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2017年4月16日 (日) 09:18時点における版
橋本 龍太郎 はしもと りゅうたろう | |
---|---|
生年月日 | 1937年7月29日 |
出生地 |
日本 東京府東京市渋谷区 (現:東京都渋谷区) |
没年月日 | 2006年7月1日(68歳没) |
死没地 | 日本 東京都新宿区 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部卒業 |
前職 | 呉羽紡績従業員 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正二位 大勲位菊花大綬章 法学士(慶應義塾大学・1960年) 岡山県総社市名誉市民 剣道教士六段 |
配偶者 | 妻・橋本久美子 |
親族 |
加納久宜(義曾祖父) 中村雄次郎(義曾祖父) 阪谷芳郎(義曾祖父) 橋本卯太郎(祖父) 大野緑一郎(祖父) 若宮貞夫(義祖父) 加納久朗(義祖父) 中村貫之(義祖父) 橋本龍伍(父) 橋本大二郎(異母弟) 橋本岳(二男) |
第82-83代 内閣総理大臣 | |
内閣 |
第1次橋本内閣 第2次橋本内閣 第2次橋本改造内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1998年7月30日 |
天皇 | 今上天皇 |
内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編後) |
在任期間 | 2001年4月1日 - 2001年4月26日 |
初代 沖縄及び北方対策担当大臣 | |
内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編後) |
在任期間 | 2001年1月6日 - 2001年4月26日 |
第42代 沖縄開発庁長官 | |
内閣 | 第2次森改造内閣(中央省庁再編前) |
在任期間 | 2000年12月5日 - 2001年1月6日 |
その他の職歴 | |
副総理 (1995年10月2日 - 1996年1月11日) | |
第103代 大蔵大臣 (1998年1月28日 - 1998年1月30日) | |
第59代 通商産業大臣 (1994年6月30日 - 1996年1月11日) | |
第93-94代 大蔵大臣 (1989年8月10日 - 1991年10月14日) | |
第58代 運輸大臣 (1986年7月22日 - 1987年11月6日) | |
第57代 厚生大臣 (1978年12月7日 - 1979年11月9日) | |
衆議院議員 (1963年 - 2005年8月8日) |
橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本の政治家、登山家。位階は正二位。勲等は大勲位。学位は法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民[2]。剣道錬士六段。
衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第93・94・103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理、内閣総理大臣(第82・83代)、政治改革担当大臣、沖縄開発庁長官(第42代)、沖縄及び北方対策担当大臣、行政改革担当大臣、規制改革担当大臣、自由民主党幹事長、自由民主党政務調査会長、自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。
来歴・人物
初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣で厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣、大蔵大臣等を歴任し、所謂ニューリーダーの後をになう総裁候補に目されるようになった。
1994年に発足した、自社さ連立政権の村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務、1996年の村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。
在任中は、住宅金融専門会社問題(住専問題・第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではビル・クリントンアメリカ合衆国大統領や、ボリス・エリツィンロシア連邦大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣で政治改革を担当する国務大臣や沖縄開発庁長官。また中央省庁再編後には規制改革担当大臣、沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。
2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、翌2006年に死去。
竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。
生涯
生い立ち
東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監、朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女。母・春は中耳炎をこじらせ、龍太郎の生後5か月後に急死した。父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた[3]。
学生時代
田園調布小学校に入る前、7歳の時に、継母・正を迎えた[4]。
麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった[5]。
麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだった[6]。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた[7]。
1956年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。慶應は足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた大学でもあり、父にとっても龍太郎の慶應義塾合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という[8]。大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた[9]。
なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという[10]。大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した。
制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたという。また、日本国有鉄道の民営化の際に運輸大臣を務めていたので国鉄の制服を着て式典に臨み、その時に着用した制服は後々も大事に保管されていた。
政治家の道へ
社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという[11]。
父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている[12]。しかし、当時未成年であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった[13]。立候補が決まった龍太郎は、父が大臣を務めた厚生省の会議を見学させてもらい、ノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者も感心していたという[14]。
1963年の総選挙で衆議院議員に初当選。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った[15]。
初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され[16]、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった[17]。本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。
議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた[18]。そういった関係でもあり派閥は佐藤派に所属した。
1969年の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。
枢要ポストを歴任
1978年12月7日、第1次大平内閣で厚生大臣に任命され、当選5回で初入閣を果たした。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した[19]。
水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし応対した橋本は、患者らの「人命軽視だ」という批判に「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた[20]。
竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。
1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任して国鉄民営化を担当した。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。
1987年には竹下内閣で幹事長代理に就任し、健康不安のある幹事長の安倍晋太郎を支え続け、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。
総裁候補へ浮上
1989年、宇野内閣成立時には幹事長代理の経験が買われ、幹事長に昇格した。リクルート事件や消費税の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選では、かつてない逆風にさらされて、自民党が惨敗した際には「こんちくしょう…」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンが、テレビで放映され話題となったが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説したことで、国民的人気を得るに至った[21]。
宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。
1989年8月海部内閣で大蔵大臣に就任し[22]、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞任した。
1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。小沢・羽田派は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。
この間の1991年12月に弟の大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時、橋本が所属する自民党推薦の候補と対決。龍太郎は大二郎を擁護し「自慢の弟です」と述べた。
1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した[23]。総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は下野した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて「政権奪還論」を著している。
自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣で通商産業大臣に就任した。大臣在任中、日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも高く評価されている。
第17代自民党総裁
1995年9月、橋本は国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された[24][25]。橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝[26]。第17代自由民主党総裁に就任した。幹事長に宮澤派の加藤紘一、総務会長に三塚派の塩川正十郎。政調会長に旧渡辺派の山崎拓を選任した。橋本は総裁就任に伴って、村山内閣改造内閣で副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。
1996年1月11日、村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。
就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。ただし、海外市場では好感する動きが見られた[27][28]。
同年2月23日、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求、4月に全面返還で日米政府が合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策や環境政策が絡む中で米国や沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、代替施設について名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。
自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に現職の内閣総理大臣としては11年ぶりに靖国神社を参拝した。
同年の臨時国会冒頭の9月27日、衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙中は橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われる国民的人気を見せ付けている。
第2次橋本内閣
1996年11月7日、社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣となった(なったといっても閣外協力なので連立の枠組みはあった)第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。
橋本は、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官、水野清首相補佐官のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。
同年12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を現地の左翼ゲリラが占拠し、多数が人質となるペルー日本大使公邸人質事件が発生。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した[29]。事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店のあんパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」といった声も聞かれた。
1997年の通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された[30][31]。橋本は自社さ派と評されるようになる[32]。
同年6月23日、コロンビア大学での講演において聴衆から「日本が米国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そして、アメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「米国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に、屈服することはない」と続けた。しかし、大量の米国債を保有する日本の首相が「米国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。
同年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった[33]。
同年11月のロシアのエリツィン大統領と日露首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した[34]。
同年11月に財政構造改革法を成立させ、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行や山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明した。
同年12月24日から「龍ちゃんプリクラ」こと橋本首相といっしょに写真が取れるプリントクラブが、党本部1階ロビーに設置された。
1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した[35]。また同年、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。同年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で過半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。
同年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。名言「すべてひっくるめて責任は私にある」と橋本は述べた後、橋本内閣は総辞職した[36][37]。 1997年には日本の総理大臣として初めて北朝鮮拉致事件について国会答弁で触れている。
消費税増税とその後
1997年(平成9年)4月1日、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入(4%→地方消費税1%を合わせて5%)を橋本内閣が実施。
産経新聞の田村秀男編集委員は、記事「カンノミクスの勘違い」の中で橋本が消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から、日本は長期デフレーション(平成不況・失われた20年)に突入したと評している。田村編集委員は、消費増税を実施した1997年度(平成9年度)においては、消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999年度(平成11年度)には、1997年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。さらに、「橋本元首相は財務省官僚の言いなりになった事を、亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている[38]。
2001年自由民主党総裁選挙に出馬した際も、橋本が自身の公式ホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として不況に陥らせたことを謝罪している[39]。
橋本は生前「私は平成9年から10年にかけて緊縮財政をやり、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」「財政再建のタイミングを早まって経済低迷をもたらした」との自責の念も示している[40]。
所得税収、法人税収はそれぞれ1998年度、1999年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準にあわせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減[41]、法人税は税率が引き下げられている[注釈 1]ため、減税による税収減も含まれている。
その額は、所得税・住民税の定率減税(3兆5000億円)と最高税率の引下げ(5000億円)、法人税・法人事業税の税率引下げ(2兆5000億円)など[42]。この三つの合計は6兆5千億となり、上の指摘の額と同じになる。つまり、税収の減収額は、減税の額と同じになり、消費税導入の効果は中立的であったことになる。
1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度には名目GDPは、前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻な就職氷河期、デフレーション経済が蔓延する結果になった[43]。
首相退任後
首相退任後の1998年8月、橋本は小渕恵三首相から、首相外交最高顧問を任じられ受けている。この首相外交最高顧問は、内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕、森、小泉と三代にわたって務め上げた。
1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族の橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は「(前年の)参院選惨敗の責任は私にあるから入閣は無理」として固辞。自分に代わって、同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する[44]。
2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任したことに伴って、会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適格な人材がいなかったためである。実権は野中広務や青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておくこともできず、仕方なく引き受けたという。
同年11月、加藤の乱の際に、かつてヨーロッパで行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し、物議を醸す。
同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、沖縄開発庁長官に就任し、また、政治改革を担当する国務大臣も兼務した。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。
2001年4月の総裁選では、同派幹部の高鳥修や村岡兼造らのすすめもあり派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬[注釈 2]。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出たが、当初は橋本の勝利が予想された。結局「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎に敗北。小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった[45]。なお小泉からも入閣を要請されたが、橋本は固辞している。
2003年9月の総裁選では橋本派から熊代昭彦、笹川堯、藤井孝男の3人が総裁選出馬を表明。橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。この総裁選の過程で村岡兼造や久間章生らベテラン議員、さらに青木幹雄・片山虎之助らの参議院側、自身が自民党総裁・内閣総理大臣として陣頭指揮を執った1996年衆院選当選組の桜田義孝、下地幹郎、新藤義孝、大村秀章などの橋本派若手議員が小泉支持に回るなど派内の分裂が決定的となり、橋本派は弱体化した。
晩年
2004年7月、日歯連闇献金事件が発覚した。内容としては、橋本と青木幹雄・野中広務が日本歯科医師連盟会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであった。
東京地検が政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士、日歯連会長と理事を逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本と同席していた青木・野中も東京地検が捜査していたが同年9月に不起訴となった。のちに検察審査会で同事件での不起訴は不当であるとする議決を行った。
村岡兼造が収支報告書への不記載を首謀したとして在宅起訴された。橋本は「会食で1億円の小切手を貰った記憶は無い」などと発言し、日歯連の不正献金疑惑が大きく報道に取り上げられ、当時の自民党随一の政界影響力を誇り最大派閥であった橋本派の各種団体との癒着や政治と金の問題が浮き彫りになった。その後、比例区からの出馬が模索されたものの、党はこれを認めず、政界引退を余儀なくされた。
2006年7月1日、東京都新宿区の国立国際医療センターで、腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去した。68歳没。
7月3日には葬儀・告別式が東京高輪の高野山東京別院で営まれた。また8月8日には小泉総理大臣を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われ、自衛隊による儀仗、堵列及び弔砲が捧げられた。追悼の辞は小泉葬儀委員長が述べた。戒名は高潔院殿俊岳龍吟大居士。墓は岡山県総社市の宝福寺にある。
なお、死因である腸管虚血は、原因がよくわからないこともあり、橋本の死後、病院側の意向により、遺体は病理解剖に付された。
政策
- 厚生政務次官、自民党社会部会長、衆議院社会労働委員長、厚生大臣と厚生族議員としてキャリアを積んでいき、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判もあったが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。
- 環境庁の発足や、環境庁から環境省への移行にも関わった。また、京都議定書の締結にも首相として関わった。
- 第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した[46]。
- 海部内閣では大蔵大臣に就任し、党内基盤の脆弱な海部俊樹首相を、特に政策面で強く支えた。湾岸戦争では多国籍軍の経費として130億ドルを拠出。 過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行う。
- 首相在任中は、「六大改革」を唱え、構造改革・行政改革を目指した。「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」と決意表明したことから、「火達磨の決意」「火達磨改革」「火だるま行革」とも呼ばれた。村山内閣において決定された消費税率5パーセントへの引き上げを実施するも、アジア通貨危機と重なって、長期不況に陥った(失われた10年、失われた20年、就職氷河期を参照)。
- 行政改革に取り組み、22ある省庁を1府12省庁に削減する省庁再編、大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、首相権限強化を伴う内閣機能の見直し、郵政三事業の一体公社化、公務員定数の一割削減などを「行政改革会議」において最終報告という形で決定した[47]。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実し、一定の成果を挙げた。
- アメリカ合衆国から、沖縄県・普天間基地移設問題についての同意を取り付けた。その一方で「新・日米防衛協力のための指針」を策定。
- 対ロシア外交では、エリツィン大統領との間に個人的な信頼関係を結び、エリツィンの訪日を実現、川奈合意の実現をみた。
- エリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。
人物
人物像
身長165cm、体重66kg。
1990年にベストドレッサー賞を受賞している。座右の銘は「誠」、「初心忘るべからず」。趣味は、剣道、登山、写真など多彩。特に剣道は政界きっての腕前である。全日本剣道連盟顧問、全日本剣道道場連盟会長、日本美術刀剣保存協会会長を務めた。また山中寅文ともに名誉森林インストラクターの称号を持つ。
一般には整髪剤は「ポマードべったり」と受け取られているが、実際には水性のヘアクリームを使っていたと本人が語っている。学生時代から通していたという[48]。ある時鈴木宗男が橋本に隠れて「あのポマード野郎」と悪口を話していた所、偶然後ろに橋本がいたため鈴木は顔面蒼白になったが、当の本人は「鈴木君、これはムースだよ」と言って快活に笑ったと言う。橋本の人柄を表す逸話として鈴木本人がよく語っている。
高校生時代からの喫煙者で[49]、生前「私は煙草をやめない」と断言している。チェリーを愛飲していた。親友の安部譲二にピースを勧められても、頑なにチェリーを吸い続けていたという。
橋本は内閣総理大臣在任中も、高知県知事になって東京から離れた腹違いの異母弟・大二郎に代わって、しばしば公務の合間に入院中だった義母を見舞った。
弟の大二郎がNHK記者だった頃、恋人と結婚したいという相談を兄の龍太郎にした。諸々の事情から龍太郎は、母が結婚しないほうが良い、と助言した。だが、大二郎が二の句を継がせずに結婚したい意志を伝えると、龍太郎は「よしわかった、俺に任せてくれ」と言ってその場を引き取り、時間を要して母を説得して、大二郎の結婚の承諾を得たという。その説得の過程では、龍太郎の苦労と母の涙があったという(2014年4月28日放送『徹子の部屋』より本人談)。
女性関係を指摘されることが多く、そのために首相になり損ねたことがあったらしい。宇野の退陣後に就任した海部が回顧録で、金丸信から首相就任を持ち掛けられた際、橋本はこれ(右手の小指)があるから駄目だと言われたために、その後橋本に直接質したところ「残念ながら、おれにはあるんだ」と答えたと回想している[50][注釈 3]。もっとも久美子夫人の立ち振る舞いもあってか、政治的スキャンダルに発展することはなかった。
1990年に銀座ホステスとの関係が週刊誌で「橋本龍太郎の一夜妻」として取り上げられ、総理在任中の1996年に当人が暴露本を出版しマスコミを賑わせた。
「諸君!」1998年6月号で、加藤昭は橋本が総理在任中に中華人民共和国の女性官僚と関係があったと報じた。女性は中国側のスパイであるとみられていたが、これについて橋本側は、女性は中国大使館に勤務する通訳であり、職務上接点があっただけだとした。
「文藝春秋」2008年9月特別号で米原万里に橋本から関係を迫られたと聞いたとする佐藤優の記事が掲載された。米原は橋本が総理在任中のモスクワ外遊時に通訳を務めていた。佐藤は後に自著『インテリジェンス人間論』においても同様の記述をしている。両者とも故人のため、コメントは得られていない。
登山家として
日本山岳会の会員でもあり、日本山岳ガイド協会の会長を長きにわたり務めた。1973年、第2次RCCのエベレスト南壁(現・南西壁)の遠征隊の総隊長を務めた。この他にも、多くの海外遠征登山隊の総隊長に就任したり、あるいは総指揮を担当した。
登山家の野口健とも親しい。2000年にエベレストの清掃登山を行っていた野口健は、12年前に同じく登頂を果たした橋本総隊長のJPNテレビ登山隊(日中ネパール合同隊)が置いていった酸素ボンベを発見し、帰国後橋本の議員会館事務所を訪れて酸素ボンベを届けた。当初橋本龍太郎は野口を失礼な人間だと感じたが、これが切っ掛けで2人は親しくなり野口は橋本を父親の様に慕っていたという。2006年正月に野口は橋本から「自分はもう登山は無理だから、これを持って行け。」と橋本愛用のピッケルを渡されたという。山をこよなく愛したことから、青山墓地にある一家の墓とは別にエベレストを望むネパールのタンポチェ村に慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の度に訪れている。慰霊碑は2007年に完成し、同年3月30日に、日本からの関係者も出席して式典が営まれた[注釈 4]。
橋本との縁で橋本没後、野口事務所には橋本龍太郎の当時公設秘書だった藤村健が環境アドバイザー・マネージャーとして入所している[注釈 5]。
内閣総理大臣在任中の1997年に発生したペルー早稲田大学探検部員殺害事件の報に接して、1997年12月28日に記者団の前で「ペルーはMRTAだけでなくほかにもテロ組織があって、当然、政府軍との間でピリピリしている。十分事前に準備して最小限にとどめる必要がある。十分事前に準備をできていたのか、冒険好きの僕からみると疑問に思う」と述べた[51]。ただし、実際に殺害したのはペルーの正規軍兵士で、金銭目当ての犯行だった。橋本の発言に対し、早稲田大学探検部OBの船戸与一が厳しく反論し、探検部OB会有志47人の連名で、「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」(原文ママ)を1998年1月26日発売の『週刊ポスト』183ページに意見広告として掲載した[52]。
政治家としての評価
「見識はあるが、人望はない」が党内での一般的な評価。政界随一の政策通として知られ、いささかの揶揄を込めて「課長補佐」などといわれるほど、各政策部門の細かな部分まで精通していたが、何かわからないことを聞いたりすると「おや、そんなこともおわかりにならない?」、「あなたが知らないことを、どうして私が知っていると思うのです?」などと必ず嫌味な返答をしたとされる。花街で最も嫌われている政治家という不名誉な噂もあった。また、派閥と子分の面倒を見たことがほとんどなく、前述の自民党総裁選で橋本擁立に奔走した小渕派の幹部からも「橋本さんは水耕栽培だから」と揶揄された。
橋本の兄貴分である竹下登は「怒る、威張る、拗ねるが橋本になければ、とっくの昔にアイツは総理になっていた」と評した。田中角栄は「橋龍は、こまっちゃくれた風切り小僧だ。備前長船の出身。切れそうだけど、あの手は人様に好かれない。親父の龍伍は切れ味抜群だったが、仲間がいなかった」と評した。梶山静六は「橋龍というのは遠くで見ている富士山」と評したことがある。つまり近くに寄って接していくと理論に走りすぎたり、白黒をはっきりさせないと気のすまない性格で欠点ばかりが目立つというのである[53]。 小沢一郎は「龍ちゃんは一人で遊ぶ。だから友達ができない」と述べている[54]。橋本の総理大臣時代に幹事長代理として仕えた野中広務は「橋本さんは当選1回、2回の議員との接触がほとんどなかった。若手議員の面倒を見てやれず、総裁選敗北になったのではないか」と著書で語っている。この性格に関して俵孝太郎は、当選前の龍太郎の猛勉強ぶりとその後の行動をみて、父の龍伍が障害者だったことから、健常者に負けないという障害者を抱えた家族特有の気負いが強かったことが生意気と言われながらも、シャイで涙もろいところがあった要因だったのではと著書で分析している。
政界で唯一の友人と言えるのは同期当選で同学年の小渕恵三で、お互い「龍ちゃん」「恵ちゃん」と呼び合う仲で「当選以来お互い騙し騙された事の無い仲だった」と語っている[注釈 6]。また、橋本を取り巻く数少ない側近には、斎藤十朗、山東昭子、藤井孝男、熊代昭彦[注釈 7]らがいた。
政治評論家の浅川博忠は、橋本が初当選の頃の後藤田正晴を「後藤田君」と呼んでいたという逸話を紹介している。後藤田は当選回数では橋本より下だが、23歳年長で警察庁長官・内閣官房副長官を経験していた[55]。また田勢康弘は、水俣病問題への対応の末に自死した山内豊徳(環境庁企画調整局長)の遺族に手紙を宛てたエピソードなどを紹介しつつ、「橋本には『使用説明書』が必要だと常々思っている」と評している[56]。
田中秀征は橋本内閣の経済企画庁長官時代に普天間基地返還問題に関して橋本が、「戦中も戦後もわれわれのために大きな苦難を担ってくれた沖縄の人たちに、できる限りのことをするのは当然だ。」と発言したことに身震いするような感動を受け、それまでキザなイメージが強かった橋本への人物感を改め尊敬するようになったという[57]。
久美子夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評している。橋本は、95年の総裁選で総裁に選出された際、うっすら涙を浮かべていた。通商産業大臣に就任した塚原俊平は、橋本に会の報告に行った際の様子について、「ただ『有難う』といって、『僕も疲れたよ』とそんな感じでした。でもその後聞いたら、我々が帰った後で涙を流して喜んだということでした。おかしな人ですね。それなら私たちの目の前で喜べばいいのに。それが彼のシャイなところというか、パフォーマンスが下手な人ですね。」と述べている[58]。最後に総裁選に出馬したころは、テレビ座談会で司会の久米宏に「睨まないでくださいよ」と言われて「睨んでないですよ。優しい眼差しを投げかけているんじゃないですか」と切り返す余裕も備わっていた。
早くから自民党および田中派のエースと目され、重要ポストを歴任し首相に就任したが、退任後は傀儡の形で派閥の会長に就任し総裁選に再度出馬も落選、スキャンダルで引退を余儀なくされそのまま翌年死去と、華々しいキャリアの割にはいささか寂しい晩年であった。
マスコミからは「芝居上手」ともいわれていた。芝居がかった喋り方などの特徴から「橋龍さんは非常に芝居が上手い」等ともいわれていた。首相時代に自民党のCMにも出演していた際にもその様子が窺える。
略歴
- 1937年7月 - 東京渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男として生まれる[注釈 8]。
- 1950年3月 - 大田区立田園調布小学校卒業
- 1953年3月 - 麻布中学校卒業
- 1956年3月 - 麻布高等学校卒業
- 1960年3月 - 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
- 1960年4月 - 呉羽紡績株式会社(現・東洋紡)に入社
- 1963年4月 - 衆議院議員西村英一秘書
- 1963年7月 - 厚生大臣秘書官
- 1963年11月 - 父の後を継ぎ、衆議院旧岡山2区より出馬、初当選
- 1964年8月 - 自民党学生部長
- 1966年8月 - 党産業労働部長
- 1968年1月 - 党内閣部会副部会長
- 1969年1月 - 党国民生活局次長
- 1970年1月 - 厚生政務次官(第3次佐藤内閣)
- 1971年7月 - 党環境部会副部会長 党国民運動本部副本部長
- 1972年7月 - 党社会部会長 党医療基本問題調査会副会長
- 1972年12月 - 党全国組織委員会遊説局長
- 1975年9月 - 党ライフサイクル調査会副会長
- 1976年12月 - 衆議院社会労働委員長
- 1977年9月 - 党岡山県連会長
- 1978年12月 - 厚生大臣(第1次大平内閣)
- 1980年8月 - 党行財政調査会会長 党社会保障調査会副会長
- 1981年11月 - 党国際経済対策特別調査会副会長
- 1984年3月 - 党医療基本問題調査会会長
- 1986年7月 - 運輸大臣(第3次中曽根内閣)
- 1987年11月 - 党幹事長代理
- 1989年6月 - 党幹事長
- 1989年8月 - 大蔵大臣(第1次海部内閣)
- 1990年2月 - 大蔵大臣に留任(第2次海部内閣)
- 1990年12月 - 大蔵大臣に留任(第2次海部改造内閣)
- 1991年10月 - 大蔵大臣辞意を表明
- 1993年2月 - 党環境基本問題調査会会長
- 1993年8月 - 党政調会長
- 1994年6月 - 通商産業大臣(村山内閣)
- 1995年9月 - 自民党総裁
- 1995年10月 - 副総理兼通商産業大臣(村山内閣改造内閣)
- 1996年1月 - 内閣総理大臣
- 1998年7月 - 参院選の敗北を受けて首相を辞任。後任の小渕内閣で外交最高顧問に就任
- 2000年7月 - 平成研究会会長就任
- 2000年12月 - 政治改革担当・沖縄開発庁長官(第2次森改造内閣 (中央省庁再編前))
- 2001年1月 - 行政改革担当、規制改革担当大臣、沖縄及び北方対策担当大臣(第2次森改造内閣 (中央省庁再編後))
- 2003年5月 - 党沖縄振興委員会委員長
- 2004年2月 - 国連のコフィー・アナン事務総長に要請され、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の議長に就任
- 2005年8月 - 郵政解散後、総選挙不出馬=政界引退を表明。14回連続当選。次男・橋本岳が後継者となるが郵政選挙での柚木道義との新人対決に惜敗し比例復活。
- 2006年7月1日 - 東京都新宿区の国立国際医療センターで死去。享年68。
栄典
死後、正二位大勲位菊花大綬章を追贈(死去した7月1日にさかのぼって贈られる)。
著書
- 『Vision of Japan わが胸中に政策ありて』KKベストセラーズ1993年 ISBN 4584181624
- 『政権奪還論 』講談社 1994年 ISBN 4062070065
- 『燃える剣―橋本龍太郎の青春秘話』日本出版放送企画 1996年 ISBN 4795253412
- 『馬越恭平』(岡山 : 山陽図書出版、1976年)
家族・親族
橋本家
- 祖父・卯太郎(東京府平民[60]、実業家・大日本麦酒の元常務)
- 岡山県吉備郡秦村(現・総社市)出身。橋本明によれば、「橋本龍太郎首相の祖父卯太郎は農民だった。岡山県吉備郡秦村(現・総社市)が高梁川の氾濫で水没すると上京、新聞配達をしながら苦学して高等工業学校を卒業。馬越恭平日本ビール社長に見込まれ入社した。当時専務をしていた石光真澄が卯太郎の人柄を見抜いて「妹・真都を嫁に…」と望み、二人は馬越の媒酌で結婚する。酵母を扱う技師から常務に出世した卯太郎は8人の子宝に恵まれた。男六人には「宇宙乾坤龍虎」に数字をつけて命名した。」という[61]。
- 『明治大正人物史』によると「明治二年三月生る。岡山県人橋本源三郎の長男なり。同三十一年養兄富平方より分れて一家を創立す。幼より沈着誠実、悠々として迫らざる態度は大人の風ありて、その大成を嘱望せらる。長じて東京高等工業学校に学び、二十七年同校機械科を卒業するや、直ちに大日本麦酒株式会社に入る。温厚円満の人格と、機宜に当る手腕とは君をして工務部長に累進、更に常務取締役に挙げしめ、現にその任にありて活躍しつつあり。書画骨董に趣味を有し、閑日月を活動の間に求むるところ奥床しとも云ふ可し。」という。
- 祖母・真都(熊本藩士石光真民の娘、恵比寿麦酒支配人石光真澄・陸軍少佐、諜報活動家石光真清・陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪)
- 父・龍伍(官僚、政治家)
- 厚生大臣、文部大臣などを歴任した。
- 実母・春子(埼玉県、官僚・弁護士大野緑一郎(元警視総監、朝鮮総督府政務総監)の長女)
- 継母・正(兵庫県、官僚・政治家若宮貞夫の四女)
- 異母弟・大二郎(政治家・元高知県知事)
- 妻・久美子(元不二音響社長中村久次の長女、銀行家中村貫之男爵・元千葉県知事加納久朗子爵の孫、元上総国一宮藩主加納久宜子爵・元東京市長阪谷芳郎子爵・元満鉄総裁中村雄次郎陸軍中将男爵の曾孫、日本資本主義の父・財界・実業界指導者渋沢栄一子爵の玄孫)
- 長男・龍〔りょう〕
- 次男・岳(政治家)
- 長女
- 次女
- 三女
- 伯父・叔父
- 従兄弟
石光家
人脈
広瀬隆によれば、「彼の先代の人脈は、一見して分るように、陸軍中将が三人と、海軍少佐[63]、朝鮮総督府政務総監らに囲まれた軍人一家であった。妻・中村久美子も満鉄総裁中村雄次郎の曾孫にあたる。」という[64]。
出典
- ^ 規制改革担当大臣の辞令は中央省庁再編後の2001年4月1日に発令。再編以前は「政治改革を推進するため行政各部の所管する事務の調整」を担当させる補職辞令が発令されていた。
- ^ 総社市
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』12頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』98-100頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』108頁
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』31、32頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』116頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』118頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』118頁
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』35頁
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』39頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』123頁
- ^ 『小説 角栄学校』83頁
- ^ 俵孝太郎『政治家の風景』1994年
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』 47-48頁
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』128頁
- ^ 物語・介護保険第59話 訪問看護から政治へ、"女は度胸"2014年5月10日閲覧
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』30頁
- ^ 『西日本新聞』 ワードBOX
- ^ 『橋本龍太郎・全人像』148頁
- ^ 『自民党幹事長室の30年』 pp.227-232
- ^ 『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫著
- ^ 『小説 角栄学校』 pp.209
- ^ 『小説 池田学校』 pp263-265
- ^ 『』 pp41-42
- ^ 『小説 角栄学校』 pp266-pp.227
- ^ 『劇録!総理への道』大下英治著 pp.665-666
- ^ 『新進党vs自民党』大下英治著 pp.412-442
- ^ 『激録!総理への道』 pp671-687
- ^ 『自民党ナンバー2の研究』pp.280-281
- ^ 『激録!総理への道』pp.687-695
- ^ 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』 pp389-390
- ^ 『激録!総理への道』 pp695-699
- ^ 『激録!総理への道』 pp.707-723
- ^ 『激録!総理への道』 pp.723-730
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- ^ 石光真清著『城下の人』
- ^ 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』112頁によれば、「二男・宙二は海軍大佐」である
- ^ 広瀬隆著『私物国家 日本の黒幕の系図』287頁
注釈
- ^ 日本の法人税は1990年度以降は37.5%であったが、1998年度に削減されて34.5%となった。1999年度にはさらに引き下げられ、30%になっている。財務省:法人税の推移
- ^ 高鳥は「野中さんだと派閥が分裂する」として橋本に総裁選出馬を進言した
- ^ なお、ここで海部は「河野(洋平)にもあった」と余計な発言をしている
- ^ 「橋本龍太郎氏の慰霊碑」『野口健ブログ』
- ^ また首相在任中に行われた党首討論(日本記者クラブで各党首による公開討論)で日本共産党委員長の不破哲三が「北方領土が日本固有の領土という点においては、なぜか自民党と一致している」と発言したのに対して、「山登りも同じだよ」と混ぜっ返して会場を和ませた。不破もまた登山を趣味としていた。
- ^ 橋本の父・龍伍と小渕の父・光平は第24回衆議院議員総選挙の当選同期であり、同じ吉田茂派に在籍していた
- ^ 同じ岡山県出身で、橋本に見いだされて政界入りした
- ^ なお龍太郎本人は東京生まれの東京育ちであるが、岡山を選挙区として政治活動を始めてからは“岡山県総社市出身”と称した。本籍は東京都渋谷区(『人事興信録』より)。昭和43年(1968年)岡山県総社市に家を建てた(橋本久美子『夫 橋本龍太郎 - もう一度「龍」と呼ばせて 』48頁より)
参考文献
- 浅川博忠『橋本龍太郎 仕事師と呼ばれた男』東洋経済新報社〈人物発掘ノンフィクション〉、1995年10月。ISBN 4-492-06085-5。
- 岩見隆夫『実録・橋本龍太郎』朝日ソノラマ、1995年10月。ISBN 4-257-03459-9。
- 奥村茂編著『橋本龍太郎孤独な戦い 「剣道総理」の意外な素顔』並木書房、1998年2月。ISBN 4-89063-091-0。
- 仮野忠男、長田達治『橋本龍太郎・全人像』行研出版局、1996年8月。ISBN 4-87732-008-3。
- 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』中央公論社、1997年4月、351-377頁。ISBN 4-12-002666-3。
- 橋本明『昭和抱擁 天皇あっての平安 戦後50年・年譜の裏面史』(増補版)日本教育新聞社、2000年(原著1998年4月)、112-114頁。ISBN 4-89055-208-1。
- 広瀬隆『私物国家 日本の黒幕の系図』光文社〈知恵の森文庫〉、2000年6月、133, 173, 191, 244, 275, 283, 333頁頁。ISBN 4-334-78001-6。
関連項目
外部リンク
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