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|略名=日本 |
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|日本語国名=日本国<ref group="注">現在に至るまで、国名についての法令が存在していない。現在も使用されている日本の[[国璽]](国の判子、[[1874年]]完成)には「大日本國璽」(大日本国璽)と"大"が冠されている。[[大日本帝国|大日本帝国憲法下の日本]]に於いては「大日本帝国」とも称された。</ref> |
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|公式国名=日本国<ref name="a1">{{Cite web |url= https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC-109930|author=百科事典マイペディア|title=日本|accessdate= 2022-11-25|publisher=コトバンク}}</ref> |
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日本は古くから[[中国大陸]]、[[朝鮮半島]]との関係が深く、[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]には[[遣隋使]]、[[遣唐使]]といった[[交易]]を通して[[法]]制度・[[仏教]]・[[儒教]]・[[漢文]]等を輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、[[正倉院]]に[[ペルシア]]・[[インド]]を由来とする[[文化財]]が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・[[シルクロード]]文化も流入している。[[律令]]体制樹立後の[[平安時代]]末期より[[武家政権]]が成立し、幾度も交替する。[[江戸時代]]に至って交際国を限定する「[[鎖国]]」を行ったが、外圧を受けて[[開国]]し、[[明治維新]]の過程で[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]で[[武家政権]]が終焉した。 |
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[[版籍奉還]]や[[廃藩置県]]などを経て[[中央集権化]]を完了した後、[[自由民権運動]]を受けて[[大日本帝国憲法]]が制定され、[[国会]]が開設された<ref name="a1"/>。同時に[[西洋]]の[[資本主義]]を参考にして[[国立第一銀行|日本初の銀行]]や[[東京株式取引所]]および銀行と取引を行う会社が次々と創業された。並行して[[工業化#日本|工業化]]も進展し、ここに[[西洋|西洋化]]・[[近代化]]が果たされ、日本は[[近代国家]]・[[立憲君主国|立憲君主制国家]]へ移行する。 |
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[[日清戦争]]、[[日露戦争]]、[[第一次世界大戦]]に勝利した日本は、開国時に欧米諸国と結んだ[[不平等条約]]を[[条約改正|撤廃]]させ、[[領土]]を拡張した。[[国際連盟]]発足にあたっては、日本は[[国際連盟規約]]への[[人種差別]]撤廃明記を呼びかけたが([[人種的差別撤廃提案]])、実現には至らなかった<ref>{{Cite book|和書|title=ウォー・ロード―戦争の指導者たち|publisher=新評論|isbn=4-7948-0039-8|oclc=833262126|year=1989|pages=187-217|series=目で見る戦史|translator=藤崎利和|author=A.J.P. テイラー}}</ref><ref>{{Cite web |title=外交史料 Q&A 大正期 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/taisho_02.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2022-05-11 |publisher=外務省}}</ref>。アメリカ不在の国際連盟において[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]の地位を確保した日本は、[[大正デモクラシー]]を受けて政治的・文化的発展が進み[[普通選挙法]] |
[[日清戦争]]、[[日露戦争]]、[[第一次世界大戦]]に勝利した日本は、開国時に欧米諸国と結んだ[[不平等条約]]を[[条約改正|撤廃]]させ、[[領土]]を拡張した。[[国際連盟]]発足にあたっては、日本は[[国際連盟規約]]への[[人種差別]]撤廃明記を呼びかけたが([[人種的差別撤廃提案]])、実現には至らなかった<ref>{{Cite book|和書|title=ウォー・ロード―戦争の指導者たち|publisher=新評論|isbn=4-7948-0039-8|oclc=833262126|year=1989|pages=187-217|series=目で見る戦史|translator=藤崎利和|author=A.J.P. テイラー}}</ref><ref>{{Cite web |title=外交史料 Q&A 大正期 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/taisho_02.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2022-05-11 |publisher=外務省}}</ref>。アメリカ不在の国際連盟において[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]の地位を確保した日本は、[[大正デモクラシー]]を受けて政治的・文化的発展が進み、[[政党政治]]の[[憲政の常道|慣例]]の確立や[[普通選挙法]]成立など[[民主主義]]の発展が見られた。しかし、[[世界恐慌]]とそれに続く[[ブロック経済]]化の中で日本は[[五・一五事件]]や[[二・二六事件]]、政党の汚職事件などに揺れて政党政治が後退<ref>[https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E6%94%BF%E5%85%9A%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B/ 世界の歴史まっぷ 「政党政治の展開」]</ref>、[[日本軍|軍]]の影響の強い[[挙国一致内閣]]が常態化した<ref>{{Cite web |url= https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC-109930|author=|title=挙国一致内閣|accessdate= 2022-11-25|publisher=コトバンク}}</ref>。[[満州事変]]に続き[[日中戦争]]に向かい、[[第二次世界大戦]]に[[枢軸国]]として参戦、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]と対戦したが太平洋戦争に敗れた。 |
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[[連合国軍占領下の日本|占領]]下では[[連合国軍総司令部]](GHQ)の指示を受けて[[国民主権]]、[[基本的人権|基本的人権の尊重]]、[[平和主義]]を謳う<ref>{{Cite web|url=https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026215010.pdf|title=日本国憲法の「三原則」って何なの 日本国憲法の「三原則」って何なの の「三原則」って何なの|accessdate=2021年5月6日|publisher=学研}}</ref>[[日本国憲法]]が制定され、日本は再び政党政治を基調とした民主主義となる。戦後復興ののち、[[冷戦]]の中で[[自衛隊]]と[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]を軸とした国防を維持しながら、[[1960年代]]から[[高度経済成長]]期に入り、[[工業化]]が加速し科学技術立国が推進された結果[[経済大国]]にもなったが、[[プラザ合意]]を経て[[バブル景気|バブル経済]]に突入し、[[1980年代]]末のバブル経済崩壊後は経済停滞期に入った<ref name=":13" />。その後は世界最大の対外[[純資産]]国となっているが<ref>{{Cite web|title=29年連続「世界最大の対外純資産国」は「失われた20年」の産物。高収益の投資先が国内にない日本の現実|url=https://www.businessinsider.jp/post-215110|website=www.businessinsider.jp|date=2020-06-22|accessdate=2021-07-04|language=ja|last=唐鎌大輔}}</ref>、中高所得層以上の資産は増加する一方で従来の[[中流階級|中間層]]が貧困化しており、格差は拡大している<ref>{{Cite web |url=https://www.nomura.co.jp/terms/japan/si/A02571.html |title=ジニ係数(じにけいすう) |accessdate=2021年3月28日 |publisher=野村證券}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.rieti.go.jp/jp/special/af/data/060_inoue.pdf |title=日本の所得格差の動向と政策対応のあり方について |accessdate=2021年3月28日 |publisher=経済産業研究所}}</ref>。[[環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定]]を推進するなど、概ね[[自由貿易]]体制を支持している。 |
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[[日本の人口統計|人口]]は江戸末期まで概ね3000万人台で安定していたが、明治以降は人口急増期に入り、[[1967年]]([[昭和]]42年)に初めて1億人を突破した。その後出生率の低下に伴い21世紀初頭にピークを迎え、人口減少が始まった<ref>{{Cite web |title=歴史的に見た日本の人口と家族 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1003948 |website=国立国会図書館デジタルコレクション |access-date=2022-05-11 |author=縄田康光 |work=立法と調査. (260) |date=2006-10-06}}</ref>。現代日本社会は[[少子化]]が進んでおり、世界トップクラスの平均寿命の長さと移民流入の少なさも相まって、[[超高齢社会]]に突入している。 |
[[日本の人口統計|人口]]は江戸末期まで概ね3000万人台で安定していたが、明治以降は人口急増期に入り、[[1967年]]([[昭和]]42年)に初めて1億人を突破した。その後出生率の低下に伴い21世紀初頭にピークを迎え、人口減少が始まった<ref>{{Cite web |title=歴史的に見た日本の人口と家族 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1003948 |website=国立国会図書館デジタルコレクション |access-date=2022-05-11 |author=縄田康光 |work=立法と調査. (260) |date=2006-10-06}}</ref>。現代日本社会は[[少子化]]が進んでおり、世界トップクラスの平均寿命の長さと移民流入の少なさも相まって、[[超高齢社会]]に突入している。 |
2022年11月25日 (金) 05:14時点における版
- 日本国
- 日本国[1]
-
(国旗) (国章(慣例上)) - 国の標語:特になし
- 国歌:
-
公用語 日本語(事実上[注 1]) 首都 東京都(事実上[注 2]) 最大の都市 東京都区部[注 3] 建国 諸説あり
日本神話による初代・神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)。グレゴリオ暦換算での紀元前660年2月11日(紀元節)は明治時代に推定された[6][注 5]。通貨 円(JPY) 時間帯 UTC+9 (DST:なし) ISO 3166-1 / ccTLD 不明 国際電話番号 81 -
- ^ 百科事典マイペディア. “日本”. コトバンク. 2022年11月25日閲覧。
- ^ “第Ⅱ章 都道府県別面積” (PDF). 令和4年全国都道府県市区町村別面積調(1月1日時点). 国土交通省 国土地理院. (2022年3月23日). p. 5. オリジナルの2022年3月23日時点におけるアーカイブ。 2022年3月23日閲覧。
- ^ “令和2年国勢調査”. 総務省統計局 (2020年). 2022年3月23日閲覧。
- ^ “令和2年国勢調査”. 総務省統計局 (2020年). 2022年3月23日閲覧。
- ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2021”. IMF (2021年10月). 2021年10月29日閲覧。
- ^ 明治5年太政官布告第344号 で1月29日に推定された後、明治6年太政官布告第344号 で紀元節を2月11日に定める
日本国(にほんこく、にっぽんこく、英: Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家[1]。首都は東京都[注 2][2][3]。
全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島[注 6]および千島列島・南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成され[3][4]、大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある[5][6]。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め[6]、沿岸の平野部に人口が集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族[注 7]・外国系の人々)と外国人が居住し、日本語を通用する[2][3]。
概要
日本語を母語とする大和民族が国民のほとんどを占める。自然地理的には、ユーラシア大陸の東に位置しており、環太平洋火山帯を構成する[2]。島嶼国であり、領土が海に囲まれているため地続きの国境は存在しない。日本列島は本州、北海道、九州、四国、沖縄島(以上本土)も含めて6852の島を有する[注 8]。気候区分は、北は亜寒帯から南は亜熱帯まで様々な気候区分に属している[8]。様々な自然災害に見舞われやすい環境にあり、地震発生数や災害被害額は世界有数である[9]。
日本は古くから中国大陸、朝鮮半島との関係が深く、飛鳥時代・奈良時代には遣隋使、遣唐使といった交易を通して法制度・仏教・儒教・漢文等を輸入し、国家体制の構築に役立てている。また、正倉院にペルシア・インドを由来とする文化財が複数含まれることを例に取れるように、唐や朝鮮に限らず交易を通じてアジア・シルクロード文化も流入している。律令体制樹立後の平安時代末期より武家政権が成立し、幾度も交替する。江戸時代に至って交際国を限定する「鎖国」を行ったが、外圧を受けて開国し、明治維新の過程で王政復古の大号令で武家政権が終焉した。
版籍奉還や廃藩置県などを経て中央集権化を完了した後、自由民権運動を受けて大日本帝国憲法が制定され、国会が開設された[10]。同時に西洋の資本主義を参考にして日本初の銀行や東京株式取引所および銀行と取引を行う会社が次々と創業された。並行して工業化も進展し、ここに西洋化・近代化が果たされ、日本は近代国家・立憲君主制国家へ移行する。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に勝利した日本は、開国時に欧米諸国と結んだ不平等条約を撤廃させ、領土を拡張した。国際連盟発足にあたっては、日本は国際連盟規約への人種差別撤廃明記を呼びかけたが(人種的差別撤廃提案)、実現には至らなかった[11][12]。アメリカ不在の国際連盟において常任理事国の地位を確保した日本は、大正デモクラシーを受けて政治的・文化的発展が進み、政党政治の慣例の確立や普通選挙法成立など民主主義の発展が見られた。しかし、世界恐慌とそれに続くブロック経済化の中で日本は五・一五事件や二・二六事件、政党の汚職事件などに揺れて政党政治が後退[13]、軍の影響の強い挙国一致内閣が常態化した[14]。満州事変に続き日中戦争に向かい、第二次世界大戦に枢軸国として参戦、連合国軍と対戦したが太平洋戦争に敗れた。
占領下では連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けて国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を謳う[15]日本国憲法が制定され、日本は再び政党政治を基調とした民主主義となる。戦後復興ののち、冷戦の中で自衛隊と日米安保条約を軸とした国防を維持しながら、1960年代から高度経済成長期に入り、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果経済大国にもなったが、プラザ合意を経てバブル経済に突入し、1980年代末のバブル経済崩壊後は経済停滞期に入った[2]。その後は世界最大の対外純資産国となっているが[16]、中高所得層以上の資産は増加する一方で従来の中間層が貧困化しており、格差は拡大している[17][18]。環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定を推進するなど、概ね自由貿易体制を支持している。
人口は江戸末期まで概ね3000万人台で安定していたが、明治以降は人口急増期に入り、1967年(昭和42年)に初めて1億人を突破した。その後出生率の低下に伴い21世紀初頭にピークを迎え、人口減少が始まった[19]。現代日本社会は少子化が進んでおり、世界トップクラスの平均寿命の長さと移民流入の少なさも相まって、超高齢社会に突入している。
人間開発指数が高く先進国のひとつに数えられており[20]、経済協力開発機構、G7、G8およびG20の参加国である。名目GDPは世界第3位かつ購買力平価は世界第4位であり[21]、アメリカと中国に次ぐ経済大国である。
21世紀に入ってからは、中国やアメリカ、インドの企業群との競争が激しい状況下であるが、自動車産業やエレクトロニクス産業、重化学工業の中心地であり[22][23]、トヨタ自動車、日立製作所、三菱重工業、日本製鉄、ソニー、パナソニック、任天堂、武田薬品工業、三菱UFJフィナンシャル・グループなど多数の大企業を輩出し、科学技術のリーダーとされる[24]。また、経済複雑性指標において日本は1984年(昭和59年)以降、一貫して世界首位を維持している。このような理由から、列強の一国とみなされる[25][26]。
経済平和研究所による2022年(令和4年)の健全なビジネス環境ランキングでは、日本はオーストラリア、スイス、カナダ、英国に次いで世界第5位となっている[27]。また、2020年(令和2年)の国際労働機関(ILO)の労働権ランキングでは、世界で6段階中の2番手のグループに属し、台湾やシンガポールとともにアジアで独歩的な位置を占め、世界的にもドイツやイタリアには及ばないものの、フランスやカナダと同格、アメリカ合衆国やイギリスよりも高く、上位レベルとみなされる[28]。
文化面では日本庭園、日本建築、和食、着物や宗教(神道・日本仏教)などの伝統文化を保持し、複数の世界遺産を保有している。また漫画、アニメ、ゲームを始めとするポップカルチャーの中心地である。これらの文化は、欧米圏の文化と比べ特異な文化として海外から注目されている[注 9]。家庭用ゲーム機のハードウェアでは、1990年代までに任天堂・ソニー・セガの3社が世界的シェアの大部分を獲得したが、2001年(平成13年)3月にはセガが撤退した。
政府はクールジャパン戦略を実行するなど、観光立国を推進している。2021年(令和3年)には東京オリンピック[注 10]が開催され、2025年(令和7年)には大阪万博も予定されるなど、国際的イベントの招致にも力を入れる。2021年、USニューズ&ワールド・レポートの2021 Best Countries ランキングで第2位となった[29]。2020年、日本は国際送金サービスを扱うremitlyで調査した最も移住したい国ランキングで、カナダに次いで2位を占めた [6]。
国号
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するという説がある[30]。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を直接かつ明確に規定した法令は存在しない[31]。ただし、日本工業規格では「日本国」、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格(ISO)では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊[注 11] を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず「日本」「日本国」「本邦」「わが国」などが混在している。
日本語の表現
発音
「にほん」、「にっぽん」二つの呼び方がある。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[33]。
7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[34]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[35]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[36]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニホン」「ニッポン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした[37]。
その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している[33]。
現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれている(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)。
- 「にほん」(NIHON)
- 日本大学、日本航空、日本経済新聞、日本たばこ産業、JR東日本、JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本オリンピック委員会、日本セラミック、日本ガイシ、日本交通、日本アイ・ビー・エム、日本マクドナルド
- 「にっぽん」(NIPPON)
また、日本テレビ放送網(日本テレビ)、東日本電信電話(NTT東日本)・西日本電信電話(NTT西日本)のように、社名では「にっぽん」、愛称は「にほん」と使い分けている例や、東日本高速道路(NEXCO東日本)・中日本高速道路(NEXCO中日本)・西日本高速道路(NEXCO西日本)のように英字社名は「Nippon」、日本語での社名では「にほん」を用いる例もある。
日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている[38]。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている[39]。日本国憲法制定の際、読みについての議論で、憲法担当大臣金森徳次郎は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかに決められることはなかった[37]。
日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。
- 「にほん」(NIHON)
- 日本共産党(1922-)、日本労農党(1926-1928)、日本自由党(1945-1948)、日本進歩党(1945-1947)、日本協同党(1945-1946)、日本農民党(1947-1949)、日本民主党(1954-1955)、日本新党(1992-1994)
- 「にっぽん」(NIPPON)
- 日本社会党(1945-1996)、日本自由党(1953-1954)、新党日本(2005-2015)、たちあがれ日本(2010-2012)、日本維新の会(2012-2014)、日本未来の党(2012)、日本を元気にする会(2015-2018)、日本のこころを大切にする党(2015-2018)、日本維新の会(2016-)
日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の「JAPAN」としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ「NIPPON」の表記を使っていた[40]。2021年の自国開催の2020年東京オリンピックでは入場行進時に「にほん」とアナウンスされている。
東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京の日本橋は「にほんばし (Nihonbashi)」、大阪の日本橋は「にっぽんばし (Nippombashi)」と読む。
呼称
古くから多様である。
- 和語
- あきつしま - 「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
- 「秋津島」
- 「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)
- 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
- あしはらのなかつくに - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
- うらやすのくに - 心安(うらやす)の国の意。
- 「浦安国」(日本書紀・神武紀)
- おおやしま - 国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。古事記では順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
- 「大八島」「太八島」
- 「大八洲」(『養老令』)
- 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
- くわしほこちたるくに - 精巧な武器が備わっている国の意。
- 「細矛千足国」(日本書紀・神武紀)
- しきしま - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
- 「師木島」(『古事記』)
- 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
- 「敷島」
- たまかきうちのくに
- 「玉牆内国」(日本書紀・神武紀)
- 「玉垣内国」(『神皇正統記』)
- ひのいづるところ - 遣隋使が煬帝へ送った国書にある「日出處」を訓読したもの。
- 「日出処」(隋書)
- ひのもと - 雅語で読むこともある[注 12]。
- ほつまのくに
- 「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武紀)
- みづほのくに - みずみずしい稲穂の実る国の意。
- 「瑞穂国」
- やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする[42]が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。神日本磐余彥天皇(かむ やまと いわれびこ)、稚日本根子彦(わか やまと ねこひこ)など。また、隼人(はやと)などの呼称からすれば、元は山地の人を「山人」(やまと)といったことも考えられる。
- 「
虚空見 つ日本 の国」
- 「
- 漢語
- 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬萊伝説に準えた「扶桑」[43]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[44]。このほかにも「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
- 「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[注 13]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後「大日本帝国」の他「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[注 14]。
- 倭漢通用
- 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[45]に倭漢通用の国称が掲載されている。
その他の言語
- 英語での公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、ISO 3166-1などで使われるJPN、JPが多く用いられる。JAP(ジャップ)は英語圏を中心に侮蔑的な意味があるが、一部の国[注 15]やIOCコードでは中立的な立場でJAPが用いられる。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
- その他、各言語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ヤパン(蘭: Japan)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、ヤポーニヤ/イポーニヤ[注 16](露: Япо́ния)、ヤポーニヤ(宇: Япо́нія)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。
- 漢字文化圏においては、リーベン(中: Rìběn;日本)[注 17]、イルボン(朝: 일본;日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản;日本)[注 18]など、「日本」をそのまま自言語の発音で読んでいる。
- 9世紀半ば以降の中世アラブ世界では、東方の彼方に存在する黄金に富む土地をワクワク(阿: الواق واق)と呼んでいた。この呼称の由来として、当時の中国における呼称である「倭国」がアラブ世界に伝わって訛った結果との説がある。また、東方の黄金に富む土地という意味についてもジパング伝説と一致する。
- 欧州発行の古地図上での表記
- 「CIPANGU」1300年頃[46]
- 「IAPAM」1560年頃[47]
- 「ZIPANGNI」1561年[48]
- 「IAPAN」1567年頃[49]
- 「IAPAM」1568年頃[50]
- 「JAPAN」発行年不明[51]
- 「IAPONICUM」1585年[52]
- 「IAPONIAE」1595年[53]
- 「IAPONIA」1595年[54]
- 「IAPONIÆ」1595年[55]
- 「IAPONIA」1598年[56]
- 「IAPONIA」1598年[57]
- 「IAPAO」1628年[58]
- 「Iapan」1632年[59]
- 「IAPONIA」1655年[60]
- 「IAPON」発行年不明[61]
- 「Iapan」1657年[62]
- 「IAPONIA」1660年頃[63]
- 「NIPHON」1694年頃[64][注 19]
- 「JAPAM」1628年[65]
- 「YAPAN」1628年[66]
- 「IAPON」17世紀[67]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[68]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[69]
- 「IAPONIA」18世紀初[70]
- 「IAPON」1720-30年[71]
- 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[72]
- 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[73]
- 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[74]
国号の由来
概説
日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[75]。
しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している[76]。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[77]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[78]。
詳細
『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。
『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[42]。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は以下の2説に絞られる。
(1)天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説[79]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[80][注 20]。
(2)701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[81]。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[82]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[83]。後代に成立した『旧唐書』[84][85]、『新唐書』[86]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[注 21]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[注 22]。但し2011年7月、祢軍[注 23]という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[88]。
『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[89]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[注 24]。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[90]。
歴史
日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京奠都以降を東京時代(1868年 – )とする説もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各時代の始期・終期は諸説ある。各記事を参照のこと。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Category:日本のテーマ史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[91]。
人類の歴史よりも日本列島の歴史の方が数千万年以上長く、日本列島には長らくヒトが住んでいなかった。日本列島の形成が始まったのは、哺乳類が現れた始新世(5600万年前 - 3400万年前)と推測されている。そして、アフリカにヒトが現れた時代は始新世よりも遥か後の更新世末期(約25万年前)である。
(1)考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。
一方、(2)歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[注 25]。
建国をめぐる議論
公的には1966年に成立した建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として建国記念の日(旧紀元節)が定められた。記紀による初代神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)をグレゴリオ暦に換算(紀元前660年2月11日)による。紀元前663年、奈良盆地とその周辺を支配していた長髄彦を神武天皇が打ち破り(神武東征)、神武天皇が奈良盆地とその周辺を統治することになったとされる。
ただし、国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成され、神話か現実か区別が難しい記録が多いため[92]、建国時期の確実な根拠となる記録は存在しない。
この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった背景がある。
そのため建国記念の日も「日本が建国された日付」を法律上定義するものではない。
神武天皇は実在しなかった架空の人物である可能性がある[92]が、『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、明治時代以前の日本では、これが日本建国の画期と広く考えられていた。そのため明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用されていた[注 26]。
他にも建国の時期として、「日本」という国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった(国際法上の国家主権の存在が明確化された)明治維新の時期とする学説もあるなど、日本の建国時期を明確に定義づける証拠はない。
日本の黎明期
日本列島における人類の歴史は、人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる[注 27]。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで[注 28]、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった[注 29]。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。
紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に倭の代表の座を巡って各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長(王)はのちに大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。
律令国家の成立と貴族政治の展開
朝鮮半島における覇権争いが倭国の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。また『隋書』では、日本列島での古墳時代後期にあたる610年に隋が「流求国」に遠征して滅亡させたとされており、従来の研究ではこれが琉球諸島に存在していたことが定説となっていたが、その位置を巡っては意見が分かれている[93][94]。
日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。後述する武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持していくこととなる。
成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8、9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に、関係が悪化した新羅への遠征も計画される[95]など、帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏と清和源氏は、軍事貴族である武家となって武士を二分する勢力に成長し、政権を巡って両者は相争った。
中央政治においては11世紀に藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇が治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が早くに譲位し、太上天皇(上皇)となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。
文化面においては、7世紀から9世紀にかけて唐を中心とする大陸文化の摂取に努めたが、10世紀頃から12世紀にかけては日本独特の文化が創造されるようになり、国風文化が花開いた[3]。
武家政権の時代
10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制へと移行した。更に治承・寿永の乱で平氏政権を破った清和源氏や北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝貴族勢力と拮抗しながら国内の統治を行い、「一所懸命」「御恩と奉公」の言葉に象徴される封建的なシステムが確立した(荘園公領制、職の体系)[3]。
12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」「日本国」の表記が見られ始め「日本」「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。また、この頃に今日につながる日本の仏教の諸宗派が発達した[3]。
モンゴル帝国に勝利後
13世紀後半のモンゴル帝国の日本侵攻は、「日本」「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[96]。
1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったが、ほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏の室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。
この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。
戦国時代・近世の到来
14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展し、守護領国制が形成されたが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ[3]。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に織田信長の遺志を引き継ぎ日本の統一政権を樹立した豊臣秀吉は太閤検地を実施し近世封建社会の基礎を確立した[97]。戦国大名の最後の覇者となった徳川家康は1603年に江戸幕府を開き、約260年間にわたる「天下泰平の世」が続いた[3]。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道を思想的に発展させ、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。
日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻して、かつて北条氏の得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島(宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[98]が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。
海外との交流の面においては、ポルトガル船の来航以来16世紀には南蛮貿易が盛んになり、織田信長は特にこれらを保護し文化的な交流も極めて豊かな状態になった一方、豊臣秀吉は伴天連追放令を発し、秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外は対外政策は徐々に消極的になり、貿易も「鎖国」とも称される貿易体制によって外国文物の流入が制限されるようになったものの、清との貿易や出島でのオランダとの交易を通じ文化・情報の流入は途絶える事はなかった。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。
明治維新と近代日本の展開
江戸幕府は日米和親条約を皮切りに開国を行い、それまでの対外政策を変更した。幕末期には人口増加も見られたが、尊王攘夷運動を経た明治維新で、明治政府は幕藩体制を崩壊させ中央集権化を進めた。近隣国と国境の確定を行い、1875年に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言し[99]、また、琉球処分を行うとともに1885年に大東諸島、1895年に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。明治政府の対外政策の中心課題に不平等条約の撤廃があった。
自由民権運動を受けて1889年に発布された大日本帝国憲法により、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な「立憲国家」となった[注 30][100]。帝国憲法下では部分的な権利が保障されたが、1925年の普通選挙法で男子普通選挙制度が成立した。
諸外国との戦争に次々と勝利する日本
日清戦争に勝利した日本は乙未戦争後に台湾割譲、日露戦争によってロシア帝国に勝利した日本は南樺太割譲、朝鮮総督府設立後には韓国併合で領土を拡大させると、シベリア出兵の失敗を経たのち、関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め[101]、1934年に満洲国を建国して一定の支配権を得るに至り[102]、その後対支一撃論を主張する。
第一次世界大戦に勝利
日清戦争、日露戦争、義和団の乱と外国との戦争で連続的に勝利してきた日本は当初、1914年にヨーロッパで始まった第一次世界大戦に直接国益に関与しないにも関わらず日英同盟を根拠に連合国側として参戦した。日本は中央同盟国のドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告、日独戦争に突入した。欧州諸国とは違い日本本土は第一次世界大戦中、被害を受けなかったため、日本はアフリカやアジアに輸出が増加、国内は大戦景気と呼ばれる好景気が5年以上と続いた。
ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国に次々と勝利していった日本は植民地だった中華民国の一部の都市を占領した。大戦の結果、日本などの連合国は勝利した。
戦後の日本は戦勝国になったことから欧州の列強国ともに数少ない国際連盟の常任理事国に加盟するなど国際社会の大国として君臨していった。また、ドイツ領ニューギニアも日本の統治下へと変更になった。
第二次世界大戦に敗北
日中戦争に引き続き1941年に真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦し、既にヨーロッパではナチス・ドイツが侵攻を開始していたものの、アメリカ合衆国が参戦した事でここに第二次世界大戦は全世界に拡大した。真珠湾攻撃の奇襲に成功しながらドックや補給タンクを放置したことがミッドウエイ海戦での米軍の戦力回復を助けたことなど、自国側の兵站計画だけでなく、敵対国の兵站を断つことへの認識の甘さを指摘する説もある[103]。
敗戦により日本は朝鮮・台湾・樺太・千島列島を放棄した。
戦後復興
占領から主権回復期
1945年8月15日、玉音放送で昭和天皇は臣民にポツダム宣言を受諾する事を広報し、同年9月2日降伏文書に日本と連合国が署名したことで太平洋戦争は終結し、日本はGHQの監督下に置かれることになった。初の男女普通選挙だった第22回衆議院議員総選挙で選ばれた衆議院での改正手続きを経た日本国憲法が、1946年11月3日に公布され、大日本帝国憲法が全文改正された形式をとるものの国民主権になり主権者規定が変更された。人材面では公職追放・レッドパージが行われた。占領当局は政策を進めるにあたりプレスコードを布いた。当初憲法に従い軍隊に準ずる組織はなかったものの1950年には警察予備隊が設置された。
1951年9月にサンフランシスコ平和条約が調印され、日本の主権回復が決められるとともに、日本はここで朝鮮の独立を承認し、済州島・巨文島・鬱陵島を含む朝鮮地域の放棄が規定された[104]。同時に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)が調印され、主権回復後も引き続き在日米軍の駐留が続けられることとなった[3][105]。1952年主権回復。1956年、日ソ共同宣言調印後、国際連合に加盟した。
経済の面においては、終戦直後の日本の状況は苛烈を極めたものの、朝鮮戦争の勃発に伴う朝鮮特需もあって経済復興をとげ[3]、1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述される状況に至った。
主権回復後
神武景気から本格的な経済成長に入った日本は、60年代には高度経済成長期に突入した。オイルショックまで高度成長は続き、成長と所得の平等(一億総中流)を達成したその様は、経済学者のラビ・バトラが「資本主義の究極の理想に近い」と表現するほどであった。
対外的には1953年の竹島紛争などを除き概ね直接紛争は避けられた。安保闘争も起きたものの、1960年には新たな日米安全保障条約が締結された。この「安保改定」は、2022年現在も有効であり日本の国家安全保障の根幹をなしているが、基地問題やアメリカ合衆国の世界戦略への協力の是非などをめぐりしばしば議論の的となっている[3][105]。
朝鮮に関しては、1965年の日韓基本条約で韓国と国交を正常化し、東アジアでの地位を固めた。「二つの中国」問題については、中華民国とのみ国交を結ぶ「サンフランシスコ体制」をとり、国共内戦を経て中国本土を実質支配していた中華人民共和国とは国交がない期間が続いたが、1972年に中華人民共和国との間に国交を結んだ。引き換えに中華民国とは断交し、以来2022年に至るまで国家間での公式な交流は行われていない[3]。
1980年代にはバブル景気が発生し戦後最大の好景気となった。
政治的には55年体制により、自由民主党と日本社会党に大体分かれたものの、概して自民党が与党であった。
現代
景気過熱、それによる地価や住宅価格の高騰と言う問題に対処するため日銀総裁三重野康は大幅な利上げによるバブル退治を敢行したが、1990年に10ヵ月で日経平均株価が半値まで暴落し早期にバブル退治が達成された(バブル崩壊)にもかかわらず利上げの手を緩めなかった結果日本経済に対する明らかなオーバーキルとなり実体景気にも猛烈な悪影響を与え失われた10年と呼ばれる長い経済停滞を引き起こした。失業した日本人技術者を台湾や韓国の企業が雇い技術力を高めた。90年代より中国などアジア新興国が工業化を行い、輸出により経済を回していた日本は徐々に競争力を失った。
1995年には阪神淡路大震災が発生。
1996年に発足した橋本内閣は景気回復より増税による財政再建を急いだため回復の兆しを見せていた景気の再びの悪化を招いた。この頃より日本はデフレに突入する。
ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソンにより、現代日本は強大になり過ぎた企業が労働者を安く買い叩くmonopsony(モノプソニー)と呼ばれる状況に陥って、生産性の低下や財政の弱体化が起きている可能性が指摘されている[106]。
2001年に九州南西海域工作船事件が発生した。
2001年から小泉・竹中改革が行われ景気悪化は底を突いたが、非正規労働の規制緩和という実質賃金抑制策によって労働者の地位低下を招いたとの批判がある。
2011年には東日本大震災・福島第一原発事故が発生。
2019年、天皇明仁は皇太子徳仁に譲位を行い元号が令和となった。
新型コロナウイルスの流行
2020年1月16日、神奈川県で国内第1例目の武漢市旅行歴のある新型コロナウイルスの感染者が発表された[107]後、パンデミックと呼ばれる状況に陥り、政治、経済、国民生活に大きな影響を与えている。パンデミックの影響による1年延期ののち、オリンピック・パラリンピック東京2020大会が2021年に開催された。
地理
日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[注 31]。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。
地勢
日本の領土は、6,852の島(本土5島+離島6,847島)からなる[110]。
アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋や極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)も有する。日本はまた北東に位置する北方四島の領有権をも主張している。
領土面積は約37.8万平方キロメートル(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。
埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成整備することが目的であった。これによる埋立地がポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などである。最近では関西国際空港、横浜八景島や和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業と八郎潟のような大規模事業のような例もある。
離島が多数存在し、その中には様々な理由で(多くは私有地や重要な施設があるため)立入禁止の島もある。琉球諸島や伊豆諸島は離島の内でも交通の便が良く、南方の島々は亜熱帯気候あるいは熱帯雨林気候となっているため「日本のハワイ」等と称され、日本人観光客に人気である。
- 最東端
- 東京都小笠原村 南鳥島 (北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒)
- 最西端
- 沖縄県八重山郡与那国町 トゥイシ[111][112](北緯24度27分05秒・東経122度55分57秒[112])
- 日本最西端は長らく与那国島の西崎(いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島北北西260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった[111][112]。
- 最南端
- 東京都小笠原村 沖ノ鳥島 (北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒)
- 最北端
- 北海道稚内市 弁天島 (北緯45度31分35秒、東経141度55分09秒)(日本政府の実効支配下にある領域の最北端)
- 北海道蘂取郡蘂取村 択捉島カモイワッカ岬 (北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒)(日本政府が領有権を主張する領域の最北端)
周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の日本海流(黒潮)、対馬海流、寒流の千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。
領土問題のある地域が数箇所存在する。
自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。
山岳は、最高峰は富士山(標高3776メートル)の他、南アルプス、北アルプスなど、2500メートル超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山、磐梯山、阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。
河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万平方キロメートルである[113]。
日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万平方キロメートル、領海とEEZを合計すると約447万平方キロメートルであり世界では第6位となる[114]。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。
EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した[115]。
国土の変遷
古代
弥生時代後期、西日本の各地に広域の地域勢力が勃興した[116]。2世紀末には畿内を中心として、西日本広域を支配する邪馬台国連合が創設された。邪馬台国連合は3世紀には東海・北陸のほか東日本も支配下に置き倭国が成立した[117]。古墳時代前期前半には、現在の九州の宮崎県から東北の宮城県の範囲まで国土が拡大されたことが、古墳造営の消長から明らかになっている[118][注 32]。荒井秀規は、3世紀末から4世紀に倭王権による東国への最初の接触があった後、4世紀末から5世紀にかけて倭王権による東国への征服戦争が行われたと想定している [119]。ただし倭国は東北など各支配領域を確保・維持しようとする考えを持っておらず[120]、6世紀には、経済基盤が脆弱な阿武隈川以北を倭国の支配地から切り離し[121]古墳時代後期には太平洋側では現在の宮城県南部、日本海側では現在の新潟県中部までが倭国の支配領域となった[122]。またこの間、400年(履中天皇元年)と404年(履中天皇5年)に倭は朝鮮半島で百済・加耶諸国と共に高句麗・百済連合軍と2度にわたって合戦を行っている[123]。
奈良・平安時代の日本国は、北は津軽海峡まで、南は喜界島までを国土と認識していたが[124]、一方で九州・四国・壱岐島・対馬とそれらに取り囲まれた本州の北陸と中部地方西部までの範囲こそが日本国本来の領土とも認識していた[125]。そのため東北地方に対しての関心の希薄さは変わることがなく、東北地方北部を完全な形で支配する必要性は感じておらず[126]、実際には大崎平野までが8世紀における日本国の北限であった[127]。9世紀、陸奥・出羽からの徴税の京進が行われなくなると[128]関心は更に希薄になり、東北北部の経営は現地の官人任せになっていった[129]。また、南西諸島への関心も薄れていった[130]。
古代の日本では、畿内と言われる行政区が設けられていた。大化の改新によって設置された当時から機内は支配者にとっての特別な地域と認識されていたが[131]、律令制施行後は直轄地として国家を支える役割を担った[132]。
中世
中世後期の日本は、室町将軍との間に<主-従の関係>を築くことが出来ているか、室町将軍を頂点とした階層的な秩序の内に居るか、あるいは外に居るかで境界が引かれていた[133]。将軍に反逆し命令の届かない地域は支配権の外に置かれ、<主‐従の関係>の有無によって境界が明瞭化された[134]。
歴史学において室町幕府3代将軍・足利義満の治世は初の公武統一政権と評価されている[135]。しかし室町幕府は地方への関心を殆ど持たない政治権力であり[136]、自らが統治すべき範囲は畿内近国・瀬戸内・中部地域と考えており、幕府にとって東北・関東・九州は辺境でしかなかった[137]。
15世紀前半、永享の乱によって将軍と鎌倉公方との<主ー従の関係>が崩れると、幕府は日本国の東側の境界は駿河国までであると規定するようになり、東国を日本国から切り離した[138][139][140]。一方で当時は独立国だった琉球国は室町将軍との間に<主‐従の関係>を結んでおり、将軍による<主‐従の関係>は国家間においても成立しうる概念でもあった[141]。
1419年(応永26年)、李氏朝鮮は倭寇の拠点壊滅を目的に対馬を攻撃したが作戦は失敗に終わった(応永の外寇)。その後対馬を李氏朝鮮領とするため対馬-李氏朝鮮間で交渉が行われたが、交渉は不調に終わり対馬は引き続き日本国に所属することになった[142]。
文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」で、中世後期の日本国の範囲は現在の近畿・東海・北陸・中国・四国の各地域であるとしている[143]。一方、戦国時代末期の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)が合戦し西国を討ち果たせば本朝(日本国)は滞りない状態になるだろう、と日本国の範囲を規定している[144]。
近世
織田政権を継承した豊臣政権は、四国平定・九州平定を経て1588年(天正16年)日本国の統一を成し遂げた[145]。豊臣政権はその後東日本にも支配を拡大し[146]、1590年(天正18年)の奥羽仕置により初めて本州北端までを日本の国土に組み込んだ[147]。更に秀吉は「唐入り」と称して朝鮮半島に2度に亘って攻め込むが、中国大陸・朝鮮半島へ支配を拡げるには至らなかった(文禄・慶長の役)。
豊臣政権を継承した徳川幕府は、豊臣政権とは一転して国際的孤立主義の道を選び[148]、長崎・対馬・琉球(薩摩)・松前の4地域を窓口として対外交渉を行った[149]。
1609年(慶長14年)、薩摩藩が琉球に侵攻し冊封関係を築き支配下に置いたが、琉球は中国とも朝貢関係を持ち続け、日本国と中国(明・清)との間で両属的な関係を維持した[150]。また、徳川政権期、蝦夷地(北海道)は松前藩が支配する渡島半島の南部の「和人地」以外は日本国の外と認識していた[151]。
近代以降
辺境地域の領土確定を課題としていた明治新政府は1870年(明治3年)、北海道を日本国に組み込み、1879年(明治12年)には清との帰属交渉が未決のまま、琉球を沖縄県として公式に日本国に編入した[152]。
19世紀末以降、日本国は対外戦争により国土を拡げていき、20世紀前半には日本史史上最大規模に拡大した。1895年(明治28年)に日清戦争の結果、清から台湾を獲得(下関条約)し[153]、1905年(明治38年)には、日露戦争後の交渉で、ロシアより南樺太の割譲を受けた[154](ポーツマス条約)。更に1910年(明治43年)にはそれ以前より日本国の保護下にあった朝鮮を併合した[155]。その後、1922年(大正11年)には南洋諸島の委任統治も開始し[156]、太平洋側へも支配地域を拡大させた。
1932年(昭和7年)には満州国を建国し[157]。1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに開戦した日中戦争により中国大陸に占領地を拡大。1940年(昭和15年)9月、フランス領インドシナ北部へ進駐を開始し(仏印進駐)[158]、翌年7月には南部仏印進駐、翌年7月には南部にも進駐を開始した[158]。
1939年(昭和14年)2月、台湾総督府は海軍と共に海南島を占領した[159]。台湾総督府は台湾の重工業化を企図し、「台湾の植民地」として海南島を支配下に置くことを目論んだものだった[160]。だが占領後の海南島支配は海軍が主導することになり、台湾総督府は海軍に協力することでしか関与できなかった[161]。
1941年(昭和16年)12月、日本は太平洋戦争の開戦と共に南方作戦を発動し、翌年5月には東南アジア一帯を国土に組み込んだ[162]。しかし太平洋戦争に敗れると、日本はそれ以前からの各植民地を失い満州国も消滅。1951年(昭和26年)に締結されたサンフランシスコ条約により南樺太、千島列島の領有権も放棄することになった[163]。
1972年(昭和47年)には、太平洋戦争末期からアメリカの占領状態にあった沖縄が日本に返還され[164]現在に至っている(沖縄返還)。
気候・動植物
- ケッペンの気候区分によると、本州以南沖縄諸島大東諸島以北の大半が温帯多雨夏高温気候 (Cfa)、宮古諸島・八重山列島(石垣島・西表島・与那国島・波照間島)・沖大東島などでは熱帯雨林気候 (Af))に属する一方、北海道などが亜寒帯湿潤夏冷涼気候 (Dfb) を示す[165]。内陸部にも標高が高いために寒冷な気候となる地区があり、避暑地として利用されている。モンスーンの影響を受け四季の変化がはっきりしているものの、全般的には海洋性気候のため大陸と比較して冬の寒さはそれほど厳しくなく温和な気候である。飛び地や海外領土などを別にすれば、一国の領土内に熱帯から亜寒帯までを含む国家は珍しい。北半球では他にアメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらいである。(標高の高さによる寒冷地域は除く)
- 冬季は、シベリア高気圧が優勢となり北西の季節風が吹くが、その通り道である日本海で暖流の対馬海流から大量の水蒸気が蒸発するため、大量の雪を降らせる。そのため、日本海側を中心に国土の約52%が世界でも有数の豪雪地帯となる。併せて、日本海側で起きる冬季雷は世界でも稀な自然現象である。太平洋側では、空気が乾燥した晴天の日が多い。
- 夏季は、太平洋高気圧の影響が強く、高温多湿の日が続く。台風も多い。但し、北部を中心にオホーツク海高気圧の影響が強くなると低温となり、しばしば農業に影響を与える。
- 比較的、降水量の多い地域である。主な要因は、日本海側での冬季の降雪、6、7月(沖縄・奄美地方は5、6月)に前線が停滞して起こる梅雨、夏季から秋季にかけて南方海上から接近・上陸する台風など。また、地球温暖化に伴い、元からある季節性の大雨以外にも、春から秋にかけて不規則に線状降水帯が現れ、極端に強い集中豪雨が西日本を中心に多発するようになった[166][167]。年間降水量は、約1700ミリメートルで地域差が大きい。南鳥島を除く日本全域がモンスーン地域で、山がちな日本列島の西岸および南岸の周りを暖流が流れている為に雲が発達しやすく、日照時間は約1800時間程度と世界の他の温帯地域と比べても少なめである。
- 生態系
- 南北に長く、また、森林限界を越える高山帯や広い海洋、四季の変化により、面積の広さに比べ、生息する動物や植物の種類が豊富である。津軽海峡以北の北海道の生態系は沿海州の生態系に似ており、ブラキストン線という境界が提唱されている。屋久島と南西諸島の間には、温帯と亜熱帯の生態系の分布境界線である渡瀬線が提唱されている。このほか海峡を主に複数の分布境界線が提唱されている。
- 四方が海で囲まれているため、外部から新しい生物が侵入してくる可能性が低かった。それに加え、多くの離島があるため、その島独自の生態系が維持されてきた土地が多数ある。特に小笠原諸島や南西諸島は、古くから本土と比べて孤立した生態系を築いてきたため、その島に固有の動植物が多く生息している。小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほど特殊な生態系を持つ。南西諸島でも、西表島のイリオモテヤマネコ、奄美大島・徳之島のアマミノクロウサギをはじめ、固有生物が島ごとに生息している例がある。だが、近年の開発や人間が持ち込んだ外来生物により、生態系は激変し、固有の動植物の生息が脅かされている場所が多い。
- 植物・森林
- 熱帯のものから亜寒帯のもの、さらには高山ツンドラに生育する高山植物に至るまで植物の種類が豊富で多様性に富む。降水に恵まれ、高湿度に適した植物が多く分布している。コケ植物やシダ植物などが特に豊富。大陸から離れた地形から、スギなどの日本固有種が広く分布する。慣習的に桜と菊が国花と同等の扱いを受ける。この他、各自治体でも独自の木や花を制定している。
- 陸地の約3分の2が森林(森林率66%[注 33]・森林面積:2,512万ヘクタール・2009年現在)である。亜熱帯から亜寒帯に渡る、どの地域でも年間の雨量が十分で、森林の成立が可能である。平地の植生は、南の約3分の2が常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林という型であり、北の約3分の1が落葉広葉樹林、ブナ林を代表とする森林である。標高の高い地域では、更に常緑針葉樹林、一部に落葉針葉樹林がある。南西諸島の一部は熱帯に属し、沿海の干潟にはマングローブが発達する。
- この森林面積の内訳は、天然林が53%(1335万ヘクタール)、人工林が41%(1036万ヘクタール)、その他(標高などの条件で未生育の森林など)が6%、となっている。内、人工林は、第二次世界大戦後の拡大造林の影響を受けたことから、スギ林が多数(452万ヘクタール)を占める。これは、高度経済成長期に木材需要の逼迫から大量の天然林が伐採され、木材の生産効率のみを考えたスギ・ヒノキ林に更新されたためである。その後海外からの輸入量が急増し、一転して木材の価格が暴落した結果、採算の取れない人工林の多くが取り残される結果となった。放棄されたスギ林では、下層植生が発達せず貧弱な生態系となり、防災や水源涵養の面でも問題が多い。また、スギやヒノキの大量植樹は時に「国民病」とも呼ばれる花粉症の蔓延を招いている。
- 動物
- 哺乳類
- →詳細は「日本の哺乳類一覧」を参照
- 100種強が生息し、その内、固有種が3割を超え、7属が固有属である。日本の哺乳類相は、北海道と本州との間にあるブラキストン線、また、南西諸島のうち、トカラ列島と奄美群島との間にある渡瀬線で区切られ、これらを境に異なる動物群が生息している。
- 大型哺乳類では、北海道のヒグマ、エゾシカ、本州のツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどがいる。
- 固有種であるニホンザルのうち、下北半島に住む個体群は、世界で最も北方に棲息するサルである。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンアシカ、日本のラッコ個体群、および、ニホンカワウソは絶滅。
- 鳥類
- →詳細は「日本の野鳥一覧」を参照
- 500種を越える鳥類が観察される。四方の海に加え、水源が豊富な日本では、河川や池、湖が多く、それに棲む水鳥の種類が豊富である。日本列島はシベリアで繁殖する鳥の越冬地であり、東南アジアなど南方で越冬した鳥が繁殖する地であり、さらに北方から南方に渡る渡り鳥が通過する中継地としても重要で、季節によって多彩な渡り鳥を観察することができる。近年、乱開発による干潟の減少や、東南アジアの森林の破壊が、日本で見られる鳥類の存続の脅威となっている。水鳥の生息地として国際的に重要な37の湿地が、ラムサール条約に登録され保護されている[168]。
- 渡りをしない留鳥としては、国鳥のキジなどがあげられる。人家の近くには、カラス、スズメ、ハト、ツバメ、ハクセキレイなどが生息し、古来より文化の中で親しまれてきた。最近ではヒヨドリやムクドリが人家周辺に多い。
- 固有種は、メグロなどがある。トキの個体群は、絶滅。現在、佐渡市で人工的に繁殖されているトキは、中国の個体群から借り入れたものである。
- 爬虫類・両生類
- いずれも亜熱帯に種類が多く、南西諸島に半分以上の種が集中する。これは、島ごとの種分化が進んでいるためでもある。本土における島ごとの種分化は、さほど見られない。例外は、サンショウウオ類で、南西諸島に見られないが、本土の各地方での種分化が進み、多くの種を産することで世界的にも知られる。また、現存する世界最大の両生類であるオオサンショウウオは、日本を代表する両生類として世界的に知られる。
- 魚類
- →詳細は「日本の淡水魚一覧」を参照
- 近海の魚類は、種類、数、共に豊かで、三陸海岸沖から千島列島に掛けてが世界三大漁場の一つに数えられる。近海を暖流と寒流とが流れ、これらの接点である潮境でプランクトンが発生しやすいことや、周辺に広い大陸棚や多様で複雑な海岸を持つこと、などが好条件となっている。淡水魚の種は、大陸に比べて河川の規模が小さいため、多くない。古代湖である琵琶湖などに多彩な種が棲息するものの、アユなど食用に供される種の人為的な放流や外来魚の勢力拡大により、希少種の絶滅や淡水魚類相の激変が問題となっている。他方、雨量の多い気候のために河口域に汽水域が出来やすく、貝類も豊富である。
- また、2010年に海洋生物センサス (Census of Marine Life) が出した報告により、日本近海は、世界25箇所の代表的な海の中で最多となる、約3万3000種の海洋生物が生息していることが明らかとなった[169]。これは日本の気候が南北に渡って非常に多彩であり、同時に大きな海流に恵まれ、海水が多くの栄養を持っていることを示している。例えば北海道は流氷の南限であるのに対し、南西諸島および小笠原諸島はサンゴ生育の北限である。
- 昆虫
- 亜熱帯のものから亜寒帯のものまで種類が豊富で多様性に富む。森林が多いため、数も多い。都市部でも多くの昆虫が見られる。雨が多く、湿地や水田が各地にあるため、特にトンボの種類が多い。また、カブトムシなど里山に暮らす昆虫も多く見られたが、暮らしの変化と共に少なくなった。江戸時代頃からスズムシやコオロギの鳴き声を楽しむために飼育が行われてきた。愛玩対象として昆虫を飼う文化は、世界的にも珍しい。オオムラサキが国蝶。
環境問題
- →詳細は「日本の環境と環境政策」を参照
- 1950-60年代、四大公害病に代表される大規模な公害の発生から、1967年の公害対策基本法を始めに水質汚濁や大気汚染などの規制法が相次いで成立した。これを受け、日本企業は、オイルショックのためにマイナス成長下にあった1973年-1976年の前後に集中して公害の防止への投資を行い、1970年代以降、大規模な公害の件数が急速に減少した。また、この投資は、オイルショック下の日本経済の下支えの役割を果たしたため、「日本は公害対策と経済成長を両立させた」と言われる[170]。
- しかし、日本列島改造論が叫ばれた1970年代以降、地域振興を名目に道路建設や圃場整備などの公共事業、リゾート開発などの大型開発が盛んに行われ、日本固有の風致や生態系は大きく損われてしまった。また、ゴミ問題のために富士山の世界遺産登録を断念したことに象徴されるように、環境管理においても多くの課題を抱える。人工林の荒廃やダム建設などによって河川や山林の生態系が衰退していることにより、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど、人間の生活への影響も出ている。
- 高度経済成長期以降、日本人の食卓の変化や、海外の農産品の輸入増加、東京一極集中、天然林の伐採、地域振興における公共事業偏重など様々な要因により、農山村や農林水産業が衰退した。これに伴い、耕作放棄地の増加、人工林の荒廃、水産資源の減少などの問題が発生している。
地域区分
都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた郡、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、施行時特例市に定められている。
- 北海道地方
- 1.北海道
- 東北地方
- 2.青森県 - 3.岩手県 - 4.宮城県 - 5.秋田県 - 6.山形県 - 7.福島県
- 関東地方
- 8.茨城県 - 9.栃木県 - 10.群馬県 - 11.埼玉県 - 12.千葉県 - 13.東京都 - 14.神奈川県
- 上記は「一都六県」。「首都圏」はこれに山梨県を、「広域関東圏」には関東地方1都6県に親不知浜名湖線以東の新潟・山梨・長野・静岡の4県を、それぞれ加える。
- 中部地方[171][172]
- 中国地方
- 31.鳥取県 - 32.島根県 - 33.岡山県 - 34.広島県 - 35.山口県
- 鳥取県と島根県、そして場合によっては山口県の一部や兵庫県・京都府の一部をも含む地域を、山陰と呼ぶ。岡山県と広島県に山口県の多くを含めた地域を、山陽と呼ぶ(兵庫県の一部を含むこともある)。また、山口県を九州地方と併せて九州・山口地方とする場合もある。
- 四国地方
- 36.徳島県 - 37.香川県 - 38.愛媛県 - 39.高知県
- 四国山地より北を北四国、南を南四国とする。また、中国地方とあわせて中国・四国地方(中四国地方)とする場合もある。その場合、山陽と北四国とをあわせて瀬戸内と呼ぶ。
- 九州地方
- 40.福岡県 - 41.佐賀県 - 42.長崎県 - 43.熊本県 - 44.大分県 - 45.宮崎県 - 46.鹿児島県
- 山口県とあわせて九州・山口地方とする場合や、沖縄県とあわせて九州・沖縄地方とする場合もある。
- 奄美群島は、歴史・文化・自然等の面において九州よりも沖縄に近い[177][178][179]ため、奄美群島を沖縄県とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
- 沖縄地方
- 47.沖縄県
- 沖縄県は九州地方に含む場合もある。九州地方に含める場合は九州・沖縄地方と呼称することもある。
- 沖縄県は奄美群島と文化的、自然的に近い[180][181]ため、奄美群島とあわせて沖縄・奄美地方とする場合もある。
都市
順位 | 都道府県 | 市(区) | 法定人口 | 推計人口 | 増減率 (%) | 種別 | 推計人口の 統計年月日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
0 | 東京都 | 特別区部 | 9,733,276 | 9,883,800 | +1.55 | 特別区部 | 2024年11月1日 |
1 | 神奈川県 | 横浜市 | 3,777,491 | 3,772,123 | -0.14 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
2 | 大阪府 | 大阪市 | 2,752,412 | 2,794,754 | +1.54 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
3 | 愛知県 | 名古屋市 | 2,332,176 | 2,332,248 | 0.00 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
4 | 北海道 | 札幌市 | 1,973,395 | 1,956,119 | -0.88 | 政令指定都市 | 2024年11月30日 |
5 | 福岡県 | 福岡市 | 1,612,392 | 1,658,786 | +2.88 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
6 | 神奈川県 | 川崎市 | 1,538,262 | 1,552,074 | +0.90 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
7 | 兵庫県 | 神戸市 | 1,525,152 | 1,492,572 | -2.14 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
8 | 京都府 | 京都市 | 1,463,723 | 1,437,845 | -1.77 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
9 | 埼玉県 | さいたま市 | 1,324,025 | 1,351,775 | +2.10 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
10 | 広島県 | 広島市 | 1,200,754 | 1,179,834 | -1.74 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
11 | 宮城県 | 仙台市 | 1,096,704 | 1,096,079 | -0.06 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
12 | 千葉県 | 千葉市 | 974,951 | 985,077 | +1.04 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
13 | 福岡県 | 北九州市 | 939,029 | 907,858 | -3.32 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
14 | 大阪府 | 堺市 | 826,161 | 806,630 | -2.36 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
15 | 静岡県 | 浜松市 | 790,718 | 774,899 | -2.00 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
16 | 新潟県 | 新潟市 | 789,275 | 765,995 | -2.95 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
17 | 熊本県 | 熊本市 | 738,865 | 737,598 | -0.17 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
18 | 神奈川県 | 相模原市 | 725,493 | 723,564 | -0.27 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
19 | 岡山県 | 岡山市 | 724,691 | 712,786 | -1.64 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
20 | 静岡県 | 静岡市 | 693,389 | 671,924 | -3.10 | 政令指定都市 | 2024年11月1日 |
政治
法制度
日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である[注 35]。2019年現在において国立国会図書館のデータベースである 日本法令索引 は、有効な勅令としては本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号)、s:閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)など57件、太政官布告・太政官達は改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)など9件を収録している。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門が下した判断への干渉は、憲法判断に関する統治行為論を代表として司法判断を控えることが多い。
憲法
現行の憲法は日本国憲法であり、国家形態および統治の組織・作用を規定する[182]。1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された[182]。
形式的には大日本帝国憲法第73条を適用して、大日本帝国憲法の改正手続を経て制定された。改正手続きは96条に規定されているが、硬性憲法に分類され、2020年現在に至るまで、改正されたことは一度もない。
日本国憲法の根底には第13条「個人の尊厳」の理念がある[183][184]。
長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条と自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。憲法裁判所設置や新しい人権、緊急事態条項も改憲テーマで扱われるようになってきている。なお、主権が制限されていた、もしくは憲法制定権力が変更されたなどを理由として、占領下での改正手続きに法的瑕疵があったとする議論があり、一部には、日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。
法律
明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制や議院内閣制については英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる[185]。日本国憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)[注 36]、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。
死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本における死刑を参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている[186]。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。
権利
- 報道の自由
日本国憲法第21条によって報道の自由を含む表現の自由と検閲の禁止・通信の秘密が謳われている。ただし、表現の自由は絶対無制限に保障されたものではなく、公共の福祉のため必要かつ合理的な制限は是認されることが立川反戦ビラ配布事件で判示され[187]、西山事件では、正当な取材活動の範囲を逸脱したとされる記者に有罪判決が下っている[188]
公的機関による報道機関に対する直接的な加害行為はほぼ見受けられず、記者が殺害された日本国内での政治的テロは、1987年の赤報隊事件で朝日新聞の記者1名が犠牲になったのが2021年現在において唯一の事例となっている(この事件では、報道関係者に限らず総理大臣経験者である中曽根康弘・竹下登らに対する強迫行為なども行われている)[189]。
日本独特の慣習として記者クラブ制度があり、加盟しているマスメディアのみが政府や行政機関などの記者会見を独占し、情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い[190]。
公共の電波を使用するテレビ放送・ラジオ放送については、放送法・電波法の定めにより、総務省が発行する放送事業者免許が必要である。放送法第4条では中立な内容(公安及び善良な風俗を害しないこと・政治的に公平であること・報道は事実をまげないですること・意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること)が義務付けられており、2018年には同条の撤廃が検討されている[191]ものの、2021年現在も存続している。 総務省所掌の公共放送である日本放送協会(NHK)の予算は、放送法第70条の定めにより、国会の承認を必要とする[192]。
新聞については、過当競争の防止を目的とした特殊指定の適用を受けているが、公正取引委員会は「新聞業における特定の不公正な取引方法」としてその見直しを求めていて、業界団体である日本新聞協会と対立している[193]。なお、新聞は消費税の軽減税率適用対象となっている[194]。
フランスを拠点とする非政府組織「国境なき記者団」(RSF)が作成する2020年の『世界報道自由度ランキング』では、調査対象国180か国中第66位とされ、各国を5段階に分けた分類では上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされている。RSFは、日本について「議会主義的君主制であり、概してメディアの多元主義の原則を尊重している」としつつも、上述の記者クラブ制度の他、「編集部門が、経済的利益を優先する巨大な『系列』の方針に左右される状況が続いている」ことや「SNSでの福島第一原子力発電所事故や沖縄基地問題などを取材するジャーナリストへの嫌がらせ」などを課題として挙げている[195][196]。ただし、このランキングは質的調査を当該国の報道関係者・弁護士・研究者などへのアンケートに依存しており、したがって点数付けはこれらのグループの自国政府への感情等によって左右される。また、調査対象国の評価点の分布が平均値付近に集中し、点数の差以上に順位の開きが出る傾向がある[197][198]。
なお、世界的な知名度がより高い[198]「フリーダム・ハウス」の『Freedom of the Press 2017』においては、199カ国中48位で、報道の自由が確保されている(free)国と判定されている[199]。この他にインターネット上の自由度に関する報告書の『Freedom on the Net 2019』において日本は65カ国中11位に位置づけられ、インターネット上の自由が確保されている国と判定されており[200][201]、『Freedom in the World 2020』において日本の全般的な自由度は100点満点中96点と評定され、アジアで最も自由な国として位置づけられている[202]。
元首に関する議論
日本国憲法に「日本国の元首」についての規定がないため、現在元首については様々な見解がある[203]。政治学者の田中浩、憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている[203][204][205](内閣・内閣総理大臣元首説)。また、現行憲法施行後も変わらず天皇が元首であるとする説(天皇元首説)、国権の最高機関たる国会の長である衆議院議長を元首とする説(衆議院議長元首説)や、そもそも日本には元首が存在しないという説さえある。
天皇
「天皇」は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[206]。現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には天皇を元首とする旨の規定はない。『日本大百科全書』は、天皇には通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[207]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[208]。
『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という[209]。戦後に「社会科学用語として定着」したとされる[209]。憲法で天皇を「象徴」と称することから、「象徴天皇制」ともいう。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる[210]。憲法学者の野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による[211]。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した[211]。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい[211]。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている[211]。
東洋史学者岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向(宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる[212]。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている[213]。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立」[214]、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している[215]。『NEWSポストセブン』では、「現存する世界最古の王室としてギネスブックに登録される日本の皇室」と記述されている[216]。
国政
政治体制
日本は単一国家であり、その政治体制としては、「議会制民主主義体制」・「象徴天皇制」[217][注 37]・「議院内閣制」を採るとされる。
中央政府
日本国政府(統治機構)は、憲法上、立法権を国会に、行政権を内閣に、司法権を裁判所に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。日本国憲法第41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)[218]、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説)[219]が有力である。
- 立法府
国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。上述の通り日本国憲法41条では「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」ことがうたわれる。一方、日本国憲法第72条では内閣総理大臣が内閣を代表して議案を国会に提出することとされており、この"議案"には法律案が含まれているか否か学説が分かれている。実際の運用では、内閣立法と議員立法が併用されている[220][221]。
衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。
- 行政府
行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。なお、日本国憲法施行以来、慣例として衆議院議員が内閣総理大臣に指名されている。国会から指名された人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散決定権を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。
代 | 人目 | 内閣総理大臣 | 生年月日 | 年齢 | 内閣 | 政党 | 在任期間 | 日数 | 通算在任日数 | 閣僚兼任 | 栄典・兼職 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
102 | 65 | いしば しげる 石破茂 |
1957年 (昭和32年) 2月4日 |
67歳 | 第1次石破内閣 |
自由民主党 公明党 (自公連立政権) |
2024年(令和6年)10月1日 - 2024年(令和6年)11月11日 |
42日 | 79日 | 衆議院議員 (第12,13期 鳥取1区選出) 第28代自由民主党総裁 | ||
103 | 第2次石破内閣 | 2024年(令和6年)11月11日 - 現職 |
38日 |
国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない[221]。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。
選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘や小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。
- 55年体制とその後
- 国会では、1955年(昭和30年)に結党された自由民主党(通称:自民党)が、一貫して最多の議席を占めていた。同年に統一された日本社会党(通称:社会党、現在の社会民主党)と共に、両政党が結党した西暦年の下2桁をとって「55年体制」と呼ばれる政治体制を形作った。この体制は、自民党が与党として党の総裁(党首)を国会で内閣総理大臣に指名し、同党議員の中から国務大臣を任命して内閣を組織し、社会党が野党として自民党と対立・協調しながら、国政を運営するものである。新自由クラブと連立政権を組んだ1983年(昭和58年)から1986年(昭和61年)までの一時期を除き、1993年(平成5年)までの約40年間、自民党の単独政権が続いた。
- 1993年(平成5年)に自民党羽田派が離党して新生党を結党し、非自民・非共産連立政権である細川内閣(細川護熙首相)が成立したことで自民党が政権を離脱し、これをもって戦後長年の日本政治を構築してきた「55年体制」が崩壊した。翌1994年(平成6年)6月に自民党・社会党・新党さきがけの自社さ連立政権である村山内閣(村山富市首相)が成立して自民党が政権に復帰した。次の橋本内閣(橋本龍太郎首相)以後、自民党は連立相手を組み替えながら総裁が内閣総理大臣に就任する時代が再度継続されたが、2009年(平成21年)8月の衆議院議員総選挙で大敗、衆議院第1党から転落し、翌9月に民主党・社会民主党・国民新党からなる民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣(鳩山由紀夫首相)が成立。民主党を中心とする連立政権は野田第3次改造内閣(野田佳彦首相)を最後に2012年(平成24年)12月の衆議院議員総選挙での敗北で終焉を迎え、自民党と公明党の両党が再び政権に復帰し、自公連立政権が復活した。
- 司法府
日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所(皇室裁判所や軍法会議など)の設置は禁止されている。
司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制と参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官の公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。
地方政治
政治体制
地方政治においては、国政とは異なり、住民から直接選挙される首長と地方議会による、二元代表制が採られる[222]。
地方政府
地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体(地方政府)が担う。
- 市区町村
- 市が795、町が743、村が183、合計1718[223][注 38]。北海道と沖縄、および一部の離島地域を除く日本国内では1889年(明治22年)にこの市町村制が施行された。他に、特別地方公共団体として、2016年10月10日現在、首都たる東京都に23の特別区(東京都区部)が設置されており、これらは市に準じた権限を持つ(地方自治法第281条第2項・第283条)[224][225]。かつては1万を超えた市町村数は、1950年代後半の昭和の大合併と2000年代の平成の大合併によって激減し、市町村の再編が進んだ。
- 執行機関たる市町村長、議決機関たる市町村議会[注 39]が置かれ、いずれも住民から選挙される。
- 財産を管理し、地域の事務を取り扱い、行政を執行する。法律の範囲内で条例を定める。特に規模が大きい市は、政令指定都市として、農林水産行政に関する権能などを除いて都道府県並みの権限を有する。
- 「市」は「し」と読まれるが、「町」は「まち」・「ちょう」、「村」は「むら」・「そん」の読みが混在している。
- 都道府県
- 都が1、道が1、府が2、県が43、合計47都道府県。1871年(明治4年)の廃藩置県により全国に行政区画として府・県が置かれた。市町村と異なり、県自体の合併・分立は1888年(明治21年)を最後に行われていない[注 40]。
- 都は特別区に関する一定の調整機能を有するが、府県の間には法律上の違いはなく、名称の差異は歴史的なものである[226]。道も地方自治法上は府県と同格であるが、特別法に道について若干の特例を定める(警察組織につき警察法第46条・51条など)。
- 執行機関たる都道府県知事、議決機関たる都道府県議会が置かれ、いずれも住民から選挙される。
- 市町村を包括し、より広域的な行政を行う。法律の範囲内で条例を定める。
現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都や中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。
選挙
国際関係
1956年から国際連合に加盟しており、1958年には「国際連合中心」「自由主義諸国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」の外交三原則が掲げられたが、概して日米基軸外交と両立する範囲内での実施が実情となっている[228][229][230]。意外なことに、アメリカの2022年9月16日の調査によると、世界が国連に満足している一方で、日本は国連に対して肯定的な見方よりも否定的な見方が8%とやや多いそうである[231]。
現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、157か国が日本に大使館を設け41の国際機関が日本に事務所を設けている[232]。
2019年には日本からビザなしで渡航できる国の数が190か国でシンガポールと並び世界一位となった。調査対象となった200の国と地域の中で最多だった[233]。
また、日本はG7、G8、G20、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである[25][26]。
現在、日本は国際連合加盟国のうち、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を除いたすべての加盟国に加え、バチカン市国、コソボ共和国、クック諸島、ニウエを国家として承認し国際関係を有している。また、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、パレスチナ(パレスチナ国)、台湾(中華民国)と非公式の関係を持つ。
国際連合
東アジア
東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した[234]。日中平和友好条約に基づき国交は断絶したが非政府間の実務関係として交流が続く台湾(中華民国)や韓国(大韓民国)は、かつて(日本領)台湾や(日本領)朝鮮として大日本帝国に統治されていた経緯から、現在でも重要な貿易相手である[235]。また、経済成長を果たした中国は科学技術や経済・ビジネスにおいて日本の競争相手となっている。北朝鮮は、同国の建国以来一貫して国交がなく、日本は同国に対して経済制裁を実施している。軍事、安全保障面では日本・韓国・台湾はそれぞれアメリカを介して緩やかな協力関係にある。一方、中国は建国由来(社会主義国)から朝鮮戦争以降、北朝鮮と同盟関係にあり、ロシア(旧ソビエト連邦)とも協力関係にある。
韓国:古代より日本は高麗や李氏朝鮮、大韓帝国といった朝鮮半島の歴代政権と一定の交流を維持したが[236]、江戸時代後期になると征韓論が現れた[237]。明治期に入り、新政府で征韓論を主張した主だった者は明治六年政変で退けられたものの、1876年に不平等条約である日朝修好条規を締結。大陸勢力からの防衛も見据えながら朝鮮半島を利益線ととらえた日本は、19世紀末から20世紀初頭にかけて朝鮮への影響力を強め、1910年には韓国併合が行われた[238]。日本による統治の開始当初は陸軍主導の武断統治が行われたが、1919年の三・一運動を招いた。その後「一視同仁」「内鮮一体」を建前とする懐柔政策もとられたが、既に歴代王朝による長い統治の歴史を有する朝鮮において人心の完全掌握は望めず、歪な支配構造をもたらした。そして1930年代から1940年代にかけて実施された総力戦遂行のための施策は、朝鮮人民に多くの負担を強いることとなる。一方、自らの手で国民国家を創建できなかった朝鮮においては、日本に対する抵抗運動それ自体がナショナリズム形成と密接に結びついている[239]。
第二次世界大戦での日本の降伏により、主権を回復(光復)して北緯38度線以南を実効支配地域とする大韓民国(韓国)が建国された。朝鮮戦争中の1950年には韓国支援のため海上保安庁の特別掃海隊が日本から派遣されるなどしたが[240]、日本の台頭を警戒する[241]李承晩政権のもとで、韓国は1952年(昭和27年)に一方的に李承晩ラインを宣言して竹島を占拠。これにより竹島問題が発生し、この境界線を超えた日本の漁船は拿捕され、多くの日本人漁師が殺害・抑留された[242][243]。日本本土内においても、韓国政府の工作員が新潟日赤センター爆破未遂事件や金大中拉致事件などの事件を起こしている[244][245]。
四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民の反発を押しきり日韓基本条約を締結し日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽した事で日本統治下の植民地支配の賠償をめぐる論争が起きる原因となった。金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日韓ワールドカップ共催も提案されて日本に親近感を抱く人々の増加も見られた[246]。
しかし、盧武鉉政権では領土や歴史問題で強硬な外交方針に転じ、2005年(平成17年)に盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した[247]。政権後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた[248]。その後の歴代政権においても根本的な関係改善の兆しは見られなかった。平成26年版外交青書では「自由、民主主義、基本的人権などの基本的な価値と、地域の平和と安定の確保などの利益を共有する日本にとって、最も重要な隣国」とされていた表現も、年を追うごとに簡素なものとなり、平成30年版外交青書では何ら"枕詞"がつかなくなった[249]。ただし、令和2年版外交青書から「重要な隣国」の表記が復活している[250]。
なお、アメリカ合衆国を除き日本と犯罪人引渡し条約を結んでいる唯一の国であるが(2022年現在)[251]、2011年から2012年にかけて発生した靖国神社・日本大使館放火事件においては、大使館放火の罪については韓国裁判所が犯人の中国人に有罪判決を下したものの、同人を政治犯と認定した韓国側は刑期満了しても神社放火の罪を捌くための日本への身柄引き渡しを行わず、当時の内閣総理大臣安倍晋三が「条約を無視する行為」として対応を批判している[252][253][254]。
防衛面においては、日韓の国防関係者による交流が継続的に行われているが[255][256]、2018年の済州国際観艦式での自衛艦旗を巡る対立や韓国海軍レーダー照射問題、2019年の韓国による日韓秘密軍事情報保護協定(GSOMIA)破棄通告など、摩擦が表面化することもある。
文化面では韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつあり[257][258]、日本でもK-POPなどの韓国文化が若者や女性を中心に一定の人気を博している[259]。
北朝鮮:現在国交は存在しない。双方の在中国大使館(北京)が政府間連絡窓口となっているが、東京には旅券、公用査証の発行や親善交流の窓口機能を有する在日本朝鮮人総聯合会が存在している[260]。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮・大韓帝国の大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場であり、国家承認もしていない[261]。なお、国際連合加盟国の中で日本が承認していない唯一の国家となっている。また、日本は賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、国交を正常化して日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが[262]、その後は国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題、北朝鮮人権問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。なお、拉致問題に関しては北朝鮮は「すべて解決済み」という公式見解を示している[263]。
日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している[264]。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出したが、2017年には再指定されている[265]。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した[266]。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルのスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、2016年と2017年には計3回日本上空をミサイルが通過し全国瞬時警報システム(通称Jアラート)が発動するなど[267]、日本の安全保障上深刻な脅威となっている[268]。
中華人民共和国:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した(日中国交正常化)[269]。鄧小平が実権を握ると「四つの基本原則」を打ち出して改革開放政策を取り、日本はそれを高く評価して政府開発援助の名目で中国に大規模な円借款を行った[270]。その後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[注 41]。しかし心情面では靖国神社問題に関連して関係が悪化している。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、2008年6月のアメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もあった[271]。2010年以降、GDPで日本を抜いて、また中国依存を指摘されるなど経済的に無視できない存在となっている[272]。
軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイル東風21型を推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている[273]。また、中国海警局は2021年に武器使用を認められるなど海洋進出の姿勢を顕わにしており、日本は危機感を明らかにしている[274]。しかし、2019年には中国人民解放軍が横須賀に入港し数年ぶりの自衛隊との共同訓練を行うなど、協力の兆しもある[275]。
中華民国:台湾(中華民国)は、日清戦争で大日本帝国に割譲されて以来、第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦で中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党が、開発や安定の為に1990年代まで独裁政治を敷いてきた[276]。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なし、国連における中国代表権を巡って争われたアルバニア決議でも中華民国を支持したが、1970年代の中華人民共和国との国交樹立に伴い、中華民国とは公式に断交し、2022年現在も台湾を国家として承認していない。断交に伴い双方の大使館は閉鎖されたものの、日本台湾交流協会と台北駐日経済文化代表処が事実上その役割を果たしている。なお、日中平和友好条約では台湾が自国領土の不可分の一部であると主張する中華人民共和国政府の立場について「十分理解し尊重する(understand and respect)」と表現されており、中国の主張を承知しつつも認めているわけではないという態度を取っている[277]。1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展し、親日国の一つとなった[278][279]。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後国民党と民主進歩党(民進党)との二大政党制へと移行した。抗日戦争の経験から日本に対して厳しい歴史認識を持っている外省人は国民党を支持し、日本統治時代を経験した親日的傾向が強い多数派の本省人が民進党を支持する、という構図での理解が浸透しているが[279]、2014年のひまわり学生運動に象徴されるように、世代が下るにつれてそのようなステレオタイプは解消されつつある[280][281]。
現在では台湾は安全保障面において、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない[282]。
民間レベルでの人的・文化的・経済的な交流は、断交後も一貫して盛んであり、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震・東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された[283]。近場の海外であるため観光地としての人気も高く、直行便が運航されている。また、海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用するなど、各種インフラに日本の技術や製品が導入されている[284][285][286]。
東南アジア
歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまで遡る[287]。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は列強・欧州諸国(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ポルトガル)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出したが、第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる[288]。また日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEAN(東南アジア諸国連合)を通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加[289]、東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアで、また東ティモールやベトナムへも派遣された。東南アジア周辺の海域(特にマラッカ海峡、シンガポール海峡)は中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが[290]、海賊が頻繁に出没する[291]。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っているほか、現地派遣も行っている[292]。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。
インドネシア:旧オランダ植民地で、朱印船貿易や日本町を中心に戦国時代から民間での交流は存在したが、鎖国に伴いその交流は途絶えた[293]。第二次世界大戦の際には日本が蘭印作戦でオランダ軍を破り、一時日本の占領下に置かれて当初は植民地支配の解放者として歓迎されていたものの、戦争が激化するにつれ皇民化政策が施されインドネシア人の中には「ロームシャ」として過酷な重労働に従事させられた者もいた[294]。しかし、独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた[295]。ただし1970年代には日本企業がインドネシアに次々進出、インドネシア経済で支配的になったことから、それに反発して田中角栄のインドネシア訪問に合わせて大規模な反日運動「マラリ事件」が起こった事もある[296]。
現代では、2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化を進め、しかしいずれの国とも軍事同盟を結ばないなど多極外交を展開している[297]。日本との関係は良好で、日本にとっては液化天然ガスの死活的に重要な供給国であることから、多数の日系企業が進出、エネルギー事業に携わっている[298]。また日本の政府開発援助 (ODA) はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画[注 42]など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援[注 43]などソフトインフラ整備の支援にも及んでいる。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した[301]。防災システムの構築にも支援を行っている。
カンボジア:旧フランス植民地のカンボジアとは、戦後まもなく国交が樹立されたものの[302]、ポル・ポト政権時代には大使館を閉鎖するなど事実上国交は一時断絶していたが、政権崩壊後の1990年代には正常化している[303][304]。日本からは経済的援助がなされておりカンボジアにとって日本は最大の開発援助国であるほか[305]、自衛隊を活用した地雷撤去の活動や教育支援なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。一方カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている[306]。一党独裁化を強め欧米から批判を受け支援を打ち切られているカンボジアに対し日本だけが支援を継続しており、日本は経済支援と民主化の同時進行を促す立場をとっている[307]。しかし日本がカンボジアに選挙の資金援助した2018年の選挙ではカンボジア政府が最大野党の解体を決定、全議席が与党のものとなり民主化は逆行している[308]。
シンガポール:イギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは、明治時代に山本音吉がやってきた事によって初めて日本と交流を持った[309]。1942年(昭和17年)には、第二次世界大戦のシンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた[310][311]。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国であり、要人往来も活発で経済・政治において緊密な関係を保っている[312]。
タイ:14世紀ごろよりアユタヤ日本人街が形成され、最盛期には3000人の日本人が居住するなどアユタヤ王朝支配下のタイで経済的な影響力を持った[313]。山田長政が当地で活躍した[314]。その後、江戸幕府が鎖国政策を取ったため日本との交流を喪失したが、アユタヤ日本人街は18世紀まで存続していた[315]。日本開国後、1887年には日・タイ修好宣言が結ばれて本格的に国交が再開している[316]。大日本帝国とタイはともに植民地化を免れた共通点がある事から友好関係が築かれ、1932年にはタイ立憲革命が巻き起こったが、それは駐シャム公使矢田部保吉をはじめとする日本人の支援も背景にあった[317]。第二次世界大戦では枢軸国とはされていないが、日泰攻守同盟条約を結んで日本軍が進駐、日本に対し協力的な姿勢を見せた[318]。
戦後は日本の国際社会復帰に尽力、現代では親日国として知られ[319]、経済的に深い繋がりを有している。タイの国際貿易に占める対日割合は、輸出9.5%、輸入15.8%(2016年)であり、中国に次ぐ主要貿易相手国となっている[320]。また、日本のタイへの直接投資額は1,489億バーツに上り、これはタイの全投資額の4分の1を占めた[320]。2007年には日本にとってアジア三か国目となる経済連携協定が結ばれた[321]。人件費・製造コストの低さからかねてより日系企業の製造拠点が多く置かれていたが、近年では経済成長により消費市場への転換も見られる[322]。タイ王室と皇室との関係も良好で[323]、日本を訪れるタイ人も増加している[324]。2004年のスマトラ島沖地震では自衛隊のタイ派遣も実施された[325]。
フィリピン:朱印船貿易を通じて安土桃山時代から交流を持ち、多くの日本人が移り住んでマニラに日本人街が形成された[326]。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、バテレン追放令により日本を追放された高山右近も受け入れたが[327]、江戸幕府の鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。それが再開されたのは1868年に日西修好通商航海条約の締結以降である。1899年にはフィリピンが独立を求めたため米比戦争が勃発しているが、日本は表向き中立を保ったものの一部の有力者が武器の売却や輸送を行い[328]、また指導者であったアルテミオ・リカルテの亡命も受け入れている[329]。第二次世界大戦では日本に占領され、現地住民を巻き込んで激戦となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったものの、賠償金支払いや経済援助を通じて徐々に改善が進められた[330]。現在では親日国として知られる[331]。
2008年には日本・フィリピン経済連携協定が発効され、経済的な結び付きが強まっている[332]。ただし、フィリピンの主要貿易相手国は現状アメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている[333]。人件費や製造コストの観点から、多くの日系企業がフィリピンに製造拠点を置いて雇用を創出している[334]。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する[335]。2013年11月には台風ヨランダがフィリピンに甚大な被害を齎し、日本は自衛隊の派遣を行った[336]。政情面でも日本は貢献しており、2011年には日本の仲介でフィリピン大統領ベニグノ・アキノ3世と反政府勢力であるモロ・イスラム解放戦線が非公式の初会談を行った[337][338]。
ベトナム:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達はファン=ボイ=チャウが提唱した日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した[339]。第二次世界大戦ではフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争(支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した[340]。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れた[341]。
ベトナム政府の国策による労働輸出と日本の人手不足もあって日本は多くのベトナム人労働者を受け入れている。ベトナム人労働者は2021年時点で約45万人[342][343]、そのうちの20万人は技能実習生として受け入れており[342]、2019年に新設された在留資格である特定技能の覚書を交わすなど日本にとってベトナムは最大の外国人労働者供給国となっている[344][345]。一方で日本はベトナムに多額の開発援助を実施しており、日本のODAによって建設・整備されたタンソンニャット国際空港やカントー橋はベトナムの交通に欠かせないものとなっている[346][347]。また、人件費高騰や生産コストの増加に伴って中国から生産拠点を移転させる日系企業が2000年以降増えつつあり、その最大の移転先はベトナムとなっている[348]。
南アジア
南アジア各国とは友好関係を維持している。6世紀とされる仏教公伝以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした仏教(大乗仏教)の発祥地として古代インドは「天竺」の名で広く知られ[349][注 44]、サンスクリット(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した[350]。また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のゴアに築いていたポルトガル領インド植民地が重要な中継点となっていたが[351]、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから(日本への原子爆弾投下)、核実験を実施したインドやパキスタンと距離を置いていた時期もあったが[352]、情勢の変化に伴って近年関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)には東南アジアも含めて外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した[353]。宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。
インド:19世紀後半以降、日本とイギリス領インド帝国は綿織物市場で激しい国際競争を続けたが[354]、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与え、インド国民会議結成に強い影響を与えている[355]。その後の日本が帝国主義政策を進めると、ジャワハルラール・ネルーはこれを批判したが[注 45]、スバス・チャンドラ・ボースはその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる自由インド仮政府設立を支援し、インパール作戦でインド侵攻を目指したが敗退した[356]。しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインドは「非同盟運動」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた[357]。
その後はインド国民会議派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し[358]、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り[359]、さらには1974年に核実験を実施した影響で日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが[352]、1990年代のインド経済の市場化やインド人民党による政権交代などで日本の経済進出が加速した[360]。また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や情報技術での実績が注目されている[361]。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年10月には両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[362]。さらに2011年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA「日本・インド経済連携協定」が発効[363]。日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で関税がゼロになる[364]。さらにはアメリカ、オーストラリアとともに勢力を拡大させる中国をにらんで日米豪印戦略対話(クアッド)を結成、緩やかな同盟状態となっている[365]。
パキスタン:日本は主要な援助国でありコハットトンネルなどが円借款で建設されたが[366]、1998年の地下核実験を機に2005年4月まで援助を停止していた[352]。しかし、自衛隊イラク派遣などで安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した[367]。人口2億人という魅力から、今後は日系企業に有望な巨大市場となると見られている[368]。歴史的にはインダス文明や仏教文化が隆盛したことから文化遺産が豊富であり、現在では日本はユネスコを通じてモヘンジョダロやタキシラ(ガンダーラ遺跡)保全への支援を実施している[369]。
バングラデシュ:1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている[370]。また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている[371]。近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが[372]、その労働条件の劣悪さが非難される事もありバングラデシュに製造拠点を置くユニクロなどの日系企業は労働環境の改善に乗り出している[373]。初代バングラデシュ大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相によると、バングラデシュの国旗を制定するときに「父は日本の日の丸を参考にした」と述べており[374]、従来から親日国として知られる。
オセアニア
オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が国の公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。
オーストラリア:日本とオーストラリアの外交関係は、当時オーストラリアを支配していたイギリスを通じて19世紀末から始まり、1930年から1931年にかけて日本はオーストラリアにとって三番目に多額な貿易相手国となった[375]。その後、第二次世界大戦では交戦国となり日本はオーストラリア北部の都市ダーウィンなどを攻撃[376]、日本の敗戦後両国の国交が回復したのは1952年であった。1957年にはロバート・メンジーズ首相が来日し政治的・経済的な交流の強化を申し出て[377][378]、1976年には日豪砂糖交渉といった貿易摩擦が起こりつつも「日本国とオーストラリアとの間の友好協力基本条約」が結ばれるなど[379]、経済的な結び付きが少しずつ強まっていった[380]。
現代では、オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。経済面では、日本・オーストラリア経済連携協定の締結や環太平洋パートナーシップ協定、APEC、東アジア首脳会議、東南アジア諸国連合地域フォーラムにともに参加しており経済的障壁は低い[381][382][383][384][385]。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、軍事、外交などでも共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言が調印された[386]。これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。潜水艦の共同研究も行っており、日本が兵器についての共同研究を行う国はアメリカとイギリスに次ぎ三か国目である[387]。また、オーストラリアは日本の集団的自衛権の行使を容認する姿勢を見せるなど[388]、事実上の同盟国に近い立ち位置となっている[389]。一方で、捕鯨問題では対立関係にある[390]。
ニュージーランド:ニュージーランドとの外交関係は20世紀初頭に、当時ニュージーランドを支配していたイギリスを介して始まり、1928年には独自の通商条約を結んでいる[391]。第二次世界大戦中は国交が途絶えていたが、戦後に回復すると、両国は共に太平洋の島国そして先進国として活発に貿易を行い、アジア太平洋地域の安定と発展に関心を持っていることなどから、政治的・経済的な結び付きは強くなっている[392]。それを反映して、現在ではともにAPEC、オーストラリア・グループ、TPP11、RCEP、OECDの参加国であるほか、ニュージーランドが参加する五か国の諜報協定「UKUSA協定(通称ファイブアイズ)」との連携を日本は強化している[393]。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国:軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。太平洋戦争では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。アメリカ合衆国はGHQ(SCAP)を通して7年の占領統治で中心的な役割を果たした。日本はサンフランシスコ講和条約にもとづき1952年(昭和27年)4月28日に主権が回復するが、依然として在日米軍に自国の安全保障の大部分を依存している関係は続いた。アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域に軍事基地用地を提供し、日本においては思いやり予算とも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある[注 46]。日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、ジャパンバッシングのような現象が起きることがある。そしてアメリカ合衆国政府の意向は、対日要望書などの形を通して日本政府に伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「外圧」となっているとされる。また、犯罪人引渡し条約を締結する数少ない国の一つである。
中央・南アメリカ
総じてラテンアメリカと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むヌエバ・エスパーニャを統治し、ここを通じて対日貿易の展開や慶長遣欧使節の受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。
19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「不平等条約」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。ただし、この地域はモンロー主義以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、真珠湾攻撃で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部では日系人の強制収容やアメリカ合衆国への国外追放も実施した。戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。また、東南アジアの経済発展も取り込む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。
中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。
南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。
アルゼンチン:1898年(明治31年)、日本はアルゼンチンと修好通商航海条約を結んで、当時のロシア帝国との戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し[396]、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。1941年以前の両国間の関係は、ブラジル同様に移民が中心であり、現在アルゼンチンには推定1万人ほどの日系人(日系アルゼンチン人)がいる[397]。第二次世界大戦時には一時国交が途絶えるものの、戦後にすぐ回復した。また、フォークランド諸島の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される[398]。現在ではともにG20の一員として、経済的な結び付きを強めている。
チリ:1897年の日本チリ修好通商航海条約の締結により、初めて国交が樹立した[399]。その後、第二次世界大戦では1945年にチリが対日宣戦した事に伴い一時国交が断絶[400]、しかし戦後はすぐ回復した。現在では、チリで生産される銅やモリブデン、木材、魚類、そしてワインなどが日本に輸出されており、特にチリワインは対日ワイン輸出額第一位である[401]。この活発な貿易を支えているのは、二国間で締結されている日チリ経済連携協定(EPA)や日・チリ租税条約であり[402]、また両国は同時に環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の参加国でもあるなど、友好国である。加えて、チリは1960年にマグニチュード9.5のチリ地震に襲われ、日本は2011年にマグニチュード9.0の東日本大震災に遭うなど、両国とも地震大国である。このことから、地震研究に関しては手を取り合う場面が多い[403]。
バハマ:1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。1975年から外交関係が設立される。2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。(バハマはタックス・ヘイブンとして知られている)[404]
ブラジル:19世紀、ブラジルはアフリカ大陸から送られてくる奴隷をコーヒー農園や果樹園の労働者として使役していたが、諸外国の非難を受けて1888年に奴隷制を廃止した[405]。その結果、人手不足に陥りイタリアやスペインから移民を受け入れるも、待遇の悪さや賃金の低さが問題となり移民受け入れが停止され[406]、1892年にブラジル政府は代わって日本人移民の受け入れを表明し、日本国内の人余りもあり利害が一致し、1895年には移民実現のため「日伯修好通商航海条約」が結ばれて、両国に初めて外交関係が樹立した[407]。本格的な移民受け入れが始まったのは、日露戦争に勝利したものの賠償金が得られず経済的に日本が混乱した20世紀初頭であった。その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦などで一時的な移民受け入れの途絶があり、特に第二次世界大戦の際には一時国交まで断絶したものの、移民の動きは戦後の1960年代まで継続した。移民のピークであった1908年から1941年の間には、19万人以上がブラジルへと渡っている[408]。
この移民を通じて、サンパウロにはリベルダージといった日本人街が築かれ[409]、世界最大級の日本人学校もサンパウロに所在し[410]、ブラジル全体では約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり(日系ブラジル人)、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している[411]。特に、Jリーグが開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、20世紀後半になると日本からブラジルという移民の構図は崩れ、在日ブラジル人も増え続けている事から、日本におけるブラジル文化の浸透も見られる[412]。2013年にBBCが実施した調査では多くのブラジル人が日本の影響を好ましいものと捉えており、最も親日的な国の一つである[413]。外交面では、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、日本にとって南米における最大のパートナーとして国際政治上で連携することも多い。
ベネズエラ:日本とベネズエラは1938年に国交を樹立した。しかし、まもなく第二次世界大戦に突入すると両国の国交は断絶、戦後の1952年に復活した。現代において日本にとってベネズエラは重要な原油供給国の一つであり、2008年には原油、鉄鉱石、カカオ、アルミニウムなどを10億ドル相当輸入している[414]。しかし、2010年頃からベネズエラはハイパーインフレーションに悩まされて国民は日用品の購入すらままならない状態になっており[415][416]、政治面では前政権を引き継いで実権を握り独裁的な傾向を強めるニコラス・マドゥロ大統領と、野党のリーダーとして暫定大統領に任命されているフアン・グアイドの、二人の大統領がいる状態が続いている[417]。日本政府はグアイド暫定大統領を支持しているものの[418]、混乱が解消される気配はなく、それが両国関係の発展を阻害している。
ペルー:1872年(明治5年)に清の苦力を奴隷だとして開放したマリア・ルス号事件をきっかけに修交が始まった[419]。その翌年、1873年に日本とペルーは日秘修好通商航海条約に調印して外交関係を正式に締結した。多くの移民が渡航し、ラテンアメリカ(中南米)で2番目に日系人口が多く、第二次世界大戦では日系人の逮捕とアメリカ合衆国への国外追放がラテンアメリカ諸国で最も多く行われた[420]。1990年代に日系ペルー人であるアルベルト・フジモリ(スペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化し、在ペルー日本大使公邸占拠事件の強行解決にも成功したが[421]、失脚の後、日本に亡命した。フジモリは出生時の日本国籍所持が有効と認められて参議院議員選挙に立候補した後にペルーに帰国しようとした途中で逮捕され有罪判決を受けた[422]。しかし娘のケイコ・フジモリは2度にわたり大統領選挙で惜敗するなど[423]、日本及び日系人の存在感は今でも強い。2012年には二国間条約である日本・ペルー経済連携協定が締結さた[424]。
メキシコ:中米諸国の中で最も関係が深い。幕末〜明治期の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦難を強いられた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる東京都千代田区・永田町に所在するのは、メキシコ大使館のみである。第二次世界大戦では1942年にメキシコが対日宣戦布告を行い、フィリピン戦線では日本軍とメキシコ軍が交戦したが、メキシコ政府は国内の日系人に対する強制収容は見送った。戦後の両国間の関係は良好で、多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。特に自動車産業はメキシコと接するアメリカ合衆国への輸出も盛んで、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)の恩恵も受けたが、自国産業や労働力の保護をアメリカ政府が取るとその影響を受ける環境にもある。
ヨーロッパ
江戸時代、日本に米国とともに開国を迫ってきたのがイギリスやフランスといったヨーロッパ諸国であり、また安政の五ヵ国条約に代表される不平等条約を結んだほとんどの国もヨーロッパ諸国であった[425]。その後、明治維新において近代化の模範としたのもまたロシアを含むヨーロッパ、よりわけ西欧諸国であり、『脱亜入欧』(福沢諭吉)の造語にあるように、明治時代以降に日本が留学生の派遣、お雇い外国人の使用などで積極的に学問、技術、文化の摂取に努めた。日露戦争勝利後、日本はヨーロッパ諸国と対等な列強として扱われ[426]、第二次世界大戦以降の現代、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構 (NATO) 諸国と間接的な同盟関係にある[427]。また、皇室は、イギリス王室をはじめ、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる[428]。民主主義、資本主義、自由主義の理念を共通とすることから友好国が最も多い地域の一つであり、G7などで接点が多い事からイギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどとは特に交流深いが、冷戦の終結によって「鉄のカーテン」が撤去されると社会主義陣営に属していた旧東欧諸国やバルト三国との交流も活発となり、当時の天皇明仁・皇后美智子が2002年(平成14年)にポーランド、ハンガリー、チェコを、2007年にエストニア、ラトビア、リトアニアを訪問している(立ち寄りもふくむ)。
アイルランド:日本とアイルランドの関係は、1872年にイギリス訪問中の岩倉使節団がダブリンを訪れた事から始まる。その後、アイルランドの作家ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)は日本に移住して日本についての本を書いているほか[429]、何百人もの修道女や司祭が日本に渡って教育や児童福祉に携わり影響を与えた[430]。1957年には正式に国交を樹立し、2017年には樹立60周年を迎えている[431]。両国は経済力に大きな差があるものの、同じOECDのメンバーとしてEUを介し経済的な結び付きを強めている[432]。
イギリス:日英関係は、江戸時代前期リーフデ号に乗船していた三浦按針が江戸幕府に仕えた事で始まった[433]。1858年には不平等条約である日英修好通商条約が結ばれ国交が成立したものの[434]、本格的な開国以前は生麦事件を発端とする薩英戦争や下関戦争などを通じて敵対的な関係が続いていた。しかし、それにより力の差を感じ取った薩摩藩や長州藩は幕政下での攘夷は不可能と判断して一転イギリスに接近し[435]、両藩は討幕運動と明治政府の中心となっていく。1886年にはノルマントン号事件を契機に不平等条約改正の動きが高まり、その数年後には日英通商航海条約を新たに締結して、明治維新以後の懸案だった不平等条約を撤廃した[436]。このように、日英関係で特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。1902年(明治35年)、両国はロシア帝国への対抗として日英同盟を締結し、日露戦争ではイギリスが戦費を融通するなど日本勝利の陰の立役者となったほか[437]、第一次世界大戦、シベリア出兵において相互に支援を行った[438]。しかし、日中戦争(支那事変)と日独伊三国同盟によって両国は敵対することとなり、第二次世界大戦において交戦国となった。終戦後、イギリスは連合国の日本占領に参加した。占領終了後は国交が回復している。
現代では、同じG7の一員として強い経済的な繋がりを維持しているが、その一方でロンドンと東京は両者ともに世界的な金融センターであり[439]、また日本企業と競合する製薬会社アストラゼネカや電機メーカー・ダイソンなども存在するなど、経済大国として競争関係にもある[440]。軍事面では21世紀に入って急速に結びつきが強まっており、イラク戦争時にはサマーワに自衛隊とイギリス軍が駐留して協力する[441]、F35戦闘機搭載のミサイル技術をめぐる日英共同研究を行う[442]、自衛隊とイギリス軍との提携を取り決めた日英物品役務相互提供協定を締結するなどしている[443]。また、皇室とイギリス王室の交流をはじめ[444]、文化面でも深い関係を築いている。
イタリア:日伊関係は、日本が開国し、リソルジメントによりイタリア王国が成立した事によって、1866年に日伊修好条約が締結された事に始まる。なお、それ以前の15世紀末には中国を訪れていたジェノヴァ共和国の商人マルコ・ポーロが、著書『東方見聞録』の中で日本だと比定されるジパングという国を紹介しているほか[445]、戦国時代にはイタリア人宣教師が日本を訪れているなど[446]、間接的な接点は持っていた。国交樹立後は、日本の主力輸出品の一つであった蚕紙の4分の3がイタリアに売却されるなど、経済的な結び付きを強めていった[447]。また、日本の明治維新とイタリアの統一はほぼ同時期に果たされたために明治政府はイタリア王国政府に相応の興味を持ち、イタリアから複数の専門家や技術者を雇用している(お雇い外国人)。中でも、画家のエドアルド・キヨッソーネは紙幣発行や切手の普及に努め[448]、法学者アレッサンドロ・パテルノストロは法律顧問として井上毅とともに条約改正に尽力[449]、画家のアントニオ・フォンタネージは日本で洋画を本格的に指導し彼の教え子であった浅井忠、五姓田義松、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠などは明治期を代表する画家に成長した[450]。このように、イタリアの影響は社会制度や文化の面で色濃く残されている。二度の世界大戦では通して同じ陣営に立って戦っており、特に第二次世界大戦は日独伊三国同盟を結んでいたため、ドイツに次ぐ日本の重要なパートナーであった[451]。
敗戦後は、両国ともに経済大国として復興を果たしており、経済面では友好的な交流を図ると同時に競争相手でもある。それは自動車産業で特に顕著であり、フィアットやフェラーリは世界シェアを争うライバルである[452][453]。そのほかにも、様々なイタリア企業が日本に進出すると同時に、日本企業がイタリアに進出している[454]。外交面では、ともに西側陣営やG7の一員としてある程度利害が一致しており、緊密な交流を続けている[455]。しかし、日本はG4諸国として常任理事国参入を目指す一方で、イタリアは常任理事国拡大を阻止するコンセンサス連合の主導国でもある[456]。
オーストリア:日墺関係は、まだオーストリアが列強の一国であったオーストリア=ハンガリー帝国時代、不平等条約の集大成といわれた日墺修好通商航海条約を結んだ事により樹立された[457]。1873年のウィーン万博には日本も参加し、これは欧州における「ジャポニズム」流行の契機の一つとなった[458]。また、当時オーストリア=ハンガリー帝国は列強だったため多数の技術者や知識層がお雇い外国人として来日し、ローレンツ・フォン・シュタインは伊藤博文にドイツ形式の立憲体制を薦めて大日本帝国憲法に影響を及ぼし[459]、アルブレヒト・フォン・ローレツはドイツ医学の普及に努めて後藤新平に影響を与えたほか[460]、レルヒ少佐は日本にスキー技術をもたらすなど[461]、政治や文化の面で英米独仏露伊に次いで日本に強い影響を及ぼしている[462]。その後、義和団事件では同じ側に立って戦い、続く第一次世界大戦では対立するものの、オーストリア共和国となった現在ではウィーン少年合唱団との協力や学生のオーストリアへの留学など、音楽や文化を中心に交流が進んでいる[463]。
オランダ:日蘭関係は、17世紀初頭に豊後国臼杵にヤン・ヨーステンの乗るオランダ商船リーフデ号が漂着した事に始まる。江戸時代から幕末に至るまで、オランダはキリスト教が浸透するヨーロッパ諸国で唯一、鎖国体制下であっても長崎貿易を通じて日本と通商関係を維持し続けた[464]。オランダ人は紅毛人と呼ばれ、彼らが世界情勢について記したオランダ風説書は江戸幕府の対外政策にも影響を及ぼし、また彼らがもたらした文化や科学技術、研究はオランダ語を通じて吸収され、蘭学の形成を促し知識層を刺激するなど、日本の歴史に大きな影響を与えている[465]。1858年には日蘭修好通商条約が結ばれて正式に国交が樹立、しかし不平等条約であったために1912年には改めて日蘭通商航海条約が結ばれた[466]。第二次世界大戦中は東南アジアの権益をめぐって対立したが[467]、戦後は国交が回復し、2000年には日蘭交流400周年を迎えるなど、良好な関係を保っている[428]。
スイス:日本とスイスの関係は、1864年に日本瑞西国修好通商条約が締結された事により始まった[468][469]。その後、第一次世界大戦や第二次世界大戦を通して、永世中立国であったスイスは中立を維持したため断絶する事がなく国交が続いている稀有な国家である[470]。現在では日本は経済大国、スイスは金融立国としてそれぞれ経済や金融における結び付きがあり、日本にはネスレやノバルティスが進出している[470][471][472]。
スウェーデン:日本とスウェーデンの関係は江戸時代に遡り、学術的な結び付きが存在する。1649年にはユリアン・スヘーデルが来日して進んで砲術や三角測量を伝え[473]、1775年には出島の三学者として知られる医師カール・ツンベルクが箱根などで植物採集を行い、帰国後は『日本植物誌』を発刊して日本における植物学や蘭学、ヨーロッパにおける東洋学の発展に貢献した[474][475]。正式な国交が樹立されたのは1868年であり、その時結ばれた「大日本国瑞典国条約」は明治政府が最初に外国と結んだ条約である[476]。現代では、スウェーデンの少子高齢化対策や福祉政策が日本で注目される一方、スウェーデンにとって日本はアジア第二位の重要な貿易相手国となっている[477]。また、皇室とスウェーデン王室の交流も緊密である[478]。
スペイン:日西関係は、戦国時代にあたる16世紀から始まっており、ポルトガルと並んで日本が最初に接触したヨーロッパ諸国であった[479]。当初はキリシタン(フランシスコ・ザビエルなど)や南蛮貿易を通じての関係で、日本の文化や世界観にも影響を与えて南蛮文化を生み出した[480]。しかし、江戸幕府により禁教令が敷かれると交流は一時的に途絶する。開国後、1868年には日西修好通商航海条約が結ばれ、交流が回復した[481]。第二次世界大戦の際にはスペインは枢軸寄りの姿勢を見せたものの、中立を守り1945年には一時的だが国交も途絶えている[482]。戦後は国交回復し、皇室とスペイン王室に緊密な交流があるほか、文化面でも交流が続いている。
デンマーク:日本とデンマークの関係は、デンマーク東インド会社が設立された17世紀に端を発するが、非公式な接触であった[483]。正式に国交が樹立されたのは1867年の日丁修好通商航海条約以降であり、これは江戸幕府が最後に外国と結んだ条約であった[484]。その後、1911年(明治44年)には内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演しエンリコ・ダルガスの植林事業を優れた施策として紹介したほか[485]、1912年には農学者であった東郷実がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著す[486]、北海道庁にデンマーク式酪農が伝わる、1936年にはデンマークの教育機関フォルケホイスコーレを参考にして松前重義が後に東海大学となる私塾を開設するなど[487]、農業・教育分野で日本に影響を与えた。現在でも友好的な関係が続いており、経済面ではレゴなどの企業が日本進出しているほか[488]、皇室とデンマーク王室の交流は緊密である[489][490]。
ドイツ:日独関係は、まだドイツがプロイセン王国だった時代に非公式に始まった。江戸時代当時の日本は鎖国体制が築かれていたが、出島の三学者として知られるシーボルトや『日本誌』を著したエンゲルベルト・ケンペルなどが長崎に滞在して、医学や薬学や生物学、地理学、歴史学、民俗学、博物学など、両国の様々な学問の発展に貢献している[491][492]。1858年には日米修好通商条約が結ばれて江戸幕府が開国に向けて施策を転換すると、プロイセン政府も国交樹立に動き、1861年に不平等条約ではあったが日普修好通商条約を成立、正式な国交が結ばれた[493]。1870年にドイツ帝国成立後も国交は維持され、19世紀後半に日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。伊藤博文は大日本帝国憲法の策定にあたってドイツの憲法を参考にした[494]。さらには、陶磁器やガラスの製造を指導したゴットフリード・ワグネル[495]、進んだ医学を伝えたエルヴィン・フォン・ベルツなどがおり[496]、逆に森鷗外はドイツに留学して衛生学を学ぶなど[497]、科学技術・医学・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は現在の日本にも色濃く残っている。第一次世界大戦で日本と当時の帝政ドイツは交戦国となり、勝利した日本は南洋諸島などアジア・太平洋地域におけるドイツの利権を獲得する[498]。第二次世界大戦では日本とナチス・ドイツは対ソ連を意識して、イタリアも加えて日独伊三国軍事同盟を締結したが敗戦国となる[499]
戦後ドイツは資本主義の西ドイツと社会主義の東ドイツに分断され、日本は1952年まず西ドイツと国交を回復した[500]。その後、両国はともに「高度経済成長」と「奇跡の復興」という焼け野原からの再興を果たし、ともにG7に参加する経済大国として平和的な関係となった[501]。冷戦が終結しドイツ再統一後も、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となっている[502]。ただし、経済面では競争が激しく、フォルクスワーゲン、メルセデス・ベンツ、BMWに代表されるドイツ車は日本車と世界シェアを争っている状況にある[503]。
バチカン:日本とバチカン市国の関係は、日本とキリスト教との歴史とも言え、それは16世紀中盤、イエズス会のスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に渡来し、布教活動の末に日本人を複数名キリスト教に改宗させたことに始まる。1584年には天正遣欧少年使節がローマを訪れ、日本人で初めて教皇グレゴリウス13世に謁見した[504]。その後、キリスト教弾圧の時代、キリスト教が解禁された明治時代を経て、1919年には関係改善のため教皇使節が日本に送られ、1942年にはアジア国家で初めてバチカン市国と正式に国交を結んでいる[505]。
ハンガリー:日本とハンガリーの関係は、現代のオーストリア同様に日墺修好通商航海条約に端を発する。19世紀末から20世紀初頭にかけては、ジャポニズムの流行と同時に言語学におけるツラニズムを根拠に、学説的な裏付けはないがマジャール人と大和民族が同祖であるという説が広がり、日本との友好が意識された[506]。日露戦争における日本の勝利も、ハンガリー人の間では好意的に受け止められている。第一次世界大戦後の1921年にはハンガリー王国と国交が樹立し、第二次世界大戦ではともに枢軸側で戦っている。戦後はハンガリーは東側諸国となり、ハンガリー動乱など数々の政変に見舞われたためになかなか外交関係は復活しなかったが、1959年にチェコスロヴァキアの仲介によって回復した[507]。その後、冷戦の終結に伴ってハンガリーは体制を転換し、現在では友好的な関係を築いている[508]。
フランス:日仏関係は、1615年に仙台藩の伊達政宗がローマに派遣した慶長遣欧使節の支倉常長がサントロペに上陸したことにより始まり[509]、その後フランソワ・カロンがフランス東インド会社を通して日本との交易関係を確立しようとしたものの、これは失敗に終わった[510]。しかし幕末にはオランダ風説書によってフランス革命の状況が伝わり幕府が興味を示し、さらには江戸幕府がフランスの軍制を採用するなど、間接的な交流が始まっていた。開国後には不平等条約である日仏修好通商条約を結んで正式に国交を樹立し、下関戦争や神戸事件で一時的に戦闘に陥るも国交が断絶する事はなかった。明治期には法制面で影響を受け、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードなどが法整備の為に日本に派遣され「日本近代法の父」と呼ばれている[511]。また建築や開発の面でもフランスの影響は強く、技術者レオンス・ヴェルニーは横須賀海軍工廠の建設に尽力したほか[512]、ジャン・フランシスク・コワニエは生野銀山をはじめ鉱山を調査し[513]、アンリ・プレグランが日本橋や銀座で日本初となるガス灯設置を行い[514]、ポール・ブリュナーにより日本初の近代絹糸工場である富岡製糸場が開設された[515]。このほかにも、日本の発展に貢献したフランス人は多数存在する。その後、露仏同盟に基づいて日露戦争ではロシア帝国を支え[516]、ドイツ帝国やロシア帝国と協力して三国干渉で日本の勢力拡大を押さえようとするなど[517]、敵対的な立場を取るが、第一次世界大戦ではともに連合国側で戦った。続く第二次世界大戦では対立したものの、戦後には国交を回復した[518]。
現代の日本とフランスの関係は、政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。江戸時代の日本の文化は1878年のパリ万博を通じて、「ジャポニズム」として印象派美術などフランス文化に影響を与えた[519]。またフランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。近年ではサブカルチャーの分野での交流が盛んである[520]。経済や科学技術の面では協力というより列強同士の競争関係にあり、高速鉄道や原子力産業は受注競争が存在し[521]、自動車産業においても日本車にとってルノーやプジョー、シトロエンといったフランス車は強力なライバルとなっている[522][523][524]。また、両国ともにG7やOECDの参加国であり、政治や外交でも多くの接点を持つ。
ブルガリア:日本とブルガリアの関係は、20世紀初頭より公式関係があり[525]、ジフコフ国家評議会議長が二度来日するなど、社会主義時代から交流があった[526]。大阪万博でブルガリア館がヨーグルトを展示して以降、日本ではヨーグルトの国として有名であり、明治ブルガリアヨーグルトはブルガリア政府から許可を得て国名が使用されている[527]。
ベルギー:日本とベルギーの関係は、1866年の日白修好通商航海条約締結から始まった[528]。当初日本政府は、小国ながらも周辺の大国に屈することなく中立と平和を堅持しているベルギーを高く評価しており、山縣有朋らが視察に訪れて日本の軍事体形や外交政策にも影響を与えている[529]。その後、第一次世界大戦を経てともにワシントン会議に出席し九ヵ国条約を締結してワシントン体制を構築するが[530]、第二次世界大戦を機に国交は一時断絶。戦後の外交関係復活後は、皇室とベルギー王室が密接な交流を続けるなど、良好な関係を築いている[531]。
ポルトガル:日葡関係は16世紀から始まり、スペインと並んで日本が古くから交流を持つヨーロッパ諸国である。1543年、種子島にポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こって日本における戦国時代の戦術に革新的な影響をもたらした[532]。その後、織田信長らの庇護の下で南蛮貿易が促進され、九州を中心に経済や文化面での交流が深まった。さらには当時の貿易活動は布教活動の目的も含まれていたため、その影響でキリシタン大名が誕生するなど、戦国時代までは日本にとって最も重要な欧州国家の一つであったが、1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発して、公式な関係は一度途絶えた[533]。開国後は200年以上ぶりに通商関係が復活し、現在では経済的交流は限定的なものの友好的な関係が続いている[534]。
ロシア・中央アジア諸国
ロシアと国交が結ばれた段階ですでにロシアは南下政策をとっており、中央アジアやコーカサス地域も征服していた。社会主義革命でソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立してからも、これら地域はソ連の構成国として維持された。そのために、中央アジアの西トルキスタン諸国やコーカサス地方の国々との関係樹立は1991年のソビエト連邦の崩壊まで待たなければならなかった。1997年(平成9年)に橋本政権によって「ユーラシア外交」が提案されてロシアや中央アジア諸国との関係強化が志され、のちの政権も継承されることになった[535]。しかし、2001年9月11日の米国ニューヨークでの同時多発テロ以降は低調である。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある[536]。ただし、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である[537]。
ロシア:日露関係は断続的に関係が深まる時期を挟みつつも、対立の時期が長い。これはかつての帝政ロシアが不凍港を求めて伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである[538]。外交関係としては、1792年にアダム・ラクスマンが当時のロシア帝国の使節として根室(現在の北海道根室市)に来航した時に非公式の接触が始まった[539]。その後、江戸幕府は最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者を千島列島や樺太を含む蝦夷地に向かわせ地理的な知識を得ようとしたが、それは領土を拡大するロシアの脅威に対して北方防備の必要性を悟ったからであった[540]。
正式な国交が結ばれたのは、樺太の帰属を棚上げにして択捉島と得撫島の間を国境とする日露和親条約が1855年に締結されて以降であり、その直後に条約は日露修好通商条約に置き換わった。1875年の樺太・千島交換条約により、日本は樺太(サハリン)を放棄する代わりに千島列島全島をそれぞれ領有することとされて日露国境が一旦確定する。満州(現在の中国東北部)・朝鮮半島の支配権をめぐり、1904年に日露戦争が勃発し、勝利した日本は満州の利権に加えて樺太の北緯50度線以南の領有権を取得した。その後日本とロシアは接近して日露協約が結ばれた[541][542]。
しかし、第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命により史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が樹立されると、日露協約は消滅した[541][543]。日本は協商各国とシベリアへ共同出兵して革命に干渉したが、1925年の日ソ基本条約締結後に撤兵した。1931年の満洲事変以降国境紛争が頻発し、1939年のノモンハン事件では大規模な武力衝突に発展した。1941年には日ソ中立条約が締結されたものの、第二次世界大戦では条約の有効期間内であるにも関わらずソビエト連邦は終戦直前に対日参戦し、ソ連軍が日本支配地域に侵攻した。ソ連による旧満州国・朝鮮や南樺太・千島列島への侵攻は、日本がポツダム宣言を受諾(降伏)し戦闘行為停止を軍に発令した後も継続された。占守島の戦いなど現地守備隊による戦闘が行われたものの、日本が降伏文書に調印するのに前後して極東ソ連軍は南樺太と千島列島のすべてを占領した。特に江戸時代に帝政ロシアと国交を樹立して以来認められていた日本固有の領土である択捉島以南の千島列島の「不法占拠」は、北方領土問題として今日に至る禍根を残している[541][544]。さらに武装解除した日本軍兵士を捕虜として連行して長期にわたる強制労働などを課して多数の犠牲者を出した「シベリア抑留」などの行為は、単なるイデオロギー上の対立にとどまらない反ソ感情を日本に植え付けた。1956年の日ソ共同宣言で一応の国交が回復した後も、冷戦期を通じて緊張関係が続いた[541]。
1985年に最高指導者となったミハイル・ゴルバチョフにペレストロイカ政策のもとで関係改善の兆しが現れたものの、講和交渉が進展しないまま1991年のソビエト連邦の崩壊を迎えた。初代ロシア連邦大統領となったボリス・エリツィンは、当時経済大国であった日本からの経済援助を期待し、1993年の来日時に北方4島の帰属問題を解決して講和条約の早期締結を目ざすと記した東京宣言に合意した。2000年代前半に平和条約締結後に日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すことをうたった日ソ共同宣言が有効であることを認めるなど、ウラジーミル・プーチン大統領に交渉の意思[545]があるとみなした第二次安倍政権による精力的な外交が2010年代に行われた。しかし具体的成果は得られず、2020年に改正されたロシア連邦憲法には「領土の割譲禁止」が明記された。2022年現在において領土問題の解消・平和条約締結の目処は全くたっていない[541][546][547][548]。
ソ連崩壊後の両国間では経済的な交流が盛んに行われ、2013年前後に貿易額のピークを迎えたが、2014年クリミア危機以降落ち込みを見せている[549][550]。ロシアへの輸出品目は自動車が大部分を締め(2020年は41.9%)、部分品まで含めると半分以上を構成する。ロシアからの主な輸入品目は液化天然ガス、石炭、原油、非鉄金属など、天然資源・原料が多く、2009年以降は慢性的な日本の輸入超過が続いている[550]。
外交や政治では、上述の領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じている。さらに近年では、日本政府は上記のクリミア危機に際しロシアによるクリミア併合を非難したうえ[551]、2022ウクライナ侵攻においては国際社会の動きに呼応して制裁措置を発動し[552]、ロシアの戦争犯罪を批判する声明を出すなど[553]、緊張関係にあるが、英国BBCの調査によると、ロシアではむしろ45%の人が日本に肯定的で、それに対して日本に対して否定的な人は16%に過ぎないそうである[554]。
西アジア
間に巨大な中国文化圏やインド文化圏が存在し、7世紀以降に西アジアで広く信仰されたイスラム教の日本伝播が20世紀まで非常に稀で、政治・経済面でも戦前の日本が英仏統治下の西アジアに入る余地はなかったため、日本と西アジア地域はトルコやペルシア(1935年からイラン)との小規模ながら友好的な外交関係を除くと希薄なままだった。しかし、1950年代に日本がペルシア湾周辺の油田についてイラン・サウジアラビア・クウェートなどの湾岸諸国と相次いで協定を結び[555]、1960年代以降は原油輸入元の大半を中東諸国が占めるに至って[556][注 47]、日本経済の根幹に関わる「エネルギー外交」で中東諸国との関係が死活的に重要となった。近年では日本の自衛隊が中東地域での活動を行い、一方では日本人が犠牲になった殺害事件も起こるなど、西アジア諸国との関係は新たな段階に入っている[557]。
サウジアラビア:1909年、山岡光太郎が日本人として初めてメッカ巡礼を行った事を皮切りに、20世紀初頭からわずかながら交流を持ち始めた[558]。正式に接触があったのは1938年であり、その後サウジアラビアの石油獲得を巡って幾度か接触しているものの国交樹立の交渉は不調で終わっている[559]。第二次世界大戦後の1955年には初めて国交が樹立、日本が石油利権を獲得する足掛かりとなり、また皇室とサウジアラビア王家であるサウード家との交流が進展した[560]。現在では、文化面よりも経済面での結びつきが強く、日本はサウジアラビアにとってアメリカ合衆国に次ぐ第二位の貿易相手国であり、一方でサウジアラビアは日本にとって最大の原油供給国である。日本が調達する原油の、30%がサウジアラビアからの輸入である[561]。政治や外交面では、ともにG20の一員として国際社会で連携する機会もあり、特にISILなどをイスラム過激派組織に対してはともにテロ組織に認定するなど立場を共通にしている[562][563]。
アフガニスタン:外交関係の樹立は1930年である[564]。ソ連によるアフガニスタン侵攻以後は一時的に国交が途絶えるものの、アフガニスタン紛争に際しては日本は継続的な支援を続けており、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っているほか、文化遺産の保全をターリバーンにも求めている[565]。アメリカ合衆国が行った武力攻撃を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている[566]。
イラン:日本と共に古代から続く領域国家で、8世紀に収められた奈良の「正倉院」の宝物庫にはシルクロードを通じてサーサーン朝ペルシアの影響を受けた文物も収められているほか[567]、765年の木簡からペルシャ人と考えられる破斯清道という大学寮の官吏が平城京にいた事が判明している[568]。正式な国交樹立はパフラヴィー朝成立後の1926年まで遅れ、第二次世界大戦末期の1945年2月には英ソ両国に占領されたイランが対日宣戦を布告したが[569]、1953年の国交回復後は石油輸入元の確保を求める日本側とイギリスからの石油利権奪回を狙うイラン側の利益が一致し、油田開発や反共主義外交で両国間の関係は緊密になった[570]。1979年にイラン革命が成功してイスラム教による国家統治と強烈な反米主義を掲げるイラン・イスラム共和国が発足した後も両国は友好関係の維持を求めたが、続くイラン・イラク戦争やアメリカによる対イラン経済制裁の影響を受けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトが中止され[注 48]、その後もイランの核開発問題[注 49]などが災いして、両国間の経済関係は資源貿易を除き現在でも双方の期待ほどには進展していない。
イラク:1932年にイギリス委任統治領メソポタミアがイラク王国として独立、1939年には日本と国交を結んだ[571]。しかし当時は第二次世界大戦の真っただ中であり、1943年には対日宣戦をして国交が断絶している[572]。その後、イラクでは7月14日革命によって王政が崩れる、東側諸国の一員となる、バアス党が一党独裁体制を築くなどの政変があったものの、日本は関係を維持し、関係が悪化したのはクウェート侵攻の時であった[573]。イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った[574]。
カタール:1972年に初めて国交が樹立された[575]。両国の経済規模は大きく離れているが意外にも経済や政治で結び付きは強く、カタールにとって日本は第六位の貿易相手国であり、日本にとってカタールは重要な資源供給国である[576]。政治面では、2014年にシリアにおいて日本人二人が拘束された「ISILによる日本人拘束事件」の際、カタールは解放交渉に尽力した[577]。逆に、2017年カタール外交危機でカタールが周辺国から断交される事態に陥ると、日本政府はその仲裁を申し出ている[578]。
ヨルダン:1954年に国交が樹立され[579]、国交がないパレスチナへの窓口となっているほか、2010年以降は反ISILで共同歩調を取っている[580]。経済や政治、文化よりは皇室とヨルダン王室との交流が強い[581]。
イスラエル:1948年にイスラエルの建国宣言、1952年に日本が主権を回復、その直後に日本はイスラエルを国家承認して外交関係が成立した[582]。なお、在イスラエル日本大使館はイスラエルが首都と主張するエルサレムではなく、テルアビブに置かれた。日本は、中東和平やパレスチナ問題に関して中立の立場であり、対立する中東諸国やパレスチナ、イランとも友好的な関係を保っている。政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等バランスが図られていて[583]、パレスチナを国連の「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする際にはイスラエルが反発するなか賛成票を投じた[584]。このように政治や外交では一定の距離が保たれているものの、2017年には日・イスラエル投資協定が締結されるなど[585]、経済や科学技術における交流は深い。特に先進科学技術と宇宙関連機関の連携は重要である[586]。また、ユダヤ人を救った杉原千畝はイスラエルでも高く評価されており[587]、日本文化の愛好家も多い[588]。
トルコ:岩倉使節団の福地源一郎と島地黙雷が1873年にオスマン帝国を訪問したことにより、トルコと日本は初めて接触した[589]。その後、日露戦争が始まると、以前にオスマン帝国はロシア帝国の南下政策によるクリミア戦争や露土戦争を経験していた事からそれに注目し、日本の勝利は歓喜を巻き起こした[590]。しかし第一次世界大戦では交戦国となり、敗戦後オスマン帝国は解体されトルコ共和国となると1924年に国交が樹立し[591]、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが推し進めた近代化政策は日本の明治維新を参考にしたものであった[592]。その後、第二次世界大戦では国交が一時断絶するも、戦後すぐ復活。良好な関係が続いており、日本からは多額の開発援助が行われているほか、日本とイタリアの建設会社によってボスポラス海峡にファーティフ・スルタン・メフメト橋を建設した[593]。一方、イラン・イラク戦争の際にはトルコ航空機が在イラン日本人を救出するなど、経済や政治面で協力経験が多い。外交においても両国ともにG20の一員で、歩調を合わせる場面がある。なお、親日国の代表として紹介される国である。オスマン帝国末期の1890年のエルトゥールル号遭難事件が友好関係の起源としてしばしば取り上げられる[594]。
アフリカ
アフリカ諸国は、地理的に離れている事もあり日本とは歴史的に関係が少なかった。南アフリカ連邦(のちの南アフリカ共和国)、エジプト、エチオピア帝国(のちのエチオピア)を除き、殆どの国と戦後に国交を結んでいる。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係が多い[595]。1993年からは、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、アフリカのためのグローバル連合、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議(TICAD:Tokyo International Conference on African Development)を開始するなど、[596]関係強化に乗り出している。また、ソマリア、南スーダンなどでは自衛隊による平和維持活動が行われており、関係は深化している。文化面では、サッカーなどスポーツの分野においてアフリカ諸国の選手団を日本に招待した試合が行われており、緊密かつ良好な関係を築いている[597]。
南アフリカ共和国:記録に残っている公式な交流は江戸時代であり、江戸幕府から派遣された山内作左衛門らがケープ植民地ケープタウンに立ち寄っている[598]。1910年には南アフリカ連邦として独立、直後に国交を結ぶも第二次世界大戦をきっかけとして断絶した[599]。日本が国際社会に復帰後は、国交は回復しないながらも交流が再開される。アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界から孤立していた時代にも、日本は積極的に資源を輸入し、多数の日本企業が進出して非公式ながら比較的密接な関係を築いていた[600]。このため、日本人は同国から「名誉白人」の扱いを受けており、アフリカ諸国や国際連合からの非難も受けていた[601]。アパルトヘイトが撤廃されると、1992年には半世紀ぶりに正式に国交が回復している。
エジプト:アフリカよりは中東の一国としての外交関係が展開されている[602]。1861年に文久遣欧使節がスエズを訪れた事が交流の始まりである[603]。その後、1879年には欧米列強に対抗し近代化を目指す「ウラービー革命」が引き起こされたが、首謀者であった軍人アフマド・ウラービーは明治維新に強い関心を持っていた[604]。1922年、エジプト王国の独立ともに両国は外交関係を樹立、現在に至るまで日本はエジプトを中東の中心的存在に位置付けて[605]、第二次世界大戦を除いては友好的な関係が続いている。エジプトにとって日本はフランスに次ぐ主要援助国であり[606]、2015年には、ISILと戦闘を繰り広げるエジプトに安倍晋三首相(当時)が支援を表明するなど[607]、中東の安全保障で繋がり深い。
BBC国際世論調査
イギリスの公共放送BBCによる国際世論調査では、好ましい国の上位に挙げられている。2017年好評の結果では56%がポジティブな評価を出し3番目であった[608]。2017年のBBC国際世論調査と2013年の米国のピュー研究所の調査によると、中国や韓国を除いて、日本を嫌う国はない[554][609]。
領土問題等
以下の領有を巡る領土問題等を抱える。
- 日本政府が「解決すべき領土問題」と認識して国際的な了承を得ているもの
- 北方地域
- →詳細は「北方領土問題」を参照
- 第二次世界大戦の終結が決定的となる日本によるポツダム宣言の受諾(1945年8月14日)後、1945年8月28日から9月5日にかけ、大戦前から日本が領有していた千島列島(ロシア名:クリル諸島)に日ソ中立条約の破棄を通告したソ連軍が侵攻し占領した。以後、ソ連を承継したロシア連邦が現在に至るまで実効支配している[610]。
- ロシア(ソ連)は、戦争で獲得した領土と主張する。一方、日本は、北方地域(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)をその固有の領土として返還を求めている。ロシアは、歯舞群島・色丹島について日ソ共同宣言を根拠に日本への将来の返還を示唆している。日本は、択捉島・国後島を含む4島の一括返還を求め、これを拒否する。また、日本は、択捉島と得撫島との間での国境の確定にロシアが同意すれば、引き続きロシアによる統治を認める旨を提示したが、ロシアが拒否した。2007年にロシアが「面積二分割」案を提示した。現在、解決の目処が立っていない。樺太・千島列島を日本領と主張する有識者、団体も存在し、日本共産党は、千島列島の全域を日本の領土と主張する(ソ連による千島の占領がカイロ宣言等で示された連合国の「領土不拡大」原則に反し、違法であるとの理由から)ほか、一部では南樺太ないし樺太(全域)(サハリン)の返還も主張される。日本側は南樺太と千島全島はロシアとの間に領有権未定だと主張している。
- 相手国政府は「領土問題」はないと認識しているが、日本政府が「解決すべき領土問題」と認識しているもの
- 竹島(韓国・朝鮮名:独島)
- 詳細は「竹島」を参照
- 日本の島根県・隠岐島から北西約157km、大韓民国の慶尚北道・鬱陵島から約92kmに位置する、2つの岩礁からなる小島である。日韓が領有を主張(韓国を朝鮮民主主義人民共和国も支持)して対立する。
- 韓国併合以前、大日本帝国と大韓帝国と、どちらの領土だったかを巡る議論に帰する。日本の国内法上、1905年の閣議決定・島根県告示によって編入された。これについて韓国は、「秘密裏に、また強制的に行われたものであり、法的根拠は持たず無効である。」と主張するが、日本は、「国際法に則った適法な手続きがなされたものであり、また新聞などでも報道されており秘密裏に行われたとの指摘は当たらない」と主張する。韓国は、独立から間もなく李承晩ラインを一方的に設定し、その内に入った日本の漁船・漁民を拿捕して釜山収容所に抑留したのみならず、第一大邦丸事件など漁船を相次いで銃撃し、多数の死傷者を出した。その後の日韓国交正常化交渉で李承晩ラインの不当性や竹島の領有を日本が強く主張し、1965年に李承晩ラインが廃止された[611]。
- 1954年7月に韓国海軍が占拠し、現在、独島警備隊が引き継いで駐屯する。これに対して日本は、韓国による不法占拠として抗議し続け、また、1954年と1962年に国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国は、これに同意しない。
- 韓国民にとって独立の象徴と考えられていること、周辺の海域が豊かな漁場であること、また、莫大なメタンハイドレートや海底油田の埋蔵が推測されること、などが解決を難しくしている。
- 1965年の日韓基本条約の締結の際には日韓の実力者交渉で「竹島爆破」による領土問題の解消も囁かれたものの至らず、条約締結以降は外交的配慮で日本側からの提訴は控えられ、民主党政権では政府見解から「不法占拠」の表現が曖昧になるなど引け目になっていたが、2012年に李明博大統領による韓国トップとしては初の竹島上陸が強行された。
- 日本政府は「領土問題はない」と認識しているが、外国から領有権の主張がなされているもの
- 尖閣諸島(中国名:釣魚台列島など)
- →詳細は「尖閣諸島問題」を参照
- 1895年(明治28年)に、当時の第2次伊藤内閣(伊藤博文首相)が「尖閣諸島を日本の領土に編入すること」を閣議決定している。第二次世界大戦後は、沖縄県(琉球諸島および大東諸島)の一部としてアメリカ合衆国の施政権の下にあった。沖縄返還時に、施政権が日本に返還されて以降、現在まで日本が実効支配するが、その他に中華人民共和国(中国)政府および中華民国(台湾)政府がそれぞれ自国の領有を主張する。日本政府は「日本固有の領土にして統治されている尖閣諸島に領土問題は存在しない」という見解を示している。上の経済水域の問題や中台間の問題も絡み、複雑化の様相を呈する。アメリカ合衆国との沖縄返還交渉および1970年代初頭の東シナ海における天然ガス発見を機に、表面化した。中台に対抗し、度々、日本の右翼団体が上陸して灯台を建設(現在、日本政府が管理)するなどした。2005年、台湾の漁民が海上保安庁による取締に対して海上で抗議デモを行った。2002年からは政府が私有地を借りる形で管理し2012年には国有化されており、許可なく民間人の立ち入りが出来ない状況であるが、近年の中国人活動家による領海侵犯・不法上陸に対する政府の対応の甘さを指摘する世論の反発を受けている。
- その他
- 領土問題に準じる、いくつかの問題がある。
- 日中間の排他的経済水域
- →詳細は「東シナ海ガス田問題」を参照
- 中華人民共和国(中国)との間における、東シナ海で両国が主張する排他的経済水域の範囲の違いに起因する。日本は、両国の国境の中間線を境界線として主張し、中国は、ユーラシア大陸の大陸棚部分を自国の領域と主張する。国際的には、日本の主張が優勢であるが、中国と同様の主張をする国も存在し、現在、平行線を辿る。
- 近年、この問題が重要化したのは、この海域の地下に豊富な天然ガスの存在が明らかになったためである。中国は、天然ガスを採掘するプラント(春暁ガス田)を日本が主張する境界の近辺(中国側)に建設するなど強硬な姿勢を取る。これに対して日本は、日本側の資源も採掘される可能性があるとして抗議し、また、この海域での試掘権を設定し、日本の企業が取得した。日本が国際司法裁判所に判断を委ねようとする立場なのに対し、これに同意しない中国は、両国での共同開発を提示するが、日本は、これを中国に有利な条件と認識するなど、依然、解決の糸口が見えない。
- 沖ノ鳥島
- サンフランシスコ講和条約においては沖ノ鳥島の存在が明記されているため、締結国と日本の間に問題は存在しない。日韓基本条約はサンフランシスコ講和条約の関係規定を想起し条約を締結することに決定と規定されているが、韓国政府は2009年(平成21年)以降沖ノ鳥島を岩だと主張している[612][613]。
- 日本政府は1931年(昭和6年)7月の第2次若槻内閣(若槻禮次郎首相)での内務省告示以来、沖ノ鳥島を島として支配しそれを継続していること、また、国連海洋法条約において島の定義が存在しないことを理由として、沖ノ鳥島を「島」であるとしている[614]。それに対して中国政府および韓国政府は、沖ノ鳥島に関する日本の権利を容認しながらも[要出典]、国連海洋法条約121条3項における「岩礁」の定義に基づいて沖ノ鳥島は岩礁であると主張しており、沖ノ鳥島を起点に設定される日本の排他的経済水域(EEZ)については容認していない。
- 日本海の呼称
- →詳細は「日本海呼称問題」を参照
- 与那国島上空の防空識別圏
- →「与那国空港 § 防空識別圏問題」も参照
- 与那国島の西2/3が、沖縄のアメリカ統治期に東経123度線に沿って設置された防空識別圏(ADIZ、アディズ)を引き継いでいるため、中華民国(台湾)政府の管理下にある。現在、両国の関係が良好であるために情報の交換もスムーズだが、台湾有事において防衛上の重要な問題となる可能性が高い。2005年末から2006年にかけて台湾が防空識別圏から与那国島を除外して運用していたことも判明しているが、特に両国で取り決められたわけでもなく、曖昧なままである。
- 2010年(平成22年)6月25日、日本は菅内閣(菅直人首相)下で「防衛省訓令改正」により防空識別圏を与那国島上空にも拡大した。台湾には外交ルートを通じて説明した[615]が、台湾の外交部は「事前に我々と十分な連絡をとらなかった」として遺憾の意を表明[616]、日本の決定を受け入れないとしている。
- 南樺太・千島列島の放棄後帰属問題
- 南樺太および千島列島は、大日本帝国時代、いわゆる「内地」であったが、サンフランシスコ講和条約で日本は領土を放棄した。しかし、ソ連・ロシアとは北方領土問題のみ解決などから領有権を認めず、「未帰属」後として扱った。しかし、ロシアが実効支配しており、マスコミでも日本語名称は使用されなくなりつつある。(樺太→サハリン、豊原→ユジノサハリンスク、等)
- 当時ソ連の対日宣戦布告が違法とする立場や、ソ連(ロシア)がサンフランシスコ講和条約を批准していないことを根拠に、「主権残留説」も出ており、一部の論者はこれらの地域の領有権を主張している。また、それとは別に日本共産党が「千島列島返還」を主張している。
- 日本政府はこれらの問題について、「未帰属」(=未解決)としており、ロシアとの平和条約が締結された後で解決するとしている。
- 台湾の放棄後帰属問題
- 日本は台湾の領有権を放棄したが、いまだに中華人民共和国の領土とは、認めていない。一時は中華民国に割譲したが、今の日本政府は中華民国を「合法政府」とは認識しておらず、台湾の地位については、「発言する立場にない」としている。
- 台湾の主権が日本に残留している、あるいは、台湾の帰属は台湾住民の意思によって決定するべきである、という意見もある。
- 韓国の反日過激派による対馬の領有権主張問題
- 大韓民国には、対馬は韓国領であると主張する、一部の過激派が存在する。
- しかし、韓国政府もそのような主張は、決して承認しておらず、日韓の右派団体同士による衝突を除けば、国際問題にはなっていない。
渡航する日本人
- 安全
- 近年、海外への渡航の増加に伴い、犯罪に巻き込まれるケースも増えている。特にアメリカ同時多発テロ事件以降、爆破や拉致・監禁事件なども多発し、有名な例としては、イラク日本人人質事件、アフガニスタン日本人拉致事件、アルジェリア人質事件では武装勢力に殺害される事件も2013年に起きた。また、2002年にニューカレドニアのリゾート地で現地の風習・文化をよく知らずに聖地とされる場所に無断で侵入したために地元民に殺害される事件も発生した。日本人女性が性的暴行の被害に遭う事例も増えている[617]。
- 世界的に最も良い方である日本の治安、例えば殺人の発生率が低い順に第3位(2000年〔平成12年〕)であることなど、日本人が日本での治安の感覚と同じように海外で行動すると、その感覚の大きな隔たりから犯罪に巻き込まれることがある。
- マナー
- 米最大手の旅行ウェブサイトであるエクスペディアが行ったアンケート調査で、「行儀がいい」、「礼儀正しい」、「物静かで慎ましい」、「クレーム・不平が少ない」の各分野で1位を獲得するなど、2位のアメリカ人を大きく引き離して1位となった[618]。しかし、そういった控えめな特質を逆手に取られてぼったくりに遭う例もある。
- 一方、以下のような犯罪事例も存在する。
治安
オーストラリアに本部を置き、米国、オランダ、メキシコ、ベルギーに支部を持つ経済平和研究所によると、2021年の世界平和度指数の「安全・セキュリティ」部門で日本は世界第1位となることが客観的データで示されている[619]。安全な国は、一人当たりのGDPが高い、インフレが比較的低い、汚職が少ない、資源分配の不平等が少ないなど、多くのポジティブな影響をもたらす[620]。
治安維持
国内の治安維持は、主に警察が担う。警察の機構は、内閣府の機関である国家公安委員会とこれに属する警察庁、そして各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造であり[3]、後者の下部組織たる警察署、更に日本発祥の交番の存在が地域の安全を担う。交番は地域に根ざして、小ブロックの担当地域を効率的かつ濃密に警備できる。日本の警察はSAT等を擁する文民警察である。
警察以外では、沿岸警備隊の機能を有する海上保安庁が国土交通省の外局として、また、国境警備隊の機能の一部を担う法務省出入国在留管理庁(入国警備官)や財務省の税関(税関職員)、あるいは、特に薬物犯罪を専門に管轄する厚生労働省の各地方厚生局麻薬取締部(麻薬取締官)などが、それぞれ設置されている。
銃砲刀剣類所持等取締法により、銃・刀剣などの武器の所持を厳しく規制している。国連薬物犯罪事務所の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強制性交、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い[621][622][623][624][625]。その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しい銃規制も挙げられる。但し、イギリスの銃規制に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国が存在するなど、必ずしも銃規制のみが治安維持に貢献しているわけではない。
消防
火災の消火活動や病院への救急搬送、救助活動および防災活動をするため全国に消防署が配置され、消防庁が統括する。 消防の活動は治安維持につながる。
人権
国民の基本的人権は、日本国憲法第11条により保障されている。
安全保障
防衛
日本の防衛組織として自衛隊が存在する。自衛隊は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ために設置され、事実上の軍隊として機能し[注 50]、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊から構成され、内閣総理大臣と防衛大臣による文民統制(シビリアン・コントロール)の下、防衛省によって管理される[3]。また、事実上の準軍事組織として沿岸警備隊たる海上保安庁が存在するが、海上保安庁での対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。
大日本帝国憲法の統帥権を根拠に旧日本軍が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。また、同じく戦前への反省から自衛隊海外派遣は長らく行われてこなかったが、自衛隊ペルシャ湾派遣や自衛隊カンボジア派遣を契機に開始された。現在では、海外派遣任務は自衛隊の主要任務となっている。
第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接の戦闘を経験していない。連合国軍の占領下にあった1950年、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊(特別掃海隊)が派遣されたことがあり、死傷者も出している。富士総合火力演習やその他の公開演習などを通じて高い練度を評価されることも多いが、他国の軍隊や民兵組織と交戦に至った経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。
日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留する[注 51]。日本国内において唯一駐留している外国軍である(領土問題になっている竹島、北方領土は除く)。
日本は世界第4位の軍事力を有するとされ[628]、「世界平和度指数」の2009年度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている[629][630]。ただ、この指標にはアメリカに防衛を依存している日本などに対し有利な計算方法との指摘が出ている。
海外基地と諸外国と結ばれている地位協定の内容の問題
2011年には日本ジブチ地位協定に基づきアフリカのジブチ共和国に自衛隊の海外拠点が設立され駐留している。ジブチは元々フランスの植民地であった。しかし、日本ジブチ地位協定の内容を見ると当時の宗主国のフランスと締結されているような不平等条約となっており、自衛隊の過失犯がすべて無罪[631]、ジブチ国内の法令も適用されない[632]、自衛隊の基地内の情報や介入が日本政府の許可がないと出来ないなど日本政府がアフリカの主権を侵害していること、日本がジブチを植民地、占領地、属国のように扱っているなど一部の有権者から批判されている[633]。日本ジブチ地位協定の問題は日本のメディアも一切報じていないため、日本国内の認知度は極めて低い。
自衛隊の装備及び活動
要員・装備・予算
以下のような政策・傾向を継続している。
- 防衛費の絶対額では世界上位。しかし、国の経済力に対する防衛費の割合は、著しく低水準に抑えられている。
- 兵員・戦車・作戦機・軍艦の数などに見られる規模の小ささを、質の向上や同盟国(アメリカ)の能力によって補完する。
- 近年は財政状況の悪化により、仮想敵国や周辺諸国との協調的な軍縮でなく、単独で一方的・自主的に軍縮する。
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI) の統計によると、以下の通りである。
- 国内総生産(GDP)に対する軍事費の割合ランキングは、世界の150位前後である[634](これは、アメリカ中央情報局(CIA)の発行する CIA World Factbook の統計においても同様である[635])。
- 2008年度の防衛に関連する予算の総額は、為替レートベースで463億(アメリカ)ドルであり、1位のアメリカ合衆国、2位の中華人民共和国、3位のフランス、4位のイギリス、5位のロシア、6位のドイツに次ぎ、世界7位である[636]。
- 1999年 - 2008年の10年間の軍事費の増減率は、中国が194%増、ロシアが173%増、韓国が51.5%増、日本が1.7%減であり、周辺諸国に対して相対的に低下している[636](これについてはアメリカからも懸念が示されている[637][638])。
このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。
- GDP そのものが大きく、国力が高い。
- 円が強い通貨である。
- 広大な領海・EEZと長大なシーレーンを抱える。
- 周囲を軍事大国に囲まれる。
- 規模が相対的に小さい故に、質の高い要員・装備を目指しているため、装備調達や訓練にコストがかかる傾向にある。
- 人件費が高く、予算の大きな部分を占める。
- 装備の国産化を指向するにもかかわらず、武器輸出三原則で輸出を自粛していたため、購入単価が下がらない(しかし、2014年4月第二次安倍内閣によって防衛装備移転三原則へと移行したため改善する可能性もある)。
- 要員
- 2020年における自衛官の定員(千人未満を四捨五入)は、陸自が約15万人、海自が約4万5千人、空自が約4万7千人、統合幕僚監部等が4千人、合計24万7千人、実数は、陸自が約13万8千人、海自が約4万3千人、空自が約4万3千人、統合幕僚監部等が4千人、合計22万7千人である[639][640]。特徴として、予備役に相当する予備自衛官等が約4万8千人であり、現役と比べての割合が非常に少ない(通常、予備役の数は現役の数を超える)。
- 防衛省の文官は、約2万1千人である[641]。
- 徴兵制度は第二次大戦後の日本軍解散とともに廃止され、自衛隊にも徴兵制はない。
- 装備
- 定評ある海外製の兵器や、それと同等ないしさらに高性能と見られる国産装備を多く保有する。高い基礎工業力を生かし、車両や艦船の多く、そして航空機の一部が独自開発である。ただし、それらの輸出は武器輸出三原則によって自粛してきた。また、他国の製品であってもライセンス生産を行うなど、可能な限り、国内で調達する傾向がある。これによって、自衛隊の調達する兵器の多くは海外の同等のものよりも高コストとなっているが、他国の意志に左右されず兵器本体および保守部品の生産ができ、兵器の製造ノウハウを蓄積することによって、保守・運用の効率を高め、ひいては稼働率を高く保つことを狙っている。
- 予算
- かつては防衛費をGNPの1%以下に抑える防衛費1%枠という閣議決定があり、現在は撤廃されているが、現在でもこの割合が基本となっている。
- 2014年のGDPに対する防衛費の割合は、SIPRI の統計による世界全体のGDPに対する軍事費の割合2.4%に対し、1.0%である[642][643][644][645]。
- 2013年を境に防衛費は増加に転じ2020年度は過去最大となった[646]。
情勢・脅威
冷戦の時代、ソビエト連邦が最大の仮想敵国であり、自衛隊の部隊も北海道など北方に重点が置いて配置されていた。冷戦はソ連崩壊によって終結し、現在は軍拡を続ける中国、水際外交や国家犯罪を繰り返す北朝鮮の脅威の方が増している、これらへの対抗から部隊の西方への移転が進められている。防衛白書も、近年は中国・北朝鮮に対する脅威を主張している。しかし、根拠地の移転には広大な敷地や大規模な工事が必要なこともあり、あまり進んでいない。
- アメリカ以外との安全保障協力
- 2007年3月にオーストラリアとの間で安全保障協力に関する日豪共同宣言が、続けて2008年10月にインドとの間で日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言が、それぞれ調印された。
- 核抑止
- 日本はアメリカ軍の広島・長崎への原爆投下によって多くの犠牲者を出した経験[647]や唯一の被爆国としての立場から、国民レベルでは核抑止論に対する抵抗・反発の感情が強い。しかし日本政府は「非核三原則」を標榜しつつも非核地帯宣言はせず、事実上の核抑止論の立場に立っており、アメリカの「核の傘」に頼っている。周辺諸国ではアメリカ、ロシア、中国が核兵器の大量保有国である上、北朝鮮が核兵器の開発の成功を発表している。それらに対し、独自の核保有もしくはアメリカとのニュークリア・シェアリングを検討すべきという民間レベルの議論もあるものの、政府は核保有及び共有を否定している[648]。
- シーレーン防衛
- 日本は、第二次大戦中に連合軍の通商破壊戦によってシーレーンを遮断され、物資が極度に窮乏する状況に追い込まれた。さらに1980年代より日本の海洋国家論の高まりと同時に、軍事のみならず、経済・食糧・エネルギー・環境などの総合安全保障の概念が認識されるようになった。漁業の安全や世界中との貿易での立国を維持する上でシーレーンの防衛(海戦や通商破壊などの危険回避)が重要であるものの、グローバルに広がるシーレーンの全ての防衛を独力で完遂することは、現実的にも困難であり、憲法第9条の制約もある。よって、同じく海洋国家として「海洋の自由」を標榜し、グローバルに軍事展開するアメリカと協力することで、コストを抑制しての有効な海洋の安全を図っている。一方で、マラッカ海峡などの海賊やテロも、東アジア全域のみならず、グローバルな共通の危機となり、非対称戦争に対応した国際的な警察力の強化、紛争予防も重要な課題となっている。
- 中華人民共和国
- 2001年から一貫して国防費の成長という急速な軍拡を続け[649]、軍事力の近代化を進めている。その実態や将来像、意思決定の過程が不透明であることが脅威である[650]上に、文民統制が不十分で軍部の暴発すら心配される[651]。日本とは海を挟んで接しているが、中国は外洋艦隊の建設によって海洋権益を拡張する姿勢を強めており、周辺国と係争や紛争を行っている。中でも台湾の併合(台湾回収)は国是[652]となっており、独立の動きがあれば武力侵攻することを示唆している。しかも中国の主張によれば台湾には沖縄県尖閣諸島が含まれており、中国の領有を主張している。さらには、中国の論壇にみられる沖縄県の独立もしくは併合(琉球回収)の主張に対して、一部の軍人が同調する発言すらみられる。今後は南西諸島ないしは太平洋北西部(フィリピン海)に中国人民解放軍海軍が強い影響力を及ぼすことが懸念される。このような情勢の下で日本は、中国との対話を続ける一方で、中国の軍事力に対抗する抑止力を整備し、日米安全保障態勢の維持・強化を図る。
特殊部隊
自衛隊の特殊部隊として陸上自衛隊の特殊作戦群や海上自衛隊の特別警備隊などがある。 特別警備隊は自衛隊(陸、海、空の全てにおいて)初の特殊部隊として創設された。
諜報
日本の情報機関としては、内閣官房内閣情報調査室、警察庁警備局(公安警察)、外務省国際情報統括官組織、防衛省情報本部、法務省公安調査庁などが設立されている。諜報員の諜報活動は国内はもちろん国外でも行われている。それらによって得られた機密情報やデータは内閣情報会議・合同情報会議の開催時に秘密裏に共有される[653]。
佐藤優の分析によると、現在の日本の諜報能力は予想を上回る能力を持っており、実際に他国の中枢に食い込んだ日本の外交官が何人もいるだけでなく、警察庁のカウンターインテリジェンスは世界最高水準であり、サイバー・インテリジェンスにおいても自衛隊は高い能力を持っているという[653][654]。また、有事の際には国家安全保障会議設置法に基づき、国家安全保障に関する重要事項および重大緊急事態への対処を審議する目的で国家安全保障会議(NSC)が開催される。
経済・産業
制度・規模・位置
日本は、修正資本主義・市場経済を採用する工業国であり、2018年時点で、国内総生産(GDP)がUSドル時価換算の為替レートで世界第3位(購買力平価(PPP) で世界第4位)に位置する経済大国である。一人当たりGDPは2018年時点で、USドル時価換算で世界第26位、購買力平価(PPP)で世界第31位である。
通貨である円(¥, yen, JPY)は、高い信認を有する国際通貨の一つである。日本人は、その信認の高さから現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年に経済協力開発機構(OECD)に加盟し、サミット(主要国首脳会議・当時のG5・後にG7)にも1975年の第1回から参加している。
経済史
明治以来、西欧型の民法典を導入し、財産権を基礎とした資本主義を経済の基本とする。第二次世界大戦時の戦時体制を経験した後、物価統制令や傾斜生産方式、外貨準備に伴う割当制など、通産省や大蔵省が主導する護送船団方式により、製造業を軸に高度経済成長を果たした。1968年、国民総生産(GNP)ベースでアメリカ合衆国に次いで世界第2位の規模の資本主義国となった。他の資本主義諸国と比較して失業率も低く、「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。1974年のオイルショックを機に安定成長期に入り、自動車、電化製品、コンピュータなどの軽薄短小産業(ハイテク産業)が急成長する産業構造の転換が進んだ。円高が進む中、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退し、自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は、円高の波を乗り切り、基幹産業として世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、製造業では生産拠点が海外に流出する空洞化が進行している。1990年代前半にバブル景気が崩壊したことによる不況で、「失われた10年」と呼ばれる長期不況に苦しんだ。日本の経済成長率は、高度成長期はもちろん、安定成長期にも欧米を上回っていたが、1990年代以降は欧米や他の東アジア諸国を大幅に下回っている(1991年から2018年までの日本の平均経済成長率は1.0%)。日本は継続的にアメリカ国債を購入し、2021年8月時点で1兆3198億ドル分を保有し世界第1位の保有量となっている[656]。世界貿易機関(WTO)によると、2020年から新型コロナウイルスの感染拡大の影響で国際貿易が干上がり、さらに2022年には感染拡大は収束に向かっているものの、ウクライナ侵攻などを発端とする急激な円安が進行し、慢性的な貿易赤字を抱え込んでしまうこととなり、1930年代の世界恐慌のような深刻な崩壊につながる可能性があるという[657]。日本を含む多くの国は、すでに持続不可能なほどの高額の債務を抱えている[657]。
失業率は世界恐慌以来の水準に達し、これに対して日本は企業の中国からの撤退を支援するためにお金を払うことになる。パンデミックによってサプライチェーンが混乱し続ける中、日本の景気刺激策では、企業が製造拠点を国内または他国に移すのを支援するために22億ドルを準備した[657]。
- 所得
- 高度経済成長を遂げた日本では、「国民総中流」と呼ばれる貧困層が存在しないかのような意識が浸透していたが、近年、貧困層の存在が広く知られ、貧富の差が拡大しているという意識が広まった。経済協力開発機構(OECD)の統計によれば、2015年から2018年の貧困率は、OECD加盟国(37か国のうち、貧困率を統計する35か国)の内の第10位、15.7%である[658]。この原因としては、高齢化社会による年金生活者や賃金の低い非正規雇用の増加が挙げられる。
- 雇用
- 戦後の日本企業では1980年代までは長期継続雇用が主流だったので、社会構造の変化による衰退産業・衰退企業や、経営破たん企業による、解雇や人員削減以外には、失業が社会問題化することは例外であり、経済成長率が高く、成長産業・成長企業による求人が豊富だったので、失業者も再就職による職業や生活の立て直しは困難ではなかった。1990年代以後のグローバル化の進行、GDPのゼロ成長、デフレ、非正規雇用の増大により、不安定雇用、低所得、貧富の格差の拡大、失業、再就職の困難などが社会問題化した。また、2008年以降の世界金融危機によって完全失業率は戦後最悪水準の5.0%にまで悪化していた。
- アベノミクス以降は働き方改革が進められ、失業率は急速に改善しOECD最小となり[660]、労働参加率も過去最高レベルに上昇し、完全雇用が達成された[661]。不本意非正規雇用労働も減少傾向にある[662]。
- 日本の労働者には労働基本権が憲法上認められている。ただし、公務員は一部留保されているケースがある。労働基本権を行使するために労働組合が様々な職場や地域で組織されている。また、専門職に従事するものは職能団体を結成している。
- 債務
- 1990年代以降における財政政策により、国債は1000兆円を超える。国庫短期証券を合わせると約1100兆円である。両方を合わせた海外債権者の割合は12.7%である[663]。
- 政府
- OECD調査によれば、日本は人口に占める公務員の比率はOECD中で最小であり(2019年)、経済に占める公営企業の規模も小さい[664]。なお、GDPあたりの租税負担率においては、日本は28.6%であり、OECD諸国平均以下である(2011年)[659]。
- 物価
- 各国のビッグマックの価格で決まるビッグマック指数によると、2000年から2022年までの22年間、日本の物価は米国よりもますます比較的安くなっている[665][666]。NUMBEOの分析によると、日本の2022年半ばの物価は、ノルウェーやスイスなどの国だけでなく、カナダ、オーストラリア、アイルランドなどの先進国より安いことが判明した[666]。日本はより安い国になりつつある[665]。
- 特に2022年から、経済成長やウクライナ侵攻が発端となった物価高に対する米国の度重なる利上げ政策の影響により、ドル高が急激に進行し、穀物や原油、鉄鉱石などの原材料価格が上昇し、加工製品の値上げにより、インフレが懸念される状況下にある[667]。
農林水産業
- 農業
- 他国と比較して生産量が多い農産物は、生糸、キャベツ、イネ(米)、サツマイモ、タロイモ(主にサトイモ)、茶、ホップなどである。
- 林業
- 1970年以降の木材の輸入自由化により競争力を喪失し、一部のブランド木材の産地を除き、既に壊滅状態に追い込まれている。
- 水産業・漁業
- 漁獲高は、2020年時点で417万5000トンである[669]。漁獲量制限などの措置は行っているが漁師の反発から徹底しておらず乱獲[670]の結果漁獲枠オーバー、漁業資源の枯渇が相次いでいる[671][672][673][674]。西太平洋など公海を対象とした日本主導の漁獲量制限には当事者が守っていない、日本の割当の割合が多い[注 52][675]と批判されている[676]。
- 貿易(輸入・輸出)
- 食料自給率は、60%を世界各地からの輸入に頼るため、約40%と低い。近年、食の安全への関心の高まりから国産ブランドの需要が回復し、一部の農産物は、高級食材として輸出される。また、中国での魚介類を消費する習慣の広がりにより、水産物の輸出が急増している[677][678]。
- 従事者
- 高齢化が進み、将来の人材の育成が課題とされている[679]。
鉱工業
- 鉱業
- 地下資源は、全体としての産出量が概して少ないものの、埋蔵される鉱物の種類が非常に豊富で、俗に「鉱物の博物館」[680]と呼ばれる。鉱業の中心を占めるのは、世界第5位(2001年〈平成13年〉)の320万トンを産出する硫黄、そして、世界第2位(2005年〈平成17年〉)の6500トンを産出するヨウ素である。その他、産出量では、天然ガスの101千兆ジュールや石炭の302万トンが目立つ。少量ながら、原油をも産出する(約37万キロリットル・2001年時点)。金属資源は、亜鉛の4万3000トンを筆頭に、鉛、銅を産出する。この3金属は、いずれも非鉄金属として非常に重要である。しかし、いずれも国内消費量の4%、6.8%、0.02%しか賄えない。かつて大量に産出していた金や銀も採掘されるが、現在いずれも世界的なシェアが0.5%以下(金8.6トン・銀81トン)である。国内需要を賄うだけの産出量がある地下資源は、石灰岩(セメント原料)、珪石(水晶/ガラス・レンズ・光ファイバー・建築材料の原料)など、ごく僅かである。
- 現在、あまり資源として活用されていないが、メタンハイドレートが近海に多く眠ることが分かっている。これは、採掘の手法が未だ確立していないが、将来的に石油が枯渇した際における新エネルギーとして注目を浴びている[681][682]。近年では、都市鉱山という考え方も普及し、日本に蓄積される貴金属やレアメタルの埋蔵量が世界有数であるとの研究があり、廃棄される家電や電子機器などから、これらをリサイクルする事業活動も広がりを見せる。
- 工業
- 基幹産業であり、特に素材・金属加工・造船・土木工学・機械工学・電気工学・電子工学などの製造業は、世界最高水準の技術を維持する。原油・ゴム・鉄鉱石などの原材料を輸入して自動車、電気製品、電子機器、電子部品、化学製品などの工業製品を輸出する加工貿易が特徴であるが、近年、大韓民国や中華民国からの電子部品や電子機器などの半製品の輸入も増大し、輸出品、輸入品、共に電子機器が最大である。
- トヨタ自動車や日産自動車、本田技研工業などを筆頭に世界有数の自動車産業を擁し、世界第3位の新車販売、世界第3位の保有台数を記録する[683]。
- →「日本車」も参照
- 一方、航空宇宙産業(航空宇宙工学)・医薬品化学・バイオテクノロジー・情報技術などの新しい産業の分野においては、最高水準と言えず、また、全体としての製造業は、中国や韓国、台湾などの新興国の成長に押され、1980年代をピークに収益率も下落を続ける。そのため、ナノテクノロジーや民生用のロボット工学、生物工学、金融工学、情報技術などに活路を見出そうとしている。
- 現在の日本工業の中核は上記のような重工業だが、1870年代以降に明治政府が進めた工業化政策の中心は繊維工業だった。それ自体も重要な輸出品だった生糸を利用した絹織物、次いで外国からの輸入綿花を利用した綿織物は日本の輸出を支えたが、1960年代以降は東南アジア諸国や中国での安価な大量生産に押されて構造不況に陥った。現在では国内市場の多くを輸入品に譲っているが、「アパレル産業」とも呼ばれるようになった同業界は高い付加価値がつく伝統工芸品の生産などにも活路も見いだしている。
通商・金融
2019年時点の主要な輸出相手国・地域は、1位:アメリカ(19.8%)、2位:中国(19.1%)、3位:韓国(6.6%)、4位:台湾(6.1%)、5位:香港(4.8%)、6位:タイ(4.3%)、7位:ドイツ(2.9%)、8位:シンガポール(2.9%)、9位:ベトナム(2.3%)、10位:オーストラリア(2.1%)であり、アジアへの輸出だけで約55%を占める。
輸入相手国・地域は、1位:中国(21.3%)、2位:アメリカ(15.4%)、3位:オーストラリア(6.3%)、4位:韓国(4.1%)、5位:サウジアラビア(3.8%)、6位:台湾(3.7%)、7位:アラブ首長国連邦(3.6%)、8位:タイ(3.5%)、9位:ドイツ(3.5%)、10位:ベトナム(3.1%)であり、アジアだけで約49%を占める[684]。
貿易収支は、黒字(2018年に約3兆円)である。主要な輸出品は、金額ベースで自動車(15.6%)、半導体等電子部品(5.2%)、自動車の部品(4.7%)、鉄鋼(4.0%)、原動機(3.5%)、半導体製造装置(3.2%)、プラスチック(3.2%)、科学光学機器(2.8%)、有機化合物(2.5%)、電気回路等の機器(2.4%)の順である。主な輸入品は、原粗油(10.1%)、LNG(5.5%)、衣類及び同付属品(4.1%)、医薬品(3.9%)、通信機(3.6%)、半導体等電子部品(3.3%)、石炭(3.2%)、周辺機器を含む電算機器(2.8%)科学光学機器(2.3%)、非鉄金属(2.2%)である。
日本の産業は、発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行が経済に与える影響が大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかし、バブル景気の崩壊後は、直接金融や市場型間接金融への転換が進められている。金融機関では、バブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引き、1990年代初頭に金融危機を引き起こした。しかし、政府主導で大合併が行われて公的資金を注入しての強引な解決が図られ、その後は、超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。日本銀行は、2006年にゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準が低く推移し、個人消費の伸びも見られないなど、経済回復が明確でなく、2007年現在、それ以上の金利引き上げに至っていない。
また、継続的な経常黒字により、世界最大の債権国であり、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。2017年末時点で、日本の対外資産残高は1012兆4310億円、対外負債残高は683兆9840億円で、差し引き対外純資産残高は27年連続世界最大の328兆4470億円である[685]。
日本としては世界最大の黒字国であるが、日本政府は歳入の47.9%が公債で賄われている状況である(平成23年度一般会計予算)[686]。しかしながら、日本国債のほとんどは国内保有であり、日本国内の資産となっている。
インフラ
民営化企業
国営から民営となった代表の企業は以下の通り。
・日本電信電話
・JR
・日本郵政
電気・水道・ガス
水道は自治体が、電気とガスはそれぞれ電力会社、ガス会社が供給する。
マスメディア
教育・科学・技術
2022年1月31日、オーストラリア・シドニーに本部を置き、アメリカ・ニューヨーク、メキシコ・メキシコシティ、イギリス・オックスフォードに支部を持つ経済平和研究所は、世界各国の人的資本の水準を、研究開発従事者の割合、若年層のニート率の低さ、健康寿命などを考慮して評価し、日本は世界一の人的資本であるとお墨付きを与えられた[687][688]。
根拠法として教育基本法が制定されており、文部科学省が所管している。1990年時点の識字率は、99.8%(男99.9%、女99.7%)。
2017年時点で教育にかけるGDPの割合は3.2%であり世界で140番目である[690]。
教育段階
日本国籍を有する6歳から15歳までの9年間(学齢)を対象とする義務教育が実施される。一般には、小学校6年間、中学校3年間。特別支援学校については、小学部6年間、中学部3年間。中等教育学校については、前期課程3年間。なお、中学校を卒業した内の約96%が高等学校に進学する。
国民の25-64歳人口について、その53%がISCED-3レベル以上の中等教育を修了している[691]。なお第3期の教育の修了者については、タイプBが20%、タイプAが26%であった[691]。
生涯学習・教育訓練
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科学技術
世界的にも多くの分野で高水準のテクノロジーを有する。1990年代から2000年代前半にかけて、学術論文数(分数カウント)でアメリカに次ぐ世界2位、国際特許出願件数では世界一であった[692]。2000-15年におけるノーベル賞受賞数も、アメリカに次ぐものだった[693]。しかし、1990年代より経済成長の減速とともに研究開発費の増加は鈍化し、2000年代前半には論文数こそ増加しても、世界シェアは低下し始めた[694]。リーマンショック後の2009年から研究開発費が減少・横ばいになると[695]、研究力の低下が露わになる[696]。2017-19年の平均論文数は世界4位に後退した。より顕著なのが質を示す「Top10パーセント補正論文数」であり、世界10位まで下がっている[697][698]。特許出願件数でも2012年に中国に1位の座を明け渡すと、翌年にはアメリカにも抜かれ3位になった[699]。ただし、パテントファミリー数(2カ国以上への特許出願数)は10年以上1位を保っている(2014-16年データ)[698]。
長らく横ばいとなっている研究開発費だが、対GDP比率で見ると3.43%と世界3位の高水準にある(2016年、OECE基準は3.15%)[695]。ただし90-08年は1位であったので、減少がしている。研究開発費の流れにおいて、日本は官民で分かれており、多くの比率を占める企業は企業間で流れ、政府の負担は公的機関と大学に向かっている[695]。大学分は私大が多くを占める。主要他国においても企業が最多であるが、政府や外国の負担が一定量流れている。また、大学や国立研究開発法人に対する運営交付金削減と競争資金増加のセットによる「選択と集中」は失策だとする声も多い[700][701]。
人材の縮小は明らかな課題で、大学部門の研究者数が5年前から1.5%減、公的機関部門の研究者数がわずか2.5%増にとどまっている。博士号取得者についても2006年をピークに減少している[697]。この理由については、企業研究者に占める博士号取得者の割合が各国と比較して低いことや、任期なしポストの減少・任期付ポストの増加による就労の難しさ[702]、さらに学術機関の法人化と運営費交付金削減により発生した非正規職員の雇止め問題[703]などが指摘される。
- 環境・エネルギーに関連する技術
- 世界的にも高水準の技術を有する。ディーゼルエンジンの特許の出願数は、世界第1位である[要出典]。原子力発電システムを独自開発する技術を持つ国のひとつ。世界的に最も高水準の二次電池技術を有し、ハイブリッドカーや高性能な携帯情報機器の基盤となっている。バイオ燃料や燃料電池、太陽光発電など新エネルギーの研究も盛んだが、普及面で言えば諸外国に立ち遅れている。
- 情報技術
- 日本企業は半導体デバイスの製造装置で高いシェアを有する。かつてはハードディスクドライブ (HDD)、フラッシュメモリや液晶ディスプレイの生産で栄華を極めたが韓国、台湾、中国が追い上げ凋落した[704][705]。
- 光ファイバーや結晶引上技術など素材に関する研究に厚みがあり、その基礎技術は、依然として優位である。ソフトウェア分野では、業務に関するシステムエンジニアや組み込みシステムの技術者の人数が特に多い。日本製ソフトウェアの世界的シェアは低く、オープンソースソフトウェアへの貢献も少ない。世界的に次の産業革命を引き起こすと期待されている人工知能技術に関しても、先進国の中では遅れを取っている現状がある。
- 原材料・ナノテクノロジー
- 特殊鋼、合成繊維、セラミックスなど幅広い分野で世界的にも高水準の技術を有している。特に複合材料を得意とし、自動車産業・造船・航空宇宙・防衛産業などを支える。
- 先端計測技術
- 磁力や近接場マイクロ波、中性子の利用技術、複合計測技術などは、高い水準にあるが、イオンやレーザー利用技術などは、低水準である。
- ライフサイエンス(生命科学)
- アメリカ合衆国、そしてヨーロッパ全体に次ぐ3番手の位置にある。幹細胞に関連する技術についても人工多能性幹細胞(iPS細胞)の技術で世界を先行するが、幹細胞に関連する技術の全体で言えば、特許の出願数の半分以上がアメリカ合衆国で、以下、EU、日本と続く。
- 宇宙開発
- 1970年に糸川英夫率いる東京大学宇宙航空研究所(現在の宇宙科学研究所の前身)が日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げ、日本はソ米仏に続き世界で4番目に衛星を自力で打ち上げた国となった。以来世界有数の衛星打ち上げ国であり、現在ではH-IIA・H-IIBロケットやM-Vロケットなどの純国産化に成功したロケットの打ち上げがされている。2013年夏にはM-Vロケットの後継機となる新型の固体ロケットイプシロンロケットの打ち上げられた。近年では2010年に小惑星探査機はやぶさが世界初となる月以外の天体からのサンプルリターンに成功し国内外から多くの注目を集めた。自国による有人宇宙飛行はまだ実現しておらず諸外国には立ち遅れている一方、毛利衛宇宙飛行士が1992年にスペースシャトルで宇宙に旅立って以来8名の宇宙飛行士が宇宙へ飛んでいる。国際宇宙ステーション計画には日本がアジアで唯一参加しており、独自の研究棟を保有している。宇宙ステーション補給機の開発・運用により宇宙ステーションへの物資運送の一翼を担っており、宇宙開発分野における国際貢献が進んでいる。
日本は、技術や科学において国際的に重要な位置を占めている。日本の研究者は、実証的な科学の創造に貢献してきた。特に、さまざまな産業の経済的パフォーマンスや知識の実用化は、技術者の創造的な仕事によって促進されてきた。2016年、日本はPCTに基づく全世界の全特許出願数で世界第2位となった[706]。
交通
古くから北太平洋および北東アジアの交通の要所として海運や航空において重要な位置を占め、世界的に有数の規模の海運会社や航空会社が存在し、各国を結ぶ。また、アジアにおいて最も早く鉄道を導入した国の一つであり、世界初の高速鉄道である新幹線を導入し、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度経済成長以降、モータリゼーションが進み、道路網・高速自動車専用道路網が発達している。2010年代以降、高度経済成長期に作られたインフラが老朽化するなど問題も起きている[707]。
- 鉄道
- 明治維新以降、1872年10月14日の新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現・桜木町駅)間の開通を皮切りに、国策として全国に鉄道網が急速に敷設され、日本国有鉄道(国鉄)や他の数多くの私鉄へと発展した。1942年には世界初の海底鉄道トンネルである関門鉄道トンネルが開通した。1970年代までに私鉄、国鉄ともに多くの路線が電化され、世界に例を見ない規模で分刻み・秒単位のスケジュールで運行され、その規模、技術、運営ノウハウ共に世界最高水準と言われる。
- 1964年に日本国有鉄道(現在のJR)によって導入された新幹線は、都市間を結ぶ世界初の高速鉄道として空路に並ぶ地位を築いた[708]。
- 戦後に東海道本線の輸送がひっ迫した事が東海道新幹線計画の契機となった[709]。新幹線は秒単位という世界に類を見ない定時性で運行され、2016年度は年間13万本が運行して、1列車あたりの平均遅延時間は24秒だった。これは、地震や豪雨、大雪などの自然災害による遅延も含めたもので、平常時は秒単位での定時運行が実現されている[710][711]。在来線と規格が異なるので全国を網羅はしていないが、北海道・北陸・九州の各地で整備が続く。
- 都市圏では、これら普通鉄道に地下鉄やモノレールなどが加わる。更に、近年の環境問題の意識から路面電車が見直され、富山県などでライトレールが導入されている。
- 2003年8月の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の開通によって全ての都道府県に広がり、2004年の時点での全国における総全長は、23,577kmである。
- その一方で2016年にはJR留萌本線の留萌駅 - 増毛駅間が廃線になるなど地方の鉄道が人口減少に伴い採算が取れなくなり、消滅し始めている[712]。
- 航空
- →「日本の航空機産業」も参照
- 戦前にはごく限られた利用しかなかった日本の航空・空運業は敗戦直後に占領軍が出した航空活動禁止指令により完全に機能を停止したが、独立を回復して航空活動も復活した1950年代以降、日本航空(JAL)が日本のフラッグ・キャリアとして国内外に路線を広げ、南極を除く全大陸へ就航し、現在もアジアのみならず世界でも有数の規模を誇る航空会社として知られていたが、2010年、会社更生法の適用を受けた。また、1980年代まで国内線のみを運航した全日本空輸 (ANA) は現在、アジア圏を中心に日本航空(JAL)と共に欧米へ国際線を運航する。
- 1990年代以降の規制緩和を受け、スカイマークや北海道国際航空(エア・ドゥ)、スカイネットアジア航空などが新規参入し、国内航空運賃の引き下げに寄与した。
- 歴代の国土開発計画が「高速交通サービス空白地帯の解消」を重要課題の一つに掲げたこともあり、地方を中心に空港インフラが充実し、国内に98もの空港を有する。東京国際空港(羽田空港)と北海道(札幌都市圏)の新千歳空港、東京と福岡空港を結ぶ2路線は年間800万人を輸送する世界屈指の大幹線に成長した。
- 羽田空港は2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した[713]。2018年3月、スカイトラックスは、世界の空港ランキングでは2017年の第2位から順位を落として第3位として選出したものの、世界で最も清潔な空港では第1位として選出した[714]。
- 日本最大の国際空港である成田国際空港は、1978年5月20日に"新東京国際空港"として開港。貿易総額日本第1位の港でもあり、国際航空運輸の重要拠点となっている[715]。
- 鹿児島・沖縄両県の南西諸島をはじめとした離島に整備された空港は輸送量は小さいが、住民の日常生活を支えている。一方、騒音問題や用地確保などによって都市部における空港インフラは整備途上で慢性的な容量不足であり、航空網充実の足かせとなっている。また、一部の地方空港では採算面の課題も浮上している。
- 世界有数の航空網を整備した空運業に対し、戦後の航空活動禁止令で解体された航空機製造はその国内需要を全く満たしていない。1964年に正式出荷を始めたYS-11は東京オリンピックでオリンピック聖火を輸送したが1973年に製造を中止し、2006年に民間航空路線から完全に撤退した。YS-11開発の中核だった三菱重工業は2015年に新たな国産旅客機のMitsubishi SpaceJetを初飛行させ、リージョナルジェットへの再参入を目指したが、2020年に開発態勢の大幅縮小が発表された[716]。一方、本田技研工業はアメリカの子会社工場でHondaJetの開発に成功し、2016年から日本国外での販売を開始。新規参入でありながら好調な販売実績を記録している[717]。
-
羽田空港国際線ターミナルの出発ロビー
- 道路
- 自動車は左側通行である。高度経済成長以降、自動車産業の保護を目的に、国内における陸運の主力をトラックにする政策が採用されたことなどから、全国的に道路・高速道路、大都市部では都市高速の整備が進められた。主な高速道路としては東北自動車道、東名高速道路、名神高速道路、山陽自動車道、中国自動車道、関門自動車道(関門橋)、九州自動車道などがあり、ヒトとモノの移動を支えるライフラインとして日本全国に張り巡らされている。しかし、近年、都市部を中心に慢性化した渋滞や通行料の高さ、駐車スペース確保の困難さ、環境問題への対策として、鉄道や航空機などの公共輸送、船舶輸送などが見直されている。また、高速道路の一部はアジアハイウェイ1号線(AH1)に指定されている。
- 2016年4月時点での舗装された道路の全長は、1,278,183.5 km である。
- 海運
- →「海運 § 日本の海運会社」、および「造船 § 日本の造船史」も参照
- 四方を海に囲まれ、日本には欠かせない運送手段であり、沿岸部に工業地域・工業地帯や人口が集中する理由でもある。2020年現在、日本には994の港湾があり、中でも重要度の高い港湾は国際戦略港湾(5港)国際拠点港湾(18港)に指定されている[719]。また漁港は2790あり、中でも漁業の中心地かつ漁業の振興に欠かすことの出来ない漁港13港は特定第3種漁港に指定されている[720]。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が19世紀の後半から各国との間に貨物船や旅客船を運航してきた。現在、中東や東南アジアから石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国へ電化製品や自動車などが輸出される。さらに、大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航される。また、造船分野においても、その技術力の高さから世界有数の規模を保つ。
文化
日本は東アジアに位置しており、現在の中国や朝鮮半島など近隣の地域から様々な文化的要素を取り入れてきた。一方で海洋によって大陸から隔てられた島国であることや、遣唐使の停止や鎖国なども伴い、独自の文化も発展させてきた。現在では情報通信の発達に伴い、世界規模で様々な文化の影響を受けつつ、日本独自の文化の発信も行われている[721][722][723]。
被服
日本では伝統的な被服は和服であったが、現在では洋服が広く普及している。その中でもファストファッションが大きなシェアを獲得している。三宅一生や川久保玲など世界的に展開するファッションデザイナーも居る。
食
日本の国土は大部分が温帯に属し、南北に長く、海洋に囲まれているため、四季がはっきりしており降水量も多い。そのため、魚介類や海藻、野菜や山菜、果物など様々な食品が自然の恵みとして得られる。また、稲作の導入、仏教や鉄砲の伝来、鎖国や文明開化、第二次世界大戦などを経て、様々な異なる食文化の影響を取捨選択した独自の食文化が成り立っている。日本の伝統的な食文化である和食はユネスコの無形文化遺産に登録された。現在の日本では貿易や情報通信などの発展に伴い、伝統的な日本の食文化だけでなく、世界中の食品や料理、風習などを伴う食文化に接することができる[724][725][726][727][728]。
食品
四季があり降水量が多いため、米を含む穀物、野菜や山菜などの種類が豊富である。また暖流と寒流が交わる海洋に囲まれているため、魚介類や海藻などの種類も豊富である。これらの食品は、多く採れかつ味の良くなる旬を大事にする形で利用されてきた。一方で、ウシやニワトリなどの肉食が禁止されたことがあることなどの影響から、食肉や乳製品はあまり普及しなかった。現在では食肉や乳製品も一般的に利用されており、また小麦や大豆など輸入が多い食品もある[724][725][727][729]。食料自給率は高くない。
料理
一汁三菜など飯を中心としたメニュー、献立が多い。また様々な食品と豊富な水を利用した「だし」によるうま味も特徴として挙げられる[724][725][727]。 日本料理の代表として刺身、天ぷら、蕎麦、寿司、すき焼き、和菓子などがある。
栄養
伝統的な食事は、比較的に栄養バランスに優れ低カロリーという特徴がある。一方で昔では凶作や戦争、貧困などによる栄養失調や生活習慣病もあった[727][730][731]。
作法
食事の際の挨拶や、食器を手に持つことが許され、音をたてて食事をすることに寛容など、独自の作法がある[726][727]。
道具
食品の貯蔵や調理に用いた縄文土器や、食器に用いる漆器や陶磁器、調理に用いる包丁など、様々な道具が用いられてきた[725][732]。
建築
日本は山林が多く、木造建築が伝統的に用いられてきた。現在では都市を中心として高層建築物も立ち並ぶ。ゼネコンなど世界的に展開する企業もある。
宗教
イングルハート・ウェルスツェルの文化地図によると、日本社会は世界で最も無宗教的、世俗的、合理的な価値観を持っており、伝統的価値観とは逆の嗜好を持っていることがわかる。世界の他の国と比べても、宗教、伝統的な家族観、権威は世界で最も重要視されていない。離婚、中絶、安楽死は世界の他の地域と比較して比較的容認されていると考えられる。世俗的な合理性と自己表現が同様に重視されている社会は以下の通りである:スウェーデン、デンマーク、フィンランド、オランダ、ドイツ、ルクセンブルク、ノルウェー、アイスランド、スイス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、ベルギー、チェコ、スロベニア、いくつかの英語圏の国[733]。
日本国民の多くは無宗教を自覚しているが、実際は年中行事や冠婚葬祭などで神道や仏教と深い関わりがあり、アニミズム的な考え方も広く浸透している[734]。
和算
日本の数学の文化として和算がある。
文学
日本の文学作品の代表として太宰治の人間失格や夏目漱石のこゝろなどがある。
古典の代表として竹取物語がある。
芸術・美術
日本の伝統的な美術作品の一つとして床の間に飾る掛軸や浮世絵がある。
また、伝統作品として工芸もある。
音楽
日本の音楽の代表として演歌やJ-POPなどがある。
伝統的な楽器として琴、篠笛、和太鼓などがある。
鍵盤楽器の代表であるピアノは1823年にドイツ人医師により初めて日本へ持ち込まれたといわれている。
メディア
漫画・アニメ
日本の漫画やアニメは海外からの評価も高く、子供から大人まで楽しめる娯楽の一つである。一般的には漫画の原作が人気になりアニメ化され、さらに人気に応じて映画化されるのが慣例である。
テレビゲーム
日本の企業である任天堂から1983年にファミリーコンピュータが販売され、テレビゲーム人気の発端の一つとなった。特に2001年にXboxが発売されるまでは日本勢が家庭用ゲーム機市場をほぼ独占していた。 現代でもゲーム機は開発・販売されているがパソコンやスマホから行うオンラインゲームの人気もある。
映画
コンテンツ
日本のテレビ、ラジオの放送または動画配信などによるコンテンツとしてドラマ、お笑い、バラエティ番組、ミュージック・ビデオなど豊富に提供されている。
インターネット
日本においてもインターネットは重要な情報メディアであり、ネット社会の文化を作った。
娯楽
祭
各地域では夏祭り、雪祭りなど季節の祭りや花火大会が開催されている。
伝統
日本の伝統として代表的なものは茶道、華道、俳句、書道、和歌、短歌などがある。
芸能
遊具・子供の遊び
伝統的な遊具や子供の遊びとしてめんこ、お手玉、ベーゴマ、竹馬、独楽、あやとり、凧、かるたなどがある。
刀・侍・武士
忍者
和室
行事・風習
春には桜の花をめでる花見や秋には月を鑑賞する月見などがある。
年越しには年越し蕎麦を、正月には雑煮や御節料理などを食べる風習がある。
涼と暖
夏には伝統的に風鈴を飾り、その涼しげな音色や打ち水をすることで暑さを和らげていた。
冬には日本の暖房器具として炬燵や火鉢や囲炉裏があり、火鉢や囲炉裏ではお餅や魚などを焼くことでも重宝された。
国宝・文化財
世界遺産
祝日
社会
福祉
日本の社会的支出は高齢者に集中している[735]。少子高齢化による医療費負担の増大に伴い、財政の逼迫した健康保険組合が増え、組合管掌健保や協会けんぽの保険料率や国庫負担率の引き上げが議論される[736]。現在、毎年のように国民年金保険料や厚生年金の社会保険負担率が引き上げられて現役世代への負担が増し、公的年金の世代間格差が問題になっている。公的年金の実受給権者数は4,967万人であり、日本の人口の39.5%を占めている(令和2年度)[737]。
- 戦前
- 主に家族や地域社会における相互扶助によるものとされたが、軍人をはじめ公務員に特有の恩給制度があった。1942年に戦費の調達を目的に発足した労働者年金保険]が、日本の社会保障制度の始まりである。1944年に厚生年金保険法が制定されたのを契機に民間労働者の厚生年金も普及した。並行して民間企業における熟練労働者の長期雇用、年功賃金、企業年金、退職金といった、戦後の日本型福祉社会を担う企業福祉も普及した。
- 戦後
- 日本国憲法第25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、すなわち生存権の実現を目指した。政府は、「最低限度の生活を営む」ための児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年までの失業保険を継承)、障害者介護・自立支援、生活保護といった福祉サービスを提供しつつ、企業福祉を充実させる社会政策を採用した。その過程で被用者保険から外れた対象を救済するため、1958年に官庁や企業に組織化されない対象のために地域保険となる国民健康保険制度が発足し、1961年以降、ほぼ国民皆保険(ユニバーサルヘルスケア)が実現した。また、1959年に企業年金や職域年金から外れた対象のために国民年金も発足した。
- 近年から現在に至る課題
- 自営業、非正規雇用、無職を対象とした国民健康保険は2019年には保険料未納率が13.7%まで達している[738]。
保健
社会保険方式によるユニバーサルヘルスケアが達成されているが、GDP増加を上回るペースで医療費が増加している[736]。
- 平均余命
- 2017年度の平均寿命は、男性81.09歳、女性87.26歳である[740][741]。女性は世界で2番目男性は3番目の順位である[742]。健康寿命では、男性72.14歳、女性74.79歳[743]。
- 主な死因
- 終戦直後まで結核などの感染症が多かったが、平成30年現在では、一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に老衰と、生活習慣病を中心とする慢性疾患が主である[744]。
- 保健(健康)への支出
- GDPに占める比率が7.8%、政府が負担する比率が81.3%で、一人当たりのGDPが20,000ドル以上の国々の中における標準的な水準である[745]。公費負担率はOECD平均より1割ほど上回っている[746]。
- 急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、公的医療保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、一連の医療制度改革により、負担が増加する傾向にある。
- 医療供給体制
- 医療従事者の人数は、2016年統計では医師が人口1000人あたり2.5であり、一方で看護師は人口1000人あたり11.8であった[747]。
- 一方で病床数では供給過剰が指摘されており、人口あたりの病床数は世界1位でOECD平均の2倍以上、また患者の平均入院日数もOECD各国中で1位であった[746]。そのため社会的入院などの問題が指摘されている。
- 検疫など
- 近年、大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが後退し、麻疹の輸出国として非難されている。また、海外からの病原体の移入や海外旅行者が帰国した後の感染症・寄生虫症などの発症に対しての態勢にも危惧が抱かれている。
少子高齢化
高齢化率は2021年時点で29.0%に達し、世界で最も高い。2065年には65歳以上の高齢者が人口の約4割を占め、高齢者1人を1.3人で支える超高齢社会となる[748]。
- 少子化
- 明治以降の近代化の過程で乳児の死亡率の低下や国力の上昇によって人口の激増が起こった他、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により、1950年代までは若年層ほど多いピラミッド状の構成であった。しかし1970年代後半以降、工業化に伴い一人の女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)は人口置換水準の2.1を下回るようになり、2005年には史上最低の1.26を記録した。その後やや回復に転じたものの1.3〜1.4前後で推移する傾向は続いており、世界の中でも低い水準である。
- 高齢化
- 経済的に豊かになったことや医学・医療の向上により、平均寿命・平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、同時に、介護が必要な高齢者人口の増加にも至った。(育児と同様、)時間の不足や仕事との両立の困難さ、核家族化による祖父母の世代との別居や高齢者のみ(夫婦2人や1人)世帯の増加、地域社会における相互扶助の希薄化などが複合的な要因となり、伝統的に行われてきた家族による高齢者の介護が困難となったことから、2000年に介護保険が創設され、家族・行政・地域社会の協力による政策に転換した。
自殺
自殺は主要な死因の一つである。自殺率はOECDの中では第7位であり[749]、OECD平均と比べ未だ高い数値であるため明らかに要注意であるとOECDは勧告している[750][751]。世界保健機関 (WHO) の2010年統計によると、WHOに自殺統計を報告する104か国の中における自殺率の順位は高い方から第6位である(国の自殺率順リスト)。
自殺の原因については、宗教・死生観など日本人の様々な精神性が仮説として提示されるが、依然として解明されていない。政府は、先進国でも極めて高いこの自殺率を重要な問題と認識し、2006年に自殺対策基本法を制定したが、基本的な枠組みを規定するにとどまった[752]。OECDは精神保健政策の緊急の高度を要する課題を指摘している[751]。
日本の自殺者数は1998年に前年から8千人以上増え、年間3万人を超えた。その後も毎年3万人台の自殺者を記録する状態が続いたが、2012年に27,858人を記録して以降減少傾向に向かい、2019年には1978年の統計開始以来初めて2万人を割った[753]。
2021年の数値は2万1007人[754]。
平和
日本は、他者の人権の受容、情報の自由な流れ、良好なビジネス環境、資源の公正な配分、人的資本の充実、汚職の少なさ、よく機能する政府、近隣諸国との良好な関係によって決まる2022年の「積極的平和指数」で世界第12位となっている。特に、「人的資本の充実」では、日本は世界第1位である[687][755]。日本の「積極的平和度指数」は2009年の世界18位から12位に急上昇している[688]。
現代社会と生活
食事と生活
現代の生活において食事の方法や形態は多様化しており、家庭での調理やコンビニまたはスーパーで弁当を購入したり外食などの選択肢がある。
昔ながらの出前や宅配サービスも充実している。よく利用される代表の外食店や品目としてファーストフードのマクドナルドやラーメン、宅配ピザ、焼肉、ファミレス、回転寿司などがある。
主に駅前には立ち食いそば・うどん店があり忙しい現代人には重宝される。
近年では多品目を扱う居酒屋チェーン店もあり、リーズナブルにお酒を楽しむことができる。
通勤・通学
通勤および通学は徒歩、自転車、電車、自家用車など様々な形態がある。 通勤は満員電車が社会問題になったことがある。近年は在宅ワークという選択肢もある。
買い物
現代の買い物の選択肢として専門店、デパート、スーパー、コンビニ、ネットショッピングなどがある。
洗濯
自宅の洗濯機を使う他にコインランドリーやクリーニングサービスを利用することがある。
アミューズメント
アミューズメント施設としてカラオケ、ボウリング、ゲームセンター、映画館などがある。
イベント
コンサートやスポーツ観戦などのイベントも現代人の楽しみの一つである。
観光とテーマパーク
文化的な観光名所や東京ディズニーリゾートなどのテーマパークも観光地として人気がある。
旅行先として温泉も好まれている。
情報収集
現代では情報収集の手段として新聞、ラジオ、テレビ、パソコン、スマートフォンなどがある。パソコンとスマホ以外にもインターネットにつながる媒体を利用して情報収集を行う。 近年ではWi-Fiが使えるスポットも有効活用されている。
公共サービス
現代社会と国民性
中流意識
日本国民の多くは自己の生活レベルが中流であり、特段下でも上でもなく平均ないしは中の中あたりという意識を持っているというデータがある。
スポーツ
日本はスポーツが盛んであり、古来から続く相撲は日本の国技と言われている[756]。日本伝統の武道として柔道、剣道、弓道、居合道などがあり世界的にも有名である。
野球は大衆の娯楽の一つとなっており、日本のみならずメジャーリーグベースボール(MLB)で活躍する日本人選手もいる。近年はサッカーも盛り上がりを見せており、1993年にJリーグが開始された他、2002年のワールドカップは韓国と共同開催された。さらに直近に行われた2018年のワールドカップでもベスト16入りを果たしている[757]。また、バスケットボールも盛んであり2016年にはBリーグが開始された。NBAでプレーする日本人選手もおり、2019年のドラフトでは八村塁が1巡目で指名された。
日本でのオリンピック開催回数『4回[注 53]』は、アメリカの8回、フランスの5回に次いで3番目に多い。1964年の東京オリンピックは日本初のオリンピックであると同時にアジア初のオリンピック、さらには有色人種国家初のオリンピック開催となった[758]。その後、1972年の札幌冬季オリンピック、1998年の長野冬季オリンピックが開催されており、2021年には東京で2度目のオリンピックとパラリンピックが開催された。
観戦
スポーツ観戦は球技では野球やサッカー、バスケットボールなどが人気であり、他に総合格闘技やボクシングなどの格闘技も盛んに見られている。また、プロのみならず学生の部活動(高校野球や高校サッカーなど)の観戦も人気が高い。
代表チーム
主な日本代表チームは以下の通り
・野球日本代表(侍ジャパン)
・サッカー日本代表(サムライブルー)
・ラグビー日本代表(ブレイブ・ブロッサムズ)
eスポーツ
国民
民族・国籍
大和民族の成立
日本列島の住民のうち、殆どを構成しているのが大和民族である。大和民族の起源は、縄文時代以前から定住していた「縄文人」と、ユーラシア大陸から弥生時代以降に複数回にわたって移住してきた「弥生人」が融合して形成されたものである。移住してきた経路は時代によって異なる。
最初に主流になったのは、沖縄・南九州・北東北地方に多い縄文人である[761]。この時期、日本海経路で小規模ながら交易がおこなわれていたことが出土品から証明されている。その後、稲作文化とともに大陸からやってきた人々が、北九州から中部地方に多い弥生人の基盤となった。日本列島に移住してきた経路や、規模、時期の詳細については、定かでない部分が多く、諸説ある。
縄文人と弥生人では身体的特徴に違いがある。縄文人は古モンゴロイドに属し、目が丸く大きい、彫りが深い、骨太で筋肉質、歯が短い、髪が癖毛、ヒゲと体毛が濃い、耳垢が湿っている、などの特徴を持つ場合が多い。弥生人は新モンゴロイドに属し、目が細く小さい、彫りが浅い、長身ですらっとした体格、歯が長い、髪が直毛、ヒゲと体毛が薄い、耳垢が乾いている、などの特徴を持つ場合が多い。
島国という地理的な特性から、その後も日本には小規模な移住(漂着や密航など)が何度も繰り返された。また、近代までの日本は鎖国時代を除いて移民・難民の受け入れには比較的寛容でもあった[762]。16世紀中盤から17世紀中盤にかけては衰亡する明から逃れてきた難民を多数受け入れ、開国後の19世紀後半以降にも清、李氏朝鮮、ロシア帝国[763]からの移民・難民を大量に受け入れていった[762]。
こうして縄文人、弥生人(大陸人)、オーストロネシア人(ポリネシア人、マレー人など)といった複数の民族が互いに混血し、文化を取り込みながら発展したと推測される。それらの中から最大勢力として発展してきたのが自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」あるいは「日本民族」である。
大和民族と先住・少数民族
古代の日本は多民族国家であったと考えられている[764]。国の史書からも、大和民族のほかに、南九州には熊襲(隼人)、中九州には肥人、近畿地方と関東地方には国栖、関東地方と東北地方には蝦夷などがいた事が窺える。しかしこれらの部族・民族が具体的にどの人種・民族集団に属するかは緒論あり確定的定説はない[764]。
古墳時代、本州・四国・北部九州の各地方のうち、瀬戸内海の周辺地域を主とする人々は、大和盆地を本拠地とするヤマト王権のもとに統一され、倭人(和人)としての文化を形成する。飛鳥時代の律令国家、日本の国号と大和朝廷の確立に伴い、和人の文化的一体性がより糾合された。その後、朝廷の支配下に入るのが遅れた北東北(蝦夷)、南九州(熊襲・隼人)の人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。
江戸時代には、薩摩藩による琉球王国への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道を含む日本列島と南西諸島の全域が和人の勢力圏に置かれた。これらの辺境地域は、弥生時代以降連綿として、本土との間で物的・人的交流が盛んに維持されてきた一方で、政治的枠組みとしては、「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部が日本に編入されたのは実に明治2年(1869年)の事であり、それまでは南部(渡島)の和人とそれ以外にアイヌ民族が広く居住する地であった所、明治以降の開拓で急速に和人との同化が進んだ。また、琉球侵攻により保護国的立場に置かれながらも、独自の国家の体裁を保ち続けていた琉球王国のかつての版図(南西諸島のうち奄美群島、沖縄諸島および先島諸島)は、1879年(明治12年)の琉球処分により名実ともに日本に編入または併合。奄美群島は鹿児島県に編入、沖縄・先島諸島には沖縄県が設置された。これ以降、急速に日本の近代化政策に組み込まれていくことになる。
現在、アイヌ語を第一母語とする人々は極めて少ないが、アイヌ文化振興法が制定されてアイヌ文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタやニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。
また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイからの移民団が史上初めて定住し、欧米系島民(ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人)による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人社会に溶け込んでいった。
なお、アイヌ民族は、和人との交流の中で、中世から近世にかけて成立したとされるが、成立の詳細な過程については不明な点が多い(詳細はアイヌの項目を参照のこと)。
外国人・移民
2021年末時点で276万人の外国人がおり[335]、日本在住人口の約2.2%を占めている。2021年(令和3年)時点で中国籍、ベトナム国籍、韓国籍、フィリピン国籍、ブラジル国籍[335]の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。外国籍の増加の背景には外国人労働者の拡大がある。1990年の入管法改正でブラジルなど日系人向けの資格である定住者の新設、1993年(平成5年)の技能実習制度開始と外国人労働者を受け入れる政策を取っている。
全人口の97.7%が日本民族とされるが、日本政府は日本国籍を有する者を日本民族としてみなしているため、アメリカ合衆国やイギリス、カナダなど移民の多い国で一般的に調査される、民族・人種調査は国勢調査では行われていない。そのため、アイヌ人などの少数民族、渡来人や亡命ロシア人の子孫、外国からの帰化者や国際結婚の配偶者、さらにはその子どもなども97.7%の日本民族という項目に含まれている。これらの政策が単一民族国家的な価値観に基づいた同化主義であるという見方もある。
中国籍の半分は永住者及び定住者であり定住者は中国残留孤児の家族である。
韓国籍、朝鮮籍、および台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く韓国籍、朝鮮籍に関しては、戦後になってから朝鮮戦争や貧困・圧政から逃れて渡来してきた難民[765]が一部含まれている。
1895年に台湾を、1910年に朝鮮半島を併合後、第二次世界大戦敗戦まで日本の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない[766]。明治の日本は西欧人の居住や移動、営業に関しては領事裁判権を認める代わりとして居留地制による制限を設けていたが、朝鮮人や中国人については制限がなく、日本国内の各地での雑居が認められていた。1899年に西欧各国との領事裁判権の撤廃が成り、居留地制度は一律に廃止され(内地雑居)たが、中国(清・中華民国:支那)人を含む外国人労働者には居住・就労の制限が設けられた(勅令第352号[767])。これはおもに華人(支那人)を規制する目的のもので朝鮮人には実質的に適用されなかったとされる[768]。台湾人もまた併合後は帝国臣民であり居住に制限はなかったが、台湾・朝鮮とも戸籍(台湾戸籍、朝鮮戸籍)の離脱は認められず、あくまで内地での寄留であった。台湾人の移住は戦前は少なく[注 56]、日本在住の台湾人は総じて学歴があり、華人(支那人)や朝鮮人とは異なり、オランダや明遺臣、清朝の植民地支配の歴史的経験があり、民族的な屈託がなく日本語(や外国語)に通暁しよく働くので厚遇された。華人(支那人)は三刀(料理人・理髪師・仕立屋)が、朝鮮人は労働者が中心で、移住規模も多かった[770][771]。
朝鮮人労働者の日本内地への移動は日韓併合の1910年に2600人であった移動者が1923年には13万人あまりと増加傾向にあり、1919年4月の「朝鮮人の旅行取締に関する件」(警務総覧部第3号)により朝鮮人の日本渡航への直接規制(旅行証明書制度)に転換し、移動制限を口実に実質的な居住規制に方針が転換された[注 57]。朝鮮半島領域では実施されていなかった参政権も普通選挙法(1925年)施行後の内地では認められており、希望を持ち移動し定住した者も多かったが生活は決して恵まれたものではなかった[注 58]。大戦中には軍人・軍属、あるいは就業目的として渡海した。また徴用労働者として800名以上が渡海した。
終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まった者もいる。また、戦後相当の数の朝鮮人が祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件、保導連盟事件など)を逃れて日本に渡った。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって彼らは日本国籍を喪失し朝鮮籍となったが、そのまま特別永住者として日本に在住し続けた。帰化して日本国籍を取得する者も多く[772]、在日コリアンは減少を続けている。近年では朝鮮籍から韓国籍に登録を変更する者が多数となっている。
アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑・印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。1990年代以降、ブラジルなどの日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの技能実習生といった外国人労働者の人権問題などが発生している。
言語
日本には公用語を明示する法令が存在しない[773][注 59]が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われている。識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などが使用された例もある[注 60]が、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である[注 61]。世界中の多くの言語が、他の言語からの派生を繰り返して生み出されてきたが、日本語に関しては派生元の言語が明らかになっていない孤立した言語とされるか、琉球語を別言語とみなし日本語とともに日琉語族を成すとされる。
近代以前の日本語は、文語と口語との乖離が大きかった。口語では京都方言(江戸時代中期以前)および江戸方言(江戸時代後期以降)が中央語と意識され広く通用したが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文章語の確立が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語・共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされた。近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになった[774]。
日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQの指導などもあって、政府は漢字の全廃を決定し、全廃まで当面使用できる漢字をまとめた「当用漢字表」を告示して漢字の使用を制限した。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。近年、コンピュータの普及や文字コードの拡張などに伴い、漢字の使用に関する制限は緩められる傾向にある。
日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語・ウィルタ語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球列島の伝統的な言葉は本土方言と違いが大きく、本土方言とともに日本語の二大方言の一つである琉球方言か、日本語とは系統の同じ姉妹語(「琉球語」)か、その位置づけには議論がある。琉球方言(「琉球語」)内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある[775][776]。
その他の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除き、日本人同士の意思疎通にはほとんど用いられず、高等教育の教授言語としても常用されない。日本人にとって最も身近な外国語は国際語のひとつである英語であり、実務上での便益や諸外国人への配慮から、国際取引や学術研究の場で使用が奨励されることがある。義務教育の中学校の必修科目である外国語科では英語を扱うことが圧倒的に多く、それ以降の高等教育機関でも多くの日本人が英語を学ぶ。とはいえ、多くの日本人にとって、日本語から遠い系統の言語であるため習得が難しく、また日常生活や職務上での必要性が低いことなどから、帰国子女など特殊な例を除き、英語に堪能な者は少ない。
大学で学ぶ第二外国語としては、主にドイツ語・フランス語が選択されてきたが、近年は中国の経済発展に伴って中国語の選択が増えた。朝鮮語(韓国語)は日本人にとって比較的習得が容易な言語であるが、韓国朝鮮系の住民を除いて学習者は多くなかった。近年、韓国の大衆文化が盛んに輸入されていることに伴い、学習者が増加傾向にある。ロシア語の学習者は多くないが、冷戦崩壊後、極東ロシアとの貿易が活発化しているため、北海道や日本海側の都市で外国語表記に取り入れられるなどしている。安全保障上の理由から学ばれている言語は、米軍との意思疎通を図るための英語と、仮想敵のロシア語・中国語・朝鮮語が主である(予備自衛官補の語学技能枠で一般公募もされている)。
外国籍の住民および帰化外国人、日本に定住する外国人が用いる主な言語には、在日韓国・朝鮮人の一部が用いる韓国語、在日朝鮮語、在日中国人・在日台湾人を中心に約80万人が用いる中国語・中華民国国語・台湾語、在日ブラジル人を中心に約20万人が用いるポルトガル語、フィリピン人・欧米人を中心に約25万人が用いる英語などがある。
人口
日本は1950年以降急速な少子化、高齢化が進行している。そして、1970年に高齢化社会(65歳以上の人口割合が7%から14%)に、1994年に高齢社会(65歳以上の人口割合が14%から21%)になり、2007年には超高齢社会(65歳以上の人口割合が21%以上)となった。2015年の国勢調査では前回と比べ約93万3千人減少しており統計開始以来初めて人口が減少した。
時点 | 日本人(日本国籍を持つ者)の数 | 外国人の数 | 総人口 |
---|---|---|---|
2020年1月1日 | 123,250,274 | 125,708,382 | |
2019年1月1日 | 123,900,068 | 126,166,948 | |
2018年1月1日 | 124,349,004 | 126,443,180 | |
2015年1月1日 | 125,319,299 | 127,094,745 |
年齢5歳階級別人口
2017年1月1日現在推計人口
総計 [単位 万人]
年齢5歳階級別人口
2017年1月1日現在推計人口
男女別 [単位 万人]
- データ出典:平成29年1月報 (平成28年8月確定値,平成29年1月概算値)
(総務省統計局)
地域別人口分布
画像外部リンク | |
---|---|
Views of the World による人口を加味した日本のカルトグラム | |
Japan Gridded Population Cartogram 人口地図 地形 | |
Japan Gridded Population 人口地図 |
日本の各地方の人口は次の通りである。2020年10月1日に実施された国勢調査による[779]。
- 北海道地方:522万4614人
- 東北地方:861万1195人
- 北関東地方:673万9265人
- 南関東地方:3691万4176人
- 北陸地方:513万5475人
- 関西地方:2054万1441人
- 中国地方:725万4726人
- 四国地方:369万6171人
- 九州・沖縄地方:1424万6438人
福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県
100万人規模以上の人口を有する大都市が各地方に点在しており、国民の多くはこれらの大都市、または、その周辺部で生活している。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家として世界有数の高さを示すが、沿岸の平野部に都市部が集中していて、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に東京を中心とした南関東の人口は、日本の人口の約4分の1を超え、世界最大の都市圏を構成する。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。しかし近年では、特に首都圏では、東京都心部の土地の値段が下落し都心回帰の現象も見られる。
2020年10月1日に行われた国勢調査の人口等基本集計(確定値)の結果、人口総数が500万人を超過する上位9都道府県は次の通りである[780]。
- 東京都:1404万7594人(6402.6人/km2)
- 神奈川県:923万7337人(3823.2人/km2)
- 大阪府:883万7685人(4638.4人/km2)
- 愛知県:754万2415人(1458.0人/km2)
- 埼玉県:734万4765人(1934.0人/km2)
- 千葉県:628万4480人(1218.5人/km2)
- 兵庫県:546万5002人(650.5人/km2)
- 北海道:522万4614人(66.6人/km2)
- 福岡県:513万5214人(1029.8人/km2)
少子化のため、2040年には全国市区町村のうち約半数(896自治体=消滅可能性都市)の存続が難しくなり、かつ523の自治体は人口1万人以下になるとの推定がなされている(限界集落)[781]。
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
脚注
注釈
- ^ 詳細は日本#言語および日本語#分布を参照。
- ^ a b 日本の首都を東京都と定める法令は現存しない。ただし、東京都は広く国民に首都と認知されているとする政府見解がある。詳細は日本の首都を参照。
- ^ なお、東京23区は特別区の集合体であり、ひとつの地方公共団体ではない。
- ^ 面積順位については、国の面積順リストの項を参照。
- ^ #建国をめぐる議論の節も参照。
- ^ 北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。
- ^ 現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。ウポポイ(民族共生象徴空間)について
- ^ 『国土交通省』による区分け 6,852島(本土 5島 ・ 離島 6,847島)[7]。
- ^ 2017年のローランド・ベルガーによる調査では、マンガ、ゲームでは世界で存在感を示しているが、アニメ、キャラクターにおいては米国の後塵を拝し、実写映画/放送、音楽に関しては引き続き存在感が薄いという結果が出ている。こうした結果から、日本のコンテンツは世界的シェアの大部分を占める程注目されているわけではなく、世界の中でも一部の消費者のみに好まれている事に注意する必要がある。“平成29年度 知的財産権ワーキング・グループ等侵害対策強化事業におけるコンテンツ分野の海外市場規模調査”. www.meti.go.jp. 2022年6月1日閲覧。また、現地の文化に合わせて日本では有り得ないような改変が行われ、日本文化を正しく理解していないか、日本由来であることを知らない消費者も多い。
- ^ 当初の開催予定は2020年。
- ^ 外務省によると、1920年の国際交通制度改良会議で、パスポートの表紙に国章を記すように採択されたが、当時の日本に法定の国章がなかったため、1926年からデザイン化した菊の紋章が採用されたという[32]。
- ^ 万葉集で枕詞「日の本の」は「大和(やまと)」にかかる枕詞。日の本の大和の国の鎮(しずめ)ともいます神かも(goo辞書「ひのもと-の」)。日の出る本の意味から日本の異名。「ひのもとの末の世に生まれ給ひつらむ(源氏物語)」(goo辞書「ひのもと」)。また「日の本の国」は日の本に同じ。「日の本の国に忍辱(にんにく)の父母あり(宇津保物語)」横浜市歌(森鴎外作詞)に「わが日の本は島國よ」の歌詞あり。
- ^ 「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。例外として「大元・大明・大清」があり、この3例のみ二文字で正式国名。
- ^ 日本国の公印である「国璽」では、明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。
- ^ ドイツ語やポーランド語など。両言語版のウィキペディアでも使用されている。
- ^ ロシア語のЯпонияでは「о」にアクセントがあるが、「Я」音はアクセントが無い場合に発音が「/ja/」から「/ji/」に変化する場合がある。ソビエト連邦時代に事実上の標準語として連邦全土で定着したモスクワ方言ではこの傾向が顕著で、綴りに忠実な前者「ヤポーニヤ」よりも後者「イポーニヤ」の発音になる(語尾変化による格の形を明確にするために後の「я」は「/ja/」のまま)。後者の場合、ポーランド語のラテン文字表記とロシア語のキリル文字表記との相互置換が完全に一致していても、双方の間に発音のずれが生じる。
- ^ 「Rìběn」表記は中国標準語(または北京語)の場合。なお、中国語のアルファベット表記にはさまざまな形式があり、この場合の「rì(日)」も形式によって「rih」「jih」などとも表記される(en:Bopomofo#Comparisonを参照)。つまり、この子音は「r」にも「j」にも似た音であり、特に巻き舌をしない地域(台湾南部など)では「j」や「z」に発音が近い。一方、第2音節の「b」は「p」の無気音で、いわゆる濁音の「b」とは異なるが、アルファベットにはそれに相当する文字がないため、「b」が用いられる。「ě」はシュワーだが、英語などの曖昧母音とは性格が異なる、1つの独立した母音(「エ」と「オ」の中間のような音)である。この「bě」に相当する日本語の文字がないため、ここでは便宜上、「ベ」としてある。ただしeの後にnが続いた鼻母音enは、日本語や英語のそれに近い発音になるため、「リ(ジ)ーベン」という転写も間違いではない。
- ^ ベトナムは、フランスの植民地になるまで漢字を使用していたときの名残。ベトナム語大辞典などで実際の発音を確認できる。
- ^ 1851年に発表された小説『白鯨』では海図を確認する場面で『Niphon』の表記が登場する。
- ^ 天武天皇は、飛鳥浄御原令が成立する以前の686年に没している。
- ^ これらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を示すとする説がある。
- ^ 井真成墓誌は、中華人民共和国の陝西省西安市内工事現場で発見されたと、2004年10月に発表された。
- ^ 呉音でデイ・グン、『日本書紀』で禰軍とかきネ・グンとよむ[87]。
- ^ 神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、故に日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。
- ^ 「広辞苑」(岩波書店、2008年1月第6版発行)によれば、「近代」とは「広義には近世と同義で、一般には封建制社会のあとをうけた資本主義社会についていう。日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説。」と、「現代」とは「日本史では太平洋戦争の敗戦以後または保守合同の1955年以降、世界史では19世紀末の帝国主義成立期以後、ロシア革命と第一次世界大戦以後、第二次世界大戦後など、さまざまな区分が行われている。」とそれぞれ定義されている。
- ^ 那珂通世は、『緯書』の鄭玄注に、1260年に一度(干支一運の60年(「1元」)×21元=「1蔀」)の辛酉年には大革命が起こるとあり、これをもって推古天皇9年(601年)の辛酉年から1260年前で当たる紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を唱えた。なお、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命したことをもって日本の建国とする古文書・古文献(『中尊寺文書』、『平泉雑記』など)が東北地方に伝わる。
- ^ 現生人類の到達は3.5万年前。それ以前の遺跡はデニソワ人などの旧人が遺したものである。
- ^ 近年の研究では氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきている。
- ^ 山形県において紀元前10世紀頃の青銅器(刀子)が出土しているが生産は紀元前2世紀頃から始まる。横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信『山形県の歴史』p.21-22
- ^ 正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された。
- ^ 日本の憲法体系では、新旧憲法ともに領土規定が存在せず、比較法学の観点ではこれは異例である。明治憲法には領土規定がなく、ロエスレル案の段階においては、領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり、日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。この事情は明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143)と解されていた[108][109]。
- ^ 古代の境界については、「ツマ」の語源を通して古代の国家領域を探る研究も存在する。即ち古墳時代「ツマ」とは鄙(ひな)の外側に存在する辺境を意味し、「サツマ」と「アヅマ」が倭国にとっての辺境であったとするものである。(永田一 「古代の「アヅマ」と「エミシ」についての一試論」『法政史学』71巻 法政大学史学会、2009年3月、17‐18、22頁)
- ^ 1970年代以降、横ばい状況にある。ブラジル57%、カナダ51%など、減少傾向にある世界各国の森林率に比べると突出した数値である。
- ^ 前掲の「中央高地」の項目によれば、「山梨・長野・岐阜3県にまたがる本州中央部の高地地域の称。(中略)地理区としては東山地方と同義で, 東海地方・北陸地方に対する。」となっている。
- ^ 大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達については、大日本帝国憲法第76条第1項により、引き続き有効とされた。さらに日本国憲法施行により、勅令という法形式は廃止されたが、日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律により政令として効力を有するとされた。
- ^ b:民法第263条は、「共有の性質を有する入会権については、各地方の慣習に従う」と定めるなど、ほとんど慣習法に委ねる規定が民法上に散見される他、b:商法第1条2項は「この法律に定めがない事項については商慣習に従い、商慣習がないときは、民法 (明治二十九年法律第八十九号)の定めるところによる。」とし、商慣習法を民法より優越させる。
- ^ 天皇を君主とすれば「立憲君主制」や「象徴君主制」とする説もある。
- ^ ロシアが実効支配している6村は数に含まれていない。
- ^ 町村総会の場合もある。
- ^ 1945-72年に行われた沖縄県のアメリカ統治を除く。また、東京府から東京都、北海道庁から北海道への改称、都道府県間の境界変更などはしばしば行われている。
- ^ 台湾出身の黄文雄は、「日中関係は『親善』ではなく『友好』であり、『呉越同舟』状態にある」という(支那の本質 より)。
- ^ インドネシアの警察に対する市民警察活動促進プロジェクトは、日本の交番システムなどをインドネシアにも導入し成果をあげたといわれる。草野厚『ODAの現場で考えたこと』日本放送出版協会 (2010/04)
- ^ 知的財産権総局を対象とした知的財産に関する法整備支援[299]や、裁判所を対象とした法整備支援など(2009年まで)[300]。
- ^ 現在のインド共和国の領域とは少し異なる。
- ^ 対英独立闘争での収監中に娘のインディラ・ガンディーへ宛てた手紙を元にした著書『父が子に語る世界歴史』では、日本の朝鮮併合を批判している。
- ^ 沖縄県などで米軍の事故やレイプ・性暴力、強盗などの重大犯罪をきっかけに反対運動が加熱することがあり、しばしば政治的な課題として浮上する。「日米地位協定第24条」において、米軍の維持経費は「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」と規定されているが、2010年度(平成22年度)の在日米軍活動経費の日本の負担分総額は7146億円である[394][395]。
- ^ 資源エネルギー庁の『平成25年度版(2014)白書』によると、日本の原油輸入における対中東依存度は1967年に最高の91.2%に達し、21世紀になってからも80%台を推移している。
- ^ 同プロジェクトの中心だった三井物産は、この撤退による損失を機に総合商社業界で首位の座を三菱商事に明け渡した。
- ^ 2015年に最終合意がなされ、2018年にアメリカが離脱した核開発制限合意では、イランと最終合意文書を調印した国連安保理常任理事国の5カ国にドイツを加えた「P5プラス1」に日本は加わらず、その合意遵守を呼びかける立場を取っている。
- ^ 事実上の軍隊として機能しているが、憲法第9条との兼ね合いから正式な国軍化がされておらず、政策的な制約が多く存在する。憲法が特別裁判所の設置を禁じているため、軍法会議も有しない。しかし、ハーグ陸戦条約が定めるところの交戦資格を持つ団体の条件を有しており、国際的に軍隊として扱われる。装備や編成も軍隊に準じており、各種制約を加味しても事実上の軍隊と見做されている。
- ^ 日本有事の際米軍は自動参戦ではない。米軍はアメリカ大統領命令により軍事行動を開始するが、大統領命令から二ヵ月を経過した場合、米軍の活動継続には米国議会の同意が必要となる。最初の大統領命令、そして二ヵ月経過後議会の同意がなければ、米軍による日本の防衛は行われない。[627]
- ^ 2017年の国際会議で自由に漁の出来る公海のサンマの資源管理で日本24万トン台湾19万トン中国4.6万トンの枠を提案した。
- ^ 内訳は東京(1964)、札幌(1972)、長野(1998)、東京(2020)である。東京2020に関しては、COVID-19の世界的流行によって1年延期され、2021年に開催された。なお東京(1940)および札幌(1940)の開催が予定されていたが日中戦争の激化により中止となった。
- ^ 大和民族や琉球民族、アイヌ民族を指す。
- ^ なお、琉球人とアイヌ人は遺伝子的には大和人と最も近縁である(斎藤成也、『日本人の源流』、河出書房新社、2017年)。
- ^ 在日台湾人は1930年代に入るまでは少なく、しかもその大半は留学生であったといわれている。[769]
- ^ 朝鮮領域の外に出るものは居住地所轄警察署ないし駐在所が証明書を下付することを規定した。旅行届出許可制。朝鮮籍臣民は日本への旅行(あるいはその名目での転出)は大幅に制限されたが、満州への旅行はほとんど制限がなく、税関審査程度での渡航や旅行が認められていた。李良姫、「植民地朝鮮における朝鮮総督府の観光政策」『北東アジア研究』2007年3月 第13号 p.149-167, 島根県立大学北東アジア地域研究センターNAID 40015705574, ISSN 1346-3810
- ^ これは戦時中に隣組の一員として認めてもらうことができず、配給が受けられないなどの具体的な困難として現れた。
- ^ 裁判所法74条では、「裁判所では、日本語を用いる。」と定められている。
- ^ 1994年1月24日に萱野茂によって第131回国会内閣委員会の中でアイヌ語による質問が行われている。参議院会議録情報 第131回国会 内閣委員会 第7号 アーカイブ 2013年5月14日 - ウェイバックマシン
- ^ 外国語を正文とする条約は、日本における国内法的効力に注目すれば、「外国語で記された日本法」ということになる。
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- ^ 猪川倫好監修・三省堂編集所編『三省堂生物小事典 第4版』(三省堂、1994年2月発行)の「渡瀬線」の項目によれば、「哺乳類・両生類・爬虫類・シロアリなどについて調査した結果、旧北区と旧東洋区との分布境界線として提唱した奄美大島と屋久島の間の線」と記されている。
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- ^ 1920年代の東京在住中国人労働者については 阿部康久、「1920年代の東京府における中国人労働者の就業構造と居住分化」 『人文地理』 1999年 51巻 1号 p.23-48, doi:10.4200/jjhg1948.51.23, 人文地理学会 が詳しい。
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- ^ 石井米雄編『世界のことば・辞書の辞典 アジア編』(三省堂、2008年8月発行)の「琉球語」(高江洲頼子執筆)の冒頭に、「琉球語は奄美大島から与那国まで距離にして約1,000キロメートルにわたる琉球列島の島々で話されてきた言語の総称である。大きくは奄美・沖縄方言群(北琉球方言)と宮古・八重山方言群(南琉球方言)に区分され, 両者はまったく通じないくらい異なっている。さらに方言は島ごとに異なり, 細かくは村落共同体の字ごとに異なるといわれてきた。」と記載されている。
- ^ 梶茂樹・中島由美・林徹編『事典 世界のことば141』(大修館書店、2009年8月初版発行)の「2 沖縄語」(西岡敏執筆)の「どんな言語?」には、「ウチナーグチは琉球諸方言の1つで沖縄方言とも呼ばれ、北琉球方言群に属します。同じく北琉球方言群に属するのは奄美諸島の奄美方言で、こちらは行政的に鹿児島県に属します。この行政区分は、17世紀はじめ、日本の薩摩藩が琉球を攻めて、奄美群島を直轄地に、沖縄諸島以南を琉球王国の支配に任せたことに由来します。沖縄と奄美が言語的に近いのに比べ、同じ沖縄県に属している宮古・八重山の言語は沖縄島の言語と通じ合わないほど異なり、南琉球方言群を形成しています。」と記載されている。
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参考文献
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- 井沢元彦、『逆説の日本史』シリーズ、小学館
- 内閣官報局編『法令全書』東京、国立印刷局
- 吉田, 善明「憲法」『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2018年 。
- Britannica Japan Co., Ltd.「日本国憲法」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』Kotobank、2018a 。
- Britannica Japan Co., Ltd.「ブルジョア憲法」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』Kotobank、2018b 。
- “国・地域”. 2021年2月24日閲覧。
関連項目
外部リンク
政府
観光
その他
- 『日本/log20230829』 - コトバンク
- Japan - Encyclopedia of Earth「日本/log20230829」の項目。