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日本語学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国語学から転送)

日本語学(にほんごがく)とは、日本語研究の対象とする学問である。日本語学を専攻する学者日本語学者という。

概要

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いわゆる個別言語学の1種で、人文科学系に該当する。その目的は日本語の諸現象についての組織立った知識を得ることにあり[1]、日本語を自由に使用するために熟達することを目的とした実用的な学習語学)とは大いに異なる。

名称

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明治以来の伝統国語学(こくごがく)と呼ばれることもある[1]同義語として扱われることが多いが、中立的表現である「日本語学」への移行という全体的な緩やかな方向性はある一方で、例えば大阪大学文学部などの研究室は、日本語学を「現代日本語を中心とした共時的・言語学的研究」[2]、国語学を「古代から近世までの古い日本語を文献学的・通時的に研究するもの」[3]と別にしているように、必ずしも同一視できるものでもない。また、「国語学は標準語・中央語の研究に偏重し、言語変種方言など)が周辺に位置づけられがちだが、日本語学は変種を広く包括できる」という意見もある[4]。いずれにせよ、研究対象とする言語が日本語であることに差異は存在しないので、実際のところ「国語学か日本語学か」という選択は二律背反のようなものではないが、名称が何かと問題になるのは、研究に携わる者の考え方が問われていると見ることができる[5]。それは学問としての精神や性質などの在り方に関係してくる[6]

なお、日本国中学校および高等学校国語」の教員免許を取得するに際しては、教育職員免許法施行規則第4条および第5条に基づいて、規定単位数以上履修する必要がある科目の1種に「国語学」が設けられている。この場合、音声言語のみならず、文章表現に関するものを含む。

歴史

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日本語を研究する学問の歴史は「日本語学史」(または「国語学史」)と呼ばれる[7][8][注釈 1]。字義通りに解釈すれば、「近代以降に成立した科学としての歴史」を扱うことになるが、日本語に関心を寄せてきた人々の歴史は長く、古くから様々な分野の人々によって研究が行われ、方法論も多様化してきた[注釈 2]。すなわち、「誰かが観察した」ということが重要になるので、「反省的に日本語をみる」と考えて差し支えない[13]。とりわけ質量ともに大きな変化が見られるのは明治前後であるが、これは日本語における言語変化というよりも、日本史上の政治的ないし社会的変化に負うところが大きいといえる[14]

いずれにせよ、言語資料に基づく(あるいは言語資料そのものについての)研究が、時代が下るに連れて精緻なものになって多大な成果を挙げているように[注釈 3]、日本語学史の研究には注目すべき進展が見られるので、さらに強力に推進することは、日本語研究の新しい分野や方法論の発展に重要であるとされる[15]。例えば細部において、いわゆる「大家」の有名学説がしばしば絶対視されて先行研究の存在が隠れてしまっているなど、個々の研究業績のプライオリティについて必ずしも十分な吟味がされているとは言い難い面があったとしても、その解体が進むことで真価が解明されることもある[16]。観察する者が結果を的確かつ適切に記述しているとは限らないので、記述された内容の考証は必要であるが、反省的な観察は、現代人が眺めていて気づかないような知見を与えてくれることが多い[13]。また、「学説や研究書の特質を正当に評価するためには、書誌学的研究が必要であり、それこそが研究の第一歩である」という意見もある[17][注釈 4]

ここでは、一般的な日本文学史での区分に倣い、上代中古中世奈良時代室町時代)、近世江戸時代)、近現代(明治以降)の3区分から記述する。

上代・中古・中世

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日本語学の萌芽は「自国語の意識化」という自覚的反省から発生した[14]。具体的には、古代における仏教思想との言語接触による学習や、中世における歌学の古典解釈などが、日本語を対象に探求する動機づけとなったのである。すなわち、あくまでも「実用」を目的として行われてきたのであり、「言語それ自体の解明」を目的に行われてきたのではない[19]

中国語(漢語)の受容

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真福寺本『古事記』
割注で「訓高下天云阿麻下效此」、すなわち「天の字はアマと読む」と指定する形で、高天原の訓読を残している。

日本語の相対的な特徴が意識されるようになったのは、漢字における音節の構造に関する学習であった。例えば『古事記』には音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものであり、いわばこうした表記法は、日本語の音節構造が異なることを認識していた証左と考えられる[20]。また漢文の訓読により、中国語にない助詞助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していた[注釈 5]。これが後に片仮名として用いられるようになり、やがては「てにをは」の名で一括されて研究分野の1つとなった。

日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、平安時代に「天地の詞」「いろは歌」「大為爾の歌」など、あらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立しており、音韻を1つの集団として認識することになった[22]。これらは後に物の順番を示す「いろは順」として用いられ、仮名の手本としても人々の間に一般化している[注釈 6]

辞書の出現
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こうした漢字の学習に関連して、漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録として最古のものは『新字』44巻(682年)である[注釈 7]。これは伝本も逸文も存在しないため、いかなる内容であったかは不明であるが、現存している木簡に字書らしき記載が確認できることから[27]、「書名からして漢字字書の類であろう」と推測される[28]。また、それぞれ逸文として残るのみであるが、『楊氏漢語抄』や『弁色立成』といった和訓を有する漢和辞書が編纂された[29]

『篆隷万象名義』
『和名類聚抄』
『類聚名義抄』

現存する最古の辞書は、空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀頃)である。これは『玉篇』を下敷きに編纂した部首配列の漢字字書で、和訓は一切ないが、当時の日本人にとって使い易いものを目指したものと想像される[30]。伝本が存する最古の漢和辞書『新撰字鏡』(10世紀初頭)は、漢字を部首で配列した上で、和訓を万葉仮名で記している[31]源順勤子内親王の依頼で撰進した漢和辞書『和名類聚抄』(934年頃)は、百科辞書の色彩が強く、意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付しており[32]、佚書の手掛かりを含む貴重な資料でもある[33]。漢字を部首で分類して字音・意義・和訓などを注記した『類聚名義抄』(11世紀末〜12世紀頃)は、その豊富な声点から院政期アクセント体系を窺い知れる[34]。橘忠兼が編纂した『色葉字類抄』(12世紀)は[注釈 8]、和訓によって言葉を明らかにすることを目的に「いろは順」を採用した最初の辞書である[36]。いずれの辞書も今日における国語辞典の概念からは程遠いが、言語理解を目的とした日本人によって編纂された辞書として特記されるもので[37]、後世への影響力から資料的価値がある[38][39][40]

悉曇学との接触

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天台宗真言宗などの密教においては、陀羅尼梵語で読み書きすることが重視されたことなどから、悉曇学の研究が熱心に行われた[41]。こうした空海や円仁などの学僧による研究によって、梵語に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった[42][43]

例えば平安時代末期に成立したと見られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な……」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻における研究が進んだことを窺わせる。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚の『反音作法』に見られる[44]。また、明覚は『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用しており、このことからも日本語の音韻組織への関心を見せている[45]

歌学における展開

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歌学は平安時代以降、大いに興隆した。元々は和歌の実作および批評のための学問であったが、やがて古典解釈のために正当な語彙・語法を使用することへの要求が強くなったのである[46]。これが結果として、日本語の古語に関する研究のほか、「てにをは」の研究や仮名遣いへの研究に繋がった。

古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。例えば顕昭の『袖中抄』には、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されているが、こうした語義の解釈は仙覚の『萬葉集註釈』(1266年1269年)にも散見される[47]

本格的な「てにをは」の研究は、鎌倉時代末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄』という短い文章によって端緒が付けられた。この文章では、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」について概略的に述べている[48]。また、室町時代には『姉小路式』が著され[注釈 9]、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか、終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている。これは作歌において口語と文語との差異が甚だしくなったことが要因とされる[50]

藤原定家
多くの勅撰集に作品が選ばれるなど歌人として活躍したほか、古典文学作品の注釈書写に注力し、アクセント高低等による意識的な仮名の書き分けを行った[51]

仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、その著作『下官集』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、その規範を示そうとした[52]。とりわけ「お」と「を」の区別については、いずれも平安時代末期にはすでに[wo]の音となり、発音上の区別が無くなっていたことで相当な表記の揺れがあって、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった[53]。そこで定家は『下官集』の中で、アクセントが高い言葉を「を」、アクセントが低い言葉を「お」で記している[注釈 10]南北朝時代には、行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著した。行阿の姿勢も「基準を古書に求める」というもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲しており、これは後に「定家仮名遣」と呼ばれるに至る[55]。しかし、行阿が『仮名文字遣』を著した頃には日本語にアクセントの一大変化があり、[wo]の音を含む語彙に関しても、定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった[56]。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものと齟齬が生じている。

こうした中世期における歌学の日本語研究の特徴は、少なからず近世期へと引き継がれるが、雑然とした中に法則的なものを自覚するようになるなど、次第に変容した[57]。また、近代以降に学問が分化していく中においても、ある時期までは創作論の枠組みが底流として存在し続けた[58]

実用的辞書の登場

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それまでの辞書は、大陸文化の影響を強く受けていたが、この頃から日本的性格の強いものが出現した[59]。鎌倉時代には、百科辞書『二中歴』、詩作を目的とした『平他字類抄』、事物の起源や語源を解説した『塵袋』や『名語記』なども編まれるようになり、室町時代には、漢詩を詠むことを目的とした『聚分韻略』、漢字の音訓を示した『倭玉篇』、和訳に通俗語も含めた『下学集』、五十音順を採用した最古のものといわれる『温故知新書』、当時の俗語を百科事典的に説明する『運歩色葉集』、国字や漢字などの起源を記した『壒嚢鈔』や『塵添壒嚢鈔』などが編まれた。

『節用集』
黒本植が尊経閣文庫に寄贈した古写本の複製(1937年刊)

15世紀になると、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、日常語の単語を「いろは順」に並べた『節用集』が流布した。漢字熟語を多数掲出して読み仮名を付したもので、意味などの記述はなく、通俗的百科辞書の性格が強い[60]。このように中世末期から近世初期にかけての写本のほか、慶長年間頃までの刊本は「古本節用集」と呼ばれる[60]。なお、江戸時代においては、いわゆる「易林本」を下敷きにした『節用集』として、様々な工夫や仕掛けを施したものが出現している(後述)。

これらの出現は、学問に大衆的性格が強くなったことに伴い、辞書に利便性の高い内容が求められていったことに起因する[59]。「学問のため」というよりは、「言語生活のため」といった性格が強く押し出されて来たことにより、書写のみでしか流布しなかった辞書が、印刷という利便によって大きく変化したのである[61]

外国人による研究

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『日葡辞書』の標題紙

中世末期から近世前期にかけて、外国人による日本語研究も多く行われた。イエズス会では、宣教師たちが学ぶべき標準を目的に、日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂された[62]。これに先行する辞書として、本文だけで約900頁にも及ぶ『羅葡日対訳辞書』(1595年)があるが、邦訳されていないこともあって、ほとんど知られていない[63]。この他にも、漢字の音訓を常に並べて示すように編纂された『落葉集』(1598年)がある[64]。また、同会のロドリゲスによる文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析したもので、資料的価値が高い[65]

近世

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国学の三哲
左から本居宣長契沖賀茂真淵

日本語学は江戸時代において、契沖による古典学以来、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、国学の一分野として高い客観性・実証性を備えるようになる。その目的は、やはり「古典の正確な読解」や「和歌を正格に詠む」という実用性にあった[19]。ただし、詳細については不明な点が多く、個々の語学的考察の意義に関しては、資料的裏付けを得て確定する作業が残されている[66]

契沖の研究態度

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国学が興隆する以前にも、例えば語源学に関しては、幾つかの研究がある。松永貞徳は『和句解』(1662年)を著し、和語をいろは順に並べて1つ1つに解説を記している[注釈 11]貝原益軒は『日本釈名』(1700年)を著し、少なからず『和句解』の説を取り入れながら[69]、理論的に整理されている一方で、実証的裏付けに欠けている[70]新井白石の『東雅』(1719年)は、異文化への視線を持って日本語研究に取り組んだ大著で[71]、『日本釈名』の説を批判しているが、本文には単なる思い付きの類も少なくない[72]

国学の始祖とされる契沖
文献学的方法をもって現在の日本語学の基礎となる現象を数多く指摘した[73]

そのような中で登場したのが契沖である。契沖は「古典の理解にあたっては現在の価値観を読み込むのではなく、書かれた当時の時代を尊重すべき」と説き、先行する文献や近しい時代の文献の用例を参照して読解する方法を示したことによって、古典の文章の意味を宗教的教義や道徳的教戒へと牽強付会する従来の解釈も排するなど、後世の解釈を無批判に受け入れることを戒めている[74]。これは『万葉集』の注釈書『万葉代匠記』を通じて、文献を博捜して規則性を見出すことにつとめた結果であり、これによって契沖は多くの現象を指摘した[73]。とりわけ仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫鈔』(1695年)を著して、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことを明らかにした[75]。これに対して橘成員が『倭字古今通例全書』(1696年)で反論したが、契沖はさらに『倭字正通妨抄』(1697年)と『和字正濫要略』(1698年)を著して自身の立場を明らかにした[76]

賀茂真淵と門下生の研究

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賀茂真淵
門流は「県居派」や「県門」等と称され、主な者に荒木田久老加藤千蔭加藤美樹村田春海などがいる[77]

こうした契沖の精神を受容して国学の骨組みを作ったのが荷田春満で、それを強固なものにしたのが賀茂真淵である。真淵は『語意考』(1789年)を著し、語義の説明として「延約通略」(「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」という考え方)を示した[78]。これは語の本義を求めて転化を説明するための方法であるが、真淵は言語の時代差に関する意識もあったので、さほど観念的かつ音義的ではないが、恣意的な側面も少なくなかった[79]。また、枕詞について考察した『冠辞考』(1757年)においても、真淵は「末の意」を解くために「本の意」を知ることを必要条件とした[80]

楫取魚彦
契沖と同じく「古代の文献における実例を論拠に仮名遣いを示す」という立場を取り、『和字正濫鈔』になかった語彙や証例も採録している[81]

真淵は多方面にわたって優秀な門人を輩出しており、その中には日本語研究に貢献した者も少なからずいる。例えば楫取魚彦は『古言梯(こげんてい[注釈 12])』(1765年)において、契沖が『和字正濫鈔』で掲出した語に典拠が掲示されていないものが散見されることを問題視し、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古典のみならず、新たな資料として『新撰字鏡』などを出典に挙げながら、日本語の姿を明らかにしようとした。魚彦の没後に『古言梯』は、各人によって増補改訂されたものがたびたび出版されており、藤重匹龍『掌中古言梯』(1808年)、村田春海清水浜臣『古言梯再考増補標註』(1821年)、『袖珍古言梯』(1834年)、山田常典『増補古言梯標註』(1847年)などがある[83][注釈 13]。こうした流れが後の歴史的仮名遣に繋がっていった[86]

山田常典『増補古言梯標註』
明治に刊行された版本

本居宣長による展開

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本居宣長
帰納的方法によって日本語研究に先駆的な成果を残したが、とりわけ文法研究は数多の門人に引き継がれ、近代以降における文法研究の基礎となった[87]

同じく真淵門下である本居宣長も、仮名遣いの研究においては大きな功績がある。宣長は『字音仮字用格』(1776年)において、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じ、鎌倉時代以来、五十音図で「あいうえ」「わゐうゑ」と記されているという事実を指摘して、今日の「あいうえ」「わゐうゑ」の形にした[88]。また、この他に漢字音の研究としては、『漢字三音考』(1785年)や『地名字音転用例』(1800年)がある。前者は呉音漢音唐音の3種の漢字音と国語音について述べたもので、後者は地名に使用されている特殊な用法に見られる法則性を論じたものである[88]

その一方で、宣長が最も大きな成果を上げたのは、いわゆる係り結びの研究である。係り結びは中世の頃から部分的に論じられていたが[89]、その全体像について宣長は一覧表である『てにをは紐鏡』(1771年)で整理し、さらに『詞の玉緒』(1779年)で和歌を用例に詳説した[90]。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示したのである[注釈 14]。なお、この他にも宣長は、門弟の歌文指南のための参考書として、古代語を対象とした『玉あられ』を著している[93]

こうした宣長の日本語研究は、いずれも集積された用例という客観的証拠に基づいて帰納的に行われていた[94]。この方法論は宣長の独創ではなく、契沖などからの影響が大きいが、それまでは必ずしも当然の存在でなかった方法論を宣長は、表記研究のみならず文法研究などにまで敷衍させたのである[95]。これらの研究成果は、後に門下生たちによって大きく展開していくことになる(後述)。

富士谷成章の品詞論と活用論

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こうした流れとは別に、品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章であった。成章は品詞を「名」・「装(よそい)」・「挿頭(かざし)」・「脚結(あゆい)」の4類に分類した[96]。ここには漢学の影響も指摘されるが[注釈 15]、成章の独自性によるところが大きい[96]。成章は『挿頭抄』(1767年)で今日で言う副詞の類を中心に論じ、『脚結抄』(1778年)では助詞・助動詞を系統立てて分類して、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される[98]。とりわけ『脚結抄』の冒頭に記された「装図(よそいず)」は、動詞形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きい[99]。なお、成章の学問は長男の富士谷御杖が継承し、主として「てにをは」について詳細に研究した結果として「言霊倒語論」を提唱したが、過剰なまでに人間の欲望にこだわるあまり、当代の人々と共有できる公共性を持ち合わせておらず、「難解で奇異な議論」として等閑視された[注釈 16]

方言研究と用字法

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このほかに用字法の研究としては、石塚龍麿が『万葉集』の仮名に2種の書き分けが存在することを示した『仮字用格奥山路』(1798年)がある[102]。これは宣長が『古事記伝』第一巻の「仮字の事」で指摘した着想を発展させたもので、長らく正当な扱いを受けなかったが、橋本進吉が「上代特殊仮名遣の先駆的研究」として再評価した[103]。なお、上代特殊仮名遣に関連する資料としては、ほかに奥村栄実『古言衣延弁』(1829年)や草鹿砥宣隆『古言別音鈔』(1849年)などがある[104]。また、用字法の研究書として、春登『万葉用字格』(1818年)は、国学者が上代風に作文する際の軌範書となった[105]

方言研究では、越谷吾山が事績を残している。全部で550項目にわたり約400語を数える大規模な方言集『物類称呼』(1775年)は、各地の異称を同一平面上に並べてみようとする姿勢から[106]、忘れ去られた可能性のある方言語彙を数多く記載しており、高い資料的価値を持つ[107][108]。なお、俳人による方言集は、他に安原貞室の『片言』や小林一茶の『方言雑集』などがある[109]

辞書の普及

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谷川士清
宣長とその学統を引く者たちによる活用研究に多大な影響を与えたほか、『倭訓栞』で後の国語辞典の祖型を確立した[110]

印刷技術の進歩と学問文化の向上により、近世においては次々と辞書が普及した[111]。とりわけ国学の隆盛は、雅語そのものへの注目をもたらし、後には俚言も一緒に扱った辞書も出現した。その中でもきわめて大部なものとして、谷川士清『倭訓栞』(前中後編、1777年1887年[注釈 17]太田全斎『俚言集覧』(1797年~1829年に成立)[注釈 18]石川雅望『雅言集覧』(1826年~1849年)[注釈 19]が出現した[注釈 20]。これらは様々な人々に受容されたが[117]、とりわけ『倭訓栞』は「現代に繋がる国語辞典の祖型を作り上げた」として多大な影響を与えた[118]

こうした辞書の普及と国学の隆盛は、『新撰字鏡』『和名類聚抄』『類聚名義抄』などの古典化した辞書に対して、研究対象とする関心を高めることになった[119]。主な考証学者伴信友狩谷棭斎黒川春村などがいる[119][120]

また、印刷技術の進歩は種類に富んだ『節用集』を生むことに繋がった。書体を多様化した『真草二行節用集』(1638年)、意義分類の後にいろは順に排列した『和漢音釈書言字考節用集』(1717年)、検索の便を図るために語彙を仮名で記した際の文字数によって排列した『宝暦新撰早引節用集』(1752年)、百科事典的性格と付録を拡充した『江戸大節用海内蔵』(1863年)などがある[121]。このように近世の『節用集』は、検索方法を様々に模索しているほか、構成や内容によって小型化したり大型化したりなど、写本を中心とした「古本節用集」から大きく展開した[122]。また、項目数も「古本節用集」に比して大いに増加している[123]

鈴屋門下による精緻化

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活用研究は、真淵や士清の説を宣長が継承した後[124][125]、主として宣長の弟子筋によって展開した。鈴木朖は『活語断続譜』(1803年頃成立)を著し、日本語の活用形における役割を記して[126]、活用現象が語の切れ続きによるものであることを明確化した[127]盲目であった本居春庭は『詞八衢』(1806年)と『詞通路』(1812年)を著し、「鈴屋派」と「富士谷派」の説を融合させて「末代不動の説」を確立した[128]。『詞八衢』では動詞の活用を「四段」「一段」「中二段」「下二段」「変格」の5種類に分類しており[注釈 21]、『詞通路』では動詞を「自他」「兼用」「延約」の3種の観点により1段から6段に分類している[129]

本居春庭『詞八衢』
「四段の活」「上一段の活」「中二段の活」「下二段の活」は、五十音図の「段」に基づく型で、動詞の活用との関係性を明示した[130]

その後、『詞八衢』や『詞通路』の欠を補ったり、誤を正したりなどの研究が多く出現した。いわゆる「八衢派」と称される国学者の研究であるが[127]、中でも注目すべきは東条義門の存在である。義門は『山口栞』(1836年)や『活語指南』(1844年)などを著し、それらの中で分類した「将然言[注釈 22]」「連用言」「截断言[注釈 23]」「連体言」「已然言」「希求言[注釈 24]」という6種の活用形は、現在の活用形に継承されている[129]。この他に富樫広蔭は『詞玉橋』(1816年初稿成立、1846年改稿成立、1891年刊)と『辞玉襷』(1829年)を著し、品詞分類や活用研究の組織化と体系化をはかった[135]。また、こうした流れとは別に、鹿持雅澄は『用言変格例』(1858年)を著し、古代日本語の活用形式について起源論を説いた[136]

日本語動詞の活用の種類
文語 口語
四段活用
ナ行変格活用
ラ行変格活用
下一段活用
五段活用
下二段活用 下一段活用
上一段活用
上二段活用
上一段活用
カ行変格活用
サ行変格活用

品詞研究もまた、主として宣長の弟子筋によって展開した。鈴木朖は『言語四種論』(1824年)を著し、単語を「体の詞」「形状の詞」「作用の詞」「てにをは」の4種に分類して性質を論じた[137]。とりわけ「てにをは」を「心の声なり」と説いて区別したのは、今日の「詞」と「辞」に二分する考え方を導くものとなっている[138]。また、形状と作用の違いについては「活用語尾となる形態素による特定の形態的特徴が存在する」という視点を貫いた[139]。この他にも、富樫広蔭は『詞玉橋』において、単語を「言」「詞」「辞」に分類した上で[注釈 25]、「辞」を活用の有無から「静辞」と「動辞」に分けている[135]

鈴木朖『言語四種論』(1930年に刊行された翻刻の標題紙)
日本語の単語および接辞を意味と形態的特徴に基づいて分類した[137]

語源研究では、同じく朖が『雅語音声考』(1816年)を著し、オノマトペ音象徴による語構成を持つ言葉を「鳥獣虫ノ声」「人ノ声」「万物ノ声」「万ノ形・有様・意・シワザ」の4種に分類した上で、具体例として「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示している[140]。これは冒頭に「言語ハ音声也」という一文を掲げているように、「音声が言語の根本」という言語観に基づいており、一見すると平田篤胤らの音義説を彷彿とさせるが、朖は一音一音に意味があるとしているわけではない[141]。なお、音義説は「国語に霊力が宿っている」という信念が国学者の間で高まるに連れて盛んになっていった[142]

外国人による研究

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James Curtis Hepburn
辞書編纂や聖書翻訳のほか、医療の普及や近代教育の確立にも貢献した[143]

この時期においても、外国人による日本語研究が多く行われた。例えばホフマンが著した『日本語文典例証』と『日本語文典』は、古典文献に含まれる日本語がほとんどで[注釈 26]、少しばかり旧式に映るところはあるが、要所要所において鋭い分析がなされており[145]、その後に与えた影響の大きさから「近代的な日本語文法研究書」とされる[146]。また、ヘボンによる和英辞典和英語林集成』(1867年)は、後続の宣教師などの日本語習得の負担軽減を目的に編纂されたもので、当時の日本社会の進展を反映する語彙を採集するなど実用性が大きく[147]、1910年の9版まで版を重ねたほか、いわゆるヘボン式ローマ字の基盤を築くなど[注釈 27]、幅広い分野に多大な影響を与えた[150]

近代以降

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幕末から明治にかけて西洋言語学が紹介されたことで、日本語学は新たな段階を迎えた。言語研究の在り方が大きく変化したことは、研究史に関する著作が数多く出現したことからも窺い知れる[151][152]

明治・大正

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文法論の発展
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大槻文彦
近代国語辞書の嚆矢となる辞書のみならず、模範となる日本語文典を完成させた[153]

欧米の言語学も取り入れつつ、文学研究と関係し合いながら発展した日本語学であったが、無批判に理論を応用したことで、却ってこれまでの蓄積を損なうような日本語研究も少なくなく、あまつさえ過去の日本語研究を容赦なく否定する考え方も出現した[注釈 28]。こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法理論を整理したのが大槻文彦であった。大槻は『言海』の中で文法論「語法指南」(1889年)を記し[注釈 29]、後にこれを増補して『広日本文典』(1897年)として、体系的な近代的文法学説を作り上げた[159]山田孝雄は大槻の学説に不徹底な面が残っていることを『日本文法論』(1908年)で指摘し、西洋の文典のみならず心理学哲学をも援用して、体系的かつ組織的な近代的文法論「山田文法」を構築した[160]

辞書編纂法の具現化
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大槻が編纂した『言海』(1889年1891年)は、「日本初の近代的国語辞典」とされる[153]。これは「日本普通語ノ辞書」編纂のために必要な事項を挙げて、近代的辞書編纂法を確立したことにある[161]。元々は文部省で『語彙』という辞書の編纂事業が進められていたが、「あ」「い」「う」「え」の部まで成立したところで頓挫するという結果に終わり[注釈 30]、これに鑑みた西村茂樹の命により大槻のほぼ独力による編纂が進められたのである。網羅した古典語・日常語を五十音順に見出しを並べて、全ての項目に品詞・漢字表記・語釈を付す徹底した体裁は、後世における辞書の模範的存在となった[注釈 31]。また、『言海』に採用された歴史的仮名遣いは、一般への普及に繋がった[166]

『漢和大字典』の本扉
重野安繹三島毅服部宇之吉の名前が監修にあるが、本書の実質的な編集は三省堂編修所齋藤精輔が中心となり、読売新聞社にいた同郷の足助直次郎を招き入れて、深井鑑一郎や福田重政と一緒にあたらせたという[167]。なお、辞典における監修者の記載も本書から始まったとされる[168]

また、漢和辞典においても発展があった。いわゆる文明開化の波に乗って欧米の知識が大量に移入されるようになったのに伴い、漢語が急激に増加したことで、積極的に熟語を収録し始めたのである[169]。そうした中で「初の近代的漢和辞典」とされるのが『漢和大字典』(三省堂1903年)である。これは熟語を改行して排列した上で語釈を施したほか、総画索引を添えるなどの工夫を凝らしており、以降の漢和辞典の模範となった[170]

なお、江戸時代より芽生え始めた辞書学は、明治以降において、科学的正確さを加えるようになる。赤堀又次郎が序跋を主とした書誌の道を開拓し[注釈 32]小中村清矩によって全体的な鳥瞰が可能になったほか、橋本進吉が啓蒙的役割を果たし、山田孝雄が指導的役割を果たしたが、最も多彩な活動を行ったのは岡田希雄であった[172]。また、理想的な編纂方法論を抽象的に論じたり、できあがった個々の辞書を取り上げて出来ばえを具体的に論評したりなど、様々な辞書論も見られるようになった[173]

教育との関係
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上田万年
比較言語学音声学など、留学で身につけた科学的な手法を導入し、国語研究と国語施策の両面を主導した[174]

日本語研究者の数は高等教育の普及とともに増大した。1897年に東京帝国大学で国語研究室が置かれ、ドイツ帰りの上田万年が初代主任教授として指導的役割を果たした[175]。なお、上田に学んだ弟子には、亀田次郎金田一京助新村出橋本進吉保科孝一などがいる[175]

1900年、小学校令施行規則において、教科書で感動詞や字音語の長音を長音符「ー」で書き表すことが定められた[176]。ところが、あまり世評がよくなかったので、文部省は1908年臨時仮名遣調査委員会を設置し、新たな改定案として「字音仮名遣は全て表音式にする」「国語仮名遣は活用語尾と助詞だけそのままで、その他は表音式にする」というものを出したが、結論らしい結論を得ないまま廃止された[176]

政策との連なり
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明治以降の日本語学は、日本における国語国字問題にも影響を与えてきた。例えば前島密は「漢字御廃止之議」の中で、「国字改良論」のほかに「言文一致論」を提唱した[177]。「国字改良」は森鷗外などの反論によって実現しなかったが[178]、「言文一致」は二葉亭四迷夏目漱石などによって進んだほか[179][180]物集高見などが具体的な方法論を示した[181]

このほか、日本における標準語の形成にも影響を与えてきた。その中心的役割を果たしたのは、文部省内に設置された国語調査委員会1902年1913年)で、上田万年が主導した[182]。行われた学術的な研究調査の成果である『音韻調査報告書』(1905年)、『口語法調査報告書』(1906年)、『仮名遣及仮名字体沿革史料』(1909年)、『平家物語の語法』(1914年)、『疑問仮名遣』(前編・1912年、後編・1915年)、『口語法』(1916年)、『口語法別記』(1917年)などは、結果的に日本語研究の近代的方法の基礎を確立することに繋がった[注釈 33]。国語調査委員会は1913年に廃止されたが、再び国語国字に関する国家的調査機関の設置が強く要望されたので、臨時国語調査会(1921年1934年)が設置され、いわゆる現代仮名遣いの原型となる仮名遣改定案を可決するなどした[185]

昭和・平成

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言語過程説の出現
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時枝誠記
言語を客観的存在とする考えや、音声と意味の結合とする考えを徹底的に批判し、言語を「主体的な活動そのもの」と捉える独自の理論を唱えた[186]

西欧の言語学が伝来してからも日本語学は、相も変わらず歴史的かつ文献学的な研究が主流であった。例えば『校本万葉集』(1924年)に代表される基礎史料の整備は、明治後半から大正にかけて本文批判が精密化したことの証左とされる[187]

こうした風潮の最中において、言語理論の研究に真正面から取り組んだのが時枝誠記である。時枝は卒業論文「日本ニ於ル言語観念ノ発達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)[注釈 34]」(1924年)以来、日本における言語意識を記述するという意図を研究の出発点として、日本語研究における態度や方法について探究していった[189][190][191][192][193]。やがて時枝は「言語とは何ぞや」の解答として、成立させる人間に還元して言語事実を説明することを主張した[141][194][注釈 35]。これが「言語過程説」と呼ばれる言語観である[注釈 36]

時枝はソシュールの言語観を「言語構成観」と呼んで批判し[141][197]、「言語過程説」を日本の伝統的な言語観として位置づけるために、表現者と受容者の存在を常に意識する上での基本となる言語理論の樹立を試みた[注釈 37]。時枝の研究分野は、「時枝文法」と称される文法論が顕著であるが[注釈 38]、文章論のほかに国語教育や国語施策への応用研究など、きわめて幅広い範囲にわたっており、いずれも「言語は人間の表現行為、理解行為そのものである」という言語観が通底している[193]。例えば国語国字問題における種々の論議は、それまで日本語学の領域から除外されることもあれば、延長線として「知識の応用部面」ばかりが取り扱われるなど、利用の仕方は様々であったが[199]、この問題を「日本語研究の対象とすべき」と明確に位置づけたのも時枝である[注釈 39]。また、敬語についても、「いわゆる尊敬語や謙譲語は、素材の上下尊卑といった事物の在り方の表現である」とし、「いわゆる丁寧語のみが、話し手の聞き手に対する敬意の表現である」とした[201][202]。このような時枝の立論は、従来の日本語学における研究方法に対して反省を促しているともいえる[203]

時枝が提唱した「言語過程説」は、言語哲学とも親和性が高いことから、吉本隆明三浦つとむ中村雄二郎といった人々からも注目を集めた[197]。後に時枝は「言語生活史」の体系的記述を企図していたが、これは本人の死去に伴って未完のままに終わった[193]

方言学の進展
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柳田國男
文献に記録されない庶民の生活や伝承の中に日本文化の古層を探ろうとする趣旨から、日本語研究では話し言葉や方言を重視した[204]

標準語の普及に伴って「方言を顧みる必要はなくなった」と考える識者が続出したことや[205]、国語調査委員会による膨大な調査結果の資料が関東大震災によって焼失したことなどから[206]方言研究は大正期に一旦衰退したが、昭和初期に至って再び活況を呈するようになった。中でも特筆に値するのが、東条操の「方言区画論」と、柳田國男の「方言周圏論」である。この2つは対立する学説として受け取られることが多いが、方言語彙の中に「周圏論」で説明できるものがあることは確かであるし、東西方言の対立に対応する事実によって全国の方言が幾つかの区画に分類されることも確かであるから、決して相容れない学説とは言い難い[207]

1927年3月に東条は『大日本方言地図』と『国語の方言区画』を出版し、全国を「内地」と「琉球」に二分し、次いで「内地」を「本州」と「九州」に分け、さらに「本州」を「東部」「中部」「西部」に三分した[206]。その後、幾度の修正を加えていき、最終的には1953年に発表した『日本方言学』において、「東部方言」「西部方言」「九州方言」の3つに落着した[208]

一方で柳田は、同年4月に論文蝸牛考」を『人類学雑誌』に連載した[206]。これは「日本の各地では蝸牛をどのように呼ぶのか」という調査結果を発表したもので、ヨーロッパで発達した言語地理学の方法論を日本語の方言に適用したのである[209]。その過程において柳田は「京都を中心として同心円状に分布している」という事実を発見し、「方言は文化の中心地で生まれた言葉が順次周囲に拡散して成立したもの」とした[204]。こうした考えは、近世以前から認められる「古語は方言に残る」という考え[注釈 40]とも合致することから[注釈 41]、方言形成の過程を解釈する際の説明原理として広く受容されるに至った[204][209]。なお、柳田は「蝸牛考」以外にも方言に関係する文章を多く執筆している[213]

この他に注目すべき研究としては、比較言語学の手法を応用した比較方言学がある[209]。例えば服部四郎は、諸方言のアクセントに整然とした型の対応が見られることを指摘し、方言間における系統について論じた[214]。こうした服部の研究は、とりわけアクセント方面において、金田一春彦平山輝男などを中心に発展した[215]。金田一はアクセント変化の傾向を探り、その知見をもって諸方言におけるアクセントの系譜を論じた[216]。平山は後に「方言基礎語彙」という考えに至り、その全国規模の研究が必要であることを説いている[217]

現代語辞典の登場
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『明解国語辞典』改訂版
表紙には「金田一京助」とあるが、事実上の編纂者は見坊豪紀であり、金田一は名義貸しに過ぎない[218]

日本で最初に現代語を中心とした国語辞典は『明解国語辞典』(三省堂、1943年初版、1952年改訂版、1967年新装版)であった。それまでにも『大言海』(全4巻、冨山房1932年1937年[注釈 42]などが出版されているが、それらは現代語以外の古語を多く含んでいた[218]。また、広く使われた小型辞書には、金沢庄三郎編『小辞林』(三省堂、1928年)などがあるが、文語調による百科事典のような語釈であった。こうした殻を破るために『明解国語辞典』は、「引きやすいこと」「分かりやすいこと」「現代的なこと」を根本的な方針とし[220]、主として当時の新聞から多数の用例を拾い続けながら、見出し語に表音式を採用したり、仮名表記を多用した口語体の語釈にしたりなど、多種多様な工夫を凝らして編纂された[221]

『新明解国語辞典』第7版

やがて後に『明解国語辞典』を下敷きにした『三省堂国語辞典』(三省堂、1960年初版)と『新明解国語辞典』(三省堂、1972年初版)が生まれた。いずれも徹底して実例を蒐集して語釈を帰納するが、前者は「ことばの写生[注釈 43]」という語義記述に特色があり[223]、後者は「単なる類語の換言ではなく、一文で語義を説明する」という態度を貫いている点が優れている[224]

学会・研究会の結成
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1944年に「国語学会」が結成されたが、戦中ということもあって本格的に活動するのは1948年からであった。機関誌『国語学』が創刊されるまでは、学会活動の一環として、東京および京都で夏休み年末年始を除き、ほとんど毎月公開講演会を開催して、その要旨を集録したものを『国語学会会報』[注釈 44]として学会員と関係諸団体に頒布していた[225]。やがて日本語研究を取り巻く環境の変化から、2004年に名称を「日本語学会」に変更し[226][227]、機関誌も『国語学』から『日本語の研究』と名を変えて刊行された[注釈 45]

1956年には、日本語学を主として計算言語学および計量言語学の側から扱う計量国語学会が設立された[注釈 46]。これは世界的に見ても早い部類であることが特筆される[229]。また、同年には奥田靖雄を筆頭に、鈴木重幸鈴木康之高橋太郎工藤真由美らが言語学研究会を設立し、国学以来の活用形を批判して重要な考察を多く提示したほか、民間教育研究団体である教育科学研究会国語部会に対して言語教育副読本にっぽんご』の編集を指導した[230]

研究機関の設立
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国立国語研究所
国文学研究資料館

いずれも大学共同利用機関法人人間文化研究機構を構成する機関の一部である。

国語学会が本格的に活動し始めた1948年には、国立国語研究所が設立されており、日本語に関する各種の調査・研究を実施している。例えば新聞や雑誌を対象に現代語の語彙調査を行い、それを通じて多くの資料が提供されたばかりでなく、それらの分析の中で語彙の構造が幾つか明らかにされたほか、電子計算機統計学的手法を応用する方法論もほぼ確立した[231]。また、社会貢献として「日本の消滅危機言語・方言の研究」「日本語コーパスの開発・拡充」「外国語としての日本語教育研究」なども行われている[232]

関連する機関としては、1972年に創設された国文学研究資料館がある。日本国内各地の日本文学とその関連資料を大規模に集積し、日本文学を筆頭に様々な分野の研究者の利用に供すると同時に、それらに基づく先進的な共同研究を推進しているが[233]、その中には当然ながら日本語学も含まれている。また、2008年度から「若手日本古典文学研究者の奨励と援助」を目的として「業績の公表時に40歳未満である研究者3名以内」に「日本古典文学学術賞」を授与しているが[234]、その対象とする業績は「前年の1月から12月までに公表された、日本古典文学(古典文学と日本語学その他隣接諸学にまたがるものを含む)に関する著書」である[235]

大型辞典の刊行
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1960年より松井簡治の『大日本国語辞典』を引き継いだ大型辞典の編纂が進められ、1972年から1976年の5年間にわたって『日本国語大辞典』(小学館)が刊行された。全20巻、項目数が約45万、用例数が約75万という大部の辞典で、別冊には主要出典一覧、方言資料などが収められている[236]。また、完結した1976年に第30回毎日出版文化賞の特別賞を受賞した[237]

大型辞典の存在価値は「項目数の多さ」と「一項目の情報量が多さ」にあるが、このうち後者に関して『日本国語大辞典』は最大である[238]。とりわけ用例数の多さは、『日本国語大辞典』の大きな特色で、多種の資料が散見される室町時代や江戸時代のものはジャンル名を冠し、明治以降のものは著作者名を入れるという措置によって、資料の時期や性格を知る手掛かりを少しでも付加するよう配慮し、該当箇所に辿り着きやすくするために章節の番号や標題も示している[239][注釈 47]。また、語釈に関しても、用例から帰納して分かりやすい表現で詳細な説明を施すという方針を取っている[241]。なお、収録されている項目は、古語から現代語まで及んでいるのは当然ながら、これまでほとんど対象外となっていた古記録や公家日記の用語、近世地方関係の語彙を多く採用している[238]

第二版は2000年から2002年にかけて全13巻が刊行され、項目数は約50万、用例数は約100万に及んでいる[242]。用例には出典の年代を示したほか、用例の底本を文庫本全集本などから原本に戻すことができた資料が約300点ある[243]

脚注

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注釈

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  1. ^ この他に「日本語研究史[9]」(または「国語研究史[10]」)や「日本語学説史[11]」といった呼称もある。ここでは一般的な名称として使われる「日本語学史」を用いた。
  2. ^ 限定を加えずに広く日本語研究の歴史として捉えると、その対象範囲は日本思想にも及ぶことになり、研究史思想史との境界が希薄なものとなりかねないため、「言語学的観点から一定の評価や判断が可能なもの」を対象として扱うなどの限定を設ける必要性が生じる[12]。こうした点については、飯田晴巳 (1998)山東功 (2015)が詳しい。
  3. ^ 分野によっては訓点資料や抄物のように、若い世代への継承が急務な場合があるほか、中世の辞書や近世語資料のように研究対象が膨大であるために、その全体像の把握のためにさらなる研究者の養成が必要な場合もある[15]
  4. ^ 書誌学的研究は日本語学のみならず、あらゆる学問分野にも付帯的に存在する方法であり、それぞれの目的によって性格は多少なりとも変化する[18]
  5. ^ 一般に「ヲコト点」と呼ばれるが、これは江戸時代以後の呼称であり、院政時代には「テニハ点」といわれ、それ以前は単に「点」とだけ呼ばれていた[21]
  6. ^ いつ頃から手本として使用され始めたのかについては不明な点が多いが、斎宮跡11世紀末から12世紀初頭と考えられる「いろは」の書かれた土器が出土しているほか、12世紀半ば以降の同様の土器も全国各地で出土していることから、「いろは」が出来て間もない頃とされる[23]。なお、2020年時点で全文が確認できる土器としては、堀河院跡に出土した12世紀末から13世紀初頭の土器が最古である[24]
  7. ^ 日本書紀』巻第29(天武天皇11年3月13日条)に「肇めて新字一部四十四巻を造らしむ」とある[25]。この記事が仮に史実でないとしても、天武朝において辞書編纂が行われた可能性はある[26]
  8. ^ 鎌倉初期に増補して十巻本としたものは『伊呂波字類抄』と呼ばれる[35]
  9. ^ 『天仁遠波十三ヶ条口伝』『姉小路家手似葉伝』『出葉抄』『秘伝天爾波抄』など様々な名称で伝わっている[49]
  10. ^ アクセントの高低による「を」と「お」の使い分けは、すでに『類聚名義抄』や『色葉字類抄』などにも見られる[54]
  11. ^ ほとんどが思い付き程度の恣意的なものとされるが[67]、近世初期の言語生活などを知り得る資料とされる[68]
  12. ^ 村田春海清水浜臣『古言梯再考増補標註』にある「古言梯のいて来しをり竟宴の哥」に「古言のかけはしとふふみあつめをへたる日よめる」という魚彦の詞書があることから、実際の書名は「ふることのかけはし」の可能性がある[82]
  13. ^ これらのほかにも、市岡猛彦『雅言仮字格』、鶴峯戊申『増補正誤仮名遣』、村田春海『仮字拾要』などがある[84][85]
  14. ^ 例えば主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける[91]」「にほひの袖にとまれる[92]」のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示した[90]
  15. ^ 成章は皆川淇園と共に漢学を修め、国学に転じた後も兄の漢学に対しては深い理解を示したという[97]
  16. ^ 御杖の言説は、近代において土田杏村が高く評価して以降、改めて注目されるようになっていった[100][101]
  17. ^ 前編は1777年、中編は1862年に刊行されたが、後編は明治になって刊行された[112]
  18. ^ 写本で伝えられて版本の形にならなかった上に、容易に目にすることが可能になるのは、明治に『増補俚言集覧』(1899年~1900年)として刊行されてからである[113]
  19. ^ 版本の形になったのは「い」~「な」の語彙で、全体像を確認することが可能になるのは、1887年に『増補雅言集覧』(1903年版もある)が刊行されてからである[114]
  20. ^ 以上が「近世期の三大辞書」といわれる[115]。これらに『鸚鵡抄』を加えて「四大辞書」といわれることもあるが、『鸚鵡抄』は未刊行であったことを理由に、流布や影響といった側面から除外される[116]
  21. ^ 下一段という名は林圀雄『詞の緒環』によって造られ、中二段の名称はのちに黒沢翁満『言霊指南』によって上二段に改められた[127]
  22. ^ 今日でいう「未然形」のことで、義門と同時期に富樫広蔭は「未然段」と呼んでいた[131]
  23. ^ 今日でいう「終止形」のことで、当時は他にも富樫広蔭の「断止段」や鈴木重胤の「絶定言」などがあった[132]。なお、「終止」を活用形の名称として初めて用いたのは、黒川真頼の可能性が高いとされる[132][133]
  24. ^ 今日でいう「命令形」のことで、『活語雑話』に宣長の『漢字三音考』を参考にした旨が記されていることから、その記述を加味した結果と推察される[134]
  25. ^ これは中世の「体」「用」「てにをは」以来の伝統を継承するものである[135]
  26. ^ 『古事記』や『日本書紀』などのほか、『和名類聚抄』や『倭訓栞』などの辞書類、さらには『先代旧事本紀』が利用されている[144]
  27. ^ 今日におけるヘボン式は、羅馬字会が提案した綴りを下敷きに修正を施したもので[148]、『和英語林集成』第3版(1886年)において確定させた[149]
  28. ^ 例えば「国語学史の最初の刊行書」として注目される保科孝一 (1899)は、「科学的研究が微々として振るわなかったこと」「研究材料の範囲が極端に狭かったこと」「学者の自尊心が強いゆえに比較研究をしなかったこと」を理由にしている[154]。こうした考え方に対しては、時枝誠記のほかに[155]、山田孝雄などが批判している[156]
  29. ^ 大槻は黒川真頼の『詞の栞』の講義にたびたび列席していた[157]。真頼の文法学説には、義門が春庭の説を展開して著した『詞の道しるべ』(1810年)の受容が指摘されている[158]
  30. ^ 中途で打ち切られたのは、編集母胎である大学が廃止されたことに加え、文部省内で「見出し語の配列が徹底していない上に品詞表示がない」「位相の指示や語種の区別が不十分」「漢語が偏っている上に洋語が少なすぎる」「語源記述がほとんどない」「俗語に対する意識が低い」「使用の手引きが見られない」といった体裁が問題視されたことが、原因として挙げられる[162]
  31. ^ 『言海』が刊行されるまでには、近藤真琴の『ことばのその』(1885年)、物集高見の『ことばのはやし』(1888年)、高橋五郎の『漢英対照いろは辞典』(1888年)と『和漢雅俗いろは辞典』(1888年〜1889年)が刊行されているが、いずれも雅語に徹している[163][164]。また、『言海』刊行後、山田美妙が『日本大辞書』(1892年〜1893年)を著したが、アクセントを付した口語体の辞書として歴史的意義がある一方で、全体的に尻窄まりとなってしまっている[165]。こうした点からも『言海』は評価されている。
  32. ^ 赤堀又次郎 (1902)帝国図書館の蔵書が主体となっている[171]
  33. ^ 例えば『口語法調査報告書』は、東条操が「方言区画論」を提唱する契機となった[183]。また『口語法別記』は、口語に関する歴史的変遷を記述した成果として、後の口語研究の可能性を開拓した[184]
  34. ^ 当初は「歐米ニ於ル言語研究者ノ言語觀念ノ發達ニ就テ、言語研究ノ方法及其目的、歐米言語学ノ國語學ニ及ボシタル影響」など、幾つか構想を練っていたが、橋本進吉から「到底この1年間にできるようなものではない」という指摘を受けて決定したという[188]。なお、この卒論は後に時枝誠記 (1976)として原本が写真版で複製されている。
  35. ^ 時枝自身は「人間を取り戻すこと」としている[195]
  36. ^ 詳細については時枝誠記 (1941)時枝誠記 (1955)などで説明されているが、早くに時枝誠記 (1933)で随想的に示されており、時枝誠記 (1937a)で成立の基本的意見が断片的に示された後に、時枝誠記 (1937b)および時枝誠記 (1937c)で真正面に打ち出されている[196]
  37. ^ ただし、時枝が指摘するソシュールの言語観に対する理解の在り方については、時枝が『一般言語学講義』を文献学的検証もなしに批判していることもあって、数多くの議論を呼んでいる[197]
  38. ^ 時枝の文法論については、時枝誠記 (1941)のほか、時枝誠記 (1950)時枝誠記 (1954)などに詳しいが、いずれも「山田文法」を多く引用して説明していることから、山田孝雄の言語論を根幹としているとされる[198]
  39. ^ 例えば時枝誠記 (1949)などにおいて、「言語の実践に関する議論であるならば、それは他の言語現象と共に、それ自体が国語学の対象とならなければならない」「国語における音声や文字や文法が国語学の対象となるのと同じように、国語の主体的意識の問題として考察の対象となる」と述べている[200]
  40. ^ 藤原定家の作と伝えられている歌学書『愚秘抄』(平安末期頃に成立か)が最初とされる[210]。この思想は近世期で一層有力になり、例えば本居宣長の『玉勝間』や荻生徂徠の『南留別志』などにおいて、そのような旨の言及が見られる[211]
  41. ^ 柳田自身も1905年頃から関心を持っていた地名の研究を通じて体験していた[212]
  42. ^ 『言海』の増補改訂版。当初は大槻自身が改訂作業を進めていたが、事半ばにして1928年に没した後に実兄の大槻如電らが引き継ぎ、関根正直や新村出らの指導を得て完成させた[219]
  43. ^ 説明を読んだ人が、その語を自然に思い浮かべることができるよう、日常語で具体的に記述することを指す[222][223]。例えば「」について、「水素酸素からなる化合物」といったような化学的説明ではなく、「生活するのに欠かせない、透き通った冷たい液体」といった一般的認識を説明するようにした[222][223]
  44. ^ 原本はB4版のザラ紙を二つ折りにしたリーフレットで、第1号(昭和21年9月10日付)から第11号(昭和23年10月25日付)まで発行された[225]
  45. ^ 1982年から明治書院が継続して刊行している『日本語学』などの学術雑誌と名称が重複するのを避けたからであるが、このことは単なる雑誌名の問題を超えて、その学知がどのような方向性で今後なされていくのかという点とも関係している[228]
  46. ^ 英称は The Mathematical Linguistic Society of Japan(直訳すると「日本数理言語学会」)である。和名と食い違っているのは、「将来必ずや統計学に留まらず数学の諸分野の手法を使うようになるだろうことを見越した」のが、主な理由であるという[229]
  47. ^ ただし一民間会社の出版物ゆえに量的な制限もあり、「各時代から少なくとも1例は挙げる」ということが実現している項目は少ない[240]

出典

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参考文献

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  • 山田忠雄『近代国語辞書の歩み:その摸倣と創意と(上巻・下巻)』三省堂、1981年7月。 
  • 山東功『明治前期日本文典の研究』和泉書院〈研究叢書274〉、2002年1月。ISBN 4-7576-0131-X 
  • 山東功『日本語の観察者たち:宣教師からお雇い外国人まで』岩波書店〈そうだったんだ!日本語〉、2013年10月。ISBN 978-4-00-028628-2 
  • 時枝誠記『国語学原論』岩波書店、1941年12月。 
  • 時枝誠記『国語問題と国語教育』中教出版、1949年11月。 (増訂版、1961年10月)
  • 時枝誠記『日本文法(口語篇)』岩波書店〈岩波全書114〉、1950年。 
  • 時枝誠記『日本文法(文語篇)』岩波書店〈岩波全書183〉、1954年。 
  • 時枝誠記『国語学原論:続編』岩波書店、1955年6月。 
  • 時枝誠記『国語学への道』三省堂、1957年10月。 
  • 時枝誠記『日本ニ於ル言語観念ノ発達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)』明治書院〈時枝誠記博士著作選1〉、1976年9月。 
  • 松井栄一『国語辞典はこうして作る:理想の辞書をめざして』港の人、2005年12月。ISBN 4-88008-346-1 
  • 神島達郎『山田孝雄と谷崎潤一郎:百千度く理かへしても読毎にこと新なり古之典』右文書院、2021年5月。ISBN 978-4-8421-0814-8 
  • 仁田義雄国語問題と日本語文法研究史ひつじ書房、2021年12月。ISBN 978-4-8234-1114-4https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1114-4.htm 
  • 杉本つとむ『西洋人の日本語発見:外国人の日本語研究史』講談社講談社学術文庫1856〉、2008年1月(原著1989年3月)。ISBN 978-4-06-159856-0 
  • 赤堀又次郎國語學書目解題』吉川半七、1902年4月https://dl.ndl.go.jp/pid/991486 (複製版、勉誠社、1976年9月)
  • 倉島長正『日本語一〇〇年の鼓動:日本人なら知っておきたい国語辞典誕生のいきさつ』小学館、2003年3月。ISBN 4-09-387416-6 
  • 築島裕『歴史的仮名遣い:その成立と特徴』中央公論社〈中公新書810〉、1986年7月。ISBN 4-12-100810-3 吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2014年2月。ISBN 978-4-642-06573-3
  • 釘貫亨『近世仮名遣い論の研究:五十音図と古代日本語音声の発見』名古屋大学出版会、2007年10月。ISBN 978-4-8158-0570-8 
  • 釘貫亨『「国語学」の形成と水脈』ひつじ書房〈ひつじ研究叢書:言語編113〉、2013年12月。ISBN 978-4-89476-660-0https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-89476-660-0.htm 
  • 田中康二『本居宣長の国文学』ぺりかん社、2015年12月。ISBN 978-4-8315-1425-7 
  • 土居文人『語源辞書松永貞徳『和句解』本文と研究』和泉書院〈研究叢書457〉、2015年2月。ISBN 978-4-7576-0737-8 
  • 尾崎知光『国語学史の基礎的研究:近世の活語研究を中心として』笠間書院〈笠間叢書179〉、1983年11月。 
  • 保科孝一國語學小史』大日本図書、1899年8月https://dl.ndl.go.jp/pid/993663 
  • 木枝増一『假名遣研究史』賛精社、1933年6月。 
  • 齋藤精輔『辞書生活五十年史』図書出版社、1991年11月。ISBN 4-8099-0502-0 
  • 國學院大學日本文化研究所 編『歴史で読む国学』ぺりかん社、2022年3月。ISBN 978-4-8315-1611-4 

論文

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  • 安田尚道「石塚龍麿」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、64-67頁。 
  • 安田敏朗安藤正次」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、18-21頁。 
  • 安部清哉佐藤喜代治」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、70-73頁。 
  • 庵功雄三上章」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、42-45頁。 
  • 井上史雄W・A・グロータース」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、58-61頁。 
  • 益岡隆志松下大三郎」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、10-13頁。 
  • 遠藤佳那子「近世後期の活用研究とテニヲハ論における〈命令形〉」『日本語の研究』第9巻第4号、日本語学会、2013年10月、78-63頁。 
  • 遠藤佳那子「黒川真頼の活用研究と草稿「語学雑図」」『日本語の研究』第12巻第2号、日本語学会、2016年4月、67-52頁。 
  • 遠藤佳那子「富士谷成章」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、56-59頁。 
  • 遠藤佳那子「黒川真頼における『詞八衢』の受容と展開」『国語と国文学』第94巻第7号、明治書院、2017年7月、56-59頁。 
  • 遠藤佳那子「活用形のなまえ:未然形」『鶴見日本文学会報』第89号、鶴見大学日本文学会、2022年3月、2-3頁。 
  • 遠藤佳那子「活用形のなまえ:終止形」『鶴見日本文学会報』第90号、鶴見大学日本文学会、2023年3月、3頁。 
  • 遠藤嘉基 著「日本語研究の歴史(1)」、大野晋柴田武 編『日本語と国語学』岩波書店〈岩波講座日本語1〉、1976年11月、177-230頁。ISBN 4-00-010061-0 
  • 遠藤織枝寿岳章子」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、110-113頁。 
  • 岡田希雄「國語學國語學史の書誌學的研究」『立命館文學』第1巻第7号、1934年7月、71-101頁。 
  • 岡田袈裟男「新井白石」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、36-39頁。 
  • 沖森卓也「いろは引き・五十音引き辞典の系譜」『月刊しにか』第11巻第3号、大修館書店、2000年3月、38-43頁。 
  • 沖森卓也「上代の辞書:『新字』は存在したか」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、27-41頁。 
  • 加藤彰彦 著「国語国字問題の歴史」、佐伯梅友中田祝夫林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、561-616頁。 (増補版、1978年7月)
  • 柿木重宜 著「近・現代における語源学と主要参考文献」、吉田金彦 編『日本語の語源を学ぶ人のために』世界思想社、2006年12月、301-326頁。ISBN 4-7907-1224-9 
  • 茅島篤「前島密」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、84-87頁。 
  • 乾善彦仙覚」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、20-23頁。 
  • 間宮厚司大野晋」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、106-109頁。 
  • 丸山徹「ロドリゲス」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、28-31頁。 
  • 岸本恵実「土井忠生」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、38-41頁。 
  • 吉田金彦 著「辞書の歴史」、阪倉篤義 編『語彙史』大修館書店〈講座国語史3〉、1971年9月、413-538頁。 
  • 久野眞「平山輝男」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、54-57頁。 
  • 宮坂和江 著「文章様式研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、400-418頁。 (増補版、1978年7月)
  • 宮崎里司「J.V.ネウス トプニー」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、130-133頁。 
  • 宮治弘明 著「方言研究史」、徳川宗賢・真田信治 編『新・方言学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年2月、242-263頁。ISBN 4-7907-0387-8 
  • 宮地裕 著「現代語・言語生活研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、374-399頁。 (増補版、1978年7月)
  • 金岡孝 著「語彙研究の歴史」、大野晋・柴田武 編『語彙と意味』岩波書店〈岩波講座日本語9〉、1977年6月、371-404頁。ISBN 4-00-010069-6 
  • 金子弘「ホフマン」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、72-75頁。 
  • 金子彰「中古の辞書:類聚名義抄」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、57-67頁。 
  • 熊谷康雄「柴田武」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、98-101頁。 
  • 月本雅幸「空海」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、4-7頁。 
  • 犬飼隆「日本の辞書の起源」『月刊しにか』第11巻第3号、大修館書店、2000年3月、16-21頁。 
  • 犬飼守薫「近代的国語辞典の誕生」『月刊しにか』第11巻第3号、大修館書店、2000年3月、72-77頁。 
  • 古田東朔 著「文法研究の歴史(2)」、大野晋・柴田武 編『文法1』岩波書店〈岩波講座日本語6〉、1976年12月、299-356頁。ISBN 4-00-010066-1 
  • 工藤浩日本語学史:文法を中心に」『日本語要説』(改訂版)ひつじ書房、2009年6月(原著1993年5月)。ISBN 978-4-89476-468-2http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kudohiro/gakusi.html 
  • 工藤真由美「新日本語学者列伝:奥田靖雄」『日本語学』第32巻第2号、明治書院、2013年2月、72-78頁。 
  • 幸田国広西尾実」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、30-33頁。 
  • 甲斐睦朗林大」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、74-77頁。 
  • 高山倫明春日政治」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、22-25頁。 
  • 髙山知明「馬渕和夫」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、102-105頁。 
  • 今野真二「藤原定家」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、16-19頁。 
  • 斎藤文俊「近世・近代の漢文訓読」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、56-62頁。 
  • 斎藤倫明「山田孝雄」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、112-115頁。 
  • 山口明穂 著「国語学史」、国語学会 編『国語学の五十年』武蔵野書院、1995年5月、275-284頁。ISBN 4-8386-0154-9 
  • 山崎誠「新日本語学者列伝:見坊豪紀」『日本語学』第32巻第4号、明治書院、2013年4月、84-91頁。 
  • 山田潔「『長崎版日葡辞書』とパジェス『日仏辞書』」『悠久』第143号、おうふう、2015年11月、39-53頁。 
  • 山田潔「山田忠雄」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、86-89頁。 
  • 山田健三「亀井孝」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、66-69頁。 
  • 山田忠雄「国語学における書誌的方法について:特に文語研究よりみたる」『国語と国文学』第25巻第3号、至文堂、1948年3月、44-59頁。 
  • 山田敏弘「寺村秀夫」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、118-121頁。 
  • 山東功「日本語学への道」『国語学』第52巻第2号、国語学会、2001年6月、97-98頁。 
  • 山東功「言語意識と日本語研究」『日本語学』第20巻第8号、明治書院、2001年7月、6-14頁。 
  • 山東功「【日本語学史】時枝誠記『国語学史』」『日本語学』第26巻第5号、明治書院、2007年4月、84-86頁。 
  • 山東功「私が勧めるこの一冊(第27回)『国語学史』時枝誠記【著】」『日本語学』第30巻第8号、明治書院、2011年7月、76-82頁。 
  • 山東功「『日本語学』と日本語学史」『日本語学』第31巻第14号、明治書院、2012年11月、118頁。 
  • 山東功「〈研究史〉国語学史と言語思想史」『日本思想史学』第47号、日本思想史学会、2015年9月、37-47頁。 
  • 山東功「物集高見」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、92-95頁。 
  • 山東功 著「日本語学史」、衣畑智秀 編『基礎日本語学』ひつじ書房、2019年2月、284-309頁。ISBN 978-4-89476-946-5 (第2版、2023年3月。ISBN 978-4-8234-1195-3
  • 山東功「時枝誠記」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、34-37頁。 
  • 山内育男 著「かなづかい研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、132-154頁。 (増補版、1978年7月)
  • 山本真吾 著「国語学史」、木田章義 編『国語史を学ぶ人のために』世界思想社、2013年4月、261-285頁。ISBN 978-4-7907-1596-2 
  • 山本真吾「中古の辞書:色葉字類抄」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、68-78頁。 
  • 山本真吾「落葉集」『悠久』第143号、おうふう、2015年11月、28-38頁。 
  • 山本真吾「築島裕」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、114-117頁。 
  • 時枝誠記「国語学の体系についての卑見」『コトバ』第3巻第12号、不老閣書房、1933年9月、80-86頁。 
  • 時枝誠記「文の解釈上より見た助詞助動詞」『文学』第5巻第3号、岩波書店、1937年3月、20-56頁。 
  • 時枝誠記「心的過程としての言語本質観(1)」『文学』第5巻第6号、岩波書店、1937年6月、1-30頁。 
  • 時枝誠記「心的過程としての言語本質観(2)」『文学』第5巻第7号、岩波書店、1937年7月、1-21頁。 
  • 小松英雄 著「字音研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、114-131頁。 (増補版、1978年7月)
  • 小野正弘「新村出」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、6-9頁。 
  • 小林恭治「カタカナと観智院本類聚名義抄の転写の階層」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、30-37頁。 
  • 小林千草「清原宣賢」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、24-27頁。 
  • 小林芳規 著「国語史研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、509-560頁。 (増補版、1978年7月)
  • 小林芳規 著「文法研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、331-373頁。 (増補版、1978年7月)
  • 小林芳規「漢字字書の誕生」『月刊しにか』第11巻第3号、大修館書店、2000年3月、29-37頁。 
  • 小林賢次「『日葡辞書』を繙く」『月刊しにか』第11巻第3号、大修館書店、2000年3月、44-47頁。 
  • 小林隆方言研究から見た「国語学」「日本語学」」『国語学』第53巻第2号、2002年4月、97頁。 
  • 小林隆「柳田國男」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、116-119頁。 
  • 松井栄一「「日本国語大辞典」の特色と課題」『日本語学』第13巻第7号、明治書院、1994年6月、14-21頁。 
  • 松村明 著「言語理論・総記」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、15-61頁。 (増補版、1978年7月)
  • 上野善道服部四郎」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、46-49頁。 
  • 上野和昭「金田一春彦」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、78-81頁。 
  • 森野宗明 著「活用研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、309-330頁。 (増補版、1978年7月)
  • 神戸和昭湯澤幸吉郎」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、26-29頁。 
  • 仁田義雄「国語学から日本語学へ」『言語』第17巻第9号、大修館書店、1988年9月、56-61頁。 
  • 清水康行「上田万年」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、108-111頁。 
  • 西宮一民 著「文字研究の歴史(1)」、大野晋・柴田武 編『文字』岩波書店〈岩波講座日本語8〉、1977年3月、385-417頁。ISBN 4-00-010068-8 
  • 青木孝 著「辞書・索引作成の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、226-279頁。 (増補版、1978年7月)
  • 青木伶子 著「てにをは研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、280-308頁。 (増補版、1978年7月)
  • 石井正彦「宮島達夫」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、126-129頁。 
  • 川平ひとし「歌学と語学:創作論の枠とその帰趨」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、21-29頁。 
  • 泉井久之助 著「言語研究の歴史」、大野晋・柴田武 編『日本語と国語学』岩波書店〈岩波講座日本語1〉、1976年11月、275-349頁。ISBN 4-00-010061-0 
  • 倉島節尚「古辞書とは」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、16-26頁。 
  • 村山七郎 著「国語系統論・比較研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、62-92頁。 (増補版、1978年7月)
  • 大橋保夫 著「音韻研究の歴史(2)」、大野晋・柴田武 編『音韻』岩波書店〈岩波講座日本語5〉、1977年8月、447-485頁。ISBN 4-00-010065-3 
  • 大石初太郎 著「敬語の研究史」、大野晋・柴田武 編『敬語』岩波書店〈岩波講座日本語4〉、1977年5月、205-246頁。ISBN 4-00-010064-5 
  • 大田栄太郎 著「方言研究史」、飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一 編『方言研究の問題』国書刊行会〈講座方言学3〉、1986年5月、1-32頁。ISBN 4-336-01974-6 
  • 大野晋 著「日本語研究の歴史(2):明治以降」、大野晋・柴田武 編『日本語と国語学』岩波書店〈岩波講座日本語1〉、1976年11月、231-274頁。ISBN 4-00-010061-0 
  • 築島裕 著「訓点語研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、492-508頁。 (増補版、1978年7月)
  • 竹田純太郎「鈴屋一門の語学研究の新側面」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、47-55頁。 
  • 竹内美智子 著「語源・語彙・意味研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、175-225頁。 (増補版、1978年7月)
  • 中井精一「徳川宗賢」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、122-125頁。 
  • 中山綠朗「中世の辞書:下学集・和玉篇・聚分韻略・塵袋・塵添壒嚢鈔」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、79-89頁。 
  • 中村朱美「本居春庭」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、60-63頁。 
  • 中田祝夫 著「国語研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、3-11頁。 (増補版、1978年7月)
  • 中尾比早子「日本語研究史における副詞の位置付け」『名古屋大学国語国文学』第102号、名古屋大学国語国文学会、2009年11月、90-76頁。 
  • 長谷川千秋「契沖」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、32-35頁。 
  • 辻村敏樹 著「敬語研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、419-439頁。 (増補版、1978年7月)
  • 坪井美樹「鈴木朖」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、68-71頁。 
  • 釘貫亨「有坂秀世」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、50-53頁。 
  • 田中康二「『玉あられ』受容史」『渾沌〈近畿大学大学院文芸学研究科紀要〉』第11号、2014年3月、1-36頁。 
  • 田中康二「係り結びの法則成立史」『神戸大学文学部紀要』第42号、2015年3月、1-42頁。 
  • 田島優「夏目漱石」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、104-107頁。 
  • 田島優「池上禎造」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、62-65頁。 
  • 田籠博「越谷吾山」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、48-51頁。 
  • 土居文人 著「近世までの語源学と主要参考文献」、吉田金彦 編『日本語の語源を学ぶ人のために』世界思想社、2006年12月、285-300頁。ISBN 4-7907-1224-9 
  • 湯浅茂雄「江戸の国語辞典あれこれ」『月刊しにか』第11巻第3号、大修館書店、2000年3月、57-64頁。 
  • 湯浅茂雄「大槻文彦」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、88-91頁。 
  • 藤森裕司「垣内松三」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、14-17頁。 
  • 藤田保幸「森鴎外」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、96-99頁。 
  • 藤本灯「源順」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、12-15頁。 
  • 徳川宗賢 著「方言研究の歴史」、大野晋・柴田武 編『方言』岩波書店〈岩波講座日本語11〉、1977年11月、327-378頁。ISBN 4-00-010071-8 
  • 内田賢徳阪倉篤義」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、90-93頁。 
  • 内田宗一「賀茂真淵」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、40-43頁。 
  • 日野資純 著「方言研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、440-491頁。 (増補版、1978年7月)
  • 馬渕和夫 著「国語史研究史」、松村明 編『国語史総論』大修館書店〈講座国語史1〉、1977年5月、261-366頁。 
  • 馬渕和夫 著「音韻研究の歴史(1)」、大野晋・柴田武 編『音韻』岩波書店〈岩波講座日本語5〉、1977年8月、411-446頁。ISBN 4-00-010065-3 
  • 飯間浩明見坊豪紀」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、82-85頁。 
  • 飯田晴巳「日本語学史の構想」『富士フェニックス論叢』特別号、富士フェニックス短期大学、1998年11月、83-143頁。 
  • 飯田晴巳「中古の辞書:倭名類聚抄」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、42-56頁。 
  • 肥爪周二「悉曇学より日本語研究へ:連声をめぐって」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、4-11頁。 
  • 肥爪周二「橋本進吉」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、120-123頁。 
  • 尾崎知光 著「文法研究の歴史(1)」、大野晋・柴田武 編『文法1』岩波書店〈岩波講座日本語6〉、1976年12月、259-297頁。ISBN 4-00-010066-1 
  • 服部隆「西周」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、80-83頁。 
  • 服部隆「森岡健二」『日本語学』第39巻第1号、明治書院、2020年3月、94-97頁。 
  • 平井吾門「谷川士清」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、44-47頁。 
  • 峯岸明 著「文字・用字法研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、155-174頁。 (増補版、1978年7月)
  • 芳賀綏 著「音韻・アクセント研究の歴史」、佐伯梅友・中田祝夫・林大 編『国語学』三省堂〈国語国文学研究史大成15〉、1961年2月、93-113頁。 (増補版、1978年7月)
  • 望月郁子「平安時代の辞書」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、12-20頁。 
  • 木村一「近世の辞書:節用集」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、90-102頁。 
  • 木村一「ヘボン」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、76-79頁。 
  • 木村義之「近世の辞書:『倭訓栞』『雅言集覧』『俚言集覧』」『悠久』第139号、おうふう、2015年2月、103-121頁。 
  • 野村剛史二葉亭四迷」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、100-103頁。 
  • 矢田勉「本居宣長」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、52-55頁。 
  • 矢島文夫 著「文字研究の歴史(2)」、大野晋・柴田武 編『文字』岩波書店〈岩波講座日本語8〉、1977年3月、419-450頁。ISBN 4-00-010068-8 
  • 林史典「円仁」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、8-11頁。 
  • 鈴木一彦時枝誠記博士著述目録並びに研究歴」『国語学』第72号、国語学会、1968年3月、137-144頁。 
  • 鈴木広光「翻訳書としてのキリシタン文献」『日本語学』第17巻第7号、明治書院、1998年6月、38-46頁。 

その他

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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