高月毬子
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(高毬子から転送)
高月 毬子(たかつき まりこ、1944年5月22日 - )は、日本の女優。
東京都練馬区出身。本名は中島 澄(篠原 澄)。旧名は高 毬子(たか まりこ)[1]、初瀬 百々代(はつせ ももよ)[1]。愛称は「オシノ」、「すみちゃん」。姉は女優の篠宮朝美。趣味は日本舞踊。
人物・来歴
[編集]富士見高等学校を卒業後、1960年に宝塚音楽学校へ入学。宝塚歌劇団48期生。同期生には梓みちよ(入団せずに音楽学校時代に中退)がいる。1962年に『メイド・イン・ニッポン[1]』で宝塚歌劇団に入団し、2年目からは雪組に所属した。宝塚入団時の成績は75人中53位[1]。1965年11月29日[1]に宝塚を退団。最終公演出演の演目は雪組公演『伊豆の頼朝/ゴールデン・シャドウ』[1]である。
宝塚時代に出演した時代劇『剣は知っていた』(1965年)でヒロインを演じたのが縁となり、同年末[3]に丹波哲郎の勧めで大映に入社する[4]。大映では、主に田宮二郎の相手役を多く演じた(例:『複雑な彼』の冴子)。
1968年に大映を去った後は加藤事務所や本間事務所などに所属し[2]、主に東映のドラマや映画に出演した。代表作は『プレイガール』の庭ルナ子。
主な出演作品
[編集]映画
[編集]- 復讐の切り札(1966年)
- 銭のとれる男(1966年) - 大田久美子
- 複雑な彼(1966年) - 森田冴子
- 貴様と俺(1966年) - 秋子
- 野良犬(1966年) - 七宮道子
- ラーメン大使(1967年) - 山川ユキ
- 毒薬の匂う女(1967年)
- 怪談 蛇女(1968年)
- ヒロシマの証人(1968年) - 安芸野康子
- 夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース(1968年) - 照代
- 謝国権「愛」より (秘)性と生活(1969年) - 浜三津子
テレビ
[編集]- 剣は知っていた(1965年)
- とぼけた奴ら 第24話「女は度胸というけれど」(1968年)
- キイハンター 第2話「非情の唇」(1968年) - 河村花恵
- 特別機動捜査隊 第343話「夢の崩れる時」(1968年)
- マイティジャック 第12話「大都会の恐怖」(1968年) - 沢村冴子
- ローンウルフ 一匹狼 第19話「二つの愛」(1968年)
- 銭形平次
- 第112話「腹切り侍」(1968年) - おうた
- 第307話「びいどろを吹く女」(1972年) - おこよ
- 第338話「十年目の約束」(1972年) - お仙
- 第374話「むしけらの侍」(1973年) - お冬
- 第406話「岡っ引志願の娘」(1974年) - 紅屋の女将
- 七人の刑事 第382話「窓の外」(1969年)
- ブラックチェンバー 第5話「第十三期殺人同期生」(1969年)
- 立ち入り禁止 恋と恋(1969年)
- プレイガールシリーズ
- 遠山の金さん捕物帳(NET・東映京都)
- 第104話「桜吹雪に泣く女」(1972年) - お辰
- 第127話「尼になった男」(1972年)
- 世なおし奉行 第23話「怒りの天」(1972年)
- 眠狂四郎 第2話「女怨に剣が哭いた」(1972年)
- 地獄の辰捕物控 第6話「牡丹の花が闇に咲く」(1972年) - おえん
- ウルトラマンA 第48話「ベロクロンの復讐」(1973年) - Q歯科医院・女医(女ヤプール)
- アイフル大作戦
- 第17話「美女の顔紛失事件」(1973年)
- 第54話「仁義ある戦い」(1974年)
- 若さま侍捕物手帖 第15話「あの世からの落し物」(1973年) - おとせ
- 狼・無頼控 第9話「闇の魔王を消せ」(1973年)
- 人造人間キカイダー 第28話「赤子を泣かすアカオニオコゼ!」(1973年) - 荒木タエ子
- 仮面ライダーX 第4話「ゴッド恐怖の影!!」(1974年) - 三浦清美(メドウサ)
- 電撃!! ストラダ5 第2話「恐怖の自動車爆弾!」(1974年) - ビッグノヴァ幹部・東京No.2
- プレイガールQ 第48話「スリラー・墓場から聴える殺人メロディー」(1975年) - 西条靖子
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』小林公一・監修、阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日、64頁。ISBN 9784484146010。
- ^ a b c 「Pickup Interview 高毬子」『別冊映画秘宝 円谷プロSFドラマ大図鑑』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2013年、51頁。ISBN 978-4-8003-0209-0。
- ^ 『円谷プロSFドラマ大図鑑』のプロフィールでは「1966年」と記載している[2]。
- ^ 『円谷プロSFドラマ大図鑑』の本人インタビューでは、丹波からは東映を勧められたが五社協定により契約できず、宝塚映画にいた元大映の人間の紹介で大映に行ったと述べている[2]。