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([[1938年]][[6月13日]] - [[2006年]][[6月18日]])本名は加藤利雄。[[文楽協会]]技芸員、[[国立劇場]]研修講師。
([[1938年]][[6月13日]] - [[2006年]][[6月18日]])本名は加藤利雄。[[文楽協会]]技芸員、[[国立劇場]]研修講師。


大阪府大阪市の生まれ、2代目喜左衛門の養子。[[1950年]]10月に2代目[[野澤勝太郎]]の門下で2代目野澤勝平を名乗る。[[1967年]]に芸術選奨[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]新人賞、[[大阪文化祭賞]]を受賞。[[1987年]]4月に3代目喜左衛門を襲名。
大阪府大阪市の生まれ、2代目喜左衛門の養子。[[1950年]]10月に2代目[[野澤勝太郎]]の門下で2代目野澤勝平を名乗る。[[1967年]]に芸術選奨[[文部大臣]]新人賞、[[大阪文化祭賞]]を受賞。[[1987年]]4月に3代目喜左衛門を襲名。


主な作曲に「鬼一法眼くらま山」「夫婦善哉」「平家女護ケ島」など
主な作曲に「鬼一法眼くらま山」「夫婦善哉」「平家女護ケ島」など

2020年12月30日 (水) 09:15時点における版

野澤 喜左衛門(のざわ きざえもん)は、文楽義太夫節三味線方の名跡

初代

安政7年1月3日1860年1月25日) - 昭和11年(1936年11月16日)本名は河野福松。

大坂の生まれ、1869年に2代目野澤勝市の門下で野澤福松、野澤赤助、野澤勝助、1884年9月に野澤勝市を襲名、1909年に喜左衛門と名乗った。

後廃業し神戸で稽古屋の師匠になった。

2代目

1891年6月27日 - 1976年5月9日)本名は加藤善一。日本芸術院会員。

兵庫県神戸市の生まれ、1899年12月に8歳で勝市(後に初代喜左衛門)の門下。翌年1900年に3代目野澤勝一の門下で勝平を名乗る。1904年12月に鶴澤寛次郎の預かり弟子となる。1936年2月に8代目竹本綱大夫と共に新義座に参加、まもなく文楽座へ復帰。1942年11月に2代目喜左衛門を襲名した。1962年重要無形文化財保持者(人間国宝)。1968年日本芸術院賞受賞[1]、71年芸術院会員。著書には『野沢の面影』がある。養子が3代目喜左衛門。

3代目

1938年6月13日 - 2006年6月18日)本名は加藤利雄。文楽協会技芸員、国立劇場研修講師。

大阪府大阪市の生まれ、2代目喜左衛門の養子。1950年10月に2代目野澤勝太郎の門下で2代目野澤勝平を名乗る。1967年に芸術選奨文部大臣新人賞、大阪文化祭賞を受賞。1987年4月に3代目喜左衛門を襲名。

主な作曲に「鬼一法眼くらま山」「夫婦善哉」「平家女護ケ島」など

脚注

  1. ^ 『朝日新聞』1968年4月9日(東京本社発行)朝刊、14頁。