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1992年に史上初の四段でのタイトルとなる[[王位戦 (将棋)|王位]]を獲得する。デビュー当時、将棋雑誌において、「郷田四段のような二枚目棋士がきっかけで、女性ファンの拡大につながれば」<ref>1990年度NHK将棋講座8月号、編集記事より</ref>などの記事がある。また、1995年からは眼鏡をかけてイメージチェンジした<ref>「[[将棋マガジン]]」(日本将棋連盟)1995年9月号</ref>。 |
1992年に史上初の四段でのタイトルとなる[[王位戦 (将棋)|王位]]を獲得する。デビュー当時、将棋雑誌において、「郷田四段のような二枚目棋士がきっかけで、女性ファンの拡大につながれば」<ref>1990年度NHK将棋講座8月号、編集記事より</ref>などの記事がある。また、1995年からは眼鏡をかけてイメージチェンジした<ref>「[[将棋マガジン]]」(日本将棋連盟)1995年9月号</ref>。 |
2020年7月16日 (木) 23:04時点における版
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郷田真隆 九段 | |
---|---|
名前 | 郷田真隆 |
生年月日 | 1971年3月17日(53歳) |
プロ入り年月日 | 1990年4月1日 (19歳) |
棋士番号 | 195 |
出身地 | 東京都 |
師匠 | 大友昇 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 郷田真隆 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 6期 |
一般棋戦優勝回数 | 7回 |
2017年3月15日現在 |
郷田 真隆(ごうだ まさたか、1971年3月17日 - )は、将棋棋士。棋士番号は195。東京都練馬区出身。大友昇九段門下。いわゆる「羽生世代」の一人。駿台学園中学校・高等学校卒業[1]。
棋歴
小学校6年生だった1982年12月、奨励会に6級で入会するも、当初は成績不振で、一時は7級に降級した。しかしその後は順調に昇級を重ね、入会から2年半で初段昇段。1985年12月に二段に昇段するが、翌年に高校に入学すると「あまり将棋の勉強をしなかった」(本人談)ということで一時成績が低迷する。本人によればこの時期に初恋を経験するなど、プライベートでいろいろ出来事があったという[3]。三段リーグに入ったのは1988年。以来、次点(3位)、5位、5位と好成績を3期続け、ついに4期目に14勝4敗で2位の成績を収めて、19歳でプロデビュー(四段昇段)を果たす(1990年4月1日)。同学年の羽生善治が、すでに初の竜王位に就いていた頃のことであった。
プロ3年目の1992年度にタイトルに3度挑戦する。相手は全て谷川浩司であった(棋聖戦前期・後期、王位戦)。うち王位戦七番勝負(第33期)で谷川を4勝2敗で破り、初のタイトル獲得(1992年9月9日)。順位戦C級2組在籍・四段でのタイトル獲得は史上初であり唯一の四段でのタイトル獲得者(後述、最低段タイトル獲得の歴代1位者であり、1位タイ記録者がいないため)である。なお、その後昇段規定が改正され、四段のままタイトルを獲得することは不可能となっている(タイトル挑戦を決めた時点で四段から五段に昇段するため。なお、獲得した場合は同時に七段に昇段する)[4]。また、プロデビューから2年5か月での初タイトル奪取は、屋敷伸之に次ぎ歴代2位である。これらの成績により、本年度の将棋大賞の殊勲賞と新人賞を同時受賞。
1993-1995年度の王位戦は、羽生善治との3年連続同一カードとなったが、いずれも防衛・奪取はならなかった。
1993-1995年、日本シリーズで3連覇を達成。なお、この棋戦は、タイトル獲得者や順位戦の上位者などの一握りの棋士だけが参加できる棋戦であるが、王位失冠後の1994-1996年も、前回優勝者(第1シード)として出場資格が与えられた。
1994年度は52勝19敗の成績で、将棋大賞の最多勝利賞と最多対局賞を初受賞。
1997年度の早指し将棋選手権戦で、決勝で羽生を破り優勝。長考派は早指しでも強いということを、前記の日本シリーズに続き実証した。同年度、第23期棋王戦で羽生に挑戦。1勝3敗で敗れる。この年度は、将棋大賞の記録4部門のうちの3つ(勝率1位賞・最多対局賞・最多勝利賞 = 48勝15敗、勝率0.762)と敢闘賞を受賞する。
1998年、棋聖戦五番勝負で屋敷伸之を破り、棋聖位を奪取。翌年、谷川浩司に奪われる。
1999年4月、A級八段となる。しかし、初のA級順位戦(第58期 = 1999年度)では3勝6敗と8位の島朗八段と同成績ながら順位差で残留できず、1期でA級から陥落する。翌期のB級1組では次点で昇級を逃し[5]、さらに次のB級1組でA級に復帰。ところが、2度目のA級(第61期=2002年度)も、4勝5敗と健闘するも順位差で9位(A級棋士10人中5名が4勝5敗となる混戦)となり1期で降級し、翌期にB級1組で次点、その次でA級昇級(復帰)という、3年一組の、まったく同じパターンとなった。
第49回(1999年度)NHK杯戦で決勝進出するが、鈴木大介に敗れて準優勝。
2001年8月2日、棋聖戦五番勝負最終局で羽生を破り、棋聖に復位[6]。タイトル通算3期となり九段昇段した。棋聖位は、翌年、佐藤康光に奪われる[7]。
3度目のA級順位戦(第64期 = 2005年度)で5勝4敗と勝ち越し、ようやくA級初残留をする[8]。
2006年度A級順位戦で圧倒的な強さを見せ、8回戦(2007年2月1日)で勝利した時点で、最終9回戦を待たずして初の名人挑戦を決めた。対局終了の後、その日の朝に父が死去していたことを知らされる。「大事な一戦の最中に余計な心配をかけたくない」という家族の意向であった。森内俊之との第65期(2007年度)名人戦七番勝負は、3勝4敗で敗退[9]。
同年度(2007年度)、第1回ネット将棋・最強戦において、決勝で丸山忠久九段を破り、初代王者に輝く[10]。後述にあるように、将棋の研究などにパソコンを利用することに否定的な郷田が、第1回の優勝者となったことは話題となった。
2008年度のA級順位戦を制し、2009年、自身2度目となる名人戦を羽生と戦う。2勝2敗で迎えた第5局は初の名人戦開催に沸く秋田市で行われたが、郷田は単独の旅程で宮城県に寄り、師匠の大友の墓参りをしてから秋田に向かった。この一局に勝ち、3勝2敗で名人獲得にあと1勝とした。しかし、残り2局を落とし敗退した[11]。
2011年度、第37期棋王戦でトーナメントを勝ち上がり、本戦優勝者として挑戦者決定二番勝負に進出する。二番勝負の相手は本戦決勝でも戦った広瀬章人であった。郷田は第一局を落としたものの、第二局に勝利し、14年ぶりの棋王挑戦を決める。そして久保利明との五番勝負を3勝1敗で制し、初の棋王獲得[12]。2001年度以来10年ぶりにタイトル保持者となる。しかし翌年に渡辺明に敗れ、再び無冠に転落。
2013年度はNHK杯戦を勝ち上がり、決勝では丸山忠久を下して初優勝を飾った[13]。なおタイトル戦の挑戦者決定戦にも3度登場するという活躍も見せたが、こちらは全て敗退している[14]。
2014年度、第64期王将戦の挑戦者決定リーグ戦で1位タイとなり、羽生との挑戦者決定戦を行い勝利、渡辺明王将への挑戦権を得る。七番勝負では第2局で頓死するなど2連敗スタートだったが、その後2連勝して追いつき、最終的に4勝3敗で制し初の王将位を獲得した。44歳での初王将は最年長記録である[15]。
2015年度、第1期叡王戦において本戦Aブロックを勝ち上がり決勝三番勝負に進出したが、山崎隆之八段に0-2で破れ準優勝となった。第65期王将戦では挑戦者の羽生を4勝2敗で退けて自身初のタイトル防衛となった。
2016年度、第66期王将戦では久保利明九段が挑戦者となった。七番勝負は4勝2敗で久保が制し、郷田は2期で王将位を明け渡すことになった[16]。
棋風
生粋の居飛車党。稀に陽動振り飛車を採用することもある(第67期名人戦七番勝負第6局など)。妥協せず、また、踏み込みのよい直線的な攻め合いをする剛直な棋風である。
後手番のとき、2手目(後手番の初手)で角道を開ける△3四歩よりも飛車先の歩を伸ばす△8四歩と指すことが多い。また、△3四歩と指すにしても「後手番一手損角換わり」ではなく「横歩取り」などの戦形に誘導する。これに関し本人は、「後手番一手損角換わりは嫌い」と発言している[17]。しかし、2012年3月2日、A級順位戦最終局の対羽生戦において、一手損角換わりを初採用し、周囲を驚かせた(結果は郷田負け)。
序盤から長考することが多いが、持ち時間の少ない早指し将棋や残り時間の無い秒読みの戦いにも強い。これに関しては、加藤一二三との類似性がある。
人物 ・エピソード
大友門下の棋士は2人で、唯一の兄弟弟子は森雞二である。
1992年に史上初の四段でのタイトルとなる王位を獲得する。デビュー当時、将棋雑誌において、「郷田四段のような二枚目棋士がきっかけで、女性ファンの拡大につながれば」[18]などの記事がある。また、1995年からは眼鏡をかけてイメージチェンジした[19]。
パソコンやメールなどを用いた研究や情報交換には否定的・無関心であるとされる。棋譜データベースの利用についても、将棋会館に行けば棋譜はいくらでも参照できるとする。さらには、2007年第65期名人戦に挑戦した際の将棋世界誌インタビューでは、コンピュータ将棋の発展についても批判的な意見を述べた。そのため、前述にあるように、ネット将棋・最強戦で第1回の優勝者となったことは話題となった。その一方で郷田は、優勝の副賞でパソコンがもらえる件について、「まだ手元に届いてはいないのですけど、これからやってみようと思っています。いよいよデビューですね。」とコメントしたりもしているが[20]、2012年現在もパソコンには触れていないとコメントしている[21]。
森内名人と戦った第65期名人戦の第1局1日目(2007年4月10日)の午後、森内の手番(24手目)のときに、郷田が扇子を開け閉じして音を鳴らしたため、森内が苦情を訴えた。立会人の中村修らが対応に追われ、約30分間対局が中断した。この一局では郷田が逆転勝利している。
第28回(2007年)日本シリーズ2回戦の対佐藤康光戦で二歩を打ち、自身初の反則負けとなる。
第65回NHK杯将棋トーナメントにおける広瀬章人八段との対局で、指した後に何回も駒をそろえる仕草を行い、時には広瀬八段の秒読み10秒近くまで盤上の駒揃えを行い続けて、マナー違反ではと指摘を受けた。
第23期竜王ランキング戦1組1回戦(2010年1月21日)にて、寝坊により森内俊之九段との対局開始時間に間に合わず、規定時間も過ぎたため不戦敗[22]となり、対局料の不支払い・竜王戦月額手当年額の半分返納・1日ボランティア活動という厳しい処分を受ける。敗者復活戦である5位決定戦に回りそこを勝ち抜いたが、本戦で久保利明二冠(王将、棋王)に敗れた。
第70期順位戦(2011年度)の1回戦、渡辺明との対局で、角換わり腰掛け銀の先後同形から先手の渡辺が富岡流を用いた。後手の郷田は先手必勝の変化に飛び込み、終局まで100%定跡通りの手を指して投了した。感想戦で定跡だと告げられた郷田は「定跡ですか…そうですか…」と落胆した。
『将棋世界』2012年6月号に掲載されたインタビューの中で、スポーツ観戦や映画鑑賞が趣味であることを明かしている。特にプロレスが好きで「観戦歴は35年を超える」という[23]。幼少時は全日本プロレス派だったとのことで、小橋建太については「デビュー時から引退試合まで見ている」と語っている[24]。近年は将棋好きで知られる田口隆祐(新日本プロレス)と、『将棋世界』2014年4月号で対談を行ったのを機に交流が続いている[25]。
若い頃はビリヤードを趣味としていた。ビリヤードは高校時代に始めたもので、腕前は本人曰く「将棋の棋力でいうとアマ2級くらい」[26]。
2016年8月27日、8歳年下の一般女性と入籍[27]。
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- 1982年 6級 = 奨励会入会
- 1988年1月 三段(1988年度前期から三段リーグ)
- 1990年4月1日 四段(三段リーグ2位) = プロ入り
- 1992年10月1日 五段(王位獲得など抜群の成績)
- 1995年11月20日 六段(勝数規定)
- 1998年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1999年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
- 2001年8月6日 九段(タイトル獲得3期)
主な成績
タイトル
- 登場回数18、獲得合計6
一般棋戦優勝
- 早指し将棋選手権 1回(第31回)
- 日本シリーズ 3回(1993年度 = 第14回、1994年度、1995年度)
- 勝ち抜き戦(5連勝以上) 1回(第20回)
- ネット将棋・最強戦 1回(2007年度 = 第1回)
- NHK杯テレビ将棋トーナメント 1回(2013年度=第63回)
- 優勝合計7
- 非公式戦
- 銀河戦 2回(非公式戦時代の第1期・第7期で優勝)
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
将棋大賞
- 第20回(1992年度) 新人賞・殊勲賞
- 第22回(1994年度) 最多勝利賞・最多対局賞・殊勲賞
- 第23回(1995年度) 殊勲賞
- 第25回(1997年度) 勝率第一位賞・最多対局賞・最多勝利賞・敢闘賞
- 第26回(1998年度) 敢闘賞
- 第29回(2001年度) 殊勲賞
- 第39回(2011年度) 敢闘賞
- 第41回(2013年度) 敢闘賞
- 第42回(2014年度) 敢闘賞
記録(歴代1位のもの)
- 最低段位でのタイトル獲得(四段、第33期王位戦)
- 最年少での王位獲得 21歳
- 日本シリーズ3連覇(1993 - 1995)
その他
著書
- 実戦の振り飛車破り(2000年8月、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0362-5)
- 郷田真隆の指して楽しい横歩取り すすんで飛び込む横歩取り(2002年8月、フローラル出版、ISBN 4-930831-43-1)
脚注
- ^ 本校OB郷田九段が棋王奪取 - 駿台学園中学校・高等学校 2012年3月27日
- ^ 平成10年度版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
- ^ 1985年の羽生世代 - 将棋ペンクラブログ・2014年7月30日
- ^ “昇段規定”. 日本将棋連盟. 2019年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月12日閲覧。
- ^ このB級1組順位戦(第59期)では、郷田は終盤に2連敗、藤井猛竜王(当時)が2連勝したため、B級1組に昇級したばかりの藤井が大逆転で初のA級入りを果たした。
- ^ 第72期棋聖戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負(日本将棋連盟)
- ^ 第73期棋聖戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負(日本将棋連盟)
- ^ 第64期名人戦・順位戦 七番勝負/A級(日本将棋連盟)
- ^ 第65期名人戦・順位戦 七番勝負/A級(日本将棋連盟)
- ^ 第1回大和証券杯ネット将棋・最強戦(日本将棋連盟)
- ^ 第67期名人戦・順位戦 七番勝負/A級(日本将棋連盟)
- ^ 第37期棋王戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負(日本将棋連盟)
- ^ 郷田真隆九段、NHK杯初優勝! 矢内女流五段は司会を卒業 - NHKテキストView・2014年5月2日
- ^ 『将棋世界』2014年6月号 p.146 郷田によるNHK杯戦決勝の自戦記。 - なお挑戦者決定戦での3度もの敗退とNHK杯戦の優勝について、郷田は「たまにはいいこともないとね(笑)。」と著している。
- ^ 王将戦中継ブログ(日本将棋連盟)
- ^ 王将戦中継ブログ「久保九段が七番勝負制す」(2018年3月15日)ほか
- ^ NHK杯テレビ将棋トーナメントで対局者として出演したときの感想戦で発言。また、それから数年後、2009年度の竜王戦第2局で立会人を務めた際の前夜祭でも発言している竜王戦中継plus 2009年10月27日の記事。
- ^ 1990年度NHK将棋講座8月号、編集記事より
- ^ 「将棋マガジン」(日本将棋連盟)1995年9月号
- ^ http://www.spopre.com/shogi/070919/01.html
- ^ ニコニコ生放送第70期名人戦第5局1日目の大盤解説より
- ^ 日本将棋連盟の規定では、遅刻時間の3倍の時間を持ち時間から引き、それにより持ち時間が無くなった場合は不戦敗となる。
- ^ 郷田真隆棋王のプロレス - 将棋ペンクラブログ・2012年5月3日
- ^ 郷田九段、プロレスを語る - ニコニコ動画
- ^ 郷田新王将はプロレスファン 新日両国大会観戦で大喜び - スポーツニッポン・2015年4月6日
- ^ 郷田真隆棋聖(当時)「腕前は将棋の棋力でいうとアマ2級くらいです」 - 将棋ペンクラブログ・2015年1月12日
- ^ “将棋界最後の大物独身 郷田王将が結婚!大島優子似8歳下女性と”. スポニチアネックス. (2016年9月1日) 2016年9月1日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 郷田真隆九段 600勝(将棋栄誉賞)を達成!(日本将棋連盟)
- ^ 郷田真隆王将、800勝(将棋栄誉敢闘賞)達成!(日本将棋連盟)