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11PM

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
WIDE SHOW 11PMから転送)
WIDE SHOW 11PM
ジャンル バラエティ
企画 井原高忠
司会者 大橋巨泉
愛川欽也
藤本義一
小島正雄
三木鮎郎
山崎英祐
江本孟紀
村野武憲
吉田照美
三枝成彰
高田純次
所ジョージ
斎藤晴彦
由利徹
関根勤
出演者を参照)
オープニング 三保敬太郎「11PM のテーマ」
エンディング 同上
製作
プロデューサー 後藤達彦
製作 日本テレビ(月曜日・水曜日・金曜日)
よみうりテレビ(火曜日・木曜日)
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1965年11月8日 - 1990年3月30日
放送時間下記参照
回数全8625

特記事項:
1968年9月30日(月)放送分からカラー放送[1](これに伴い、よみうりテレビ制作分も、翌日(10月1日(火))放送分からカラー[2])
一時期、土曜日は名古屋テレビ制作で放送していた。(#番組概要参照)
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11PM』(いれぶん・ぴーえむ)は、日本テレビよみうりテレビの制作により、1965年昭和40年)11月8日から1990年平成2年)3月30日まで約24年半にわたって日本テレビ系列で放送されていたワイドショー番組であり、深夜番組かつ日本初の「深夜お色気番組」である。基本的に生放送だった。

正式名称は『WIDE SHOW 11PM』、略称は「イレブン」。「イレピー」とも。日本テレビ製作分・よみうりテレビ製作分を区別する意味合いで「東京イレブン」「大阪イレブン」という呼称もあった。開始当初は午後のことを「PM」(Post Meridiem)と呼ぶ概念がまだ薄かった時代であり、新聞のテレビ欄に「11P・M」と記載されていた。

通算放送回数は東京イレブンが6095回、大阪イレブンが2530回、合計8625回だった。最高視聴率は1973年12月に放送された「東西ストリップ合戦」で48パーセント超だった[3]

概要

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毎週月曜日・水曜日・金曜日は日本テレビが、火曜日・木曜日はよみうりテレビが分担で制作し放送した。日本テレビでは大橋巨泉愛川欽也、よみうりテレビは作家の藤本義一が主に司会を担当し、お色気から硬派な社会問題まで幅広く取り上げた。アシスタントは朝丘雪路松岡きっこ一谷伸江らが担当した。

木曜放送分は系列各局を回りながら、その土地の名物や風俗を探訪する企画を[注釈 1]、また金曜日には週末情報の色合いを強め、釣り麻雀のコーナーを放送していた。

1972年6月からは土曜放送が加わり、名古屋テレビが制作した[注釈 2]。同局担当分はフォークソングロックなどこれまでテレビではあまり取り上げなかった分野に取り組み、毎回ミュージシャンをゲスト出演させていた。名古屋テレビ制作分は1973年3月の中京広域圏のネット再編に伴い打ち切りとなった[6][7]

詳細

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当時から「ワースト番組」「低俗番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、PTAや婦人団体から批判や抗議は多く、子供に見せたくない番組と一方的なレッテル貼りをされ[8]、当然のごとくPTAのアンケートにおいても、その子供に見せたくない番組ランキングの上位の常連に名を連ねた。政治家からの批判もあり、1975年には日本共産党中央委員会幹部会委員長(当時)の宮本顕治から「ポルノ番組だ」と非難された。コラムニストの泉麻人は、実家のテレビで「親が寝るのを見計らってこっそり観ていました」「バニーガールの太ももを舐めるような撮り方にドキッとした」と振り返る[9]

一方寺山修司山本直純などの文化人からは評判が良く、作家の井上ひさしは1972年の雑誌の中で「最良のテレビ番組は『11PM』だ。そこには知恵があり、熱気があり、一生懸命テーマを出そうとする気概がある。これが面白くなくてなんであろうか」と絶賛した[10]久米宏は熱心に11PMを視聴し、アナウンサーになってからも番組制作の参考にしたと述懐している[要出典]

オープニング・エンディング

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テーマ音楽

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シルエットのラインダンサーが踊るアニメーションをバックにしたスキャットによるオープニングテーマ、エンディングテーマは共に三保敬太郎の即興作曲によるもの。正式なタイトルは「11PMのテーマ」。

録音には2バージョンあり、オリジナルはクラシック出身の増田順平・睦美夫妻によるもので「パー!サバダバ」ではなく、「イー!サバダバ」と歌っている。「パー!サバダバ」のバージョンは番組開始1年後に再録されたもので、男声のパートは岡崎広志(岡田愛詩)、女声のパートは伊集加代による。日本テレビ制作の東京イレブンでは「パー!サバダバ」のバージョンが、よみうりテレビ制作の大阪イレブンでは「イー!サバダバ」のバージョンが使われた。1999年放送された『11回忌法要スペシャル』では、「イー!サバダバ」のバージョンが採用されている。

1980年9月25日、3人の女性グループ「あらん・どろん」が「ウィ!シャバダバ」のタイトルでカバー(ワーナー・パイオニア 規格品番:L-371W)したことから、後にこちらが一般的なタイトルとして認知されることもある。あらん・どろんは金曜の巨泉司会時代に顔出しをしてテーマ音楽を担当していた時期がある。通常のテーマ曲の後、別の歌詞での歌が入る。

2000年には「パー!サバダバ」バージョンによるオープニングテーマ、エンディングテーマ(各21秒)に加え、新たな編集によるロングバージョン(1分9秒)を加えたCDが発売された(バップ 規格品番:VPCD-82136)。「イー!サバダバ」のスキャットが含まれたオープニングテーマは1966年に日本ビクターから発売された「ミュージック・フォー・11P.M.」にて音盤化(演奏は猪俣猛オールスターズ。歌手名は表記なし)。2001年に発売されたCD「60'sTVヒッツ・コレクション」(テイチク規格品番:TECD-25463)に収録されている。

2009年、NHK-BS2の司会者を特集する番組でOPが放送され、徳光和夫が「まさかNHKでこの曲が流れるとは思わなかった」と感想を述べた。

番組内の挿入歌としては、クロディーヌ・ロンジェの「Hurry On Down」が、CM前に映されるカバーガールのバックで数秒流された[注釈 3]

テーマバックアニメーション

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  • オープニングでは時計が18:00ちょうどから23:00ちょうどを差し、時計の真ん中の丸が地球になり、地球から電波が発信し、地球が塗りつぶしの丸(切れ目がある)になり左右に動き、ラインダンサーが踊る姿、女性の裸体が描かれ、11PMの文字をかたどった星座が出て最後には"WIDE SHOW 11PM"となって登場する。
  • テーマ音楽、テーマバックアニメーション共に第1回から番組終了まで使われた。だが番組初期のアニメーションではラインダンサーの数は3人ではなく15人以上であり、女性の裸体ではなく「渦巻」が映されている。またこの時期のテーマ音楽のラストは「ドゥワー」は無かった。
  • エンディングでは地球が現れ、地球から電波が発信し、その後逆になり、地球が爆発する。次に女性の裸体が描かれラインダンサーが踊る姿の後11PMの文字をかたどった星座が出て"WIDE SHOW 11PM"となり、最後に"The End"の文字がズームアウトしていく。

開始と終了の挨拶

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巨泉と朝丘のオープニングの掛け合いである「野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝がまるで弱い朝丘雪路です」というやり取りは当時盛んにものまねの対象にされた。1999年の復活特番の際は、この年のプロ野球日本一がダイエーだったため「野球はダイエー、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝まるで弱くなくなっちゃった朝丘雪路」と自己紹介していた。

最後の挨拶は必ず、「明日(来週)は{東京・日本テレビ/大阪・よみうりテレビ}からお送りします。(おやすみなさい。)」の一言で締めくくられていた。

例:「来週は東京・日本テレビからお送りします。おやすみなさい。」

代表的な企画

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巨泉・考えるシリーズ
巨泉時代の月曜イレブンはお色気企画が多かったが、硬派な社会問題も特集した。1971年に「戦後日本の大空白」というタイトルで徴用工問題慰安婦問題を放送。沖縄返還直前の「沖縄で君は何を見たか」(1972年3月13日放送)、沖縄返還当日の「棄てられた沖縄の証言 〜返還後の沖縄の防衛を考える」(1972年5月15日放送)、1985年に起きた11歳の少年投身自殺事件(「マー先のばか」と書かれた遺書)など、政治・事件・事故など数々の社会問題を取り上げ、1972年5月9日に第9回ギャラクシー賞・放送批評家賞を受賞した[11][12]
 1982年の1月から3月にかけて計5回放送された「日韓シリーズ」は大きな反響を呼び、3月1日には韓国放送公社で総集編という形で韓国でも放送された。巨泉は、「このシリーズ1本のため、残り364日はバカを言ってもいい」と語っていたと言う。プロデューサーの都築忠彦は視聴率は取れるときに取ればいいという考えで、取れるものでベースを作った上で、あとからテーマ性のあるものを打ち出して制作したと語っているが、後に雑誌『中央公論』での対談で田原総一朗から「何で低視聴率になってしまう韓国問題や沖縄問題をやるのか」と聞かれたという[12]
 日本テレビが毎年8月に開催する大型チャリティー番組24時間テレビ 「愛は地球を救う」』はこのシリーズの「世界の福祉特集」が元となっており、同番組スタッフが日本テレビ開局25周年記念番組の社内コンペで同特集を企画として出して採用されたとしている。なお、アメリカ合衆国で毎年開催されている『レイバー・デイ・テレソン』を参考にしたという指摘もあるが、24時間テレビの発案者でもある都築はこれを否定している[12]
久里洋二のミニミニアニメーション
1966年から1982年まで、月曜イレブンのコーナーとして800本近いショートテレビアニメが放送されていた。
裸の報告書シリーズ
ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」のテーマ曲で始まる月曜イレブンのお色気企画。主にいその・えいたろう(風俗ライター)やカルーセル麻紀がリポーターを務め、トルコ風呂(現在:ソープランド)などの性風俗産業の取材を行い、裏文化の仕掛け人の紹介をした。
UFO超能力特集
1970年代中盤以降、月曜イレブンで年に数回、UFOや超能力に関する特集が組まれた。番組後年は水曜に放送していた。
TIME GANG(タイム・ギャング)(よみうりテレビ制作)
1979年から1987年までの火曜イレブンでは、構成に東京同様のマガジン形式を採り入れ、特に「TIME GANG」のサブタイトルを付けて放送した。進行は羽川英樹(当時よみうりテレビアナウンサー)や初期は高橋基子が務め、レポーターとして横山プリン、後年はタージン九十九一らが登場していた。司会の藤本義一はまとめ役(コメンテーターに準じたもの)に回った。ただし、バーテンダー役の野村頻紹との掛け合い生CMは引き続き放送した。後述する「秘湯の旅」はこの「TIME GANG」のコーナーの一つである。
裸のヨガ(よみうりテレビ制作)
火曜イレブンの企画。文字どおり、海岸で女性モデルが全裸(前が映る時はトップレス)でヨガのポーズを披露していた。
秘湯の旅(よみうりテレビ制作)
火曜イレブンの企画。「うさぎちゃん」と呼ばれた女性リポーターが全裸に近い状態で、数々の温泉を紹介した。「効能」という言葉もこのコーナーから広まった。
イレブンルーレット
1986年4月から9月まで、所ジョージが担当した水曜イレブンで放送。番組のセット自体が巨大なルーレットとなっており、電話による視聴者参加形式でルーレットゲームを行った。
イレブンフィッシング
金曜イレブン冒頭の趣味企画。釣り名人・服部善郎(読売映画社(当時)プロデューサー)が主に海釣りをレポートしていた。聞き手は横田岳夫ディレクターが担当した。また釣りが趣味の巨泉も率先してロケに参加していた。
麻雀実践教室
金曜イレブンの趣味企画の一環として放送され、麻雀番組の走りとなっていた。
CAR GUIDANCE
1966年に大橋巨泉が金曜イレブンのホストになってから1985年に降板するまで続いた長寿コーナー。当初は巨泉が担当していたが、後に番組内で「悪役」と呼ばれたレギュラー出演者の小林昭男や女性リポーターが新型車をメーカーを問わず紹介し、週によっては輸入車も取り上げることもあった。
イレブンダービー
競馬に見立てた双六ゲーム。一般視聴者が電話で参加し1対1で競われた。いろは順の(イ - ヌ)×(1 - 10)の数字に構成されたパネル100枚の中から交互に1枚ずつ選び、書かれた数字分だけ進む。ただし、マイナスも隠れており、選んでしまった場合は数字分だけ戻らなくてはならない。また、「落馬」もあり、この場合はその時点で失格となる。先にゴールした視聴者が勝ちとなった。巨泉時代の金曜イレブンで放送された。『スーパークイズスペシャル』に巨泉がゲストで出演したとき、巨泉の司会で、番組出場者が参加する形にしてこの企画の復活版が行われたことがある。マス目を示すボードには「イレンダービー」と記載してあった。
 このコーナーの箇所は、1968年1月1日放送された『ある日わたしは』というテレビドラマでも再現されており、バニーガール役として城山ゆり子(松原智恵子)とその友人の夏子(梶芽衣子)、美枝(橘和子)が担当している。
海外ロケ
当初は小島や巨泉があまり知られていない海外(主にヨーロッパ)を旅して紹介するものだったが、かたせや秋川などの女性アシスタントのグラビアシーンも取り入れられた。また、ロケ地の夕陽の映像を必ず撮影していき、そのシーンを紹介したコーナーもあった。
異色対談
違う世界の大物著名人が、予備知識なしで対談するという企画。林家三平オノ・ヨーコ輪島功一金子光晴竹村健一五味康祐など様々な対談があった。
紅白ストリップ合戦
全国から人気ストリップ嬢が集合し紅白形式に分かれ、"艶技"を披露する年末恒例企画。1974年12月30日には番組史上最高視聴率をマークした。
夜のレコード大賞(よみうりテレビ制作)
年末企画。有線放送のデータをもとに審査され、大賞などが決定される。後に独立して『全日本有線放送大賞』と改称され、現在は『ベストヒット歌謡祭』として放送されている(ただし賞レース形式は2010年をもって撤廃されている)。
各界名士のど自慢
年内最後の放送の年末企画。政治家、社長、文化人などが歌を披露した。終了後も独立した特番として1993年ごろまで続いた。
上方お笑い芸人紅白歌合戦(よみうりテレビ制作)
大阪発の年内最後の放送における関西芸人たちによる年末企画。司会は羽川英樹で藤本は審査員だった。

創設期

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視聴率不毛の時間帯」とされていた深夜番組の時間帯の開拓に乗り出し、日本教育テレビ(NETテレビ、現在:テレビ朝日)の『モーニングショー』同様、アメリカの深夜情報番組ザ・トゥナイト・ショー』をヒントに企画された。「お色気番組の元祖」的な位置づけをされる番組だが、初期は週刊読売編集長だった山崎英祐が司会を務め、時事問題についての考察を述べるスタイルの、日本テレビ報道局制作の硬派番組であった。

しかし全く視聴率が取れず、テコ入れ策として横田岳夫ディレクターから「どうしたらいい?」と相談を受けた大橋巨泉が「今まで扱ってこなかった“遊び”の要素を取り上げたら?深夜だから大丈夫だろう」と提案。横田も同調し番組の変革を思案したが、司会役を巡って調整が難航(三橋達也をはじめ高島忠夫藤村有弘ら4人ぐらいのタレントに司会を打診したがいずれも断られてしまった[13])、ついに横田から「いっそのこと巨泉、自分で喋っちゃったら?」と頼まれたため、「巨泉のなんでもコーナー」という名前で巨泉自らコーナー司会を務めることになった[14]。その後、山崎に代わる司会として打診した小島正雄に「(月曜日・水曜日・金曜日の)週3日はしんどいから2日にしてくれ」と要望されたことがきっかけで、横田の推薦で既に番組視聴者に顔と名前が知られていた巨泉に白羽の矢が立つ。これを機に巨泉はこれまでの放送作家から司会者に転身することとなった[13]

巨泉は月曜日・金曜日・週2回司会を務めることになったが、月曜日も担当することになったのは1968年1月に小島が突然急死して後釜の手配がつかなかったためで、当初は月曜日・水曜日についてはピンチヒッターという扱いで日本テレビ制作の3日分すべての司会を巨泉が担当した。そして2月中旬から水曜日は当時の大阪イレブンで人気を得ていた元芸妓の安藤孝子の起用例に倣い、銀座の現役クラブママであった堤妙子を起用[注釈 4]、月曜日については局側の意向が強く働いたこともあり結局そのまま巨泉が正式な後任となった[15]

放送時間

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当初は月曜日 - 木曜日はタイトル通り23:00丁度のスタートで、金曜日のみ『日本プロレス中継』や『金曜夜席』の放送があったため、23:15スタート。NNN最終版ニュース『きょうの出来事』をインサートした。後に『きょうの出来事』は23:00丁度に放送時間が移動して再び独立し、『きょうの出来事』の放送時間拡大が進むにつれ、『11PM』は放送時間が23:15→23:10→再び23:15→23:20→23:30(金曜日は『TVムック・謎学の旅』が入ったため23:45)というように放送時間が繰り下がってゆく。番組末期には23:55スタートとなり、プロ野球中継(巨人戦)の時間延長やゴールデンタイムの特別番組の影響で午前0時台にスタートしてしまうことも少なくなかった。

最も遅く始まった回は、1988年7月26日放送の火曜イレブンで、日本テレビが中継したプロ野球オールスターゲームの放送が1時間延長されたため、0:55からスタートした。また、23:15スタートの時代にはタイトルロゴに「+15」が、23:20スタートの時代には「+20」が付加されていた。

基本的に本番組は生放送だったが、状況によって収録の場合もあったとされ、末期の金曜レギュラーの吉田照美が『日刊ゲンダイ』の短期連載で記したところでは、本番数時間前の夕方に疑似生放送(いわゆる撮って出し)で収録することが多かったとのことである[注釈 5]。当時、高校生であり、法律により本来出演できる時間帯ではない小栗香織が金曜日に出演していたのはそれが理由である[16]

放送期間 放送時間(JST
月曜 - 木曜 金曜
1965年11月8日 - 1966年9月30日 23:00 - 翌0:00(60分) 23:15 - 翌0:00(45分)
1966年10月3日 - 1969年3月28日 23:15 - 翌0:15(60分)
1969年3月31日 - 1972年3月31日 23:10 - 翌0:20(70分)
1972年4月3日 - 1974年3月29日 23:15 - 翌0:23(68分)
1974年4月1日 - 1980年3月28日 23:15 - 翌0:21(66分)
1980年3月31日 - 1985年4月4日 23:20 - 翌0:25(65分)
1985年4月5日 - 1988年4月1日 23:30 - 翌0:35(65分) 23:45 - 翌0:50(65分)
1988年4月4日 - 1990年3月30日 23:55 - 翌0:55(60分)

特記事項

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制作
  • 企画段階では月曜から金曜まで全曜日を日本テレビが制作する予定だったが、当時の日本テレビ内部では社員の労働超過が問題になっており、労働組合が猛反発。会社側が「日本テレビ制作は月曜日・水曜日・金曜日の週3日とし、火曜日・木曜日はよみうりテレビに制作を委託する」という妥協案を出し、これを組合側が受け入れて番組が制作された。尚、後の番組好評を受けて、1967年夏より土曜22時台にてよみうりテレビ制作による土曜版の放送が開始(司会は曾我廼家明蝶)されたが、1968年5月までの短期間で打ち切られている。この体制は後番組の『EXテレビ』→『どんまい!!→TVじゃん!!』にも受け継がれたが、『ZZZ』では地方局の多くも参加(ただし、制作は東京のプロダクションに丸投げ)。それが発展解消した現在の『夜は別バラ→しんバラ→バリューナイト→プラチナイト』では、木曜日[注釈 6]に限りよみうりテレビが制作を担当している[注釈 7][注釈 8]
  • 大阪担当の木曜日は時折ネット局各社との共同制作となり、藤本などの司会者が日本各地に出張して放送された。内容は大抵が「〇〇県の風俗」となっていたが、ここで言う「風俗」とはどちらかといえば「民俗」に近い、真面目な物が多かった。
  • 最初のCMに入る前には必ず製作(制作)著作のロゴ表記をしていた(最後の挨拶でも同様)。
    例:「製作著作(当時の社章)日本テレビ[注釈 9]」「制作著作 よみうりテレビ」
見識
  • 明石家さんまのテレビデビューは当番組の大阪イレブンで、「落語家の成人式」という副題で「SEXの四十八手以外に知っている技は」という質問に「逆さ十文字落としでぇーす」と答え、説明してウケたが、司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言っていいことと悪いことがある。それぐらい覚えて出て来い!」と本番中に叱責された事を後年語っている。
時事
記念番組
  • 節目ごとに「○○周年記念祭」のスペシャルがあり、巨泉・愛川・藤本の3人やレギュラー出演者が一堂に会した。過去に、8周年・10周年・15周年・20周年に行われた。司会は徳光和夫で、後の『11回忌法要スペシャル』でも会場の司会進行をしている。
録画放送
  • 稀に月曜日・金曜日のプロ野球・巨人戦ナイター中継において、月曜日は公開生放送の『NTV紅白歌のベストテン』、『ザ・トップテン』、金曜日は『太陽にほえろ!』の放送が優先されることがあったため、試合時間内での生中継が出来なかったこと、また北海道遠征(北海道シリーズ)については平日のデーゲームであったことから、その場合『11PMナイター』と称して録画ダイジェスト中継が行われた。また、日本プロゴルフ選手権大会の開催日にも予選ラウンド2日間を、さらに野球・ゴルフ以外の競技も録画中継したことがあった他、最終年度の1989年など読売ジャイアンツが優勝した年には祝勝会の録画中継や優勝までのドキュメントをまとめた優勝特番を放送した事もあった。いずれも先述した重大ニュース発生時と同様に「11PM」の題を残しながら放送されていた。これは後継番組の『EXテレビ』でも同様だった。
  • 1969年11月28日には日本テレビの労働組合ストライキを決行したため生放送を行うことができず、急遽、過去の収録分を再放送したことがあった[18]
  • 1972年から1975年まで全日本女子プロレスの録画中継も年4回の割合で行った。全女の中継はフジテレビの『全日本女子プロレス中継』が有名だが、当時の看板レスラーだった赤城マリ子がきっかけとなり彼女をメインエベンターとして独占的に放送していた。また全日本女子プロレスの後楽園ホール初進出も1973年5月30日放送分であった。
放送時間の短縮
  • 1974年には第1次オイルショックによる電力節減の一環として放送終了時間の繰り上げ措置が行われていた。日本テレビでは1月7日から0:25終了としたためこの番組への影響は少なかったが、1月14日からその措置がとられたよみうりテレビでは在阪民放4局[注釈 11]の社長会の取り決めで0:00終了となったため、よみうりテレビでは放送途中の0:00で放送終了となり、また同局が制作していた火曜・木曜分は0:00以降はネット局への裏送りになった。その後オイルショックの状態が緩和されたことにより在阪4局の取り決めが解消されたため、5月6日よりよみうりテレビの放送終了時間が0:25となり、同日から通常の放送に戻った[19]
出演拒否
  • 同じ日本テレビの『テレビ三面記事 ウィークエンダー』の1975年10月18日放送の回で、9月のストリップ小屋への警察による一斉摘発・抜き打ち捜査の事件を採り上げた際に泉ピン子が「スパっと脱いで一日8万円なら、私もやりたいわ」と発言したことに、ストリッパーで構成する組織「日本成人実演舞踊協団」が抗議した。日本テレビの番組制作の姿勢にも対立・抗議し、「今後は日本テレビの番組への出演は一切辞退させていただく」として、12月29日に本番組で放送を控えていた「恒例!年忘れ大狂乱 紅白ストリップ合戦」についても同協団に所属する30人のストリッパーの出演の拒否を表明するという騒ぎになった[20](この他の詳細についてはテレビ三面記事 ウィークエンダー#取り上げた話題も参照)。その後、同協団との和解が成立し、12月29日の紅白ストリップ合戦は予定どおり放送された。

出演者

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月曜日・水曜日・金曜日(日本テレビ製作)

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司会者・アシスタント
期間 司会者 アシスタント
月曜日 水曜日[注 1] 金曜日 月曜日 水曜日 金曜日
1965年11月8日 - 1966年4月1日 山崎英祐 高原良子
1966年4月4日 - 1967年12月1日 小島正雄 大橋巨泉 (不在) 朝丘雪路[注 2]
1967年12月4日 - 1968年2月2日 應蘭芳[注 3]
1968年2月5日 - 3月29日 大橋巨泉
[注 4]
堤妙子[注 4]
1968年4月1日 - 6月28日 沢知美 (不在)
1968年7月1日 - 8月30日 朝丘雪路[注 5]
1968年9月2日 - 1969年4月4日 三木鮎郎 ジューン・アダムス
1969年4月7日 - 1971年10月1日 松岡きっこ
1971年10月4日 - 1973年12月28日 ジュディ・アントン
1974年1月4日 - 1977年12月30日 愛川欽也 秋川リサ[注 6]
1978年1月4日 - 1981年12月30日 かたせ梨乃
1982年1月4日 - 5月28日 朝倉匠子
1982年5月31日 - 1983年5月27日 梓みちよ
1983年5月30日 - 1985年3月29日 高樹澪
1985年4月1日 - 9月27日 江本孟紀 秋野暢子
1985年9月30日 - 1986年3月28日 村野武憲
吉田照美
戸川京子
1986年3月31日 - 9月26日 三枝成彰
高田純次
所ジョージ
斎藤晴彦
由利徹
村上里佳子[注 4] (不在)
1986年9月29日 - 1987年6月26日 斎藤晴彦
由利徹
松金よね子
浅田美代子
1987年6月29日 - 1988年4月1日 斎藤晴彦
関根勤
冴木杏奈
1988年4月4日 - 12月30日 三枝成彰
吉田照美
高田純次
関根勤
中川比佐子 井森美幸
財前直見
1989年1月4日 - 3月31日 井森美幸
鷲尾いさ子
1989年4月3日 - 1990年3月30日 高田純次
吉田照美
鷲尾いさ子 井森美幸
  1. ^ 愛川の水曜日司会担当時、今野雄二がサブ司会を務めたが、詳細な担当期間は不明。
  2. ^ 巨泉の金曜司会就任当初、パートナーは週替わりのゲスト制を採っていたが、5週目のゲストパートナーとして朝丘がゲスト出演した際の両者の掛け合いが好評であったことから1966年5月より正式にレギュラーに起用された。
  3. ^ 朝丘の結婚・妊娠休業に伴う代役として出演。
  4. ^ a b c 小島の急死(1968年1月17日に急逝)に伴うもので、小島急逝後の1か月間は水曜日も含めて巨泉がピンチヒッターという形で務めていた(2月中旬以降、水曜日は堤と交代、月曜日は正式に後任となった)。
  5. ^ 1974年1月から3月は妊娠休業のため由紀さおりが代理パートナーとして出演。
  6. ^ カバーガール担当期間を含むが、アシスタント着任時期は不明。
カバーガール

火曜日・木曜日(よみうりテレビ制作)

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司会者・アシスタント
期間 司会者 アシスタント
メイン サブ
火曜日 木曜日 火曜日 木曜日 火曜日 木曜日
1965年11月9日 - 1969年8月28日 藤本義一
[表注 1]
(不在) 安藤孝子
1969年9月2日 - 1970年8月27日 市川靖子
1970年9月1日 - 1971年9月2日 笹田泉
1971年9月7日 - 1976年10月28日 真理アンヌ
1976年11月2日 - 1977年10月27日 岸じゅんこ
1977年11月1日 - 1978年6月1日 多田千香
1978年6月6日 - 12月28日 東てる美
1979年1月4日 - 8月2日 横山エミー
1979年8月7日 - 1980年5月29日 テレサ野田
1980年6月3日 - 1981年4月2日 秋本圭子
1981年4月7日 - 1985年3月28日 松居一代
1985年4月2日 - 1988年3月31日 吉田由紀
1988年4月5日 - 9月29日 桂べかこ (不在) (不在) 遙洋子
1988年10月4日 - 1989年3月30日 池田裕子
1989年4月4日 - 1990年3月29日 浦島三和子
表注
  1. ^ 藤本は唯一の皆勤出演
カバーガール

土曜日(よみうりテレビ制作)

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土曜日(名古屋テレビ制作)

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土曜日(日本テレビ制作)

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  • 1973年4月 - 1974年3月:佐藤允
    • アシスタント:奈美悦子(1973年4月 - 8月)→風間千代子(1973年9月 - 12月)→鶴間エリ(1974年1月 - 3月)

ネット局

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『11PM』はNNN系列外の局でも放送された一方で、オイルショックの影響や内容の過激さ、他系列ネットなどを理由に打ち切った系列も多く、特に『スポーツワイド・プロ野球ニュース』(FNNFNS系列)開始後は、そちらに切り替える局も現れた[注釈 14]。そのため1990年3月の終了時にフルネットで放送していた局はNNN16局と、他系列とのクロスネット局2局の18局にまで減少していた[注釈 15]。ここでは各地区での放送状況を取り上げた。

なお、後番組が『プロ野球ニュース』扱いとなる局には★を付けている。『プロ野球ニュース』の系列外ネットは1994年3月で終了[注釈 16][注釈 17]

放送対象地域 放送局 放送期間 放送状況・備考
関東広域圏 日本テレビ 月曜・水曜・金曜制作局
近畿広域圏 よみうりテレビ 火曜・木曜制作局
中京広域圏 名古屋テレビ 1973年3月打ち切り 1972年6月から打ち切りまでは土曜制作局[6][7]
変則クロスネット解消に伴う打ち切り。
中京テレビ 1973年4月 - 1990年3月 フルネット[注釈 18]
北海道 札幌テレビ 1966年5月2日 - 1990年3月[22] フルネット[注釈 18]
青森県 青森放送 1967年11月1日[23] - 1977年9月30日[24][注釈 19] NNN加盟局で最初に打ち切った。[要出典]
東日本地区では最初にネットを打ち切った[25]
岩手県 テレビ岩手 1969年12月 - 1990年3月 フルネット[注釈 18]
秋田県 秋田放送 1982年ごろ[いつ?]打ち切り[注釈 19]
山形県 山形放送 1966年6月1日 - 1978年3月31日[注釈 19]
宮城県 仙台放送 1966年10月3日 - 1970年9月30日[26] 日本テレビ系列新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。
ミヤギテレビ 1970年10月 - 1990年3月 フルネット[注釈 18]
福島県 福島中央テレビ 1971年10月1日 - 1990年3月 フルネット[注釈 20]
山梨県 山梨放送 フルネット。
新潟県 新潟総合テレビ
(現在:NST新潟総合テレビ
1973年4月 - 1981年2月27日[28] フルネット[29]
日本テレビ系列新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。
テレビ新潟 1981年3月25日(サービス放送開始)[30] - 1990年3月 フルネット[注釈 18]
長野県 信越放送 1975年4月 - 1980年9月 月曜日・金曜日のみ。
テレビ信州 1980年10月 - 1990年3月 フルネット[注釈 18]
静岡県 テレビ静岡 1972年4月 - 1976年3月[31]
静岡けんみんテレビ
(現在:静岡朝日テレビ
1978年7月 - 1979年6月 日本テレビ系列新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。
静岡第一テレビ 1979年7月 - 1990年3月 フルネット[注釈 18]
富山県 北日本放送 1988年4月8日放送分を最後に打ち切り[32][注釈 19] ネット開始当初から1974年7月1日まではフルネット。
その後何度もネットする曜日が変動し、最終的には月曜日・水曜日・金曜日のみとなった。
石川県 北陸放送 1976年10月6日 - 1978年3月29日(水)[33]
1975年4月4日 - 1977年3月25日(金)[34]
水曜日・金曜日のみ。
テレビ金沢 1990年3月のみ サービス放送時のみ。
『11回忌法要スペシャル』はネット。
福井県 福井放送 フルネット。
1989年4月からはテレビ朝日とのクロスネット局。
鳥取県島根県 日本海テレビ フルネット。
当初は鳥取県のみで放送、1972年9月の島根県への相互乗り入れで島根県でも放送開始。
岡山県香川県 西日本放送 フルネット。
当初の免許エリアは香川県のみで、1983年4月の岡山県への相互乗り入れで岡山県でも放送開始。
広島県 広島テレビ 1966年4月 - 1990年3月 フルネット。
年度により、ゴールデンタイムの差し替えが困難な9月下旬から10月ごろは、ローカル版の『11PMナイター』として広島東洋カープ主催ゲームの録画中継に差し替える事があった。
山口県 山口放送 1967年5月1日[35] - 1978年3月末打ち切り[36][注釈 19] [注釈 21]
徳島県 四国放送 1969年[注釈 22][注釈 23] - 1980年7月までに打ち切り[38][注釈 24][注釈 19]
愛媛県 南海放送(注) 1984年4月 - 1990年3月[注釈 25] フルネット。
高知県 高知放送 1980年代に打ち切り[注釈 19] 月曜・水曜・金曜のみネット。
福岡県 福岡放送 1969年4月 - 1990年3月 フルネット。
長崎県 テレビ長崎 1969年4月 - 1982年3月
『11回忌法要スペシャル』は長崎国際テレビがネット。
熊本県 テレビ熊本 1969年4月 - 1981年12月
くまもと県民テレビ 1982年4月 - 1990年3月[注釈 18] フルネット。
大分県 テレビ大分 1970年4月 - 1990年3月[注釈 18] 金曜版は1985年9月打ち切り。
宮崎県 テレビ宮崎 1970年4月 - 1981年9月[注釈 19]
鹿児島県 鹿児島テレビ 1969年4月 - 1990年3月 金曜版は1985年3月打ち切り。
『11回忌法要スペシャル』は鹿児島読売テレビがネット。
沖縄県 琉球放送 1975年4月 - 1983年3月 1977年4月 - 1979年9月の間はフルネット。
当初は月曜日 - 木曜日のみ放送。金曜深夜に放送されていた『新・必殺仕置人』を5話で打ち切りにした上でフルネットを開始。
『11回忌法要スペシャル』は沖縄県では未ネット。
 注
南海放送は日本テレビ系列ではあるが、編成方針にそぐわないとして長年当番組をネットしなかった。開始当初はいわゆる成人向きとみなし、放送エリアである愛媛県の風土に馴染まないことと、深夜のローカルニュースを廃止できないのが理由であった[39]。しかし1984年4月改編で「ニューメディア」を強く意識した大改編を断行。『必殺シリーズ』『特捜最前線』など娯楽番組を占めていた深夜帯にもメスが入り、遂にネットされることになった[40]

主なスタッフOB

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日本テレビ/東京イレブン
  • 井原高忠:番組企画立案者。1965年当時、アメリカで放送されていた情報番組を参考に立ち上げた。
  • 後藤達彦:初代プロデューサー。報道局からの参加で井原とともに番組立ち上げに尽力。テコ入れ後もただ一人報道局から番組に残り、井原が去った後は『11PM』を支える存在に。スポーツ局次長などを経て、制作局長を最後に退職[注釈 26]
  • 横田岳夫:裏方だった大橋巨泉を司会に抜擢。金曜イレブンで釣り・ゴルフ・麻雀など遊びを番組に取り入れた。巨泉からは「よこちん」と呼ばれた。
  • 石川一彦:2代目プロデューサー。当番組での自由な発想を礎に『木曜スペシャル』を開始。のちに、常務取締役になる。
  • 高橋進:愛川欽也司会時の水曜イレブンのディレクター・プロデューサー。音楽・映画などの最新の流行情報を番組に取り入れた。番組後期は制作[注釈 27]を担当。その後は制作局長、よみうりテレビ専務取締役を歴任。
  • 赤尾健一:制作会社日企会長。『うわさのチャンネル』『お笑いスター誕生!!』などを演出。
  • 神戸文彦:中後期の東京イレブンのディレクターで、当枠の後番組『EXテレビ』(東京版)のプロデューサーも担当した。今も『仮装大賞』などを手掛ける現役ディレクター。
  • 矢追純一UFO研究家。最初にUFOを取り上げたのは11PMディレクター時代。
  • 都築忠彦:『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の生みの親。社会派名企画「巨泉・考えるシリーズ」を担当。
  • 菅原正豊:制作会社「ハウフルス」社長。『マジカル頭脳パワー!!』『THE夜もヒッパレ』などヒット作品多数。
  • 景山民夫:放送作家として参加。
  • 木崎徹:放送作家・音楽プロデューサー。立教大学の学生の時に、鳥塚しげきの紹介でAD - ディレクターとして番組に参加[41]
  • 勝田健:チーフプロデューサー。『久米宏のTVスクランブル』立ち上げにも尽力[42]
よみうりテレビ/大阪イレブン
  • 白岩久弥:「11PM」担当時は藤本義一にその演出スタイルを絶賛された。当枠の後番組でプロデューサーを担当した『EXテレビ』(大阪版)や、『パペポTV』などでTVの新機軸を開いた。
  • 諏訪道彦:アシスタントディレクターとして参加。その後、東京制作局→制作局・東京制作センター、編成局・アニメ事業部へ異動。『シティーハンター』『名探偵コナン』などのアニメ番組のプロデューサーとして活動中。

11PM 11回忌法要スペシャル

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11PM
11回忌法要スペシャル
番組の生放送が行われた赤坂プリンスホテル
ジャンル 特別番組/深夜番組
構成 浜田悠、長谷川勝士小山薫堂高橋洋二
総監督 神戸文彦、望月和雄
ディレクター 加藤就一(日本テレビ)、千葉昭(ハウフルス)
演出 菅原正豊(総合。ハウフルス)、小路丸哲也(えすと
出演者 徳光和夫
福澤朗
爆笑問題
大橋巨泉
愛川欽也
藤本義一
ほか
ナレーター 武田広鷹西美佳(日本テレビアナウンサー)
オープニング 『11PMのテーマ』
エンディング 同上
国・地域 日本の旗 日本
言語 日本の旗日本語
製作
チーフ・プロデューサー 柏木登
プロデューサー 笹尾光
編集 鈴木教全
制作 ハウフルス
製作 日本テレビ
放送
放送チャンネル日本テレビ系列
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1999年(平成11年)11月11日
放送時間木曜 23:37 - 0:50
放送分113分
回数1回

特記事項:
制作協力:よみうりテレビ
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1999年(平成11年)11月11日、この日の日付に11が並んだこと、また終了からおよそ満10年(数えで11年)経ったことから『11PM 11回忌法要スペシャル』が、11月11日23:37 - 0:50[注釈 28]一夜限りでNNN30局[注釈 29]で放送され、大橋巨泉ら歴代の司会者をはじめ、番組にゆかりのある有名芸能人が一堂に会した。

番組内容は、11PM11回忌法要と銘打たれたパーティの中継で、赤坂プリンスホテルロイヤルホールのメイン会場は徳光和夫の司会進行で行われた。メインステージは祭壇を模しており、遺影の部分は番組のシンボルだった23:00を指す懐中時計のオブジェで、位牌も作られており、「性楽院深夜拾壱開拓居士」と戒名まで記されていた。

巨泉や愛川、朝丘らがスタジオ形式でフリートークを行う会場入口前セットの進行は福澤朗で、当時日本テレビのアナウンサーだった福澤は巨泉から「給料制か。フリーになって、ウチの事務所(オーケープロダクション)に来い」とツッコまれていた[注釈 30]。番組の基本ベースは、番組の生い立ちを人の生涯に見立てた、過去のお宝映像を紹介するVTR企画とそれに沿ったフリートークで展開され、会場入口前セットでは爆笑問題が11PMの歴史を振り返るフリップ漫才などが行われたほか、メインステージでは、千堂あやかによるストリップショーが披露され、放送された。パーティの終盤には藤本義一を始めとする大阪イレブンの面々も駆けつけ、番組の最後に巨泉、愛川、藤本の3人がトークし、現在のテレビ番組に対して苦言を呈していた。

番組のメインスポンサーには当時と同じサントリートヨタ自動車資生堂(「ご覧のスポンサー」扱い。なお表記は「アウスレーゼ」名義)が付き、番組名物だったサントリーの生CMも再現され、巨泉と松岡きっこがサントリーの商品を紹介、メイン会場のパーティでもサントリーのアルコール類で乾杯が行われた(CMのコピーは「サントリーのワインで21世紀を祝おう」)。

この11回忌法要スペシャルは、本放送当時の現役スタッフだった菅原正豊率いるハウフルスが制作を担当し、菅原も総合演出として参加した。なお、よみうりテレビは制作協力扱いで製作著作は日本テレビだった。

スタッフ

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  • 構成:浜田悠、長谷川勝士小山薫堂高橋洋二
  • ナレーション:武田広鷹西美佳(日本テレビアナウンサー)
  • 編集:鈴木教全
  • 協力:ビデオプロ
  • 制作進行:内田佳代子
  • 制作スタッフ(日本テレビ):河西裕、梅原幹、栗原甚、朝倉康晴、田澤実、馬場誠、高井昭男、上田知洋
  • 制作スタッフ(読売テレビ):松本芳久、三好順作
  • 製作スタッフ(ハウフルス):津田誠、鈴木正和
  • ディレクター:加藤就一(日本テレビ)、千葉昭(ハウフルス)
  • 演出:小路丸哲也(えすと
  • 制作協力:How Fulls、よみうりテレビ、NTV映像センター
  • プロデューサー:笹尾光
  • チーフプロデューサー:柏木登
  • 総合演出:菅原正豊(ハウフルス)
  • 総監督:神戸文彦、望月和雄
  • 製作著作:日本テレビ

再放送・ライブラリー

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  • 2012年1月、ホームドラマチャンネルで、愛川欽也が司会を担当した水曜日のみ「愛川欽也セレクション」として1978年、1982年、1983年放送分から6本が再放送された(権利関係により一部の音楽の使用部分をカット)。同番組が地上波を含めて再放送されるのは初めてのことである。番組の始めと終わりに、愛川欽也・朝倉匠子の二人が当時の思い出を語る数分のトークが追加された。
  • 2014年2月から、衛星劇場の「ミッドナイトアワー」枠で、土曜イレブンや末期の日本テレビ制作の当番組が月1本のペースで再放送されていた。肖像権などの権利関係により、ヌードになるモデルの顔や裸にはボカシが施されたり、一部内容をカットした配慮を加えた放送内容となっていた。
  • 横浜市にある放送ライブラリーでは以下の5本が閲覧可能となっている。
    • 1970年5月7日放送分「田谷力三ショー」
    • 1973年1月1日放送分「テレビ20年 なつかしの名シーン」
    • 1980年11月20日放送分「今夜よみがえる東北の芸人たち」
    • 1982年3月1日・3月8日放送分「韓国から見た日本〔2〕〔3〕」

パロディー

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脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ STVとの共同制作「11PM SAPPORO」など[4]
  2. ^ 名古屋テレビからのレギュラー化以前にも共同制作で「11PM Nagoya」が不定期で放送されたこともある[5]
  3. ^ シングル盤「ハリー・オン・ダウン」には、「よみうりテレビ「11PM」番組挿入歌」の表記や、11時の時計が描かれたものなどがある。
  4. ^ 但し起用当初より司会者経験ゼロの堤の進行ぶりを不安視する向きがあり、堤は当初契約通り半年で降板。その後8月下旬よりサントリーのインフォマーシャルを担当していた三木鮎郎が水曜司会を担当することとなった。
  5. ^ 吉田照美が出演していた当時の「金曜イレブン」は、10代後半から20代の女性モデルをレギュラーに起用(「SOS歌劇団」という番組内グループ)していたこともあり、彼女たちのスケジュール(10代のメンバーは一部に法律などによる出演時間の制約がかかる者もいた)に配慮しての「擬似生放送収録」が多かったようである。
  6. ^ 一時期『プラチナイト』の枠外だった時期あり。
  7. ^ 一時期、中京テレビの制作枠があった時期は日本テレビ制作枠が週2日となっていた。
  8. ^ 2019年4月からは金曜日に枠が設置されることに伴い、水曜日が中京テレビ制作に変更。これにより、日本テレビ制作が週3日の体制は維持となる。
  9. ^ 1985年3月までは「製作(社章)日本テレビ」(他局と異なり「著作」の表記がなかったため)。また当番組において、日本テレビ製作時のロゴ表記は手書きやゴシック体がほとんどだったが、エンディングのスタッフロールでは正規の局ロゴが表示されていた。
  10. ^ 当時、沖縄では未放送。
  11. ^ 1974年当時テレビ大阪は未開局。
  12. ^ 1979年 - 1980年2月
  13. ^ 1935年生の女優とは同姓同名の別人。本名同じ。1960年3月23日東京都生まれ。東京立正短期大学を1980年3月に卒業。1980年3月に「今週のギャル」コーナーに出演したが、出演した際の反響が大きかったことから1980年5月からカバーガールとなった[21]
  14. ^ 開始時、プロ野球ニューススタッフは本番組をかなり意識しており、キャスターに当時の月曜・金曜担当であった巨泉を引き抜く話もあったという。
  15. ^ 後述の、11回忌法要スペシャルは沖縄県を除く30局ネット(長崎国際テレビ鹿児島読売テレビを含む)で放送された。
  16. ^ 1994年4月スタートの『ニュースJAPAN』への内包となり、FNN単独加盟局以外でのネットが事実上不可能になったため。
  17. ^ これに伴い、四国放送高知放送テレビ宮崎は『どんまい!! VARIETYSHOW&SPORTS』よりネット再開した。
  18. ^ a b c d e f g h i 11回忌法要スペシャルもネット。
  19. ^ a b c d e f g h 11回忌法要スペシャルはネット。
  20. ^ ネット交換前日本テレビ系列NNNのみ)だった福島テレビではネットされなかったが、福島テレビ福島中央テレビとのネット交換により1971年10月1日からネット開始[27]
  21. ^ エログロ低俗化を訴えた後、『ミセス&ミセス』と共に打ち切り。ただし、1983年10月12日は田中角栄の判決に関する内容だったので、「報道スペシャル」の題に置き換えた上で放送した。当番組の後番組である『EXテレビ』は1993年10月に山口放送がNNSフルネット局になってから放送を開始したほか、『ミセス&ミセス』の後番組である『ルックルックこんにちは』も当初は時差ネット(一時期放送なし)で開始したが、1993年10月以降はフルネットで放送した。
  22. ^ 放送開始した1965年12月時点ではネットしていない[37]
  23. ^ 「テレビ欄」『朝日新聞』大阪版、1969年4月30日、9面。
  24. ^ 1975年3月時点では既に打ち切っていた。
  25. ^ いったん打ち切りにし、後に再開。
  26. ^ 当時の上層部との折り合いが付かなかったのが退職の理由。
  27. ^ チーフプロデューサーと同義。
  28. ^ この日の『ZZZ』第1部『キスだけじゃイヤッ!』と、『BOON!』は休止。
  29. ^ 長崎県・鹿児島県は終了後に開局した長崎国際テレビ鹿児島読売テレビにこの回だけ移行。
  30. ^ 福澤は、後にオーケープロダクションの親会社となったイースト傘下のノースプロダクションに所属。その後同じくイースト傘下のオールラウンドへと移籍している。

出典

[編集]
  1. ^ 朝日新聞 1963年9月30日朝刊 P.9 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  2. ^ 朝日新聞 1963年10月1日朝刊 P.9 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  3. ^ 『11PM』よみうりテレビ版最終回での回顧録より
  4. ^ 11PM SAPPORO - 脚本データベース
  5. ^ 11PM Nagoya - 脚本データベース
  6. ^ a b c 名古屋放送社史 1982, p. 101.
  7. ^ a b c 名古屋テレビ放送50年史 2012, p. 80.
  8. ^ 第3章 社会教育団体としてのPTA /【第4節 子供たちの健全育成事業】有害環境の浄化 / 有害環境の浄化”. 日本PTA全国協議会. 2024年4月11日閲覧。 “昭和61年(1986)12月…好ましくない番組ワースト10では、…9(位)『11PM』”
  9. ^ "『11PM』『海賊チャンネル』『トゥナイト』…「昭和の"不適切"番組」はどんな内容だったのか(週刊ポスト2024年3月22日号)". NEWSポストセブン. 小学館. 2024年3月15日. p. 1. 2024年4月11日閲覧
  10. ^ 日本テレビ放送網 1983, p. 82.
  11. ^ 第9回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  12. ^ a b c 「タモリさんも僕も偉そうなのが嫌いだった」『24時間テレビ』生みの親が語る、番組が始まった頃”. 週刊文春(2019年11月24日作成). 2019年12月7日閲覧。
  13. ^ a b 大橋巨泉 2004, pp. 167–170.
  14. ^ 大橋巨泉 2003.
  15. ^ 大橋巨泉 2004, pp. 208–213.
  16. ^ “小栗香織、「11PMの顔」は写真集制作で活躍/あの「色香女王」と感涙再会(終)”. アサ芸プラス. (2020年1月3日). https://www.asagei.com/excerpt/140368 2020年2月17日閲覧。 
  17. ^ 日本民間放送連盟(編)「日本テレビ パッケージとナマを適正に」『月刊民放』第19巻第4号、日本民間放送連盟、1989年4月1日、32 - 33頁、NDLJP:3471040/17 (要登録)
  18. ^ 「「11PM」ストでお流れ 制作スタッフがすわり込み」『朝日新聞』1969年11月29日(朝刊)、12版、15面。
  19. ^ 読売テレビ50年社史 2009, p. 106.
  20. ^ 「REPORT・泉ピン子の発言にストリッパーが抗議」『週刊TVガイド』1975年12月12日、23頁。 
  21. ^ 「出番 青山京子」『福島民報』1980年5月11日、朝刊、9面。
  22. ^ 「テレビ欄」『北海道新聞』(マイクロフィルム版) 1965年10月 - 1966年5月。
  23. ^ 青森放送 2004, p. 63.
  24. ^ 青森放送 2004, pp. 84–85.
  25. ^ 「テレビ欄」『東奥日報』1977年9月と10月。
  26. ^ 「テレビ欄」『福島民報』1966年10月3日、1970年9月30日(朝刊)。
  27. ^ 「テレビ欄」『福島民報』1971年10月1日(朝刊)。
  28. ^ 新潟日報 1981年2月27日朝刊 P.20 テレビ欄(新潟日報マイクロフィルムにて閲覧)
  29. ^ 『NST』新潟総合テレビ発行、p. 12。
  30. ^ (株)テレビ新潟放送網『写真でつづる テレビ新潟10年のあゆみ』(株)テレビ新潟放送網、1991年11月、29頁。 
  31. ^ テレビ静岡二十年の歩み 1988, pp. 222–223.
  32. ^ 「テレビ欄」『北國新聞』1988年4月8日(朝刊)。
  33. ^ 「テレビ欄」『北國新聞』1976年10月6日 - 1978年3月29日(朝刊)。
  34. ^ 「テレビ欄」『北國新聞』1975年4月4日 - 1977年3月25日(朝刊)。
  35. ^ 「おもな報道・番組の事跡」『山口放送三十年史』山口放送、1987年6月 p.137
  36. ^ 『山口放送三十年史』山口放送、1987年6月 pp.243-245
  37. ^ 「テレビ欄」『徳島新聞』1965年12月29日、7面。
  38. ^ 「テレビ欄」『朝日新聞』徳島版、1980年7月29日。
  39. ^ 南海放送 1984, p. 106.
  40. ^ 「テレビ欄」『愛媛新聞』1984年4月2日。 - 同新聞同日の南海放送広告にも。
  41. ^ 屋代卓也; 山浦正彦 (2008年3月17日). “リレーインタビュー 第60回 木崎 徹 氏 放送作家 / 音楽プロデューサー”. musicman. エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社. 2020年6月2日閲覧。
  42. ^ 久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』世界文化社、2017年9月25日、117頁。 

参考文献

[編集]
  • 青森放送株式会社『青森放送50年史』青森放送、2004年。 
  • 大橋巨泉『巨泉 : 人生の選択』講談社〈講談社文庫〉、2003年。 
  • 大橋巨泉『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』講談社、2004年。 
  • テレビ静岡社史編纂委員会 編『テレビ静岡二十年の歩み』テレビ静岡、1988年。 
  • 名古屋放送株式会社社史編集委員会 編『希望の泉 2』名古屋放送、1982年4月1日。NDLJP:12274809 (要登録)
  • 開局50周年記念社史編纂事務局 編『名古屋テレビ放送50年史』名古屋テレビ放送、2012年。 
  • 南海放送株式会社 編『地域とともに三十年』南海放送、1984年2月。NDLJP:12275568 (要登録)
  • 日本テレビ放送網株式会社『深夜の浮世史 : Wide show 11PM』日本テレビ放送網、1983年2月18日。NDLJP:12275349 (要登録)
  • 読売テレビ50年社史編纂委員会 編『読売テレビ50年社史』讀賣テレビ放送、2009年。 

関連項目

[編集]
  1. ^ 『ダイハツ・フェロー カタログ』ダイハツ工業、1967年、3-4頁。 
  2. ^ 小関和夫『日本の軽自動車 カタログで楽しむ360ccの時代』三樹書房、2000年、74頁。ISBN 4-89522-265-9 
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