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マーティン・ブランドル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Martin Brundleから転送)
マーティン・ブランドル
マーティン・ブランドル (2011年)
基本情報
フルネーム マーティン・ジョン・ブランドル
国籍 イギリスの旗 イギリス
(イングランドの旗 イングランド)
出身地 同・ノーフォーク州
キングズ・リン
生年月日 (1959-06-01) 1959年6月1日(65歳)
F1での経歴
活動時期 1984-1989,1991-1996
所属チーム '84,'85-'86 ティレル
'87 ザクスピード
'88 ウィリアムズ
'89,'91 ブラバム
'92 ベネトン
'93,'95 リジェ
'94 マクラーレン
'96 ジョーダン
出走回数 165 (158スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 9
通算獲得ポイント 98
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1984年ブラジルGP
最終戦 1996年日本GP
テンプレートを表示

マーティン・ジョン・ブランドルMartin John Brundle, 1959年6月1日 - )は、イギリス生まれのレーサーであり、1990年ル・マン24時間レース覇者。元F1ドライバー。現在はテレビ解説を主とする。息子はアレックス・ブランドルである[1]

経歴

[編集]

父・ジョンはラリードライバーとしてのキャリアがあり、ノーフォーク州で最大のトヨタ車ディーラーである「ジョン・ブランドル商会」を経営していた。モータースポーツへの理解がある家庭に育ち、ブランドルは13歳の時にフォード・アングリアで草レースに初めて出場した[2]。高校時代は地元サッカークラブのU-16チーム主将としてプレーしていた[3]

初期の経歴

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草レースだけでなくホット・ロッドなども経験し、実家がトヨタ・ディーラーだった縁もありトヨタ・セリカ1977年のイギリスサルーンカー選手権にプライベイターとして出場し始めた。

1979年に初めてシングル・シーターに乗り、FF2000を自分で整備しながら参戦して上位を走れたことに喜びを感じ、レース熱はさらに高まって行った。

1980年BMWによるカントリー・チャンピオンシップ・イベントでチャンピオンとなった。このBMWの選手権にはトム・ウォーキンショーが関わっており、以後長い間ブランドルの才能を認める理解者となった。

1981年、ウォーキンショーのチームからBP・アウディでイギリスサルーンカー選手権に参戦。スターリング・モスとチームメイトになるなどイギリスレース界で存在がクローズアップされ始めた。同年の後半にイギリスF3にデビュー。

F3

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1982年、マールボロ・イギリスF3シリーズにデイブ・プライス・レーシングからフル参戦、2勝を挙げランキング4位を獲得。

1983年、FIAヨーロッパF3シリーズへの参戦を計画したが、直前で話が流れてしまった。しかし悪い事ばかりではなく、ブランドルはイギリスで有望な若手に与えられる「グローブウッド賞」を受賞し、賞金5000ポンドを獲得。さらに家族からも5000ポンドの支援を受け取り、これを元手にイギリスF3にチームを持っていたエディ・ジョーダンに掛け合い、新たな参戦計画を実現させてイギリスF3に再参戦することになった。同年はアイルトン・セナとチャンピオン争いを展開し、開幕9連勝などシーズン前半は圧倒的なリードを築いていたセナに対し、ブランドルは後半に猛追、計6勝を挙げ一時は逆転したが、最終戦までもつれ込んだ末再逆転を許しシーズン2位となった。

同年のシーズンオフにはセナ、ステファン・ベロフと共にF1テストに呼ばれ[4]マクラーレンティレルをテストランする機会が与えられ、初めてF1マシンを経験した。

F1への交渉

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F3で実績を積んだブランドルの元には、1984年のヨーロッパF2選手権でチャンピオンを狙えるチーム体制を持つラルトワークスロン・トーラナックからも「うちに来れば初年度にチャンピオンを獲れる。うちのラルト・ホンダをテストしないか」とオファーがあったが、このテストドライブの参加は「走行の前に1984年のラルトとの契約書にサインをすればテスト・ドライブができる」という条件があり、良いオファーだったが即答できなかった[2]。理由は先にテストしたF1のティレルから「次のテストにも来てほしい」と言われていたことが影響した。ケン・ティレルは老練な交渉術で「君には才能がある。君をできるだけ長い間面倒見よう」など若手レーサーが言われれば有頂天になるような誘い方でブランドルをキープしていたが、他にもジョナサン・パーマージョン・ワトソンなど何人も候補がおり、契約サインはなかなか書かせないという交渉術で「この3~4ヶ月、このさき一体どうなるのかと毎日気が気じゃない数か月だった」とブランドルは述べている[2]。この時点ではまだ実家の「ジョン・ブランドル商会」で週に4台は新車を売りさばくセールスマンとして仕事をし、やりがいも感じていたので、1983年クリスマスの時点ではレーサーとしてプロにならず、家業を大きくするのも悪くないと考えることもあった[2]。年が明け、開幕が近づいてようやくケン・ティレルからオッカムにあるファクトリーに来るよう呼び出されると、「君と契約する。3年契約だ。他から良いオファーが来ても必ず3年居てくれ」と正式書類が準備されており、この契約書にサインを書いた。多くいたティレルの候補の中で最初の本契約だった。シート争いに敗れたパーマーはこのあと弱小チームと言われるRAMと契約し、ブランドルが断ったF2ラルト・ホンダには代わりにロベルト・モレノが加入することになった[5]

1984年

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1984年にティレルからF1デビュー。この時点でティレルはF1参戦チームで唯一のターボ・エンジンを持たないチームになっていた上、シャシーも新型ではない012の継続使用であったが、開幕戦ブラジルGPで5位に入りF1初戦で入賞を果たす。第8戦アメリカ東GPデトロイトGP)では予選11位から追い上げ、トップのネルソン・ピケから0.8秒差の2位でフィニッシュ、初表彰台を記録。この年唯一のNAエンジン搭載チームながら、チームメイトのベロフと共に速さを見せ、新人離れした走りで注目を浴びていた。

しかしこのGPで、チームのシーズンを通した悪質な車両違反が発覚(水タンク事件)、最終的な裁定が下るまで参戦は許されたものの、続く第9戦アメリカGP(ダラスGP)で負傷し離脱。また、上記の車両違反を受け、シーズン終了後にベロフ共々1984シーズンの成績はすべて抹消され失格扱いとなった。

1985年

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ベロフと共にティレルに残留するも、前年のチーム不祥事からテクニカル・スポンサー以外のスポンサーは全て撤退しており、苦しいシーズンを送る。9月にはチームメイトのベロフが、F1と並行し参戦していたWEC第7戦で事故死してしまった(ベロフ同様、ブランドルも同選手権にダブルエントリーしていた)。シーズン途中からティレルがルノーとの契約に成功し、待望のターボ・エンジン搭載車となる014が投入されたが、急造マシンでもありティレルの成績はターボ・エンジン獲得後以後も平凡なリザルトが続いた。

チームメイトとの成績でも、ベロフが4位1回・6位1回、ベロフの後任を務めたうちの1人イワン・カペリが5位1回の入賞を記録したのに対し、ブランドルの最高位は3回の7位に留まり、ポイントを獲得できなかった。

1986年

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ティレルとの3年契約の最終年。チームメイトはサポートするルノーとエルフからの推挙もありフィリップ・ストレイフとなった。ブランドルは開幕戦ブラジルGPで5位入賞。初年度となる1984年の成績を抹消されている為、公式記録ではこれがF1初入賞となった。その後第9戦イギリスGPでも5位、第11戦ハンガリーGPでは6位、最終戦オーストラリアGPでは4位に入り、計4度の入賞となった(シーズン11位)。この年をもってティレルとの契約は終了し、ブランドルは他チームと交渉するが、同期生であるセナは既に前年トップチームの一角であるロータスに加入しており、自身は長期契約に縛られ動けなかったことに関して「セナはあの当時(1983)からF3ボーイと思えない老練な考え方を持っていた。彼はトールマンと最初のF1契約を結ぶときに違約金さえ何とかなればいつでも破棄できる契約を結び、より強力なマシンに乗るチャンスを逃さないよう準備出来ていた。一方の私はティレルと契約しF1に乗れるということに喜びすぎて、動けるチャンスが無い3年契約に飛びついてしまった。あの時点でセナは私よりかなり精神的に大人だった」と証言している[6]

1987年

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ティレルを離れ、ドイツのザクスピードに移籍。しかし871の戦闘力は低く、ターボ・エンジンの信頼性も乏しく10度のリタイヤ・2度の周回不足・1度の失格処分[7]。を喫した。完走した3戦のうち、第2戦サンマリノGPでは5位に入賞、結果的にはザクスピードのF1参戦成績における唯一の入賞をチームにもたらした(ブランドルのシーズン成績はランキング18位)。チームオーナーのエリッヒ・ザコウスキーは「彼はこれまでチームに在籍した中で間違いなく一番良いドライバーだ。彼のおかげでザクスピードはグランプリの戦い方をマスターし、進歩させることが出来た」と述べた[8]

またWSPCにも3度スポット参戦、1勝をマークした。この年より、ル・マン24時間レースにも参戦するようになる。

同年のザクスピードでの1年が「全く不本意だったと感じた[9]」ことから、ブランドルは一度F1を離れる決断をする。後年のインタビューにて「1987年の終わりに一度F1を離れて自分のキャリアをコントロールすべきだと思った。これ以上F1の下位に居続けるよりも、別カテゴリーで成功を収めたほうがキャリアのためだと思いジャガー (TWR)に行って、ただ速いだけのドライバーじゃなくて成熟できたし、才能が完成されて行ったと思う。自信をもってF1に戻っていけた」と語っている。

1988年

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WSPCを主として参戦、ジャガー・XJR-9を駆り計5勝を挙げ、年間王者に輝いた。IMSAにも参戦しており、デイトナ24時間レースで優勝するなど年間5位の成績を収めた。

この年F1にはレギュラー参戦していなかったが、水疱瘡に感染したナイジェル・マンセルの代役として、第11戦ベルギーGPのみウィリアムズから出走。急遽搭乗したFW12でウェットコンディションとなった予選2日目にトップタイムをたたき出す活躍を見せ[10]、決勝も7位で完走した。

1989年

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ブラバムからF1に出走、2年ぶりのF1レギュラー参戦となった。ブラバムは前年を参戦休止したため、同年F1に導入された金曜朝の予備予選から出走する必要があったが、BT58は基本性能がよく、チームメイトのステファノ・モデナと共に予備予選ではレベルの違う速さだったためフジTVによる中継では「予備予選のマクラーレン」と呼ばれた。第3戦モナコGPでは予選4位を獲得、決勝でも3位を走行し続けたがバッテリートラブルによりピットで約3分をロスするバッテリー交換を強いられ後退。その後再び追い上げを見せ5位まで回復させるなど特に前半戦は好走を見せたが、チーム資金面の問題でシーズン後半はマシン開発が停滞、相対的な戦闘力も下がり、5位1回・6位2回の入賞に留まる。また、チームオーナーのヨアヒム・ルーティが巨額横領容疑により逮捕され資産が凍結されたため[11]チームからの給与が未払いとなり、裁判に発展することとなる。

1990年

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当初はブラバムと契約更新し参戦予定だったが、上記の給与未払いの問題や、ルーティの容疑問題が一向に解決に向かわず、チーム内の混乱に嫌気がさしたブランドルはシーズン開幕前の合同テストに姿を現さず、テスト走行は去年のマシンのまま、モデナとグレガー・フォイテクの2人で行われた。後日、ブランドルはブラバムを見切り、チームからの離脱を表明[12]。この年は1度もF1を走ることはなかった。

再びシルクカット・ジャガーへと移籍し、WSPCに参戦。ル・マン24時間レースでは、ジョン・ニールセンプライス・コブと共に総合優勝を果たした。同年をブランドルは「F1を離れてジャガーに行ったのは結果を見ても正しかったと思う。満足のシーズンだった」[3]と言い充実した年となった。WSPCでは1勝を記録しシーズン8位となった。

1991年

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前年途中に日本人実業家の中内康児がブラバムの新オーナーとなり、国際F3000に参戦していたミドルブリッジ・レーシングによるチーム運営(株式会社ジェイクラフトとの提携運営)、ハービー・ブラッシュにより現場が指揮される体制が確認されたため、ブラバムと契約しF1に復帰する。復帰の経緯を、「僕が去った時とは全く別のチームと言えた。名前は同じブラバムだったけど完全に変わっていた。個人的には、信頼できるハービー・ブラッシュがこれまで以上に権限を持って現場を指揮するというのが大きかった」と当時の状況を述べている[3]。チームメイトは後にブランドルとのコンビで「MBコンビ」と呼ばれる新人マーク・ブランデルヤマハV12エンジンを搭載したブラバム・BT60Yで第15戦日本GPでは5位入賞する(シーズンランキング15位)。この年途中から懇意であるトム・ウォーキンショーがベネトン入りしており、終盤戦からネルソン・ピケに替わってブランドルがベネトンに加入するプランが水面下で進行していたが[13]、この案はベネトンが支払うピケへの違約金の額が大きかったことから実現せず、ブランドルのベネトン加入は翌年からとなった。

また、この年WSPCから規格変更・改称されたSWCにも参戦し1勝をマークした。

1992年

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ベネトンのシートを獲得し、初めて競争力のあるマシンでフル参戦する機会を得た。この年以降、F1キャリアにおける総ポイントの多くを獲得することになる。序盤こそトラブルが続き、開幕から4戦連続でリタイヤを喫したが、第5戦サンマリノGPでは4位で入賞を果たした。

第9戦イギリスGPでは、F3時代のライバルだったセナをスタートで抜き3位を奪取、セナに仕掛けられた場面では抑え切るなど順位をキープしたままゴール、母国で表彰台に上がった。その後も第12戦イタリアGPで自身最高位となる2位を記録するなど、全16戦中完走した11回のレースではすべて入賞し、うち表彰台5回の最終成績を収め、ランキング6位を獲得。特にフランスGP以降は、最終戦オーストラリアGPまで9戦連続入賞を記録した。

しかしベネトンのフラビオ・ブリアトーレの構想では、荒削りながら若手として速さを見せていた同僚・ミハエル・シューマッハが確固たるエース・ドライバーであり、予選ではシューマッハに全敗を喫しているブランドルは決勝で結果を残しながらも地味な役回りとなった。結局翌1993年にリカルド・パトレーゼがチームに移籍してくることが決定すると、チームを離れることとなった。ベネトンとの契約が打ち切られたのはブリアトーレの独断であり、第11戦ハンガリーGPにおいて知り合いの記者から「来シーズンはどうする予定ですか?」と質問された事で初めて自身の境遇を把握したと後に語っている[14]。後年にはブリアトーレやパット・シモンズが「パトレーゼのためにブランドルを切ったのは明白な間違いだった。」と認める結果となった[15]

30年後の2022年、イギリスのレース誌インタビューにてブランドルはこの1992年に起きた印象深かった出来事を公開した[15]。この年の夏はマンセル、セナ、アラン・プロストの3名で誰が翌年「最強の」ウィリアムズ・ルノーに乗るかの椅子取りゲームが盛んに報道されていたが、ブランドルも1988年に続いてフランク・ウィリアムズから打診を受けた1人だった[15]。セナが「来年のウィリアムズに乗れるならギャラは無くてもいい」と言った有名な発言があったあと、マンセルが第13戦イタリアGP会場でインディカーへの転向を発表した。そのイタリアGP決勝ではセナが優勝、ブランドルが2位で一緒に表彰台に立っていたが、この表彰台でセナが一瞬身をかがめ口元が群衆に見えないようにして「来年、ウィリアムズでチームメイトになるらしいよ。」とブランドルに喋った。「とても興味深い一言だったよ。セナは、ウィリアムズが僕を候補にしているのを交渉の時に知らされており、なおかつ'93年からウィリアムズにセナ自身が行くことも確信していたんだ。注目されていたミカ・ハッキネンは同じ日にロータス残留発表があったし、リカルド(パトレーゼ)はすでにベネトンに行くサインをした後だ。でも、実際にはセナも僕も2人とも翌年ウィリアムズにはいなかった。あの日の表彰台ではチームメイトになると明確に思っていたのにね。」と2人の思い出の会話を語った[15]。また、第7戦カナダGPは自分に優勝のチャンスが最も大きかったとも回想し、「あれは勝つレースだったんだ。シューマッハをうまくパスして、トップのベルガーより速く、どう抜こうかって時だった。いつもは壊れることが無いB192なのに、デフボルトが間違った取り付け方をされていて、それが壊れた。あのまま勝てていたら、もういくつか勝てたとも思う。キャリアの潮目であり、後でブリアトーレに聞いたところではベネトンのシートを失う決め手にもなったんだ。あのデフボルトに僕のキャリアは壊されたし、とっても高くついた。」と述べている[15]

1993年

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リジェに移籍、第3戦サンマリノGPでの3位表彰台、第8戦フランスGPでの予選3位など速さを見せ、7度の入賞(3位1回・5位3回・6位3回)でランキング7位を獲得。1991年にもブラバムでチームメイトだった「MBコンビ」であるブランデルとともに活躍し、チームをランキング5位に導いた。 しかしチームは政治的意向からフランス人ドライバーの起用を求めたこともあり、1年でチームから離脱した。

1994年

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プジョーが推すフィリップ・アリオーとのシート争いを制しマクラーレンから参戦。この際はギリギリまでシートが決まらず、開幕直前の2月末で決定したものであった。マシンの信頼性が低くリタイヤが多かったが、ドライバーの腕が反映されると言われる第4戦モナコGPで2位表彰台に立つ等、2度の表彰台を含め5度の入賞(2位~6位各1回ずつ)を記録しランキング7位となった。

しかし、1992年時のシューマッハ同様、若手の有力候補だったミカ・ハッキネンに速さで後塵を拝し、予選では全敗・決勝でも入賞すれば全て表彰台だったハッキネンに対し、ポイント獲得数で差をつけられる形となった。ナイジェル・マンセルのF1復帰もあり、再び1年でチームを離脱した。

1995年

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1995年イギリスグランプリでのブランドル

オリビエ・パニスのチームメイトとして、2年ぶりにリジェに復帰した。しかしこれは、既にエンジン供給先の無限との関係で、日本人の鈴木亜久里が先にシートを得ていたものを、スポーツカーレース時代からブランドルに絶対の信頼を寄せるトム・ウォーキンショーが強引にねじ込むという、曰く付きなものだった。

形式上は亜久里とシェアとなっていたが、結局大半のグランプリでマシンをドライブ、第7戦フランスGPで4位・第11戦ベルギーGPでは3位表彰台を記録している(ランキング13位)。この年も1年でのチーム離脱となった。

1996年

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イギリスF3当時に所属したジョーダンに移籍、13年ぶりにエディ・ジョーダンとの共闘となった。開幕戦オーストラリアGPでは、スタート直後の接近戦で他車と接触し宙を舞い、裏返しのままタイヤバリアに激突する激しいクラッシュを起こす。しかしすぐにマシンから這い出し、直後の再スタートに参加するというタフな面を見せた。この年は表彰台に立つことはなかったが、4位1回・5位1回・6位3回と計5度入賞、ランキングは11位だった。

翌年もチーム残留を希望したものの、チームは、ジャンカルロ・フィジケララルフ・シューマッハの若手コンビを選んだため、この年を最後に長きに渡ったF1でのキャリアに終止符を打った。1997年はプライベーターとしてWRCRACラリーにも出場したが、リタイアに終わった。

1997年夏に、ザウバーが不調のセカンドドライバーニコラ・ラリーニと負傷したジャンニ・モルビデリの後任としてブランドルの復帰かアレクサンダー・ヴルツの獲得を調査していたが、ブランドルはスポット参戦での復帰を望まなかったためこの時のザウバー入りは断った[16]

F1引退以降

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ベントレー・スピード8をドライブするブランドル(2001年ル・マン24時間)

F1引退以降もル・マン24時間レースには参戦、特に1998年・1999年はトヨタからの参戦であり、TS020を駆った。1999年にはWRC・RACラリーに2度目の参戦、TTEからスポット・ドライバーとして出場するもリタイアしている。

ドライバー業以外では、1997年よりイギリスITVにおけるF1中継で解説を長年担当。しかし2009年、BBCでの解説者へと移籍している。2019年には解説者としての功績を讃えられF1パドック殿堂入りした。

またかつての同僚であるマーク・ブランデルと共に、2004年にドライバー・マネージメント会社「2MB」を共同設立、ドライバー育成プログラムも運営していた。特にデビッド・クルサードのドライビング契約は、11シーズンに渡ってブランドルが交渉していたという。しかし2009年、クルサードの引退、同年よりF2に参戦する息子・アレックスへの支援に専念すること等を理由に、ブランドルはドライバーの全マネージメントから手を引いた。

その後、2011年シーズンにアメリカのグランダム選手権でF1リジェ時代以来18年ぶりのマーク・ブランデルとブラブラコンビを組み、2MBの若手ドライバー育成プログラム生であるザク・ブラウン、マーク・パターソンとともにユナイテッドオートスポーツウィズマイケルシャークレーシングからライリー・フォードを駆り開幕戦のデイトナ24時間耐久レースに出場した。(決勝は4位入賞)

人物

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  • F1においては、「優勝・ポールポジション(PP)・ファステストラップ(FL)」の全てを記録したことがないドライバーでは、最多出走という記録を持つ。好走したが目前の3位を逃した1989年モナコGPでは終盤猛追をする中でその時点でのFLを記録したが、その翌周にアラン・プロストが0.38秒更新し2番目の記録となった。この日1分25秒台に突入できたのはプロストとブランドルの2名だけであった[17]。その3年後、1992年モナコGPでも終盤までFLを保持していたが、ピットインで2位に転落したマンセルが、トップのセナを猛追する中でブランドルのベストタイムを4秒上回るラップを記録、ブランドルのFLは幻となった。
  • 1980年のローカルレースで知り合ったトム・ウォーキンショーとの逸話は多く、お互いにF1にたどり着く確証など無いころからの信用であり、当時ウォーキンショーがフランス製GPAヘルメットのイギリスにおける代理店業をしていたので、その宣伝費から10,000ポンド捻出しブランドルと契約、この契約金はブランドルがレーサーとして金銭を初めて受け取る契約となり、1984年までGPAヘルメットユーザーであった。以後もウォーキンショーがジャガーチーム運営権を手にすればジャガーWSPCチームにブランドルを呼び、1995年のF1リジェチームでのシート割り当てまで続くという長年の信頼関係だった。
  • 川井一仁はブランドルを「気配りの人」と記している[18]。リジェで先に決まっていた鈴木亜久里のシートに割り込むことになった時もピットで川井に合うと「(無限の)Mr.ヒロトシは怒ってるんじゃないの?」と気にしていたり、「このことで日本のファンから嫌われてしまうんじゃないか?」とも気にしていたという。
  • 川井絡みのエピソードとしては1994年イタリアGPもある。予選中、マクラーレンのピットにいた川井に、「カズ、この間はごめんね。」と急に謝り出した。何の事か分からず尋ねると、2戦前のハンガリーGPで最終ラップに順位を落とし、機嫌を損ねてレース後の川井からのインタビューを断った事に対する謝罪であった。F1のみならずプロスポーツならどこにでもある光景なのだが、それを良しとせずわざわざ直接詫びを入れに来た事にむしろ川井は呆然としてしまったと言う[19]
  • 引退後、後輩であるデビッド・クルサードのマネージャーを務めていた[20]
  • ティレルと契約を結んだ1984年以前は家業のカーディーラー・セールスマンとして人に商品を売るセールス・トークを生業としていた。人にしゃべる能力はその時鍛えられF3時代から人とのコミュニケーション能力や話術の才能がある、ユーモアのセンスも良かったと後にレイトンハウス・マーチとジョーダングランプリで長くマネージャー職を務めるイアン・フィリップスから評されていた[2]。その能力は引退後に解説業とマネージメント業で活かされることになった。
  • 2008年には、第7戦カナダGPにおけるバーニー・エクレストンへのインタビュー中に「ジプシー」を意味するスラングを使用、平等人権委員会から非難を受けた。しかし、「ユーモアを込めた使用であり、悪意は認められない」とされ、テレビ監視委員会からの処分は無かった。
  • 2009年に発覚したいわゆる「クラッシュゲート事件」に関しては、「情報がリークされたことでF1がダメージを負った」「F1という世界で途方もない利益を得てきたにもかかわらず、腹立ちに紛れた行動をした」など、事件の当事者となったネルシーニョとマネージャーを務めるその父・ピケを批判している。

名前の類似

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1991年にマーク・ブランデルとコンビを組んだ際、2人の名前が非常に似ていたことが「ブラバムのブラ・ブラコンビ」として日本で話題となった。2年後の1993年には再びチームメイトとなり、1度ならず2度コンビを組んだことで更に注目されることとなる。当時実況を担当していた古舘伊知郎から「MBコンビ」「アナウンサー泣かせ」「F1界の峰竜太竜雷太」と言われていた他、1993年の開幕前のF1ポールポジションでは、ドライバー紹介の前に、漫才舞台の横に「ぶらんどる&ぶらんでる」とお笑いコンビのように表記された絵を登場させるネタも見られた。

これらはあくまで日本でのことだったが、2004年に2人で共同設立したドライバー・マネージメント会社は、共にイニシャルが同じことから「2MB」だった。その後ブランドルはテレビでの解説や他のことに集中するために会社から離れることとなり、2009年1月以降はブランデルが単独でオーナーとなった。社名は「2MB」のまま引き継がれ[21]、その後2013年7月5日付で「MB PARTNERS」に改名された[22]

レース戦績

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イギリスサルーン選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント クラス順位
1977年 ジョン・ブランドル モータース株式会社 トヨタ・セリカ B SIL BRH OUL
Ret†
THR SIL
?
THR
Ret†
DON
4†
SIL
15
DON
Ret†
BRH
?
THR BRH
9
? ? 4位
1978年 B SIL
?
OUL
2†
THR
?
BRH
4†
SIL
4†
DON
5†
MAL
4†
BRH
?
DON
5†
BRH
?
THR
?
OUL
DNS†
7位 ? 3位
1979年 チーム・トヨタ GB / ヒューズ・オブ・ベアコンスフェルド B SIL OUL THR SIL DON SIL MAL DON BRH THR SNE
10
OUL
3†
? ? ?
1980年 B MAL OUL THR SIL SIL BRH MAL BRH
13
THR
?
SIL NC 18 NC
1981年 TWR チーム・BP アウディ・80 GLE B MAL
2†
SIL
6
OUL
12†
THR
?
BRH
Ret†
SIL
Ret
SIL
Ret
DON
4†
BRH
DSQ
THR
10
SIL
Ret
15位 30 4位
1983年 ウンパルト with デイリー・エクスプレス MG・メトロ ターボ B SIL OUL THR BRH THR SIL DON SIL DON BRH SIL
19
31位 2 8位

† 異なるクラスのために増設された2つのレースイベント。

イギリス・フォーミュラ3選手権

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チーム エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
1982年 デイブ・プライス・レーシング VW SIL
2
THR
Ret
SIL
3
THR
Ret
MAR
Ret
SNE
4
SIL
6
SIL
7*
CAD
4
SIL
3
BRH
5
MAR
Ret
OUL
Ret
BRH
2
SIL
Ret
SNE
4
OUL
1
SIL
Ret
BRH
2
THR
1
4位 60
1983年 エディ・ジョーダン・レーシング トヨタ SIL
2
THR
2
SIL
2
DON
2
THR
2
SIL
3
THR
2
BRH
2
SIL
2
SIL
1‡*
CAD
1
SNE
1
SIL
2
DON
1
OUL
Ret
SIL
2
OUL
1
THR
1
SIL
1
THR
3
2位 123
  •  : ヨーロッパF3との合同レースであり、イギリスF3のタイヤを使用しなかった為、ポイントの獲得は認められない。
  • * : ヨーロッパF3との合同レース。
  • 太字ポールポジション斜字ファステストラップ。(key)

F1

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所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1984年 ティレル 012 BRA
DSQ
RSA
DSQ
BEL
DSQ
SMR
DSQ
FRA
DSQ
MON
DNQ
CAN
DSQ
DET
DSQ
DAL
DNQ
GBR GER AUT NED ITA EUR POR NC1
(31位)1
0
1985年 BRA
8
POR
Ret
SMR
9
MON
10
CAN
12
DET
Ret
GER
10
AUT
DNQ
NC
(21位)
0
014 FRA
Ret
GBR
7
NED
7
ITA
8
BEL
13
EUR
Ret
RSA
7
AUS
NC
1986年 BRA
5
ESP
Ret
SMR
8
11位 8
015 MON
Ret
BEL
Ret
CAN
9
DET
Ret
FRA
10
GBR
5
GER
Ret
HUN
6
AUT
Ret
ITA
10
POR
Ret
MEX
11
AUS
4
1987年 ザクスピード 861 BRA
Ret
18位 2
871 SMR
5
BEL
Ret
MON
7
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
NC
GER
NC
HUN
Ret
AUT
DSQ
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
11
MEX
Ret
JPN
Ret
AUS
Ret
1988年 ウィリアムズ FW12 BRA SMR MON MEX CAN DET FRA GBR GER HUN BEL
7
ITA POR ESP JPN AUS NC
(20位)
0
1989年 ブラバム BT58 BRA
Ret
SMR
Ret
MON
6
MEX
9
USA
Ret
CAN
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
Ret
GER
8
HUN
12
BEL
Ret
ITA
6
POR
8
ESP
Ret
JPN
5
AUS
Ret
20位 4
1991年 BT59Y USA
11
BRA
12
15位 2
BT60Y SMR
11
MON
EX
CAN
Ret
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
11
HUN
Ret
BEL
9
ITA
13
POR
12
ESP
10
JPN
5
AUS
DNQ
1992年 ベネトン B191B RSA
Ret
MEX
Ret
BRA
Ret
6位 38
B192 ESP
Ret
SMR
4
MON
5
CAN
Ret
FRA
3
GBR
3
GER
4
HUN
5
BEL
4
ITA
2
POR
4
JPN
3
AUS
3
1993年 リジェ JS39 RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
Ret
SMR
3
ESP
Ret
MON
6
CAN
5
FRA
5
GBR
14
GER
8
HUN
5
BEL
7
ITA
Ret
POR
6
JPN
9
AUS
6
7位 13
1994年 マクラーレン MP4/9 BRA
Ret
PAC
Ret
SMR
8
MON
2
ESP
11
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
4
BEL
Ret
ITA
5
POR
6
EUR
Ret
JPN
Ret
AUS
3
7位 16
1995年 リジェ JS41 BRA ARG SMR ESP
9
MON
Ret
CAN
10
FRA
4
GBR
Ret
GER HUN
Ret
BEL
3
ITA
Ret
POR
8
EUR
7
PAC JPN AUS
Ret
13位 7
1996年 ジョーダン 196 AUS
Ret
BRA
12
ARG
Ret
EUR
6
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
6
FRA
8
GBR
6
GER
10
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
4
POR
9
JPN
5
11位 8

(key)

  • 1 : 1984年は、チームのレギュレーション違反(水タンク事件)によって、シーズンの全成績が抹消されている。

スポーツカー

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世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権/スポーツカー世界選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1985年 TWR ジャガー ジャガー・XJR-6 C1 MUG MNZ SIL LMN HOC MOS
3
SPA
5
BRH FSW SHA 42位 8
1986年 シルクカット・ジャガー C1 MNZ SIL LMN NOR BRH JER
Ret
NÜR SPA FSW NC 0
1987年 ジャガー・XJR-8 C1 JAR JER MNZ SIL
Ret
LMN
Ret
NOR BRH NÜR SPA
1
FSW 25位 20
1988年 ジャガー・XJR-9 C1 JER
Ret
JAR
1
MNZ
1
SIL
1
LMN
Ret
BRN
2
BRH
1
NÜR
2
SPA
2
FSW
1
SUN
3
1位 240
1990年 ジャガー・XJR-11 C1 SUZ
Ret
MNZ
3
SIL
1
SPA
Ret
DIJ
5
NÜR
3
DON
DSQ
MTL
Ret
MEX
Ret
8位 19
1991年 ジャガー・XJR-14 C1 SUZ
Ret
MNZ
2
SIL
3
LMN NÜR MAG MEX AUT 24位 12

IMSA GT選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 ポイント
1988年 カストロール・ジャガー・レーシング ジャガー・XJR-9 GTP DAY
1
MIA
2
SEB
15
ATL PLM
10
LIM
2
MDO
2
WGL
15
ROA
4
POR
3
SNM
2
SAN COL
10
FAI
1
5位 127
1990年 ジャガー・XJR-12 GTP DAY
2
20位 33
ジャガー・XJR-10 MIA
15
SEB ATL PLM
12
TOP
6
LIM MDO WGL SNM POR ROA SAN TEM FAI
7
1991年 バドライト・ジャガー・レーシング ジャガー・XJR-16 GTP DAY PLM SEB MIA ATL TOP LIM MDO NOR WGL LGA POR ROA FAI
4
34位 10

ル・マン24時間レース

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ル・マン24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1987年 イギリスの旗 シルクカット・ジャガー
イギリスの旗 トム・ウォーキンショー・レーシング
デンマークの旗 ジョン・ニールセン

ジャガー・XJR-8LM C1 231 DNF DNF
1988年 デンマークの旗 ジョン・ニールセン

ジャガー・XJR-9LM C1 306 DNF DNF
1990年 フランスの旗 アラン・フェルテ
イギリスの旗 デイビッド・レズリー
ジャガー・XJR-12 C1 220 DNF DNF
デンマークの旗 ジョン・ニールセン
アメリカ合衆国の旗 プライス・コブ
C1 359 1位 1位
1997年 日本の旗 NISMO
イギリスの旗 TWR
ドイツの旗 ヨルグ・ミューラー
南アフリカ共和国の旗 ウェイン・テイラー
日産・R390 GT1 GT1 139 DNF DNF
1998年 日本の旗 トヨタ・モータースポーツ フランスの旗 エマニュエル・コラール
フランスの旗 エリック・エラリー
トヨタ・GT-One TS020 GT1 191 DNF DNF
1999年 フランスの旗 エマニュエル・コラール
イタリアの旗 ヴィンセンツォ・ソスピリ
LMGTP 90 DNF DNF
2001年 イギリスの旗 チーム・ベントレー モナコの旗 ステファン・オルテリ
イギリスの旗 ガイ・スミス
ベントレー・EXP スピード8 LMGTP 56 DNF DNF
2012年 イギリスの旗 グリーヴス・モータースポーツ イギリスの旗 アレックス・ブランドル
スペインの旗 ルーカス・オルドネス
ザイテック・Z11SN-日産 LMP2 340 20位 8位

デイトナ24時間レース

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デイトナ24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1988年 アメリカ合衆国の旗 カストロール・ジャガー・レーシング オランダの旗 ヤン・ラマース
ブラジルの旗 ラウル・ボーセル
デンマークの旗 ジョン・ニールセン
ジャガー・XJR-9D GTP 695 1位 1位
1990年 アメリカ合衆国の旗 プライス・コブ
デンマークの旗 ジョン・ニールセン
ジャガー・XJR-12D GTP 757 2位 2位
2011年 アメリカ合衆国の旗 ユナイテッド・オートスポーツ
アメリカ合衆国の旗 メイヤー・シャンク・レーシング
アメリカ合衆国の旗 ザク・ブラウン
イギリスの旗 マーク・ブランデル
アメリカ合衆国の旗 マーク・パターソン
ライリー・Mk.XX-フォード DP 741 4位 4位

セブリング12時間レース

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セブリング12時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1988年 アメリカ合衆国の旗 カストロール・ジャガー・レーシング ブラジルの旗 ラウル・ボーセル
デンマークの旗 ジョン・ニールセン
ジャガー・XJR-9D GTP 31 DNF DNF

脚注

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  1. ^ F1通信(マーティン・ブランドルの息子、F2参戦、2008年12月25日)
  2. ^ a b c d e タイレル入りした"新時代のジャッキー・スチュワート" マーチン・ブランドル語録 オートスポーツ No.394 48-52頁 三栄書房 1984年5月1日発行
  3. ^ a b c GPインタビュー マーティン・ブランドル フォーミュラ1とスポーツカーのはざまで by Mike Doodson F1速報1991ブラジルGP 31頁 武集書房 1991年4月13日発行
  4. ^ The first and impressive test of Senna in a McLaren in 1983 アイルトン・セナ公式ウェブサイト
  5. ^ モレノのラルト入りをめぐる人間模様 byイアン・フィリップス オートスポーツ No.394 35頁 1984年5月1日発行
  6. ^ GPインタビュー マーティン・ブランドル F1速報1991ブラジルGP 31頁 武集書房 1991年4月13日発行
  7. ^ 第10戦オーストリアGPで14位フィニッシュしたが、レース後車検でリアウイングの設置位置が規定より低すぎるとして失格処分を受けた。 グランプリ・エクスプレス '87第9戦・第10戦合併号 29-31頁 1987年9月5日発行
  8. ^ TEAM ZAKSPEED ザコウスキーの次なる夢 グランプリ・エクスプレス 1987年西ドイツGP号 18-19頁 山海堂 1987年8月15日発行
  9. ^ '91注目ドライバーインタビュー(4)M.ブランドル「F1復帰できて幸運だけど、自信はある」 GPX Off-Season Special 14頁 1991年2月8日発行
  10. ^ 1988 Belgiam Grand Prix QUALIFYING 2 Formula1.com 28 Aug 1988
  11. ^ ブラバム・オーナーのトラブル グランプリ・エクスプレス 1989年ハンガリーGP号 45頁 1989年9月1日発行
  12. ^ ブランドルも愛想尽かし離脱 四面楚歌のブラバム グランプリ・エクスプレス '90開幕直前号 6頁 山海堂 1990年3月10日発行
  13. ^ ベネトン+TWR新体制の可能性・トム・ウォーキンショーの野望 GPX 1991年第15戦日本GP 30-31頁 山海堂 1991年11月7日発行
  14. ^ 「GP Car Story Special Edition プロストVSセナVSシューマッハー」、三栄書房
  15. ^ a b c d e Montréal misery: how Brundle came close to F1 win that never was Motorsport Magazine 2022年6月14日
  16. ^ Historisches:Alex Wurz MotorsportsMagazine.com 2007年12月24日
  17. ^ 1989Monaco Grand Prix - FASTEST LAPS Formula1.com 07 May 1989
  18. ^ 突撃ピットリポーター川井ちゃん vol.99「気配りのひと」F1グランプリ特集 vol.72 103頁 1995年6月16日発行
  19. ^ 「ピットリポーター川井ちゃん F1ワハハ読本③」、川井一仁/手塚かつのり著、ソニー・マガジンズ
  20. ^ クルサード、フルタイム解説者に転身? ESPN F1 2010年12月24日、2018年8月15日閲覧。
  21. ^ Mark Blundell to expand driver management business 2MB”. Motorsport.com 2009年1月20日 - ウェイバックマシン(2021年3月7日アーカイブ分). 2021年10月19日閲覧。
  22. ^ Company name changed 2MB holdings LIMITED certificate issued on 05/07/13”. Companies House 2013-07-04. 2021年10月19日閲覧。

外部リンク

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タイトル
先代
ヨッヘン・マス
マヌエル・ロイター
スタンレー・ディケンズ
ル・マン24時間勝者
1990年 with:
ジョン・ニールセン
プライス・コブ
次代
フォルカー・ヴァイドラー
ジョニー・ハーバート
ベルトラン・ガショー