002年 - 朝日賞[49]、フランス国家功労勲章、パリ市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。
- 2003年 - 埼玉県民栄誉賞を受賞。『TIME』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。
- 2004年 - 12月、パリ造幣局美術館にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。
- 2005年 - 徳間書店より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回ヴェネツィア国際映画祭・栄誉金獅子賞、国際交流基金賞を受賞。『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。
- 2006年 - 日本テレビ2階・マイスタ外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。
- 2008年 - スタジオジブリ社内保育園『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都小金井市名誉市民に選出[50]。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。
- 2009年 - 第2回バークレー日本賞を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。
- 2010年 - 東京都三鷹市の名誉市民に選出。
- 2012年 - 文化功労者。
- 2013年 - 9月、長編映画制作から引退すると発表[35]。
- 2014年 - 第87回アカデミー名誉賞を受賞。
- 2015年 - 辺野古基金共同代表就任。
- 2017年 - 2月、長編映画制作に復帰すると発表。
- 2019年 - 世界幻想文学大賞生涯功労賞を受賞。
- 2021年 - 2月、新型コロナウイルス禍に対応するため、三鷹の森ジブリ美術館の館主に前館長の中島清文が就任[4]。宮崎は名誉館主となった。
- 2024年 - 『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出(2005年に続き2度目)[51]。マグサイサイ賞報道・文学・創造的情報伝達部門を受賞[3][52]。
人物
[編集]愛車はシトロエン・2CV[55]。ルイ・マル監督のフランス映画『恋人たち』に登場しているのを見て興味を持ったことがきっかけで、簡素で合理的な設計の2CVに「このクルマそのものが文明批判だ!」と感銘を受け、1967年に初めて購入[56]。以後少なくとも5台以上2CVを乗り継いでいる[56]。なお宮崎は、2CVについて戦前のフランス航空機との設計思想の類似性を指摘している[56]。2CVは「2馬力」の愛称で知られ、宮﨑が1984年に設立した個人事務所「二馬力」の名称の由来にもなった[55]。
愛用時計は、ジャガー・ルクルトのレベルソ[57]。2005年の第62回ヴェネツィア国際映画祭で「栄誉金獅子賞」を受賞した際に贈呈されたもので、ケースバックに映画祭のシンボルが刻印されている[57]。
作風
[編集]- 子供の視点
- 一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている[58]。児童文学を愛読している。
- 宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り[59]、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時には、ガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している[60]。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた[61]。
- 主人公の性別
- 『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』などに見られるように、主人公が少女であることがやや多い傾向にあるが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて、悲観的な物語にしかならないとも語っている。
- しかし、『未来少年コナン』『カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『紅の豚』『もののけ姫』などのように、男性が主人公の作品も少なくなく、主人公の性別にこだわっている訳ではない。
- 脚本なしでの制作
- 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的な制作管理能力と、クオリティとスピードを両立した作画能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。
- また、漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」という[62]。
- キャラクターデザイン
- まず宮崎によるキャラクターのオリジナルデザインの原案イラストが描かれ、それを作画監督がトレースする形で設定表を作っていく。設定表が作られた後も物語の展開によって、キャラクターデザインそのものが変わる場合もある。井上俊之曰く「90%は宮崎さんのもの」とのこと[63]。
- 作画作業
- 他のアニメーターによる原画が上がった段階で、宮崎が簡単に修正した後、作画監督がクリンナップしていく[63]。
- 軍事マニア
- 戦史・兵器マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器(装甲戦闘車両、軍用機など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている[注 10]。
- 2009年から2010年にかけて『モデルグラフィックス』誌に零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、一式戦闘機「隼」の活躍と陸軍エース・パイロットの戦果を記録した、戦史家梅本弘(市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている[64]。
- ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、モールス符号での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。最も本人の趣味が反映された『紅の豚』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている[65]。
- 声優の起用方針
- イギリスの新聞『ガーディアン』でのインタビューの中で「日本の女性声優は、男性を惹きつけるコケティッシュな声を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている[66]。
- 作品名の共通点
- 監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋の神隠し、崖の上のポニョなど、平仮名の「の」が含まれている。
- ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』[注 11]を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない[67]。
- 作風の変化
- 『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕は、もう既成の起承転結のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。
高畑勲との関係
[編集]アニメーション作家・映画監督の高畑勲は東映動画(現・東映アニメーション)時代の先輩であり、宮崎に多大な影響を与えた。東映動画の労働組合に書記長として従事した際、高畑は副委員長として宮崎を支え交流を深めていった。
高畑の初監督作品・映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが、次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 場面設定)として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人ギルド・コミューンの形成と善悪の彼岸を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、ベトナム戦争が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なレイアウトで魅せる高畑の演出も宮崎にとっては憧れの的だった[68]。
ルパン三世第一シリーズ(共同演出)、パンダコパンダ(高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、アルプスの少女ハイジ、母をたずねて三千里(高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した[68]。宮崎の監督作『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』では高畑がプロデューサーを務めている[68]。
ハイジや三千里で共に仕事をした富野由悠季(絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」[69]。
その後、ファンタジーやリアリティの考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮崎の畏敬の念は特別だった。『千と千尋の神隠し』の制作の際、宮崎は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑に教わったためである[68]。
ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている[68]。
宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある[70]。
アニメ界への意見
[編集]- 日本のアニメ界への危機感
- 以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けており、1985年2月号のアニメ雑誌『アニメージュ』の押井守、河森正治との対談や、1986年『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見にて[71]「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品は、いいかげんやめてほしい」と発言していた。
- 2002年、ドイツのベルリン映画祭金熊賞受賞の際、記者会見で「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、イギリスのBBCなど、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず、世界のアニメーションファンを含めて、様々な反響があった[72]。
- 手塚治虫の評価
- 1989年、手塚治虫が亡くなった際に、漫画史における手塚の功績に敬意を表した上で、手塚のアニメーション作品は、店子を集めて無理やり義太夫を聴かせる落語(『寝床』)の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚がリミテッド・アニメーションとフルアニメーションの違いもろくに理解せず喧伝していたことなどに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べた。また、手塚作品の悲劇性についても否定的な見解を示しており、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても否定的評価を下し、「趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば」と総括している[73]。
- 宮崎の監督作、『ルパン三世 カリオストロの城』について手塚が意見を述べたことがあり、作画を担当したテレコム・アニメーションフィルムのアニメーター達に対し、カリオストロは3コマ作画だそうだが、手塚が総監督した『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』は2コマのフルアニメーションであると語ったという。しかし、宮崎の盟友であり、『カリオストロ』で作画監督を務めた大塚康生によると、『火の鳥』には、2コマ特有の描き方や工夫が全く入っていなかったという。大塚は「手塚先生は理念としてのフルアニメーションに憧れていらっしゃるが、技術的な使い方はご存じない、もしくは関心はお持ちでないのだとわかりました」と指摘している[74]。
- 一方で、手塚がテレビアニメ『鉄腕アトム』を安価な予算で作って以来、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件に関して、宮崎は、日本が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている。その上で、あのタイミングで手塚さんが始めなければ自分達はあと2、3年は(当時の東映動画で)腰を据えて長編アニメーションを作れたかもしれないが、それも今となってはどうでもいいことだと述べている[75]。
- それ以降、宮崎が手塚について語る事はほとんど無かったが、2009年に行われたインタビューにおいて、7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かし、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。だがアニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた[76]。
- 宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の『わんわん忠臣蔵』にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮崎との合作アニメ映画『ロルフ』も企画されていた[77]。この合作は実現しなかったがロルフの企画は名前を変え『風の谷のナウシカ』の原案になった[78]。
- ディズニーの評価
- 前述の手塚治虫に対する批判の1年程前に、ディズニーに対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」[79]。
政治的・思想的スタンス
[編集]戦争観
[編集]- 著名なミリタリーマニアである一方、現実の戦争行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛[80]「方丈記私記」をイメージしたものだという[81]。湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、小田実を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「ニューヨーク・タイムズに湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他[82]、同時期に製作した『紅の豚』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという[65]。
- 第二次世界大戦
- 宮崎は、イギリスの児童文学作家ロバート・ウェストールの『ブラッカムの爆撃機』に併収された2006年の漫画「ウェストール幻想 タインマスへの旅」でのウェストールとの架空対話において、神風特別攻撃隊について志願しただろうと語っている[83]。
- 『風立ちぬ』製作時には作品テーマもあって、第二次世界大戦における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として二郎を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」[84] としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」[85]「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」[86] と述べている。
- 同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている[87][88][89]。この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって『最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?』と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は『ちょっと待て』っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている[90]。
- こうした姿勢は当事者国の一つである東アジア諸国で広い賞賛を受けており、中国の「人民日報」は微博(国営SNS)を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている[91]。韓国でも『風立ちぬ』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり、「日本の生ける良心」と賞賛されている[92]。
- 憲法改正
- 2013年に憲法改正論議が過熱した際、スタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「憲法改正」で現状での改正には反対声明を行った[93]。宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」を寄稿、日本国憲法の改憲に反対の立場であることを闡明にした[93]。寄稿文の中で、日本国憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている[93]。特に憲法9条と自衛隊については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ[93]、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないから、すぐ手玉に取られてしまいます。もし戦争になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている[94]。同寄稿文では、現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している[94]。災害時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」とし、イラク戦争で行われた海外派遣については「イラクに行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と評価している[94]。
- また憲法96条を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「詐欺」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためには、ちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている[93]。
- 集団的自衛権
- 憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に憲法解釈を用いた集団的自衛権の整備が第2次安倍内閣で推進されると、日本外国特派員協会での記者会見で、内閣総理大臣安倍晋三を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した[42]。現行憲法は15年間にわたる戦争とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「押し付け憲法論」であるという批判に対しても、1928年の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ、決して『押し付け』でもないと述べている[42]。
生命倫理・反差別
[編集]- 2016年1月28日に東京都港区で開かれた「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある全生園を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「園内通用券」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った[95][96]。
人工知能技術への批判
[編集]- 2016年11月、宮崎に密着したNHKのドキュメンタリー「NHKスペシャル 終わらない人 宮崎駿」が放映され、その中でドワンゴ創業者川上量生のチームが宮崎に対して行ったプレゼンの様子が物議を醸した。当時、CGを使用した短編アニメの制作に取り組んでいた宮崎に対し、川上は自ら開発を進めている人工知能を応用したCG技術を紹介した。このCGはゾンビのようなキャラクターが頭を足のように使い、体をくねらせ移動させる奇妙なものだった。これに宮崎は激怒した[97][98]。
これを作る人たちは痛みとかそういうものについて何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。〔…〕 そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやってればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めて何か生命に対する侮辱を感じます[97]。
- このシーンは多大な反響を呼び、『ニューヨーク・タイムズ』紙などの海外メディアにも取り上げられた[99]。
- 後に宮崎がこの発言の真意について問われると「要するに、人工知能というものを色々もてはやすと、やっぱり馬鹿げた事が起こるんだなって。その時に川上さんみたいにアナーキーな人が歯止めを持っていないなと思いましたね」と回答した[100]。
- 2022年にMidjourneyやStable Diffusionなどの著作物を無断利用した生成AIがリリースされ、海外のアーティストによる批判が高まると、宮崎の「生命に対する侮辱」(英: an insult to life itself)という発言は、クリエイターによる人工知能に対する拒絶のメッセージとして、映画監督のギレルモ・デル・トロなどによって引用された[101][102]。
左翼・社会主義
[編集]- 学習院大学時代に社会主義や共産主義などの左翼運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。実際に高畑勲らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら資本論などの理論書は読んでいないと率直に述べている[103][104]。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。希望ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている[103]。ただし後年に「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や[65]、「今はプロレタリアートがいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている[105]。
- 冷戦終結後の1990年代、『もののけ姫』の公開後にかけて「社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向」と分析する宮崎駿転向論もあったが[106]、しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的なソ連型社会主義には懐疑的で、ソ連や中国の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカも嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している[103]。ニューヨーク近代美術館での会見で中国の毛沢東の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが[107]、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている[85]。冷戦崩壊直前の1990年11月にはソ連と対峙するラトビアの独立運動で「人民戦線」という用語が使用されている事に触れながら、「社会主義が自由主義っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。西ドイツの現状はどうなんですか?西ベルリンが健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている[103]。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている[103]。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きたユーゴスラビア紛争に触れ、民主化による民族主義の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の赤になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している[108]。
- 宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている[103]。
- 2008年の講演で、日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した[109]。一方で、「世界の問題は多民族にある」とも述べている[109]。
反原発
[編集]- スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で[疑問点 ]、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は東小金井で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、鈴木敏夫、河野太郎、大西健丞、川上量生による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちにトトロなどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている[110]。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている[111][112]。
欧米世界への批判
[編集]- J・R・R・トールキンの作品『指輪物語』がピーター・ジャクソン監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った[113]。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「アフガニスタン戦争での誤爆と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した[113]。
- シャルリー・エブド襲撃事件をめぐる風刺画問題について、「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘。その上で、他の文明が崇拝しているものを対象にすることは「やめた方がいい」と話した[114]。
影響を受けた作家・作品
[編集]- アーシュラ・K・ル=グウィン
- ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている[115]。
- サン=テグジュペリ
- フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。
- 中尾佐助
- 堀田善衛
- 網野善彦
- 『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する[116]。
- レフ・アタマーノフ
- 宮崎はレフ・アタマーノフの『雪の女王 (1957年の映画)』を見た時に、「目の上のラインは実線で描くが下の所には色線を描くというのを見て、こういう眼差しが優しくなる描き方があるのかと驚嘆した。それまでは上下両方とも実線で繋げた切れ長の目を描いていたが、そこから抜け出すヒントが雪の女王の中にあった。外国人がなんで日本のアニメーションはみんな目の線が切れているんだと言うけれど、僕らは雪の女王から貰った。」と語っている[117]。また、「本当に見事に一筋の想いを貫いてそれを力にしてカイを取り戻そうという、ゲルダのそういう想いを描こうとする時にアニメーションというのは表現方法として非常に可能性を持っているんだなと見た時に思った。アニメーションは貫く想いを描くのに向いていて、それこそが自分がやりたかったものなのではないかと思った。だから色々な映画を見たがアニメーターになっていて良かったと思ったのは雪の女王です。」と語っている[117]。
- 映画化に関連する作家・作品
- ある作品を原作として宮崎駿がその物語を脚色しアニメーション映画化された例もあり、角野栄子の『魔女の宅急便』、柊あおいの『耳をすませば』、堀辰雄の『風立ちぬ』、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』などがある。
- 上記以外の作品
- 20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン、映画『イージー・ライダー』、そしてジョン・フォードの監督作品、とりわけヘンリー・フォンダ主演『荒野の決闘』を挙げている[118]。そのほかに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、デヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』、フリッツ・パペンハイムの『The Alienation of Modern Man』といった本からも影響を受けたと述べている[118]。
自身の映画論
[編集]映像について
[編集]- 黒澤明
- 現代劇は時代劇と比べて色褪せやすく、その寿命は30年ほどであるとしているが、その年月を過ぎても見る価値のある名作の一本に黒澤明の生きるを挙げ、役所に勤める主人公の渡辺課長が大量の書類に囲まれて作業的にハンコを押す1カットを特に絶賛しており、「この1カットだけで、この男が何十年も生きながら生きていない、ただ言われるがままにハンコを押しているだけのお役所仕事をしている男ということがわかり、かつ、この作品が名作、それも一人の映画監督が何十年に一本しか取れない名画、たったこの1カットだけでその監督の品格までも分かる名カット」と評しており、名画は途中から見ても、1カット見ただけで分かると持論を展開し、ロシアのアンドレイ・タルコフスキーのストーカーも同様の理由で絶賛した(「生きる」LDの宮崎解説より)[119]。
- ルイ・マル
- ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー同じくフランス映画のヌーヴェルヴァーグを代表するルイ・マル(死刑台のエレベーターや鬼火でしられる)を敬愛しており、さよなら子供たち公開時には劇場パンフレットに山田宏一や辻邦生、黒田邦雄、スタンリー・ホフマンらと共に、宮崎は同作の評やマル論などを書いており、この宮崎評なども高く評価されている[120]。
他者などの指摘
[編集]- 鈴木敏夫
- 鈴木は宮崎に影響を与えた、日本映画の大きな流れとして、「黒澤明の強さ、木下恵介の弱さ」と、そして「内田吐夢作品の祝福されてこずに生まれた者の業」「抑えきれない怒りなどの衝動」を指摘し、内田作品の宮崎への影響として、「ナウシカ」で父を殺されたナウシカの怒りなどを挙げ、特に宮崎が好きな作品としてたそがれ酒場を挙げ、また宮崎が山中貞雄作品河内山宗俊(1936年)をテレビで見て衝撃&感動を受けた様子などを著書「映画道楽」(ぴあ(2005/4/1)。ISBN 4835615409)に書き記した[121]。また宮崎と鈴木はヘンリー・フォンダ主演のテキサスの五人の仲間が大好きである[122]。1970年前半ころから映画やテレビを見る習慣を無くしており、宮崎いわく「映画を見てるよりも街を歩いている方が大切」といい、鈴木いわく「宮さんは未だに(2008年当時)ゴッドファーザー(フランシス・フォード・コッポラ監督)すら見てませんから」とのこと[123]
- 押井守
- 前述のように手塚治虫は漫画家としては尊敬していても、アニメ制作者として批判し、リミテッドアニメや虫プロ関連は批判しており嫌いだが、例外が富野由悠季(代表作は海のトリトンや機動戦士ガンダム、伝説巨神イデオン)であり、押井いわく「宮さんと富野さんは仲良しでさ、たまに電話して話してるんだ」「宮さんは虫プロは大嫌いだけど、富野さんだけは例外で好きで、富野さんは苦労人だから、そこも気に入ってる」と評し、しかし富野だけが例外であり、手塚アニメや虫プロ関係者は嫌っており、特に出崎統は痛烈に批判している[注 12]。またリミテッドアニメについて押井は「宮さんはリミテッドアニメ嫌いだけど、日本アニメはリミテッドアニメで進化した」と評している[125]。
- 北爪宏幸
- 自身が関わることの多かった富野由悠季と比較して、作画視点でのアニメーションは素晴らしく完成度が高いが、登場人物の葛藤や確執と言った、映像面では描きにくい深層心理の描写は思いの外少なく、富野由悠季とは対極の位置にいる存在であると述べている[126]。
お気に入りの作品
[編集]- イギリスのウェブサイトが報じた宮崎のお気に入り映画10選
ジョーズ(1975年) 荒野の決闘(1946年) ミツバチのささやき(1973年) 河内山宗俊(1936年) 雪の女王(1957年) 灰とダイヤモンド(1958年) 誓いの休暇(1959年) 七人の侍(1954年) やぶにらみの暴君(王と鳥)(1952年) 血煙高田の馬場(1937年) FAR OUTより[127]
評価
[編集]幾原邦彦
[編集]アニメーション監督で音楽プロデューサーの幾原邦彦は、宮崎駿の人間性について、同年代の富野由悠季と類似した部分があると前置きした上で、若手に対する強迫観念があり、有能な若手アニメーターの手腕は評価するが、演出については酷評している点に注目して、監督として一番欲しいのは従順で腕のいいアニメーターであり、才能ある若手の演出力とその台頭を恐れていると指摘している[128]。
作品
[編集]長編映画
[編集]※監督作のみ太字
公開年 | 作品名 | 制作(配給) | 役職 | |
---|---|---|---|---|
1963年 | 12月21日 | わんわん忠臣蔵 | 東映動画 (東映) |
動画 |
1965年 | 3月20日 | ガリバーの宇宙旅行 | 原画 動画 ラストの演出 | |
1968年 | 7月21日 | 太陽の王子 ホルスの大冒険 | 場面設計 美術設計 原画 | |
1969年 | 3月18日 | 長靴をはいた猫 | 原画 | |
7月20日 | 空飛ぶゆうれい船 | |||
1971年 | 3月20日 | どうぶつ宝島 | アイデア構成 原画 | |
7月18日 | アリババと40匹の盗賊 | 原画 | ||
1972年 | 12月17日 | パンダコパンダ | 東京ムービー (東宝) |
原案 脚本 場面設定 原画 |
1973年 | 3月17日 | パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻 | 脚本 美術設定 画面構成 原画 | |
1979年 | 12月15日 | ルパン三世 カリオストロの城 | 東京ムービー新社 (東宝) |
脚本(山崎晴哉と共同) 監督 |
1982年 | 7月3日 | SPACE ADVENTURE コブラ | 東京ムービー新社 (東宝東和) |
原画(ノンクレジット)[129][注 13] |
1984年 | 3月11日 | 未来少年コナン 巨大機ギガントの復活 | 日本アニメーション (松竹) |
監督 |
1984年 | 3月11日 | 風の谷のナウシカ | 徳間書店 博報堂 トップクラフト (東映) |
原作 脚本 監督 |
1986年 | 8月2日 | 天空の城ラピュタ | 徳間書店 スタジオジブリ (東映) |
原作 脚本 監督 EDテーマ『君をのせて』作詞 |
1987年 | 8月15日 | 柳川堀割物語 | 二馬力 | 製作 |
1988年 | 4月16日 | となりのトトロ | 徳間書店 スタジオジブリ (東宝) |
原作 脚本 監督 EDテーマ『となりのトトロ』作詞 |
1989年 | 7月29日 | 魔女の宅急便 | 徳間書店 ヤマト運輸 日本テレビ スタジオジブリ (東映) |
プロデューサー 脚本 絵コンテ(近藤喜文と共同) 監督 |
1991年 | 7月20日 | おもひでぽろぽろ | 徳間書店 日本テレビ 博報堂 スタジオジブリ (東宝) |
製作プロデューサー |
1992年 | 7月18日 | 紅の豚 | 徳間書店 日本航空 日本テレビ スタジオジブリ (東宝) |
原作 脚本 監督 |
1994年 | 7月16日 | 平成狸合戦ぽんぽこ | 徳間書店 日本テレビ 博報堂 スタジオジブリ (東宝) |
企画 |
1995年 | 7月15日 | 耳をすませば | 製作プロデューサー 脚本 絵コンテ(近藤喜文と共同) EDテーマ『カントリー・ロード』補作 | |
On Your Mark〜ジブリ実験劇場 | 原作 脚本 監督 | |||
1997年 | 7月12日 | もののけ姫 | 徳間書店 日本テレビ 電通 スタジオジブリ (東宝) |
原作 脚本 監督 主題歌『もののけ姫』作詞 |
1999年 | 7月17日 | ホーホケキョ となりの山田くん | 徳間書店 スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン 日本テレビ 博報堂 (松竹) |
制作 |
2001年 | 7月20日 | 千と千尋の神隠し | 徳間書店 スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン 日本テレビ 電通 東北新社 三菱商事 ディーライツ (東宝) |
原作 脚本 監督 |
2002年 | 7月20日 | 猫の恩返し | 徳間書店 スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン 日本テレビ 博報堂 三菱商事 ディーライツ (東宝) |
企画 |
2004年 | 11月20日 | ハウルの動く城 | 徳間書店 スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン 日本テレビ 電通 三菱商事 ディーライツ (東宝) |
企画 脚本 監督 |
2006年 | 7月29日 | ゲド戦記 | スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン 日本テレビ 電通 博報堂DYメディアパートナーズ 三菱商事 ディーライツ (東宝) |
原案 |
2008年 | 7月19日 | 崖の上のポニョ | 原作 脚本 監督 OPテーマ『海のおかあさん』作詞(共同) EDテーマ『崖の上のポニョ』補作詞 | |
2009年 | 3月14日 | ルパン三世 1st.TVシリーズ | トムス・エンタテインメント
(三鷹の森ジブリ美術館) ※特別上映 |
監督(高畑勲と共同) |
2010年 | 6月18日 | トイ・ストーリー3 | ピクサー・アニメーション・スタジオ | スペシャルサンクス |
7月17日 | 借りぐらしのアリエッティ | スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン 日本テレビ 電通 博報堂DYメディアパートナーズ 三菱商事 ディーライツ ワイルドバンチ (東宝) |
企画 脚本(丹羽圭子と共同) 美術設定 | |
2011年 | 7月16日 | コクリコ坂から | スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン 日本テレビ 電通 博報堂DYメディアパートナーズ 三菱商事 ディーライツ (東宝) |
企画 脚本(丹羽圭子と共同) |
2013年 | 7月20日 | 風立ちぬ | スタジオジブリ ウォルト・ディズニー・ジャパン 日本テレビ 電通 博報堂DYメディアパートナーズ 三菱商事 ディーライツ KDDI (東宝) |
原作 脚本 監督 |
2023年 | 7月14日 | 君たちはどう生きるか | スタジオジブリ |
短編映画
[編集]公開年 | 作品名 | 制作(配給) | 役職 | |
---|---|---|---|---|
1977年 | 4月23日 | 草原の子テングリ | 雪印乳業 桜映画社 シンエイ動画 |
レイアウト(ノンクレジット) |
2001年 | 10月1日 | フィルムぐるぐる | スタジオジブリ | 絵コンテ 監督 |
くじらとり | 脚本 監督 | |||
2002年 | 1月3日 | コロの大さんぽ | 原作 脚本 監督 | |
10月2日 | 空想の機械達の中の破壊の発明 | 企画 | ||
9月29日 | めいとこねこバス | 原作 脚本 監督 トトロ役 | ||
空想の空飛ぶ機械達 | 原作 脚本 監督 ナレーション | |||
2006年 | 1月3日 | 水グモもんもん | 原作 脚本 監督 | |
やどさがし | ||||
星をかった日 | 脚本 監督 | |||
2010年 | 1月3日 | ちゅうずもう | 企画 脚本 | |
11月20日 | パン種とタマゴ姫 | 原作 脚本 監督 | ||
2011年 | 6月4日 | たからさがし | 企画 構成 | |
2018年 | 3月21日 | 毛虫のボロ | 原作 脚本 監督 |
テレビ
[編集]期間 | 番組名 | 制作(放送局) | 役職 | 放送タイトル | |
---|---|---|---|---|---|
1964年6月7日 | 1965年8月31日 | 少年忍者風のフジ丸 | NETテレビ 東映アニメーション |
原画(手伝い) | |
1966年4月23日 | 1967年3月24日 | レインボー戦隊ロビン | |||
1969年1月6日 | 1970年10月26日 | ひみつのアッコちゃん | |||
1969年10月5日 | 1970年12月27日 | ムーミン | フジテレビ 瑞鷹 シンエイ動画 トムス・エンタテインメント |
原画 | 第23話「チビのミー大作戦」 |
1971年10月24日 | 1972年3月26日 | ルパン三世 | よみうりテレビ トムス・エンタテインメント |
演出(高畑勲と共同) | 第4話以降 |
原画 | 第9話「殺し屋はブルースを歌う」 第14話「エメラルドの秘密」 第15話「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」 第16話「宝石横取り作戦」 第17話「罠にかかったルパン」 第18話「美人コンテストをマークせよ」 第19話「どっちが勝つか三代目」 第21話「ジャジャ馬娘を助けだせ!」 第23話「黄金の大勝負!」 | ||||
1972年4月5日 | 1973年3月28日 | 赤胴鈴之助 | フジテレビ トムス・エンタテインメント |
絵コンテ | 第26話「やったぞ!赤胴真空斬り」 第27話「大暴れ!真空斬り」 第41話「キリシタンの秘宝」 |
1973年3月2日 | 1973年9月28日 | ジャングル黒べえ | 毎日放送 トムス・エンタテインメント |
キャラクター原案 | 全話 |
1973年10月7日 | 1974年9月29日 | 侍ジャイアンツ | よみうりテレビ トムス・エンタテインメント |
原画 | 第1話「ほえろ!バンババン」 |
1974年1月6日 | 1974年12月29日 | アルプスの少女ハイジ | フジテレビ 瑞鷹 |
場面設定 画面構成 |
全話 |
1975年1月5日 | 1975年12月28日 | フランダースの犬 | フジテレビ 瑞鷹 日本アニメーション |
原画 | 第15話「古い帳簿」 |
1976年1月4日 | 1976年12月26日 | 母をたずねて三千里 | フジテレビ 日本アニメーション |
場面設定 レイアウト |
全話 |
原画 | 第2話「ジェノバの少年マルコ」 | ||||
1977年1月2日 | 1977年12月25日 | あらいぐまラスカル | 第4話「ミルウォーキーのお月さま」 第5話「オスカーへの贈り物」 第6話「さようならスカンクたち」 第10話「はじめての探検」 第12話「本と1セント銅貨」 第13話「夏休みの第一日」 第14話「母のない子」 第15話「アリスと友達になれたらなあ」 第16話「楽しいパーティの夜」 第17話「ラスカルの冒険」 第18話「森で会った不思議な青年」 第19話「ラスカルとトウモロコシ」 第20話「スターリングの悲しみ」 第21話「あぶないラスカル」 第22話「森と湖と動物たち」 第24話「走れ走れぼくらのカヌー」 第25話「森で見つけた仔鹿」 第26話「森と湖の夏まつり」 第28話「檻の中」 | ||
1977年10月3日 | 1980年10月6日 | ルパン三世 | 日本テレビ トムス・エンタテインメント |
脚本 絵コンテ 演出 |
第145話「死の翼アルバトロス」 第155話「さらば愛しきルパンよ」 |
1978年4月4日 | 1978年10月31日 | 未来少年コナン | NHK 日本アニメーション |
キャラクターデザイン メカニックデザイン 場面設定 演出 監督 |
全話 |
絵コンテ | 第1話「のこされ島」 第2話「旅立ち」 第3話「はじめての仲間」 第4話「バラクーダ号」 第8話「逃亡」 第15話「荒地」 第16話「二人の小屋」 第17話「戦闘」 第18話「ガンボート」 第19話「大津波」 第22話「救出」 第23話「太陽塔」 第24話「ギガント」 第25話「インダストリアの最期」 第26話「大団円」 | ||||
1979年1月7日 | 1979年12月30日 | 赤毛のアン | フジテレビ 日本アニメーション |
場面設定 画面構成 |
第1話「マシュウ・カスバート驚く」 第2話「マリラ・カスバート驚く」 第3話「グリーン・ゲイブルズの朝」 第4話「アン・生立ちを語る」 第5話「マリラ決心する」 第6話「グリーン・ゲイブルズのアン」 第7話「レイチェル夫人恐れをなす」 第8話「アン日曜学校へ行く」 第9話「おごそかな誓い」 第10話「アン・心の友と遊ぶ」 第11話「マリラ・ブローチをなくす」 第12話「アン・告白をする」 第13話「アン・学校へ行く」 第14話「教室騒動」 第15話「秋の訪れ」 |
1980年10月3日 | 1981年9月25日 | 太陽の使者 鉄人28号 | 日本テレビ トムス・エンタテインメント |
原画(Aパート担当) | 第8話「恐怖の殺人合体ロボ」[131] |
1984年11月6日 | 1985年5月20日 | 名探偵ホームズ | テレビ朝日 トムス・エンタテインメント RAI REVER |
脚本 | 第3話「小さなマーサの大事件!?」 |
絵コンテ 演出 |
第3話「小さなマーサの大事件!?」 第4話「ミセス・ハドソン人質事件」 第5話「青い紅玉」 第9話「海底の財宝」 第10話「ドーバー海峡の大空中戦!」 | ||||
監督 | 第3話「小さなマーサの大事件!?」 第5話「青い紅玉」 第9話「海底の財宝」 第11話「ねらわれた巨大貯金箱」 | ||||
2020年12月30日 | アーヤと魔女 | NHK NHKエンタープライズ スタジオジブリ |
企画 |
その他の作品
[編集]漫画・絵物語・イメージボードなど
[編集]- 長靴をはいた猫
- 砂漠の民(秋津三朗名義)
- どうぶつ宝島 ※以上は初期作品
- 妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む)
- 風の谷のナウシカ(全7巻)※第23回日本漫画家協会賞大賞受賞
- シュナの旅 徳間書店アニメージュ文庫[注 14]※アイズナー賞最優秀アジア作品(Best U.S. Edition of International Material—Asia)受賞
- 駆けろ二馬力 風より疾く(『NAVI』1989年12月号、『CAR GRAPHIC』2010年8月号、各二玄社)
- 空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む)
- 風の谷のナウシカ-宮崎駿水彩画集 徳間書店
- もののけ姫 徳間書店
- 飛行艇時代 「紅の豚」原作(大日本絵画 1992年、増補改訂版2004年)
- 宮崎駿の雑想ノート(大日本絵画 1992年、増補改訂版1997年)
- 知られざる巨人の末弟
- 甲鉄の意気地
- 多砲塔の出番
- 農夫の眼
- 竜の甲鉄
- 九州上空の重轟炸機
- 高射砲塔
- Q.ship
- 特設空母安松丸物語
- ロンドン上空1918年
- 最貧前線
- 飛行艇時代
- 豚の虎
- 宮崎駿の妄想ノート(大日本絵画 2002年8月)
- ハンスの帰還
- 泥まみれの虎
- 『ブラッカムの爆撃機』 ロバート・ウェストール・作、宮崎駿・編、金原瑞人訳(児童書、岩波書店、2006年)[注 15]
- 『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作、金原瑞人・野沢佳織訳(岩波書店、2009年3月)
- 続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語
- 風立ちぬ 宮崎駿の妄想カムバック(大日本絵画、2015年11月)、『モデルグラフィックス』に連載
デザインワーク
[編集]- TVCM『日立マクセル・ニューゴールド・ビデオテープ』の「ワンダーシップ号」
- TVCM『日立パソコンH2』の「ポシェット竜」
- 実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船
- 日本テレビ放送網のシンボルキャラクター「なんだろう」(TVCMのアニメでは演出も担当)
- 神奈川県「かながわ・ゆめ国体」のマスコットキャラクター「かなべえ」
- 三鷹の森ジブリ美術館
- 三鷹市のみたかモールのマスコットキャラクター「POKI」
- 江戸東京たてもの園のシンボルキャラクター「えどまる」
- 読売新聞のシンボルキャラクター「どれどれ」
- 中日ドラゴンズ公式ファンクラブのマスコットキャラクター「ガブリ」[注 16]
- 日本テレビ社屋外壁(マイスタジオ上)の大からくり時計「日テレ大時計」
- 広島県福山市鞆町の坂本龍馬のゆかりの宿「御舟宿いろは」
- 小金井市のイメージキャラクター「こきんちゃん」
- 日本アニメ(ーター)見本市のロゴ(題字)
作詞
[編集]- 『君をのせて』(『天空の城ラピュタ』主題歌)
- 『となりのトトロ』(『となりのトトロ』主題歌)
- 『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
- 『カントリー・ロード』(『耳をすませば』主題歌)※補作
- 『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
- 『もののけ姫』 (『もののけ姫』 主題歌)
- 『タタラ踏む女達』 (『もののけ姫』 挿入歌)
- 『千と千尋の神隠し』イメージアルバム
- 『崖の上のポニョ』イメージアルバム
- 『崖の上のポニョ』(『崖の上のポニョ』主題歌)※補作詞
- 『いもうと達』
- 『ポニョの子守唄』
- 『ひまわりの家の輪舞曲』
- 『お母さんの写真』(CMソング)
著書(対談・インタビュー・共著も含む)
[編集]- 『トトロの住む家』 (画文集/写真和田久士) 朝日新聞社(1991年)/増補改訂版 岩波書店(2011年1月)
- 『時には昔の話を』(加藤登紀子との共著、絵本、対談) 徳間書店(1992年)
- 『時代の風音』(司馬遼太郎、堀田善衛との鼎談) UPU(1992年)。 朝日文芸文庫(1997年)
- 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(黒澤明との対談集) スタジオジブリ(1993年)
- 『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著) 講談社カルチャーブックス(1994年)
- 『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集) 徳間書店(1996年)
- 『教育について』(共著、インタビュー集) 旬報社(1998年)
- 『虫眼とアニ眼』(養老孟司との対談) スタジオジブリ(2002年)。新潮文庫(2008年2月)
- 『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』(渋谷陽一によるインタビュー集)ロッキング・オン(2002年)。文春ジブリ文庫(2013年11月)
- 『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集) 岩波書店(2008年)
- 『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』(お薦め本50冊の紹介) 岩波新書カラー版(2011年10月)
- 『腰ぬけ愛国談義』(半藤一利との対談)、文春ジブリ文庫 (2013年8月)
- 『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』(渋谷陽一によるインタビュー集)ロッキング・オン(2013年)
表紙イラスト
[編集]- 『チェスタトンの1984年/新ナポレオン奇譚』(ギルバート・チェスタトン)、春秋社(1984年)
- 『惑星カレスの魔女』(ジェイムズ・ヘンリー・シュミッツ)、新潮文庫(1987年)、創元推理文庫(1996年)
- 『夜間飛行』(サン=テグジュペリ)、新潮文庫 (1993年、改版2012年)※新装カバー
- 『人間の土地』(サン=テグジュペリ)、新潮文庫(1998年、改版2012年)※新装カバー
- 『真夜中の電話』(ロバート・ウェストール)、徳間書店(2014年)
- 『遠い日の呼び声』(ロバート・ウェストール)、徳間書店(2014年)
- 『幽霊塔』(江戸川乱歩)、岩波書店(2015年)
実写作品
[編集]- 巨神兵東京に現わる(2012年、巨神兵)
絵コンテ集
[編集]劇場用アニメーション映画
[編集]- パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
- ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
- 風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)[注 17]
- 天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)[注 17]
- となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3(徳間書店)[注 17]
- 魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)[注 17]
- 紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)
- 耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)
- もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)
- 千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)
- ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)
- 崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)
- 風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店)
- 君たちはどう生きるか スタジオジブリ絵コンテ全集23(徳間書店)
テレビアニメーション
[編集]- ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
- 名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
- 名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
幻の作品
[編集]宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。
- サイン・コサイン・シータ
- 大学時代の子供向け人形劇用の脚本。舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。上演は実現しなかった[133]。
- 長くつ下のピッピ
- 1971年頃、アストリッド・リンドグレーン原作の児童文学作品[134]。企画した東京ムービー社長の藤岡豊自らスウェーデンに赴いて原作者から映画化の承諾を得ようとしたが、面会できずに頓挫する[135]。このとき、宮崎はロケハンの目的で藤岡に同行し、現地で見た風景や家屋をもとに帰国後にイメージボードを描いている[135]。そのイメージは後に『パンダコパンダ』や『魔女の宅急便』で活かされているほか[135]、『アルプスの少女ハイジ』のオープニングに登場するブランコは、本作で用意した設定の流用である[136]。残った制作資料は、子息である宮崎吾朗が『山賊のむすめローニャ』をアニメ化した際に原作者(の著作権継承者)サイドの許諾が下りて、『幻の「長くつ下のピッピ」』(岩波書店、2014年10月、高畑勲・小田部羊一共著)として刊行され[137]、宮崎によるイメージとストーリーボードおよびインタビューが掲載されている。また、鈴木敏夫によると、スタジオジブリ設立後も宮崎と何度もアニメ映画化について相談したが結局実現せず、リンドグレーンの没後に著作権継承者からジブリにオファーがあったときには宮崎は「遅すぎる」「時機を逸してしまった」と述べたという[137]。
- 頭の上のチッカとボッカ
- Aプロダクション在籍中の1973年頃に楠部三吉郎とともに企画したテレビアニメ[138]。コロポックルを主人公とし、彼らが人間のものを「狩猟」と称して勝手に持ち出すストーリーで、キャラクターもデザインした[138]。毎日放送に楠部が持ち込んで好感を得るも、宮崎が当時は無名だった点に難色を示され作品化は実現しなかった。その後、企画は形を変え、楠部が藤子不二雄(ここでは藤本弘を指す。藤本は後の藤子・F・不二雄)を原作にするという修正案を出したことで『ジャングル黒べえ』として作品化が実現した。宮崎が作ったキャラクター等は使用されなかった[138]。
- ユキの太陽
- ちばてつやの漫画。パイロットフィルムのみ製作された(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)。
- もののけ姫
- 1980年頃、『美女と野獣』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『もののけ姫』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年にスタジオジブリ(後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。
- ルパンの娘
- 1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。
- ロルフ
- 1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『風の谷のナウシカ』の原型とも言える作品。手塚治虫との合作の予定だった。
- 戦国魔城
- 1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。
- NEMO
- 1981年 - 1982年、ウィンザー・マッケイ原作の『リトル・ニモ』の企画にテレコム・アニメーションフィルムのスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。
- 風の谷の一日
- 1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。
- アンカー
- 1980年代半ば、夢枕獏との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督押井守、プロデューサー高畑勲で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。しかし、美少女を出そうとする宮崎と、鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した[139]。
- 突撃!アイアンポーク
- 1985年頃、「宮崎駿の雑想ノート」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。
- 大東京物語
- ふくやまけいこの漫画。後に現代には合わないと判断している。
- 墨攻
- 古代中国が舞台の酒見賢一原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。
- 東京汚穢合戦
- 宮崎が1997年、NHK番組『トップランナー』に出演した時に語ったもの。
- ゴチャガチャ通りのリナ
- 柏葉幸子原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』
- 煙突描きのリン
- 架空の震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。三鷹の森ジブリ美術館でそのプロットが見られる。かなり具体的に構想され、約1年間の検討の末にボツとなった。この物語のために作られた木村弓の『いつも何度でも』が、後に『千と千尋の神隠し』の主題歌となり、主人公の「リン」の名は同映画の登場人物に再使用されている。
- 毛虫のボロ
- 長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。長編化困難として『もののけ姫』の前に一旦ボツになったが、ジブリ美術館用の短編として完成した。
- 旅のラゴス
- 筒井康隆原作のSFファンタジー小説
- ジョナサンと宇宙クジラ
- ロバート・F・ヤングのSF小説
- 名探偵芥川龍之介対夏目漱石
- 明治の文豪が出てくる探偵モノ。
- ポルコ・ロッソ 最後の出撃
- 紅の豚の続編
- 宮崎駿版ゲド戦記
- 宮崎は本作の古くからのファンであり、1980〜90年代に出版社および原作者に対し、二度映画化の打診を行い断られている。その後2000年代に入り宮崎の映画が原作者にも知られることとなり、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と言わしめるが、当の宮崎は既に本作に対する当時の情熱を失っており、紆余曲折の末宮崎の息子の吾朗により映画化された。
- 鉄砲侍
- #長編監督引退後を参照。
出演
[編集]長編映画
[編集]- 「もののけ姫」はこうして生まれた。(スタジオジブリ、1998年6月26日発売、VHS)-『もののけ姫』の創作現場密着ドキュメンタリー
- ラセターさん、ありがとう 〜「千と千尋」アカデミー賞受賞に隠された宮崎駿とジョン・ラセターの20年にわたる友情〜(スタジオジブリ、2003年11月19日発売、DVD)- 宮崎駿とジョン・ラセターの密着ドキュメンタリー
- 宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。(二馬力、2004年8月6日発売、DVD)-「お母さんの写真」の創作現場密着ドキュメンタリー
- 宮崎駿とジブリ美術館(スタジオジブリ、2005年3月18日、DVD)
- ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜(NHKエンタープライズ、2009年12月8日発売、DVD・Blu-ray)-『崖の上のポニョ』の創作現場密着ドキュメンタリー
- 夢と狂気の王国(ドワンゴ、2013年11月16日公開)-『風立ちぬ』の創作現場密着ドキュメンタリー
短編映画
[編集]- もののけ姫 in U.S.A.(スタジオジブリ、2000年4月29日公開)
- オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(スタジオジブリ、2002年10月2日公開)[140]
テレビ特集
[編集]- 世界・わが心の旅「サンテグジュペリ 大空への夢 〜南仏からサハラ〜」(BS2、1999年放送)
- プロフェッショナル 仕事の流儀「映画を創る 〜宮崎駿・創作の秘密〜」(NHK、2007年3月27日放送)
- プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル「宮崎駿のすべて 〜ポニョ密着300日〜」(NHK、2008年8月5日放送)-『崖の上のポニョ』の創作現場密着ドキュメンタリー
- 「NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎 駿×宮崎吾朗〜」(NHK、2011年8月放送)-『コクリコ坂から』の創作現場密着ドキュメンタリー
- NHKスペシャル「終わらない人 宮﨑駿」(NHK、2016年11月13日放送)-『毛虫のボロ』の創作現場密着ドキュメンタリー
- BS1スペシャル「さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜」(BS1、2021年4月29日放送)[141]
- プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル「ジブリと宮﨑駿の2399日」(NHK、2023年12月16日放送)-『君たちはどう生きるか』の創作現場密着ドキュメンタリー[142]
受賞歴
[編集]賞 | 年 | 部門 | 作品 | 結果 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|
日本アニメ大賞 | 1984年 | 作品賞 | 『風の谷のナウシカ』 | 受賞 | |
1986年 | 特別賞 | - | 受賞 | ||
1988年 | 作品賞 | 『となりのトトロ』 | 受賞 | ||
脚本賞 | 受賞 | ||||
星雲賞 | 1985年 | 映画演劇部門 | 『風の谷のナウシカ』 | 受賞 | |
1989年 | 映画演劇部門 | 『となりのトトロ』 | 受賞 | ||
1995年 | コミック部門 | 『風の谷のナウシカ』 | 受賞 | ||
毎日映画コンクール | 1986年 | 大藤信郎賞 | 『天空の城ラピュタ』 | 受賞 | [143] |
1988年 | 日本映画大賞 | 『となりのトトロ』 | 受賞 | [144] | |
大藤信郎賞 | 受賞 | ||||
1989年 | アニメーション映画賞 | 『魔女の宅急便』 | 受賞 | [145] | |
1992年 | アニメーション映画賞 | 『紅の豚』 | 受賞 | [146] | |
1997年 | 日本映画大賞 | 『もののけ姫』 | 受賞 | [147] | |
アニメーション映画賞 | 受賞 | ||||
1997年 | 日本映画大賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [148] | |
監督賞 | 受賞 | ||||
アニメーション映画賞 | 受賞 | ||||
2008年 | 大藤信郎賞 | 『崖の上のポニョ』 | 受賞 | [149] | |
ブルーリボン賞 | 1988年 | 特別賞 | 『となりのトトロ』 | 受賞 | |
1997年 | 特別賞 | 『もののけ姫』 | 受賞 | ||
2001年 | 作品賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | ||
報知映画賞 | 1988年 | 監督賞 | 『となりのトトロ』 | 受賞 | [150] |
2001年 | 監督賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | ||
芸術選奨 | 1989年 | 文部大臣賞(映画部門) | 『となりのトトロ』 | 受賞 | |
ゴールデングロス賞 | 1989年 | 最優秀金賞 | 『魔女の宅急便』 | 受賞 | [151] |
マネーメイキング監督賞 | - | 受賞 | |||
1992年 | 最優秀金賞 | 『紅の豚』 | 受賞 | [152] | |
マネーメイキング監督賞 | - | 受賞 | |||
1997年 | 最優秀金賞 | 『もののけ姫』 | 受賞 | [153] | |
2001年 | 最優秀金賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [154] | |
マネーメイキング監督賞 | - | 受賞 | |||
2005年 | 最優秀金賞 | 『ハウルの動く城』 | 受賞 | [155] | |
マネーメイキング監督賞 | - | 受賞 | |||
2008年 | 最優秀金賞 | 『崖の上のポニョ』 | 受賞 | [156] | |
マネーメイキング監督賞 | - | 受賞 | |||
2013年 | 最優秀金賞 | 『風立ちぬ』 | 受賞 | [157] | |
全興連特別功労大賞 | - | 受賞 | |||
2014年 | 全興連特別賞 | - | 受賞 | [158] | |
アヌシー国際アニメーション映画祭 | 1993年 | 長編部門クリスタル賞(グランプリ) | 『紅の豚』 | 受賞 | [159] |
日本漫画家協会賞 | 1994年 | 大賞 | 『風の谷のナウシカ』 | 受賞 | |
日本アカデミー賞 | 1997年 | 作品賞 | 『もののけ姫』 | 受賞 | [160] |
2001年 | 作品賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [161] | |
会長功労賞 | - | 受賞 | |||
2008年 | アニメーション作品賞 | 『崖の上のポニョ』 | 受賞 | [162] | |
日刊スポーツ映画大賞 | 1997年 | 監督賞 | 『もののけ姫』 | 受賞 | [163] |
2001年 | 作品賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | ||
アニメーション神戸 | 1997年 | 部門賞・演出部門 | - | 受賞 | [164] |
2001年 | 作品賞・劇場部門 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | ||
文化庁メディア芸術祭 | 1997年 | アニメーション部門大賞 | 『もののけ姫』 | 受賞 | |
2001年 | アニメーション部門大賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | ||
川喜多賞 | 2020年 | - | - | 受賞 | [165] |
アニー賞 | 1998年 | ウィンザー・マッケイ賞 | - | 受賞 | [166] |
2002年 | 長編作品賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [167] | |
長編作品監督賞 | 受賞 | ||||
長編作品脚本賞 | 受賞 | ||||
2013年 | 長編作品脚本賞 | 『風立ちぬ』 | 受賞 | [168] [169] | |
ベルリン国際映画祭 | 2002年 | 金熊賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [170] |
アカデミー賞 | 2003年 | 長編アニメーション映画賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [171] |
2005年 | 長編アニメーション映画賞 | 『ハウルの動く城』 | ノミネート | [172] | |
2013年 | 長編アニメーション映画賞 | 『風立ちぬ』 | ノミネート | [173] | |
2015年 | 名誉賞 | - | 受賞 | [174] | |
2024年 | 長編アニメーション映画賞 | 『君たちはどう生きるか』 | 受賞 | [175] | |
ニューヨーク映画批評家協会賞 | 2002年 | アニメ映画賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [176] |
2005年 | アニメ映画賞 | 『ハウルの動く城』 | 受賞 | ||
2013年 | アニメ映画賞 | 『風立ちぬ』 | 受賞 | ||
ロサンゼルス映画批評家協会賞 | 2002年 | アニメ映画賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | [177] |
2013年 | アニメ映画賞 | 『風立ちぬ』 | ノミネート | ||
2018年 | 功労賞 | - | 受賞 | ||
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 | 2002年 | アニメ映画賞 | 『千と千尋の神隠し』 | 受賞 | |
2013年 | アニメ映画賞 | 『風立ちぬ』 | 受賞 | ||
ザグレブ国際アニメーション映画祭 | 2004年 | 功労賞 | - | 受賞 | [177] |
ヴェネツィア国際映画祭 | 2005年 | 栄誉金獅子賞 | - | 受賞 | [177] |
2008年 | ミッモ・ロテッラ財団賞 | 『崖の上のポニョ』 | 受賞 | ||
フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード特別表彰 | 受賞 | ||||
ネビュラ賞 | 2007年 | スクリプト部門 | 『ハウルの動く城』 | 受賞 | |
インクポット賞 | 2009年 | - | - | 受賞 | [178] |
バークレー日本賞 | 2009年 | - | - | 受賞 | |
アイズナー賞 | 2014年 | 漫画家の殿堂 | - | 受賞 | [179] |
2023年 | 最優秀アジア作品(Best U.S. Edition of International Material—Asia) | 『シュナの旅』 | 受賞 | ||
サン・セバスティアン国際映画祭 | 2023年 | ドノスティア賞 | - | 受賞 | [180] |
ゴールデングローブ賞 | 2023年 | 最優秀アニメーション映画賞 | 『君たちはどう生きるか』 | 受賞 | [181] |
マグサイサイ賞 | 2024年 | - | - | 受賞 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 宮崎家の四男で末弟。駿とは6歳差。博報堂のアカウント・ディレクターとして活動。『風の谷のナウシカ』など、徳間書店・博報堂の映画共同製作に参加。1989年に発行の『アニメージュ特別編集ガイドブック 魔女の宅急便』(徳間書店)に「家族の風景-兄・宮崎駿」という記事を寄稿している[2]。
- ^ 会社が中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が空襲を受け、親類の運転するトラックで4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている[6]。
- ^ 母親はその後、新薬によって回復しており、後述の通り『風の谷のナウシカ』制作中まで存命した。
- ^ 漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の1994年に完結。
- ^ 初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる[9]。
- ^ 宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。
- ^ 映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言[33]。
- ^ 2020年に第27代学習院院長に就任した耀(あかる)英一(元あさひ銀行常務取締役)は、都立豊多摩高校および学習院大学政経学部で、それぞれ宮崎の一年後輩にあたる。学習院桜友会『桜友会報 No.117』(2020年12月)P7より。
- ^ 妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。
- ^ 一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。
- ^ 「𦻙記」の読みは「せっき」。「𦻙」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。これに相当するものが台湾の漢字に存在し、UnicodeではU+26ED9(CJK統合漢字拡張B)に収録されている。「聶」(耳を三つ)は誤記あるいは代用表記。
- ^ ただしアニメーターの遠藤正明は宮崎が出崎を嫌っていたという逸話について否定している[124]。
- ^ 当時、テレコム・アニメーションフィルム所属だったアニメーターの遠藤正明によると担当カットは「コブラがエアカーで脱出するシーン」の「装甲車の砲塔上で兵士が射撃する所」とのこと[130]。
- ^ 原話は、君島久子の書いたチベットの民話「犬になった王子」、岩波書店。
- ^ 「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加え、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併収。
- ^ 1991年、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる2006年、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・鈴木敏夫の橋渡しによって採用されることとなった。
- ^ a b c d これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。
出典
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- ^ これは『文春ジブリ文庫 ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ』の253-273ページに掲載されている。
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- ^ 『映画天空の城ラピュタGUIDE BOOK』(復刻版)徳間書店〈ロマンアルバム〉、2010年12月。ISBN 9784197203208。
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- ^ 宮崎 1996, p. 563.
- ^ 『映画天空の城ラピュタGUIDE BOOK』(復刻版)徳間書店〈ロマンアルバム〉、2010年12月、142頁。ISBN 9784197203208。
- ^ 「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)[要文献特定詳細情報]
- ^ 「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)[要文献特定詳細情報]
- ^ ●大塚康生氏ロングインタビュー「アニメーターは演技者である」
- ^ NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康生の証言。及び大塚康生『作画汗まみれ』(増補改訂版)、2019年4月19日、168頁。[要文献特定詳細情報]
- ^ “宮崎駿監督:ナウシカ続編「ありません」 引退会見の主な発言”. 毎日jp. (2013年9月6日). オリジナルの2013年9月7日時点におけるアーカイブ。
- ^ “【宮崎監督引退会見ライブ(7)完】「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」(3/3ページ)”. 産経ニュース. (2013年9月6日). オリジナルの2015年1月10日時点におけるアーカイブ。
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- ^ WEBアニメスタイル_COLUMN
- ^ 朝日新聞デジタル:小林七郎、背景美術を語る - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
- ^ a b 「昔と今 テレコムスタッフが語る『宮崎駿像』 テレコム座談会」『千と千尋の神隠し 千尋の大冒険』別冊COMIC BOX Vol.6 コミックボックスジュニア8月号増刊、ふゅーじょんぷろだくと、2001年、p.59。大塚康生の証言
- ^ 「制作開始から3年。やっと日の目を見た『名探偵ホームズ』」『アニメージュ』1985年2月号、徳間書店、p.24
- ^ 尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年。[要ページ番号]
- ^ ジブリはこうして生まれた。 ~再現映像で綴る誕生物語~ (風の谷のナウシカ 特典ディスク)
- ^ ジブリはこうして生まれた。 ~再現映像で綴る誕生物語~ (風の谷のナウシカ 特典ディスク)
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- ^ https://www.ghibli.jp/storage/000457/
- ^ 吾朗を監督として認めさせたかった鈴木は、「この時、初めて宮崎を殴りたくなった」と語った。
- ^ 監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日
- ^ 東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日。
- ^ 東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日。
- ^ 第65回ヴェネツィア国際映画祭 記者会見時のインタビュー[出典無効]
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参考文献
[編集]- 「特集 憲法改正」(PDF)『熱風』2013年7月号、スタジオジブリ出版部、2013年。
- 宮崎駿 著、スタジオジブリ 編『出発点 1979〜1996』スタジオジブリ、1996年。ISBN 4198605416。
関連文献
[編集]単行本
[編集]- 高畑勲
- 『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2014年)、ISBN 4-16-812203-4
- 『映画を作りながら考えたことII 1991〜1999』(徳間書店、1999年)、ISBN 4-19-861047-9
- 大塚康生
- 『作画汗まみれ』(徳間書店(増補版)、2001年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2013年)、ISBN 4-16-812200-X
- 『リトル・ニモの野望』(徳間書店、2004年)、ISBN 4-19-861890-9
- 大泉実成『宮崎駿の原点 母と子の物語』(潮出版社、2002年)、ISBN 4-267-01653-4
- 尾形英夫『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』(オークラ出版、2004年)、ISBN 4-7755-0480-0
- 鈴木敏夫
- 『映画道楽』(ぴあ、2005年/角川文庫、2012年)、ISBN 4-04-100566-3
- 『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(岩波新書、2008年、新版2014年)、ISBN 4-00-431486-0
- 『ジブリの仲間たち』(新潮新書、2016年)、ISBN 4-10-610674-4
- 『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(文春新書、2019年)、ISBN 4-16-661216-6
- 叶精二『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、ISBN 4-8459-0687-2
- スーザン・ネイピア『ミヤザキワールド‐宮崎駿の闇と光‐』仲達志訳(早川書房、2019年11月)、 ISBN 978-4-15-209892-4
- ステファヌ・ルルー『シネアスト宮崎駿 奇異なもののポエジー』岡村民夫訳(みすず書房、2020年10月)、ISBN 978-4-622-08894-3
- 三浦雅士『スタジオジブリの想像力 地平線とは何か』(講談社、2021年8月)ISBN 978-4-06-524132-5
ビデオ
[編集]- 「もののけ姫」はこうして生まれた。(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、1998年6月26日)
- ラセターさんありがとう 〜「千と千尋」アカデミー賞受賞に隠された宮崎駿とジョン・ラセターの20年にわたる友情〜(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2003年11月19日)
- ジブリがいっぱいCOLLECTION「世界・わが心の旅」(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2004年7月23日)
- 宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2004年8月6日)
- 宮崎駿とジブリ美術館(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2005年3月18日)
- プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル 宮崎 駿の仕事(NHKエンタープライズ、2009年1月23日)
- ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン、2009年12月8日)
- NHK ふたり/コクリコ坂・父と子の300日戦争〜宮崎 駿×宮崎吾朗〜(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン、2012年5月16日)
- 夢と狂気の王国(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン、2014年5月21日)
- 終わらない人 宮﨑駿(NHKエンタープライズ、2017年6月23日)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- スタジオジブリ - 公式ウェブサイト
- 宮崎駿 - 日本映画データベース
- 宮崎駿 - allcinema
- 宮崎駿 - KINENOTE
- 宮崎駿 - MOVIE WALKER PRESS
- 宮崎駿 - 映画.com
- 宮崎駿 - テレビドラマデータベース
- Hayao Miyazaki - IMDb
- 宮崎駿 - Rotten Tomatoes
- 宮崎駿 - NHK人物録
ビジネス | ||
---|---|---|
先代 (新設) |
二馬力社長 1984年 - |
次代 (現職) |
文化 | ||
先代 氏家齊一郎 |
徳間記念アニメーション文化財団理事長 2011年 - |
次代 (現職) |
先代 (新設) |
三鷹市立アニメーション美術館館主 2001年 - 2021年 |
次代 中島清文 |
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