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[[1946年]]から[[1951年]]まで[[公職追放]]。国政復帰後の[[1953年]]、三木の盟友[[鳩山一郎]]と[[吉田茂]]の対立が抜き差しならないものになり、他の鳩山派のメンバーとともに[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を離党。鳩山の復党後も反吉田「'''8人の侍'''」として三木、[[河野一郎]]らと[[日本自由党 (1953-1954)|日本自由党]]を結成、[[政策部会|政務調査会長]]となる。日本自由党はその後自由党の鳩山派、[[岸信介|岸]]派、[[改進党]]ともに[[日本民主党]]を結成する。
[[1946年]]から[[1951年]]まで[[公職追放]]。国政復帰後の[[1953年]]、三木の盟友[[鳩山一郎]]と[[吉田茂]]の対立が抜き差しならないものになり、他の鳩山派のメンバーとともに[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を離党。鳩山の復党後も反吉田「'''8人の侍'''」として三木、[[河野一郎]]らと[[日本自由党 (1953-1954)|日本自由党]]を結成、[[政策部会|政務調査会長]]となる。日本自由党はその後自由党の鳩山派、[[岸信介|岸]]派、[[改進党]]ともに[[日本民主党]]を結成する。


保守合同で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成された後は[[春秋会|河野一郎派]] - [[政策科学研究所 (派閥)|中曽根康弘派]]の幹部として重きをなし、温厚な人柄から各内閣で閣僚・党幹部に起用された。[[1956年]]、[[石橋内閣]]で[[法務大臣]]として初入閣。[[1957年]]、[[第1次岸内閣]]で引き続き[[法務大臣]]。[[1959年]]、[[自由民主党政務調査会|党政務調査会長]]。[[1960年]]、[[第2次池田内閣]]の[[建設大臣]]。[[1964年]]、[[自由民主党総務会|党総務会長]]。[[1965年]]、[[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|第1次佐藤第1次改造内閣]]で[[文部大臣]]に就任。他に[[自由民主党国会対策委員会|党国会対策委員長]]、党東京都連会長等も務めた。また、[[1967年]]に河野派が分裂して中曽根派が結成された際には、[[野田武夫]]とともに長老として派内融和に努めた。
保守合同で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結成された後は[[春秋会|河野一郎派]] - [[政策科学研究所|中曽根康弘派]]の幹部として重きをなし、温厚な人柄から各内閣で閣僚・党幹部に起用された。[[1956年]]、[[石橋内閣]]で[[法務大臣]]として初入閣。[[1957年]]、[[第1次岸内閣]]で引き続き[[法務大臣]]。[[1959年]]、[[自由民主党政務調査会|党政務調査会長]]。[[1960年]]、[[第2次池田内閣]]の[[建設大臣]]。[[1964年]]、[[自由民主党総務会|党総務会長]]。[[1965年]]、[[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|第1次佐藤第1次改造内閣]]で[[文部大臣]]に就任。他に[[自由民主党国会対策委員会|党国会対策委員長]]、党東京都連会長等も務めた。また、[[1967年]]に河野派が分裂して中曽根派が結成された際には、[[野田武夫]]とともに長老として派内融和に努めた。


[[1972年]]、田中角栄内閣時、[[衆議院議長]]に就任したが、[[1973年]][[5月]]、特別国会が会期延長の自民党単独採決などで揉め、野党の審議拒否に。事態打開のため与野党間に割って入った議長は双方の妥協点を見つけ、「議長としてはもう単独採決はしない。委員会もそうしないよう努力する」という一札を作って歩み寄らせ、ようやく月末の29日審議再開という線で与野党合意が成立した<ref name=":0">{{Cite web|title=中村梅吉氏とお粥の味 {{!}} 取材ノート {{!}} 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)|url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22366|website=日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)|accessdate=2020-02-20|language=ja}}</ref>。しかしその後の[[船田中]]元衆議院議長の叙勲祝賀会の席上で国会の収拾劇を説明しながら「野党から強行採決をするなと言われたが、慎重に処理すると言って(野党を)ごまかしておいた」と発言。野党から「与野党を取りまとめる立場の議長発言とは思えない」と追及され、辞任に追い込まれた<ref group="注釈">この一件が契機となり、両院の正副議長は所属党派を離脱することが慣例となったといわれる。</ref>。同年[[第2次田中角榮内閣第1次改造内閣]]で[[法務大臣]]を務めたのち、[[1976年]]政界を引退。[[1983年]]11月に[[勲一等旭日桐花大綬章]]を受章した。1984年8月4日脳梗塞により死去。{{没年齢|1901|3|19|1984|8|4}}。従二位。
[[1972年]]、田中角栄内閣時、[[衆議院議長]]に就任したが、[[1973年]][[5月]]、特別国会が会期延長の自民党単独採決などで揉め、野党の審議拒否に。事態打開のため与野党間に割って入った議長は双方の妥協点を見つけ、「議長としてはもう単独採決はしない。委員会もそうしないよう努力する」という一札を作って歩み寄らせ、ようやく月末の29日審議再開という線で与野党合意が成立した<ref name=":0">{{Cite web|title=中村梅吉氏とお粥の味 {{!}} 取材ノート {{!}} 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)|url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22366|website=日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)|accessdate=2020-02-20|language=ja}}</ref>。しかしその後の[[船田中]]元衆議院議長の叙勲祝賀会の席上で国会の収拾劇を説明しながら「野党から強行採決をするなと言われたが、慎重に処理すると言って(野党を)ごまかしておいた」と発言。野党から「与野党を取りまとめる立場の議長発言とは思えない」と追及され、辞任に追い込まれた<ref group="注釈">この一件が契機となり、両院の正副議長は所属党派を離脱することが慣例となったといわれる。</ref>。同年[[第2次田中角榮内閣第1次改造内閣]]で[[法務大臣]]を務めたのち、[[1976年]]政界を引退。[[1983年]]11月に[[勲一等旭日桐花大綬章]]を受章した。1984年8月4日脳梗塞により死去。{{没年齢|1901|3|19|1984|8|4}}。従二位。

2023年1月9日 (月) 23:23時点における版

中村 梅吉
なかむら うめきち
生年月日 1901年3月19日
出生地 日本の旗 日本 東京府北豊島郡下練馬村(現練馬区練馬
没年月日 (1984-08-04) 1984年8月4日(83歳没)
出身校 法政大学
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
親族 長男、中村靖

日本の旗 第57代 衆議院議長
在任期間 1972年12月11日 - 1973年5月29日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第32代 法務大臣
内閣 第2次田中角榮第1次改造内閣
在任期間 1973年11月25日 - 1974年11月11日

日本の旗 第86代 文部大臣
内閣 第1次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1965年6月3日 - 1966年8月1日

日本の旗 第9-10代 法務大臣
内閣 石橋内閣
第1次岸内閣
在任期間 1956年12月23日 - 1957年7月10日

選挙区 東京都第5区
当選回数 9回
在任期間 1952年10月2日 - 1976年12月9日

その他の職歴
日本の旗 第20代 建設大臣
第8代 首都圏整備委員会委員長

1960年12月8日 - 1962年7月18日
日本の旗 衆議院議員
1936年2月21日 - 1945年12月18日
第10代 自由民主党総務会長
(総裁:佐藤栄作
1964年 - 1965年
第5代 自由民主党政務調査会長
(総裁: 岸信介
1959年 - 1959年
初代 自由民主党国会対策委員長
(総裁: 鳩山一郎
1955年 - 1956年
初代 日本自由党政務調査会長
1953年 - 1954年
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中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日[1])は、日本政治家弁護士、第57代衆議院議長(在任期間、1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖

来歴、人物

東京府北豊島郡下練馬村(現、練馬区練馬)出身。農家の次男に生まれる。

1923年法政大学を卒業後、三木武吉法律事務所で弁護士修業を始めたのが政治に関わるきっかけとなる。1928年に東京府会議員、1936年立憲民政党から衆議院議員に初当選。以後通算当選12回。三木武吉の直系として行動を共にする。

1946年から1951年まで公職追放。国政復帰後の1953年、三木の盟友鳩山一郎吉田茂の対立が抜き差しならないものになり、他の鳩山派のメンバーとともに自由党を離党。鳩山の復党後も反吉田「8人の侍」として三木、河野一郎らと日本自由党を結成、政務調査会長となる。日本自由党はその後自由党の鳩山派、派、改進党ともに日本民主党を結成する。

保守合同で自由民主党が結成された後は河野一郎派 - 中曽根康弘派の幹部として重きをなし、温厚な人柄から各内閣で閣僚・党幹部に起用された。1956年石橋内閣法務大臣として初入閣。1957年第1次岸内閣で引き続き法務大臣1959年党政務調査会長1960年第2次池田内閣建設大臣1964年党総務会長1965年第1次佐藤第1次改造内閣文部大臣に就任。他に党国会対策委員長、党東京都連会長等も務めた。また、1967年に河野派が分裂して中曽根派が結成された際には、野田武夫とともに長老として派内融和に努めた。

1972年、田中角栄内閣時、衆議院議長に就任したが、1973年5月、特別国会が会期延長の自民党単独採決などで揉め、野党の審議拒否に。事態打開のため与野党間に割って入った議長は双方の妥協点を見つけ、「議長としてはもう単独採決はしない。委員会もそうしないよう努力する」という一札を作って歩み寄らせ、ようやく月末の29日審議再開という線で与野党合意が成立した[2]。しかしその後の船田中元衆議院議長の叙勲祝賀会の席上で国会の収拾劇を説明しながら「野党から強行採決をするなと言われたが、慎重に処理すると言って(野党を)ごまかしておいた」と発言。野党から「与野党を取りまとめる立場の議長発言とは思えない」と追及され、辞任に追い込まれた[注釈 1]。同年第2次田中角榮内閣第1次改造内閣法務大臣を務めたのち、1976年政界を引退。1983年11月に勲一等旭日桐花大綬章を受章した。1984年8月4日脳梗塞により死去。83歳没。従二位。

その他

  • 映画監督の黒澤明水素爆弾をテーマにした映画『生きものの記録』について試写に来た中村から「原水爆の何が恐い、あんな物はへでもない。」と言われたと語っている。それに対して黒澤は東宝に「(中村の発言を)新聞に出せ」と言ったと言う[3]
  • 中曽根派では「中曽根君を総理にするのが最後のご奉公だ」が口癖だった[2]
  • 公団住宅事件といわれる、建設大臣当時、庶民には高嶺の花だった公団住宅の一部屋をある親しい女性にそっと優先的に割り当てた、と某紙社会面にスクープされ謝罪した騒動があった。「新聞に出たその夜に、地元後援会の女子部の代表が十人以上で家に押しかけてきてね。「その女性と手を切らないなら今後一切応援しない。この場ではっきり、別れると約束しろ」というんだよ。困ったことになった、と思ったが、仕方ないから「明日朝返事します。一晩考えさせてください」と言ってその場を収めたんだ。翌朝早くまた来たから「一晩よく考えてみました。その結果、あの女性と別れるくらいなら選挙に落ちても仕方ないと覚悟しました」と答えたんだ。すると、代表の人もびっくりしたらしく、しばらくは黙ってしまったが、中から「ここまでいう先生は、もしかしたら女性の本当の味方かもしれない。このまま応援したらどうか」という意見が出てね、そのうちなんとなくそんな空気になって、最後はみんな納得して帰っていったよ。いやーあの時下手していたら、今まで来れなかったかもしれないね」[2]

脚注

注釈

  1. ^ この一件が契機となり、両院の正副議長は所属党派を離脱することが慣例となったといわれる。

出典

  1. ^ 中村梅吉』 - コトバンク
  2. ^ a b c 中村梅吉氏とお粥の味 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)”. 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC). 2020年2月20日閲覧。
  3. ^ 黒澤明(出演)大島渚(出演). わが映画人生 黒澤明監督. 日本映画監督協会. 2018年3月29日閲覧


議会
先代
船田中
日本の旗 衆議院議長
第57代:1972年 - 1973年
次代
前尾繁三郎
先代
菅家喜六
日本の旗 衆議院議院運営委員長
第9代:1955年
次代
椎熊三郎
公職
先代
田中伊三次
牧野良三
日本の旗 法務大臣
第32代:1973年 - 1974年
第9・10代:1956年 - 1957年
次代
浜野清吾
唐沢俊樹
先代
愛知揆一
日本の旗 文部大臣
第86代:1965年 - 1966年
次代
有田喜一
先代
橋本登美三郎
日本の旗 建設大臣
第20代:1960年 - 1962年
次代
河野一郎
党職
先代
藤山愛一郎
自由民主党総務会長
第10代:1964年 - 1965年
次代
前尾繁三郎
先代
福田赳夫
自由民主党政務調査会長
第5代:1959年
次代
船田中
先代
結党
自由民主党国会対策委員長
初代:1955年 - 1956年
次代
倉石忠雄
先代
結党
日本自由党政務調査会長
初代:1953年 - 1954年
次代
解党