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※特記ない限り、レコード盤として発売。 |
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* 「どこまでも愛」(1982年発売)[[オリコンチャート|オリコン]]最高85位、売り上げ1万1000枚<ref>[http://web.archive.org/web/20051023014323/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_10/s2005102003.html 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目] - 『ZAKZAK』2005年10月配信分([[インターネット |
* 「どこまでも愛」(1982年発売)[[オリコンチャート|オリコン]]最高85位、売り上げ1万1000枚<ref>[http://web.archive.org/web/20051023014323/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_10/s2005102003.html 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目] - 『ZAKZAK』2005年10月配信分([[インターネットアーカイブ]]2005年10月23日付保存キャッシュ)</ref>。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。 |
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* 『サムシング』(1982年発売。アルバム(LP)、1995年にCDで再発) - LP版には特典としてオリジナルポスターとCM写真集が付属した。 |
* 『サムシング』(1982年発売。アルバム(LP)、1995年にCDで再発) - LP版には特典としてオリジナルポスターとCM写真集が付属した。 |
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* 「ビクトリー」(1984年4月1日発売、メインボーカルは[[細川たかし]]) - 岡田彰布、[[高橋慶彦]]、宇野勝、遠藤一彦、[[荒木大輔]]と共にコーラス参加。 |
* 「ビクトリー」(1984年4月1日発売、メインボーカルは[[細川たかし]]) - 岡田彰布、[[高橋慶彦]]、宇野勝、遠藤一彦、[[荒木大輔]]と共にコーラス参加。 |
2017年9月4日 (月) 14:06時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
神奈川県相模原市(現在の相模原市南区[1])[2] (出生地は福岡県大牟田市) |
生年月日 | 1958年7月22日(66歳) |
身長 体重 |
181 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手、左翼手、一塁手、二塁手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト1位 |
初出場 | 1981年4月4日 |
最終出場 | 1995年10月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本代表 |
この表について
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原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日[3] - )は、日本の元プロ野球選手(内野手・外野手)。元プロ野球監督。解説者。読売ジャイアンツ球団特別顧問。読売ジャイアンツ前監督、WBC第2回大会(2009)日本代表監督を務めた。福岡県大牟田市生まれ、神奈川県厚木市育ち、相模原市(現南区)出身[2][4]。
1980年代から1990年代中盤にかけて巨人の4番打者を務め、ON時代後の巨人を支えた。入団から12年連続で本塁打20本以上を記録し、4番としての出場試合数は球団歴代4位である。監督としてもチームを7度のリーグ優勝と3度の日本一に導いている。2009年にはワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務め、世界一に導いた。
また、2008年より国際武道大学の客員教授[5]、2016年より東海大学の客員教授を務める[6]。愛称は「(永遠の[7]・平成の)若大将」[7]。
父は東海大学付属相模高校や東海大学硬式野球部などで監督を務めた原貢。辰徳と同じく東海大相模高校・東海大学の野球部に所属し、巨人に入団した菅野智之は甥(妹の子)にあたる。
年表
詳細は以下の#来歴を参照。
- 1958年 - 福岡県大牟田市に生まれる。
- 1974年 - 東海大相模高校入学。
- 1977年 - 東海大学入学。
- 1980年 - プロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツに入団が決定
- 1981年 - 東海大学卒業。読売ジャイアンツに入団。
- 1995年 - 現役引退。
- 1996年 - 解説者、評論家としての活動を開始。
- 1999年 - 読売ジャイアンツの野手総合コーチに就任。
- 2001年9月 - 第15代読売ジャイアンツの監督に就任(~2003年)。
- 2004年 - 読売ジャイアンツ特別顧問に就任(~2005年)。
- 2005年10月 - 第17代読売ジャイアンツの監督に就任(~2015年)。
- 2009年 - 第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督に就任。
- 2013年 - 第3回2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表のシニアアドバイザーに就任。
- 2016年 - 読売ジャイアンツ特別顧問に就任[8]。
来歴
プロ入り前
幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、市内にある東洋高圧(現・三井化学)大牟田の社宅に住んでいた。なお、同じ社宅には真弓明信も住んでいた[9]。私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校。小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居[10]。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校と転校した[11]。中学校時代、厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家の森村誠一一家も住んでいた[12]。
高校時代
1974年、東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末に高知高校に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二[13]、宇野勝、土屋正勝、杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原の他にも、津末英明、綱島里志、佐藤功、村中秀人らの好選手を擁していた。高校通算本塁打は43本。
1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、首都大学野球連盟の古豪で強豪校の東海大学への進学を表明。全球団から指名なしという事態が起き、ドラフト直後に巨人オーナーの正力亨と監督の長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから東海大学総長松前重義が激怒、記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば彼も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった[要出典]。
大学時代
その後東海大学政治経済学部経済学科に進学。遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光は後輩にあたる。当時東海大学はあまり大学野球で人気のない首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した[要出典]。
1年生秋のリーグ戦で初本塁打を打ったが、打率.267で、ベストテンには入れなかった[14]。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。打撃三冠王を2度達成する(2年生秋・4年生春)。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学の江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打を記録するものの同年の全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。
3年生時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年生の岡田彰布[15]と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。
1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツ新監督の藤田元司が4球団(巨人、広島、大洋、日本ハム)競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団[16]。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた8となった。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。監督時代の応援歌も同じで、第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の対阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた[要出典]。
1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科を卒業する。
現役時代
1981年、開幕戦に6番・二塁手で先発出場。プロ初打席は中日ドラゴンズ・三沢淳の前にセカンドフライに倒れるも、代わった牛島和彦からプロ初安打を記録。翌日には小松辰雄からプロ初本塁打を放ち(珍しくライトスタンドへのホームランである)、その17日後に行われた対大洋ホエールズ戦(北九州市民球場)では、遠藤一彦から自身初のサヨナラ本塁打も放った。試合終了後、興奮した大量のファンが乱入した。シーズン当初はチームのポジション事情により二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により、アマチュア時代からのポジションである三塁に収まる。空いた二塁には篠塚利夫が入り、中畑は一塁で復帰し、内野のレギュラー陣が固まる。シーズン後半には疲労から成績を落としてしまったが、最終的には打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、新人王を獲得した。シーズンオフには、日本テレビで1年目の活躍等を振り返る特集番組『辰徳スペシャル』が放映された。
1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位であった。
1983年は初めて打率3割を記録。打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、MVPに選ばれた。巨人における3割30本塁打100打点の記録達成は、青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次いで球団史上4人目だった。
1986年、前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、9月24日の対広島25回戦で津田恒実の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感がずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる[17]。
1987年、1988年は2年連続で3割30本塁打を記録。特に1988年は本拠地が東京ドームになってチーム本塁打が激減する中、最後までホームラン王争いに加わった。その後、1996年に松井秀喜が38本塁打を記録するまで、チーム内で30本塁打以上を達成する選手は登場しなかった。
1989年、左翼手にコンバートされる。同年、新人時代から9年連続20本塁打以上のプロ野球新記録を達成した。近鉄バファローズとの日本シリーズでは、開幕から18打席連続無安打と極度に不振に陥る。東京ドームで迎えた第5戦、近鉄・吉井理人は原の前を打つ4番打者・ウォーレン・クロマティを敬遠する満塁策をとり、不振の原との勝負をする作戦を選ぶ。しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を放ち、溜飲を下げた。ちなみに、原はこのシリーズわずか2安打に終わったが、その2安打が第5戦の満塁弾、第7戦の2ランといずれも本塁打であり、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広を上回る6打点を記録している。
1990年は開幕戦で脇腹を痛め戦線離脱し、一時は任意引退公示されたが、最終的には打率3割を達成し、チームの2年連続リーグ優勝に貢献した。レギュラーシーズン127試合目となるナゴヤ球場での中日戦において3本塁打を放ち、10年連続20本塁打を達成。翌1991年には、入団以来11年連続20本塁打の日本記録更新と年間犠牲フライのリーグ新記録を達成し、2年連続ベストナインに選出される。しかし、プロ入団以来初めてのBクラス転落を経験し、年俸も微増の9900万円でわずかに1億円に届かなかった。
1992年、一塁手にコンバート。当初三塁への復帰も検討されていたが、その背景には、不安定な左翼守備とその影響で打撃成績が下降したこと、またすでにファンの間で「原=三塁」のイメージが定着しており、外野手転向によってそれが損なわれていたことなどの理由があった。しかし、アキレス腱痛の悪化などを考慮し、最終的には一塁手へのコンバートとなった。入団以来12年連続20本塁打の日本記録を更新し、この年のオフ、駒田、斎藤雅樹とともに、歴代の巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤーとなった。
1993年は三塁手に復帰。5月2日には4番出場が通算1000試合に到達した。しかし、複数個所の故障に悩まされ打撃不振に陥り、プロ入り以来初の規定打席未達に終わる。開幕から21試合を経た5月5日まで本塁打が出ないという不振ぶりで、新人時代より続けていたシーズン20本塁打以上の記録が12年で途切れるなど、プロ入り以来最低の成績に終わる。同年オフ、中日の主砲・落合博満がFAを宣言し巨人に移籍。四番を任される事が確実となり、原の立場は微妙になった。
1994年左脚のアキレス腱を部分断裂し開幕を二軍で迎え、一軍初出場は開幕から53試合目、6月14日の阪神戦だった。7番打者で先発出場するも、ドラフト1位ルーキーで前月の月間MVP・藪恵市から本塁打を放ち意地をみせた。2年連続で規定打席未達ながら、夏場に3打席連続本塁打を記録するなどの活躍を見せ、入団以来14年連続二桁本塁打を達成。チームは10.8決戦を制して4年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズで原は欠場の落合に代わり四番・一塁手で出場。第2戦で西武ライオンズ・工藤公康から巨人の同試合唯一の得点となる適時打を放ち、球団創立60周年での日本一達成に貢献した。
1995年に現役引退。原の引退が発表された後の試合では、ビジターの球場でも敵味方の区別なくファンから熱烈な声援が上がった[要出典]。引退試合は、巨人のホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化することと、シーズン終盤までチームが優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現[要出典]。東京ドームのスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。原は4番・三塁手として出場し、紀藤真琴から左中間スタンドへ382本目の本塁打を放った。最終打席では、広島側の計らいにより大野豊がワンポイントで登板し、ライバル対決が行われた(結果はレフトフライ)。試合は1-3で巨人が敗れたが、試合後の引退セレモニーでは「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある」と語り、「今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」との言葉を残した[要出典]。
評論家時代
1996年にNHK野球解説者、スポーツ報知野球評論家へ就任。プロ野球中継解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務めた。
コーチ時代
1999年、長嶋が監督の下、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。初キャンプでは外野ノックの際に本塁打を連発して珍プレーとして取り上げられた。本人曰く「バットで打ったらスタンドに入れるのが仕事だったもんだから、つい、ネ。」[要出典]。2000年には、ヘッドコーチに昇格。
第1次監督時代
2001年シーズンオフ、勇退した長嶋の後任として巨人の監督に就任。背番号は83。1年目シーズンとなった2002年のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。当時オーナーだった渡邊恒雄に打診して、現役時代から親交があり、アメリカにコーチ留学していた鹿取義隆をヘッドコーチとして招聘した[18]。
2002年は、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰[19]、故障で一軍から離脱していた河原純一の抑え転向、清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初でシリーズとして1990年の西武以来12年ぶりとなる無傷のストレート4連勝で、「監督初年度での日本一」を達成した。
この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障が多かったものの、支配下選手70名中66名を一軍で適材適所で使い分け、二軍で好調だった選手を昇格後即スタメンで起用したり、積極的にエンドランや盗塁を用いる用兵で結果を残した。6月19日の対横浜戦の11回表無死一塁で、打者が投手で左打者の岡島秀樹、相手投手が左投げの河原隆一の場面、ベンチに控え野手清原和博・村田善則・鈴木尚広が残っている状況で、投手である桑田を代打に指名した。横浜は投手を右投げの東和政に交代させ、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した[20]。
しかし翌2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜がFA権を行使しMLBへ移籍したことや、相次ぐ主力選手の怪我による戦線離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこと(チーム防御率は3.04から4.43に低迷)、更には阪神の快進撃などもあり3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・三山秀昭との確執もあり、渡邉恒雄オーナー(当時)曰く“読売グループ内の人事異動”の名目で監督を辞任、特別顧問に転任した。
特別顧問時代
2004年から2年間は巨人軍特別顧問(日本テレビ解説者、スポーツ報知客員評論家と兼任)を務めた。また、TBSラジオの番組『原辰徳のいきいきトーク』(『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』[21]。2004年4月から9月…日曜9時55分 - 10時、2004年10月から2005年12月…土曜17時 - 17時15分、東京地区のみ放送)でパーソナリティを担当[7]。
第2次監督時代
2005年オフ、自身の後任監督である堀内恒夫が成績不振により引責辞任。その後任として監督に再任。背番号は88。
2006年、シーズン当初は開幕ダッシュに成功したが、小久保裕紀、高橋由伸など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに8連敗、10連敗、9連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗など)を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。最終的には2年連続Bクラスとなる4位で終わる。
2007年、故障で出遅れた上原浩治を「今季のみ限定」で抑えに転向させたり、それまでクリーンナップを務めていた高橋由伸を1番打者に固定するなど、型破りな選手起用によってチームを5年ぶりのリーグ優勝へと導いた。しかし、この年から導入されたセ・リーグのクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃した。秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口貴彦や西村健太朗の指導を依頼。新聞[要文献特定詳細情報]で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。
2008年は、一時は首位・阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるも、9月に12連勝をして迫ると、10月8日に阪神を逆転して首位に立ち、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成する。クライマックスシリーズ2ndステージでは、中日を相手にアドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分の成績を残し、2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズではパ・リーグの覇者・埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。
この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった二岡智宏が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の坂本勇人を本来のポジションである遊撃に回したが、坂本はこの試合以降の2008年の全試合、全イニングに起用され、急成長を遂げた。野手では他に亀井義行や、育成枠から隠善智也らを、投手陣でも前年に育成枠から昇格した山口鉄也や、若い越智大祐らを積極的に起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分ける采配が評価された。
同年10月28日、日本野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。背番号は83。2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。
2009年シーズンが開幕すると、育成枠出身の松本哲也や坂本・亀井、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得したディッキー・ゴンザレスやテスト生出身のウィルフィン・オビスポがその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、谷佳知を相手先発投手に応じてスタメン・代打と使い分けたり、捕手の阿部慎之助や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績を維持した。9月23日にV9(1965年 - 1973年)以来のリーグ3連覇を果たした。第2次監督時代の長嶋らと対照的にベテランやホームランバッターに依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された[22]。クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続日本シリーズ出場となった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を達成した。
2009年12月6日にスイス・ローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された[23]。
2010年は、長野久義を獲得し前年同様優勝が期待されたが、前年度活躍した内海哲也、東野峻、ゴンザレス、オビスポといった主力投手がそろって不調に陥り、高橋尚成の退団やマーク・クルーンの救援失敗も響いてチーム防御率が1点近く悪化し、連覇を逃した。
2011年は、前年度の失敗から投手コーチに川口和久を招聘し立て直しを図り、この年入団した澤村拓一の活躍もあり改善したが、抑え投手を固定できず、久保裕也に決まるまではレビ・ロメロやジョナサン・アルバラデホなどを日替わりで起用した。また、この年から導入された統一球に苦戦し、前年までの主な得点源であった本塁打が激減、得点力が大きく低下した。
2012年は、アレックス・ラミレスがDeNAに移籍したが、野村克也の教え子である橋上秀樹、秦真司をコーチとして招聘し、村田修一や杉内俊哉、デニス・ホールトンを獲得し、阿部を四番とした新チームで開幕をスタートさせる。ところが春先は前年度並に打てない日々が続き、単独最下位にまで転落した。しかし、長野と坂本の打順を入れ替えたり、松本哲也が復調したり、西武から移籍した石井義人を代打の切り札として使い、シーズン途中に復帰したエドガー・ゴンザレスの活躍などもあり打線は復調、交流戦ではセ・リーグのチーム初の優勝を決めた。交流戦後も好調は続き、夏場から首位の座を譲らず独走でリーグ優勝を決めた。この年は、宮國椋丞・高木京介・田原誠次・小山雄輝など若手投手が台頭し、若手起用の采配を評価する声が多かった。また、クライマックスシリーズではファイナルステージにおいて中日に3連敗と追い込まれながらもその後3連勝して日本シリーズへの出場権を得た。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズを相手に4勝2敗と勝ち越して3年ぶりの日本一を達成した。その後開催されたアジアシリーズでも優勝し、史上初の5冠を達成した。その功績が認められ、阿部とともに自身3度目の正力松太郎賞を受賞した。
2013年は、2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督へは就任しなかったが、シニアアドバイザーに就任した。日本が準決勝進出しアメリカ行きが決まると、自身も特別顧問の王と一緒にアメリカに同行した。代表は準決勝で敗れたが、立派に戦ったと褒め称えた[24]。なお、シニアアドバイザー在任中はヘッドコーチの川相昌弘が代理監督を務めた。巨人監督としては、前年度同様大差をつけてのリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは楽天にあと一勝で敗れ日本一連覇はならなかった。
2014年、父が心筋梗塞で入院したため、5月5日は離脱することが球団より発表された。この日の代理は再び川相が務め、翌日には現場復帰した。ペナントレースでは3年連続優勝を果たしたが、クライマックスシリーズでは阪神タイガースに敗れて日本シリーズに出場することは出来なかった。
2015年4月15日に、B型インフルエンザウイルスに感染し当面自宅で静養となり監督代行を川相が務める事が発表された[25]。4月21日の広島東洋カープ戦で、復帰した[26]。同年は2位に終わり、10月19日に、正式に読売巨人軍監督を退任することを表明した[27]。大学時代から親交がある岡田彰布は原の勇退の報を聞いて「まさかとは思ったわ。優勝7回、日本一3回やで。すごいことや。「お疲れ様」と言いたいわ」と述べている[28]。
第2次監督退任後
2016年に読売ジャイアンツの球団特別顧問に就任。1月18日に母校・東海大の湘南キャンパスで開かれた同大特別功労賞の授賞式に参加し、同大学出身の柔道男子日本代表・井上康生監督と行った対談の中で「今年はテレビ解説とかは一切しない。ただ、開幕戦は『ゲストなら出ます』と言った」と明言した[29]。
2016年12月、巨人OB会の幹事に就任[30]。
2017年から日本テレビの解説者として本格に復帰する。[31]その他TBSテレビ制作の侍ジャパン中継のゲスト解説者としても出演する。
テレビ・ラジオ解説
選手としての特徴
2007年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。
走塁放棄
原は走塁放棄でアウトになったことがある。1988年9月4日の東京ドームでの対中日23回戦、6-1と中日がリードして迎えた9回裏一死一塁の場面で、原は上原晃の球を捉え、左中間に大飛球を放った。中日の左翼手豊田成祐が背走して、捕球したかに見えた。一塁走者の岡崎郁は二塁を回っており、慌てて二塁を経由して一塁に戻ろうとした。そして豊田から内野に返球されたボールが岡崎より先に一塁に転送され、一塁塁審がアウトを宣告し、試合終了かと思われた。しかし左翼外審の手沢庄司は、豊田の捕球は直接捕球ではなく、フェンスに当って跳ね返ったボールがグラブに収まったので「ノーキャッチ」と判定していた。したがって岡崎をアウトにするためには、岡崎自身へ触球する必要があった。一連のプレー中、原はアウトになったものと思い、一塁ベースから離れベンチに戻っていた。審判団が協議し、原を走塁放棄でアウトとし、二死一塁から試合再開となった(試合は6-1で中日が勝利)。この走塁放棄の一件は、原だけでなく岡崎、また中日の内野陣、さらに一塁塁審までの勘違いがあって起こった珍事であった。なお、原のこの打席の記録は、左翼への安打となっており、試合経過説明として走塁放棄でアウトとなっている[32]。
監督として
巨人入団時の監督だった藤田元司と助監督だった王貞治(後の監督)とは、監督としてのやり方が似ているとよく言われる。実際、藤田の生前には監督業について何度も意見を交わし、また王から指導者としてのアドバイスも受けたことがある。長嶋茂雄からも評価をされており、成績不振が続いても「不調があっても来年には悪かったものを壊してほしい」と見放さない期待をしている[33]。
選手の潜在能力を引き出し選手を惹きつける力が非常に長けている。2007年にFAで巨人入りした小笠原道大、2008年に加入したセス・グライシンガー、アレックス・ラミレスなど、他球団も獲得に乗り出した選手は「原監督の指導を受けてみたい」と口を揃えた。ラミレスは特に尊敬する監督に原の名を挙げている[34]。WBCの際もバントを3回連続失敗したイチローが「心が折れそうだ」と口にした際には「バントはするな」と言っていた。マスコミはこの発言を「原、非情の指令」などと報じたが、この発言には続きがあり、「バントはするな。俺はイチローが見たいんだ」と発言し、その言葉でイチローは「心が折れないで済んだ。原監督の言葉が無かったら折れていた」と口にする。同じくWBC代表だった稲葉篤紀も第一ステージでは不振に陥ったが、しかし第二ステージで稲葉を4番に置いた。稲葉自身は第二ステージでは「スタメン入りは無理だろう」、「使われても代打」と思っていたが、監督室で原から「稲葉、明日4番でいくから」と言われ、稲葉自身も驚いたという。原は稲葉を4番に置いた理由を「長打もあり、単打もありバントも出来る」と説明し、これを聞いた稲葉は「そういう4番もあるのか」と気付かされたという。その後、稲葉は復調し、本来の力を取り戻した。
自身の第2次監督時代(2006年〜2015年)に投手陣の柱として活躍した内海哲也には「ニセ侍」、「突発性四球病」などと厳しい言葉をかけることもあったが、実はその裏では「お前が必要なんだ」といつも励まして使い続けたという。内海自身、様々な環境の中で押しつぶされそうだった自分を、温かく見守ってくれた原の恩には、必ず「日本一」で報いたいと語っている[35]。
試合では自己犠牲と勝利至上主義を貫き、必要であれば主軸打者にもバントをさせる。チームの和は競争原理が働くことで保たれるが、チームを最優先する意識を強く持った選手が集まってこそ勝利を得られると語り、己を殺すことに苦渋や不満を抱いているようではまだまだ未熟と考えている。これは個人の活躍はその場の喜びで終わるが、チームのために闘って勝てば自分が成長し豊かになる深い喜びを体感できるとの考えによるもの[5]。
監督として通算で、2度のセ・パ交流戦優勝(2012年、2014年)、7度のセントラル・リーグ優勝(2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年)、4度のクライマックスシリーズ優勝(2008年・2009年、2012年・2013年)、3度の日本一(2002年、2009年、2012年)、日韓クラブチャンピオンシップ優勝(2009年)、アジアシリーズ優勝(2012年)、WBC世界一(2009年)が各1回ずつと、計7冠を達成している[36]。
人物
2003年のある試合で木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と活を入れた。2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では、二戦続けて失点した久保裕也をベンチ裏に呼んで叱るとともに軽く二回蹴り、その後記者団に「(キックは)ナデナデしただけですよ。しっかり頑張ろうということです。久保には信頼も大きい。期待の星だからね」とコメントした[37]。2013年5月に打撃不振になっていた村田修一と長野久義を非公開で指導した際にも「ナデナデ」という表現を使っていた[38]。
ON時代後の巨人の4番を務めたことから前世代の偉大な4番打者と頻繁に比べられ、現役時代より叩かれ役となることが多かった。監督となった現在もタブロイド誌で、毎日のように落語の三題噺のような展開の話が掲載されている[39]。
電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。同年にFA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。2006年のオフには高橋尚成に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。2007年オフ、当時の阪神の監督であった岡田彰布が「トライアウト(戦力外になった)の選手はとらない」と述べた後、藤田宗一が防御率10を超える成績不振を出したことによりロッテから戦力外通告を受けた。藤田に解雇が通知されトライアウト開催された翌日、トライアウトを不参加した藤田の家に原からの電話がかかってきて、藤田は巨人と契約。岡田はこのことに大きく後悔したという。
2009年3月7日に行われたWBC東京ラウンド日本対韓国戦での勝利監督インタビューの際、マイクの音声が球場に流れないというアクシデントが発生。場内の観客からは「聞こえない」などの苦情の声が相次ぐもインタビューは進行。途中、音声が球場に流れるようになった時、原は「最初のが聞こえてなかったんじゃないですか?」と発言し、同じインタビューを頭からやり直し、観客からの苦情を一変させ声援を浴びた[40]。
現在、東海大相模高校のある相模原市に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター[41]を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。
趣味
冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。50歳の誕生日を迎えた際、「49歳でアメリカへ渡り、50歳のときにゴルフのシニアツアーに参戦。全米シニアで同世代のグレグ・ノーマンやニック・プライスと戦う。37歳で現役引退したとき、そう思ったんだ」と発言したほど[42]。2016年には関東の名門コース・戸塚カントリー倶楽部のクラブチャンピオンを獲得し、2017年の第56回報知アマゴルフ選手権に同コースの代表として出場した[43]。
プロレスも日本テレビで中継をしている全日本プロレス→プロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説などもしている。これら団体の試合を会場で観戦することもしばしばある。全日本プロレスでは永源遙の唾攻撃が原、岡崎郁と一緒に観戦していた廣田浩章のジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノア社長の三沢光晴や、現役引退試合の翌日に同じく東京ドームで行われた「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」を観戦し、当時メインイベントで高田延彦に勝利した、WRESTLE-1の武藤敬司社長とはプライベートでも親交を深めている。ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。馬場はジャイアンツの大先輩でもある。最近はノア以外の選手にも注目しており、特に新日本プロレスの真壁刀義は同じ相模原市出身ということもあって、巨人の選手との会話において真壁を引き合いに出して若手に奮起を促していた[44]。2010年2月22日には新日本プロレスの真壁と4代目タイガーマスクが宮崎キャンプに訪問して、タイガーマスクからプレゼントされた特注の覆面を迷いなくかぶる大サービスも見せた(白色のマスクで、巨人のロゴマーク入り)
また、球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。
愛車はレクサス・LS600h。
メロンパンが大好きで、菓子パン類ではメロンパン以外は菓子パンとして、認めていないという。
以前は喫煙者であったが、2003年秋に第1次監督退任後から禁煙トレーニングを行い、同年12月31日付で卒煙した。2004年以降は非喫煙者であり、2005年秋に第2次監督就任後以降は、チーム内の選手、スタッフの現役喫煙者全員に禁煙の指示を出し、球団事務所内の全面禁煙を徹底した。「強いチームを作るのに喫煙行為は巨人の選手としてはもちろん、アスリートとしての自覚も欠けている」とコメントしている[45]。2011年時点ではチーム内の選手、スタッフはほとんどが非喫煙者であり、最終的にはチーム内の喫煙率0%達成を目指している。
ジェスチャー
少年時代から長嶋の大ファンであり、長嶋の下でコーチに就任して以降、長嶋の「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明したり、派手なジェスチャーを交えるスタイルを継承している。長嶋政権でのコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、久米宏は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。監督時代の長嶋は、試合展開や個々の特性などが一切考慮されず「教則本的な基本から1ミリでも外れた面がある采配」をするたびに「カンピューター」などとスポーツマスコミに目の仇にされていたが、原も表面的なイメージをひきずり桑田のバスター策などを「思いつき」などと形容されていることが多い。
ジェスチャーの一つ一つに特徴がある。特に味方選手がホームランを打った後の出迎えの際には、目を見開き両拳を突き出し選手と合わせるしぐさは定番となっている[46]。なお原がハイタッチではなくグータッチを好んでするのはハイタッチが手のひらという比較的面積が大きい部分でするため、移動したりしながらでき緩慢になることがあるのに対して、グータッチは拳と拳のためしっかり集中してやらないと形がくずれてしまい、失敗するので緩慢になるのを防止する効果があり、さらに拳と拳が合うように手をお互い見ているため目があい意思疎通も図れるからである[47]。
週刊文春の記事について
2012年6月、『週刊文春』で、1988年当時の女性不倫問題や、それに関わる2006年当時の1億円金銭の支払いの経緯が報じられた[48][49][50]。文春は金銭を支払った男性二人組が元暴力団員であると報じ、朝日新聞でも二人を元暴力団員と報道したが[50][51]、球団広報は否定した[52]。暴力団関係者と認識したうえでの金銭供与は野球協約違反となるため、球団広報の否定は原を護るための虚偽であるとの続報を文春は出した[53]。
これに対し原は、1988年の女性問題と2006年の金銭問題など、記事の内容を大筋で認めてファンに謝罪し、支払い相手については「プロ野球と関係ある人物」と述べた[54]。同時に発表した文書で巨人のGMを解任された清武英利をリーク先と断定するが、清武側は直後に否定。「非常に残念でなりません。私は関知していません」とのコメントが出された[52][55][56][57]。
2012年12月に球団本部は発行元の文藝春秋を相手取り、名誉毀損での3000万円の損害賠償と謝罪広告掲載を請求する訴訟を提起したが、2015年7月に東京地裁は請求を棄却。判決では「恐喝をした者を一般的な意味で反社会的勢力と考えるのは妥当だ」として文春報道の真実相当性を認定した[58]。球団側は判決を不服として控訴したが、同年12月東京高裁は一審判決を支持し控訴を棄却した[53]。2016年6月28日に、最高裁により球団側の上告を受理しない決定が下され、東京高裁判決が確定した。[59]
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 巨人 | 125 | 507 | 470 | 64 | 126 | 23 | 6 | 22 | 227 | 67 | 6 | 6 | 0 | 7 | 27 | 0 | 3 | 78 | 9 | .268 | .308 | .483 | .791 |
1982 | 130 | 542 | 494 | 81 | 136 | 19 | 1 | 33 | 256 | 92 | 11 | 6 | 0 | 4 | 42 | 4 | 2 | 82 | 6 | .275 | .332 | .518 | .850 | |
1983 | 130 | 571 | 500 | 94 | 151 | 32 | 4 | 32 | 287 | 103 | 9 | 4 | 0 | 8 | 60 | 1 | 3 | 56 | 11 | .302 | .375 | .574 | .949 | |
1984 | 130 | 543 | 468 | 72 | 130 | 19 | 1 | 27 | 232 | 81 | 7 | 3 | 1 | 4 | 67 | 3 | 3 | 58 | 8 | .278 | .369 | .496 | .865 | |
1985 | 124 | 521 | 441 | 79 | 125 | 23 | 2 | 34 | 254 | 94 | 7 | 3 | 2 | 8 | 60 | 2 | 10 | 42 | 6 | .283 | .376 | .576 | .952 | |
1986 | 113 | 467 | 406 | 70 | 115 | 21 | 3 | 36 | 250 | 80 | 7 | 2 | 1 | 6 | 52 | 4 | 2 | 57 | 8 | .283 | .363 | .616 | .978 | |
1987 | 123 | 489 | 433 | 80 | 133 | 17 | 3 | 34 | 258 | 95 | 7 | 2 | 0 | 7 | 44 | 6 | 5 | 61 | 11 | .307 | .372 | .596 | .968 | |
1988 | 126 | 529 | 467 | 79 | 140 | 24 | 1 | 31 | 259 | 81 | 5 | 6 | 0 | 0 | 61 | 6 | 1 | 63 | 14 | .300 | .382 | .555 | .936 | |
1989 | 114 | 459 | 395 | 60 | 103 | 22 | 0 | 25 | 200 | 74 | 3 | 3 | 0 | 2 | 60 | 4 | 2 | 68 | 6 | .261 | .359 | .506 | .866 | |
1990 | 103 | 425 | 366 | 58 | 111 | 17 | 1 | 20 | 190 | 68 | 6 | 4 | 0 | 4 | 52 | 3 | 3 | 64 | 4 | .303 | .391 | .519 | .910 | |
1991 | 127 | 524 | 455 | 66 | 122 | 13 | 1 | 29 | 224 | 86 | 5 | 3 | 0 | 12 | 55 | 1 | 2 | 82 | 7 | .268 | .342 | .492 | .834 | |
1992 | 117 | 493 | 437 | 61 | 119 | 17 | 1 | 28 | 222 | 77 | 4 | 3 | 0 | 3 | 46 | 1 | 7 | 71 | 13 | .272 | .349 | .508 | .857 | |
1993 | 98 | 387 | 336 | 28 | 77 | 14 | 0 | 11 | 124 | 44 | 3 | 2 | 0 | 3 | 44 | 1 | 4 | 62 | 9 | .229 | .323 | .369 | .692 | |
1994 | 67 | 227 | 200 | 26 | 58 | 4 | 1 | 14 | 106 | 36 | 0 | 2 | 2 | 1 | 22 | 1 | 2 | 21 | 5 | .290 | .364 | .530 | .894 | |
1995 | 70 | 160 | 144 | 13 | 29 | 8 | 0 | 6 | 55 | 15 | 2 | 1 | 1 | 1 | 13 | 1 | 1 | 29 | 5 | .201 | .270 | .382 | .652 | |
通算:15年 | 1697 | 6844 | 6012 | 931 | 1675 | 273 | 25 | 382 | 3144 | 1093 | 82 | 50 | 7 | 70 | 705 | 38 | 50 | 894 | 122 | .279 | .355 | .523 | .878 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
- リーグ公式戦
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | 巨人 | 1位 | 140 | 86 | 52 | 2 | .623 | - | 186 | .272 | 3.04 | 44歳 |
2003年 | 3位 | 140 | 71 | 66 | 3 | .518 | 15.5 | 205 | .262 | 4.43 | 45歳 | |
2006年 | 4位 | 146 | 65 | 79 | 2 | .451 | 23.5 | 134 | .251 | 3.65 | 48歳 | |
2007年 | 1位 | 144 | 80 | 63 | 1 | .559 | - | 191 | .276 | 3.58 | 49歳 | |
2008年 | 1位 | 144 | 84 | 57 | 3 | .596 | - | 177 | .266 | 3.37 | 50歳 | |
2009年 | 1位 | 144 | 89 | 46 | 9 | .659 | - | 182 | .275 | 2.94 | 51歳 | |
2010年 | 3位 | 144 | 79 | 64 | 1 | .552 | 1.0 | 226 | .266 | 3.89 | 52歳 | |
2011年 | 3位 | 144 | 71 | 62 | 11 | .534 | 3.5 | 108 | .243 | 2.61 | 53歳 | |
2012年 | 1位 | 144 | 86 | 43 | 15 | .667 | - | 94 | .256 | 2.16 | 54歳 | |
2013年 | 1位 | 144 | 84 | 53 | 7 | .613 | - | 145 | .262 | 3.21 | 55歳 | |
2014年 | 1位 | 144 | 82 | 61 | 1 | .573 | - | 144 | .257 | 3.58 | 56歳 | |
2015年 | 2位 | 143 | 75 | 67 | 1 | .528 | 1.5 | 98 | .243 | 2.78 | 57歳 | |
通算:12年 | 1715 | 947 | 712 | 56 | .571 | Aクラス11回、Bクラス1回 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 2002年から2004年までは140試合制
- ※3 2005年から2006年までは146試合制
- ※4 2007年から144試合制
- ※5 2014年5月5日対中日9回戦(ナゴヤドーム)を私用により欠場したため、監督成績には含まない(チームは勝利)。監督代行は川相昌弘
- ※6 2015年4月15・16日の対横浜DeNA4・5回戦(両日共に横浜スタジアム)、17~19日の対阪神4~6回戦(各日共に阪神甲子園球場)は体調不良で休養。監督代行は川相(4勝1敗)
- ポストシーズン
年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2002年 | 巨人 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ(パ・リーグ1位) | 4勝0敗=日本一 |
2007年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※5) |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) | 0勝3敗=敗退 | |
2008年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※6) |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) | 3勝1敗1引分=日本シリーズ進出 (※7) | |
日本シリーズ | 埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退 | ||
2009年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※6) |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) | 4勝1敗=日本シリーズ進出 (※8) | |
日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) | 4勝2敗=日本一 | ||
2010年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ2位) | 2勝0敗=ファイナルステージ進出 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ1位) | 1勝4敗=敗退 (※9) | ||
2011年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) | 1勝2敗=敗退 | |
2012年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) | 4勝3敗=日本シリーズ進出 (※8) | |
日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) | 4勝2敗=日本一 | ||
2013年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
広島東洋カープ(セ・リーグ3位) | 4勝0敗=日本シリーズ進出 (※8) | |
日本シリーズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退 | ||
2014年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ2位) | 1勝4敗=敗退 (※8) | |
2015年 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
阪神タイガース(セ・リーグ3位) | 2勝1敗=ファイナルステージ進出 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ |
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ1位) | 1勝4敗=敗退 (※9) |
- ※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
- ※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは5試合制で先に3勝したチームの優勝、リーグ優勝チームにアドバンテージなし
- ※6 2008年以降のクライマックスシリーズ2ndステージ(2010年以降ファイナルステージ)は6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※7 アドバンテージの1勝を含む。3勝で優勝となったのは、引き分け試合で勝利数が同数になる場合は上位チームの優勝となる規定による
- ※8 アドバンテージの1勝を含む
- ※9 4敗の中に相手チームのアドバンテージの1勝を含む。
- WBC 国・地域別対抗野球大会
2009年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では、監督として日本チームを大会2連覇に導く。
年度 | 大会名 | チーム名 | 勝敗 |
---|---|---|---|
2009年 | 第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) | 日本代表 | 優勝 |
- 第1ラウンド
- 第2ラウンド
- 3月15日 ○ 6-0 キューバ
- 3月17日 ● 1-4 韓国
- 3月18日 ○ 5-0 キューバ
- 3月19日 ○ 6-2 韓国
- 準決勝
- 3月22日 ○ 9-4 アメリカ
- 決勝
タイトル
- 打点王:1回 (1983年)
表彰
- 新人王 (1981年)
- MVP:1回 (1983年)
- ベストナイン:5回 (1983年、1987年、1988年、1990年、1991年)
- ゴールデングラブ賞:2回 (1987年、1988年)
- 月間MVP:3回 (1983年5月、1985年7月、1989年4月)
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多二・三塁打賞:1992年8月)
- 後楽園MVP賞:2回 (1983年、1987年)
- 東京ドームMVP特別賞:2回 (1995年、2014年)
- セ・リーグ最優秀監督賞:7回 (2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年)
- 正力松太郎賞:3回 (2002年、2009年、2012年)
- 世界最優秀監督:1回 (2009年) ※国際野球連盟(IBAF)により選定。プロ野球界からは日米通じて初選出。
- ナンバーMVP賞:1回 (2009年)
- コミッショナー功労賞(2015年)
- 東海大学特別功労賞[60](2016年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1981年4月4日、対中日ドラゴンズ1回戦(後楽園球場)、6番・二塁手で先発出場
- 初安打:同上、6回裏に牛島和彦から左前安打
- 初本塁打・初打点:1981年4月5日、対中日ドラゴンズ2回戦(後楽園球場)、8回裏に小松辰雄から右越ソロ
- 初4番:1982年6月4日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)
- 節目の記録
- 100本塁打:1984年7月3日、対ヤクルトスワローズ12回戦(明治神宮野球場)、4回表に中本茂樹から左中間へソロ ※史上131人目
- 150本塁打:1986年4月12日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、2回表にリチャード・ゲイルから左越3ラン ※史上79人目
- 200本塁打:1987年6月23日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、9回裏に中西清起から左越2ラン ※史上53人目
- 1000本安打:1988年7月13日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、9回表に尾花高夫から左前安打 ※史上153人目
- 1000試合出場:1988年10月2日、対ヤクルトスワローズ25回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上280人目
- 250本塁打:1989年4月8日、対ヤクルトスワローズ1回戦(東京ドーム)、1回裏に尾花高夫から左越2ラン ※史上28人目
- 300本塁打:1991年5月2日、対阪神タイガース5回戦(東京ドーム)、5回裏に高村洋介から左越3ラン ※史上20人目
- 1500本安打:1992年9月12日、対広島東洋カープ23回戦(東京ドーム)、7回裏に望月秀通から中前安打 ※史上66人目
- 350本塁打:1992年9月25日、対中日ドラゴンズ24回戦(東京ドーム)、6回裏に今中慎二から左越2ラン ※史上15人目
- 1000打点:1993年4月29日、対横浜ベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)、4回表に齋藤隆から中前適時打 ※史上22人目
- 1500試合出場:1993年6月1日、対横浜ベイスターズ7回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上106人目
- 3000塁打:1994年6月26日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、1回表に加藤将斗から中前2点適時二塁打 ※史上32人目
- その他の記録
- 1イニング2本塁打:1985年5月12日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(横浜スタジアム)、8回表先頭で門田富昭から左越ソロ、2死2塁で久保文雄から左越2ラン ※史上10人目(12度目)[61]
- オールスターゲーム選出:11回 (1981年 - 1988年、1990年 - 1992年)
- 監督通算500勝:2010年5月13日、対埼玉西武ライオンズ2回戦(東京ドーム)、9-1で勝利 ※史上26人目(巨人では5人目)
- 監督通算700勝:2012年9月12日、対広島東洋カープ20回戦(東京ドーム)、5-0で勝利 ※史上18人目(巨人では4人目)
背番号
- 8 (1981年 - 1995年)
- 80 (1999年 - 2001年)
- 83 (2002年 - 2003年、2009年WBC)
- 88 (2006年 - 2015年)
関連情報
ディスコグラフィ
※特記ない限り、レコード盤として発売。
- 「どこまでも愛」(1982年発売)オリコン最高85位、売り上げ1万1000枚[62]。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。
- 『サムシング』(1982年発売。アルバム(LP)、1995年にCDで再発) - LP版には特典としてオリジナルポスターとCM写真集が付属した。
- 「ビクトリー」(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし) - 岡田彰布、高橋慶彦、宇野勝、遠藤一彦、荒木大輔と共にコーラス参加。
著書
- 『原点』(中央公論新社)
- 『一流になる人はここが違う:私の出会ったヒーローたち』(1998/01・日新報道)ISBN 4817404086
- 『選手たちを動かした勇気の手紙』(2003/03・幻冬舎)ISBN 4344003128
- 『ジャイアンツ愛』(2003/11・幻冬舎)ISBN 4344004213
関連書籍
- 『原辰徳・青春の素顔』(今西良光著、アロー出版社、1976年12月)
- 『小説原辰徳物語:東海の父子鷹』(戸部良也著、エフプロ出版、1977年2月)
- 『虹をかける男 原辰徳:注目のゴールデンボーイの全行動記録』(戸部良也著、講談社、1980年8月)
- 『原辰徳 : おやじと息子の二十三年』(軍司貞則著、文芸春秋、1981年7月)
- 『原辰徳 : 実録まんが』(いけうち誠一絵、学習研究社(アイドル・コミックス)、1983年4月)
- 『ジャイアンツの若大将 原辰徳物語』(槙田隆次著、恒文社、1983年5月)
- 『ジャイアンツ愛:原辰徳の光と闇』(赤坂英一著、講談社、2003年5月)ISBN 978-4062117647
写真集
- 打ちまくれ!原辰徳―巨人の四番は男の勲章だ(1982年・講談社)ISBN 4061444123
- 原辰徳写真集(1982年・双葉社)
出演
テレビorラジオ
- プロ野球中継 - 解説者
- NHKプロ野球(1996年 - 1998年。NHKテレビorラジオ)
- 1球の緊張感 THE LIVE(2004年 - 2005年、2016年(ゲスト解説)、2017年 - 。日本テレビ)
- メジャーリーグベースボール(MLB)中継(『'04 リコーMLB開幕戦』ニューヨーク・ヤンキース対タンパベイ・デビルレイズ戦。2004年3月30日[63]。日本テレビ[63])
- NHK紅白歌合戦(NHKテレビorラジオ)
- 第46回NHK紅白歌合戦(1995年12月31日) - 古田敦也(ヤクルト捕手)や、俳優の竹中直人と共に審査員として出演。
- 第60回NHK紅白歌合戦(2009年12月31日) - 白鵬(横綱)や、女優の森光子と共に審査員として出演。
テレビ
- サンデースポーツ(NHK総合テレビ) - キャスター
- ふたりっ子(1996年。NHK) - 「読売ジャイアンツ監督・原辰徳」として出演。
- ドリーム☆アゲイン(2007年。日本テレビ) - 読売ジャイアンツ監督役 ※他に出演したエキストラとは違い、台詞があった。
ラジオ
- 原辰徳のいきいきトーク(2004年4月 - 2005年12月。TBSラジオ)[7]
CM
- 明治
- 旧・明治製菓 - 「ハイレモン」「ヨーグレット」「クール1」
- 旧・明治乳業 - ルーキー時代の1981年、プリンのCMに出演。現役引退後も、「明治ブルガリアヨーグルト」[63]のCMに出演。
- 富士重工業 - スバル・レオーネのCMに、1984年、岩崎宏美と共にイメージキャラクターとして起用された。
- 読売新聞社 - 試合の映像を使用(1982年)。ナレーションは徳光和夫(日本テレビアナウンサー)が務めた。
- 大正製薬 - 目薬「アイリス」のCM。
- 味の素 - 若手時代に同社発売調味料「味の素」のCMに出演。
- オンワード樫山 - メンズブランド「スコール」のCM。
- ミズノ
- 大京 - ランド
- 日産自動車
- サントリー - NHK解説者時代にモルツのCMへ出演。山本浩二や達川光男らとコミカルな演技を披露していた。
- ファンケル - 現役引退後[63]
- ツクダオリジナル - オセロゲーム「もう一回」篇
- 暴力団追放のPRポスターに起用(2009年)[64]。
受賞
脚注
- ^ 当時は政令指定都市ではなく南区は存在しなかった。
- ^ a b 12球団全選手カラー百科名鑑2015 (廣済堂ベストムック286号). 廣済堂出版. (2015). pp. 124. ISBN 978-4-331-80293-9
- ^ a b c プロ野球カラー名鑑 2008. ベースボール・マガジン社. (2008). pp. 11. ISBN 978-4-583-61526-4
- ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑』2004年・2005年版の解説者名鑑では、出身地の項に「福岡県大牟田市-神奈川県相模原市」と記載。
- ^ a b 名将に学ぶリーダーシップ論──原 辰徳(読売ジャイアンツ監督)2013年5月7日 GQJAPAN
- ^ 原辰徳氏、母校東海大客員教授に
- ^ a b c d 参考:『原辰徳のいきいきトーク』番組公式サイト(インターネット・アーカイブ保存キャッシュ)
- 2004年10月当時(2004年10月13日付キャッシュ)
- 終了直後(2006年1月12日付キャッシュ)
- ^ 原辰徳前監督の特別顧問就任について
- ^ 炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館発行、2004年)
- ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、26-27頁。
- ^ 中学卒業間近に、原は体育の授業(サッカー?)で左足首を複雑骨折した。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、野球は続けられたが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。
- ^ 当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている(原巨人、伝説を作った サンケイスポーツ 2008年10月11日閲覧)
- ^ 1974年の夏の甲子園、準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の鹿児島実業高等学校が対戦し、延長15回の熱闘となってNHKが試合中継を途中で打ち切ったために、視聴者から苦情が殺到する一幕があった(全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継の項参照)。この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。また原が巨人に入団した際、『月刊ジャイアンツ』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談が組まれている。
- ^ 東海大が「完全」 原、ベスト10入れず 読売新聞 1977年10月25日 朝刊17ページ
- ^ 大学時代の全日本代表で共にクリーンアップを担っていた時から付き合いがあり、プライベートではお互いに携帯でメールでやり取りするほどの仲である。2008年に岡田が監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある。2008年11月16日放送『SUPERうるぐす』の「独占告白 阪神 岡田前監督 辞任の真相」より。
- ^ この時に広島が外れ1位で指名した選手が、後に巨人で同僚となる川口和久であった。
- ^ 原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている[要出典]。
- ^ Number、2002年10月10日号、P.132
- ^ 第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、ヘッドコーチ・鹿取義隆の中6日を崩さない先発ローテーションであった。工藤公康や桑田真澄などのベテランを有効に使い、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、深刻な投壊状態に陥った。
- ^ 代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いことで併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、森祇晶監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と原本人はあまり評価をしていない。
- ^ 参考…ラジオ東京スピリッツ(TBSラジオ開局60周年記念特設サイト)より配信された、『原辰徳のいきいきトーク』放送当時の番組表PDFファイル。ファンケルが単独スポンサーに付き、タイトルは『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』となっていることが明記。
- ^ (株)ベースボールマガジン社刊『週刊ベースボール』2009年10月26日号「特集 原巨人、3連覇!」では岡田彰布(90 - 91ページ)、豊田泰光(52 - 53ページ)、水野雄仁(28 - 29ページ)が賛辞のコメントを寄せている。
- ^ Italy's Fraccari elected IBAF president
- ^ http://daily.co.jp/baseball/wbc/2013/03/19/0005825242.shtml
- ^ 原監督のインフルエンザ感染について 読売巨人軍公式サイト (2015年4月15日) 2015年4月24日閲覧
- ^ 主軸がタイムリーそろい踏み、原監督の復帰戦を見事白星で飾る 読売巨人軍公式サイト (2015年4月21日) 2015年4月24日閲覧
- ^ 「夢の続き、全うできた」原監督が退任 - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月19日)
- ^ 原が辞めた理由は俺もよく分かる | 週刊ベースボールONLINEより。
- ^ 【巨人】原氏、開幕ヤクルト戦で“解説”(2016年1月19日)
- ^ 巨人OB会総会に92人 原氏が幹事就任「全面協力します」
- ^ “日本テレビ 2017年 読売巨人軍主催ゲーム 野球中継について”. 日テレ企業・IR情報. 2017年2月27日閲覧。
- ^ 朝日新聞東京本社版、1988年9月5日付朝刊25面
- ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/20151004/gia15100405010001-n1.html
- ^ ラミちゃん引退…NPB復帰かなわず 夢は監督で「日本一」 - 2014年10月6日
- ^ [1]
- ^ 日韓クラブチャンピオンシップは事実上、アジアシリーズの代替大会であるが、記録は別大会として扱われている。
- ^ 原監督が久保にケリ2発!虎・浜中に被弾し“一発退場”2006年3月13日 SANSPO.COM
- ^ 原監督「頭をなでなでしただけ」村田&長野に直接指導2013年5月22日 報知新聞社
- ^ 主に「何かの問題を全て原の責任に仕立て上げる」「原が誰々を嫌っている(またはその逆)」といったような話を好んで掲載しており、一例をあげると、2009年極度の打撃不振から李承燁を二軍落ちさせたが、当時球団代表だった清武英利が「原監督が李の扱いのためにかなりストレスを受けていた」と明かした話がその年の夕刊フジに掲載されているが、夕刊フジは『韓国内からは「原監督は李が嫌いなのか」などの問い合わせが相次いだという』と併記している(G李2軍調整の波紋…韓国で原やり玉「嫌われた」『zakzak』2009年7月17日更新、18日閲覧)。
- ^ 2009年3月8日 日刊スポーツ 3面など
- ^ 同社広告では「アドバイザー」と表記。
- ^ 「夢は米ゴルフツアー参加だった」 50歳を迎えた巨人・原監督
- ^ 原辰徳さん、初の全国規模大会で7オーバー39位“デビュー”…報知アマゴルフ選手権 - スポーツ報知・2017年7月27日
- ^ 東京スポーツ・2009年12月2日付 2面
- ^ 2010年に自身が出版した自伝による内容。[要文献特定詳細情報]
- ^ “阿部&村田アベック弾!巨人一夜で奪首”. 日刊スポーツ (2013年6月4日). 2017年8月5日閲覧。
- ^ “巨人ファンあるあるネタ やたらグータッチを要求し鬱陶しい”. NEWSポストセブン (2013年4月20日). 2017年8月5日閲覧。
- ^ “不倫で1億円払った原監督 「清武さん」暴露もうやめて”. スポーツニッポン. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2012年6月21日 06:00) 2014年12月9日閲覧。
- ^ “原監督、女性問題で1億円支払っていた”. デイリースポーツ. デイリースポーツオンライン (神戸新聞社). (2012年6月20日). オリジナルの2012年6月20日時点におけるアーカイブ。 2014年12月9日閲覧。
- ^ a b “原監督1億円不倫問題に「朝日」参入 「ゆすり男は元組員」と断定”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト): p. 1. (2012/6/21 20:36) 2014年12月9日閲覧。
- ^ “(2/3) 原監督1億円不倫問題に「朝日」参入 「ゆすり男は元組員」と断定”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト): p. 2. (2012/6/21 20:36) 2014年12月9日閲覧。
- ^ a b “(3/3) 原監督1億円不倫問題に「朝日」参入 「ゆすり男は元組員」と断定”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト): p. 3. (2012/6/21 20:36) 2014年12月9日閲覧。
- ^ a b 名誉毀損、二審も読売巨人軍の敗訴 原監督報道は「真実」 共同通信2015年12月16日
- ^ 現金を渡しました/原監督コメント全文
- ^ “原監督 ファンに謝罪「私はある女性と関係を持ちました」”. スポーツニッポン. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2012年6月20日 13:28) 2014年12月9日閲覧。
- ^ “巨人・原監督、暴露に「清武さんの他にだれが」”. デイリースポーツ. デイリースポーツオンライン (神戸新聞社). (2012年6月20日) 2014年12月9日閲覧。
- ^ 「関知していない」と清武氏=原監督メッセージに反論-プロ野球 - 『時事ドットコム』2012年6月20日 [リンク切れ]
- ^ 原監督1億円問題、巨人軍の請求を棄却 東京地裁判決 朝日新聞2015年7月15日
- ^ 巨人・原辰徳前監督の女性問題報道、文春の勝訴確定 産経新聞 2016年6月29日
- ^ 原辰徳氏東海大学特別功労賞受賞記念対談「ベストを尽くし、頂点を目指す」を開催します
- ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ
- ^ 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目 - 『ZAKZAK』2005年10月配信分(インターネットアーカイブ2005年10月23日付保存キャッシュ)
- ^ a b c d 外部リンク『オリコン芸能人事典』内「原辰徳」より、「ヒストリー」を参照。
- ^ http://www.giants.jp/G/museum/2011/gnews/news_394818.html
- ^ “過去のMen of the Year受賞者たち【国内編】”. GQ JAPAN. 2014年11月21日閲覧。
参考資料
- 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ
- 各種外部リンク
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 原辰徳 とは - 『コトバンク』より。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『知恵蔵mini』の解説が掲載。
- 『読売巨人軍公式サイト』より、原辰徳のプロフィール
- 原監督日記(2012年2月2日 - )
- ほぼ日刊イトイ新聞 原辰徳×糸井重里 プロ野球選手の孤独。
- ほぼ日刊イトイ新聞 原辰徳×糸井重里 野球の品格。自尊心なき監督、原辰徳。
- ほぼ日刊イトイ新聞 原辰徳×糸井重里 優勝したけど、二度と送りたくないシーズン。