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『ブーケ・ダムール』(1932年)のマリオネット(当時は久邇京子)、『ジャンヌの扇』では[[春日野八千代]]の相手役のジャンヌを演じた。『[[花詩集]]』(1933年)の名曲「野菊の歌」を歌う楚々としたアンナで好評を博した。 |
『ブーケ・ダムール』(1932年)のマリオネット(当時は久邇京子)、『ジャンヌの扇』では[[春日野八千代]]の相手役のジャンヌを演じた。『[[花詩集]]』(1933年)の名曲「野菊の歌」を歌う楚々としたアンナで好評を博した。 |
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歌劇「花詩集」は「パリゼット」に次いで評判になった作品で、1933年8月、9月、10月と三か月、宝塚で上演された。それ迄の白井鐡造の作品は外国名前の片仮名ばかりであったが、この時初めて日本字の題名「花詩集」を付けた。この歌劇は花をテーマとしたレビューで「野菊の歌」「鈴蘭の歌」「マロニエの歌」など、懐かしい歌が沢山ある。当時のオールスター出演の豪華なもので、一月公演は勿論、興業不振と言われる二月の続演も大入り満員であった。東京宝塚劇場の初開場は1934年1月1日で、この「花詩集」で杮落とし興行をした。この頃が[[宝塚レビュー黄金時代]]と言われ、戦争が始まるまで宝塚歌劇は毎月上京、一年中東京公演をしていた。<ref>「宝塚と私」白井鐡造著 中林出版 1967年5月10日</ref> |
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公演は1938年10月2日出発~1939年3月4日帰着というスケジュールで、[[天津乙女]]以下30名の生徒が参加してヨーロッパ各地を巡った。<ref>[[「宝塚歌劇80年史」]] |
公演は1938年10月2日出発~1939年3月4日帰着というスケジュールで、[[天津乙女]]以下30名の生徒が参加してヨーロッパ各地を巡った。<ref>[[「宝塚歌劇80年史」]] |
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宝塚歌劇団発行1994年9月9日</ref> |
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4、「宝塚と私」白井鐡造著 中林出版 1967年5月10日発行 P134 |
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5、「宝塚歌劇100年史」(舞台編)阪急コミニュケーションズ 2014年4月1日 P79,P82,P85 |
5、「宝塚歌劇100年史」(舞台編)阪急コミニュケーションズ 2014年4月1日 P79,P82,P85 |
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2014年6月15日 (日) 05:30時点における版
久美 京子(くみ きょうこ、1912年11月13日 - 1980年2月12日、享年68歳)とは元宝塚歌劇団花組主演娘役クラスの人物である。
以前は久邇 京子(くに きょうこ)であったが、当時「久邇」の文字が皇族の久邇宮家と同じであるという指摘があり、 「幾久しく美しくあれ」の意味をこめた「久美」に改名した経緯があった様である。
本名は萩原 貞子(旧姓:中村)。 出生地 大阪府大阪市西区[1]、死没地 東京都港区。 愛称はサァちゃん[2]。
来歴
1930年、大阪府立市岡高等女学校(現・大阪府立港高等学校)卒業後に[1]、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学して、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。宝塚歌劇団20期生の同期生に宇知川朝子、尾上さくら、霧立のぼるらがいる。当時は「入学=入団」で学校と劇団は一体であった。 歌が上手く、可憐で淑やかな役が似合う、明るくユーモアのある才媛であった。イタリーのカラスロウ先生などから声楽の指導を受け、1931年に初舞台を踏む。当時は声楽専科であったが現在の組分けが出来ると花組に所属。
その頃レビューの新鋭となった白井鐡造は「ジャンヌ」(古谷幸一作曲 6年3月)、「ライラック・タイム」(高木和夫作曲 同年10月)というように佳作を生み出し、台頭してきた葦原邦子、宇知川朝子、秋風多江子、二条宮子、とともに育て上げられた久美京子は[3]「白井鐡造レビューの全盛期に主演が出来る娘役に成長し大いに活躍した。
『ブーケ・ダムール』(1932年)のマリオネット(当時は久邇京子)、『ジャンヌの扇』では春日野八千代の相手役のジャンヌを演じた。『花詩集』(1933年)の名曲「野菊の歌」を歌う楚々としたアンナで好評を博した。
歌劇「花詩集」は「パリゼット」に次いで評判になった作品で、1933年8月、9月、10月と三か月、宝塚で上演された。それ迄の白井鐡造の作品は外国名前の片仮名ばかりであったが、この時初めて日本字の題名「花詩集」を付けた。この歌劇は花をテーマとしたレビューで「野菊の歌」「鈴蘭の歌」「マロニエの歌」など、懐かしい歌が沢山ある。当時のオールスター出演の豪華なもので、一月公演は勿論、興業不振と言われる二月の続演も大入り満員であった。東京宝塚劇場の初開場は1934年1月1日で、この「花詩集」で杮落とし興行をした。この頃が宝塚レビュー黄金時代と言われ、戦争が始まるまで宝塚歌劇は毎月上京、一年中東京公演をしていた。[4]
歌劇「マリオネット」(1935)では、美空暁子の相手役クリスチーヌ、「たからじぇんぬ」(1937)では小夜福子の相手役セリメーヌを演じた。 「三つのワルツ」(1938)のカステリを演じた後、「第一回ヨーロッパ公演」に参加した。 公演は1938年10月2日出発~1939年3月4日帰着というスケジュールで、天津乙女以下30名の生徒が参加してヨーロッパ各地を巡った。[5]
1939年、東京公演『想い出のアルバム』では「お夏笠物狂」のお夏を好演して 久松一声に絶賛される。同年「日本美女傅」と「歌舞伎絵巻」で静御前を演じた。
1940年、人気絶頂の中、結婚のため宝塚歌劇団を退団。
2014年、「宝塚歌劇の殿堂」に殿堂入りする。
人物
- 市岡高等女学校時代は水泳が国体選抜クラス級のスポーツ少女であった。
- こよなく歌を愛し、教会で聖歌を歌えばその歌声に皆ふり向くほどであった。
- 教職への途を目指した時期もあったが、一念発起して歌劇団への夢をかなえる。
- 退団後は配偶者の赴任先の南米チリに渡る、その後帰国。
宝塚歌劇団時代の主な舞台
- 『ブーケ・ダムール』(花組)(1932年9月1日 - 9月30日、宝塚大劇場)
- 『娘八景』(月組)(1932年11月1日 - 11月30日、宝塚大劇場)
- 「ベルリン娘」(専科合同)(1933年5月1日 - 5月21日、 中劇場)
- 「ジャンヌの扇」(専科合同)(1933年5月1日 - 5月21日、 中劇場 )
- 「花詩集」(月組) (1933年9月1日 - 9月30日、 東京公演)
- 『カレッヂソング』(花組)(1934年7月7日 - 7月22日、中劇場)
- 「野すみれ」(花組)(1934年10月1日 - 10月31日 、宝塚大劇場)
- 『四人姉妹』(花組)(1934年11月3日 - 11月18日、中劇場)
- 「ジョコンダ姫の扇」(花組)(1935年3月1日 -3月31日 、中劇場)
- 『レッド・ポニイ』(花組)(1935年3月1日 - 3月31日、中劇場)
- 「マリオネット」(花組)(1935年9月1日 -9月24日、 宝塚大劇場)
- 『人格者』(花組)(1936年2月1日 - 2月29日、中劇場)
- 「アルペン ローゼ」(花組)(1936年5月1日 - 5月31日 、宝塚大劇場)
- 『汐汲五人娘』『ラ・ロマンス』(花組)(1936年9月1日 - 9月25日、宝塚大劇場)
- 「古波陀乙女」(花組)(1937年3月7日 - 3月31日 、中劇場)
- 「ハワイ・ニューヨーク」〈雪組)(1937年8月1日 - 8月31日 宝塚大劇場)
- 「たからじぇんぬ」(月組)(1937年11月1日 - 11月30日 、宝塚大劇場)
- 「寶塚フォーリーズ」(月組)(1938年3月1日 - 3月21日、宝塚大劇場)
- 「三つのワルツ」(花組)(1938年8月1日 - 8月31日 、宝塚大劇場)
- 「思ひ出のアルバム」(雪組)(1939年5月3日 - 5月31日、東京宝塚劇場)
- 「日本美女傳」(雪組)(1939年8月2日 -8月31日、東京宝塚劇場)
主なテレビドラマ
出典
5、「宝塚歌劇100年史」(舞台編)阪急コミニュケーションズ 2014年4月1日 P79,P82,P85