野坂操壽 (2代目)
二代目 野坂 操壽 | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
基本情報 | |
出生名 | 野坂 惠子(のさか けいこ) |
生誕 | 1938年4月18日 |
出身地 | 東京府 |
死没 | 2019年8月27日(81歳没) |
学歴 |
東京芸術大学大学院 音楽研究科修士課程修了 |
ジャンル | 伝統音楽 |
職業 | 箏曲家 |
担当楽器 | 箏 |
活動期間 | 1965年 - 2019年 |
事務所 | 生田流箏曲松の実會 |
公式サイト | 野坂操壽official website |
二代目 野坂 操壽(にだいめ のさか そうじゅ、1938年4月18日 - 2019年8月27日)は、日本の箏曲家、作曲家。位階は従四位。勲等は旭日中綬章。学位は音楽修士(東京芸術大学)。文化功労者。本名、および、旧芸名は野坂 惠子(のさか けいこ)。名の「壽」「惠」は旧字体のため、二代目 野坂 操寿(にだいめ のさか そうじゅ)、野坂 恵子(のさか けいこ)と表記されることもある。
日本音楽集団団員、東京芸術大学音楽学部講師、桐朋学園芸術短期大学芸術科教授、生田流箏曲松の実會主宰、生田流協会理事、公益社団法人日本三曲協会常任理事などを歴任した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1938年4月生まれ、東京府出身。母である箏曲家の初代野坂操壽から指導を受けた[1]。なお、初代操壽は箏曲家の宮城道雄に師事しているため、惠子は宮城の孫弟子にあたる。また、9歳の頃より、箏曲家の加藤柔子に古典箏曲、地歌三絃を師事した[1]。東京芸術大学の大学院に進学し[1]、音楽研究科にて学び、修士課程を修了した[1]。
箏曲家として
[編集]1965年に初めてのリサイタルを開催した[1]。また、同年より1982年まで日本音楽集団の団員として活動した[1]。1969年に二十絃箏を開発し[1]、1991年には二十五絃箏を発表するなど[1]、伝統に囚われず新しい楽器の開発にも取り組んだ。さらに、1994年からは作曲家の伊福部昭にも師事した[1]。後進の育成にも力を注いでおり、1996年より2006年にかけて、母校である東京芸術大学にて音楽学部の講師を非常勤で務めた[1]。桐朋学園芸術短期大学においては、芸術科の教授を務めた[1]。指導した者の中からは、秋岸寛久、かりんといった箏曲家などを輩出している。2002年、初代操壽が亡くなった。それに伴い、翌年、二代目操壽を襲名した[1]。その後も本名の「野坂惠子」名義を用いることもあったが、2007年より演奏に関する全活動を「野坂操壽」名義で行うことにした[1]。2019年8月27日、急性骨髄性白血病により81歳で死去した[2]。
作風
[編集]作風は高く評価されており、芸術祭においては、1969年に奨励賞[1]、1971年に優秀賞が授与されている[1]。芸術選奨においては、2002年に文部科学大臣賞が授与された[1]。2011年には日本芸術院賞が授与されている[1]。栄典としては、2003年に紫綬褒章を受章し[1]、2009年に旭日小綬章を受章した[1]。なお、2015年には文化功労者として顕彰された[3]。同日付で従四位と旭日中綬章が贈られた[4][5]。
略歴
[編集]- 1938年 - 東京府にて誕生。
- 1965年 - 日本音楽集団団員[1]。
- 1996年 - 東京芸術大学音楽学部講師[1]。
- 2003年 - 二代目野坂操壽襲名[1]。
- 2019年 - 東京都にて死去。
賞歴
[編集]- 1969年 - 芸術祭奨励賞[1]。
- 1971年 - 芸術祭優秀賞[1]。
- 1992年 - 松尾芸能賞優秀賞[1]。
- 2000年 - ミュージック・ペンクラブ音楽賞[1]。
- 2002年 - 芸術選奨文部科学大臣賞[1]。
- 2006年 - 中島健蔵音楽賞[1]。
- 2006年 - エクソンモービル音楽賞[1]。
- 2011年 - 日本芸術院賞[1]。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 「野坂操壽(野坂惠子)プロフィール」『野坂操壽プロフィール』生田流箏曲松の実會。
- ^ “野坂操寿さん死去 箏奏者、文化功労者:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2019年8月27日閲覧。
- ^ a b 大臣官房人事課「平成27年度文化功労者」『平成27年度 文化功労者:文部科学省』文部科学省、2015年11月。 アーカイブ 2017年12月25日 - ウェイバックマシン
- ^ 「叙位叙勲」『読売新聞』2019年9月25日朝刊
- ^ 『官報』第104号、令和元年10月3日