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デレック・ワーウィック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デレック・ワーウィック
Derek Warwick
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
生年月日 (1954-08-27) 1954年8月27日(70歳)
デレック・スタンリー・アーサー・ワーウィック
Derek Stanley Arthur Warwick
出身地 イングランドの旗 イングランド
ハンプシャー州ニュー・アルレスフォード英語版
基本情報
F1での経歴
活動時期 1981-1985,1986-1990,1993
所属チーム '81-'83 トールマン
'84-'85 ルノー
'86 ブラバム
'87-'89 アロウズ
'90 ロータス
'93 フットワーク (アロウズ)
出走回数 162 (147スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 4
通算獲得ポイント 71
ポールポジション 0
ファステストラップ 2
初戦 1981年サンマリノGP
最終戦 1993年オーストラリアGP
英国F1経歴
活動時期 1979英語版
レース数 1
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 6
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
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デレック・スタンリー・アーサー・ワーウィックDerek Stanley Arthur Warwick, 1954年8月27日 - )はイギリスハンプシャー州ニュー・アルレスフォード英語版出身の元レーシングドライバー、実業家。イギリスジャージー島在住。2011年8月にBRDC(ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ)会長に就任した。その後もF1のスチュワード(レース審査員)を度々務めている。

「Warwick」の発音は本来「ウォリック」であるが、「ワーウィック」表記が定着している。また、「ウォーウィック」と表記されることもある。他にも、フジテレビF1中継では「ディレック・ワーウィック」と表記されていた。

弟のポール・ワーウィックも同じくレーシングドライバーであったが、1991年にレース中の事故で亡くなっている。

プロフィール

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初期の経歴

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1976年イギリスFF1600でシリーズチャンピオンを獲得。翌1977年からイギリスF3選手権に参戦し、1978年には4勝を挙げチャンピオンを獲得。翌1979年よりヨーロッパF2にトールマンから参戦し、1980年にはランキング2位を獲得した。

F1

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トールマン時代

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トールマン時代(1982年オランダGP

1981年、トールマンチームとともにF1に進出。第4戦サンマリノグランプリからエントリーするも新興チームということもあり苦戦し、予選落ちが続いた[注釈 1]。最終戦アメリカグランプリにてようやく予選を通過しデビューとなるが、決勝での完走はならなかった。

1982年も予選落ちこそ減少したものの、マシンに速さ・信頼性ともに足りない状況は変わらず、完走は2回だった(最高位:10位)。ただし第9戦オランダグランプリでは、初のFLをマークしている。またチームメイトのテオ・ファビに対し、予選で10勝3敗[注釈 2]と圧倒、予選落ちもファビの6回に対し2回に抑えた。

1983年には前年までと比べマシン性能が向上、開幕戦ブラジルグランプリでの5位グリッドをはじめ、予選では度々上位に食い込むようになる。決勝はトラブルの多さからリタイヤが多く、第11戦オーストリアグランプリ終了時点では完走2回・入賞なしという状況だったが、第12戦オランダグランプリで4位初入賞。ここから勢いに乗り、最終戦南アフリカグランプリまで4戦連続入賞を果たした。チームメイトのブルーノ・ジャコメリに対しても、予選成績では12勝3敗、獲得ポイントでもジャコメリの1に対し9となった。

ルノー時代

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ルノーRE50(1984年)

トールマンでの走りが認められ、1984年にはルノーに移籍しRE50をドライブ。開幕戦ブラジルグランプリでは、中盤よりトップを走行するが、残り11周でサスペンショントラブルによりリタイヤ[注釈 3]。その後は2位2回・3位2回・4位1回・FL1回という成績を残し、予選でも3度の3位グリッドなど上位に食い込むが、勝利を手にすることはなかった。チームメイトのパトリック・タンベイに対しては、予選では10勝6敗と上回り[注釈 4]、決勝での獲得ポイントでも上回っている。この活躍は高評価され、ウィリアムズが彼にアプローチを取った。フランク・ウィリアムズリジェに移籍したジャック・ラフィットの代役としてワーウィックに白羽の矢を立てたのだが、しかしこの時点でウィリアムズのホンダ・ターボでの勝利は1984年ダラスグランプリにおけるケケ・ロズベルグのみであり、ワーウィックはルノー残留を選択し1985年の再契約を交わした。断られたウィリアムズはナイジェル・マンセルと契約。果たして1985年、ホンダ・エンジンを搭載するウィリアムズ・FW10は4勝を挙げ、その中にはマンセルのF1初勝利も含まれた。ウィリアムズ・ホンダは以後2年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得するなど最強を誇ることになりワーウィックは後悔することとなった。

1985年のルノー・チームはRE60に高い戦闘力が無く、完走率も下がり入賞は5位2回・6位1回、予選でも2桁グリッドが定位置となった(ベストは3度の6位グリッド)。チームメイトのタンベイに対しても、予選(7勝8敗)・決勝[注釈 5]ともに下回った。

ブラバム時代

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1986年にはロータスへの移籍がほぼ確実視されながら、当時ロータスのNo.1ドライバーだったアイルトン・セナが、ワーウィックをチームメイトとすることを拒否[注釈 6]。これにより、ロータスはセナのチームメイトにF1ルーキーであるジョニー・ダンフリーズを抜擢、ワーウィックは浪人のままF1開幕を迎えることとなった。世界スポーツプロタイプカー選手権(WSPC)シルクカット・ジャガーからオファーがあり、ジャガー・XJR-6で参戦した。

しかし5月、ブラバムから参戦していたエリオ・デ・アンジェリスポール・リカールでのテスト走行中に事故死。第6戦カナダグランプリより、ワーウィックが代役としてブラバムに加入することとなった。同年のマシン「BT55」は、低重心化を意識しすぎた結果シャシーバランスや熟成を欠いており苦戦、入賞を記録することはできなかった(最高位:7位)。チームメイトのリカルド・パトレーゼに対し予選成績で3勝8敗だった。

アロウズ時代

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1987年にはアロウズに移籍するが、入賞は5位・6位が1度ずつの計2回に終わった。チームメイトのエディ・チーバーに対しても、予選成績では9勝7敗で上回ったが、獲得ポイントでは下回っている(チーバーの8に対し3)。

1988年は予選でチーバーに12勝4敗と前年以上に差を付け、決勝でも4位4回・5位2回・6位1回とコンスタントに入賞。ポイントでもチーバーの6に対し17を記録[注釈 7]し、ランクで1984年同様ベストタイとなる7位となった。

1989年も残留。前年と比較すると劣るものの、5位3回・6位2回の計5度の入賞を記録。予選ではチーバーに14勝1敗、決勝でも獲得ポイントで上回った[注釈 8]。なお、第7戦フランスグランプリはカートの事故により負傷したため欠場した。

ロータス時代

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1990年には、因縁のロータスに移籍。チームメイトは前年に自身が欠場した際に代役を務めたマーティン・ドネリーとなった。しかし、ロータスのチーム力は1986年当時から大幅に低下しており、入賞は5位・6位が1回ずつと、思うような活躍はできなかった。8月27日、ベルギーGPを終えた足で弟・ポールが出場するF3000バーミンガム・スーパープリの会場を応援のため訪れていたが、そこで1シーズンのみでロータスを離れることを表明。囲み取材にて、「チームに残らないことは決めたんだ。あまりに状態が悪くて全然レースにならないこともあった。来季に向けてアロウズ(フットワーク)、ブラバム、レイトンハウス、新たにF1へやってくるEJR(ジョーダン)から打診が来てるし、CARTでもSWCでも魅力的なプロジェクトであればカテゴリーはF1にこだわらない。」と公表した[1]。9月、第12戦イタリアGPでは、決勝スタート直後に最終コーナー「パラボリカ」の立ち上がりでマシンが横転するクラッシュを起こしたが、底を上に向けたロータス・102から這い出すとすぐにピットへとランニングを開始し、その途中ではイタリアRAIからのインタビューもこなすタフさが話題となった(後述)。

最終戦オーストラリアGPで改めて会見を開き、「TWRシルクカット・ジャガーからタイトル争いができる体制でのオファーをもらったので、来季はSWCに参戦することにした。トム・ウォーキンショーの構想は素晴らしいマシンと体制で、とても楽しみだ。もう一つの理由は、F1に参戦しても上位を目指して走ることが出来ないという状況に我慢がならなかったからなんだ。今季のロータスには失望した。シルクカット・ジャガーとの契約は1年、F1からは一時的な撤退であればいいね。ドネリーのヘレスでの大クラッシュは決断と関係ない。もし同じマシンに乗る彼のあの光景を見て怖くなったというのなら、翌日にレースそのものから引退してるよ。あと、来月プロドライブスバルから誘われたのでRACラリーにも出るんだ。レーサーとしてのモチベーションは全然下がっていない。」と声明を出し、引退ではないと強調した[2]

なお、翌1991年はSWCをメインカテゴリーとしていたが、8月にベルトラン・ガショーの逮捕により空席となったジョーダンの後任候補となった。しかしミハエル・シューマッハがデビュー戦で印象的なパフォーマンスを披露したこともあってこの参戦は実現しなかった。

SWC時代

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1991年、ワーウィックは1986年以来となるスポーツカーレースにシルクカット・ジャガーからフルエントリー。ジャガー・XJR-14で3勝を挙げ、ランキング2位を記録。またル・マン24時間レースでは4位に入った。

1992年のル・マン24時間レースにはプジョー・ワークスの一員としてプジョー・905ヤニック・ダルマスマーク・ブランデルとともにドライブし勝利。これを含めた計3勝でSWCのチャンピオンとなるなど、成功を収めた。

F1復帰

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フットワーク時代

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1993年イギリスGP

前年の活躍をきっかけで、1993年にはフットワークからのオファーを受け、3年ぶりにF1に復帰。無限ホンダエンジンを搭載するFA14を駆る。マクラーレンと技術提携し戦闘力が増した後半戦に調子を上げるも、特にギアボックスの信頼性が低く入賞は4位・6位がそれぞれ1回ずつとなった(ただし、チームメイトの鈴木亜久里はノーポイント)。予選では亜久里に9勝7敗だった。

同年親会社のフットワークの経営悪化が著しくなりチーム売却が報じられる状況となり、結果ジャッキー・オリバーが再びチームオーナーとなった。この混乱期にチーム資金面の問題からより資金の持ち込めるドライバーが求められ、1994年に向けてはジャンニ・モルビデリクリスチャン・フィッティパルディが起用されワーウィックはシートを失った。1994年シーズン中にベネトンから2回、マクラーレンからも1度「F1に代役参戦する気はあるか?」との電話が掛かってきたが、同じころテストドライブしていたBTCCの車両が思いのほか面白かったためその話を断ったと述べている[3]

F1後

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BTCC時代(1995年イギリスGP)

1995年からイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に出走し、1998年には1勝をマーク、さらに共同設立した888レーシングでボクスホールを走らせた。

2006年には、OBのF1ドライバーによるグランプリマスターズの、最初のシーズンに参加。

2011年8月25日に開かれたブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ(BRDC)の年次総会で会長に選ばれた。ワーウィックはデイモン・ヒルの後を継いでの会長就任は重責だと語ったが、BRDCが所有するシルバーストーン・サーキットのさらなる開発という差し迫った難題に取り組むことを楽しみにしているとも述べている。

一方で、前任者のヒルはF1ドライバーの経歴を持つワーウィックが自身の理想的な後任候補だったと言い、次のようにコメントしている。

「デレック・ワーウィックはプロのレーシングドライバーとして生活し、その中でもトップクラスに属していた。彼は勝つために必要なこと、負けた時の気持ちを分かっている。私はレーシングドライバーとして活動した者が常にこのクラブの舵を取るべきだと考えている」「デレックはプロのレーシングドライバーとしてその決断力と完全性を世界に示したように、必ずやこのクラブを同じように導いてくれるだろう。私はそう確信している。BRDCの次期会長に就任するにあたり、デレックに心からの祝辞を述べたい。今後の彼とクラブの成功をお祈りする」[4]

1989年にホンダ車を中心とした自動車販売店、デレック・ワーウィック・ホンダを設立し2023年現在まで営業を続けている。一時はイギリス国内に5つの店舗と130名の従業員を抱えていたが、2003年にジャージー島の店舗以外を全て売却した。

デレック・ワーウィック・ホンダ以外にもイギリス国内で不動産会社など数社を経営している[5]

スチュワード問題

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F1のレーススチュワードは4人で構成されており、そのうちの1人はF1でのドライバー経験がある者が務める事となっているが(2010年より)、そのメンバーは固定制ではなく各レース毎に異なる。近年の元F1ドライバー枠はワーウィックの他にエマニュエル・ピロミカ・サロエンリケ・ベルノルディヴィタントニオ・リウッツィダニー・サリバンらが務めているが、その中でもワーウィックが2010年以降スチュワードを務めた回数は2023年イギリスグランプリ終了時点で43回とメンバーの中でも特に多い。

しかしワーウィックがスチュワードを務めたレースでは通常は不問とされるケースでもペナルティが出される事が多く、他のスチュワードに比べ裁定が厳しい事で有名であることから、全体を通してのスチュワードの裁定には一貫性や公平性が無いとして、以前からファンやメディアのみならずしばしばチーム関係者からも批判がある。

このスチュワード問題については現役ドライバーからは特にフェルナンド・アロンソが批判的で[6]、チームからは特にハースのチーム代表を務める小松礼雄や、同チーム前代表のギュンター・シュタイナーらが以前から厳しい言葉で批判を行っている。 小松は自身が寄稿するコラムにおいて、2017年ブラジルグランプリ2020年ハンガリーグランプリでスチュワードから呼び出された際のやりとりについて触れ(両レースともワーウィックがスチュワードを務めていた)、ワーウィックを含むスチュワードらがその立場にありながらレギュレーションやガイドラインを熟知していない事、ワーウィックが最後まで議論を交わす姿勢を見せずに途中で投げ出すような発言をした事を理由に、ワーウィックを名指しの上で「彼の説明も支離滅裂で、(中略)世界選手権に関わっているという自覚も無ければ責任感もない」と痛烈に批判をした[7][8]。シュタイナーは2023年モナコグランプリにおいてニコ・ヒュルケンベルグにペナルティが科された事でスチュワードらに対し"Laymen"という言葉を用いて厳しく批判したが(モナコでのスチュワードのドライバー枠はダニー・サリバン)、翌スペイングランプリの決勝前にワーウィックを含むスチュワードはシュタイナーに譴責処分を科した[9]

批判の対象となったレース

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2021年アブダビグランプリ

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この年のマックス・フェルスタッペンルイス・ハミルトンの熾烈なチャンピオン争いは最終戦のアブダビグランプリまでもつれ込み、ファイナルラップでの大逆転でフェルスタッペンに決まる劇的な結末となったが、レース終盤のセーフティカー中の運用に疑惑があった事からレース結果の正当性について大論争が沸き上がり、すぐさまメルセデスから抗議が行われたが即日棄却された。メルセデスは期限までに控訴を行わず、FIAは運用の誤りを認めつつも最終結果に変わりはないとしたためフェルスタッペンのチャンピオンが確定したものの、レースディレクターを務めていたマイケル・マシが翌年に更迭される事態にまで発展した(マシはその後FIAを退職した)。しかしこのレース後のメルセデスの抗議を棄却したのはワーウィックを含むスチュワード4名で、翌年まで大きな遺恨を残す結果となった[10][11]

2023年スペイングランプリ

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決勝レース終盤の角田裕毅周冠宇との争いにおいて、角田が周を1コーナーで押し出したとしてワーウィックらスチュワードが角田にペナルティを科し、9位からポイント圏外の12位にまで転落した事でまたも多くの批判の声が沸き起こる事態となった。 この件についてSky SportsにてF1アナリストを務めるアンソニー・デビッドソンは、角田が競り合いの中でアンダーステアを出していたとしてペナルティを支持する一方、YouTubeのF1公式チャンネルのポストレースショーにおいてインタビュアーを務めるリバティメディアのウィル・バクストンは、BBCにて解説を務めるデビッド・クルサードジョリオン・パーマーが「価値の無いペナルティ」と批判した事を紹介し、バクストンに見解を求められた2022年F2チャンピオンのフェリペ・ドルゴヴィッチも角田のドライビングに理解を示したほか[12]DAZNにて解説を務める中野信治はバトル時のガイドラインに照らし合わせてペナルティに対してある程度の理解は示しつつも、バトル時の角田の状況を踏まえた上で「だからこそ、あの裁定はすごく微妙ではあります」と見解を述べた[13]。他にもフランク・モンタニーは「この裁定はフェアではない。なぜなら、ユウキは何も間違いを犯していないのだから。(後略)」と語り、ラルフ・シューマッハは「私にはあのバトルはレースではよくある光景のひとつにしか見えなかったから、審議されるべき事件だとは考えていない。(中略)個人的には、こういうF1は私は嫌いだ」と語るなど、ドライバー経験者からも批判や疑問の声が多く上がった[14]。 このレースでは序盤にも他のドライバーで同様のケースでの押し出しがあったがそれらは審議対象にすらならず、角田にだけは5秒タイムペナルティと1ペナルティポイントという重いものが科せられた事により、同じレースの中ですら公平性が保てていない事が露呈し波紋に拍車をかける事態となったが、角田が所属するアルファタウリ代表のフランツ・トストはこの件を角田のミスとして受け入れ、スチュワードに対して抗議しなかったため角田の順位は12位で確定となった。

2023年イギリスグランプリ

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決勝レース41周目のストウコーナーにてピエール・ガスリーに対しランス・ストロールが追い抜きをしかけた際、ガスリーと横並びになったストロールは完全にコース外に出たがそのままガスリーを追い越した。コース外からの追い越しはペナルティの対象となるためストロールはガスリーに順位を譲らなければならなかったがそのまま走行を続けた。しかしワーウィックらスチュワードはこの追い越しは審議対象とせず、コース外に出た事のみに対しトラックリミット違反として警告するに留まった。ガスリーはその後ストロールを抜き返したが、ストロールは45周目のターン16でガスリーのアウト側から再度追い越しを仕掛けたが再度コースアウトし、ターン17にてコース外から強引にコース復帰を試みたためガスリーの右側面に衝突した。これによりガスリーはサスペンションを破損しリタイアとなり、ストロールは走行を続けて完走したものの5秒タイムペナルティが課された。 ガスリーはレース後のインタビューに於てスチュワードの裁定に対し「一貫性が無く不公平だ」と批判した[15]

2023年オランダグランプリ

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予選Q2において角田裕毅がルイス・ハミルトンのアタックを妨害したとして14位から17位へ3グリッド降格のペナルティを科した。しかしハミルトン本人は「前の周で他の何人かが邪魔をした。角田は少し邪魔だったけど、彼が僕にタイムを失わせることはなかった」と発言しており、ペナルティの妥当性に疑問符がついた[16]。 この次のアタックでは角田がハミルトンから妨害を受けており、角田はハミルトンの妨害でタイムロスになったと主張したが、ハミルトンの角田への行為は審議対象にならなかった他[17]、ランス・ストロールのハミルトンに対する妨害も不問とされた。 決勝においてもターン1でジョージ・ラッセルの右フロントタイヤと角田のフロントウイングが軽く接触したが、またも角田に5秒タイムペナルティが課され13位から16位に降格された。このレースではシャルル・ルクレールオスカー・ピアストリランド・ノリスとラッセルの間でも接触があったが、ノリスとラッセルは不問、ルクレールとピアストリは審議対象にすらならなかったうえ、更に角田にはレース後に2ペナルティポイントが課されるという他者と比較して突出して厳しい裁定が下ったため[18]、一部ファンからは日本人である角田を標的にしているとの声も上がる事態となった。

2023年ラスベガスグランプリ

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フリー走行1回目開始から約8分後、エステバン・オコンがストレートを走行中に鉄製の水道管バルブカバーの上を通過した際にカバーが外れ、直後に通過したカルロス・サインツの車体下に直撃し、車両後部から激しい火花を上げた直後にコース脇に停車した事で赤旗が提示された。コースの安全性確保のためにフリー走行2回目は2時間半遅れのスタートとなり、その間にサインツのマシンは修復が行われたが、損傷はサバイバルセル、シャシー、エンジン、エナジーストア(バッテリー)、電装品類と広範囲に及んだ。 通常、市街地コースでレースを行う際はマンホールや排水溝の蓋などは予め外れないように厳重に固定する事が常識となっているが、今回は蓋を固定していたフレームごと変形したために蓋が外れるというコースの不備であり、ドライバーやチームにとっては不可抗力の事故であった。 フェラーリはマシンの修復に新品のエナジーストアを投入しなければならず、本来であれば10グリッド降格ペナルティが課されるところ、コースの不備で不可抗力の事故である事を理由にペナルティの免除を求めたが、ワーウィックらスチュワードはペナルティの免除規定が無い事を理由にサインツに10グリッド降格ペナルティを言い渡した。[19]

2024年モナコグランプリ

決勝レースのスタート直後、ケビン・マグヌッセンニコ・ヒュルケンベルグセルジオ・ペレスの3台が絡む多重事故が発生し赤旗中断となった。上り坂の全開区間であるボーリバージュにてマグヌッセンの左フロントとペレスの右リアが接触し、ヒュルケンベルグを巻き込んでのクラッシュとなり、特にペレスのマシンは原型を留めない程に激しい損傷を受けるものだった。ボーリバージュは僅かに左右に曲がるコースを直線的に駆け抜けるため2台のマシンが並走する事は基本的に不可能であるが、マグヌッセンの無謀なアタックにより両者が接触し重大事故を引き起こした。マグヌッセンはその時点でペナルティポイントが累積10点となっており、出場停止となる12点を目前に控えているにもかかわらず大事故を引き起こしたため、ペナルティポイント制が導入されて初の出場停止になるかと思われた。近年はスタート直後1周目のアクシデント等は不問とされる事が多いが、ワーウィックらスチュワードはそれほどの大事故であったにもかかわらずマグヌッセンに対し調査をする事も無く不問とした事で、被害者であるペレスからは「非常に失望している」と不満の声が上がった。[20]なお、スタート直後のターン1にてカルロス・サインツとオスカー・ピアストリの間での軽い接触でサインツのタイヤがパンクしたが、これに関しては「調査の結果」不問とされたほか、ターン8でオコンがチームメートのガスリーと接触した件についてはオコンに10秒ペナルティと2ペナルティポイント(ガスリーは再スタートし10位完走したが、オコンはこの接触で再スタート出来ずタイムペナルティを消化出来なかったため次戦5グリッド降格)が課された事から、マグヌッセンが引き起こした重大事故が調査すらされない事に不可解な点を残した。

また、スタート直後に赤旗中断となった場合、先頭車両が第1セクターを通過していなかった場合は最初のスタート順で再スタートされる事となっており、その間に起きた順位変動は無効となる。しかしこのレースでは赤旗中断が宣言された時点で先頭車両は第2セクターのヌーベルシケインに位置しており、本来であれば第1セクターの通過順で再スタートとなるはずであったが、ワーウィックらスチュワードは最初のスタート順での再スタートを宣言したため、これまでのレースにおける赤旗中断後の再スタート順位の取り扱いと矛盾する事となった。

2024年カナダグランプリ

決勝レーススタート前の国歌斉唱の際、VCARBの角田が所定の位置への整列に遅刻する事態が発生した。原因はチームが角田に国歌斉唱の開始時間を正しく伝えていなかった事であり、ワーウィックらスチュワードはチームに対し1万ユーロの罰金を科した。

しかしこの例では戒告処分が慣例となっているが、「ペナルティを罰金に引き上げる事は適切だと感じている」という根拠の無い理由で突然の罰金を科した事でまたも裁定の一貫性の無さが露呈した。[21]

評価

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長くF1に参戦したが、勝利を挙げることはなかった。未勝利ドライバーの中では最高のドライバーの1人という評価もあるが、上述の問題からチーム関係者、ドライバー、ファンからはスチュワードとしての能力は評価されていない。

補足

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  • 得意なスポーツはボウリングで、夫婦そろって腕前は中々のものだという。
  • 握力が強く、握られた相手の手が痺れると言われているほか、トールマン在籍時にマシンの車高を調整する鋼鉄製のレバーをあっさりとへし折ってしまったという逸話もある。
  • 滅多なことでは怒らない上、怒っても静かに怒る英国紳士を絵に描いたような性格とされる。
  • 古舘伊知郎が実況を担当した際にはその風貌や性格から「F1界の二谷英明」「顔面ビッグベン」「F1界の英国屋」と実況されていた。

レースでのエピソード

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  • 1982年イギリスグランプリは、一時2位を走行するも41周目にリタイヤ、ドライブシャフトのトラブルが原因と発表された。しかし後日、実際にはスポンサーからテレビに映るように圧力がかかったため[注釈 9]、チームがドライバー承諾のもと、マシンが軽くなり速さを見せられるハーフタンクで走ったという経緯が判明した。結果的には、軽いマシンで予選16位から2位まで追い上げる過程で、TVに多く映り目的を達成した(76周中41周目に燃料切れ)[22]
  • 1986年のブラバム加入の際は、エリオ・デ・アンジェリスの死に際し、他の多くのドライバーがバーニー・エクレストンらチーム首脳に後任として売り込みの電話をかけてきたのに対し、有力ドライバーの中で唯一そのような電話をかけなかった。本人曰く「ああいう時には、チームの誰もが嘆き悲しんでいるはず」と判断して自重したとのことだが、逆にその点がエクレストンに評価され契約に至った。ワーウィックの人柄を表す代表的なエピソードとして知られる[23]
  • 同じく1986年のオーストリアグランプリでは、チームメイトのリカルド・パトレーゼのマシンがレース直前になりトラブルに見舞われ、既にスペアカーも使い切った状態であったため、エクレストンの指示でワーウィックのマシンをパトレーゼに譲ることになり出走できなかった。当時パトレーゼがBMWの強力なバックアップを受けていたことが背景にあり、この交代劇も裏でBMWの指示があったとされる[23]
  • 1990年第12戦イタリアグランプリでは、オープニングラップの最終コーナーでコースアウト、フェンスに衝突後にマシンが横転する大クラッシュに遭うが無傷で生還。さらに、クラッシュ直後にインタビューマイクを向けた川井一仁に対し、「グージェルミンスリップストリームに入っていたんだけど…」と、ピットへと小走りしながら何事もなかったかのように冷静に状況を話した後、スペアカーに乗り込み再スタートへと向かい、そのタフネスぶりで周囲を驚嘆させた。
    • 1993年ドイツグランプリの予選でも高速シケイン手前でクラッシュし、右前後輪を失った状態でシケインを直進して縁石で跳ねた車体がグラベルに横転して止まる大きなクラッシュとなり欠場の可能性が高いとの第一報だったが、決勝グリッドで「ちょっと驚いたけど大丈夫だよ」と笑顔でインタビューに答え決勝に出走した。
  • 1991年8月に、15歳年下でありイギリスF3000で開幕以来全勝を誇っており、翌年にF1進級が噂されていた弟のポール・ワーウィックが、オウルトン・パークで行われていたイギリスF3000の事故により22歳で他界。この年の末から、英国の優秀な若手レーサーを表彰する「ポール・ワーウィック記念杯」が企画され、当時F3に参戦していたデビッド・クルサードが初代受賞者となり、2001年には佐藤琢磨が受賞している。
    • ポール死去で落ち込んでいる最中に開催されたSWC第5戦ニュルブルクリンクの予選中、メルセデス・ベンツ・C291が予選タイムアタックしていたワーウィックのジャガーを故意にブロックしマシンをぶつけた(その直前に「ジャガーにブロックされた」と感じた動きがあったとされる)[24]。予選終了後のピットで、ワーウィックは弟の事故直後でレースの安全面を特に考えていた時期でもあった為、メルセデスがぶつかってきたことに激怒し、担当メカニックとロス・ブラウンの制止を振り切って[25]、トランスポーターに殴り込んだ。ジャン=ルイ・シュレッサーヨッヘン・マスが後を追い[26]、ワーウィックが「今乗ってたヤツは誰だ」と捕まえ殴ろうとしたその相手は22歳のミハエル・シューマッハであった。シューマッハの顔を見ると若く、弟を思い出したため一息入れ、「他のドライバーも尊重しないとダメだ」と小言だけで済まし殴るのを思い留まった。
  • 一度だけWRCにも参戦した(1990年RACラリーでマシンはプロドライブ製のグループAスバル・レガシィ、成績は13位まで順位を上げていたが3日目にリタイアとなった)[27]

カーナンバー (F1)

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  • 36 (1981年第4-15戦)
  • 35 (1982年第1-6.9戦-1983年)
  • 16 (1984年-1985年第1-14.16戦)
  • 8 (1986年第6-16戦)
  • 17 (1987年.1988年)
  • 9 (1989年第1-6.8-16戦.1993年)
  • 11 (1990年)

レース戦績

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略歴

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シリーズ チーム レース 勝利 PP FL 表彰台 ポイント 順位
1976 フォーミュラ・フォード・フェスティバル英語版 N/A 1 0 0 ? 1 N/A 2位
1977 BP・スーパー・ヴィスコ・イギリス・フォーミュラ3 ワーウィック・トレイラーズ 13 0 1 2 5 40 5位
ヴァンダーヴェル・イギリス・フォーミュラ3 6 0 2 0 2 41 3位
ヨーロピアン・フォーミュラ3 2 0 0 0 0 1 28位
1978 BP・スーパー・ヴィスコ・イギリス・フォーミュラ3 16 3 3 2 10 72 2位
ヴァンダーヴェル・イギリス・フォーミュラ3 9 3 3 6 8 162 1位
ヨーロピアン・フォーミュラ3 3 1 1 0 2 13 6位
全日本・フォーミュラ2 N/A 1 0 0 0 0 0 NC
1979 ヨーロピアン・フォーミュラ2英語版 セオドール・レーシング 11 0 0 0 0 2 20位
イギリス・フォーミュラ1英語版 3 0 0 0 1 6 12位
1980 ヨーロピアン・フォーミュラ2 トールマン・グループ・モータースポーツ 11 1 4 1 7 42 2位
1981 フォーミュラ1 キャンディ英語版トールマン・モータースポーツ 1 0 0 0 0 0 NC
1982 10 0 0 1 0 0 NC
1983 15 0 0 0 0 9 14位
世界スポーツカー選手権 ポルシェ・クレマー・レーシング 2 0 0 0 0 0 NC
ヨーロピアン・耐久選手権英語版 ジョン・フィッツパトリック・レーシング英語版 1 1 0 0 1 20 22位
1984 フォーミュラ1 エキップ・ルノーエルフ 16 0 0 1 4 23 7位
1985 15 0 0 0 0 5 14位
1986 モーター・レーシング・ディベロップメンツ 10 0 0 0 0 0 NC
世界スポーツカー選手権 シルク・カット・ジャガー 9 1 0 0 5 81 3位
IMSA・GT選手権 BF・グッドリッチ 1 0 0 0 1 0 NC
1987 フォーミュラ1 USF&G英語版アロウズメガトロン 16 0 0 0 0 3 16位
1988 16 0 0 0 0 17 8位
1989 USF&G・アロウズ 15 0 0 0 0 7 10位
1990 キャメルチーム・ロータス 16 0 0 0 0 3 14位
1991 世界スポーツカー選手権 シルク・カット・ジャガー 8 3 1 1 4 79 2位
IMSA・GT選手権 バド・ライトジャガー 1 0 0 0 0 0 NC
1992 世界スポーツカー選手権 プジョー・タルボ・スポール 6 3 2 1 5 98 1位
1993 フォーミュラ1 フットワーク無限ホンダ 16 0 0 0 0 4 16位
1995 イギリス・ツーリングカー選手権 アルファロメオ・オールド・スパイス・レーシング 23 0 0 0 0 15 19位
1996 ル・マン24時間レース クラージュ・コンペティション 1 0 0 0 1 N/A 13位
1997 イギリス・ツーリングカー選手権 ヴォクスホール・スポーツ英語版 24 0 0 0 0 33 14位
バサースト1000英語版 1 0 0 0 0 N/A 6位
1998 イギリス・ツーリングカー選手権 26 1 0 0 2 70 9位
バサースト1000 チーム・ヴェクトラ英語版 1 0 0 0 0 N/A 5位
2005 グランプリ・マスターズ チーム・リクサス 1 0 0 0 0 0 5位
2006 2 0 0 0 0 2 6位
2007 ポルシェ・スーパーカップ英語版 ポルシェ・AG 1 0 0 0 0 0 NC
  •  : ゲストドライバーとしての出走であるため、ポイントは加算されない。

ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 Pos. Pts
1977年 ワーウィック・トレイラーズ シェブロン B38 トヨタ 2T-G LEC NÜR ZAN ZOL
6
ÖST IMO PER MNZ CET KNU KAS DON
Ret
JAR VLL 26位 1
1978年 ラルト RT1 ZAN
NÜR ÖST ZOL IMO NÜR DIJ MNZ PER MAG KNU KAR DON
1
KAS
Ret
JAR
3
VLL 6位 13

ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1979年 トールマン・グループ・モータースポーツ マーチ・792 ハート THR
Ret
HOC
Ret
THR
Ret
NÜR
DNS
VLL
NC
MUG
5
PAU
9
HOC
Ret
ZAN
Ret
PER
Ret
MIS
Ret
DON
10
20位 2
1980年 トールマン・TG280 THR
2
HOC
Ret
NÜR
3
VLL
3
PAU
Ret
SIL
1
ZOL
4
2位 42
トールマン・TG280B MUG
2
ZAN
2
PER
11
MIS
3
HOC

フォーミュラ1

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エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1981年 トールマン TG181 ハート 415T 1.5 L4 t USW BRA ARG SMR
DNQ
BEL
DNQ
MON
DNPQ
ESP
DNQ
FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER
DNQ
AUT
DNQ
NED
DNQ
ITA
DNQ
CAN
DNQ
CPL
Ret
NC 0
1982年 TG181C RSA
Ret
BRA
DNQ
USW
DNPQ
SMR
Ret
BEL
Ret
MON
DNQ
DET CAN NED
Ret
GBR
Ret
FRA
15
GER
10
AUT
Ret
SUI
Ret
NC 0
TG183 ITA
Ret
CPL
Ret
1983年 TG183B BRA
8
USW
Ret
FRA
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
BEL
7
DET
Ret
CAN
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
4
ITA
6
EUR
5
RSA
4
14位 9
1984年 ルノー RE50 ルノー EF4 1.5 V6 t BRA
Ret
RSA
3
BEL
2
SMR
4
FRA
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
2
GER
3
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
EUR
11
POR
Ret
7位 23
1985年 RE60 ルノー EF4B 1.5 V6 t BRA
10
POR
7
SMR
10
MON
5
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
7
14位 5
RE60B ルノー EF15 1.5 V6 t GBR
5
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
BEL
6
EUR
Ret
RSA AUS
Ret
1986年 ブラバム BT55 BMW M12/13/1 1.5 L4 t BRA ESP SMR MON BEL CAN
Ret
DET
10
FRA
9
GBR
8
GER
7
HUN
Ret
AUT
DNS
ITA
Ret
POR
Ret
MEX
Ret
AUS
Ret
NC 0
1987年 アロウズ A10 メガトロン M12/13 1.5 L4 t BRA
Ret
SMR
11
BEL
Ret
MON
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
5
GER
Ret
HUN
6
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
13
ESP
10
MEX
Ret
JPN
10
AUS
Ret
16位 3
1988年 A10B BRA
4
SMR
9
MON
4
MEX
5
CAN
7
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
6
GER
7
HUN
Ret
BEL
5
ITA
4
POR
4
ESP
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
8位 17
1989年 A11 フォード・コスワース DFR 3.5 V8 BRA
5
SMR
5
MON
Ret
MEX
Ret
USA
Ret
CAN
Ret
FRA GBR
9
GER
6
HUN
10
BEL
6
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
9
JPN
6
AUS
Ret
10位 7
1990年 ロータス 102 ランボルギーニ 3512 3.5 V12 USA
Ret
BRA
Ret
SMR
7
MON
Ret
CAN
6
MEX
10
FRA
11
GBR
Ret
GER
8
HUN
5
BEL
11
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
14位 3
1993年 フットワーク FA13B 無限ホンダ MF-351 HB 3.5 V10 RSA
7
BRA
9
16位 4
FA14 EUR
Ret
SMR
Ret
ESP
13
MON
Ret
CAN
16
FRA
13
GBR
6
GER
17
HUN
4
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
15
JPN
14
AUS
10

世界スポーツカー選手権

[編集]

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
1983年 ドイツの旗 ポルシェクレマー・レーシング フランスの旗 パトリック・ガイヤール
ドイツの旗 フランク・イェリンスキー
ポルシェ-クレマー・CK5 C 76 DNF DNF
1986年 イギリスの旗 シルク・カットジャガー
イギリスの旗 トム・ウォーキンショー・レーシング
アメリカ合衆国の旗 エディ・チーバー
フランスの旗 ジャン=ルイ・シュレッサー
ジャガー・XJR-6 C1 239 DNF DNF
1991年 イギリスの旗 シルク・カットジャガー
イギリスの旗 トム・ウォーキンショー・レーシング
デンマークの旗 ジョン・ニールセン
イギリスの旗 アンディ・ウォレス
ジャガー・XJR-12 C1 356 4位 4位
1992年 フランスの旗 プジョー・タルボ・スポール フランスの旗 ヤニック・ダルマス
イギリスの旗 マーク・ブランデル
プジョー・905 Evo 1B 352 1位 1位
1996年 フランスの旗 クラージュ・コンペティション アメリカ合衆国の旗 マリオ・アンドレッティ
オランダの旗 ヤン・ラマース
クラージュ・C36-ポルシェ LMP1 315 13位 3位

イギリス・ツーリングカー選手権

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チーム 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 順位 ポイント
1995年 アルファロメオ・オールド・スパイス・レーシング アルファロメオ・155 TS DON
1

Ret
DON
2

Ret
BRH
1

12
BRH
2

Ret
THR
1

12
THR
2

Ret
SIL
1

16
SIL
2

17
OUL
1

DNS
OUL
2

DNS
BRH
1

8
BRH
2

11
DON
1

13
DON
2

Ret
SIL
1

9
KNO
1

Ret
KNO
2

16
BRH
1

8
BRH
2

14
SNE
1

Ret
SNE
2

13
OUL
1

8
OUL
2

Ret
SIL
1

8
SIL
2

10
19位 15
1997年 ヴォクスホール・スポーツ ヴォクスホール・ベクトラ DON
1

9
DON
2

8
SIL
1

8
SIL
2

5
THR
1

15
THR
2

6
BRH
1

10
BRH
2

11
OUL
1

11
OUL
2

Ret
DON
1

Ret
DON
2

10
CRO
1

7
CRO
2

10
KNO
1

9
KNO
2

13
SNE
1

11
SNE
2

Ret
THR
1

9
THR
2

8
BRH
1

Ret
BRH
2

Ret
SIL
1

Ret
SIL
2

Ret
14位 33
1998年 THR
1

12
THR
2

5
SIL
1

4
SIL
2

6*
DON
1

13
DON
2

8
BRH
1

11
BRH
2

13
OUL
1

11
OUL
2

Ret
DON
1

DSQ
DON
2

3
CRO
1

9
CRO
2

12
SNE
1

10
SNE
2

Ret
THR
1

7
THR
2

Ret
KNO
1

9
KNO
2

1
BRH
1

Ret
BRH
2

14
OUL
1

10
OUL
2

5*
SIL
1

7
SIL
2

10
9位 70

バサースト1000

[編集]

グランプリ・マスターズ

[編集]
チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5
2005年 チーム・リクサス デルタ・モータースポーツ GPM ニコルソン・マクラーレン 3.5 V8 RSA
5
2006年 QAT
5
ITA
C
SIL
Ret
MAL
C
RSA
C

ポルシェ・スーパーカップ

[編集]
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 DC ポイント
2007年 ポルシェ・AG BHR BHR ESP MON FRA GBR
27
GER HUN TUR BEL ITA NC 0

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 予備予選が存在した第6戦モナコグランプリでは予備予選落ち。
  2. ^ ワーウィックが予備予選落ちを喫した第6戦モナコグランプリは、ファビは不参加だった。
  3. ^ ニキ・ラウダが、ワーウィックを抜く際に必要以上に幅寄せした際、接触したことに起因するものだった。
  4. ^ ただし、タンベイは第5戦フランスグランプリPPを獲得している。
  5. ^ タンベイが2度の3位表彰台などで11ポイントを獲得したのに対し、5ポイント。
  6. ^ 自分とワーウィックの獲得ポイントが拮抗した場合、ワーウィックがチームと同じイギリス国籍でキャリア豊富のためチーム力が分散し自分をエースとして盛り立ててくれなくなることを危惧したと言われている。またトールマン・TG183を84年序盤に新人のセナがドライブして疲労困憊し、メカニック(津川哲夫)からワーウィックはこのマシンで体力的に問題がなかったと聞き一目置いていたとされる。
  7. ^ ただし、チーバーが3位表彰台を記録しており、最高位では下回っていた。
  8. ^ チーバーの6に対し7。ただし、この年もチーバーは3位表彰台を記録していた。
  9. ^ マシンの信頼性が低く普通に走っては誰にも気づかず終わってしまうため。

出典

[編集]
  1. ^ ウォーウィックがロータス離脱を表明 グランプリ・エクスプレス イタリアルGP号 38頁 1990年9月28日発行
  2. ^ ウォーウィック来季はジャガーでGr.C グランプリ・エクスプレス オーストラリア号 31頁 1990年11月24日発行
  3. ^ 元F1組も多く参戦 ツーリングカーレースの魅力とは F1グランプリ特集 1995年3月16日発行
  4. ^ http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/57197.html/ BRDC会長に選任されたワーウィック - ESPN F1・2011年8月26日
  5. ^ https://www.derekwarwick.com/derek-warwick/ Derek Warwick Honda
  6. ^ https://f1-gate.com/alonso/f1_68897.html フェルナンド・アロンソ、F1マイアミGPの罰則を批判「無能なスチュワード」 - F1-Gate.com・2022年5月20日
  7. ^ https://f1sokuho.mopita.com/free/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&pass=&page=news/sp/body&no=115584&topics_type=1163&back=column 小松礼雄コラム第16回: バトル時の裁定が不明確な背景。レース中の無線での駆け引き・2017年11月24日
  8. ^ https://f1sokuho.mopita.com/pc/free/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&pass=&page=news/sp/body&no=140944&tt=1170 【F1チームの戦い方:小松礼雄コラム第5回】スタート前のタイヤ交換が奏功。罰則覚悟も「やるしかないと思った」・2020年7月30日
  9. ^ https://www.fia.com/sites/default/files/decision-document/2023%20Spanish%20Grand%20Prix%20-%20Decision%20-%20Team%20Principal%20-%20MoneyGram%20Haas%20F1%20Team.pdf Decision -Team Principal -MoneyGram Haas F1 Team - FIA DOCUMENTS・2023年6月4日
  10. ^ https://www.fia.com/sites/default/files/decision-document/2021%20Abu%20Dhabi%20Grand%20Prix%20-%20Decision%20-%20Mercedes%20Protest%20Art.%2048.8.pdf Decision -Mercedes Protest Art. 48.8・2021年12月12日
  11. ^ https://www.fia.com/sites/default/files/decision-document/2021%20Abu%20Dhabi%20Grand%20Prix%20-%20Decision%20-%20Mercedes%20Protest%20Art.%2048.12.pdf Decision -Mercedes Protest Art. 48.12・2021年12月12日
  12. ^ https://www.youtube.com/watch?v=zCzorrwYziM F1 LIVE: Spanish Grand Prix Post Race Show・2023年6月4日
  13. ^ 【中野信治のF1分析/第8戦】気づいた時には遅すぎる現代F1の難しさ。角田裕毅の戦う姿勢とペナルティへの私見”. autosport web (2023年6月10日). 2024年1月6日閲覧。
  14. ^ トスト代表「裁定が覆ることはない」角田裕毅の疑惑のペナルティ裁定にアルファタウリが抗議しなかった理由”. Number Web (2023年6月7日). 2024年1月6日閲覧。
  15. ^ https://formula1-data.com/article/uk-day3-gasly-2023 不満爆発ガスリー、一貫性欠くFIAを批判…ストロールの”走路外オーバーテイク”を不問・2023年7月10日
  16. ^ https://f1-gate.com/hamilton/f1_76678.html ルイス・ハミルトン 「角田裕毅のせいでQ3進出を逃したわけではない」・2023年8月27日
  17. ^ https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-2023-rd14-dutch-gp-qf-yuk-tsunoda-comment-about-hamilton/10512123/ 角田裕毅、ハミルトンを妨害したとして3グリッド降格のペナルティ。予選直後のインタビューでは「僕が邪魔されたんですよね?」と語る・2023年8月27日
  18. ^ https://www.fia.com/sites/default/files/decision-document/2023%20Dutch%20Grand%20Prix%20-%20Infringement%20-%20Car%2022%20-%20Causing%20a%20Collision.pdf Infringement - Car22 - Causing a Collision・2023年8月28日
  19. ^ https://www.fia.com/sites/default/files/decision-document/2023%20Las%20Vegas%20Grand%20Prix%20-%20Decision%20-%20Car%2055%20-%20Replacement%20Components.pdf Decision -Car 55- Rplacement Components・2023年11月17日
  20. ^ ペレスが怒りのコメント!「マグヌッセンが全開にしたのは不要だった」スチュワードにもチクリ「危険な事故だったのに」 - TopNews” (jp). 2024年5月26日閲覧。
  21. ^ Infringement -Car 22- Late attendance of National Anthem”. FIA. 2024年6月24日閲覧。
  22. ^ GRAND PRIX SPECIAL』2008年8月号』pp.76-77
  23. ^ a b 『GP Car Story Vol.37 Brabham BT55』(三栄、2021年11月)pp.74 - 79
  24. ^ クローズアップ ミハエル・シューマッハ GPX 1991年ポルトガルGP 11頁 1991年10月12日発行
  25. ^ 『AUTO SPORT No.1087』2006年11月16日号、三栄書房、2006年、30頁。
  26. ^ 『AUTO SPORT No.1087』2006年11月16日号、三栄書房、2006年、31頁。
  27. ^ ワーウィックがWRC 最終戦RACラリーに出場 グランプリ・エクスプレス1990オーストラリアGP号 31頁 1990年11月24日発行

関連項目

[編集]
タイトル
先代
フォルカー・ヴァイドラー
ジョニー・ハーバート
ベルトラン・ガショー
ル・マン24時間優勝者
1992 with:
ヤニック・ダルマス
マーク・ブランデル
次代
ジェフ・ブラバム
クリストフ・ブシュー
エリック・エラリー