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日本のあけぼの[編集]

神話は、ヨーロッパのギリシャ・ローマ神話の雰囲気とにているところがありますが

その話は地域とのつながりも色濃く出ていてすごく興味ふかいのでのせました。

地球が生まれたころはまだ人類が存在していない世界なので

このころの文献は非常に貴重なのです

神話の時代[編集]

紙や印刷物がなかった時代

口伝といって、長老が離してしていたものを

くちづたえではなして神話が誕生した。

それから、紙が誕生してから、

その長老たちの話を編纂して

「古事記」や日本書紀が誕生した。

天照大神の神話[編集]

日本の歴史の前半部は、神話にもとずいたもので学問的には正確性はないのですが

日本人にはなじみが深いものなのでのせることにします。


天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話主神として登場する女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる。『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。

太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名。

概要[編集]

記紀」、「日本の神話学」、「神道」、および「神代 (日本神話)」も参照

日本神話と呼ばれる伝承はほとんどが、『古事記』、『日本書紀』、および、各『風土記』の記述による。そのため、高天原の神々が中心となっているが、出典となる文献は限られる。

また、地方の神社や地方誌の中にも上記の文献群には見られない伝承を残している。

本来、日本各地には出雲を始めとして何らかの信仰伝承があったと思われ、ヤマト王権の支配が広がるにつれていずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」という形に変えられて「高天原神話」に統合されたと考えられている。また、後世まで中央権力に支配されなかったアイヌ琉球には独自色の強い神話が存在する。日本神話の神々は現代に至るまで信仰の対象とされ続けている。

本記事においては主に『古事記』『日本書紀』で語られる神話(記紀神話)について解説する


神話の構成[編集]

この記事では日本神話のあらすじを述べるにとどめ、各神話の詳細は別記事に譲る。

記紀などにおいて神代(神の時代、神話時代)として記された神話は、以下の通りである。神代は、神武天皇以前の時代を指す。

古事記」および「日本書紀」を参照

天地開闢[編集]

天地開闢ののち、高天原別天津神神世七代の神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのがイザナギ(表記は伊邪那岐、ほか)・イザナミ(表記は伊邪那美、ほか)の二神である。

国生みと神生み[編集]

小林永濯『天之瓊矛を以て滄海を探るの図』/イザナギイザナミの二神が天之瓊矛(天沼矛)で地上の渾沌を掻き回して大八島(日本の島々)を生み出そうとしている。作品については「国産み」項で詳説する。

イザナギイザナミの二神は自らが造ったオノゴロ島に降り、結婚して最初の子・ヒルコが生まれた。ところが、方法に間違いがあったことから失敗し、不具の子であった。この子を海に流した後、次の子・アワシマが生まれたが、またも正しく生まれてこなかったため、二神は別天津神に教えを乞い、そうして改めて正しく交わり、生み出したのが淡道之穂之狭別島であった。次に淡道を含む「大八島」と呼ばれる島々(日本列島)を次々と生み出していった。これらを「国生み/国産み」という。その後もさまざまな神々を生み出してゆくことになるが、これらを「神生み/神産み」という。しかしイザナミは火神カグツチを産み出す際に大火傷を負ってしまい、この世を去ってしまう。残されたイザナギは亡きイザナミに会いたい気持ちを募らせて黄泉国へ赴くも、彼女が黄泉の住者になってしまったことを思い知って逃げ帰る羽目になり、永遠に離別することとなった。その後、イザナギは黄泉国で被った穢れ祓うためにをした。この時にもさまざまな神々が生み出されたが、その最後に「三貴子(みはしらのうずのみこ)」と呼ばれる3柱、すなわち、アマテラス(天照)・ツクヨミ(月読)・スサノオ(須佐之男)を生んだ


アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸[編集]

天岩戸神社

東本宮/宮崎県高千穂町に所在。

「天安河原宮」と呼ばれるこの地で、八百万の神々の会議が開かれたとされる。

スサノオ(須佐之男)は根国へ行く前に高天原へと向かう。アマテラス(天照)はスサノオが高天原を奪いにきたのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノオを迎えた。スサノオはアマテラスの疑いを解くためにうけい(誓約)で身の潔白を証明した(アマテラスとスサノオの誓約)。この時、のちに皇室出雲国造の始祖となる五柱の男神と宗像三女神が生まれた。

しかしスサノオが高天原で数々の乱暴を働いたため、これを怖れ憂えたアマテラスは天岩戸に隠れてしまい、地上は闇に覆われてしまった。神々は計略も用いてアマテラスを天石戸から誘い出し、光が地上に取り戻された。スサノオは悪行の責めを負って下界に追放された。


出雲神話[編集]

詳細は「ヤマタノオロチ」、「因幡の白兎」、「大国主の神話」、および「大国主の国づくり」を参照

スサノオ(須佐之男)は出雲国に降り、八俣遠呂智を退治し、櫛名田比売と結婚する。スサノオの子孫である大穴牟遅神(大国主)は、八上比売と結ばれるが、それを妬んだ八十神に迫害される。難を逃れ、根之堅洲国でスサノオの試練を乗り越えると、スサノオの娘である須勢理毘売命を娶って大国主神となる。その後、沼河比売多紀理毘売命と結婚し、多くの御子神を生み、少名毘古那神三輪の神葦原中国の国づくりを始めた。

これらの説話は『出雲国風土記』には収録されていない。ただし、神名は共通するものが登場する。 また、全国各地の風土記や神社、地方誌には、独自色の濃い国作り神話が伝わっている。


葦原中津国平定(国譲り)[編集]

詳細は「葦原中津国平定」を参照

高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのは天照大御神の子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に遣わしたが、いずれも大国主神に寝返ったり、寝返った神に殺されたりと交渉は遅々として進まなかった。最終的に建御雷神ら武神二柱を派遣し、大国主神の子の兄・事代主神に国を譲らせ、果敢に抵抗した弟・建御名方神をも降服させる。御子神二柱が要求に応じたため、大国主神は自らの宮殿(出雲大社)建設と引き換えに、天の神に国を譲ることを約束する。

天孫降臨[編集]

音川安親編 万物雛形画譜 高千穂河原の天孫降臨神籬斎場 歴代天皇に伝わる三種の神器/想像図であり、実物は非公開。

天照大御神の孫である邇邇芸命日向に降臨した(天孫降臨)。このとき天照大御神から授かった三種の神器を携えていた。邇邇芸命は木花之佐久夜毘売と結婚し、木花之佐久夜毘売は御子を出産した。


山幸彦と海幸彦[編集]

邇邇芸命の子は山幸彦と海幸彦である。山幸彦は海幸彦の釣り針をなくしたため、海幸彦に責められる日々を送り、釣り針を500本作っても1000本作っても許してもらえないが海神の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、海幸彦に釣り針を返し復讐して従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し鵜草葺不合命という子をなした。そして、鵜草葺不合命の子が神倭伊波礼毘古命、のちの神武天皇である。

神武天皇の東征[編集]

概略[編集]

古事記では、神武天皇の子らのお話は、あまり書かれていないようですが・・・・・・

ヤマトタケルは、神武天皇の孫にあたるひとですが、

現在は実在しないという人といや実在したとする

人に分かれて、それぞれの主張をのべていますが、

筆者自身は実在したのではないかと考えます。

今日の神武天皇の神話はとても有名ですし、

各地の神社仏閣の神武天皇に対する信仰は根強いものがあります。

にわかには、古事記の記事が信用できる記事とは断言できないのです。

日本の歴史において天皇がどういう立場にあり

先人達の苦労を考えると、やはり記事をあげておかなければならないのです。

確かに戦前の皇民化教育に否定的な論調もあり、

いろんなこともありましたが、おおらかな気持ちで記事をまとめたいと考えます。

概要[編集]

神武天皇の東征[編集]

日向の国というのは九州地方の国にあたります。

コロナの影響で旅にでれずお話も聞けないのは残念ですが

宮崎県と鹿児島県一帯にあったといわれています。

ウィキペディアの記事を引用して申し訳ないのですが

ここにも神武天皇の伝説がたくさんあるようです。


ここは神武天皇が生まれ育った地です。

神武天皇の東征はここ日向から奈良の橿原までの東征を収めたおはなしです。


この時代「日本」という呼び名がないといまではかんがえられているのが

今の専門家の意見なので、それに準拠する方針でこの文章をかかせていただきます。

環濠集落のことはすでに書きました。

もし、このころの日本列島に集落が無数にあったとしたら

その土地の豪族と呼ばれる集団ができて

このころから戦争と呼ばれる行為を人間が行っていたのではないか?と推測できます。

古事記の制作年代[編集]

古事記は、奈良時代には制作されていますが、

現在は、プロトタイプの本文は存在していません。

今日、私たちが目にできるのは、江戸時代に本居宣長という人が編纂し写本されたものが

古事記として印刷されています。


太安万侶という人が796年に編纂されたと序文にかいてあるそうです。

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に現存する日本最古の歴史書であるとされる。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。上中下の3巻。内容は天地開闢 (日本神話)から推古天皇の記事を記述する。

8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、国家の聖典としてみられ、近代より記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある。

本居宣長[編集]

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本居宣長
本居宣長四十四歳自画自賛像

(部分) 安永2年(1773年)

人物情報
生誕 享保15年5月7日1730年6月21日

伊勢国松坂

死没 享和元年9月29日1801年11月5日

伊勢国松坂

居住 伊勢国松坂
配偶者 勝(かつ)
学問
時代 江戸時代中期 - 後期
研究分野 国学文献学
特筆すべき概念 もののあはれ

漢意」 「

主要な作品 古事記伝

源氏物語玉の小櫛』 『玉勝間

影響を

受けた人物

堀景山荻生徂徠契沖賀茂真淵
影響を

与えた人物

平田篤胤伴信友長瀬真幸千家俊信塙保己一他多数
主な受賞歴 正四位従三位
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本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日1730年6月21日) - 享和元年9月29日1801年11月5日))は、江戸時代国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅のにて門人を集め講義をしたことからと呼ばれた。また、荷田春満賀茂真淵平田篤胤とともに「」の一人とされる。伊勢松坂豪商・小津家の出身である。

概要[編集]

契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となりました

本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。

また、そのような儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道儒家神道を強く批判し、神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだと主張した。そして、日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきたとして、日本には言挙げをしない真の道があったと主張し、逆に儒教や仏教は、国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道であると批判した。また、儒教の天命論についても、易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為であると批判した。さらに、朱子学理気二元論についても、儒学者達が推測で作り上げた空論であると批判、世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだと主張し、世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬であるとした。

ただし、本居宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、時々の社会体制も全て神が司っているので人は時々の社会体制に従うべきだとも主張している。漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた神により司られているため重んじるべきだとし、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した。そして、道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道であると主張した。

また、本居宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。

言語学の分野においては、日本語音韻の整理(『字音仮名遣』)、係り結びの法則の発見(『てにをは紐鏡』)、上代特殊仮名遣の発見(『古事記伝』)、日本語動詞活用の整理(『御国詞活用抄』)、濁音が二次発生であることの発見(『字音仮名遣』)、地名の漢字の読みの研究(『地名字音転用例』)、漢字の漢音・唐音・呉音と音読みの対応関係の整理(『漢字三音考』)、字余りの法則の発見(『字音仮名遣』)、同音の字音の仮名遣いの整理(『字音仮名遣』)などの功績がある 。

本居宣長の代表作には、前述の『古事記伝』のほか、『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』などがある。

門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載されている。主な門人として田中道麿服部中庸石塚龍麿夏目甕麿長瀬真幸藤井高尚高林方朗(みちあきら)・小国重年竹村尚規横井千秋代官村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主坂倉茂樹一見直樹倉田実樹白子昌平植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官帆足長秋帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。

生涯[編集]

「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月 賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」

本居宣長は享保15年(1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。幼名は富之助。元文2年(1737年)、8歳で寺子屋に学ぶ。元文5年(1740年)、11歳で父を亡くす。延享2年(1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。商売見習いのためであったと考えられる。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆し、宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了。また、この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を延享3年より起筆、宝暦元年(1751年)頃まで書き継いだ。

寛延元年(1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(1750年)離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。

宝暦2年、22歳のとき、義兄が亡くなり、小津家を継ぐ。商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。

宝暦7年(1758年京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。宝暦13年(1763年5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、古事記の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。

宣長は、一時は紀伊藩に仕えたが、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。

60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。その中では、自らの学問・思想・信念について述べている。また、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。寛政12年(1800年)、71歳の時、『地名字音転用例』を刊行する。『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している。

死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容の他、命日の定め方、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、「謎」であるとする評論もある。旧山室村の本居家の墓から本居宣長の霊魂を殿町の森に運び神仏の聖地が移転した。大正4年に学問の神様として本居神社が遷座した。平成時代1995年)に社号を本居宣長ノ宮と改称した。

その墓は1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山へ移された。生前の宣長が好んだ場所とされる。さらに1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。

人物[編集]

『古事記伝』再稿本(本居宣長記念館蔵・重要文化財) 家業を手伝うも、読書に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動した。初め加賀藩から仕官の交渉があったが、遠国であり、老身であるため、仕官を好まず、『記伝』の執筆中もあって断った。この噂を聞いた紀州藩が対抗的に招き、寛政4年(1792年)、紀州藩に仕官し、御針医格十人扶持となった。

宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたったことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。

しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。山室町高峰の妙楽寺に葬られた。

コレクターで、駅鈴レプリカなど珍しいものを多く所有していた。この駅鈴は、寛政7年(1795年)8月13日に浜田藩主・松平康定が宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、自筆色紙と共に贈ったものである。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた。

平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。

読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、「借りた本を傷めるな」、「借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」、などの考えを記している。

大和国吉野水分神吉野水分神社)が子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた。

儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋などが明らかにしている。

日本書紀を「漢意のふみ」と糾弾していた。


刊行著作[編集]

  • 『本居宣長全集』筑摩書房(全20巻別巻3)、大野晋大久保正編、1968-1977年
  • 『本居宣長 日本思想大系40』 吉川幸次郎、佐竹昭広日野龍夫校注、岩波書店、1978年
  • 『本居宣長集 新潮日本古典集成日野龍夫校注、新潮社、1983年、新装版2018年
    • 「紫文要領」「石上私淑言」を収録
  • 今西祐一郎校注 『古今集遠鏡』平凡社東洋文庫 全2巻、2008年
  • 白石良夫訳注 『本居宣長 「うひ山ぶみ」全訳注』講談社学術文庫、2009年
  • 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』
    • 『玉勝間』(上・下)、『直毘靈』、各・岩波文庫(初刊) 1934-36年
  • 『排蘆小船 宣長「物のあはれ」歌論』 子安宣邦校注、岩波文庫 2003年
  • 『紫文要領』 子安宣邦校注、岩波文庫 2010年
  • 『宣長選集』野口武彦編・校注、筑摩叢書 1986年。「玉くしげ」など
  • 『現代語訳 本居宣長選集』山口志義夫訳、多摩通信社、新書判
    • 1.『玉くしげ - 美しい国のための提言』(玉くしげ、玉くしげ別巻、直毘霊)2007年
    • 2.『馭戎慨言 - 日本外交史』2009年
    • 3.『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)2010年
    • 4.『源氏物語玉の小櫛 - 物のあわれ論』(源氏物語玉の小櫛、第一巻、第二巻)2013年
  • 『本居宣長 コレクション日本歌人選058』山下久夫編、和歌文学会監修、笠間書院 2012年





ちょっと内容が脱線して申し訳ありません。ちなみに日向の国ってどういうところかといいますと・・・・・・

日向国[編集]

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日向国
■-日向国

■-西海道

別称 日州(にっしゅう)

向州(こうしゅう)

所属 西海道
相当領域 宮崎県
諸元
国力 中国
距離 遠国
5郡28郷
国内主要施設
日向国府 宮崎県西都市(日向国府跡)
日向国分寺 宮崎県西都市(日向国分寺跡
日向国分尼寺 宮崎県西都市
一宮 都農神社(宮崎県児湯郡都農町
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日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。


「日向」の由来[編集]

日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。

「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。ただし、この「譬武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される。

成立当初は現在の九州南部一帯の呼称で宮崎県鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、8世紀の初めには、薩摩多褹の叛乱を契機に薩摩・大隅両国が分置され、日向の国域が定まった。


沿革[編集]

古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表)。

5、6世紀のヤマト政権には、筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊曽国(南部)の四区分に観念されていた。これは九州成立以前の政治的区分である。

7世紀中期以降、ヤマト政権律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、日向国は成立した。

成立当初は現在の南九州広域に渡っていた。

大宝2年(702年)、薩摩・多褹の叛乱を契機に、現在の鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。

その後、和銅6年(713年)4月3日に肝杯郡贈於郡大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の郡構成(臼杵郡児湯郡宮崎郡那珂郡諸県郡の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等、領域の変化はあった。

また日向国について「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院三俣院穆佐院新納院飫肥院土持院櫛間院救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。

1883年(明治16年)宮崎県再置の際、諸県郡が新設宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県に残った南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡東諸県郡、那珂郡が北那珂郡南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡西臼杵郡にそれぞれ分割された。

歴史[編集]

伝承[編集]

神話[編集]

古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国豊国肥国熊曽国が見えるが、日向の記載はない。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国豊国肥国、日向国の4面を挙げている。

古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考える説がある。

征西説話[編集]

日本武尊と川上梟帥。月岡芳年

『古事記』景行天皇段では、天皇の子・小碓命が熊曽討伐を命じられるという征西説話が記述されている。この中で小碓命は熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗った。

『日本書紀』では景行天皇自ら熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定し、子・豊国別皇子が初代日向国造に任じられている。のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の子・日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。

なお『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、豊国別皇子の三世孫・老男が応神天皇期に日向国造に任じられたと記しており、『天皇本紀』(『先代旧事本紀』第7巻)では、豊国別皇子は日向諸県君らの祖と記している。

現在の歴史学界の中で、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降に求められており、上記の記述は歴史的事実とはされておらず、むしろ応神・仁徳の記述の伏線と捉えるのが妥当とする考えがなされているものの、文献史学界からは異なる意見も唱えられている。

律令制以前[編集]

日向地域では、弥生時代には青銅器の欠如と抉り入り方形石包丁の存在という特色が見られていたが、4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した。こうした古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示している。

『古事記』『日本書紀』の応神天皇・仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、こうした政治関係を背景として成立したと見られ、5世紀代に豪族が出仕したものと推測されている。

6世紀から7世紀中期にかけては、史書では推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない。

飛鳥・奈良・平安時代[編集]

「日向国」の文献上の初見は、『続日本紀』文武天皇2年(698年)9月28日条である。成立時期は明らかでないが、律令制成立に伴い7世紀中期以降に設けられたと見られている。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。

令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。

弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。

鎌倉時代[編集]

1185年文治元年)惟宗忠久が、主筋である近衛家島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、地頭職も兼任した。その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称した。忠久は1197年建久8年)に薩摩大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。しかし、忠久が、1203年建仁2年)、比企能員の変連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、北条氏赤橋家に伝えられることとなった。

日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。

室町時代[編集]

南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏北郷氏新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。

そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後大友氏に臣従するようになる。戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、1587年秀吉九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。

江戸時代[編集]

日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された。延岡藩高鍋藩佐土原藩(薩摩藩支藩)、飫肥藩。この他、隣の大隅国から大きくはみ出るように薩摩藩が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の人吉藩も領地を持った。

近世以降の沿革[編集]

国内の施設[編集]

国府[編集]

寺崎遺跡(宮崎県西都市

日向国府跡。

国府は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。西都市大字右松の寺崎遺跡と推定されていたが、国衙も発見、児湯郡内で国庁の建物が調査されている。

国分寺・国分尼寺[編集]

日向国分寺
宮崎県西都市妻町三宅国分。

神社[編集]

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す小社4座4社が記載されている(「日向国の式内社一覧」参照)。大社はない。

これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。

総社一宮以下

二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。

安国寺利生塔[編集]

  • 安国寺 - 宮崎県日南市飫肥にあった。

地域[編集]

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江戸時代の藩[編集]

延岡市を中心とした県北一帯。飛地として、現宮崎市北部。
児湯郡高鍋町周辺や美々津。飛地として、串間市周辺と宮崎市の一部。
日南市、宮崎市南部
現宮崎市佐土原町及び周辺地域一帯、西都市南部

その他、以下が日向国に領地を有していた。

人物[編集]

国司[編集]

この節の加筆が望まれています。

日向守[編集]

日向介・権介[編集]

日向掾・権掾[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

室町幕府[編集]

戦国時代[編集]

戦国大名[編集]

  • 日向伊東氏:日向の最大勢力。島津氏に敗れ1576年に一時没落するが、豊臣秀吉の九州征伐で戦功をあげた功績により、再び大名として復活を遂げる。
  • 土持氏:日向守護代。日向北部に勢力を持ち、後に伊東氏と対抗した。1580年、大友宗麟に敗北し滅亡。
  • 北郷氏;島津氏の支流。都城付近を領有し、北原氏・伊東氏と争った。
  • 北原氏真幸院(現えびの市小林市)と周辺を領有していたが、伊東氏の謀略により衰退。
  • 島津氏:日向・大隅・薩摩守護。1576年に日向を征服、さらに進出しほぼ九州統一にいたるも、豊臣秀吉の九州征伐により敗走。薩摩・大隅2カ国と日向真幸院を所領とする。

豊臣政権の大名[編集]

武家官位としての日向守[編集]

江戸時代以前[編集]

江戸時代[編集]

日向国での合戦[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 成立当初の領域は、鹿児島県の本土部分も含む。
  2. ^ 日向の扱いには肥国説と熊曽国説がある。肥国説では、肥国の名「建日向日豊久士比泥別」に基づいて日向を含むと見る(西宮秀紀「記紀神話における日向」(『日本の神話 3 天孫降臨』(ぎょうせい)pp. 136-137)等)。一方熊曽国説では、筑紫国(筑前国・筑後国)、豊国(豊前国・豊後国)、肥国(肥前国・肥後国)として、残った日向・大隅・薩摩3国を熊曽国と見る(『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27等)
出典
  1. ^ 『日本書紀』景行天皇17年3月12日条(訓は『宮崎県の歴史』(山川出版社)p. 54による)。
  2. ^ 『日本書紀』推古天皇20年正月7日条。
  3. ^ a b c d e f g h日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p.56。
  4. ^ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。
  5. ^ 『日向国』コトバンク
  6. ^ 古事記・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(九州)は、四面をもって生まれたとされる。 次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
  7. ^ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
  8. ^ 『古事記』神代記。
  9. ^ 『先代旧事本紀』神代本紀
  10. ^ a b c d日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。
  11. ^日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。
  12. ^ 『宮崎県の地名』(山川出版社)p. 30。
  13. ^ 『国史大辞典』(吉川弘文館)日向国項。
  14. ^ a b c日本歴史地名大系 宮崎県の地名』p. 57。
  15. ^ 「旧高旧領取調帳」では明治5年に肥後国球磨郡から所属郡が変更された14村も児湯郡として記載されている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、日向国に関連するカテゴリがあります。

東征のルート[編集]

神武天皇の存在自体伝説のひとなので、はっきりとした資料というものがないので、こまっているのですが、

学者の間でもいろんなルートがかんがえられています。

経過[編集]

古事記[編集]

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国高島宮で8年過ごした。速吸門で亀に乗った国つ神に会い、水先案内として槁根津日子という名を与えた。

浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国男之水門に着いた所で亡くなった。

神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると 神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大御神高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連)らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。

忍坂の地では、土雲の八十建が待ち構えていた。そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦った。最後に、登美毘古(ナガスネビコ)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。

その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。

日本書紀[編集]

参考として『日本書紀』より換算した西暦を付記するが、文献史学的・考古学的なものではないことに注意。

甲寅紀元前667年

この年、日向国にあった磐余彦尊は、

昔我が、高皇産霊尊大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊、をき雲路をけ、ひてります。是の時に、にひ、時、にれり。、くしてを養ひて、此の西のをす。、にして、を積みを重ねて、にを歴たり。天祖のりましてより、今に。而るをなる、猶未だにはず。遂にに君有り、に有りて、を分かちてて相凌ぎはしむ。塩土老翁に聞きき。曰ひしく、「にき有り、青山にれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」といひき。ふに、の地は必ず以てをべて天の下にるに足りぬべし。しのか。の飛び降るといふ者は、是饒速日とふか。何ぞきて都つくらざらむ。

と言って、東征に出た。伝 一柱騰宮跡(宇佐市)
10月5日、磐余彦尊は親(みずか)ら諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神の珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦菟狭津媛が造った一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊はして、媛を侍臣の天種子命中臣氏の遠祖)とめあわせた。
11月9日筑紫国水門に至った。
12月27日安芸国に至り埃宮に居る。

乙卯紀元前666年

3月6日吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。

戊午紀元前663年

2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
3月10日河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。
4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。
5月8日茅渟山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竈山にいたった時に薨じた。

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

6月23日名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。東征の先鋒として菟田に向かう道臣命、八咫烏を追う。月岡芳年筆「大日本名将鑑」より
8月2日菟田県を支配する兄猾弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。
9月5日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると八十梟帥兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊はこの夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
10月1日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。
12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。

己未紀元前662年

2月21日、磐余彦尊は従わない新城戸畔居勢祝猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。
3月7日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。

庚申紀元前661年

8月16日事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

辛酉(神武天皇元年、紀元前660年

1月1日、磐余彦尊は橿原宮即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命と神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳尊の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳命の誕生はそれ以前となる。

諸説[編集]

諸説[編集]

南九州説[編集]

  • 神武東征の伝承上の出発地は「日向」である。この「日向」をのちの日向国とすれば、その地は南九州である。
  • 『日本書紀』では磐余彦尊はまず菟狭(現在の大分県)に至り、そこより水門(現在の福岡県)を経て安芸国(現在の広島県)に移動している。すなわち、出発地(日向)→菟狭→崗水門と北方に移動したのであるから、日向は菟狭より南にあると考えられる。

北部九州説[編集]

神武東征の本来の出発地は北部九州であったとする。根拠は以下の通り。

  • 出発地の記載は「日向国」ではなく「日向」である。『日本書紀』では、日向国の名の由来は景行天皇の言葉であるとされているので、のちの日向国の地名は神武東征の時点では「日向」ではなかったと考えることができる。仲哀紀には日向を「膂宍の空国」、「鹿の角の如き実の無い国」と呼称するなど、日向が不毛の地であったことが窺え、古墳の築造も4世紀後半ないし5世紀に始まった事情もあり、後進地域であったことも神武出発の地とするには不自然である[要ページ番号]
  • 日向は固有名詞ではなく、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。
  • 南九州を出発すると、日向→宇佐→関門海峡→岡(洞海湾遠賀川)→関門海峡→安芸と、流れの速い関門海峡を二度通ることになる。
  • 「筑紫の日向」は「九州の日向國」ではなく「筑紫國の日向」(福岡県に「日向」の地名がある)と解釈すべきである。たとえば邪馬台国九州説の舞台の範囲でも、伊都国があった福岡県糸島市奴国があった福岡市の間には日向峠(ひなたとうげ)があり、そこには二級河川の日向川(ひなたがわ)が流れている。福岡県朝倉市には日向石という地名があり、福岡県八女市の矢部川流域には日向神という地名がある。また糸島市周辺には記紀とは異なる日向三代の神話があり、平原遺跡からは原田大六によって八咫鏡に比定される大型内行花文鏡が出土している。
  • 『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。

東征時期についての考証(諸説)[編集]

  • 安本美典によれば、古代一代平均在位約10年で考えていけば、天照大御神の活躍した時代は230年~250年頃、神武天皇の活躍した時代は280年~300年頃になると言う。
  • 宝賀寿男は諸外国の王族の平均的な在位年数と生物学的な寿命から、古代天皇の在位年数を一代平均10年とするのは異常な数値であるとし、平均25年の説を唱えている。また古代天皇や諸外国の王族の在位年数はX倍年暦が使用されていると考え、神武天皇の在位を175年~194年であるとしている。

否定説[編集]

  • 西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早いとする。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど。しかし実際には鉄鏃は魏志倭人伝の邪馬台国に存在したとされ実際にも北九州から多数出土しているが、畿内では3世紀ごろの鉄鏃は殆ど出土していないことから、この説は根拠が乏しい。
  • 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は可能性が低い。しかし、神武東征が魏志倭人伝に見える邪馬台国の時代の出来事であるとは限らないし、肯定説の全てが国家規模での東遷ではないことに留意される。
  • 原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする。

水銀確保のための東征説[編集]

上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が、水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ、宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとし、古墳初期において王とは水銀資源を掌握した存在と定義している。

日本列島の旧石器時代[編集]

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日本の歴史
日本の旧石器時代の様々な打製石器
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
 王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
 平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1337年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
 鎖国 1639年 – 1854年
 幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
 GHQ/SCAP占領下 1945年 – 1952年
平成時代 1989年 – 2019年
令和時代 2019年 –     
Category:日本のテーマ史

日本列島の旧石器時代(にほんれっとうのきゅうせっきじだい)は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6500年前と考えられている。無土器時代先土器時代岩宿時代(いわじゅくじだい)ともいう。

終期については青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着した炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法では1万6500年前と出たことによる。

日本列島での人類の足跡も12万年前(島根県出雲市多伎町砂原 砂原遺跡)に遡る。この時代に属する遺跡は、列島全体で数千か所と推定されている。

地質学的には氷河時代と言われる第四紀更新世の終末から完新世初頭までである。ヨーロッパの考古学時代区分でいえば後期旧石器時代におおむね相当する。

概説[編集]

日本の文化や芸術はかなり古い

平安時代から800年もたち

太平洋戦争から76年もの月日がたっている

ここにあげる歴史のエピソードや通説は現在ではあまり聞かれないものもあり

時には一方的ととな理論のようにみえるが

時代の雰囲気が現在とはかなりちがい

その時代の雰囲気をめぐらしながら

ものごとを思いめぐらすのも歴史のおもしろさであり

時には、思想上の理由から

実際にだとおだとおもいますはちがったものもあるかもしれない。

そこはあえて読者の自己判断にゆだねるほかない

と筆者はかんがえます。

元々は太平洋戦争を振り返る目的でたちあげたさいとですが

古の先人がどのようにいきたか

かんがえてくれればさいわい

だと思います。

概要[編集]

日本列島の形成[編集]

日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がった。更新世の氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。

しかしながら、従来の学説では氷期日本列島大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。また舟を使わないと往来できない伊豆諸島神津島産の黒曜石関東地方後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道されている。しかし、この時期には船の遺物は発見されていないため少数の意見である。

一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。

また、4万年〜3万年前には世界最古の磨製石器が製作されており、すでに日本では独自の文化が形成されていたことがうかがえる。

日本人のルーツの謎[編集]

日本人のルーツはいまだになぞであり

様々な学説もありました。

ましだ研究不足もありますが

ここでまとめてみたいとおもいます。

ジャワ島の人々も日本に似ている習慣を持っている先住民族も存在しましたし

それがすべて納得のできる学説ではなかったので

今でも論争はつづいています。

日本人のルーツは中国にあり?[編集]

古来より大陸から渡ってきた渡来人帰化人も存在しており、ヤマト王権成立後は同化が進み大和民族(日本人)が形成された。

近現代においては国籍法に定める帰化によって、様々な外国人が日本国籍を取得することができた。朝鮮系日本人(2017年末までに韓国・朝鮮籍から日本に帰化した累積者数は371,161人)、中国系日本人(2017年末までに中国籍から日本に帰化した累積者数は141,668人)、台湾系日本人、ブラジル系日本人、アメリカ系日本人、ロシア系日本人、モンゴル系日本人などがある。

現代「何々系日本人」は帰化者に限らず海外ルーツの日本人を全般的に指す呼称として使われることがある。もっともこの呼称は多義的である。単にルーツあるいはその一部という属性を記述する場合もあれば、海外ルーツのない日本人との文化的な隔たりを強調する意味が込められる場合もある。後者においては、一般の日本人と切り離されたマイノリティ集団の存在とその集団への帰属が含意されているが、それが当事者のアイデンティティ・生活様式の実態と合致しているとは限らない。

稲作の歴史[編集]

こんにちでも、稲作がどういう経緯で伝えられたかという議論になっていますが

まだはっきりとした結論にはいたっていないようです。

筆者自身の潜入観だけでは判断できません。

ジャワ島の昔からの稲作の工程は日本のものと変わりはなく

中国の江南地方のコメも日本のものにちかいようです。

おそらく同時期にはいってきたのではないかとかんがえられます。

ヤマトタケルノミコトが東征にいったとき火打ち石と鎌で

危機を脱したという逸話も稲作がこのころには始まっていたのではないかと思わせるところもあります。


騎馬民族説[編集]

今では、この説を取らない学者の方がおおいのですが

1970年代ごろのこの学説は非常にブームを呼んだ学説でした。

とてもロマンがある学説であったのでここにのせます。


動物相[編集]

日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。

最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸峡を渡ってくることが出来たので、それらの混合相となった。

ナウマン象は約35万年前に日本列島に現れて約1万7000年前に絶滅している。長野県野尻湖遺跡の約4万年前の地層(日本考古学用語では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品がまとまって発見されている。

植生[編集]

更新世も中頃を過ぎると寒冷な氷期と温暖な間氷期が約10万年単位で繰り返すようになり、植生の変化もそれに対応するように規則的な変化を繰り返すようになった。

氷期を約6万年前を境に前半と後半に分けると、前半は温帯性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり、後半は約5万年前と約2万年前の亜寒帯の針葉樹が繁栄する時期とそれ以外のコナラ属が繁栄する時代からなる。そして、最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で、それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に拡がっていった。暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。

一方、姶良Tn火山灰 (AT) は、日本列島全体を覆うほどの姶良カルデラの巨大噴火によってもたらされ、九州から東北日本までの植生に大きな影響を与えた。気候が寒冷化に向かう過程で噴火が起こり、針葉樹林化を速めた。このことは、動物群や人間社会にも影響を及ぼした。たとえば、それまでは全国均一的な石器文化を保持していたものが、地域的な特色のある石器文化圏、つまり、西日本東日本というような石器文化圏成立に影響したとの可能性を考えることができる。

日本列島において氷期から間氷期への急激な変化は、更新世から完新世への変化も急激であり、気候変化、海面変化、植生を含めた

縄文時代[編集]

概論

縄文時代の痕跡は今もなお日本国内でたくさん発見されている。

三内丸山遺跡もそのひとつであり

吉野ケ里遺跡も貴重な環濠集落のモデルとしてとても興味深い

遺跡だとおだとおもいます。

縄文式土器のデザインは人々に感動をあたえます。

日本人の原点ともいえる登呂遺跡は

多くの縄文式土器が発掘されて、話題になりました。

考古学研究は明治時代にはじまりましたが

当初は、天照大御神の信仰とむすびついて正確な時代特定をする作業に

日本人は興味をしめさなかったというはなしでしたが、

日本に技術の進化にともなって

多くの発見がうまれました。

縄文時代の時代特定[編集]

縄文時代の定義自体少し曖昧なものもあるらしいのですが

筆者はこのまま縄文時代という区分を踏襲したいとおもっています。

15000年前が縄文時代と呼ばれる時代とおもわれるのが

専門家の意見としてあるようなので

このまま特定したいとおもっています。

定義と時期[編集]

縄文文化は完新世の温暖化にともなう環境の変化に対応して日本列島の旧石器人が生み出した文化であり、その特徴としては、弓矢土器の使用、磨製石器の発達などが挙げられる。また、各地域の生態系に根ざした採集経済に基礎を置く点で、稲作に特化し生態系の改変をともなう生産経済に基づく弥生文化と区別される。このような縄文文化の時代を縄文時代と呼ぶ。

縄文時代という時代区分日本史に固有のものであり、世界史の枠組みにおいては新石器時代という区分が一般的に用いられる。他の地域の旧石器時代との共通点としては、上記の磨製石器や土器の使用のほか、定住生活なども挙げられる。ただし、食糧生産経済の本格化には至らず狩猟採集経済が継続しており、この点において縄文時代は、他の地域とは異なる珍しい形態の新石器時代として位置づけられる。狩猟採集経済でありながら定住生活を営んでいたという点において類例として知られているのは、北アメリカ北西海岸の先住民のみである。このような特異な形態は、後述するように、豊かな自然環境を大いに活用することによって可能となったものである。

縄文文化は元々、縄文土器を用いる文化として位置づけられたものであり、縄文時代の定義として縄文土器の使用を挙げる場合もある。後述するように、縄文土器(Cord Marked Pottery)の語はエドワード・S・モースの1877年(明治10年)の報告に見られるが、縄文時代という名称の時代区分が定着したのは第二次世界大戦後である。縄文土器の多様性は時代差や地域差を識別する基準として有効であり、時期区分についても草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分ける土器型式上の区分が慣用化している。各時期の境界年代については炭素14年代法およびその年輪補正などに関連し諸説があるが、たとえば佐々木 (2020, p. 19) は、

としており、中期が縄文時代の中頃というわけではない。

縄文時代・文化の時間・空間的な範囲や定義・内容については、研究者によって複数の説が唱えられており、2015年現在においても議論が続けられている。時期区分や年代推定の研究史上の変遷や、上記以外の文化史的区分については後述する。


分布[編集]

縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器の分布を目安とした場合、北は樺太南部と千島列島、南は沖縄本島を限界とし、宮古島八重山諸島には分布しない(八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。また、縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。こうした土偶の使用の地域性について藤尾 (2002) は、ブナナラクリトチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。

変遷[編集]

旧石器から縄文へ[編集]

最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきた。そして、日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになる。また、温暖化による植生の変化は、マンモストナカイ、あるいはナウマンゾウオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

この草創期の特徴は以下のように指摘されている。

  • 新しい道具が短期間に数多く出現した
    • 例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現する。
  • 使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった。
  • 草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う。
  • 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった。
  • 狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた。

北方ユーラシア大陸から齎された様々な要素が、日本列島に住む旧石器人に取り入れられ、地球温暖化による環境の変化への対応というかたちで新たな縄文文化が形成されたと考えられる。

縄文時代早期[編集]

日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ヘラジカヤギュウオーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型哺乳動物(ニホンジカイノシシ、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡はほとんど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰によって?]

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰によって?]

一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土して、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰によって?]

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビゼンマイフキクズヤマイモノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。2013年、福井県鳥浜貝塚から世界最古級(約11000〜15000年前)の調理土器が発見された。これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した。

気候の変化と縄文文化の発展[編集]

縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動も経験している。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった。

約2万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。この間に日本列島は100m以上もの海面上昇を経験している。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する(13000年前-6000年前)。また、約6000年前には海面が現在より4m〜5m高く縄文海進と呼ばれており、海岸部の遺跡の分布を考える上で参考になる。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬朝鮮半島間の水路の幅が広がって対馬海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきる。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「九州を除く西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

弥生時代[編集]

概論[編集]

弥生時代は縄文時代

の次の時代にくぶんされています。

形のうえでは縄文時代とはさほどかわったところはないようにみえますが

弥生式土器にみられる

生活様式にあった土器も見るべきものもあります。

名称[編集]

弥生式土器 「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。

概要[編集]

紀元前10世紀または紀元前5世紀紀元前4世紀頃(後述)に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系へ移行し、九州四国本州に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市菜畑遺跡福岡県板付遺跡那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米などの存在が北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。

1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地松本盆地千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。またその伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、水路畦畔といった灌漑技術を備えた状態であったことが判っている。なお弥生時代(および次代の古墳時代に至るまで)の水田形態は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度となる「小区画水田」が無数に集合したものが主流である。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。

道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)がに朝貢し、国王であることを意味する親魏倭王金印を授けられた(倭・倭人関連の中国文献)。

一方、南西諸島樺太北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史奄美群島の歴史先島諸島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近のが干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

騎馬民族征服王朝説[編集]

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『騎馬民族国家

日本古代史へのアプローチ』

著者 江上波夫
発行日 中公新書版(1967年)

中公文庫版(1984年5月) 中公新書(改版)(1991年11月30日)

発行元 中央公論社中央公論新社
ジャンル 日本古代史
形態 新書、文庫
公式サイト 中公新書
コード 中公文庫版 ISBN 4-12-201126-4

中公新書版 ISBN 4-12-180147-4

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騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論(きばみんぞくにほんせいふくろん)ともいう。東洋史学者の江上波夫考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説である。

この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げた。手塚治虫が『火の鳥 黎明編』でモチーフにし、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めたが、学会では多くの疑問も出された。支持する専門家は少数派にとどまっているとされている。なお、この説の批判者は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している。

源義経はジンギスカン?[編集]

ジンギスカンは源義経であるとする説も1970年代よく聞かれた学説ですが

日本特有の判官びいきにもとれますが

年代も義経の生きた時代とジンギスカンはとてもよくにているので

この学説がうまれたものとかんがえます。

学説の概要と根拠[編集]

江上波夫は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。

すなわち、大陸東北部に半農の騎馬民族が発生したが、その内、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」的な国家を形作ったという。崇神天皇が『古事記』に「ハツクニシラシシミマキノスメラミコト」、『日本書紀』に「ミマキイリビコイニエノスメラミコト」と記録されているのは、その現れであり、さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内大阪平野に進出し、そこで数代勢威をふるい巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したのであるとする。

そして、唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝たるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする考古学説が、江上の騎馬民族征服王朝説の概要である。

ここで注意すべきは、江上は、元寇のように大陸騎馬民族が一気に九州または日本を征服したと見ているわけではなく、長い年月朝鮮半島を支配し定住した民族が、情勢の変化により逼塞したことにより、長期間かけて日本列島を征服支配したとしているのであり、大陸騎馬民族が一気呵成に日本列島を征服したことを前提としてそれを否定するものは、江上への批判としては適切でない。そして、江上は、騎馬民族が農耕民族を征服支配した場合には、徐々に農耕民族に同化するものとしている。それが故に、江上は、大和朝廷を騎馬民族によって成立したと見ながら、日本の民族の形成は弥生時代にまで遡ると捉えているとされるのである。

このような江上の学説は、遺跡遺物などによる文化習俗と文献を総合して主張される。 文化習俗面では、4世紀後半から7世紀後半ころの後期古墳文化におけるそれは北方的、武人的、軍事的であり、弥生時代の南方的、農民的、平和的なものの延長であった古墳文化と"断絶"があることを根拠とする。文献的な根拠は、記紀や新旧唐書など多岐にわたる。以下、主な文化習俗的根拠及び文献的根拠を紹介する。 (断定的に記述するが、古墳時代の区切り方なども含めて江上の学説であり、学会において反対があるものもあることを承知されたい)

  1. 魏志倭人伝』には邪馬台国に「牛馬なし」と記されており(実際にも弥生時代に日本に牛馬がいた形跡は発見されていない)、古墳時代前期にも馬牛は少なかったと思料されるが、古墳時代後期(5世紀6世紀)になると、急に多数の馬の飼養が行われるようになり、馬の埋葬事例や埴輪の馬も見られる。これは馬だけが大陸から渡来したのではなく、騎馬を常用とした民族が馬を伴って大陸から渡来したと考えなければ不自然であること。
  2. 古墳時代前期(4世紀中頃まで)の古墳は、木棺または石棺を竪穴式石室に安置し、副葬品も、鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いもので、魏志倭人伝の倭と類似する弥生時代以来のものであった。これに対して、後期(4世紀終わり頃から)の古墳は応神・仁徳陵で代表されるように壮大であり、石室は大陸系であることが明白な横穴式となり、副葬品も武器や馬具などの実用品に変わり、さらに男女や馬の形をした埴輪が加えられるようになるなど急激な変化が見られること。
  3. そして、古墳などの壁画や埴輪に描かれた服装や馬具、武器は、魏志倭人伝で描かれた邪馬台国(人は全身及び顔に入墨をした上に穴の開いた青い布を被っており、馬はいなかった)のそれとは全く異なり、大陸騎馬民族によってもたらされた朝鮮半島のそれ(白い服をまとい帯を締め、馬を操った)と同様、大陸騎馬民族の胡族のそれとほとんどまったく同類であること。
  4. 高句麗語のなかで現在に伝わっている語彙が、古代の日本語と似ているとされていること。ただし高句麗語がどういうものであったかは明らかではない。
  5. 記紀の天孫降臨説話や神武東征神話は、地理的にも文献的にも、それぞれ朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表し、それは、単語(例えば、クシフルのフルは漢語で村を表し、クシフルは日本書紀ではソホリとされ、それは朝鮮半島で国の中心・王都を表す語である)及びストーリー(例えば、古事記によると、天孫降臨した地は韓國すなわち南部朝鮮に向かっているとされるが、そこを天神の故郷と解すれば文意が自ずと通じるし、亀に導かれて新しい土地に建国する神武東征神話は高句麗などの朝鮮半島の建国神話そのものである)において高句麗など朝鮮半島の開国説話と共通の要素を持っていること。
  6. 江上は、実在した天皇のうち、諡号に「神」の文字をもつ崇神天皇応神天皇を、それぞれ天孫降臨及び神武東征の主人公と見る。そして崇神天皇は、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあり、『古事記』では所知初国之御真木天皇(ハツクニシラスノミマキノスメラミコト)とあることから、崇神天皇は、ミマキ(ミマ(任那)のキ(城))に居住し、そこを出発点として国を創建したと解釈できること。
  7. そして、江上は、応神天皇が畿内に進出し、後に大和朝廷が成立したと考えるが、朝廷国家には、諸豪族に(大伴、物部、中臣等)と地名をその氏とした(葛城、巨勢、蘇我等)の二重構造が見られるが、旧くからの天孫天神系豪族と朝廷成立以前からそれぞれの地方に地盤を持っていた国神系豪族に対応するものであり、軍事は天孫天神系豪族、天皇家の姻族となるのは多く国神系豪族とされた事実がある。このような二元性は大陸における騎馬民族の征服王朝の大きな特徴そのものであること。
  8. 随使裴世清の大和朝廷への紀行には、倭国は言われていたような蛮族ではなく秦王朝(辰韓を含めて、中国では辰を秦と記すので秦王朝とあるのは「辰王朝」であるという)であったと記され、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種であり、もと小国の日本が倭を併合した」とあり、『新唐書』日本伝には、神武以前の日本の統治者が「筑紫城」にあり、後に大和地方を治めたとある。このように、隋や唐は、大和朝廷を古来の倭そのものではなく、朝鮮半島南部の辰王朝の末裔であり、それは大和地方を治める以前は筑紫にいたと見ていること。ただし旧唐書にある日本とは天武天皇朝のことであり、倭とは天智天皇朝のことを指しているという考えが一般的である。
  9. 倭王武は、中国南朝に対して、使持節都督新羅百済任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍と自称したが、ここに当時存在しない秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など過去の三韓の国名を加える一方で、その一つである弁韓を加えていない。これは、弁韓は倭王が現実に支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、倭王は過去に三韓を支配したことを主張したものだと見られること。そして、事実過去に、三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」という扶余系の騎馬民族と考えられる支配者が存在した。また、上述したように、唐は、日本は、辰王朝が倭を征服した国家だと見ている。
  10. 高句麗好太王碑文からうかがわれるように、応神の時代には倭軍は朝鮮半島奥深く進出したこともあり、辰王朝の末裔を名乗る百済王家を援けている。このような遠征を農耕民族がすることはありえない。天皇家が任那を中心とした騎馬民族である辰王朝の末裔であるが故に戦乱に加わり、百済王家を援けたとみるのが自然であること。
  11. 皇位継承は血統の原理によってなされたが、実は、このように血統を守り(江上は継体天皇も血統が継続していたとみている)、農耕民族に見られるような禅譲による王朝の交替がないのは騎馬民族の特徴であること。また、男子の天皇と天皇をつなぐものとして女帝が現れる古代のあり方は、皇位継承に際して有力者が集まり会議を行う手続を含めて、戦時中に天子が死亡した場合は国会で次の天子を決定するまで后が指揮権を取るという大陸騎馬民族の王位継承のあり方そのものであること。
  12. 平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録』に収録された1182の氏のうち帰化人系統は326で、実にほぼ30%であり、様々な渡来人を受け入れたことが知られているが、農耕民族は他民族を蛮夷視したり蔑視したりする性癖が強く外国人の集団的移住を許容するものではない。このように大量の集団移民を受け入れ、時には強制的に国内に移住させるのは騎馬民族国家に特有のものであること。
  13. 続日本紀』に、渤海の使者に与えた返書の中で、かつて高麗が日本に対し「族惟兄弟(族はこれ兄弟)」と表現したことにふれていること(江上は、天皇氏と新羅や任那の支配者層は同族であるとし、ともに天孫族と呼ぶ)。
  14. 14世紀の北畠親房の『神皇正統記』に「むかし日本三韓と同種といふことのありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」とあること。などが掲げられる。
  15. 中国との国境に近い北朝鮮の鴨緑江中流沿岸の松岩里(ソンアムリ)、雲坪里(ウンピヨンリ)で、石積みの前方後円形の遺構が発見されたとの報告が1990年にあった、この石積みの前方後円形の遺構は、いずれも長さ20〜30mで計10基あり、出土した鉄器や馬具などから、紀元前2世紀から紀元前後のものと推定されている。高句麗独自の積石塚の一種だが、江上はこの慈江道(チャガンドウ)の積石塚を直接見に行き、日本の前方後円墳の起源は北朝鮮にあるという説を述べている

学説に対する疑問・反論[編集]

高句麗の積石塚(長寿王の墓と推定)


5世紀末葉。中国吉林省集安市。底面は一辺31.58mの方形、高さは12.5m

箸墓古墳


3世紀後半。奈良県桜井市。全長278m、高さ30m

行燈山古墳


4世紀前半。奈良県天理市。墳丘長242m、高さ31m

渋谷向山古墳


4世紀後半。奈良県天理市。墳丘長300m、高さ25m

大仙陵古墳


5世紀前半。大阪府堺市。墳丘長525m、高さ35.8m

反論としては、

  1. 考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀末葉-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には文化に断絶がみられず、強い連続性が認められること。
  2. 「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書いずれにあっても、その記載はなく、それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」の称号を用いており、ここに強い連続性がみられること。
  3. 騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと。また、『記紀』において馬に乗って活躍する英雄の話がまったく出てこないこと。
  4. 日本における乗馬の風習の開始は江上が騎馬民族の渡来を想定した4世紀までにはさかのぼらず、5世紀初頭が上限であり、以後、馬の飼養、馬具の国産化が軌道にのって騎馬の風習が一般化したのは5世紀末以降とみられること。
  5. 5世紀の古墳から出土する甲冑の多くは馬上での着用に適しない歩兵戦用の短甲を主とした組み合わせであり、また、初期の馬具は装飾的な要素が濃厚で実践向きとはいえないこと。
  6. 日本列島の王墓とされる大規模な墳墓には高句麗百済の王陵である積石塚新羅地域の王墓である双円墳がほとんどなく、これらと日本の前方後円墳では形態等がまったく異なること。つまり、王陵の形態に共通性がまったくないこと。
  7. 日本独自の古墳形式である前方後円墳は、2世紀末葉から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らかで、朝鮮半島や中国大陸にそれに相当する古墳は存在せず、4世紀から5世紀にかけて最盛期をむかえ、6世紀に至るまで墳形や分布にとくに際だった断絶がみられないことから、日本の王権が畿内を発祥とする土着の勢力である可能性がきわめて高いこと、及び副葬品も征服を示すものが皆無であり、関東地方や九州で確かに馬具やが出土されているが、これは戦闘用のものではなく、一般の乗馬用のものであったり、また持ち主の社会的地位や権威を誇示する威信財としか考えられず、これをもって征服があったとはいえないこと。
  8. 弥生時代の日本に稲が伝わり、稲作と米食が始まったが、食用家畜はともなっておらず、その後も有畜農業がみられなかったこと。食用家畜を飼育することによってその肉や乳を利用したり、乳製品や馬乳酒を作るなどの食体系も欠落していること。
  9. 近世に至るまで日本では馬や羊のオスを去勢するなど家畜の管理・品種改良をおこなう畜産民的な文化や習慣がほとんど皆無であったこと。また、車の使用など、騎馬民族の多くに特徴的にみられる習慣・技術が欠如していること。
  10. 祈年祭新嘗祭即位式大嘗祭など宮中の重要な祭儀に動物犠牲をともなった痕跡がないこと。
  11. 北方遊牧民のあいだでは馬上からの連射のため、短の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であったこと。また、刀剣も騎馬民族のものは馬上から振り下ろすため刀身に反りのある刀が一般的だが、日本列島の古墳から出土する刀はすべて直刀であること。
  12. 馬は神経質な動物であり、当時の船による大量輸送は不可能であって、現に13世紀蒙古襲来の際にもモンゴル高麗連合軍は軍馬をまったく輸送していないこと。
  13. 馬具や馬をかたどった埴輪の出土は関東地方や九州に偏在しており、ヤマト王権の本拠地である近畿地方からの出土が希薄であり、全体としても決して大量とはいえないこと。
  14. 倭王武の上表文では、「…昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず…(中略)…渡りて海北を平らぐること九十五国…」と記しており、畿内大和を中心とした視点で四方に出兵したという観念が認められ、日本列島外部からの征服をまったく主張していないこと。
  15. 遺伝子調査の点では、日本人固有で最多を占める遺伝子はD2系統であり、後から渡来してきたとされる(日本史上のいわゆる渡来人とは一致しない)O2系統遺伝子は江南系統と言われ中国南部地域に見られるが、どちらも騎馬民族系統とは言えないということ。
  16. 日本語の基本語彙の中には満州地域や朝鮮語の語彙はほとんどなく、わずかにみられる語彙も「羊」など本来日本にはないもので借用語の可能性の域を出ず、また、高句麗語百済語などの実態が判明しておらず、漢文以外の文章も残っていないため憶測の域を出ないこと。征服が事実ならば当然征服者である大陸の新しい言語が導入されたはずなのに、そのような痕跡がみられないこと。
  17. 古事記』や『日本書紀』の神話は騎馬民族に特徴的なトーテム獣(トルコモンゴルでは狼、朝鮮では熊など)が見られず、比較神話学上別種に分類されるということ。また、神話諸要素は文化交流の結果から説明できるのであり、必ずしも「征服」を必要としないこと。
  18. 江上は、崇神天皇こそ「辰王」の後裔にして倭人の協力のもと北九州に侵攻した任那王であり、日本建国の王だと説くが、崇神天皇には任那(加羅)・北九州のおもかげを示唆するものはまったくなく、『日本書紀』『古事記』『和名抄』のいずれの史料にあっても王宮・陵墓が奈良盆地に所在すると記されており、実際の古墳分布もそれを裏付けていること。「ハツクニシラス」の称号については、江上説に反し、日本国の創始者の意味で使われているのはむしろ神武天皇の方であり、崇神天皇の場合は疫病で人民が死に絶えようというとき、正しい祭祀をほどこしてこれを鎮めた、および四道将軍を四方に派遣して国内を太平に導いた(『古事記』)、人民に調役を課し、天神地祇をよく祀ったので風雨順調で百穀がみのり天下太平となった(『日本書紀』)という功績を称えてあたえられたものだと明示されており、文献上「肇国の創始者」という意味はないこと。「ミマキイリヒコ」にしても、「ミマ」を任那のミマと同一視する根拠はまったくないこと。「ミマキ」は、堅い良材(御真木)とでも解釈した方が、「ミマナ」の「ミマ」だけをとって「ミマキ」イコール「任那の城」などと解釈するよりもはるかに自然であり、また、江上の解釈では、後続する垂仁景行成務仲哀などの名を崇神天皇との関係で整合的に理解することができないこと。

などがあげられる。

日本には弥生時代後期から古墳時代にかけて倭国と大陸や朝鮮半島との交易や戦火を契機に騎馬文化が流入したとはいえるものの、それは主体的・選択的なものであって、征服による王朝交代によって否応なく受容したものであることを示すような文献資料考古資料は見つかっていない。

学説に対する批判・評価[編集]

江上は上記のような反論や疑問に対し、1964年、東北大学日本文化研究所のシンポジウム「日本国家の起源」や1989年の佐原眞との討論で一部これに答えている。それによれば、騎馬民族は農耕民族とは異なって柔軟で適応性が強く、日本の原住民の『歓迎』を受けて『平和的』に進駐し、征服地で被征服者の言語や墓制を取り入れたが、征服者の数は少数で、騎兵だけでなく歩兵をもともなっていたという。また、騎馬民族のなかには去勢をおこなわない民族もあるから、日本にこういった習慣がのこらないのも不思議ではないとしている。

  • 佐原眞は、江上の「騎馬民族」なるものの概念はきわめて「融通無碍」で、自説の都合のよいかたちに自由に変更できることが可能であると批判し、騎馬民族説はもはや「昭和の伝説」であると述べ、「戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説にはそれをうちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません」といっている。
  • 田辺昭三は「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」と評した。
  • 大塚初重は「多くの考古学者はこの仮説には否定的であったが、アジア大陸での雄大な民族の興亡論にロマンを感じる人も多かった」としている。
  • 樋口隆康は「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って何ら記載がない。それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、何の変化もない」としている。
  • 岡内三眞は「江上は、騎馬民族がどのようにして日本に侵入し、征服したのか、そしてどのように征服王朝を立てたのかを、考古学の面から何も立証していない」とし、また「この仮説は、現代では通用しなくなった戦前の喜田貞吉の「日鮮両民族同源論」を基礎にして、戦前・昭和初期の歴史教育を受けて北京に留学し、軍隊の庇護の下に中国東北地区を闊歩した江上流の資料収集法と旧式研究法に基づいている。無意識に吐露する現代論や人間感にはアジアの人々の心を逆なでするような言葉が含まれる。」としている。
  • 田中琢は「騎馬民族が国家を形成経営しうる能力を持った優秀な民族で農耕民はその面で劣っていると決め付け、人間集団をラベルを貼るような危険」としている。
  • 護雅夫は「この説に対しては、多くの日本史家は批判的であるが、井上光貞のように、これを高く評価する学者もあり、また、水野祐はネオ騎馬民族説と称される説を唱えた。江上の騎馬民族説の細かい点については多くの疑問がある。」としている。
  • 所功は「あくまでもスケールが大きい仮説に過ぎない。不明確な点が多く定説として受け入れることはできない」と述べている。
  • 鈴木靖民は「古代史研究の大勢は日本中心の偏った任那史観を乗り越えて、朝鮮史の発展のなかの加耶史本来の理解へとほぼ変革を遂げている。ところが江上説は最近に至るまで一貫して、戦前とほとんど変わることなく、ヤマト王権(朝廷)の朝鮮支配地に置かれた任那日本府の存在を是認し、それが倭韓連合王国、日本の府であるという論を主張し続けるのである。学問の進歩や苦悩・反省と無縁の騎馬民族説は大いに疑問とせざるをえない。」「先学が巨細に解析するように、騎馬民族説は確かに腑に落ちないところがきわめて多い。論証は必ずしも体系的でなく、断片的でおおざっぱ過ぎる。それとともに江上氏の歴史観・思想には深刻な問題があることもすっかり明白になった。」とし、「本来の騎馬民族説は、古代国家あるいは王権の中に編成される渡来人集団の問題として受け継がれているといえましょうし、素朴な騎馬民族征服説はもう克服されている」とした。
  • 安本美典は「ひょうたんナマズの構造(とらえどころのない学説)を持つ説」としている。
  • 岡田英弘は「完全なファンタジーであって、なんら史実上の根拠はない。江上波夫が創作した、新しい神話」とし 、また騎馬民族征服王朝説が一世を風靡した理由を次のように挙げている。
  1. 但し、以上の反論については、概して、宮崎県高原町の「馬登(まのぼり)」に残るカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が長じて愛馬に乗って、東に向かった際、住民たちに見送られた等の伝承は、正式な歴史的根拠の無い文献と見做している。
  2. 『民族学研究』誌上に、江上がはじめて騎馬民族征服王朝説を話した座談会の記録が掲載されたのは、朝鮮戦争前年の1949年であり、朝鮮半島を騎馬民族の大軍が疾風怒涛のごとく南下してくるというイメージは、当時の日本人には、目の前で起こっていることから連想して、極めて受け入れられやすいイメージだった。
  3. 日本というアイデンティティの起源の説明を提供するものであった。
  4. 明治以来の神話の合理化解釈の線に沿っていた。それを具体的に証明したように見えた。
  5. 日本建国を騎馬民族征服王朝説のように解釈すると、西ヨーロッパの歴史と対比して、日本史を説明できる。日本は孤立しているのではない、昔からアジアの一員だったんだ、という感覚も、終戦後ようやく国際社会に受け入れられ、再出発をはかっていた日本人の気に


水野祐「ネオ騎馬民族説」[編集]

詳細は「王朝交替説」を参照

1952年、文献史家の水野祐は『日本古代王朝史論序説』を著し、それまで神武天皇以来、日本が万世一系の天皇によって統治されてきたという通念を批判し、『古事記』の崩年干支、記紀の天皇諡号、『日本書紀』に示された空位の分析・検討などの実証的な研究をもとに、古代日本は、血縁関係のない三王朝によって支配されたとする「三王朝交替説」を唱えた。そして、この三王朝を合わせて「大和朝廷」の称号を排して「日本古代王朝」と称した。三王朝とは、崇神天皇を祖とする崇神王朝(古王朝、呪教王朝)、仁徳天皇を祖とする仁徳王朝(中王朝、征服王朝)、継体天皇を祖とする新王朝(統一王朝)の各王朝である。水野説は、井上光貞によって「ネオ騎馬民族説」と命名されたが、それは、水野が騎馬の習俗を有する種族の日本列島侵入を江上が唱える4世紀初頭よりも2ないし3世紀以上古くさかのぼらせて考えるならば、その列島への渡来はある程度認めてもよいとしたからであった。のちに水野は紀元前2世紀以前ならばツングース系の種族が人種移動し、一時的ではなく、間歇的に少しずつ日本列島に土着し、原住民と混血を重ね同化したという考え方は認めてよいと言い換えている。

水野自身は、終始一貫して騎馬民族による日本列島の征服と国家の建設とを結びつける学説には賛同できないと主張しており、それゆえ、井上光貞は水野説を江上の騎馬民族征服王朝説に代わりうる学説という意味もこめて「ネオ騎馬民族説」と呼称したのであった。三王朝交替説において、水野は仁徳王朝(中王朝)を九州より大和へ移動し、さらに大和を根拠地として次代以降も継続して東方を経略を目指したとみる立場から、呪教王朝たる古王朝、統一王朝たる新王朝との対比から中王朝を「征服王朝」と性格づけたのであって、そこにおける「征服」とはあくまでも日本列島内のことであり、ここでは騎馬民族・騎馬文化はまったく考慮されていない。水野自身は、騎馬の習俗は戦闘において戦車を馬に曳かせる技術よりも後に発達したものであって、「騎馬民族」とは戦闘においてつねに集団的な騎馬戦法を主体とする種族であるとし、日本においては記紀においても、後世にあってもそのようなことがなかったとして江上説を批判している。

今日において、水野の三王朝交替説は、江上の騎馬民族征服王朝説とはあらゆる点で主張が異なるのみならず、多くの点で主張の対立がみられ、これを「ネオ騎馬民族説」と称するのは適切とはいえなくなってきている。

騎馬民族征服王朝説の現在[編集]

騎馬民族征服王朝説は、古墳時代中葉の変革を、新しく大陸から渡来した騎馬民族の征服によって説明しようとしたものであり、『魏志倭人伝』が第三十巻に配される『三国志』烏丸・鮮卑・東夷伝が記録する、4世紀から5世紀にかけての北方騎馬民族の満蒙から朝鮮半島にわたる農耕地帯への南下、農耕民との混血、既存の文化との混合による建国という、東北アジア世界における大きな民族移動の動きをふまえて構想された仮説だとされている。しかし、江上の唱える、夫余高句麗百済辰王 という南進ルートについては、いくつもの検討課題がのこされている。

まず、夫余については『史記』などの記載によれば、濊族の地の一部に夫余族が入ってきて、そこに残った濊族を支配するようになった可能性もあることから、征服王朝的性格が皆無とはいえないが、『魏志』によれば、「その民は土着し」「東夷の地域でもっとも平坦で、土地は五穀に適している」「性格は勇猛であるが謹み深く、他国へ侵略しない」とあって、農耕主体の定住民であり、侵略も好まず、また実際にその後に南下したという記録も存在しないという事実が挙げられる。また、夫余族が南下して高句麗を建国したという伝説も、近年の李成市の研究によれば、北夫余を奪取した高句麗が、新附の夫余族との融合と夫余の旧領を占有することの正当性と歴史的根拠を主張することをめざした政治的意図によるものであったことが明らかにされ、夫余と高句麗の種族的系譜関係はないものと結論づけられている。考古学的知見においても、高句麗の墓制が積石塚主体であるのに対して夫余の墓制は土壙墓であり、同族関係である可能性はきわめて低い。百済における夫余起源説もまた、後進の百済が高句麗との同源を主張することによって高句麗との対等を主張した政治的主張であり、事実とは考えられない。百済の場合は、3世紀から4世紀にかけて高句麗族の南下を想定する余地はあるものの、その場合でも「辰王」に結びつくことは、年代的にも考えられない。辰王もまた夫余とは無関係で、馬韓人であり、しかも韓族全体に君臨した政治的君主であった記録はなく、武田幸男の実証的な研究によれば、政治的・軍事的活動とは異なる諸国間の調整を担当する特殊権能を有する王であり、治所であった月支国も、朝鮮半島中部(京畿道南部または忠清南道北部)にあったと考えられる。この王を、日本列島に渡る基盤を形成していた君主とみなすことはできない。

したがって、江上の考古学説の一部である、朝鮮南部に日本の王朝の血筋を求める説に関しては、きわめて根拠が薄いものと結論づけられる。もとより、白村江の敗戦で倭国(日本)が朝鮮半島から完全に撤退するに及んで、「朝廷は日本古来の伝統的王朝たることを主張し、その意図をもって記紀の編纂がなされた」という江上の主張が無視できないものであることもまた確かではある。

日本列島における古墳時代中葉の諸変化は、急激な変化ではなく、きわめて漸進的なものである。これに対し、上田正昭(1973年)は水野の三王朝交替説を「応神・仁徳両天皇の代を新王朝とする見解は、ある意味では江上説を承認するもの」としており、古墳時代における前期・中期の間に変化があったとしている。ただし、江上の唱えた「倭韓連合王国」なるものは、称号に対する研究が充分に進んでいない時点での臆説にすぎず、研究の進んだ今日にあってはまったく問題にされていない。何より、5世紀代の南朝の一王朝であるが認めた称号は、あくまでも宋主体の称号であって、当時の北東アジア国際社会でどれほど客観的な価値を有するかは別問題である。河内政権で営まれた大規模な前方後円墳もまた、朝鮮半島起源ではなく大和盆地起源であることは明白である。

427年、高句麗では、長寿王の時代に国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)にあった都城を平壌城(現在は北朝鮮の首都)に遷し、朝鮮半島へ進出した。ただし、広開土王碑文にみられるように長寿王の父にあたる広開土王を顕彰する碑文や王墓は国内城につくられた。騎馬民族征服王朝説を否定する立場からは、5世紀以降、ヤマトの朝廷が大陸から新しい文物や文化を受容したのは、こうした高句麗の南下政策などといった国際情勢に対応するため、朝鮮半島に出兵し、朝鮮半島南部の鉄資源の確保を目指して、意識的、選択的になされた変化だととらえられる。

神話に関しては、むしろ、大林太良などは、日本の神話伝説をベトナムや朝鮮半島、ミャンマースリランカなどの神話と比較して、その独立性を指摘しており、また「国生み神話」などにみられるように、記紀では、神話や王権の舞台として島々(大八島)を念頭に置いており、大陸に起源を求めていないことはよく知られている。

近年盛んな遺伝子の研究からは、ユーラシア・ステップアルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体ハプログループC-M86が東日本ではゼロであるが、九州徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており、騎馬民族の小規模な流入があったことを支持する結果となっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^AERA』2009年12月28日号では、「ある専門家は『騎馬民族征服説というのは証拠のない仮説で、今日ではほとんど否定されている』と指摘した」と報じている。
  2. ^ しかし、『日本書紀』には、崇神天皇は初めて渡朝した韓の人間に対し、自分の名前を与えて「御真」を国名にせよと命じたとあり、文献上は整合しない。
  3. ^ 『新撰姓氏録』では清原氏橘氏源氏などの「皇別」335氏、藤原氏大中臣氏(以上「天神」)、尾張氏出雲氏隼人系(以上「天孫」)、安曇氏弓削氏(以上「地祇」)など「神別」404氏、帰化人系の「諸蕃」326氏に大別されている。「諸蕃」はさらに「漢」163氏、「百済」104氏、「高麗(高句麗)」41氏、「新羅」9氏、「任那」9氏、その他117氏に分類される。
  4. ^ 上智大学名誉教授の渡部昇一はかつて江上の講演で江上本人にこの矛盾を質問したが、「えっ、出て来ない? そうだったかな。困ったな」と狼狽してまともに答えられなかったという。
  5. ^ 「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。日本人にはモンゴルが好きな人が多くて、モンゴルに観光旅行に行っては、われわれの祖先はここから来たんですね、と言う。騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれはまったくの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、まったく耳をかそうとしない。だいたい、ふつうの人はそういうものだ。これは、神話としての歴史を必要とする、心理的な欲求があることを示している。歴史に、情緒的な満足を求めているのだ。だから、騎馬民族説が、根拠のないただの空想で、歴史的事実ではないとしても、それが史実ではない、と言うだけではだめなので、もっと『よい歴史』を提供しなければいけない、ということになる。」岡田 2001, p. 116
  6. ^三国史記』には新羅王家の始祖は前漢孝宣帝の五鳳元年の4月丙辰の日に即位したとあるなど、ヴェトナムや朝鮮半島では中国との関わりから、ミャンマーやスリランカの場合はインド文明のかかわりから自らの歴史の古さを由緒あるものに仕立てあげているが、日本では大陸の大文明との関わりを求めようとはせず、自らの宇宙論すなわち高天原に王権の基礎を求めていることに着目している。大林 1990 [要ページ番号]
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明石原人の書き込みで日本のルーツをかんがえる[編集]

み人類の祖先はサルが進化したものであると最初の主張したのはダーウィンという博物学者である。

現在は人類の研究もすすみアフリカで古代に人類の足跡が発見され

人骨の研究も進んでいるので、全容が解明されるかもしれません。

日本も石器時代とよばれるものもあり

まだ解明されていないものもありますが

かきこんでみる。

明石原人[編集]

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明石原人(あかし-げんじん、別名:明石人〈あかし-じん〉、西八木人骨(にしやぎ-じんこつ))は、かつて日本で発見された化石人骨を基に、日本列島に居住したと推測された古人類。

日本考古学史および人類学史において注目されるべきものであったが、現物は戦禍によって失われており、疑問の根本的解明は望めない。

呼称[編集]

明石原人は従来の呼称であるが、北京原人ジャワ原人などとは異なり、猿人原人旧人新人のうちどの進化段階に該当するか現時点では定かでない(新人説や旧人説[要検証ノート]がある)。ゆえに今日では「明石原人」ではなく「明石人」とする場合も多くなっている。

2つの呼称が並立するなか、発見時からの経緯に重点を置く観点により、現状を正確に反映してはいないものの当時から使われ続けている呼称である「明石原人」のほうを、本項目名に採用した。

発見と喪失、研究の経緯[編集]

人骨の発見[編集]

1931年昭和6年)4月18日、兵庫県明石市の西八木海岸において民間人・直良信夫が、古い人骨の一部(右寛骨〈う-かん-こつ〉:os coxae (right))を発見した。しかし、直良がアマチュア考古学者であったこともあり、専門家には相手にされないままであった。鑑定のため東京帝国大学(現・東京大学)の松村瞭のもとへ送られ、石膏模型を製作するなど予備的な研究はなされたが、最終的な結論が出されないまま返却され、人骨を旧石器時代のものとする直良の主張は学界では認められることはなかった。その後、直良は同地点で発見した動物化石や石器を元に旧石器文化の存在を主張し続けていたが、腰骨については言及しなかった。さらに、石膏模型を製作した松村の逝去もあって、学会でもこの腰骨は忘れられていった。

焼失[編集]

第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲によって化石の現物は焼失した。

この人骨の焼失については、妻に制止された直良が「骨が焼ける!骨が焼ける!」と叫ぶ目の前で自宅ごと炎上したというセンセーショナルなものや、「化石が……」とつぶやきながら呆然とする直良の面前で炎上したとするものが紹介されている。だが、直良の長女である直良三樹子によると、自宅周辺に焼夷弾がばらまかれたため、直良の「もうよせ!早く逃げろ!焼け死ぬぞ!」の一言で一家は慌てて避難するしかなく、家族も直良自身も化石人骨は失念していた。10日後になってようやく鎮火し、直良も化石人骨のことが気がかりになり、焼け跡を掘ってみたが、一緒に保管していた同地点採集の石器だけが残っており、化石はとうとう見つからなかったという。

石膏模型の再発見[編集]

唯一残った石膏模型も忘れられ、東大人類学教室の陳列戸棚に放置されていたが、1947年(昭和22年)11月6日に東大理学部人類学科教授の長谷部言人が写真を発見したことをきっかけに模型が再発見された。長谷部は石膏模型を計測、壮年男性の腰骨だが現代人に比べて類人猿に近い特徴を有すると指摘し、この人骨はシナントロプスピテカントロプスとほぼ同時期の原人のものであると主張、Niponanthropus akashiensis (ニポナントロプス・アカシエンシス)」の通称を与えた。さらに長谷部は、この人骨をパラステゴドンの化石と同じ地層から発見したという直良の証言から、この人骨はシナントロプスよりも古い人類のものであり、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した証左だと結論づけた。

しかし化石の現物は焼失しており、疑問を呈する研究者も多かったことから、同年10月20日から長谷部を調査団長とする西八木海岸の発掘調査が行なわれた。しかし、長谷部の「オブサーバーとしてなら参加を許す。」の一言に怒った直良が参加を拒否したため、調査団は化石発見地点から約80m西寄りの場所を調査してしまい、200万円(当時)もの予算を計上したにもかかわらず、人骨や石器はおろか、植物化石以外の動物化石すらも発見できなかった。

34年後の1982年(昭和57年)、コンピューターによる石膏模型の解析が東京大学の遠藤萬里国立科学博物館馬場悠男によって行われる。その結果、人類進化史の各段階の人骨と比較して「明石原人」は現代的であるとして、原人ではなく、縄文時代以降の新人であるという説を打ち出した。また、1985年(昭和60年)春には国立歴史民俗博物館春成秀爾が西八木海岸で発掘調査を行い、人骨が出土したとされる地層と同じ更新世中期の層から人工的加工痕の認められる木片を発見。この木片は広葉樹のハマグワと鑑定され、板状に裂けない広葉樹であることから人工品の可能性が考えられた。なおこの地層年代は最終間氷期後半(約8万年前)~最終氷期前半(約6万年前)と考えられている。

1997年(平成9年)には明石市教育委員会が近隣の藤江川添遺跡で発掘調査を行い、中期旧石器時代のものとみられるメノウ製の握斧を発見。しかし、直良が発見した人骨がどの段階のものであったのかは、今もって解明されていない。

脚注[編集]

  1. ^ 現・明石市大久保町八木、西八木遺跡。JR神戸線大久保駅近隣。
  2. ^ 当時の直良の最終学歴は岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)工業科夜間部にすぎず、人類学や考古学に関する知識は独学で学んだものだった。なお、直良はその後1957年文学博士号を取得し、1960年には早稲田大学教授に就任している。
  3. ^ 直良信夫「播磨國西八木海岸洪積層中発見の人類遺品」 『人類学雑誌』第46巻第5-6号 東京人類学会 1931年
  4. ^ 岩本光雄・編著『人類の誕生』小学館の学習百科図鑑48 小学館 1986年 ISBN 978-4-09-217048-3
  5. ^ 加藤文三黒羽清隆吉村徳蔵:編、向中野義雄:漫画『大昔にせまる』大月書店版まんが日本の歴史1 大月書店 1987年 ISBN 9784272500413
  6. ^ 直良三樹子『見果てぬ夢「明石原人」 考古学者直良信夫の生涯』(時事通信社、1995年、ISBN 978-4-7887-0674-3 / 角川文庫ソフィア、角川書店、1999年、ISBN 978-4-04-346901-7) pp.166 - 169
  7. ^ 長谷部言人「明石市附近西八木最新世前期堆積出土人骨腰骨(石膏型)の原始性に就いて」 『人類学雑誌』第60巻第1号 日本人類学会 1948年
  8. ^ 長谷部言人「人類の進化と日本人の顯類」 日本民族協会・編『民族学研究』第13巻第3号 彰考書院 1949年
  9. ^ 松藤和人著 『日本列島人類史の起源 -「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-』 雄山閣 2014年 p.

日本列島[編集]

日本列島の簡単な詳細[編集]

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日本列島(狭義)の地形図 ユーラシア大陸東の沿岸沖に位置し、4つの比較的大きな島と、その周辺の3700程の島々で構成されている。日本海、オホーツク海、太平洋、東シナ海に囲まれている。 【参考】 日本列島 周辺の島々極東・沿海部の島々) 衛星画像 左から(北から)順に主なもの

コマンドルスキー諸島千島列島日本列島南西諸島台湾フィリピン諸島ボルネオ島スラウェシ島Photo by NASA's Blue Marble project (*) 左端はカムチャツカ半島

日本列島(にほんれっとう、にっぽんれっとう、: Japanese archipelago)は、ユーラシア大陸東端の沿岸沖、東アジアに位置、また太平洋北西の沿海部に位置する弧状列島の一つである。範囲にはいくつかの説があるが、いずれもほぼ全域が日本の領土となっている。日本列島は列島の名前であり、国家や領土とは独立した概念であるが、日本においては日本の領土を意味する語としても混同して使用されている。日本の領土としての日本列島については日本の地理を参照。

列島は広いところで300km程度の幅があり、長さは3500km程ある。陸地面積の75%に及ぶ範囲が山地、山麓で、平地に乏しい。大部分は温暖湿潤気候に属し、梅雨台風、また季節風の影響による豪雪の影響などにより侵食が激しい。

周囲は日本海オホーツク海太平洋フィリピン海に囲まれている。列島の太平洋側には千島・カムチャツカ海溝日本海溝伊豆・小笠原海溝南海トラフなどの深い海溝があり、全体が地殻変動、造山活動が盛んな活動地域となっている。また、地球上に確認されている火山の10%程度が日本列島内にあると言われている。

地質学的には、ユーラシアプレートの東端および北アメリカプレートの南西端に位置する。これら2つの大陸プレートの下に太平洋プレートフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込む運動によって、大陸から切り離された弧状列島になったと考えられている。

始新世(5,600万年前 - 3,400万年前)頃からその原型が形成され、中新世(2,300万年前 - 530万年前)に日本海が形成されてユーラシア大陸と分離した。


人類[編集]

4000万年前まで日本海が存在せず、日本列島は大陸の一部であった。約7万年前に、北方からはマンモスヘラジカトナカイヒグマナキウサギキタキツネなど、南方からはナウマンゾウオオツノシカカモシカニホンジカツキノワグマニホンザルなどが移り住んでいた。動物たちと同じく、それらを追って大陸の旧石器時代人も大陸から移り住んできたと推定される。その後、日本列島が大陸より切り離されることにより、それら動物や人類も独自の進化を遂げることになる。

斧形石器による推定[編集]

1973年昭和48年)、東京都府中市武蔵台武蔵台遺跡千葉県三里塚55地点遺跡で刃部を研磨した磨製の斧形石器が発掘された。出土層準は約40,000 - 30,000年前の立川ローム第X層中であり、分布は列島全域に亘る。これら刃部磨製石斧は現時点で世界最古の磨製例であるが、3 - 4万年前に集中し、その後は草創期まで出現しない。しかしこれら磨製石器の出土によって、日本列島の旧石器時代の人類の生息が示される。

化石人骨による推定[編集]

火山灰に覆われた日本は、酸性土壌のため、化石が残りにくく、化石人骨の発見も少ない。

かつては愛知県豊橋市で発見された「牛川人」が最も古い(約20万年前の旧人)とされていたが、2001年平成13年)の再鑑定によって、人骨である可能性がほぼ否定されている(ナウマンゾウなどの獣骨と見られている)。

今世紀初頭にこれまで化石人骨とされてきた標本の再鑑定が実施された後では、本州で発見された最古の人骨は、静岡県浜松市で発掘された浜北人(約1万4,000年前)である。

比較的良好な保存状態で発見された沖縄県八重瀬町港川採石場で発見された港川人は、1万8,000年前の新人である。後期更新世か後期旧石器時代に当たる。眼窩上や眉間の隆起が発達したやや原始的で頑丈な頭と顔、小柄な体格、華奢な上半身比較的頑丈な下半身の特徴を持ち、縄文人に繋がる特徴を備えているという。

なお、日本人のルーツに当たる縄文人は北方系とされ、北方ユーラシア大陸から渡ってきたと言われている。

遺伝子による推定[編集]

日本人に約35%の頻度で見られるY染色体ハプログループD1a2系統は日本列島に初めて到達した現生人類のタイプと考えられており、3.7-3.8万年前に日本列島で誕生したとされる。


日本人のルーツのルーツはこれからの研究課題でもあります。明石原人は、筆者もしりませんでしたが参考にさせていただきます。


範囲[編集]

極東東アジア太平洋北西部の地形図。図の中央が日本列島。

日本列島の範囲は地形を基準にするのか文化圏を基準にするのかで解釈が変わる[要出典]。おおむね、狭義と広義の2つの捉え方・見解がある。

狭義の日本列島の範囲は、北海道(ほっかいどう)、本州(ほんしゅう)、四国(しこく)、九州(きゅうしゅう)の4島とそれらに付随する島々である。

広義の日本列島の範囲は、北海道、本州、四国、九州の4島とそれらに付随する島々、千島列島南西諸島である。

地体構造的には、千島列島・南西諸島を除き北海道、本州、四国、九州からなる列島であり、アリューシャン列島を含めたアジア大陸東縁に垂下する花綵(かさい)列島の一部にあたる。

樺太島台湾島を加え、さらに南西諸島、伊豆諸島小笠原諸島、千島列島を加えて表現することもある。


日本列島の大まかな説明をここにのせることにしました。

人々は最初から単独で生活していたわけではなく、集団生活で生活していました。

こんにちでもその痕跡がうかがえます。

地質学から見る歴史[編集]

地質学的視点で日本列島というものがどのように形成されてきたのか解説する。 かつて日本付近はユーラシア大陸の端で、古生代には大陸から運ばれてきた堆積していた(現在の北陸北部、岐阜県飛騨地方、山陰北部など)。そこへ、はるか沖合で海洋プレートの上に堆積した珊瑚放散虫などからなる岩石石灰岩チャート)が移動してきて、それが海溝で潜り込むときに、陸からの堆積物と混合しながらアジア大陸のプレートに押しつけられて加わった(付加)。この付加が断続的に現在まで続いたため、日本列島は日本海側が古く太平洋側に行くほど新しい岩盤でできている(現在の日本列島は、主に付加体と呼ばれる海洋でできた堆積物からなっている)。

このようなメカニズムで大陸側プレートに海洋プレートが潜り込む中で、主にジュラ紀 - 白亜紀に付加した岩盤を骨格に、元からあった4 - 5億年前のアジア大陸縁辺の岩盤(イザナギプレートなど)と、運ばれてきた古いプレートの破片などを巻き込みながら、日本列島の原型が形作られた。この時点では日本はまだ列島ではなく、現在の南米のアンデス山脈のような状況だったと考えられる。

その後、中新世になると今度は日本列島が大陸から引き裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。2100万 - 1100万年前にはさらに断裂は大きくなり、西南日本長崎県対馬南西部付近を中心に時計回りに40 - 50度回転し、同時に東北日本は北海道知床半島沖付近を中心に、こちらは反時計回りに40 - 50度回転したとされる。これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以西は東西に延びる形になった。いわゆる「観音開きモデル説」である。そして、およそ1500万年前には日本海となる大きな窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大きさまで拡大した。

1600万年前から1100万年前までは、西南日本(今の中部地方以西)のかなり広い範囲は陸地であった。東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島海の状況であった。その後東北日本は、太平洋プレートなどによる東西からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・出羽丘陵が形成されるにいたった。

北海道はもともと東北日本の続き(今の西北海道)と樺太から続く南北性の地塊(中央北海道)および千島弧(東北海道)という三つの地塊が接合して形成されたものである。 南西諸島は日本島弧の中でも最も新しく成立した島弧で、600万年前以前は大陸の一部であったが、大陸の縁で開裂が起こり完全に大陸から切り離され、サンゴ礁を持った島弧となったのは150万年前以降である。

西南日本と東北日本の間は浅い海であったが、この時代以降の堆積物火山噴出物で次第に満たされながら、東北日本が東から圧縮されることで隆起し中央高地日本アルプスとなった。西南日本と東北日本の間の新しい地層をフォッサマグナといい、西縁は糸魚川静岡構造線、東縁は新発田小出構造線柏崎千葉構造線で、この構造線の両側では全く異なる時代の地層が接している。

こうして、不完全ながらも今日の弧状列島の形として現れたのは、第三紀鮮新世の初め頃であった。その後も、特に氷期の時などには海水準が低下するなどして、大陸と陸続きになることがしばしばあった。 例えば、間宮海峡は浅いため、外満州・樺太・北海道はしばしば陸橋で連絡があった。津軽・対馬両海峡は130 - 140メートルと深いため、陸橋になった時期は限られていた。また、南西諸島ではトカラ海峡(鹿児島以南)、ケラマ海峡(沖縄島以南)のともに1000メートルを超す水深であり、第四紀後半に陸橋になった可能性はまず考えられない。南西諸島の生物相が固有種が多く、種の数が少ないなどの離島の特徴を示すことは、大陸から離れた時代がきわめて古いためと考えられている。陸橋問題では、津軽海峡は鮮新世末まで開いており、対馬海峡は日本海塊開裂時代には開いていたが、その後の中新世末から鮮新世には閉じたと考えられている。

最後の氷期が終わり、マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没したのは、更新世の終末から完新世の初頭、すなわち約1万3,000年から1万2,000年前である。 現在の日本列島の地形と海底地形図 現在の日本列島は、地形的には、

  • 樺太、北海道、本州、四国とその周辺島からなる日本列島主弧
  • 九州、南西諸島などからなる九州・琉球弧
  • 北海道東部(千島弧の一部)
  • 伊豆半島(伊豆・小笠原・マリアナ弧の一部)

などからなる。

いずれも、島孤の東側あるいは南側は狭い大陸棚があってその沖は沈み込み帯海溝トラフ)であり、海溝型地震が頻繁に発生する。この沈み込み帯に対して全体的には平行に山脈や火山帯が連なっている。その山脈の間や海沿いに細長く盆地や平野が点在している。日本最大の平野である関東平野は例外的に広く、その形成理由は詳しくは解明されていないが、基盤岩の深度が深いフォッサマグナに位置する事や、3枚のプレートが重なっている事などが挙げられる。全般的に地震の発生が多く、起伏の激しい地形が多い。

気候[編集]

およそ200万年前に始まる更新世は氷河時代とも呼ばれ、現在よりも寒冷な時期(氷期)と温暖な時期(間氷期)とが交互に繰り返し訪れた。厳しい気候変化の時代でもあった。それに伴う地形の変化や火山の爆発などで起こる地殻の変動も激しかった。氷期の最盛期には、気温年平均で摂氏7から8度も低下した。その影響で、南北両極に氷河が発達したのは当然ながら、北半球の高山や広い範囲に氷河が発達し、海水が少なくなって海水面が低下した。その低下量は、現海水面から約140mも下がった。ところが、最終の氷期を越えると世界的に気候は温暖化の時期を迎え、厚く堆積していた氷河が溶け始め、海水面は次第に上昇してきた。

  • 地質年代区分の説明
    • 第三紀は、約6,500万年前から約170万年前の間であり、さらに暁新世、始新世、漸新世、中新世、鮮新世と区分される。鮮新世は、510万年前から170万年前までを指す。
    • 第四紀は、170万年前から現在までであり、更新世・完新世とに分けられ、人類の時代又は人類紀とも呼ばれる。更新世は氷期として知られ、完新世は後氷期として知られている。日本では更新世を洪積世、完新世を沖積世と呼ぶこともある。

完新世では、温帯温潤モンスーン気候に属するが、南部では亜熱帯気候、北部では冷温帯気候の影響下にある。

人類[編集]

4000万年前まで日本海が存在せず、日本列島は大陸の一部であった。約7万年前に、北方からはマンモスヘラジカトナカイヒグマナキウサギキタキツネなど、南方からはナウマンゾウオオツノシカカモシカニホンジカツキノワグマニホンザルなどが移り住んでいた。動物たちと同じく、それらを追って大陸の旧石器時代人も大陸から移り住んできたと推定される。その後、日本列島が大陸より切り離されることにより、それら動物や人類も独自の進化を遂げることになる。

斧形石器による推定[編集]

1973年昭和48年)、東京都府中市武蔵台武蔵台遺跡千葉県三里塚55地点遺跡で刃部を研磨した磨製の斧形石器が発掘された。出土層準は約40,000 - 30,000年前の立川ローム第X層中であり、分布は列島全域に亘る。これら刃部磨製石斧は現時点で世界最古の磨製例であるが、3 - 4万年前に集中し、その後は草創期まで出現しない。しかしこれら磨製石器の出土によって、日本列島の旧石器時代の人類の生息が示される。

化石人骨による推定[編集]

火山灰に覆われた日本は、酸性土壌のため、化石が残りにくく、化石人骨の発見も少ない。

かつては愛知県豊橋市で発見された「牛川人」が最も古い(約20万年前の旧人)とされていたが、2001年平成13年)の再鑑定によって、人骨である可能性がほぼ否定されている(ナウマンゾウなどの獣骨と見られている)。

今世紀初頭にこれまで化石人骨とされてきた標本の再鑑定が実施された後では、本州で発見された最古の人骨は、静岡県浜松市で発掘された浜北人(約1万4,000年前)である。

比較的良好な保存状態で発見された沖縄県八重瀬町港川採石場で発見された港川人は、1万8,000年前の新人である。後期更新世か後期旧石器時代に当たる。眼窩上や眉間の隆起が発達したやや原始的で頑丈な頭と顔、小柄な体格、華奢な上半身比較的頑丈な下半身の特徴を持ち、縄文人に繋がる特徴を備えているという。

なお、日本人のルーツに当たる縄文人は北方系とされ、北方ユーラシア大陸から渡ってきたと言われている。

遺伝子による推定[編集]

日本人に約35%の頻度で見られるY染色体ハプログループD1a2系統は日本列島に初めて到達した現生人類のタイプと考えられており、3.7-3.8万年前に日本列島で誕生したとされる。

動物・植物[編集]

日本列島とその近海は、多数の固有種が存在する世界有数の生物多様性を持つ地域として知られている。特に日本近海は、海洋生物における世界最大の生物多様性を持つ海であり、全海洋生物種数の14.6%が分布している。しかし日本の高い人口密度と発達した産業のために絶滅危惧種となった生物も多く、世界規模で非常に高い生物多様性を持ちながら人類による破壊の危機に瀕している34か所ある地域(ホットスポット)の一つに挙げられている。

年表[編集]

日本列島の年表
地質時代 年代 日本の化石 備考
先カンブリア時代 46億年前 未発見 日本最古の岩石(岐阜県七宗町上麻生礫岩、約20億年前)
古生代 カンブリア紀 5億7500万年前 化石
オルドビス紀 5億900万年前 化石
シルル紀 4億4600万年前 クサリサンゴ三葉虫
デボン紀 4億1600万年前 化石
石炭紀 3億6700万年前 サンゴ
ペルム紀 2億8900万年前 化石
中生代 三畳紀 2億4700万年前 化石
ジュラ紀 2億1200万年前 魚竜
白亜紀 1億4300万年前 首長竜フタバスズキリュウ

アンモナイト

手取層群(獣脚類・竜脚類・鳥脚類の恐竜、鳥類の足跡)、日本海まだ存在せず
新生代 第三紀 暁新世 6500万年前 化石 K-Pg境界大量絶滅、北海道本別)
始新世 5500万年前 化石
漸新世 3370万年前 化石 炭田の形成
中新世 2300万年前 化石 四国海盆の形成、日本海拡大開始、千島海盆拡大
2000 - 1000万年前 東北日本日本海側の火山活動(グリーンタフ変動)、日本海が開き、日本列島の原型できる
1000万年前 オホーツク地塊衝突による日高山脈の形成
鮮新世 500万年前 化石 日本海の拡大
第四紀 更新世 180万年前 ナウマンゾウ 日本海側の褶曲帯の形成
50万年前 伊豆半島の衝突による丹沢山地の形成
完新世 1万年前 化石 大部分の平野の形成、約7300年前鬼界カルデラで鬼界アカホヤ噴火

環濠集落(かんごうしゅうらく)[編集]

人々が集団で生活し、住居を定住させて狩りで生計を立てた集落を環濠集落といいます。

もっとも有名なのが静岡県の登呂遺跡なのですが・・・・・。

ここでもうすこしウィキの記事をみてみましょう。


環濠集落(かんごうしゅうらく、英語: moated settlements, ditched settlements, ditch-enclosed settlements)とは、周囲にをめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。

水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。

ルーツ[編集]

「環濠」と「環壕」のルーツはそれぞれ、長江中流域と南モンゴル興隆窪文化)であると考えられており、日本列島では、弥生時代中世にかけて各地で作られた。

長江中流域では、今から約8000年前の環濠集落が、湖南省リーヤン平原にある彭頭山遺跡で発見されている。この環濠集落の直径が約200メートルで、西側が自然河川に繋がっており、北側と東側、南側には、幅約20メートルの濠が巡っているらしい。充分な発掘調査はまだであるが、水田稲作農耕の遺跡である。

内蒙古自治区赤峰市にある興隆窪遺跡から、約8200~7400年前の環濠集落が見つかっている。この集落は、長軸183メートル、短軸166メートルの平面形が楕円形に巡る溝によって囲まれている。溝の幅は約1.5~2メートルあり、深さは約1メートルほどである。環濠の内側から約100棟の竪穴式住居が発見されている。この集落の生業はアワなどを栽培する畑作農業である

日本[編集]

奈良県大和郡山市稗田町に現存する環濠集落。国土交通省『国土画像情報(カラー空中写真)』より作成。

特色[編集]

環濠集落には、防御と拠点という特色がみられる。断面が深くV字形に掘削された環濠やその周辺に逆茂木と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいる様子から集落の防御的性格があったことが窺える。また、大規模な集落については、長期間継続し、人口も集住し、周辺に小集落が存在し、首長の居宅や祭祀用の大型掘っ立て柱建物があり、金属器生産が行われ、遠隔地との交流物品が出土することなどから、政治的・経済的集落であり、拠点的集落という性格を有すると考えられる。

倭国における王権形成期とされる弥生時代中期には防御的性格を強め、高地性集落とともに、王権形成過程の軍事的動向を反映していると考えられている。王権形成が進み古墳時代に入ると、首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は次第に解体される。

縄文時代[編集]

環濠集落は朝鮮半島南部でも見られ、北九州では縄文時代晩期(前4世紀)の環濠集落がある。縄文人のムラは環濠を形成しない傾向にある。しかし、今から約4000年前(中期末~後期初)、北海道苫小牧市にある静川(しずかわ)16遺跡から幅1~2メートル、深さが2メートルほどあり、断面形がV字状になった溝が、長軸約56メートル、短軸約40メートルの不正楕円形にめぐる環濠集落が発見されている。環濠の内側から2棟、外側からは15棟の円形竪穴住居が見いだされている。それは、弥生の環濠集落とは性格を異にするものであろう。例えば、縄文人の祭祀の空間だったのかも知れない。 縄文時代の環濠集落は、現在のところこの遺跡のみである。 環濠ではないが、秋田県上新城に晩期末の二重の柵、茨城県小場に中・後期の住まいと墓地を隔てる真っ直ぐな、埼玉県の後期末~晩期初の宮合貝塚などがある。これらは、祭の場、墓地などを囲み、日常の位の場とを分離していたものである。

弥生時代[編集]

環濠集落は稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。しかし、2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で消滅していく。この時期に、西日本から東海関東にかけて政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられている。

この時代の環濠集落は、沖積地の微高地に立地する低地型と台地・丘陵などの高所に立地する高地型がある。低地型は水濠で、高地型は空壕で囲まれている。

今のところ、弥生時代でもっとも古い環濠集落は、北部九州の玄界灘沿岸部に位置する福岡県粕屋町江辻遺跡で弥生時代早期のものが見つかっている。

近畿では早期の環濠集落はないが、前期前半では神戸市大開遺跡がある。長径70メートル、短径40メートルで、環濠内からは竪穴住居と貯蔵穴が検出されている。環濠の断面はV字形と逆台形で、溝の幅2メートル、深さ1.5メートルあったと推定されている。出土した石器のうち打製石器が大きな割合を占めている。

愛知県朝日遺跡は、弥生時代中期の集落であり、環濠集落のなかでも最も防御施設の発達した集落として知られている。集落の外側に大濠をめぐらせて、その土で内側に土塁を築いたと考えられている。さらに外側には逆茂木を伴う2重の柵と乱杭をめぐらしている。 弥生時代前期末以降に発達する環濠集落は、濃尾平野以西の各地域に水稲農耕が定着した段階であり、その定着によって引き起こされた土地や水争いなどの村落間の戦いに備えて独自に成立したと見られる。

そのころ、福岡市板付遺跡大阪府高槻市安満(あま)遺跡京都府京丹後市扇谷遺跡などに環濠集落が現れる。 板付では復元幅2メートル以上、深さ1メール以上の断面V字形の溝を、長径120メートル、短径100メートルの長円形に堀めぐらしている。濠外にも住居や穴倉がある。扇谷遺跡では、最大幅6メートル、深さ4メートルの環濠か、長径270メートル、短径250メートルでムラを囲っている。これらの遺跡からムラを防御していることが考えられる。

また、北部九州近畿地方などの西日本では、水稲農耕の定着した時期の弥生時代前期末段階で、ムラづくりが共通していたとも考えられる。次の弥生中期以降、近畿では環濠集落が普及し、径300から400メートルに及ぶ大規模な環濠を持ち、人々は濠内に集住したらしい。

後期では北部北九州では佐賀県吉野ヶ里遺跡や大阪府の安満遺跡や池上・曽根遺跡奈良県唐古・鍵遺跡などの大規模環濠集落が挙げられる。

低地に作られ、通常は堀の外側に掘った土を盛った土塁がある(対照的に、中世の土塁は堀の内側にある)。ムラの内部と外部を区別する環濠を形成する目的として、外敵や獣などから集落を守る防御機能を備えることが考えられている。堀は二重・三重の多重環濠となることもあり、長大な環濠帯を形成しているものもある。水稲農耕に必要な首長権力や、共同体の結束強化、内部と外部での階級差を反映しているとも考えられている。また、水堀の場合には排水の機能をもたせることができる。

中世[編集]

室町時代の後半の戦国時代では戦乱が多発し、農村では集落を守るために周囲に堀(環濠)を巡らして襲撃に備えるところが現れ、中世の環濠集落として現在も各地に点在している。有力な仏教寺院が中心に存在し、規模が大きくなる場合は「寺内町」となる。今も一部に環濠が残る今井町などが挙げられる。現存集落の一つである稗田環濠集落(奈良県大和郡山市)は、賣太神社を中心とする集落である。浜野卓也・箕田源次郎の著作『堀のある村』(1973年6月、岩崎書店・少年少女歴史小説シリーズ)は、賣太神社の古記録をもとにしている。

古代遺跡[編集]

現在でも当時以来の姿を残した環濠集落が、わずかながら存在する。吉野ヶ里遺跡の遺構からは、大規模な環濠集落の全貌が明らかにされた。また、最近では伊邪那美神陵伝説地の一つである安来市伯太町からも経塚鼻遺跡が発掘され話題を呼んでいる。

早期[編集]

  • 江辻(えつじ)遺跡(福岡県粕屋町)弥生時代早期後半、幅約1メートルほどの浅い溝が周囲を二重に巡っている。この集落は、朝鮮半島南部の影響を強く受けて、成立したものか。
  • 那珂(なか)遺跡(福岡県)正円に近い二重の環濠、外径150メートル。

前期[編集]

北部九州から瀬戸内海沿岸地域、大阪湾沿岸へと東進波及する。規模は、径70~150メートル、卵形、小規模で大環濠に肥大しない。

中期以降[編集]

現存する集落[編集]

久宝寺寺内町の環濠。大都会大阪府八尾市の中心地にあり、環濠集落としての原型はほとんど残っていない 稗田環濠集落 稗田環濠集落 稗田環濠集落 稗田環濠集落 特に若槻環濠集落(奈良県大和郡山市)と稗田環濠集落(奈良県大和郡山市)が歴史学的に重要な史跡として有名であり、また郡山駅からほど近い上に稗田環濠集落内の賣太神社の前に駐車場があるという点で、観光名所としても有名である。

奈良県に多いように見えるが、これは単に奈良県が環濠集落を観光スポットとしてアピールしているからで、もちろん全国に現存する。奈良県の環濠集落は案内板を設置するなど観光スポットとして分かりやすく整備されているが、全国の現存する多くの環濠集落は観光名所として整備されておらず、単に水路で囲まれていて車が通れないほど道が狭い上に駐車場もない民家の集まりである。また、都市化に伴って埋められた環濠も多く、大都会の中にあるコンクリートで固められた無名の水路が実は古代の環濠集落の名残と言う例は多い。

など。

脚注[編集]

  1. ^ 佐原真「日本・世界の戦争の起源」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年
  2. ^ 環濠集落、そのルーツをたどる(コラム)|記紀・万葉でたどる奈良 奈良県

関連項目[編集]

大和朝廷の成立[編集]

概説

大和政権は一日にしてならず・・・・かのローマ帝国も何十年、何にとぼしky百年もかけて一つの国にまとまったのです。

資料にとぼしく編集作業はむずかしいですが

時代の雰囲気をつかむことはとてもよいことだと

筆者は考えます。

ヤマト王権[編集]

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。今の大阪平野奈良盆地など大和地方の倭大国魂神の国、または邪馬台国九州説もある八島八幡神の国がまわりの国を従えた。

旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。

本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。


名称について[編集]

1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。

しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定年輪年代測定の方法が使用され、一般にその精度が向上されたと評価されたために古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和時代」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となっている。しかし、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する。

古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」と記述されるようになる。

しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。

2020年現在、メディアでは「政権」や「王権」の表記もあるが、「朝廷」も使用されており統一されていない。


「大和」をめぐって[編集]

大和」および「」も参照

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。

「大和(ヤマト)」はまた、

  1. 国号「日本)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
  2. 令制国としての「大和」(上述)
  3. 奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡十市郡倭国造

の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。

白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば、1.~3.に加えて、4.大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。

いっぽう関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。 一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。

武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の「飛鳥」や「斑鳩」といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を「大和朝廷」発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。

「朝廷」をめぐって[編集]

朝廷」も参照

朝廷」の語については、天子朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。

「国家」「政権」「王権」「朝廷」[編集]

国家」、「政権」、および「王権」も参照

関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している

邪馬台国[編集]

邪馬台国の記事は中国の書物≪魏志倭人伝≫からその存在はあきらかになったのですが

問題なのは、その場所がはっきり特定できず。

長らく学者の間で議論がつづいていました。

邪馬台国[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動

邪馬台国(やまたいこく/やまとのくに)は、2世紀3世紀日本列島に存在したとされる(くに)のひとつ。邪馬台国は女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから「やまたいこく」の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については21世紀に入っても議論が続いている。

概要[編集]

中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとされている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため。誤写ではないか、とする異論がある)。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。

女王は魏に使節を派遣し親魏倭王封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期から間もなく248年頃に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は266年に晋の武帝に遣使、朝貢している。なお壱与の治世時期は、近畿ヤマト王権では崇神天皇治世時期に重なるとする説もある。

なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。


「魏志倭人伝」中の“邪馬台国”[編集]

魏志倭人伝の原文の抜粋。 以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。

道程[編集]

魏志倭人伝には、の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里

(中略)

計其道里 當在會稽東冶之東

対海国一大国末廬国伊都国奴国不彌国投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。

その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。なお、天照大神の神話の系図によれば、薩摩等の隼人の部族もまた天照の子孫であり、天照と卑弥呼は置かれていた状況にも類似点が伺える。


倭地、女王国の地理[編集]

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種

又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里

又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国があることは、九州説を前提とすれば近畿を、畿内説を前提とすれば東海地方や琵琶湖の対岸が想起される。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があるがこの地は女王国からは4,000里である、などと説明されている。それとは別にまた船行一年にて行ける所として裸国と黒歯国があった。倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」とある。この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、倭国領域内での行程を机上で算出したものにすぎないという説と、後述する短里説によれば一周400km弱となるから九州のことだという説、及びその他の諸説がある。

新井白石[編集]

新井白石は学者であり、政治家でもあります。

魏志倭人伝を最初に紹介したのは、このひとだとつたえられています。

もちろん、朱子学者でもありましたので、今日の邪馬台国の呼び名とちがっていますが

この人物は非常に重要なのでここにのせました。


新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本政治家朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。

学問は朱子学歴史学地理学言語学文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石で、君美(きみよし、きんみ)


邪馬台国畿内説[編集]

詳細は「邪馬台国畿内説」を参照

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。

出典検索?: "邪馬台国" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年1月)

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説がある。

  1. 箸墓古墳の付近から出土した土器の考古学的年代決定論で、その始期や変革期が三世紀であるというデータがあること。
  2. 吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が大和を中心に分布するようになりが古墳期の時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
  3. 南関東など広い地域からの土器が出土していること。
  4. 卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内に分布していること。
  5. 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚の年号はすべて3世紀で、うち12枚は235年-244年の間に収まって銘されたものが畿内を中心に分布していること。
  6. 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある。

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 帯方郡から狗邪韓国までの行程で既に7000余里あり、南を東に読み替えても残り5000里ではおさまらない。
  2. 箸墓古墳を卑弥呼の冢とする説があるが、そもそも卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い(箸墓古墳の築造は6年)。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。加えて服属先である魏朝自体が薄葬令で墳墓を縮小しており、朝鮮諸国の王墓や帯方郡の郡守墓も30メートル前後の方墳であるため、邪馬台国だけが飛び抜けて巨大な前方後円墳を築造したとは考えられない。
  3. 三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面(確認されただけで500面以上)を遥かに上回っている。度々下賜されたとする説もあるが、そのような記事は存在しないし、未だに大陸から一面の鏡も鋳型の出土もない。また古墳での埋葬例を見ると、扱いが非常に粗雑であることが指摘されている。
  4. 例え古墳時代の開始時期が3世紀に繰り上げられたとしても、そもそも北九州と畿内でそれぞれ別の勢力が並立していたとすれば、邪馬台国畿内説の論拠にはならない。つまり弥生式墳丘墓の邪馬台国と古墳の原始大和国があったとしても何ら不思議ではない。
  5. 奈良県立橿原考古学研究所が、箸墓古墳とほぼ同時期または先行して築造されたホケノ山古墳の年代について、発掘調査で出土した木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告し、疑問とされること(ただし同研究所としては、遺物の検討から3世紀中頃の築造と結論づけている)。
  6. 上記畿内説の根拠に述べられた2は1の前提条件に基づくもので、それだけでは根拠にはならない。
  7. 倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は畿内に存在せず北九州からのみ出土する。鉄に関しては淡路島五斗長垣内遺跡舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認されたのみである。
  8. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が温暖な南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されている。
  9. 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの阿岐国(安芸国)、吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が全く欠けている。
  10. 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。
  11. 「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。

邪馬台国畿内説[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動 本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、畿内地方にあるとする邪馬台国畿内説(やまたいこくきないせつ)を概説する。

目次[編集]

概要[編集]

詳細は「邪馬台国」を参照

新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いた。しかしのちに[要出典]「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内」(内藤湖南ら)と「九州」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。

久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。

1960年代には、畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物があまり出土しないのに比べ、九州では豊富であると考えられていたが、1970年代から交差年代による考古学的年代決定論の研究が進み、畿内説を有力とする意見もある。2000年代に入り、奈良県纏向遺跡箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼に比定し大和朝廷の成立時期がさかのぼるとする、放射性炭素年代測定年輪年代学による年代観が国立研究所によって示された。畿内の土器放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代までさかのぼるとの説もある[要出典]にある。この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。

ただし、九州説・畿内説・東遷説はどれも結局のところ、「ヤマト王権」は「大和朝廷(天皇系統)」であるか否かをそれぞれが説明するために作った説で、場所の比定が先にあるのではなく、大和朝廷とは何か、現在の政治権力と大和朝廷の関係はこうあるべきだと説明するために邪馬台国論争は始まったのである。[要出典]

邪馬台国畿内説の基本論拠[編集]

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの複数の説が存在する。この中では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が有力とされている。 邪馬台国畿内説では、「畿内には最大級の都市遺跡がある。魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはず」という仮定に基づいている。

  • 纏向遺跡は当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
  • 年代調査の成果により、倭人伝の時代(卑弥呼247年頃(3世紀半ば)没)と遺跡の時代(始期は2世紀後半(180年)〜3世紀前半(210年)頃。最盛期は3世紀終わり頃〜4世紀初め)が概ね合致していると考える。
  • 吉備、阿讃(東四国瀬戸内側)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が卑弥呼の没年近くに作られはじめ(箸墓古墳)、大和を中心に分布し、時代が下るにつれて全国に広がっていったこと。
  • 3世紀後半には北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
  • 卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布していること。
  • 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち魏の年号を記した10枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、そのうちの5枚が畿内に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる勢力であったことを物語ると考える。
  • 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を神功皇后に結び付けているように読める。
  • 隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。
  • 近畿は南に無いが、現存する「魏志」はすべて宋時代の刊行本を元としているので、それ以前の写本の中に、南を東と記載したものがある可能性。

畿内が卑弥呼の没後である3世紀後半から国内最大規模の勢力として存在していたことは疑いようがない。

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

  • 魏に朝貢したからと言って、邪馬台国が日本列島最大勢力であったとは限らないこと。さらに纏向遺跡からは九州地方の遺物の出土も乏しく、大陸系の遺物は全くといってよいほど発見されていないこと。
  • 纏向遺跡の年代の問題から卑弥呼治世時の遺跡とする見解に対する批判があり、上記説に伴って邪馬台国と大和の二朝並立説や、王朝とまではいえなくとも邪馬台国とは別の地方勢力があったと考えられること。
  • 倭国の産物とされるもののうち、は主に北九州から出土する[要出典]が、畿内からは極わずかしか出土しない。ただし鉄に関しては淡路島五斗長垣内遺跡舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認された。
  • 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が海洋民ものである事。(奈良に海は無い)
  • 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。ただし畿内に定住した海神族などの事情もあり、上記説と合わせてこれだけでは否定する論拠にはならない。
  • 「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。
  • 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国奴国といった北部九州の国より南側にあること。また、記紀には元伊都国王や元奴国王が北部九州征伐に行った仲哀天皇に降伏して、玉や剣など先祖伝来の神器を仲哀天皇に差し出したとの記述があること。すなわち邪馬台連合構成国だったこれらのクニグニはこの時点(4世紀半ば)で初めてヤマト王権に服属した(若井敏明:邪馬台国の滅亡)。
  • 旧唐書』では邪馬台国と日本国を別国として扱っていること。

かつて、畿内説の重要な根拠とされていたが、今は重要視されていない[要出典]説は以下である。

  • 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説 - しかし、既に見つかったものだけでも400~500面以上になること、中国や朝鮮半島から1面も出土例がないこと、製造時期の長さから特鋳説には無理があること、中国社会科学院考古学研究所長王仲殊が「それらは漢鏡ではない」と発表するなど中国の学者が概ね日本鏡説を支持したことなどから、九州説の側から「三角縁神獣鏡は全て日本製」との反論を受けた。
  • 邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 - 大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。

纒向遺跡[編集][編集]

詳細は「纒向遺跡」を参照

箸墓古墳[編集][編集]

箸墓古墳 詳細は「箸墓古墳」を参照

脚注[編集]

  1. ^ 久米雅雄「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)。
  2. ^ 石野 博信『大和・纒向遺跡』、邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) 、田原本町教育委員会『唐古・鍵遺跡の考古学』
  3. ^ 伊藤和史. “毎日新聞連載「深読み日本史 邪馬台国」”. 邪馬台国の会. 2011年11月12日閲覧。
  4. ^
  5. ^ ただし、年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われないとの指摘もある。
  6. ^ 奈良県立橿原考古学研究所は280〜300年(±10〜20年)と推定
  7. ^ 畿内説、九州説を問わず、三角縁神獣鏡を日本で制作されたものとする説がある。
  8. ^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
  9. ^ 郡使は北部九州に所在する伊都国に常に「駐」したと倭人伝にあるので、北部九州の小国に関する記述ばかりが詳しいことは不思議ではない。また、小路田泰直は投馬国を出雲にあてている。

参考文献[編集]

  • 寺沢薫 「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」 奈良文化財研究所編 / 佐原真+ウェルナー・シュタインハウス監修『日本の考古学 下』学生社、2005年12月。ISBN 4-311-75035-8
  • 和田萃 『大系 日本の歴史2 古墳の時代』 小学館<小学館ライブラリー>、1992年8月。ISBN 4-09-4610

邪馬台国九州説[編集][編集]

詳細は「邪馬台国九州説」を参照

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説筑後平野説、福岡県の大宰府太宰府市)、大分県の宇佐神宮宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある現代では古田武彦などによる九州王朝説がある。

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

  1. 邪馬台国は伊都国の南にあると三回書かれている。
  2. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること。
  3. 邪馬台国は海中の島の上にあり、一周が五千餘里(短里でおおよそ300-500km)とあることから、九州に近い。
  4. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。
  5. 邪馬台国と対立した狗奴国を魏志・魏略共に女王国の南にあると書かれているので、熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古智卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。
    1. これについて畿内説でも「狗奴国」を熊本(球磨)の勢力、「狗古智卑狗」を菊池彦の音訳とする説はあるので、これ自体は格別に九州説の根拠にはならない。また後漢書では南ではなく東となっており、絶対的な根拠とはできない。
  6. 福岡県久留米市には、宝賀寿男など複数の研究者が『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、主体部の内容がよく一致するとする祇園山古墳がある。
  7. 『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる。

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸といった規模の集落は、当時の総人口から考えて大きすぎるとする説がある。
    1. ただし使者が戸数を直接調べたとは考えられず、倭人から伝聞もあると思われ、判別し難い面がある。
  2. 畿内の古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学等の知見から、現在の考古学では3世紀に繰り上げられていること。
    1. ただし年輪年代学については法隆寺の木材の件などがあり、また日本において追証試験がほとんどなされていないなど未だ問題が多い。
  3. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものであり、事実中国では三角縁神獣鏡は殆ど出土していない」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。基本的に九州説では3世紀の紀年鏡13枚の存在については明確な説明をしない。
  4. 九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。

飛鳥時代[編集]

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日本の歴史
法隆寺五重塔
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
 王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
 平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1337年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
 鎖国 1639年 – 1854年
 幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
 GHQ/SCAP占領下 1945年 – 1952年
平成時代 1989年 – 2019年
令和時代 2019年 –     
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飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間。飛鳥時代は古墳時代大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。


名称[編集]

現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史建築史で使われ始めた言葉である。20世紀初期(1900年前後の明治30年代)に美術学者関野貞岡倉天心によって提案された時代名である。関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。

概要[編集]

推古朝[編集]

聖徳太子(厩戸皇子)像。法隆寺聖霊院。

ウィキソースに飛鳥の法令に関するカテゴリがあります。

5世紀には氏姓制度に基づく部民制が普及していたところ、552年欽明天皇13年)、或いは538年宣化天皇3年)に、百済聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年用明天皇2年)、大王の仏教帰依について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。聖徳太子蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。 法隆寺金堂(西院伽藍) 587年(用明天皇2年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが(崇峻天皇)、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。こののち馬子は日本初の女帝となる推古天皇を立てた。593年(推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったという。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。

607年(推古天皇15年)、小野妹子らを遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。

国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和政権の地方行政的な性格を持つものである。

621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。


舒明・皇極朝[編集]

聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。

ウィキソースに改新の詔の原文があります。

孝徳朝[編集]

牙彫藤原鎌足(宮彫師島村俊明作)。東京国立博物館

645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は、日本で最初の元号大化を制定するなど次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕宮に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣右大臣内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、(こおり)の制を定める。650年白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する

天智朝[編集][編集]

孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・皇極天皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。

663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫大宰府を守る水城を造り、対馬隠岐筑紫など朝鮮半島方面の日本海防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬に金田城が築かれている。

668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国を造った。

天武・持統朝[編集][編集]

天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年朱鳥元年)に、天武天皇は没する。8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。 持統天皇。三英舎『御歴代百廿一天皇御尊影』、1894年

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。

持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。

中央行政組織太政官神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年和銅3年)に、平城京遷都した。

飛鳥・白鳳文化[編集]

飛鳥文化」および「白鳳文化」を参照

年表[編集]

奈良時代[編集]

概論[編集]

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京奈良・現奈良県奈良市)に都が置かれた時代で平城時代(へいじょうじだい)ともいう。元号による時代区分では天平時代とされる。日本仏教による鎮護国家を目指して天平文化が花開いた時期とされる。


範囲[編集]

広義では、710年和銅3年)に元明天皇によって平城京遷都してから、794年延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。

奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたことから、「奈良時代」や「平城時代」という。740年から745年にかけて、聖武天皇恭仁京京都府木津川市)、難波京大阪府大阪市)、紫香楽宮滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。

特徴[編集]

藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)

平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。平城京は、中国の都長安を模した都を造営したとされる。政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。

平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。

710年に都は平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。

皇位は、天武天皇持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、天皇の神聖さを保つ観点から、近親婚が繰り返された。その結果として、天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、病弱であり、相次いで早死にした。そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、結果として、天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。

政治的には、710年の平城京遷都から729年長屋王の変までを前期藤原四兄弟の専権から764年天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱までを中期称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる

平安時代[編集]

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇平安京京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。

通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期(1100年頃以降)を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念として、古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。


概観[編集]

平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかしながら 藤原氏による荘園の拡大の結果として、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末から10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。

王朝国家体制の確立によって、朝廷は地方統治を事実上放棄した。その上、桓武天皇軍団を廃止した結果として、地方は治安が悪化し無政府状態に陥いり、16世紀まで日本列島は戦乱が頻発するようになった。国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓田堵名主)層は、自衛のために武装し、武士へと成長した。彼らは、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層を取り込み、武士団を結成した。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。

11世紀後期からは上皇治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解もまた有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。


政治史[編集]

飛鳥時代の律令制導入の影響から、二官八省が設置され、四等官制となっていた。特に陰陽寮には、陰陽頭(おんようのかみ)など陰陽道道教の支流)による呪術を行う職が置かれていた。については、初期には大衍暦、五紀暦、862年2月3日(貞観4年1月1日)からは宣明暦が使用された。貨幣については、和同開珎皇朝十二銭も発行されたが平安時代の末期になると貨幣の信用が失われ、米、絹、布などが代用貨幣として使われるようになった。

平安前期[編集]

奈良時代末期の宝亀元年(770年)に称徳天皇崩御し、天智天皇系の光仁天皇が60歳前後という高齢ながら即位した。天武天皇以来の皇統は、以前より盛んだった天武系皇族間での相次ぐ政争によって継承順で繰り上がったが、聖武の娘の井上内親王を室とする天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が継承した。未だ天武系の皇族の影響があるなか、呪詛のかどで井上皇后と皇太子の他戸親王が廃され、光仁天皇崩御後には桓武天皇が即位した。桓武天皇はその治世において二回の遷都や東北遠征(蝦夷征討)、勘解由使設置による中央集権の再編・強化など、歴代天皇の中でも稀に見る強権を誇ったが、光仁天皇即位まではあまり恵まれた境遇ではなかった。天武系でなければ即位すら出来なかった時代に天智系の光仁天皇(当時は白壁王)の第一皇子として生まれ、立太子は行われず(通常、継承順位が高ければ生まれると同時に行われた)、日々の暮らしに困憊するほどであった。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、天武系の皇族は皇位継承から排除された。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえる。 平安京大内裏復元模型(平安京創生館)。 桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていった。桓武天皇の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一環として桓武天皇は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(延暦13年、794年)を断行した。平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられている。また、その様式には強く風の物があり、奈良とは異なった。

桓武天皇(天応元年/781年 - 大同元年/806年)以下数代においては、天皇が直接に政治を行う天皇親政の時代だった。政治を司る太政官の筆頭官も親王らが占めていた。この時期は、律令制の再建へ積極的な取り組みがなされ、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれた。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂征夷大将軍として蝦夷征服に活躍した。

近親婚の繰り返しの結果として自壊した天武皇統の教訓を踏まえ、桓武天皇は多数の皇子をもうけた。桓武天皇の崩御後、皇子らは順番に皇位につくこととし、桓武天皇の次代の平城天皇は桓武天皇に劣らぬ積極的な改革を遂行した。平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後も執政権を掌握し続けようとしたが、それを嫌った嵯峨天皇との間に対立が深まり、最終的には軍事衝突により嵯峨天皇側が勝利した(大同5年/810年薬子の変)。この事件以降、12世紀中葉の平治の乱まで中央の政治抗争は武力を伴わず、死刑も執行されない非武力的な政治の時代が永らく続くこととなった。

嵯峨天皇治世初期は、太政官筆頭だった藤原園人の主導のもと、百姓撫民(貧民救済)そして権門(有力貴族・寺社)抑制の政策がとられた。これは、律令の背景思想だった儒教に基づく政策であったが、園人の後に政権を握った藤原冬嗣は一変して墾田開発の促進を政策方針とした。律令制の根幹は人別課税だったが、冬嗣は土地課税を重視し、かつ権門有利を志向したのである。820年代から多数設定され始めた勅旨田や同時期に大宰府管内で施行された公営田も、冬嗣路線に則ったものとされている。冬嗣は嵯峨天皇の蔵人頭として活躍し、それを足掛かりとして台頭した。また、嵯峨天皇治世期には、各種法令の集大成である弘仁格式が編纂・施行された。

摂関政治の始まり

伴大納言絵詞より、応天門炎上の場面 858年(天安2年)、冬嗣の子藤原良房摂関となり、初期の摂関政治が始まった。良房は冬嗣の路線を継承し、開墾奨励政策をとった。当時、課税の対象だった百姓らの逃亡・浮浪が著しく、租税収入に危機が迫っていた。冬嗣・良房は墾田開発を促進し、土地課税に転換することで状況に対応しようとしたのである。良房は、政治権力の集中化も進めていき、そうした中で応天門の変(貞観8年/866年)が発生した。この事件は、藤原氏による他氏排斥と理解されることが多い。良房執政期を中心とした時期は、政治も安定し、開発奨励政策や貞観格式編纂などの成果により、貞観の治と呼ばれている。

良房の養子、藤原基経もまた、良房路線を継承し土地課税重視の政策をとった。基経執政期で特徴的なのが、元慶官田の設置である。それまで中央行政の経費は地方からの調・庸によっていたが、畿内に設定した官田の収益を行政経費に充てることとしたものである。

仁和3年(887年)に即位した宇多天皇は、その数年後に基経が薨去すると天皇主導の政治を展開するようになる。冬嗣から基経まで、権門に有利な政策が実施されてきたが、宇多天皇は権門抑制策そして小農民保護策を進めていった。宇多天皇のもとでは藤原時平菅原道真の両者が太政官筆頭に立ち、協力しながら宇多天皇を補佐していた。この宇多治世は寛平の治という。宇多天皇が醍醐天皇に譲位すると、にわかに時平・道真の対立が深まり、道真が失脚することとなった(昌泰4年/901年昌泰の変)。

実権を握った時平は宇多路線を引継ぎ、権門抑制と小農民保護を遂行していった。宇多天皇以来の路線は律令制への回帰を志向したものであり、時平執政期の延喜2年(902年)に発布された班田励行令は、まさに律令回帰を顕著にあらわしているが、これが史上最後の班田実施となった。また、律令回帰を目指す法令群である延喜格式が編纂されたのもこの時期であり、これら諸施策は後代、理想的な政治とされ、延喜の治と呼ばれた。

平安中期[編集]

時平の死後、弟の藤原忠平太政官首班となった。忠平は律令回帰路線に否定的であり、土地課税路線を推進していった。忠平執政期ごろに、有力百姓層(富豪層)へ土地経営と納税を請け負わせる名体制もしくは負名体制が開始しており、この時期が律令国家体制から新たな国家体制、すなわち王朝国家体制へ移行する転換期だったと考えられている。

忠平期を摂関政治の成立期とするのが通説である。それ以前の藤原良房の時から藤原北家摂政関白に就いて執政してきたが、発展段階の摂関政治であったとして初期摂関政治と区別されている。忠平以降は朝政の中心としての摂関が官職として確立し、忠平の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定した。ただし、摂関政治においても摂関が全ての決定権を握っていたのではなく、議政官が衆議する陣定の場でほとんどの政治決定が行われていた。

桓武天皇が軍団制を廃止した結果として、朝廷の治安維持機能がなくなったため、地方の治安は悪化し、日本列島は無政府状態に陥った。特に、9世紀ごろから関東地方を中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為が横行し始めていた(貞観の俘囚反乱・寛平・延喜東国の乱僦馬の党)。群盗の活動は9世紀を通じて活発化していき、富豪層は自衛のために武装し、武士となった。富豪層は、東国などに土着した中級・下級貴族層を取り込み、従前の軍団制に代わる軍事組織として武士団を結成した。朝廷はやむを得ず、武士団に地方の治安維持を担わせる方針をとった。その後、9世紀末から10世紀初頭の寛平・延喜期に、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植していったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、忠平執政期の天慶3年(940年)前後に発生した承平天慶の乱である。朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功のあった者の家系は、承平天慶勲功者、すなわち正当なる武芸の家系と認識された。

忠平の死後、10世紀中葉に村上天皇が親政を行った。これを天暦の治といい、延喜の治と並んで聖代視された。

10世紀中葉から後期にかけて、ある官職に伴う権限義務を特定の家系へ請け負わせる官司請負制が中央政界でも地方政治でも著しく進展していった。この体制を担う貴族官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。先述の武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態とみなせる。

朝廷の財政は、地方からの収入に頼っていたが、特に地方政治においては、国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ。このとき、行政権が委任されたのは現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれた。受領は、大きな権限を背景として富豪層からの徴税によって巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開したとされ、その現れが10世紀後期から11世紀中期に頻発した国司苛政上訴だったと考えられてきたが、一方で受領は解由制受領功過定など監査制度の制約も受けていた。いずれにせよ、受領は名田請負契約などを通じて富豪層を育成する存在であるとともに、富豪から規定の税を徴収しなければならない存在でもあり、また富豪層は受領との名田請負契約に基づいて巨富を築くと同時に中央官界とも直接結びついて受領を牽制するなど、受領の統制を超えて権益拡大を図る存在でもあった。

また、荘園が拡大し始めたのもこの時期である。10世紀前期に従来の租税収取体系が変質したことに伴い、権門層(有力貴族・寺社)は各地に私領(私営田)を形成した。このように荘園が次第に発達していった。権門層は、荘園を国衙に収公されないよう太政官、民部省や国衙の免許を獲得し、前者を官省符荘といい後者を国免荘という。こうした動きに対し、10世紀後期に登場した花山天皇は権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布した。この花山新制はかなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれた。とはいえ、その後の摂関政治は権門優遇策をとった訳ではない。摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾、そして権門の荘園整理にどう取り組むかという点にあった。

 藤原道長全盛期の時代は、道長の日記「御堂関白記」、道長の側近である藤原行成の日記「権記」、道長に迎合せず有職故実・律令に則って行動した藤原実資の日記「小右記」、女官が書き残した「栄花物語」と多方面から見た資料が揃っており、これらの資料から道長全盛期においても、結政外記政陣定といった基本的なルールに則って政治運営が行われていたことが分かっている。

摂関政治による諸課題への取り組みに成果が見られ始めたのが、11世紀前期から中期にかけての時期である。この期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになったり、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた。このため、10世紀前期に始まった王朝国家体制はより中世的な形態へ移行し、11世紀中期を画期として以前を前期王朝国家、以後を後期王朝国家と区分する。

11世紀前期には、女真族が北部九州に来襲する事変が発生した(寛仁3年(1019年)、刀伊の入寇)。

平安後期[編集]

平等院鳳凰堂(京都府宇治市

11世紀後期までに郡司・郷司・負名層が自ら墾田して領主となる開発領主が登場しており、彼らは自領を権門へ寄進することで権利を確保していった。これを寄進地系荘園という。これに対応して、公領内部も郡・郷・保・条などに再編成されていった。これら荘園や公領は特定の領主が私有地として独占的な支配権を持つのではなく、支配単位ごとに上は収税権をもつ朝廷、権門から在地領主として地域に根を下ろした武士などを経て、下は名主層に至る、複数者の権利が重層的にからんでいた。各主体が保有する権利は「職」(しき)とよばれ、職が重層的な体系をなしていたことから、これを職の体系という。そして職の体系を基盤として11世紀後期から12世紀に成立した体制を荘園公領制という。平安後期の政治・経済史は、この荘園公領制の成立と深く関わっている。

11世紀中期までは摂関政治がある程度機能していたが、社会の変動に対応する政治的主導権を摂関家と天皇のいずれもがとりえないという摂関政治の欠陥が露呈し、機能不全に陥っていった。同後期に登場した、外戚藤原氏を持たない後三条天皇は天皇親政を行い、記録荘園券契所を設置して実効的な荘園整理を進める(延久の荘園整理令)など、当時の社会変動に伴う課題に自ら取り組んでいった。後三条天皇の子、白河天皇も積極的に政治に取り組み、退位して上皇となった後は皇室の長という立場で独自の政策を展開していった。これが院政の開始であり、院政を行う上皇を治天の君という。白河上皇は、自らの政策を企画・遂行するために中流貴族を院司とし、また院独自の軍事力として北面武士を置いたり、当時、河内源氏に代わって武士の棟梁となりつつあった伊勢平氏を院司としたりした。また、このころ、東北地方の全域が日本の領域に組み込まれたとされている(延久蝦夷合戦)。

白河天皇に続く鳥羽上皇も、白河天皇以上の専制を展開した。伊勢平氏を実行部隊として日宋貿易に力を入れたり、荘園公領制の進展に伴って各地の荘園を集積したりするなど、経済的な支配力も強めていった。

12世紀に入ると、有力貴族などが特定の国の租税収取権を保有する知行国制がひろく実施されるようになった。知行国制は、荘園公領制の進展と軌を一にしたものであり、経済的利得権が権門勢家へ集中していったことを表している。

12世紀中期に鳥羽上皇が崩御すると、治天の君の座を巡って皇室摂関家を巻き込む政争が起こり、軍事衝突によって解決した(保元の乱)。続いて、数年後に再び政争が軍事衝突によって終結し(平治の乱)、両乱を通じて武士の政治的地位が上昇した。保元以前、武力で政争が解決した事例は平安初期の平城上皇の変にまで遡り、三百数十年ぶりの異変だったため、当時の人々に大きな衝撃を与えた。両乱で大きな勲功のあった平清盛は異例の出世を遂げ、後白河上皇の院政を支えた。しかし、次第に後白河と清盛との間に対立が見られるようになり、清盛は後白河院政を停止して、自らの政権を打ち立てた。これを平氏政権という。平氏政権は、貴族社会の中で成立したが、各地に地頭や国守護人を設置するなど最初の武家政権としての性格を持っていた。 『源平合戦図屏風』/赤間神宮所蔵

平氏政権の支配に対して、貴族・寺社層から反発が出されるようになり、そうした不満を背景として治承4年(1180年)に後白河の皇子以仁王が反平氏の兵を挙げた。この挙兵はすぐに鎮圧されたが、平家支配に潜在的な不満を抱いていた各地の武士・豪族層が次々に挙兵し、平氏勢力や各地の勢力の間で5年に渡る内乱が繰り広げられたが、最終的に関東に本拠を置いた武家政権、すなわち鎌倉幕府の勝利によって内乱は終結した(治承・寿永の乱)。この乱の過程で鎌倉幕府は朝廷から東国の支配権、軍事警察権を獲得し、朝廷から独立した地方政権へと成長していた。鎌倉幕府の成立をもって新たな時代区分が開始したとされ、この時点が平安時代の終期とされている。




概略[編集]

中臣家の活躍により日本の治安が安定してゆきます。

その後の藤原家により日本の秩序は保たれます。

それは、昭和の時代よりも長く続いた時代であったと言われます。

藤原道長公のの栄華と公家政治の発展[編集]

藤原家の繁栄ぶりを示す書物が栄花物語という。

この書物は期日と事件年代があいまいなので専門家の間では、この記事の正確性を疑問とする学者もいるようです。

ですが・・・・。当時の藤原氏の記録は少ないため貴重な文献です。

栄花物語[編集]

『栄花物語』(えいがものがたり)は、平安時代歴史物語。仮名文。女性の手による編年体物語風史書。

目次[編集]

概要[編集]

作者不詳の歴史物語。六国史の後継たるべく宇多天皇の治世から起筆し、摂関権力の弱体化した堀河朝寛治6年2月(1092年)まで、15代約200年間の時代を扱う。藤原道長の死までを記述した30巻と、その続編としての10巻に分かれる。

正編30巻を赤染衛門、続編10巻を出羽弁のほか、周防内侍など複数の女性と見る説があるが未詳である。正編は後一条天皇万寿(1024年 - 1028年)の頃、続編は11世紀末から12世紀初頭にかけて、宮廷女性の手によって完成されたことに違いはない。「はつはな」(巻八)の敦成親王(後一条天皇)誕生記事は『紫式部日記』の引用となっているが、そのまま引用したわけではなく、改変の手が加えられている。

同時代を語る紀伝体歴史物語の『大鏡』が男性官人の観点を貫くのに対し、編年体の体裁をとる『栄花物語』は女性の手になるため、構造や行文には『源氏物語』などの女流文学の投影が色濃く見える。各巻に雅な名を冠すのも、藤原北家摂関流、中でも特に道長・頼通父子の栄華を謳歌する調べも、みなその現れである。道長についての記述に賞賛が多く見られることが特徴として挙げられるが、彼の晩年を襲った病苦や、摂関政治の裏面を生きる敗者の悲哀をも詳しく描き出している。

評価と影響[編集]

『栄花物語』は『大鏡』とは対照的に批判精神に乏しく、物語性を重要視するあまり、史実との齟齬を多く有する(敦康親王誕生記事など)。また、政事(まつりごと)よりも藤原北家の後宮制覇に重心を置くため、後編の記述は事実の羅列というしかない。歴史書としても、文学作品としても、『大鏡』に引けをとる所以である(山中裕、石川徹、竹鼻績の各氏が述べている)。しかし相模女子大学の待井新一によれば、「評価すべきは、女手(おんなて)といわれる仮名で物語風に歴史を書いている事で、女性にも読んでもらう史書を目指し女性による女性のための歴史物語を完成させた点、はじめて歴史と文学とを結合させ歴史を身近なものにした点では画期的な事」[要出典]として挙げられる。後の「鏡物」といわれる一連の歴史物語を産む下地となった。

写本[編集]

13世紀鎌倉時代前期)書写の最古写本「梅沢本」(国宝、九州国立博物館蔵)

本文の形態によって古本系統・流布本系統・異本系統という3つの系統に分けられる。

主な伝本としては、梅沢本(九州国立博物館蔵、三条西家旧蔵、古本系第一類、国宝)、陽明文庫本(古本系第二類)、西本願寺本(流布本系第一類、重要文化財)、古活字本元和寛永年間の版本)・明暦刊本(以上、流布本系第二類)、絵入九巻抄出本(流布本系第三類)、富岡家旧蔵本(甲・乙二種類あり、異本系、甲本は重要文化財、甲乙とも巻三十まで)などがある。

このうち三条西実隆が入手して子孫に伝えた梅沢本(40巻17帖)は、鎌倉時代中期までに書写された現存最古の完本として昭和10年(1935年)に当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定され、昭和30年(1955年)には文化財保護法に基づく国宝に指定された。大型本(10帖、巻二十まで、鎌倉時代中期の書写)と枡形本(7帖、巻四十まで、鎌倉時代初期の書写)の取り合わせ本(取り合わせとなった経緯は不明)で、大型本の書名は『榮花物語』、枡形本では『世継物語』となっている。なお三条西実隆入手の経緯は、『実隆公記』永正6年11月4日、8日の条に詳しい。「岩波文庫」「日本古典文学大系」「新編日本古典文学全集」は、この梅沢本を底本としている。

各巻の巻名と内容[編集]

全40巻を正編30巻と続編10巻と分ける二部構成となっている。正編が道長の没するまでを記し、続編でその子孫のその後を記している。 

  1. 「月の宴」
    宇多天皇の時代から書き起こす。村上天皇の御世に藤原師輔の娘安子が入内して中宮となり師輔が台頭。
  2. 「花山たづぬる中納言」
    花山天皇出家した。藤原兼家登場。
  3. 「さまざまのよろこび」
    詮子円融天皇のもとに入内し子の一条天皇が7歳で即位。
  4. 「みはてぬ夢」
    道長が実権を握る。
  5. 「浦々の別れ」
    伊周が道長との政権争いに敗れ大宰府に左遷さる。
  6. 「かかやく藤壺」
    道長の長女彰子が一条天皇の中宮となる。
  7. 「鳥辺野」
    定子・詮子が相次いで崩御。
  8. 「はつ花」
    中宮彰子の皇子出産、『紫式部日記』の引用部分あり。
  9. 「いわかげ」
    一条天皇の崩御。
  10. 「日蔭のかつら」
    三条天皇の即位。
  11. 「つぼみ花」
    禎子内親王の誕生。
  12. 「玉のむら菊」
    後一条天皇の即位。
  13. 「ゆふしで」
    敦明親王の皇太子辞退と道長の介入。
  14. 「浅緑」
    道長の娘威子が後一条天皇の中宮となり一家から3人の后が並びたつ。
  15. 「うたがひ」
    道長が54歳で出家、法成寺造営。
  16. 「もとの雫」
    法成寺落慶供養。道長栄華を極める。
  17. 「音楽」
    法成寺金堂供養の様子。
  18. 「玉の台」
    法成寺に諸堂が建立され、参詣の尼たちが極楽浄土と称えた。
  19. 「御裳着」
    三条天皇皇女禎子内親王の裳着の式(女子の成人式にあたる)。 
  20. 「御賀」
    道長の妻倫子の六十の賀(長寿の祝い)。
  21. 「後くゐの大将」
    道長の子、内大臣教通が妻を亡くして悲嘆する。
  22. 「とりのまひ」
    薬師堂の仏像開眼の様子。
  23. 「こまくらべの行幸」
    関白頼通の屋敷で競馬が行われ。天皇も行幸した。
  24. 「わかばえ」
    頼通は初めての男子(通房)の誕生を喜ぶ。
  25. 「みねの月」
    道長の娘寛子が亡くなる。
  26. 「楚王の夢」
    同じく嬉子も皇子(後の後冷泉天皇)産後の肥立が悪く亡くなる。道長夫妻は悲嘆にくれる。
  27. 「ころもの玉」
    彰子の出家。
  28. 「わかみづ」
    中宮威子の出産。
  29. 「玉のかざり」
    皇太后妍子の崩御。
  30. 「鶴の林」
    道長が62歳で大往生。
  31. 「殿上の花見」
    関白頼通の代。彰子の花見。
  32. 「歌あはせ」
    倫子七十の賀。
  33. 「きるはわびしと嘆く女房」
    後一条天皇の崩御と後朱雀天皇の即位。
  34. 「暮まつ星」
    章子内親王が皇太子(後冷泉天皇)の妃に。
  35. 「蜘蛛のふるまひ」
    頼通は、嫡子通房を流行病で亡くす。
  36. 「根あはせ」
    後冷泉天皇の即位。
  37. 「けぶりの後」
    法成寺焼失。後冷泉天皇崩御、後三条天皇即位。
  38. 「松のしづ枝」
    白河天皇即位。
  39. 「布引の滝」
    頼通、彰子姉弟が相次いで死去。師実が関白に。
  40. 「紫野」
    応徳3年(1086年)白河天皇が譲位堀河天皇が即位し、師実は摂政になる。最後に15歳の師実の孫忠実春日大社の祭礼に奉仕する姿を描写して藤原一族の栄華を寿ぎ終了している。

脚注[編集]

  1. ^ 第一巻「月の宴」の書き出しは「世はじまりてのち、この国のみかど六十余代にならせ給ひにけれど、この次第書きつくすべきにあらず。こちよりてのことをぞ記すべき。世の中に宇多のみかどと申すおはしましけり。」
  2. ^ 「文章はたおやかで、あはれを旨とし、『六国史』につぐ歴史的実録を標榜しながらも、その実、冠婚葬祭を主写し、単調平板に流れ、藤氏執政をただ限りなくめでたく描出しているにすぎないのである。」(増淵勝一『大鏡著作の文学史的意義』)
  3. ^ 「『栄花物語』では、文学的な興趣によって感覚的に歴史を把握しており、個々の歴史事象の背後に潜む歴史の真実を描くよりも、事件をめぐって生起する人々の心情や人の世の哀感を、事実を主観的に潤色したり、虚構を用いたり、さらには、『源氏物語』の文章を模倣するなどして描いていて、作り物語的性格が濃厚であり、冷徹な目で人間を直視し、その内面へ踏み込んで描く態度が希薄である。しかし、歴史物語の嚆矢として、新しい領域を開拓した意義は大きい。」(『日本大百科全書』「栄花物語」の項)
  4. ^ 文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」及び「文化遺産オンライン」では保管先が「東京国立博物館」となっているが、九州国立博物館の開館後は同館に移管されている。参照:「収蔵品ギャラリー」(九州国立博物館サイト)
  5. ^ 最終巻「紫野」は「祭の儀式、有様、世の常ならずめでたくてまゐらせたまふ。積れる人、大殿のかくておはしまししに、御孫にてかくおはしますを、枝々栄え出でさせたまふを、春日の神も心ゆかせたまひてや、めでたく見たてまつらせたまひけんと、心の中に思ひ余りけるを、同じ心に賤の男までめで思ひ申しけり。またの日帰らせたまふ。御供の人々みな、今日ばかり装束うち乱れ、今すこし思ひやり深く、世にまた三笠の山のかかるたぐひなく、めでたう思ひ余りて、車ひきとどめつつ、道すがら見る人の、『行く末もいとど栄えぞまさるべき春日の山の松の梢は』など、古めかしき人の思ひける。」で締めくくる。

関連項目[編集]

概観[編集]

平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。しかしながら 藤原氏による荘園の拡大の結果として、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末から10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。

王朝国家体制の確立によって、朝廷は地方統治を事実上放棄した。その上、桓武天皇軍団を廃止した結果として、地方は治安が悪化し無政府状態に陥いり、16世紀まで日本列島は戦乱が頻発するようになった。国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓田堵名主)層は、自衛のために武装し、武士へと成長した。彼らは、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層を取り込み、武士団を結成した。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。

11世紀後期からは上皇治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解もまた有力である。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。

年表[編集]


天皇在位表[編集]

  1. 天応元年(781年) - 大同元年(806年)…… 桓武天皇
  2. 大同元年(806年) - 大同4年(809年)…… 平城天皇
  3. 大同4年(809年) - 弘仁14年(823年)…… 嵯峨天皇
  4. 弘仁14年(823年) - 天長10年(833年)…… 淳和天皇
  5. 天長10年(833年) - 嘉祥3年(850年)…… 仁明天皇
  6. 嘉祥3年(850年) - 天安2年(858年)…… 文徳天皇
  7. 天安2年(858年) - 貞観18年(876年)…… 清和天皇
  8. 貞観18年(876年) - 元慶8年(884年)…… 陽成天皇
  9. 元慶8年(884年) - 仁和3年(887年)…… 光孝天皇
  10. 仁和3年(887年) - 寛平9年(897年)…… 宇多天皇
  11. 寛平9年(897年) - 延長8年(930年)…… 醍醐天皇
  12. 延長8年(930年) - 天慶9年(946年)…… 朱雀天皇
  13. 天慶9年(946年) - 康保4年(967年)…… 村上天皇
  14. 康保4年(967年) - 安和2年(969年)…… 冷泉天皇
  15. 安和2年(969年) - 永観2年(984年)…… 円融天皇
  16. 永観2年(984年) - 寛和2年(986年)…… 花山天皇
  17. 寛和2年(986年) - 寛弘8年(1011年)…… 一条天皇
  18. 寛弘8年(1011年) - 長和5年(1016年)…… 三条天皇
  19. 長和5年(1016年) - 長元9年(1036年)…… 後一条天皇
  20. 長元9年(1036年) - 寛徳2年(1045年)…… 後朱雀天皇
  21. 寛徳2年(1045年) - 治暦4年(1068年)…… 後冷泉天皇
  22. 治暦4年(1068年) - 延久4年(1072年)…… 後三条天皇
  23. 延久4年(1072年) - 応徳3年(1086年)…… 白河天皇
  24. 応徳3年(1086年) - 嘉承2年(1107年)…… 堀河天皇
  25. 嘉承2年(1107年) - 保安4年(1123年)…… 鳥羽天皇
  26. 保安4年(1123年) - 永治元年(1141年)…… 崇徳天皇
  27. 永治元年(1141年) - 久寿2年(1155年)…… 近衛天皇
  28. 久寿2年(1155年) - 保元3年(1158年)…… 後白河天皇
  29. 保元3年(1158年) - 永万元年(1165年)…… 二条天皇
  30. 永万元年(1165年) - 仁安3年(1168年)…… 六条天皇
  31. 仁安3年(1168年) - 治承4年(1180年)…… 高倉天皇
  32. 治承4年(1180年) - 文治元年(1185年)…… 安徳天皇
  33. 寿永2年(1183年) - 建久9年(1198年)…… 後鳥羽天皇


保元の乱[編集]

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。

背景[編集]

近衛天皇即位[編集]

永治元年(1141年12月7日鳥羽法皇藤原璋子(待賢門院)との子である崇徳天皇を退位させ、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁親王が即位した(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。翌年には得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳上皇の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退した。一方、閑院流三条家中御門流村上源氏公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、政界は待賢門院派と美福門院派に二分される。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となり、大臣は一人のみ(内大臣藤原頼長)という状況になった。


摂関家の内紛[編集]

白河院政下で不遇であった摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。

久安6年(1150年)正月4日近衛天皇元服の式を挙げると、同月10日には頼長の養女・多子が入内、19日女御となった。しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。劣勢の忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったのである。当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。

近衛天皇崩御[編集]

内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。仁平元年(1151年)には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁親王への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人に限られており、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために天皇は病気だと嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した。しかし、美福門院と忠通は崇徳の院政を阻止するために守仁擁立の実現に向けて動き出すことになる。

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた(前述のように近衛天皇の病気は数年前からのものであったが、忠通がその情報を独占していたために父の鳥羽法皇すら信じておらず、世間では突然の崩御のように思われていた)。忠実は頼長を謹慎させパイプ役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。

鳥羽法皇崩御[編集]

新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。

ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義平清盛北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿源光保平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏源義朝源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた(『兵範記』7月5日条)。

それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った。


経過[編集]

『保元・平治合戦図屏風』(神泉苑蔵)屋形から出る黒い鎧の武者が平清盛

挑発の開始[編集]

鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。

この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。

崇徳上皇の脱出[編集]

7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。

両軍の対峙[編集][編集]

10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲経憲の兄弟、武士では平家弘源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。白河北殿では軍議が開かれ、源為朝は高松殿への夜襲を献策する。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。

これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政源重成源季実平信兼・平維繁が続々と召集され、「軍、雲霞の如し」(『兵範記』7月10日条)と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・徳大寺実能が軍勢出撃後に姿を現しただけである。大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。

清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという。

夜襲[編集][編集]

7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。

戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される。

攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡した。


戦後[編集][編集]

上皇方の投降[編集][編集]

合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。

13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した(『兵範記』7月21日条)。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。

崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族武士は続々と投降した。上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたという(『兵範記』7月15日条)。

摂関家の苦境[編集][編集]

15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」(『兵範記』7月17日条)と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。

19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾し、20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた京極殿領と、泰子の死後に忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。ただし、頼長領は没官され、後白河天皇の後院領として、後の長講堂領の基軸となる。『保元物語』には忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したという逸話があり、摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通の間でせめぎ合いがあった様子がうかがわれる。

罪名宣下[編集][編集]

23日、崇徳上皇は讃岐に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)にこの世を去った。重仁親王は寛暁堀河天皇皇子)の弟子として出家することを条件に不問とされた。

27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長師長隆長範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。

武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたという。

こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。

摂関家の凋落[編集][編集]

この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。

忠通は保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。

乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。

参加者一覧[編集][編集]

天皇方[編集][編集]

貴族

武士(北面・検非違使・京武者)

清盛軍の武士

義朝軍の武士

上皇方[編集][編集]

貴族等

武士

僧侶

後日談[編集][編集]

閏9月18日、朝廷は新体制の確立を図るために保元新制を発令するが、それに先立つ閏9月8日に以下の宣命を作成して石清水八幡宮に乱の勝利を報告した。

後白河天皇宣命案(石清水文書) 『平安遺文』2848

読み下し文

…前左大臣藤原頼長朝臣、偏に暴悪を巧み、妄りに逆節を図りて、太上天皇を勧め奏して、天下を擾乱し、国家を謀危するの由、云云の説、嗷々端多し。然る間去る七月九日の夜、太上天皇ひそかに城南の離宮を出でて、忽ちに洛東の旧院に幸して、戦場を其の処に占め、軍陣を其の中に結びて、頼長朝臣と狼戻の群を成して、梟悪の謀を企つ。ここによりて同十一日、凶徒を禦がんが為に官軍を差し遣わす。而して宗廟の鎮護により、社稷の冥助を蒙りて、謀反の輩、即ち以て退散しぬ。頼長朝臣は流矢に中りて其の命を終えにき。これ即ち神の誅するところなり。まことに人の所為にあらず。廿三日に太上天皇をば讃岐国に遷送し奉る。其の外の党類、或いは刑官に仰せて召し捕らえ、或いは王化に帰して来服す。即ち明法博士等をして所当の罪名を勘申しむるに、首従なきの律により、各斬刑に処すべきの由を奏せり。然れども殊に念ずるところあり、右近衛大将藤原兼長朝臣以下十三人をば、一等を減じて遠流の罪に治め賜う。合戦の輩、散位平朝臣忠貞以下二十人をば、古跡を弘仁に考え、時議を群卿に訪いて、かつ法律のままに斬罪に処せり。それ法令は馭俗の始めなり。刑罰は懲悪の基なり。もし寄せ重きによりて優じ、職高きが為に宥むれば、中夏を治め難く、後昆をも懲らしめ難からむ。これ眇身の為に行わず。ただ国家に私なからむとなり。…

意訳…前左大臣の藤原頼長は、ひたすら悪事を凝らし、理由もなく反逆を企んで、太上天皇をそそのかし申し上げて、天下の秩序を乱し、国家を転覆しようと図っているという噂が世上に飛び交った。そのような中、去る7月9日の夜に太上天皇がひそかに城南の離宮(鳥羽殿)を出て、洛東の旧院(白河北殿)に御幸し、そこを決戦の場所に定め、武士を集めて頼長とともに狼の群れのようになり、凶悪な謀略を企てた。これに対して11日、凶徒を防ぐために官軍を派遣したところ、祖先の霊廟(石清水八幡宮)の加護により、土地の神の助けを頂いて、謀反の輩は退散した。頼長は流れ矢に当たって、その生命を終えた。これは神の罰であり、まことに人のなしたことではない。23日、太上天皇を讃岐国に配流し申し上げた。その他の党類も、ある者は刑吏に捕らえられ、ある者は天皇の徳に従って降伏した。明法博士らに相当の罪を検討させたところ、主犯・従犯の区別はしないという律の規定により、みな斬刑に処すよう奏上があった。しかし特別に思うことがあり、右近衛大将の藤原兼長以下13人は、罪一等を減じて遠流の罪とした。戦闘員である平忠貞以下20人は弘仁(薬子の変)の先例にならい、公卿らに諮問して、法律のままに斬罪に処した。そもそも法令は習俗を統制する始めである。刑罰は悪を懲らしめる基本である。もし関係の深さで優遇し、官職の高さを理由に宥免したりすれば、天下を治めるのは困難になり、後世の者も厳罰を加えることができなくなる。これは私のために行うことではない。国家に私事はないのである。…

内容は、乱の責任は崇徳上皇と頼長にあり、頼長が流れ矢に当たって死んだことを神罰として、上皇の配流とその他の者の処罰も国家による法に則った処置とするなど、天皇方の勝利宣言といえるものだった。この朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河法皇の側近になっても変わることはなかった。しかし安元2年(1176年)に建春門院高松院六条院九条院など後白河や忠通に近い人々が相次いで崩御し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀といった大事件が勃発するに及んで、朝廷では保元の乱の怨霊による祟りと恐怖するようになる。7月29日、後白河は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改め、頼長に正一位太政大臣を追贈することを命じた。保元の乱が終結して、およそ20年後のことだった。

年表[編集][編集]

  • 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
月日

宣明暦長暦)

内容 出典
5月22日 鳥羽法皇、重態に陥る 兵範記
5月30日 鳥羽法皇の御万歳(崩御)の沙汰が始まる 兵範記
6月1日 源義朝源義康等の武士、院宣により内裏、院御所の守護を開始する 兵範記
7月2日 鳥羽法皇崩御 兵範記
7月5日 京中の武士の動きを停止する後白河天皇の勅命が発せられる 兵範記
7月6日 藤原頼長家人、源親治捕えられる 兵範記
7月8日 摂関家荘園の武士の動員禁止の綸旨

高階俊成、源義朝が東三条殿を接収する 鳥羽法皇初七日法要

兵範記
7月9日 崇徳上皇、白河北殿に入る 兵範記
7月10日 藤原頼長、白河北殿に入る 崇徳上皇の下に兵が集まる

高松殿の後白河天皇の下に武士が参集

兵範記
7月11日 後白河天皇方の軍勢が白河北殿に向かって出撃、崇徳上皇方と戦闘が行なわれ後白河天皇方が勝利する


藤原忠通を氏長者にする宣旨が下される

後白河方の武士たちに恩賞が与えられる

兵範記
7月12日 崇徳上皇出家 兵範記
7月13日 崇徳上皇、後白河天皇方へ身柄を遷される 兵範記
7月14日 崇徳方の中心人物・藤原教長が右大弁らによる取調べを受ける

藤原頼長死去

兵範記
7月15日 藤原忠実、藤原忠通に接触を開始する 兵範記
7月18日 旧藤原忠実領、後白河天皇の綸旨によって藤原忠通に与えられる 兵範記
7月23日 崇徳上皇、讃岐に遷される 兵範記
7月27日 崇徳側逮捕者への罪名宣下(判決) がされる 兵範記
7月28日 平忠正らが処刑される 兵範記
7月30日 源為義平家弘らが処刑される 兵範記
8月3日 藤原教長、藤原頼長子息ら崇徳方に属した者達の流刑が執行される 兵範記





平治の乱[編集]

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平治の乱
平治物語絵巻』三条殿焼討

ボストン美術館所蔵)

戦争
年月日平治元年12月9日1160年1月19日) - 永暦元年3月11日1160年4月19日
場所平安京
結果:藤原経宗・惟方らの二条親政派勝利→二条親政派失脚・後白河院政復活→二条親政派と後白河院政派の並立
交戦勢力
12月9日

信西 12月26日 二条親政派 2月20日 後白河上皇 藤原忠通平清盛

12月9日

二条親政派、藤原信頼 12月26日 藤原信頼 2月20日 藤原惟方藤原経宗(二条親政派)

指導者・指揮官
12月9日

大江家仲、平康忠ら北面武士 12月26日

2月20日

平清盛郎党忠景・為長

12月9日

藤原信頼源義朝源光保源季実源重成 12月26日 藤原信頼

戦力
12月9日

北面武士 不明 12月26日 天皇親政派3000騎以上 (平重盛1000騎、平頼盛1000騎、平経盛1000騎、六波羅残存軍 不明) (学習院本『平治物語』) 2月20日 惟方・経宗捕縛の武士 不明

12月9日

三条殿襲撃軍 500騎 (学習院本『平治物語』)

12月26日 藤原信頼軍 約800騎 (藤原信頼300騎、源義朝200騎弱、源光保300騎) (学習院本『平治物語』) 2月20日 藤原惟方・藤原経宗 0

損害
信西自害 藤原信頼処刑・

源義朝敗走後死亡、他信頼に与力した武将自害または処刑 藤原経宗、藤原惟方ら配流

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平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。

背景[編集]

信西の執政[編集]

保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、荘園整理令を主たる内容としていた。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていた。この荘園整理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制の成立への大きな契機となった新制と評価されている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。

信西は改革実現のために、記録所を設置する。長官である上卿には大納言三条公教が就任、実務を担当する弁官からは右中弁藤原惟方左少弁・源雅頼、右少弁藤原俊憲(信西の嫡子)が起用され、その下で21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたった(後白河が「暗主」であるという信西の言葉は、この記録所の寄人だった清原頼業九条兼実に後年語ったものである)。さらに内裏の復興にも着手して、保元2年(1157年)10月に再建した。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、紀二位(後白河の乳母)を母とする成憲脩憲はそれぞれ遠江・美濃の受領となった。信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその預所になるなど経済基盤の確保にも余念がなかった。

平氏一門の台頭[編集][編集]

国政改革推進のため、信西は平清盛を厚遇する。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の現れといえる。大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。信西は、自らの子・成憲と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。

二条親政派の攻勢[編集]

しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在した。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図るグループ(二条親政派)である。美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門院の要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日、「仏と仏との評定」(『兵範記』)すなわち信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。

信頼の登場[編集]

そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵陸奥知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。久寿2年(1155年)8月に源義平(義朝の長男)が叔父の義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。保元3年(1158年)8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・基実の婚姻も実現させる。摂関家は保元の乱によって忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。後白河の近臣としては他にも、藤原成親藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。


反信西派の形成[編集]

ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成されることになった。『平治物語』では信頼が近衛大将を希望して、信西が断ったために確執が生まれたとする。しかし『愚管抄』にはその話は見えず、大将に任じられるのは院近臣の身分では常識的に無理なことから事実かどうかは疑わしいとする見方がある一方で、既に信頼は2年弱で受領から権中納言まで進むという常識的に無理な昇進を果たしており、その背景にあった後白河上皇の恩寵があれば更なる昇進が可能という期待感を抱かせたとすればあり得ない話ではないとする見方もある。信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。一方、清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあった。平治元年(1159年)12月(1160年1月)、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。

経過[編集][編集]

三条殿襲撃[編集][編集]

三条東殿跡(平治の乱勃発地) 12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。警備にあたっていた大江家仲・平康忠、一般官人や女房などが犠牲となるが、信西一門はすでに逃亡していた。信頼らは後白河と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移して軟禁状態にした(ただし、『愚管抄』には後白河は「すゑまいらせて」とあり、信頼は一本御書所に後白河を擁したとも解される記述をしている)。後白河を乗せる車は源師仲が用意し、源重成源光基源季実が護送した。源光基は美福門院の家人・源光保の甥であり、京都の治安を預かる検非違使別当は藤原惟方であることから、クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛され、22日に全員の配流が決定した。13日、信西は山城国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れたが、発見されて掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害した。光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。

信西が自害した翌日の14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行った。この除目で源義朝は播磨守、嫡子・頼朝右兵衛権佐となった。『平治物語』は信頼が近衛大将になったとするが、『愚管抄』にその話は見えない。藤原伊通はこの除目について「人を多く殺した者が官位を得るなら、なぜ三条殿の井戸に官位をやらないのか(先の襲撃で多くの者が火を避けて飛び込んだ)」と皮肉ったという。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を窺っていた。その最中、東国より兵を率いて馳せ上った源義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退けた。信頼にしてみれば嫡男・信親と清盛の女の婚姻関係により、清盛も自らの協力者になると見込んでいた。

二条天皇の六波羅行幸[編集]

『平治物語絵巻』六波羅行幸巻(東京国立博物館蔵)、国宝

清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることも考えるが、紀伊の武士・湯浅宗重熊野別当湛快の協力により、17日帰京する。帰京までに、伊藤景綱・館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。京都の軍事バランスは大きく変化し、信頼の優位は揺らぐことになる。信西と親しかった内大臣・三条公教は信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。二条親政派にすれば信西打倒を果たしたことにより、信頼ら後白河院政派は用済みとなっていた。公教と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、藤原尹明(信西の従兄弟・惟方の義兄弟)が密命を帯びて内裏に参入する。25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方についたことを喜ぶが、義朝は信親を警護していた清盛の郎等(難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であることから危惧を抱いたという(『古事談』、ただし同書は18日のこととする)。

25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河はすぐに仁和寺に脱出した。日付が変わって26日丑刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。信頼と提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。26日早朝、天皇・上皇の脱出を知った後白河院政派は激しく動揺し、義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。信頼・成親は義朝とともに武装して出陣するが、源師仲は保身のため三種の神器の一つである内侍所(神鏡)を持ち出して逃亡した。

六波羅合戦[編集]

信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成・源光基・源季実、信西を追捕した源光保らの混成軍であった。義朝配下の軍勢は、子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆信濃源氏平賀義信などの一族、鎌田政清後藤実基佐々木秀義などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄上総広常山内首藤氏などが参戦したに過ぎなかった。義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡子、山内首藤氏は源氏譜代の家人であり、いずれも義朝と個人的に深い関係を有する武士である。保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して今回はクーデターのための隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だったと推測される。

清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。『平治物語』では重盛と義平が待賢門で一騎討ちを繰り広げ、御所の右近の橘・左近の桜の間を7度も義平が重盛を追い回した、頼盛が退却中に敵に追いつかれそうになり重代の名刀「抜丸」で辛くも撃退した、というエピソードが出てくるがこれらは話を盛り上げるための創作と思われる。このとき陽明門を警護していた源光保、光基は門の守りを放棄して寝返るが、光保は美福門院の家人で政治的には二条親政派であり、信西打倒のため信頼に協力していたに過ぎなかった。また『平治物語』は源頼政が味方につかなかったとするが、もともと頼政も美福門院の家人であり信頼・義朝に従属する立場ではなかった。平氏軍は予定通り退却し、戦場は六波羅近辺へと移った。義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく敗退する。義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。


戦後[編集][編集]

後白河院政派の壊滅[編集]

藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭した。清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、信西自害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。成親は重盛室の兄という理由で助命され、解官されるに留まった。逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出頭するが処罰は厳しく、下野国への配流が決定した。

義朝は東国への脱出を図るが途中で頼朝とはぐれ、朝長・義隆を失い、12月29日尾張国内海荘司・長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田政清とともに殺害された。義朝と政清の首は、正月9日、京都で獄門に晒された。義平は18日、難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられ、21日、六条河原で処刑される。頼朝も2月9日、頼盛の郎等・平宗清に捕まりやはり処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。

この背景には頼朝が若年であったことに加え、彼がすでに上西門院の蔵人をつとめていたため、上西門院とその近臣である熱田大宮司家(頼朝の生母が熱田大宮司家の出身であり、頼朝自身も熱田神宮で生を受けた)が待賢門院(後白河上皇・上西門院の母)近臣家出身の池禅尼に働きかけた可能性が考えられる。義朝と行動を共にした源重成・季実も滅亡の運命を辿り、ここに後白河院政派は事実上壊滅することになる。

経宗・惟方の失脚[編集]

合戦の終息した12月29日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。翌永暦元年(1160年)正月、二条は近衛天皇の皇后だった藤原多子を入内させ、自らの権威の安定につとめた。実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。正月6日、後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、2月20日、清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、後白河の二人に対する憎しみの深さを現わしている。経宗・惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。

2月22日、信西の子息が帰京を許され、入れ替わりに3月11日、経宗が阿波、惟方が長門に配流された。同日、師仲・頼朝・希義(頼朝の同母弟)もそれぞれ配流先に下っていった。6月には信西の首をとった源光保と子の光宗が謀反の疑いで薩摩に配流され、14日、殺害された。信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。

影響[編集][編集]

平氏政権の成立[編集][編集]

後白河上皇と二条天皇の対立は双方の有力な廷臣が共倒れになったため小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」(『愚管抄』)とあるように二頭政治が行われたが、乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも与することなく慎重に行動した。平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め、政治への影響力を増大させた。平氏の知行国も平家貞が筑後守、藤原能盛が壱岐守・安芸守、源為長が紀伊守となるなど、一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなった。さらに多くの軍事貴族が戦乱で淘汰されたため、京都の治安維持・地方反乱の鎮圧・荘園の管理の役割も平氏の独占するところとなり、国家的な軍事・警察権も事実上掌握した。清盛はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、永暦元年(1160年)6月に正三位に叙され、8月に参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権を形成していったのである。

異説[編集]

後白河上皇が平治の乱の背後にいたとする説[編集]

近年になって、河内祥輔が『平治物語』では、後白河上皇・二条天皇は藤原信頼に押籠められたことになっているが、『愚管抄』では二条は「とりまいらせ」、後白河は「すゑまいらせ」と区別され後白河が拘束を受けたとは書かれていないこと、『公卿補任』によれば、信西の子・俊憲の配流先の変更(越後国⇒阿波国)が信頼一派の壊滅後の翌年正月に行われている(配流を命じた信頼らが謀反人として討たれても、信西一族への処分は取り消されていない。2月になって赦免が出される)ことなどを挙げ、藤原信頼の信西殺害は後白河の命令によるものであったとする説を提示している。

同説ではそもそも鳥羽法皇が後継者として指名したのは二条天皇であり、後白河はその即位までの中継ぎに過ぎず、鳥羽法皇の死去によって本来であれば院政を行う資格のない後白河上皇が形式的に院政を行うことになったものとする。信西は経歴的に「鳥羽法皇の側近」であって、法皇の生前の意向通りに二条天皇による親政を実現させる役割を担っており、将来的には信西によって自己の院政が停止させられると考えた後白河が、二条の親政が始まる前に信西を排除して名実ともに自己の院政を実現させるために引き起こしたのが平治の乱であったと結論づけている(なお、河内説では「二条親政派」と後白河上皇の対立の開始を平治の乱以後とし、藤原経宗・惟方ら二条天皇側近もこの段階では信西との対立はあっても後白河とは対立していなかったとする。また、三条殿の炎上が信頼・義朝側の放火とする十分な裏付けは無く、失火ではないかと推測している)。ところが、信西と同様の立場に立つ三条公教によって二条天皇が平清盛の軍事的保護下に置かれ、公卿たちがそこに結集したことで公家社会に擁立された子の天皇が父の上皇と対決するという構図が形成されたために、後白河はやむなく信頼らを切り捨てた。つまり、25日の晩の二条天皇の六波羅行幸の段階で既に「平治の乱」は終わっており、翌日の戦闘は敗北を悟った義朝による最後の抵抗に過ぎず、清盛側から見れば残敵への掃討戦であったということになる。

この説に対しては元木泰雄が、「院の立場から信西を排除するなら罪をかぶせて配流すればよいはず」「二条親政を阻止するためには信西より二条側近の排除が第一のはず」「外戚である経宗が親政阻止に加担するのは不自然」「後白河が以仁王を含めた藤原成子所生の皇子を顧慮した形跡がない」との趣旨で批判している。古澤直人も「信西一家の台頭は貴族社会に深刻な動揺を与え、親政派と院政派の対立は後白河と二条の対立とは別の次元で進行していた(院近臣である信頼と親政派である経宗に"信西排除"の共通目標・大義名分を与えた)」「信頼が処刑された後も"信西排除"を掲げる経宗・惟方・源光保ら親政派が中央で健在である以上、信西の子への処分は取り消されなかった(ただし、配流の強行が院による親政派排除につながった可能性はある)」との趣旨で批判している。

保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説[編集]

一方、その元木は平治の乱の原因とされてきた「保元の乱における論功行賞」問題について、清盛が受領としては最上位で将来は公卿への昇進が約束されるのに対して、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に任じられて昇殿を許され、更に下野守重任、従五位上への昇進が認められたに過ぎない義朝が一族を犠牲しながらも奮闘した結果を考えると冷遇されてきたと考える古くからの見方に対して、恩賞の多寡を考えた場合正四位下刑部卿平忠盛の子で自身も保元の乱の段階で正四位下安芸守であった清盛と従五位下下野守であった義朝の間に格差がつくのは当然でしかも父親や弟が謀叛人として処刑された義朝が院近臣の重職である左馬頭に任じられてなおかつ河内源氏で初めて昇殿を許されたことは「破格の恩賞」であって、義朝が恩賞に不満を持っていたとは考えられないとする説を提示している。これについては本郷和人や高橋昌明もこれを支持する見方を示している。

これに対して、古澤直人は左馬頭が源経基源満仲父子が任じられて以来、清和源氏とゆかりが深い官職で、義朝が右馬助(下野守)から右馬権頭、更に左馬頭に昇進したのは一定の配慮の結果であることは認めている(古澤は左馬頭は院近臣としての要素よりも清和源氏の官職としての要素を重視する)。しかし、武家社会における恩賞の多寡の基準は現任の官位との比較以上に、平将門の乱の鎮圧で六位から四位に越階しなおかつ下野掾から下野守に昇進した藤原秀郷前九年の役の鎮圧で自身が正四位下伊予守に任ぜられただけでなく息子や郎党も任官に与った源頼義といった「先例」との比較であり、後に義朝の子である頼朝が源義仲追討の戦功で従五位下から正四位下に越階した際に秀郷の先例が持ち出されている(『吾妻鑑』寿永3年4月10日条)ことからも朝廷でも謀叛の鎮圧に対する恩賞の先例として意識されていたとしている。しかし、保元の乱における義朝への恩賞を検討してみると、秀郷や頼義と同じ「謀叛の鎮圧」という実績を挙げたにも関わらず、従五位上の昇進は乱の翌年まで持ち越しとされてかつ四位への越階はなかった、義朝と共に戦った子息(義平)や郎党に対しては任官などの恩賞はなかった、など武家の先例と比較すれば明らかに少ない恩賞であったとしている。そして、亡弊国(疲弊していて様々な負担が免除されていた国)である下野の国守に留まったことで内裏再建の成功における一部免除を受け(反対に成功による昇進が期待できない)、信西の子との婚姻を断られるなど、保元の乱における(武家の先例と比較した)義朝への恩賞の低さが、義朝と清盛の格差を更に拡大させたことで義朝が不満を深めたのが平治の乱の一因と考えるのが妥当であり、元木説は恩賞を与える側と与えられる側の意識のずれを考慮していないと批判している。


年表[編集][編集]

  • 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
  • 西暦は宣明暦の元日に合わせて変更している
和暦 西暦 月日

宣明暦長暦)

内容 出典
平治元年 1159年 12月4日 平清盛、熊野詣に出発 平治物語
12月9日 三条殿および信西邸が焼き討ち 百錬抄愚管抄
12月10日 信西の子ら解官、流刑 弁官補任平治物語
時期不明 平清盛、紀伊国二川にて京都の異変を知る。 愚管抄
12月14日 源義朝ら昇進、任官 愚管抄
12月15日 信西の遺骸が源光保に発見される 尊卑分脈
12月17日 信西の首が梟首される 同日、平清盛が帰京する 百錬抄

愚管抄

12月中旬 内大臣・藤原公教を中心に、二条天皇六波羅行幸の計画が練られる 愚管抄
12月25日 平清盛、藤原信頼に名簿を提出する(臣下の礼を取る)

同日夜、後白河上皇の内裏脱出と、二条天皇の六波羅行幸が実行された

愚管抄
12月26日 六波羅合戦 同日、藤原信頼が仁和寺に出頭 百錬抄

愚管抄

12月27日 藤原信頼処刑 愚管抄

帝王編年記

12月29日 源義朝、殺害される(日付については諸説有る) 愚管抄

平治物語

12月29日 平重盛、平頼盛ら乱平定功労者に恩賞が与えられる
平治二年

永暦元年

1160年 1月10日 永暦に改元
時期不明 藤原経宗藤原惟方、後白河上皇が御所としていた藤原顕長邸の桟敷の回りに板を打ち付けて視界をさえぎるという狼藉を行なう 愚管抄
1月26日 近衛天皇の皇后であった藤原多子が二条天皇のもとに入内する 帝王編年記
2月9日 源頼朝、捕縛される 清獬眼抄(せいかいがんしょう、『群書類従』公事部108)
2月20日 後白河上皇の命により藤原経宗・藤原惟方が平清盛の郎党によって内裏で捕縛される 愚管抄
2月22日 信西の子らが赦免される 清獬眼抄
2月28日 藤原経宗・藤原惟方、解官される
3月11日 藤原経宗・藤原惟方・源師仲・源頼朝・源希義、流刑に処される 清獬眼抄
6月14日 源光保、流刑に処される
6月20日 平清盛、正三位に叙される 公卿補任
7月9日 藤原公教死去
8月11日 平清盛、参議となる

平氏政権[編集]

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平氏政権
平氏揚羽蝶
概要
創設年 1167年
解散年 1185年
対象国 日本
政庁所在地 山城国 平安京六波羅

摂津国 福原京

代表 平清盛平宗盛伊勢平氏
備考
貴族的な性格を有しつつ、日本初の武家政権的性格も備えていた。
←  朝廷 鎌倉幕府
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日本の歴史
平氏の揚羽蝶紋
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
 王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
 平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
 南北朝時代 1337年 – 1392年
 戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
 鎖国 1639年 – 1854年
 幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
 GHQ/SCAP占領下 1945年 – 1952年
平成時代 1989年 – 2019年
令和時代 2019年 –     
Category:日本のテーマ史

平氏政権(へいしせいけん)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)における日本武家政権。創始者平清盛を中心とする伊勢平氏による政権であった。

清盛の館が京都六波羅にあったことから、六波羅政権(ろくはらせいけん)ともいう。


概説[編集]

以前、学界では平氏政権を貴族政権的な性格が強いとする見解が主流であったが、1970年代1980年代頃からは、平氏政権が地頭や国守護人を設置した事実に着目し、最初期の武家政権とする見解が非常に有力となっている。

平氏政権の成立時期については、仁安2年(1167年)5月宣旨を画期とする見解と、治承三年の政変1179年)の時点とする見解とが出されている。前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であり、源頼朝による諸国の治安維持権を承認した建久2年(1191年)3月新制につながるものと評価されており、武家政権の性格を持つ平氏政権がこの宣旨によって成立したとする見方である。一方、後者は、治承三年の政変の際に平氏勢力が従来の国家機構の支配権を掌握したことを重視している。一般的に平氏政権は12世紀中期から段階的に成立したのであり、仁安2年5月宣旨を大きな画期としつつ、治承三年の政変により平氏政権の成立が完了したものと考えられている。


歴史[編集]

前史[編集]

平氏政権に至る基盤形成は、白河院政期に遡る。平正盛は、桓武平氏貞盛流伊勢平氏に出自し、その父の正衡までは軍事貴族の中でもそれほど有力な一族ではなかったが、永長2年(1097年伊賀国の所領を六条院(白河上皇の娘・郁芳門院の御堂)に寄進して鞆田荘を成立させた。正盛は預所となり、周辺の東大寺領も取り込んで立荘するなど、白河の政治権力を後ろ盾に東大寺国衙の支配を除去して実質的な土地所有に成功した。立荘の背景には、東大寺や国衙の支配と収奪を逃れようとする田堵農民層と、自らの所領の拡大・安定を狙った正盛の間に利害の一致があったと考えられる。正盛は自らに服従した田堵を郎等家人にして、武士団を形成していった。

一方、白河上皇も権力維持のために、正盛の武力を必要としていた。当時の白河は院領が少なく、直属武力もほとんどなかった。しかも、白河に対抗する勢力として、異母弟・輔仁親王摂関家を始めとする伝統的貴族が存在し、田堵農民層を神人・寄人に組織して巨大化した寺社勢力の圧力も熾烈だった。これらの諸勢力を抑えて国政の主導権を確保するため、白河は自らの手足である院近臣や親衛隊ともいえる北面武士を、受領太政官兵衛府衛門府などの公的機関に強引に送り込んでいった。

このような情勢の中で北面武士になった正盛は、出雲源義親の濫行が起こると、嘉承2年(1107年)12月19日、追討使に抜擢される。翌年正月には早くも義親の首を携えて華々しく凱旋し、白河は正盛を但馬守任じた(ただし、その後も義親生存説が根強く残る)。これを契機に北面武士の規模は急激に膨張し、元永元年(1118年延暦寺強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『中右記』)。正盛は主に、北面武士・検非違使・追討使といった国家権力の爪牙として活躍するが、各地の受領も歴任した。当時、国衙は在地領主・田堵農民層との闘争でその支配体制が危機に瀕していたため、武力による補強が求められていた。

正盛の子・忠盛も父の路線を継承して、院政の武力的主柱となった。その役割は鳥羽院政期となっても変化はなく、牛馬の管理・御幸の警護を行う院の武力組織の中核ともいえる院御厩(いんのみうまや)の預(あずかり)となった。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神埼荘の預所となった忠盛は、大宰府の関与を排除して日宋貿易にも直接介入するようになった。

この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。鎮圧するには強力な武士棟梁を追討使にする他に手はなく、忠盛に白羽の矢が立てられる。忠盛は海賊追討に成功するが、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。忠盛は他の院近臣受領と同じく院への経済奉仕に励む一方で、荘園の預所・受領・追討使の地位を利用して在地勢力を自らの私兵に編成するなど、武士団の増強も怠らなかった。これは院の権威のみを頼みとする通常の院近臣とは、決定的に異なる点だった。

仁平3年(1153年)忠盛が没したとき、藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」(『宇槐記抄』)と評したが、これは平氏の実力の大きさを物語っている。忠盛の築いた経済的・軍事的基盤は、子の清盛に継承された。

形成期[編集]

保元元年(1156年)、治天の君及びの座をめぐる対立が激化し、保元の乱が発生した。この乱で清盛は後白河天皇に味方し、その武功により播磨守となった。その後、政治を主導する信西と後白河院政派(藤原信頼藤原成親源師仲)・二条親政派(藤原経宗藤原惟方)の対立が激しくなり、3年後の平治元年(1159年)に平治の乱が起こった。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。

平治の乱後の永暦元年(1160年)、清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だった。乱後、後白河上皇と二条天皇の対立はしばらくの小康状態を経て再燃するが、武士で最大の実力者となっていた清盛は室の時子が二条の乳母であったことから、天皇の乳父として後見役の地位を得て検非違使別当中納言となった。その一方で後白河院庁別当として後白河への奉仕も怠らず、両派の争いに巻き込まれないように細心の注意を払った。時子の妹・平滋子(建春門院)が後白河の皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)を出産すると、平時忠平教盛らはその立太子を画策したことで二条の逆鱗に触れて解官、後白河院政は停止された。ここに至り、清盛は院政派の反発を抑えるため皇居の警護体制を整えるなど、二条支持の姿勢を明確にした。さらに関白近衛基実を娘の盛子の婿に迎え、摂関家にも接近する姿勢をとった。

永万元年(1165年)に二条天皇が崩御した。前後して前関白藤原忠通1164年 薨去)、太政大臣藤原伊通1165年薨御)、摂政近衛基実1166年薨去)など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。清盛は院近臣の昇進の限界とされていた大納言となり女婿の基実を補佐していたが、基実が急死して後白河院政が復活すると「勲労久しく積もりて、社稷を安く全せり。その功、古を振るにも比類少なければ、酬賞無くてやは有るべき」という理由で仁安元年(1166年)に内大臣へ昇進した。大臣に昇進できたのは摂関家中御門流花山院流も含む)・村上源氏閑院流に限られていて、清盛の昇進は未曾有のものだった。なお翌年には太政大臣となるが、太政大臣はすでに実権のない名誉職となっていて、清盛は僅か3ヵ月で辞任している。

この時期の清盛の出世について「当時の貴族社会の中では清盛を白河上皇の落胤とする説が信じられており、このことが清盛の異例の昇進に強く影響した」という説もある。一方、橋本治はこれについて憲仁親王が立太子の式を挙げた場所が摂関家の正邸・東三条殿であったことに注目し、東三条殿の当時の所有者が清盛の娘の盛子であった(基実はこの立太子式の3ヶ月前に薨去)ことが強く影響したという説を立てている。橋本によれば、清盛はこの状況を奇貨として滋子の生んだ皇子の養母を「先の摂政の未亡人」である盛子に引き受けさせ、「東宮の養母の父親」である清盛が内大臣や太政大臣に出世する口実としたとされる(橋本2006:22-24)。

全盛期[編集]

仁安3年(1168年)、六条天皇が退位して憲仁親王が即位した(高倉天皇)。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河の院司として精力的に貢献を重ねてきた。応保2年(1162年)、後白河が日宋貿易の発展を目論んで摂津大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。

清盛は、若い頃から西国国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守播磨守を務めた時は瀬戸内海海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。

また、基実が薨去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室・盛子に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ基房は平氏による押領だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。

以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。

この時期、後白河は院政の強化を図っており、清盛の長男平重盛に軍事警察権を委任し、東海道東山道山陽道南海道の追討を担当させた。また、内裏の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって、院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。

仁安3年(1168年)に清盛は出家した。政界から引退して福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めた。後白河も清盛の姿勢に理解を示し、嘉応元年(1169年)から安元3年(1177年)まで毎年のように福原の山荘へ赴いた。嘉応2年(1170年)後白河は福原山荘にて宋人と対面しているが、これは宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であり、九条兼実は「我が朝、延喜以来未曾有の事なり。天魔の所為か」(『玉葉』)と驚愕している。同年に藤原秀衡鎮守府将軍になるが、日宋貿易の輸出品であるの貢納と引き換えに任じられたと推測される。これについても兼実は「夷狄(いてき)」の秀衡を任じたことは「乱世の基」であると非難しているが、これらの施策により日宋貿易は本格化していった。

承安元年(1171年)、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇中宮とした。清盛一族と同様に、建春門院に連なる堂上平氏(高棟流)も栄達し、両平氏から全盛期には10数名の公卿殿上人30数名を輩出するに至った。『平家物語』によれば、平時忠は「平家一門でない者は人ではない(この一門にあらざれば人非人たるべし)」と放言したと伝えられている。

動揺期[編集][編集]

長らく続いた後白河と清盛の良好な関係は、安元2年(1176年)の建春門院の死によって大きな変化が生じ始めた。後白河の寵愛する建春門院は、後白河と清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は、両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった。

高倉天皇は成人して政治への関与を深めていたが、後白河も院政継続を望んでいたため、高倉を擁する平氏と後白河を擁する院近臣の間には人事を巡って鋭い対立が生じていた。院近臣の藤原定能藤原光能蔵人頭になったことに対抗して、平氏側からは重盛・宗盛がそれぞれ左大将右大将になるなど、しばらくは膠着状態が続いた。後白河は福原を訪れて平氏との関係修復を模索するが、ここに突然、新たな要素として延暦寺が登場する。加賀守藤原師高目代であり弟である藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師高・師経の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。この強訴では、重盛の兵が神輿を射るという失態を犯したことで延暦寺側に有利に事が運び、師高の配流・師経の禁獄で一旦は決着する。

安元3年(1177年)4月には、大内裏大極殿・官庁の全てが全焼する大火が発生した(太郎焼亡)。この大火は後白河に非常に大きな衝撃を与えた。このような中で延暦寺への恨みを抱く西光は後白河に、天台座主明雲が強訴の張本人であり処罰することを訴えた。明雲は突如、座主を解任されて所領まで没収された上、伊豆配流となった。激怒した延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、ここに延暦寺と院勢力との抗争が再燃することになった。後白河は清盛に延暦寺への攻撃を命じるが、清盛自身は攻撃に消極的であり、むしろ事態を悪化させた後白河や西光に憤りを抱いていた。延暦寺攻撃直前の6月1日、多田行綱が、京都郊外の鹿ヶ谷で成親、西光、俊寛ら院近臣が集まり平氏打倒の謀議をしていたと密告した。清盛は関係者を速やかに斬罪や流罪などに処断した(鹿ケ谷の陰謀)。陰謀が事実であったかは定かでないが、これにより清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができ、後白河は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまった。また、成親と婚姻関係を結び、一貫して盟友関係にあった重盛の平氏政権後継者としての地位は、彼が清盛の現在の正室であった時子の所生ではないこともあって、動揺することになる(重盛は清盛最初の正妻であった高階基章の娘の所生)。

清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し、高倉もまた後白河院政からの独立を志向し、翌治承2年(1178年)、両者は連携して新制17条を発布した。同年には中宮・徳子が高倉の皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を出産、同親王は生後1月で皇太子に立てられた。

治承3年(1179年)重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河は関白基房と共謀し、清盛に無断で重盛の知行国越前)と盛子の荘園を没収した。特に盛子の所領は高倉が相伝することが決まっていたため、高倉・清盛側と後白河側の対立は悪化の一途をたどった。11月14日清盛は福原から上京すると、基房・師家父子を手始めに、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人受領検非違使など31名)を解官、後白河も鳥羽殿へ幽閉した。これは事実上、軍事力による朝廷の制圧であり後白河院政は完全に停止された。以後、平氏政権はますます軍事的な色彩を強めていく。この治承三年の政変をもって、武家政権としての平氏政権が初めて成立したとする見解もある。従前の高官に代わって平氏一族や親平氏的貴族が登用され、また知行国の大幅な入れ替えもあって中央・地方の両面において平氏一門を中心とする軍事的な支配体制が強化していった。

同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、平氏の勢力基盤の西国のみならず、東国にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は本家などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、領家や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、荘園においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、武士による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の鎌倉幕府による本格的な武家政権支配と比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの守護地頭の祖形だと考えられている。

治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王に譲位(安徳天皇)、平氏の傀儡としての高倉院政が開始された。清盛が先のクーデターを起こし得た要因の1つとして、言仁親王の誕生によって清盛自らが治天の君(高倉天皇→高倉上皇)と今上(言仁親王→安徳天皇)を擁立することが可能になったことが挙げられ、この譲位によって平家は単なる軍事的・警察的な側面で朝廷に奉仕する権門から、皇位継承に直接関与できる権力集団へと上昇することができ、名実と共に武家政権として確立されたとする見解もある。

平氏は軍事貴族の枠を超えて政治の実権を掌握したが、後白河の幽閉は多くの反対勢力を生み出し、高倉院政もクーデターで成立した政権であるため平氏の軍事力に支えられている面が大きく、その正統性に疑問があった。さらに新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が発生するなど、平氏政権は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。


衰退・消滅期[編集]

詳細は「治承・寿永の乱」を参照

清盛は高倉院政の開始に当たって、高倉とともに安芸国厳島への社参を行った。しかしこれは、代替わりに石清水八幡宮賀茂神社へ社参するという慣例に反するものであり、園城寺興福寺などは一斉に清盛へ反抗の姿勢を見せ始めた。反清盛の気運が高まる中、治承4年(1180年)4月には以仁王(後白河の第 3皇子)が平氏追討の令旨を発し、源頼政と結んで挙兵した。しかし清盛は迅速に対応し、平氏軍は以仁王と頼政をすぐに敗死へ追い込んだ。しかし叛乱に興福寺や園城寺などの有力寺院が与したことから、清盛は平氏にとって地勢的に不利な京都からの遷都を目指して福原行幸を決行した。

ところが高倉上皇が平安京を放棄しない意向を示すなど、この遷都計画は貴族らに極めて不評であり、朝廷内部に清盛への反感が募っていった。さらに、以仁王の令旨を受けて、東国源頼朝木曾義仲武田信義らが相次いで反平氏の兵を挙げ、さらに多田源氏美濃源氏近江源氏河内国石川源氏九州菊池氏、紀伊熊野の湛増土佐国源希義らも反平氏の行動を始めていた。こうした反平氏の動きの背景には、平氏が現地勢力を軽視して自らの家人や係累を優先して平氏知行国や平氏所領の支配に当たらせていたことへの反発があった。特にクーデター国司が交代した上総相模では、源頼朝の下に武士たちが瞬く間に集結して一大勢力を形成しており、清盛は孫の維盛に追討軍を率いさせたが、富士川の戦いであえなく敗走してしまった。

福原への行幸以降、貴族の不満も高まり、高倉上皇の健康が悪化していくなか、親平氏派の延暦寺(彼らは園城寺興福寺と敵対関係にあったが、遷都には不満を抱いていた)などからの要望を契機として、福原行幸から半年後の11月、清盛は福原から京へ戻った。翌12月、園城寺興福寺などが反平氏の挙兵を行ったため、清盛は断固とした態度で臨み、知盛率いる軍は園城寺を焼き払い近江源氏を撃破、重衡率いる軍も南都(奈良)の諸寺を焼き払って荘園を没収した(南都焼討)。これにより畿内周辺の叛乱はひとまず沈静化した。

治承5年(1181年)1月、高倉上皇が崩御し、後白河院政が再開されたが、畿内に臨時の軍政を布くべしという高倉の遺志に基づいて、清盛は嫡子の宗盛を畿内周辺を直接管領する惣官に任じた。この惣官職は、畿内近国を軍事的に直轄支配することを目的に設置されたもので、平氏政権の武家政権としての性格を如実に表しており、平氏政権が本格的な武家政権へ成長していく可能性をここに見出しうると、学界では考えられている。清盛はこれにより京の富裕層から兵粮を徴収すると同時に、伊勢周辺の水軍に動員をかけて、反平氏勢力の追討に意欲を燃やしていたが、同年閏2月に熱病で急死し、平氏政権は大きな打撃を受けた。

清盛の死後、跡を継いだ宗盛は後白河との融和路線を採り、各地の叛乱も平氏の反撃と養和の大飢饉で小康状態となった。しかし、寿永2年(1183年)7月に木曾義仲の軍が北陸から一気に京へ進軍すると、義仲軍に主力を壊滅させられていた平氏は、ついに安徳天皇を伴って京を脱出し大宰府に下向するが、豊後武士緒方惟栄に撃退され屋島にたどり着いた。この時点で平氏政権は、貴族社会に形成してきた基盤を捨て、西国の地方政権へと転落した。後白河は平氏と行動を共にせず、京に残って孫の後鳥羽天皇を即位させたが、これにより天皇が2人存在するという未曾有の事態となった。

平氏は、西国の勢力を再編成して軍の再建を進め、瀬戸内沿岸で義仲軍を徐々に押しやり、寿永3年(1184年)1月に義仲が鎌倉軍(源範頼源義経軍)に滅ぼされる頃には福原を回復するまでに至っていた。平氏は、後白河の仲介による京への復帰を目指していたが、後白河にすれば平氏が政権に復帰することになれば再び院政停止・幽閉となる危険性があり、和平はありえなかった。平氏は半ば騙し討ちを受けた形で一ノ谷の戦いに敗北し、西下していった。

その後、平氏は西国の諸勢力を組織して戦争に当たっていたが、元暦2年(1185年)3月、関門海峡での最終決戦(壇ノ浦の戦い)で義経軍に敗れて滅亡し、平氏政権は名実ともに消滅した。

鎌倉時代[編集]

鎌倉時代(かまくらじだい、諸説あり - 元弘3年/正慶2年(1333年))は、日本史幕府鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。

始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずとも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)になっている。さらに承久の乱後に全国の支配権を得た1221年説もある。(詳細は鎌倉幕府#概要参照)


鎌倉時代の政治[編集][編集]

鎌倉時代は武士政権を獲得した時代と一般には認識されているが、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷公家寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷と武家の二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移行していく時代とみるのが適切であろう。

鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。源氏河内源氏源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家摂家将軍)、後には皇族皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦宝治合戦平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中。執権在職者も幕府最高権力者というわけではなく、宮騒動二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人は排除された(得宗専制)。

北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。先の北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。北条貞時の代になると御内人の権力は増長し、得宗の権威すら凌ぐようになり、貞時は平禅門の乱平頼綱を討ち得宗へ権力を戻そうとするも、末期には政治への無関心から再び御内人が実権を握った。

また、貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。1284年弘安徳政、さらに1297年永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。


概要[編集]

成立過程の概略[編集]

まず1180年治承4年)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷寿永二年十月宣旨1183年)で頼朝に対し、東国における荘園公領からの官物年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年(1185年))で朝臣を滅ぼし、同年、文治の勅許(文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして建久元年(1190年)頼朝が大納言右近衛大将任じられ公卿に列し荘園領主家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には征夷大将軍宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的であったが次第に範囲を拡大し、承久の乱元寇を経て、得宗家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至った。

経済と社会[編集][編集]

守護・地頭[編集][編集]

1185年に、源頼朝大江広元の献策を容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護地頭を設置する。守護は一国に一名ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職。地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割であった。鎌倉幕府の権威を背景に荘園を侵略。豊作凶作にかかわり無く一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる地頭請や、荘園を地頭分と領家分に強引にわける下地中分など、一部で横暴も多くあった。

商工業[編集][編集]

農業[編集][編集]

室町時代とは区別がはっきりしていない。

  • 名田
  • 二毛作:米の裏作として麦を栽培する。(畿内や西国)
  • 早稲・中稲・晩稲:品種改良。
  • 刈敷・草木灰・下肥:肥料の使用。
  • 牛馬耕:牛馬に犂を引かせる。
  • 水車:田への揚水。
  • 商品作物:荏胡麻など。

対外関係[編集][編集]

鎌倉時代の文化[編集][編集]

詳細は「鎌倉文化」を参照

鎌倉文化の特徴は、文化の中心地は平安時代と変わらず京都奈良であるが、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗した点で、文化の二元性が出てきたところにある。

作風は、一般に素朴で質実、写実的と言われる。中国(宋・元)からの禅文化の影響も色濃い。

文学[編集][編集]

歌集[編集][編集]

随筆[編集][編集]

日記・紀行文学[編集][編集]

軍記物語[編集][編集]

説話集[編集][編集]

仏教説話集[編集][編集]

歴史書[編集][編集]

宗教[編集][編集]

仏教の革新運動[編集][編集]

鎌倉仏教」も参照

12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆すると、南都仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた大衆の救済への志向であり、国家から自立した活動が行われた。

これは保元の乱平治の乱から治承・寿永の乱と続く戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためである。また、仏教の一般大衆化も推進された。

平安時代を通じて鎮護国家を担う山門(比叡山延暦寺)勢力は教義の教えや体系的な学問に励む一方、加持祈祷や僧兵の武力を通じて、政治権力を持つようになった。その一方で、円仁が比叡山に伝えた念仏三昧法から源信の天台浄土教、良忍融通念仏宗など浄土教の興隆があった。また、天台宗はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を取っていた。鎌倉新仏教の開祖たち(一遍を除く)は比叡山に学んでおり、比叡山は一切衆生の救済を説く鎌倉新仏教を生む母胎であった。

南都仏教復興運動[編集][編集]

新仏教の台頭に対抗後、旧仏教の側は念仏批判をすると、戒律を重んじて、腐敗している旧仏教内部の革新を進めた。また、一切衆生の救済を強く志向すると、ハンセン病救済事業や、非人救済、橋の架橋を行うなど社会事業を熱心に進めた。

渡日した禅僧[編集][編集]

の侵攻による南宋の圧迫と滅亡から、禅宗の知識人が日本に渡ってくることがあった。いずれも幕府の指導者に影響を与えた。

反本地垂迹説[編集][編集]

元寇の勝利によって民族的自覚が強まり、日本は神国であるという「神国思想」が生まれた。神本仏従の習合思想が成立した。

彫刻[編集][編集]

建築[編集]

絵画[編集]

書道[編集][編集]

工芸[編集][編集]

人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 坂井孝一『承久の乱:真の「武者の世」を告げる大乱』
  2. ^ 近藤成一 「鎌倉幕府と公家政権」(初出:宮地正人 他編『新体系日本史1 国家史』(山川出版社2006年平成18年))/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房2016年(平成28年)) ISBN 978-4-7517-4650-9

概論[編集]

これまでの平安時代が公家文化が日本の中心の政治に深く根差してきたのに対し

ここでは武士が台頭してきた時代ともいえます。

以後の時代は明治にいたるまで

日本は武士が政治の中心でした。

武士とは?[編集]

武士(ぶし)は、日本での戦闘員を指し、戦闘を家業とし家系を持つ者を指す。10世紀から19世紀にかけて存在した。

宗家の主人(家長家人御家人」・家子)を頂点とした家族共同体家産官僚制官司請負制)を作っていた特徴がある。

武家の棟梁が最頂点に位置する。畿内に本拠地を置いたが、幕府を開いた鎌倉幕府江戸幕府関東に本拠地を置いた。

概要[編集]

同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者など)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする。


「もののふ」(cf. wikt) とも読みならわす。

武士は平安時代に発生し、その軍事力を以って貴族支配の社会を転覆し、古代を終焉させたと理解される。旧来の朝廷を傀儡として維持したまま、武士が実質的に政権を主導する中世社会を構築した。さらに、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したが、初期の明治政府の構成員は殆どが元武士であり、中心的存在であった。

ただし、「武士」という言葉自体は平安時代に使われることは希であった。「武者」という言葉なら平安時代中期の『高山寺本古往来』の、有名な「松影是雖武者子孫(松影はまことに武者の子孫なりと雖も)」という下りにも出てくる。『今昔物語集』は12世紀初頭の成立といわれるが、呼ばれ方は「兵(つわもの)」「豪の者」である。源平の争乱の時代、つまり12世紀末でも「武者」「弓箭の輩」が多かった。鎌倉時代でも「公家」に対して「武家」である。

起源については大伴氏[要出典]物部氏の名に求める説など諸説がある。


武士起源論[編集]

武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。

  • 古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)
  • 近年提起された、職能に由来するという説(職能論)
  • 律令制下での国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)

在地領主論[編集]

武士の起源は私営田の在地開発領主であり、抵抗する配下の農奴と介入する受領とに対抗するために「武装した大農園主」とする。

武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。明治時代の歴史学者三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された。当時の欧米史学では、中世は欧米に特有のもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。アジア・アフリカはいまだ(当時)古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」と、日本は近代化できると主張した。

この学説は広く受け容れられ、唯物史観の影響も受け、戦後も学界の主流を占めることとなった。武士とは、古代支配階級である貴族宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者として石母田正らによって位置づけられた。

職能論[編集]

しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏平氏藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。

そこで、佐藤進一上横手雅敬戸田芳実高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。

武官と武士の違い[編集]

武士は、一般に「家族共同体あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い征夷大将軍坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、中国朝鮮の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。中国の官僚登用試験では文官科挙武官は武科挙で登用するなど試験段階から分けられていた。

時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は国風文化の成立期にあたる平安中期(10世紀)に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあっても武士ではない。

では、武官と武士の違いとは何か。

簡単に言えば、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。

また、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと捉える見解もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。

軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。

王朝国家体制では四位五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在清和源氏桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。

よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりも、むしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。

また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられるとともに、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。

言わば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。

なお、これとは別に中世の前期の頃までは、他者に対して実力による制裁権を行使できる者を公卿クラスを含めて「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、院政下で活躍した北面武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶神官などが多数含まれていることでも分かる。

武士 あれこれをかんがえる。[編集]

前置き[編集]

「武士道とは死ぬこととと見つけたり」これは、江戸時代の書物の「葉隠」からきたものですが

筆者がなぜ武士にここまで思いをめぐらせるのかといえばいえば、

まさしく、戦争以前の日本軍が武士を手本にしてきたからです。

第2次世界大戦で日本は敗戦し、外地の国々に多大な多大な迷惑をかけてきたおとに

どのようにして向き合えばよいかを考えてみたいと思いウィキペディアの文章を拾ってみました。

本来の武士は貴族を護衛する人達でした。

平安末期あたりから、貴族同士の権力あらが絶えず。

そんな中で、荘園を護衛する立場だった。源氏と平氏が政治に参加できるようになっていきました。

清和源氏と桓武平氏[編集]

平安時代以前の天皇の時代から源氏と平氏が存在していたのにはおどろきました。

桓武天皇は、飛鳥時代の天皇です。

清和天皇は、平安時代の初期の天皇でした。

桓武天皇も、清和天皇も系図を見るととても子息や皇女が多いのにきずきます。

平氏、源氏、藤原氏、橘氏はいわば大化の改新以来の宮家では?

とすれば、平氏も源氏も、もともとは天皇の親戚筋だったのではないかと思われます。

葉隠について[編集]

葉隠は、江戸時代の武士山本常朝という人が書きました。

この書物が書かれた元禄時代は戦争もなく、平和な時代に

なり、本来の武士の本質を忘れてしまうことに

この山本氏が嘆き、佐賀藩士の田代氏に話して聞かせたものを

田代氏が書いたものです。

先に掲げた、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは

命を犠牲にして戦えというのではなく、

毎日、生きている中で死ぬ気で頑張ればそれは報われるとも受け取れます。

葉隠は、明治になってから、海外に紹介され

多くの外国人に感動をあたえます。

葉隠 序文[編集]

原文

二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)二つ〳〵の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。

現代語訳

どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。

新渡戸稲造[編集]

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本教育者思想家農業経済学農学の研究も行っていた。

国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

葉隠が書かれ始めたのが宝永6年(1716年)ということは100年後に新渡戸氏によって海外に紹介されたことになります。

時は文明開化の時代を過ぎて大正時代のまっただなかのころでした。

五輪書[編集]

宮本武蔵という人が晩年に書き上げた兵法書です。

五輪書』(ごりんのしょ)は、宮本武蔵の著した兵法書。武蔵の代表的な著作であり、剣術の奥義をまとめたといわれる。

寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされる。

自筆本である原本は焼失したと伝えられる。写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。






元寇  鎌倉武士団とモンゴル帝国の戦い[編集]

プロローグ

鎌倉時代は、武士が登場し平氏てから初めて政権をとって朝廷から政治を任された。

ずっと時代はさかのぼるが、この時代の戦いはかなり誇張された形で、後に軍部に政治宣伝につかわれていたのだが、

日本人にとって世界をみていた人々のものがたりでもある。

非常に興味深いものでもあるのである。

源頼朝の挙兵[編集]

源頼朝公は、清和源氏とよばれ天皇の子孫の平氏ながれをくむ中流貴族にうまれました。

当時は平安時代の末期で国々は安定はしていたものの、藤原氏にすべて権力が集中して矛盾した状態が続き

貧富の差がとても激しい時代でもありました。

源氏と双璧の勢力が平氏という中流貴族で、九州地方で、海賊の討伐をして財をなし朝廷にも信用が熱い勢力でした。

このときの平氏のリーダーが平清盛公というひとでした。

清盛公がどんなことを考えていたか、その当時の中国は明という国で、これまでの髄という国や唐という国と日本が交易をしていたのにならって

明と貿易を考えていました。やがて明は滅ぼされ元という国が誕生しますが・・・・。

元はモンゴルの奥地の遊牧民の部族で構成され、成吉恩汗(ジンギスカン)という人がリーダーでした。

平氏は、政略結婚で、天皇家と縁戚関係を持ち清盛さんの代になってとても権威のある勢力になりましたが、

一部の弱小勢力の間で恩賞に対する不満がもちあがり。

源頼朝さんが挙兵しました。

源平合戦[編集]

平氏は、清盛公が亡くなった後、急速にその威信を失いはじめ、

源義経さんの戦略の匠などにより次々と各地の戦争で敗れ

ついに壇ノ浦で滅亡します。

源氏と平家の物語は、日本の文化に大きな影響をあたえます。

その後、源氏は頼朝公が亡くなり

その孫の実朝さんの時に甥に暗殺され源氏の血筋がとだえ

北条氏が実権をにぎります。

鎌倉時代の文化[編集]

このころの鎌倉は鎌倉彫とよばれ、運慶という彫刻家の力強い彫像がつくられ、

その後の日本の芸術に大きな影響をのこしました。

運慶とその時代[編集]

運慶(うんけい、生年不詳 - )は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師

運慶の経歴[編集]

出生[編集]

運慶は興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子であるが詳しい生い立ちは分かっていない。円成寺大日如来像造像銘中に「大仏師康慶実弟子運慶」とあり、この「実弟子」は「実子である弟子」の意と解釈されている。長男湛慶が承安3年(1173年)生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から知られ、その父である運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される。

初期の活動[編集]

運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の大日如来(en:Dainichi Nyorai (Enjō-ji))像である。寿永2年(1183年)には、以前から計画していた『法華経』の書写を完成した。この『法華経』は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人蔵、国宝)。経の奥書には48名もの結縁者の名が記され、その中には快慶をはじめ、実慶宗慶源慶静慶など後に仏師として活躍することの知られる者が含んでおり、一門をあげての写経だったことがわかる。

興福寺再興事業への参加[編集]

治承4年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する慶派の奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では運慶の父である康慶が南円堂の造仏を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂(じきどう)の造仏を担当することとなった。

鎌倉幕府への接近[編集]

成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝勝長寿院本尊阿弥陀如来像を造るため鎌倉に下向した(『吾妻鏡』)。一方、運慶は文治2年(1186年)正月の時点で興福寺西金堂本尊釈迦如来像の造像に携わっていたが(『類聚世要抄』)、その直後、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市願成就院阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている(阿弥陀如来像を除く各像像内に納入の五輪塔形銘札)。またその3年後、文治5年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている(不動明王・毘沙門天像像内納入の月輪形銘札)。

東大寺での仕事[編集]

治承4年(1180年)の南都焼討で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている。建久5年(1194年)から翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる。建久7年(1196年)には康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約14メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している(『鈔本東大寺要録』『東大寺続要録』)。以上の諸像はその後建物とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約8.5メートルに及ぶ巨像2躯は、1988年から1993年にかけて解体修理が実施された。その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた。4人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている。この功績により、建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった。

承元2年(1208年)から建暦2年(1212年)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の諸像を造っている(『猪熊関白記』、弥勒仏像像内納入品)。これらのうち弥勒仏像、無著菩薩・世親菩薩像が北円堂に現存し、運慶晩年の完成様式を伝える。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。同堂四天王像はいま平安時代初期造立の木心乾漆像に替わっているが、興福寺南円堂に伝来した四天王像が本来の北円堂像であった可能性が説かれている。

最晩年の運慶の仕事は、源実朝北条政子北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保4年(1216年)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている。

同像の納入文書の記載によれば、本像は大日如来像、愛染明王像とともに造立されたものだが、これら2像は現存しない。

新古今和歌集  その功績と現代の文学に与えた影響[編集]

新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾る。略称は『新古今集』(しんこきんしゅう)。

文学の面でも優れた文学がのこされました。

新古今和歌集の成立過程[編集]

平安時代末期、宮中歌壇では和歌を業とする家として六条家御子左家が対立していたが、安元3年(1177年)に六条家の代表というべき藤原清輔が死去すると、御子左家の当主たる藤原俊成歌人として重んじられるようになり、第七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』を撰進するにいたった。さらに後鳥羽院が即位すると、俊成は宮中の主要な和歌の行事に息子の藤原定家を参加させるなど、御子左家の勢力拡大に努めた。『新古今和歌集』の編纂が始まったのは、和歌に格別の関心を寄せる後鳥羽院が譲位し、宮中歌壇における御子左家の地位がおおむね固まった時期であった。

『新古今和歌集』は、後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集である。勅撰集を編纂するための部局「和歌所」が後鳥羽院の御所に置かれ、後鳥羽院自身も歌を親撰するなど深く関わった。院歌壇の歌人のほとんどが編纂に関わり、何十年にもわたって改訂が続いたという八代集の中でも稀有な存在である。

編纂の方針は「先ず万葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾ふ」(真名序)、すなわち『万葉集』とそれまでの勅撰和歌集に採られなかった和歌より撰ぶとした。撰者は『古今和歌集』や『後撰和歌集』にならい複数人とし、 源通具六条有家・藤原定家・藤原家隆飛鳥井雅経寂蓮の6人が後鳥羽院の院宣により定められた。ただし寂蓮は撰集のための和歌を集めている時点で没しており、実際の撰集作業は寂蓮以外の5人の撰者で行われた。

建仁元年(1201年)7月、和歌所を設置、その際11名の寄人源家長開闔に任命される。同年11月には寄人の中から上記の通具以下6名を撰者とする旨の院宣が下り、建仁3年の4月ごろまでに撰者たちが撰集の材料とすべき和歌を上進している。それらの和歌に後鳥羽院が目を通して撰び、それを清書して集に採るべきものとした。元久元年(1204年)にはいよいよ歌集としての体裁を整える編集作業に移り、翌年3月26日に完成としてそれを記念する宴である竟宴が後鳥羽院の御所で催された。しかし、このとき仮名序はまだ用意できておらず、定家は勅撰和歌集の完成を理由に竟宴を催すのは例のないことと批判している。その後も建保4年(1216年)12月まで「切り継ぎ」(改訂)の作業が続いた。『新古今和歌集』の成立過程の時期をまとめるとおよそ以下のようになる。

  1. 建仁元年(1201年)の下命時から、撰者たちが歌を集めてくるまでの時期。代々の勅撰集に漏れた秀歌や、『六百番歌合』(九条良経主催)と『千五百番歌合』(後鳥羽院主催)が撰歌の母胎となった。
  2. 上皇自らにより歌の吟味、選別をした時期。
  3. 歌の部類、配列をした時期。撰者以外の寄人も作業に加わる。元久元年までにいったん完成し、奏覧された。
  4. 歌の修正、切り継ぎをした時期。承元4年(1210年)から建保4年の間に最終的に完成した。
  5. しかし、後鳥羽院は承久の乱(1221年)により隠岐に流され、19年の月日を過ごしたが、その晩年に『新古今和歌集』から400首ほどを除き彫琢を加え、これこそが正統な『新古今和歌集』であると主張した(「隠岐本識語」)。これを「隠岐本」と呼ぶ。この「隠岐本」を後鳥羽院は藤原家隆に送っている。

構成[編集]

全20巻で以下の通り(『新日本古典文学大系』所収本による)。『古今和歌集』にならい、「真名序」と「仮名序」の2つの序文がある。

  • (真名序)
  • (仮名序)
  • 巻第一 春歌 上
  • 巻第二 春歌 下
  • 巻第三 夏歌
  • 巻第四 秋歌 上
  • 巻第五 秋歌 下
  • 巻第六 冬歌
  • 巻第七 賀歌
  • 巻第八 哀傷歌
  • 巻第九 離別歌
  • 巻第十 羇旅歌
  • 巻第十一 恋歌 一
  • 巻第十二 恋歌 二
  • 巻第十三 恋歌 三
  • 巻第十四 恋歌 四
  • 巻第十五 恋歌 五
  • 巻第十六 雑歌 上
  • 巻第十七 雑歌 中
  • 巻第十八 雑歌 下
  • 巻第十九 神祇歌
  • 巻第二十 釈教歌

伝本によっては仮名序を冒頭に置き、真名序を巻末に置くものもある。真名序は藤原親経、仮名序は藤原良経の執筆による。歌数は八代集中最多の1,970首あまり(伝本によって歌数に相違がある)、歌はすべて短歌である。配列は巧みで、四季の巻は季節の推移順、恋歌は恋の進行程度順に並べられており、古代の歌人と当時の歌人の作を交互に置いてある。

入集した歌人のうちでは西行の作が94首ともっとも多く、以下慈円、藤原良経、藤原俊成式子内親王(女流最多)、藤原定家、家隆、寂蓮、後鳥羽院の順である。万葉歌人の作も多少含まれている。

承久の乱と北条氏の権力闘争[編集]

北条時政の権勢と終焉

源頼朝が築いた鎌倉幕府であったが、源氏の直系の実子がこの時点でいなかったために、実朝以後の将軍はただの象徴でしかなくなり、執権と呼ばれる官職がつくられ、北条時政という人が実権をにぎります。この時期に幕府に影響力があったひとといえば、梶原景時と言う人と比企氏という勢力が発言力をもっていました。

北条氏は平家に近い親戚で、政略結婚によるによる勢力基盤を考えていたのが、頼朝挙兵以前の北条時政の構想でした。

その構想の変更を考えなくてはならなくなったのは、平家が東国よりも西国の武士に重点的に重きをなしていることに対して、配下の武士の不満が抑えきれなくなったことが、始まりで、衝撃的な事件だったのが、以仁王と呼ばれる天皇の親族が源頼政とともに挙兵したことでした。

この時に出された綸旨が全国に広まって平家打倒の機運がたかまります。

そんな中で、時政の娘政子が、頼朝の元に嫁ぐのでした。

頼朝と北条政子は恋愛の末での結婚とされている。

しかしながら,奥州藤原氏が平定された後、源頼朝は鷹狩の最中の馬からの落馬により、命を落とします。

頼朝の後継者は頼家に決まり一応安泰のようにみえました。

しかし、頼家の政策は独自のスタンドプレーに追うところが多く、御家人達と溝ができました。

北条時政の略歴[編集]

頼家の幽閉

ほどなく、源頼家は、修善寺(今の伊豆の国市)に幽閉されます。

そのちょっと前に鎌倉幕府初期の大立者だった梶原景時が反乱をおこし、一族が皆殺しにあい滅亡する事件がおきます。

梶原景時は、源義経とも対立して奥州まで追放して平泉で打ち取った経緯もあり

長らく悪人とされた時期がありました。

後鳥羽天皇はこれを幕府から権力を奪おうとする好機とうかがっていました。

それから、北条時政公の略歴を見てみたいと思います。

北条 時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士北条氏の一門。武将。伊豆国の在地豪族北条時家北条時方(もしくは時兼)の子。北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権

家系桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。

生涯[編集]

頼朝の舅[編集]

柳庵随筆(日本随筆大成第2期第9巻)の時政。画:栗原信充 平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流された事によりその監視役となる。妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた。やがて頼朝と娘の政子が恋仲となった。当初この交際に反対していた時政であったが、結局二人の婚姻を認めることとなり、その結果頼朝の後援者となる。

治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒を促す以仁王の令旨が伊豆の頼朝に届くが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主平時忠に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫した。さらに流刑者として伊豆に滞在していた時忠の元側近山木兼隆が伊豆国目代となり、また頼政の孫・有綱は伊豆にいたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。時政は頼朝と挙兵の計画を練り、山木兼隆を攻撃目標に定めた。挙兵を前に、頼朝は工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させたが、「真実の密事」については時政のみが知っていたという(『吾妻鏡』治承4年8月6日条)。

挙兵[編集]

8月17日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取った。この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていた。この襲撃の後頼朝は伊豆国国衙を掌握した。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍した。しかしその前に平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がった。23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政はそこまでの途中経過は文献によって異なるが、頼朝とは一旦離れ、甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流することになった。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している。

亀の前事件[編集]

治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。

京都守護[編集]

文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると源義経行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。10月18日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。

時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに一族の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。

鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。

富士の巻狩り[編集]

英雄百首 建久4年(1193年)3月、後白河院の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国那須野、次いで信濃国・三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られる。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もあるが真相は不明である。

伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰している。なお、この年の8月には長年に亘って遠江国を実効支配していた安田義定が反逆の疑いで処刑されているが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られる。伊豆・駿河・遠江3ヶ国に強固な足場を築いた時政は、正治元年(1199年)に頼朝が死去すると十三人の合議制に名を連ね、幕府の有力者として姿を現すことになる。

政権争奪[編集]

頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぐが、頼朝在世中に抑えられていた有力御家人の不満が噴出し、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚、12月に鎌倉から追放された(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。時政は弾劾の連判状に署名をしていないが、景時糾弾のきっかけとなったのは時政の娘・阿波局であり、景時一族が討滅された駿河国清見関は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高い。正治2年(1200年)4月1日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて守としての国司となった。時政の幕府内における地位は大いに向上したが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなった。建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼす。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放した(比企能員の変)。

時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され(『鎌倉遺文』1379)、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。建仁3年(1203年)に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられている。また、頼朝在世中の時政は上記のとおり地味な存在であり、有力幕臣として頭角を現したのは十三人合議制あたりからである。ただ、その間に領土的な地盤は拡充されており、旗揚げ時にも僅かな兵しか動かせなかった小豪族・北条家は、三浦や畠山といった大族に対抗し得るだけの軍事力をも蔵するようになってきていた。

時政が政所別当に就任した同日、時政と牧の方との間に生まれた長女の婿で武蔵守である平賀朝雅が京都守護の職務のため鎌倉を離れた。武蔵国の国務は岳父の時政が代行することになり、侍所別当・和田義盛の奉行により武蔵国御家人に対し、時政に忠誠を尽くす旨が命じられている(『吾妻鏡』建仁3年10月27日条)。11月には比企能員の変において逃げ延びた一幡が捕らえられ、時政の子・義時の手勢に殺された。元久元年(1204年)3月6日には義時が相模守に任じられ、北条氏は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。同年7月18日、前将軍・頼家が伊豆国修禅寺で死去したが、『愚管抄』や『増鏡』によれば頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃されて殺されている。11月5日、実朝が坊門信子を正室に迎えるための使者として上洛した嫡男政範が、京で病にかかり16歳で急死した。時政・牧の方鍾愛の子であり牧の方所生唯一の男子であった政範の死が、畠山重忠の乱から牧氏事件へと続く一族内紛のきっかけとなっていく。

失脚[編集]

北条時政墓(願成就院

時政による武蔵支配の強化は、武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率する立場にあった畠山重忠との間に軋轢を生じさせることになった。重忠は時政の娘婿であったが、元久2年(1205年)6月、時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼした(畠山重忠の乱)。

閏7月、時政は牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。しかし閏7月19日に政子・義時らは結城朝光三浦義村長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある。幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった(牧氏事件)。

この牧氏事件に関しては『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計、『保暦間記』では時政・牧の方による実朝殺害が成功直前だったとしている。畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測される。以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

建保3年(1215年)1月6日、腫瘍のため北条の地で死去した。享年78



源頼家公の素性は次の通りです。

源頼家の略歴[編集]

寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女河越重頼室)が呼ばれ、梶原景時の妻の他、比企尼の三女平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。

建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈がなされている。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪となったのち誅殺されている。

建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は、古今に例を見ないほど武芸の達人として成長した。

第2代将軍[編集]

建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。

頼家が家督を相続して3ヶ月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を裁断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経比企宗員比企時員中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。この辺りの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の習慣を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている。

合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちにより、御家人66名による景時糾弾の連判状が頼家に提出された。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救う事が出来ず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせた事は頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。

建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・板額御前を引見している。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。

将軍追放[編集]

景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、阿波局の姉妹である政子が引き渡しを拒否する。 建仁3年8月10日(1203年9月16日)、病平癒を祈念し三嶋大社に奉納した頼家筆の般若心経

全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにも関わらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請された事が、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた(比企能員の変)。

一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握る事になる。

『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、12歳の弟・千幡には関西38ヶ国の総地頭を譲ると発表された。しかし千幡に譲られる事に不満を抱いた能員が、千幡と北条氏討伐を企てた」(8月27日条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としている。

京都側の記録である『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺されたという。

最期[編集]

頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され、激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したという

源実朝[編集]

頼家が亡くなった後

将軍は弟の実朝が継ぎます。

実朝公は公家文化をこよなく愛し

和歌の才能にすぐれたひとでもありました

源実朝[編集]

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凡例 源 実朝

源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)
時代 鎌倉時代前期
生誕 建久3年8月9日1192年9月17日
死没 建保7年1月27日1219年2月13日
改名 千幡(幼名)→実朝
別名 将軍家、羽林、右府、鎌倉殿、鎌倉右大臣
戒名 大慈寺殿正二位丞相公神儀
墓所 亀谷山寿福寺金剛三昧院白旗神社
官位 (官職)右大臣、(位階)正二位
幕府 鎌倉幕府 3代征夷大将軍
氏族 清和源氏頼信河内源氏
父母 父:源頼朝、母:北条政子
兄弟 千鶴丸、大姫頼家貞暁乙姫実朝
正室:坊門信子坊門信清の娘)
実子:なし、猶子公暁竹御所
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源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍

鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。

生涯[編集]

出生[編集]

建久3年(1192年)8月9日の刻、鎌倉で生まれる幼名は千幡。父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母はその正妻の北条政子。乳母は政子の妹の阿波局大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせる。建久10年(1199年)に父が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。


将軍就任[編集]

建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い、伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に千幡を従五位下征夷大将軍に補任した。10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元小山朝政安達景盛和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は門葉筆頭の平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄の頼家は北条氏の刺客により暗殺された。

元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の寵臣坊門信清の娘であり、ね後鳥羽の従妹に当たる信子を正室に迎える。『吾妻鏡』によれば、正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く、この決定は実際は時政と政子の妥協の産物とする説もある。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。

源実朝公の業績[編集]

現在の中国との通商

これは、平清盛公が画策していたものでもあったのですが・・・・・・・

それ以前にも日本は遣隋使とよばれる、

日本の人材を中国に留学させて文化の向上をはかっていました。

実朝公の場合、貿易によって日本に利益をもたらそうという構想でした。

結局は失敗しましたが、

この構想は室町幕府になってから

足利義満公が実現させました。

承久の乱[編集]

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである(異論あり。#承久の乱は討幕目的であったのか?を参照)。承久の変承久合戦ともいう。

日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、幕府主導の政治体制を固めた。


概要[編集]

平安時代末期の保元の乱平治の乱により、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立したが、東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていった。しかし、朝廷にとって身内ともいえる、清和天皇の血を引く源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は武力行使には至らなかった。一方、鎌倉では幕府の2代将軍の頼家1203年に幽閉された後に何者かに暗殺され、その跡を継いだ3代将軍の実朝1219年に鶴岡八幡宮の前で暗殺された。この事によって、頼朝以来三代続いた源氏将軍が断絶した。実朝が暗殺された1219年以降、北条氏執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り、朝廷は、武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、この2年後に承久の乱が起きた。


背景[編集]

治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝武家の棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心として諸国に守護地頭を設置して警察権を掌握していた。一方で西国への支配は充分ではなく、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。

後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であった。それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図った。後鳥羽上皇の財源は長講堂領八条院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。

承久元年(1219年)1月、幕府将軍の源実朝が甥の公暁に暗殺された。『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して近年では、後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の官位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなった。また、新たな京都守護として北条氏の外戚に当たる伊賀光季と、幕府の宿老大江広元の嫡男で源通親猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣した。

幕府は新しい鎌倉殿として、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残った。

ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝が生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎え入れを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年(1216年)の9月に実朝が大江広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)を、然るべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である。この説の弱点として、実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことに説明がつかなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は、現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名して将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図るさらなる保障(河内はこれを幕府機構および北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時に、皇族将軍のみならず摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかった、と説く。また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、さらに後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。

同年7月、内裏守護の源頼茂源頼政の孫)が西面武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。また、頼茂が内裏の仁寿殿に籠って西面武士を迎え撃ったために、仁寿殿だけでなく宜陽殿校書殿など多くの内裏の施設が焼失している。

朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿たちも反対または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。さらに、寺社に密かに命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。


上皇挙兵[編集]

後鳥羽上皇 承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱近江守護佐々木広綱検非違使判官三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護大江親広(大江広元の子)は京方に加わり、同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒んだ。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康近畿やその近国6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季はわずかな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。

後鳥羽上皇は三浦氏小山氏武田氏などの有力御家人に対して、義時追討の院宣を発する。また、同日に朝廷からも諸国の御家人、守護、地頭ら不特定の人々を対象に義時追討の官宣旨が出されている。同時に備えとして、近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的だった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。

京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。前述の通り、後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の三浦胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。

鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられた。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、ただちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。

上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。『承久記』には、政子が館の庭先にまで溢れるばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功したという記述がある。一方、『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。

もっとも、鎌倉の武士はもっと打算的であった。『承久記』慈光寺本には、政子の演説に心動かされた甲斐国の武田信光が出陣後に隣国の小笠原長清に対して「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく」のが武士の習わしであると公言し、北条時房から恩賞の約束をする書状が届けられると積極的に進軍を始める姿が描かれている。鎌倉の武士はどちらに味方をすれば勝てるかという状況分析や、一族内の利害関係(勝利すれば、敵方についた一族の所領を奪うことが出来る)なども検討した上で、その多くが損得勘定に基づいて鎌倉への支持を決めたのであった。


乱の経過[編集]

承久の乱幕府軍進路 北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京への積極的な出撃を主張した。政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道東山道北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向した。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちにを脱いで、の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。

義時は捕らえていた上皇の使者に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。6月5日、甲斐源氏武田信光小笠原長清が率いる東山道軍5万騎は、大井戸渡に布陣する大内惟信高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破した。この戦いで戦死した高桑大将軍は、『承久記』によると、幕府軍、朝廷軍、通して承久の乱での戦死第一号である。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。

北条朝時率いる北陸道軍4万騎も5月30日には宮崎定範が守る蒲原の難関を突破、同日夕には宮崎城も落として越中国に乱入、6月9日には砺波山での激戦も制して京をめざした。

当初見込んでいた鎌倉方の離反がなく、予想外の防禦戦を強いられた京方は、西国の武士に対する公権力による動員の発動に追い込まれた。実際の兵力の動員状況からは京都周辺地域からの兵力の確保に成功していたものの、鎌倉方の進撃が予想以上に早く(鎌倉方の出陣から京までの進軍に22日間)、西国の武士の中には上皇の命を受けて京方に参戦するため上洛する前に勝敗が決してしまった事例もあったとみられている。

美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が災いして比叡山延暦寺はこれを拒絶した。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家も大将軍として参陣した。6月13日、京方と幕府軍は衝突した。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功した。京方は潰走し、14日夜には幕府軍は京へ雪崩れ込んだ。幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。

『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。

後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗した。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。その後、山田重忠も落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害、藤原秀康は河内国において幕府軍の捕虜となった。


戦後処理[編集]

7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。

後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っていた。

討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能葉室光親源有雅葉室宗行高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった。また藤原秀康、藤原秀澄後藤基清佐々木経高河野通信ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。しかし大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている。

乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。

事件の影響[編集]

承久の乱後、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大漏らさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻された後もその最終的な所有権は幕府に帰属した。承久の乱には、鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったとする学者もいる。

鎌倉幕府の御家人で源氏一門(御門葉)の重鎮であった大内惟信は、敵方である後鳥羽上皇に味方して敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏大内氏は没落することになる。山本七平の「日本史上最大の事件」という意見もある。

処刑された院近臣の多くは後鳥羽上皇の支持を受けて家格の上昇を目指した家々であったが、これによって挫折を余儀なくされ、衰退もしくは没落することとなり、院近臣層の構成にも変化が見られるようになった。これは父親が初めて大臣となり、自身の昇進も類似した経歴をたどっていた坊門忠信(挙兵派)と西園寺公経(反対派)およびその子孫のその後が、この乱を機に大きく分かれていることが物語っている。

また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付した。このため、多くの東国御家人が西国に所領を獲得し、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。

承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、この事件を「先代未聞の下剋上」として捉えた。この時の朝廷には既に国家を統治する力がなかったとし、「王法すでに尽ぬ」と解釈した。日蓮は、自身の持つ東国人の京都への反発も含め、鎌倉幕府(=北条得宗家)こそが真の「日本の国主(国王)」であると考えており、数々の弾圧にもかかわらず国家諌暁の対象を鎌倉幕府にのみ行い、京都や朝廷に対する自己の教えの布教には消極的あるいは否定的であったとする見方がある。

承久の「乱」と「変」[編集]

安田元久によると、本事件についての呼称は、鎌倉幕府側の文献『吾妻鏡』では「承久兵乱」「承久逆乱」「承久三年合戦」「承久三年大乱」といった表記を用いた。南北朝時代には、北朝方の武士の手によると推定される『保暦間記』では「承久ノ乱」「承久ノ事」、南朝方の北畠親房神皇正統記』でも「承久の乱」と表記された。こうして、大正中期まで「承久の乱」の表記が主流となり、次いで「承久の役」が使われることもあった。

江戸時代になると尊王論に基づく『大日本史』が「承久の難」と表記し、後鳥羽上皇を逆臣・北条義時の被害者として書く主張が生まれた。『大日本史』編纂に携わった安積澹泊は、『大日本史賛藪』で「乱」「難」と共に、初めて「承久の変」表記を用いた。さらに大正時代になると、皇国史観から「承久の変」の表記を積極的に使うようになり、国定教科書でも大正9年(1920年)版『尋常小学国史』から「変」表記になった。これは、上皇が起こしたのだから「反乱」ではないという思想からである。その後も学界では「乱」「役」「合戦」表記も使われたが、昭和10年代後半、太平洋戦争期になると、専門書でも「承久の変」表記にほぼ統一されるに至った。しかし、「変」は主に不意の政治的・社会的事件に、「乱」は主に武力を伴う事件に使われていることから、安田は戦乱の発生した本事件を「乱」と呼称すべきことは疑問の余地もないとしている。

第二次世界大戦後は、「乱」表記が主流になっている。しかし、田中卓の『教養日本史』を始め、明成社の高等学校用教科書『最新日本史』、新しい歴史教科書をつくる会の中学校用教科書『新しい歴史教科書』など「変」の表記も多く見られる。


承久の乱は討幕目的であったのか?[編集]

今日において、承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒するために挙兵したとする見方が通説とされているが、実はこの見方にはいくつもの問題がある。後鳥羽上皇が義時を討伐するために出された院宣および続いて朝廷から出された官宣旨において示された討伐の対象がいずれも義時個人であること、その討伐理由として次期将軍である九条三寅(後の頼経)を軽んじていることを挙げて院宣には討伐の前に鎌倉幕府内部で義時の幕政「奉行」の停止(政治的引退)を説得させようとしていること(討幕目的であれば三寅またはその後見人である北条政子の追討を命じる文言が含まれるはずである)、そしてそれらの文書が送付された対象の中に鎌倉幕府の機関の末端である守護・地頭が含まれていること、そして京都守護である大江親広在京御家人らがこの命令を奉じて鎌倉の義時討伐に向かっていることなど、討幕を目的とするのであれば矛盾する内容になっている。そのため、近年の研究者の間では承久の乱は討幕目的ではなく、北条義時を幕府から排除する目的であったとするのが有力説であるが、通説を塗り替えるには至っていないというのが現状である。

長村祥知の研究によれば、承久の乱が討幕目的と認識されるようになった背景には、義時を実質上の首班とする鎌倉幕府があたかも上皇が討幕を目的として兵を挙げたとして「京都対坂東」の戦いであると称して御家人を招集したことがあり、その影響を受けた鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や『承久記』の一部本がこの見方に基づいて承久の乱を描いた。さらに『太平記』や『梅松論』などもこれを受け継ぐ形で承久の乱に触れるという形で広まりを見せた。これに対して『百錬抄』『皇代暦』など京都で編纂された歴史書の中には、院宣や官宣旨の内容を受けて義時討伐の戦いとして承久の乱を描いた書が存在していたが、室町時代に入ると京都でも朝廷の事務方を担う外記のトップであった清原業忠および養子の宣賢が『御成敗式目』の注釈において『吾妻鏡』の解釈に基づいて上皇の挙兵を「関東」「武家」の「退治」が目的であったとする解釈を行なった。『吾妻鏡』および清原氏による『御成敗式目』の注釈は戦国時代に知識人の間で広く読まれており、承久の乱を討幕目的とする見方の一般化に大きな影響を与えた。こうして、14世紀から16世紀にかけて承久の乱が実在の文書から裏付けられる事件の実態から乖離した討幕事件として変容・再構成されたと考えられ、それがその後においても大きな影響を与えているとみられている。

史料[編集]

歴史書[編集]

  • 愚管抄』:慈円著。一説に慈円はこの書をもって後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとしたという。
  • 吾妻鏡』:編纂物。鎌倉幕府の半公式記録。

軍記物[編集]

  • 承久記』:全2巻。承久の乱を記した軍記物。乱の原因を後鳥羽上皇の不徳であると記している。異本が多い。これを基に江戸時代に描かれた『承久記絵巻』が個人蔵で現存している。

歴史物語[編集]

  • 六代勝事記』:承久の乱を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」であったことに原因があるとしている。
  • 増鏡』:前述の北条義時と泰時の逸話と後鳥羽上皇の隠岐での様子を伝える。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 北条義時の実姉の北条政子は、朝廷側の有力貴族の藤原氏から2歳の三寅丸(みとらまる(幼名)、後の藤原頼経)を摂家将軍に迎えたが、実質的な鎌倉幕府の運営は、執権職にあった北条義時に行なわせた。これを執権政治と呼ぶ。
  2. ^ 伊勢伊賀越前美濃丹波摂津
  3. ^ 慈光寺本『承久記』には武田氏、小笠原氏、小山氏、宇都宮氏長沼氏足利氏三浦氏及び北条時房に対して発したとする。他の『承久記』諸本には武田氏、小笠原氏、千葉氏、小山氏、宇都宮氏、三浦氏、葛西氏に対して出されたとする。慈光寺本は成立が一番古い上に『承久記』の中で唯一院宣本文を採録されていること、その内容が現存する後鳥羽上皇の他の院宣に類似の形式が見られることから、慈光寺本に記された院宣は実際に発給されたものの引き写しであった可能性が高いとされる。
  4. ^ 『吾妻鏡』ではこのほか下野国小山朝長下総国結城朝光も大将軍に任じられたとしているが、『承久記』ではこの事実は見られず、旗下の兵もほとんど甲斐・信濃の出身者で構成されており、東山道軍は甲斐源氏を主体とした軍勢であったと考えられている。なお、乱の論功行賞で甲斐源氏の一族は畿内・西国の所領を与えられており、承久の乱を契機に甲斐源氏の一族は西国へ進出している。
  5. ^ 砺波山の戦いを6月9日とするのは、『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌明け方に砺波山に攻め入った(「しきぶのせい未だあけがたの事なるに、うんがのせいをもてをしよせ時をどつとつくりければ」云々)とする『承久軍物語』や夜通しかけて山を越えた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、山をこえけれハ」云々)とする『承久兵乱記』の記載を根拠とする。
  6. ^ この戦いで京方の糟屋有久有長仁科盛遠、宮崎定範らが戦死しており、激戦であったことが裏付けられる。
  7. ^ ただし義時は『大日本史料』所引の現地指揮官(市河六郎刑部)宛て御教書(『市河文書』所収)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。そのためか、北陸道軍が入京を果たしたのは、『承久記』慈光寺本では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日と、いずれにしても戦いの帰趨が決したあととなっている。
  8. ^ ただし幕府方のこうむった損害も甚大で、この戦闘において桃井義助伊佐為宗熊谷直国津々見忠季庄忠家安保実光関政綱といった諸将が犠牲となっている。
  9. ^ その他京方では、藤原朝俊平保教らの廷臣、多田基綱佐々木高重大内惟忠八田知尚小野成時らの武将が各地で戦死。山田重継佐々木勢多伽丸も戦後処刑されている。また僧尊長は、この後6年に及ぶ潜伏の後、幕府方に発見され誅殺されている。
  10. ^ 例えば『新版 日本史辞典』には「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をうつためにおこした兵乱」と定義されている。

出典[編集]

  1. ^ “承久の変(じょうきゅうのへん)とは”. コトバンク. 2020年7月6日閲覧。
  2. ^ a b c d 「後鳥羽上皇は倒幕を目指さなかった」承久の乱800年 新解釈や資料発見『読売新聞』朝刊2021年5月13日(文化面)
  3. ^ 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨-後鳥羽院宣と伝奏葉室光親-」(初出:『日本歴史』744号、2010年 所収:『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  4. ^ a b 長村祥知「承久の乱にみる政治構造」『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  5. ^大日本史料』第4編第16冊65-71頁
  6. ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』新人物往来社
  7. ^ 山本七平『日本的革命の哲学―日本人を動かす原理』PHP研究所、1982年12月
  8. ^ 坂井法曄「日蓮と鎌倉政権ノート」(佐藤博信 編『中世東国の社会構造 中世東国論:下』(岩田書院、2007年)ISBN 978-4-87294-473-0
  9. ^ 安田元久「歴史事象の呼称について : 「承久の乱」「承久の変」を中心に」『学習院大学文学部研究年報』第30号、学習院大学、1983年、 p145-167、 ISSN 04331117、 NAID 110007563533。
  10. ^ 朝尾直弘編『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)ISBN 4-04-032000-X
  11. ^ 長村、2015年、pp.110-114、p.131

参考文献[編集]

関連項目[編集]

北条氏の執権政治[編集]

北条氏を整理しながら書いてゆきたいと思います。

まず誤解ないように、

戦国時代の北条氏と鎌倉時代の北条氏は

全く別の一族です。










北条時宗の苦悩と文永の役[編集]

北条時宗さんは北条氏の八代目の執権にあたります。そもそも、北条氏は、源頼朝さんのご先祖の頼政さんの代から続く側近の家柄です。

北条氏の内部でも権力闘争がたえず。そんな中で、高麗という国から蒙古から親書が届きます。

その内容がとても過激なものでした。単純にいえば日本が蒙古に服属しなければ兵を持って侵略するぞという強迫めいたものでした。

北条時宗さんは、早くからこの蒙古への服属は反対でした。

そこからが時宗さんの戦いの日々でもあります。

福岡に防塁が築かれる。

いまでも、この時の合戦の痕跡は北九州にはあちこちでみられるという。

その昔、朝鮮には、高句麗、百済、新羅という国が、あったが、日本人は、任那という国をつうじて関係をもっていたが、

新羅によって、白村江の戦いで惨敗を喫した過去から北条氏はここに蒙古が攻めてくるのではないかとの憶測もあったのである。

結果をいえば、この憶測は当たっていた。

当時の日本は北条氏を中心とした。得宗家と呼ばれる。勢力と六波羅探題という朝廷を監視していた機関が巨大な権限をもっていたが、

ここに北条時宗さんが中心となって激しく干渉して、ものすごい犠牲者をだしながらも、得宗家の発言力がおおきくなり、

ここ九州に鎌倉武士達を派遣する。

対馬での戦い

蒙古軍が手始めに攻撃してきたのは、対馬の島々からだった。

蒙古は、様々な兵器で鎌倉武士を悩ませた。

今日の手りゅう弾の元となったとされている「てつはう」は、

馬の上で炸裂するので馬がびっくりして、とても戦えるようなものではなかったと、

古文書の記述こそ少ないが、その威力は当時の武士にはおどろきだったのではないだろうか?

逆に蒙古は九州に至るまでの攻略に物凄く手間取る。

時宗が作らせた防塁が効果を発揮していた。

モンゴル帝国にとって最悪だったのは、折からの天候不順による。指揮系統の混乱になやまされて、

やむ終えず退却を余儀なくされたことでした。

これは、2年後の弘安の役でもおなじことでした。

こうして、日本はモンゴル帝国の戦いの幕をとじます。

鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代へ[編集]

その後の鎌倉幕府

時宗亡き後の鎌倉幕府は、しばらくは安定した政治を続けていましたが、元寇後の代償は、おおきかった。

何より、御家人の恩賞を幕府が払えない状態がつづいていた。

朝廷は、承久の乱の後、幕府に口出しできなかったので、その後は衰退したが。

後醍醐天皇が、組織改革をはじめ、正中の変が起こる

ここで、楠木正成という武将が幕府に反旗を起こす

千早城の戦いは、鎌倉幕府に多大な損害をあたえます。

圧倒的な物量のハンディがありながら楠木の軍勢は籠城戦で幕府軍を撤退に追い込むと

幕府の中にも足利尊氏をはじめとして多くの離反者をだしてしまいます。

1333年、新田義貞の討伐により鎌倉幕府は滅ぼされます。

室町時代から織田信長の登場まで[編集]

南北朝時代とは、朝廷が、2つの勢力に分かれて争う事態におちいった時代で非常に複雑な経緯をたどった時代でもある。

この時代の主役はここでは、足利尊氏という武将をメインにはなしてみたいです。

この時代の資料は非常にすくなく、兼好法師の「徒然草」の記事に頼ったりしていますが、

もう少し勉強してゆきたいとおもいます。

足利尊氏と足利直義(あしかがたかうじとあしかがただよし)

武士の時代を語る上で足利尊氏という武将を忘れてはいけないのではないでしょうか?

もともと足利家は鎌倉幕府の御家人であったとされています。

後醍醐天皇は、足利氏を重く登用していました。

法整備に多大な努力から忠臣され、とても優秀な天皇であったのではないかと筆者はもいます。

では、建武の親政がなにがいけなかったか・・・・・・

時間をさかのぼると、朝廷の方々も鎌倉幕府討幕にたくさんの方々が犠牲になったのですが

一番の功績は新田義貞にみられる幕府討幕に直接関わった造反者を重く登用しなかったのが朝廷に不満を持った原因になり

その人達が誰を頼ったかといえば、足利尊氏という武将でした。

悪党から忠臣となった楠木正成

楠木正成の生涯についてはとても苦労します。

出生年代も特定されておらず。それに関する記事があまりにもすくなすぎるので

筆者もこまっているのですが・・・・・・

明治時代にはいってから、楠木正成の子孫を

当時の政府がさがしていたらしいのです。

ここで、南朝方で逆賊とされていた正成ははれて忠臣となりました。

当時のひとたちは、鎌倉幕府や荘園制度に反発する人たちを

悪党とよんでいました。

荘園制度とは、古代の日本は地方ごとに豪族がいてこの人たちが多くの土地を独占していたのを

大和朝廷が統一したあと口分田として個人に土地所有を認めた制度を荘園とよんでいます。

荘園を多く所有していたのは、藤原道長という貴族がほとんどでした。

そうして、貴族が政治の実権を握っていたものが次第に勢力が弱体して武士が政治力をえていたのですが

租税が高くてとても生活できるような制度では、荘園は成り立たなくなっていたのです。

楠木正成達の立場はそんな弱小武士団を代表した集団でもありました。

1324年の正中の変を繰り返し述べるが…

この時後醍醐天皇の側近に日野資朝と日野俊基という兄弟の公家がいた

鎌倉幕府は徳政令をだして御家人達の救済にとてもよくつくしたが

もはやてのうちようがないところまでおいつめられていた。

後醍醐天皇は天皇みずから天下の政治を行うとする親政をかんがえていた。

日野兄弟は討幕計画を入念に準備していたが幕府にみつかり

日野資朝は隠岐に流され後に斬首されている。

楠木一族は、裕福な非御家人の立場でしたが、天皇の立場をとり幕府に対抗すると正成が表明したのでとてもたいへんでした。

兵力は楠木勢にとって不利でした。幕府とどうやって戦うのかもわからないまま。

赤坂城という城にたてこもりました。

徳政令とは?

ここで、話題を切り替えて、

徳政令を考えてみる。徳政令にはさまざまなものもある。

戦国時代にも徳政令が出された経緯がありますが、

鎌倉時代の徳政令は、対象が御家人であり、幕府の借金を棒引きにするというものでした。

理由や原因はさまざまですが・・・・・・

一番の原因は元寇とよばれたモンゴル帝国との戦いで多額の借金により

地方の武士の不満がとてもあったということで、

徳政令が発令されました。

足利直義党の挙兵[編集]

本来、将軍の政治は将軍一人の一元統治によって武将たちをまとめなければならないのですが

室町幕府のかわっているところは

軍事的な権限は尊氏がになっていましたが

政治的な権限は弟の貞義がになっていたので、

この二元統治がさまざまなところで問題をひきおこしてゆきます。

足利直義の政治的手腕は当時とても評価されたいたようです

足利尊氏の謀反

後醍醐天皇は、足利尊氏の素質を早くから見抜いていたようです。

後醍醐天皇が悪かったのではないかもしれませんが、

建武の親政は足利尊氏の謀反で頓挫してしまいます。

時代は公家の時代から武士の時代に移りかわった時期と重なり

この失敗はやむ終えないことだったのでしょう・・・・

足利直義は兄につきしたがって謀反しますが

尊氏は楠木正成に敗れ一時九州にのがれます。

湊川の戦い

ターニングポイントをここでは、湊川の戦いとします。

この戦いで、楠木正成が戦死します。

この戦いから、南北朝の戦力は疲弊し、

和平の兆しがうまれます。

直義の死因

正平2年2月26日は足利直義の死去した年とされています。

小説の中では毒殺されたということになっていますが

実際には原因がよくわかっていないのです。

病気であることがかんがえられますが

資料があればなおたすかるのですが・・・・・・

直義の死後、足利氏は尊氏唯一の将軍として一つにまとまります。

ウィキペディアの記す南北朝時代[編集]

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏京都で新たに光明天皇北朝持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇南朝大覚寺統)が吉野行宮に遷ったユリウス暦1337年1月23日延元元年/建武3年12月21日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇譲位する形で両朝が合一したユリウス暦1392年11月19日元中9年/明徳3年閏10月5日)である。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。

目次[編集]

概要[編集]

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然な形の皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが鎌倉幕府倒幕建武の新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に「皇国史観が影を潜める」との指摘とともに死語同然となった。現皇統は1392年の南北朝の合一(明徳の和約)以来、北朝である。

南北朝時代の意義[編集]

南北朝時代の意義とは、上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である。前代鎌倉時代鎌倉幕府朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜し、一方、北朝の公家も、室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、足利将軍家を中心とする室町幕府守護体制による強力な武家の支配機構だった。

一方、南北朝時代の意義は、下部構造から見れば、二毛作の普及等で生産力が向上し、民衆の力が増したことにより、それまでの日本社会は族縁(血筋・婚姻)を元に形成されていたのに対し、この時代に「」(村落)、つまり地縁で結ばれるようになったことにある。氏族の支配ではなく、地域の支配が重要になったのである。戦乱が60年近くの長期に及んだのも、この社会構造の変化が、基本的な要因である。こうして、地域を単位とした新しい勢力は「国人」と呼ばれ、南北朝の内乱を契機として台頭し、やがて国人層への優遇政策を打ち出した室町幕府につくなど、大勢力の政治動向を左右した。南北朝の社会をリードしたのは、バサラ大名(旧来の権威を無視する武士)に加えて、下部構造から出現した「悪党」(悪人という意味ではなく、旧勢力に反抗的な地域組織という意味)だった。河内の一悪党に過ぎなかった楠木正成が南朝に有力武将として登用されて『太平記』でヒーローとして描かれ、その息子の楠木正儀公卿である参議にまで登りつめていることは、その端的な象徴である。

日本の変革[編集]

南北朝の内乱における上部構造と下部構造の変化は、日本という国の有り様を根底から変革した。

  • 農業面では、施肥量の増大や水稲の品種多様化、灌漑施設の整備によって稲の収穫量が高まり、また、鎌倉時代にもたらされた二毛作が普及するなど、生産力が著しく向上した。こうして、食料生産が十分になったことにより、カラムシ(糸が作れる)、真綿エゴマ(油が取れる)などの原料作物も多く作れるようになった。
  • 商工面では、上記の原料作物の生産力向上により、(すだれ)、(むしろ)、索麺(そうめん)などが世間に流通するようになった。
  • 経済面では、上記の商工面の向上に伴い、貨幣経済が一般に浸透した。
    • ただし、1270年代に、中国元朝南宋を征服して交鈔紙幣の一種)を普及させたことから、余った宋製の銅銭が、大量に日本になだれこんだことも大きい。1995年には、大田由紀夫が「商工業が発達したから貨幣が出回った」のではなく、むしろ「(南宋の滅亡により)貨幣が出回ったから商工業が発達したのではないか」という説を唱え、2014年現在はこちらの説が支持されるようになっている。
    • 土地売買に用いられる銭の利用率について、1200年は20%未満だったのが、1250年には50%を超え、(広義の)南北朝時代が始まる直前の1320年には75%超となっていた。銅銭の普及は、紙媒体である割符などの手形の普及にも繋がっていく。
  • 文化面では、上記の農業・商工・経済の発達によって、民衆の勢力が増し大衆文化が隆盛し、猿楽能楽)・連歌闘茶茶道の原型)・ばさらかぶき者歌舞伎の原型)などが生まれた。
  • 宗教面では、古い寺社と結びつく南朝や公家勢力に対抗するために、室町幕府は新しく日本に輸入された仏教である禅宗を優遇し、京都五山を定めた。
  • 外交面では、上記の宗教面で台頭した禅僧が中国事情に詳しかったことから、との外交顧問を務めた。
  • 学術面では、上記の宗教面・外交面の進展により、儒学の新解釈である宋学が中国から輸入されるようになった。北畠親房神皇正統記』(1343年)は、執筆目的としては南朝の正統化ではあるものの、血筋や神器だけではなく「徳」を持つ者が帝位に相応しいという宋学思想が色濃く反映されており、江戸時代の儒家にも影響を与えている。
    • 日本における数学は一時衰えていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代には禅寺で再び学ばれるようになった。代表的数学者には臨済宗中巌円月がおり、主著『觿耑算法』は散逸したが、『治暦篇』に帯分数の使用や繁分数計算についての言及が残る。川本慎自は、戦国時代の臨済僧策彦周良と吉田家の関係を指摘し、江戸時代角倉了以吉田光由(『塵劫記』の著者)の数学知識は、禅寺での数学学習に端を発する可能性もあるのではないかとしている。
  • 文芸面では、上記の宗教面・外交面・学術面の発展から、漢詩が普及し、絶海中津義堂周信を双璧とする五山文学が禅林で隆盛した。また、商工面の発展ともあいまって、禅僧春屋妙葩らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えた。前述した宋学の影響も文学に見られ、日本最大の叙事詩『太平記』は、その頂点を為すものである。
  • 芸術面では、前記、経済面の充実と文芸面の五山文学の影響から、禅の思想が実体に反映されるようになり、禅庭が完成された。夢窓疎石天龍寺庭園(1339年)と西芳寺庭園(1339年)は世界遺産に登録されている。さらに、連歌の完成者二条良基・能楽の完成者世阿弥らによって、それまでは仏教思想の一部であった「幽玄」が、日本芸術の審美的理想として捉えられるようになった。

こうして、南北朝の内乱は、生産力から美意識まで、全ての角度において、新しい日本を形成していくことになった。

南北朝の天皇[編集]

南朝 北朝
95花園天皇(1308-1318)
文保2年(1318年)2月26日 96後醍醐天皇(1318-1331)
元徳3年(1331年)9月20日 北1光厳天皇(1331-1333)
正慶2年(1333年)5月25日
建武3年(1336年)8月15日 北2光明天皇(1336-1348)
延元元年(1337年)12月21日 南1(96)後醍醐天皇(1337-1339)
延元4年(1339年)8月15日 南2(97)後村上天皇(1339-1368)
貞和4年(1348年)10月27日 北3崇光天皇(1348-1351)
観應2年(1351年)11月7日
観應3年(1352年)8月17日 北4後光厳天皇(1352-1371)
正平23年(1368年)3月11日 南3(98)長慶天皇(1368-1383)
應安4年(1371年)3月23日 北5後円融天皇(1371-1382)
永徳2年(1382年)4月11日 北6後小松天皇(1382-1392)
弘和3年(1383年)10月 南4(99)後亀山天皇 (1383-1392)
明徳3年(1392年)10月5日 100後小松天皇(1392-1412)
  • 天皇の後の()内は在位期間

系図[編集]

88 後嵯峨天皇
宗尊親王鎌倉将軍6) 持明院統

89 後深草天皇

大覚寺統

90 亀山天皇

惟康親王(鎌倉将軍7) 92 伏見天皇 久明親王(鎌倉将軍8) 91 後宇多天皇
93 後伏見天皇 95 花園天皇 守邦親王(鎌倉将軍9) 94 後二条天皇
直仁親王 邦良親王
康仁親王木寺宮家
持明院統

北朝

大覚寺統

南朝

96 後醍醐天皇
光厳天皇 北1 光明天皇 北2 97 後村上天皇
崇光天皇 北3 後光厳天皇 北4 98 長慶天皇 99 後亀山天皇 惟成親王護聖院宮家
(伏見宮)栄仁親王(初代伏見宮) 後円融天皇 北5 (不詳)

玉川宮家

小倉宮恒敦小倉宮家
(伏見宮)貞成親王(後崇光院) 100 後小松天皇 北6
102 後花園天皇 貞常親王伏見宮家 101 称光天皇

歴史[編集]

前史:元弘・建武の乱[編集]

詳細は「両統迭立」、「元弘の乱」、「建武の新政」、および「建武の乱」を参照

鎌倉時代半ばの寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の譲位後に皇統は皇位継承を巡って大覚寺統持明院統に分裂した。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。

元弘元年(1331年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発し、元弘の乱を開始した。初めは実子の護良親王や河内の武士楠木正成など少数の者が後醍醐のため戦うのみだったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)新田義貞らも呼応したことで、鎌倉幕府とその実質的支配者北条得宗家は滅んだ。

元弘3年/正慶2年5月22日1333年7月4日)、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。はじめ後醍醐は足利高氏を寵愛し、自らの諱「尊治」から一字を取って「尊氏」の名を与えた(偏諱)。後醍醐が実施した法制改革や人材政策は基本路線としては優れた面もあったものの、戦争後の混乱に法体系の整備や効率的な実施が追いつかず、政局の不安定が続き、また恩賞給付にも失敗があったため、その施策は賛否両論だった。建武2年(1335年)7月、北条時行ら北条氏の残党が中先代の乱を引き起こすと、その討伐を終えた尊氏は、恩賞を独自の裁量で配り始めた。すると、建武政権の恩賞政策に不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。

尊氏の恩賞給付行為を、新政からの離反と見なした後醍醐天皇は、建武2年11月19日1336年1月2日)、新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じ、建武の乱が開始。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗北。さらに、新田軍は京都で迎撃し(第一次京都合戦)、結城親光三木一草の一人)が戦死するが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり尊氏軍を駆逐した。尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇院宣を掲げて東征する。迎え撃つ建武政権側は新田義貞・楠木正成湊川の戦いで敗れ(正成は戦死)、比叡山に篭った。さらに第二次京都合戦で数ヶ月に渡る戦いの末、建武政権側は京都と名和長年千種忠顕ら重臣(三木一草)を喪失し、続く近江の戦いでも敗北。延元元年/建武3年10月10日1336年11月13日)、後醍醐は尊氏に投降し、建武政権は崩壊した。

尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で、是円(中原章賢)・真恵兄弟らに諮問して『建武式目』を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開いた。だが、後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣した。

第1期(1336年–1348年):吉野行宮の興亡[編集]

北畠顕家の戦死[編集]

延元2年/建武4年(1337年)、南朝鎮守府大将軍北畠顕家北畠親房の子)は、後醍醐天皇や父の北畠親房の救援要請に応じ、12月、鎌倉を征服した。次いで、京都奪還を目指し、翌年1月に美濃国(現在の岐阜県)で青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るも、北陸の新田義貞との連携に失敗し、京への直進を諦める。

顕家は伊勢経由で迂回を試みたが、長引く遠征によって兵の勢いは衰えていた。次の戦が生死をかけた戦いになることを覚悟した顕家は、後醍醐天皇への諫奏文(『北畠顕家上奏文』)をしたためた。はたして、延元3年/暦応元年5月22日1338年6月10日)、石津の戦いで幕府執事高師直に敗れ、戦死した。

新田義貞の戦死[編集]

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南朝総大将新田義貞は、建武の乱の末期(金ヶ崎の戦い)から引き続き北陸方面で孤軍奮闘を続けていたが、延元3年/暦応元年7月2日1338年8月17日)、藤島の戦い斯波高経に敗れ、戦死した。

北畠顕家・新田義貞という南朝を代表する名将が相次いで戦死したことで、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立った。

後醍醐天皇崩御と北畠親房の台頭[編集]

延元4年/暦応2年8月16日1339年9月19日)、後醍醐天皇崩御。寵姫阿野廉子との子である義良親王が後村上天皇として南朝天皇に践祚した(践祚日は前帝崩御の前日)。立場上敵でありながら後醍醐天皇を崇敬する室町幕府初代将軍足利尊氏は、その菩提を弔うため、臨済宗夢窓疎石を開山として天龍寺を開基し、京都五山第一とした。

この頃、南朝公卿にして、慈円と共に中世を代表する歴史家である北畠親房北畠顕家の父)は、関東地方で南朝勢力の結集を図り、常陸国小田城にて篭城していた。同年秋、新帝に道を表すため、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆し、儒学を導入して、帝王には血筋と神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められるという、当時としては大胆で革新的な思想を展開した。親房は興国4年/康永2年(1343年)ごろに吉野に帰還し、後村上天皇の頭脳として、南朝を実質的に指導した。のち、准三宮として皇后らに准じる地位を得た。

小康期[編集]

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新田義貞北畠顕家の戦死後は一旦小康期となったものの、各地で小競り合いや調略が続いた。

室町幕府では、保守派の左兵衛督足利直義(尊氏の弟)が、御成敗式目などの鎌倉幕府の古典的武家法を元に基礎を作り、革新派の執事高師直が、雑訴決断所牒などの建武政権の先進的な法制度を改良した政策(執事施行状の発給など)を打ち出すことで、順調に足固めをしていった。

興国2年/暦応4年(1341年)ごろには一時的に南朝が勢いを取り戻した。同年3月24日足利直義は、幕府の有力武将で出雲隠岐両国守護の塩冶高貞に謀反の疑い有りと宣言、桃井直常山名時氏を主将とする追討軍を派兵して、京を出奔した高貞を追い、同月末に高貞は播磨国で自害に追い込まれた(『師守記』暦応4年3月25日条および29日条)。鈴木登美恵亀田俊和らの説によれば、高貞は皇族早田宮出身の妻を介して、義弟(義兄?)に当たる南朝公卿で九州方面軍を指揮する源宗治と内通していたのではないかという。

四條畷の戦いと楠木正行の戦死[編集]

楠木正成の後を継ぎ楠木氏棟梁となった南朝の武将楠木正行は、正平2年/貞和3年(1347年)、藤井寺の戦い天王寺・住吉の戦いで、幕府の有力武将細川顕氏山名時氏に勝利した。

だが、事態を重く見た幕府執事高師直は、大軍を編成し、正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、四條畷の戦いで正行とその弟楠木正時兄弟らを討ち、敗死させた。

吉野陥落[編集][編集]

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四條畷の戦いで南朝に完勝した高師直は吉野へと兵を進め、吉野行宮を焼き払った。吉野が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。

第2期(1348年–1368年):内乱の激化[編集]

観応の擾乱と高師直の没落[編集]

詳細は「観応の擾乱」を参照

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その後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮大阪市住吉区)とする。

南朝武将として台頭した直義は、正平6年/観応2年(1351年)1月の第三次京都合戦、次いで2月の打出浜の戦いで高師直に勝利した。師直・師泰兄弟とその一族郎党は、2月26日、護送中に上杉能憲らに暗殺され、 鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。

正平の一統と足利直義の没落[編集]

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正平6年/観応2年(1351年)には、今度は尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏。年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。

尊氏は正平6年/観応2年(1351年)12月薩埵峠の戦いで弟の直義を破り、足利党を統一した。直義は翌年の2月26日、ちょうど師直の一周忌に急死した。

直義の養子・後継者で、尊氏の非認知子でもある足利直冬は、この後も南朝と連携して、室町幕府・北朝への抵抗を続けた。

4度にわたる京都合戦[編集]

観応の擾乱後、南北は泥沼の戦いを続け、四度に渡る京都合戦を繰り広げたが、勝敗は付かず、お互いに疲弊するばかりだった。

直義が死んだ後、正平統一政権(旧南朝)は、足利方の影響を完全に払拭しようと、この機に乗じて京都へ進攻して、尊氏の嫡子の宰相中将足利義詮を逐い、京都を占拠して神器も接収した(第四次京都合戦(八幡の戦い))。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。

旧直義党を吸収した南朝は再起し、正平7年/文和元年(1352年)8月中旬から翌年3月末にかけて、南朝の楠木正儀楠木正成の三男)・吉良満貞(旧直義党)・石塔頼房(旧直義党)らは、摂津の戦いで幕府の赤松光範佐々木秀綱佐々木高秀土岐頼康仁木義長らを破った。この勢いに乗じ、正平8年/文和2年(1353年)6月9日、南朝は第五次京都合戦で京都を奪回。しかし、幕府の大攻勢を受け、7月24日に京都を放棄、一月半という短期の支配に終わった。

正平9年/文和3年(1354年)、南朝の実質的指導者北畠親房が死去し、南朝はその頭脳を失う。しかし足利直冬が南朝に合流したことから再び武力を回復し、正平10年/文和4年(1355年)2月、直冬と楠木正儀は、第六次京都合戦(神南の戦い)で京都の一時的占拠に成功した。だが、東国から将軍足利尊氏が迫ったため、南朝は京都を再び放棄した。

正平13年/延文3年(1358年)4月、足利尊氏が死去すると新田義貞の遺児義宗や出羽に逃れていた北畠顕信らが再起を試みるも、組織的な蜂起には至らなかった。

室町幕府の新将軍・足利義詮は、武威を示すために南朝掃討の大攻勢に出て、楠木氏の本城である河内国赤坂城などを落とした。ところが、楠木正儀は戦闘を山岳戦に持ち込んで遠征を長引かせ、これによって幕府側は仁木義長関東執事畠山国清執事細川清氏ら有力武将が相次いで離反し、幕府の勢力は結局元に戻ってしまった。

正平16年/康安元年(1361年)、幕府内での抗争で失脚した細川清氏は南朝に帰順、楠木正儀らと共闘し、第七次京都合戦で一時は京都を占拠する。しかし、1月にも満たずに奪回され、南朝は劣勢を覆すことはできなかった。

足利義詮時代には大内弘世山名時氏なども室町幕府に帰服した。

九州の情勢と「日本国王」良懐[編集][編集]

九州では、多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏が残した一色範氏仁木義長などの勢力が争いを続けていた。南朝は勢力を強化するために後醍醐天皇の皇子である懐良親王を征西将軍として派遣し、北朝勢力と攻防を繰り返した。観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年(1352年)に足利直義が殺害されると、直冬は中国に去った。延文4年/正平14年(1359年筑後川の戦い(大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王、菊池武光赤星武貫宇都宮貞久草野永幸らと北朝方の少弐頼尚少弐直資の父子、大友氏時城井冬綱ら両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。この戦いに敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。足利義詮の死に端を発して、九州の南朝勢力は正平23年/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こし長門・周防方面へ進軍を開始するものの、大内氏に阻まれ頓挫した。

またこの頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、文中元年/応安5年(1372年)懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に朝から冊封を受け、「良懐」として「日本国王」となるものの、室町幕府は今川貞世(了俊)を九州へ派遣して攻勢をかけ大宰府を奪回する。

楠木正儀最後の和平交渉[編集][編集]

南朝の筆頭武将でありながら南朝内の和平派を主宰する楠木氏棟梁楠木正儀楠木正成の三男)は、これまでにたびたび北朝・室町幕府へ和平を打診してきたが、内外からの妨害により不首尾に終わっていた。

正平16年/康安元年(1361年)の第七次京都合戦後、両朝は既に戦いに疲れ果てて、今度は和平の機運が高まってきた。かつて主戦派だった南朝の後村上天皇は、和平派の正儀を天皇の最大の側近である綸旨奉者に選ぶなど和平も一考するようになり、また将軍足利義詮も文治派の斯波高経を実質的な執事に起用するなど(形式上の執事は高経の子斯波義将)、互いに融和路線を取るようになってきた。正平21年/貞治5年(1366年)8月には、貞治の変で、斯波高経・義将が失脚するが、将軍義詮は斯波派の融和路線をそのまま継続した。

ところが、翌正平22年/貞治6年(1367年)、南朝側の和平交渉代表洞院実守は「北朝が南朝に投降する」という形式に固執し、これに義詮が激怒して一旦交渉が決裂、戦争の再開寸前にまでなってしまう。

これに対し、後村上天皇は急遽、楠木正儀を正式な南朝代表に起用し、右兵衛督というそれに見合う高位の官職を与えた。正儀の和平交渉によって、義詮も態度を和らげたことから、初めは上手くいくかに見えた。しかし、正平22年/貞治6年(1367年12月7日(西暦1367年12月28日)に二代将軍義詮が薨去、翌正平23年/応安元年(1368年3月11日に南朝後村上天皇が崩御、と相次いで両朝首脳が世を去ったことから、この和平交渉も自然消滅してしまった。

これ以降、明徳の和約による南北朝合一まで、25年もの間、南北間の和平交渉は再開されなかった。正儀は明徳の和約の下準備をした可能性はあるものの、本人は正式な合一を見る前に死去している。

第3期(1368年–1392年):室町幕府の完成と南北朝合一[編集][編集]

細川頼之の幕府内政強化[編集]

この節の加筆が望まれています。 (2019年11月)

正平23年/応安元年(1368年)4月、幼い将軍足利義満が元服し、その烏帽子親となった室町幕府管領細川頼之が実権を握り、名宰相として義満を補佐した。

同年、頼之は寺社本所領事(通称「応安大法」)を発布し、その後も卓越した内政手腕によって幕府の安定性を確立していった。

同年、南朝で強硬派の長慶天皇が即位すると、和平派の楠木正儀は南朝内で孤立することとなった。そのため、翌正平24年/応安2年(1369年)、頼之は調略によって南朝方の中心的武将であった正儀を帰順させることに成功。南朝は強硬路線をとったことで、主要人材を失い、かえって勢力を落とし、幕府方が体制を確立することになってしまった。

文中2年/応安6年(1373年)、頼之は、細川氏春・楠木正儀・赤松光範らを大将とする遠征軍を編成し、天野合戦で南朝重臣の四条隆俊を敗死させ、南朝の臨時首都天野行宮を陥落させることに成功した。

しかし、橋本正督の鎮圧(橋本正督の乱)に失敗、政敵斯波義将らから訴追を受け、義満も鎮圧における頼之の弱腰に批判的であったことから、天授5年/康暦元年(1379年)初頭、康暦の政変で失脚した。

二条良基の北朝・幕府融合策[編集][編集]

この節の加筆が望まれています。 (2019年11月)

管領細川頼之と協同して北朝・室町幕府の安定化を計ったのが、連歌を完成した中世最大の文化人の一人であり、北朝摂政関白太政大臣を歴任した准三宮二条良基である。

自前の武力を持たなかったことから幕府の傀儡と思われがちな北朝であるが、実際はいまだ多く残る荘園支配や蓄積された朝廷法の知識によって一定の権力と権威を有した。良基は、義満の指南役となって朝廷文化を伝え、公家側に引き込むことで、能動的に北朝と室町幕府の一体化を促した。良基の画策によって、武家の棟梁は、伝統的な「鎌倉殿」ではなく、京都を拠点とする「室町殿」となった。

足利義満の幕府中央集権化[編集][編集]

この節の加筆が望まれています。 (2019年11月)

康暦の政変によって烏帽子親細川頼之を失脚させた室町幕府第三代将軍足利義満は、足利将軍家への中央集権化を進め、幕府の体制をますます強固なものとしていった。

元中8年/明徳2年(1391年)には、日本の六分の一を領有し将軍家に迫る勢力を持ちつつあった山名氏明徳の乱で討ち、その勢いを削減した。

南北朝合一[編集]

明徳の和約」も参照

南朝が衰微していく一方で、足利義満の相次ぐ有力守護大名勢力削減策により、幕府はますます中央集権化を進めていき、その勢力差は歴然であった。

弘和2年/永徳2年(1382年)には、ようやく楠木正儀が南朝へ帰参し参議に任じられるが、もはや昔日の名将としての面影はなく、同年、北朝の山名氏清に敗退している。和平派の正儀が参議という高官として台頭したことや、弘和3年/永徳3年(1383年)に北畠顕能懐良親王が続けざまに死去、動乱初期からその支えとして活躍してきた軍事的支柱を失った南朝は、同年冬、対北朝強硬路線を通していた長慶天皇が、弟である和平派の後亀山天皇に譲位。正儀はその後、数年内に死去したと考えられ、宗良親王元中2年/至徳2年(1385年)に死去したことから、南朝の指揮官の地位は嫡子の楠木正勝が継いだ。しかし、正勝は元中5年/嘉慶2年(1388年)に平尾合戦で山名氏清に敗北、元中9年/明徳3年(1392年)春には、畠山基国の攻勢により、楠木氏の本拠地である千早城を喪失。南朝は北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。

こうして、

といった南朝が北朝へ合流する条件が出揃った。

このような情勢の中で元中9年/明徳3年(1392年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。『大乗院日記目録』は、これを「南北御合体、一天平安」と記している。

南北朝合一を機に、九州北部を制圧していた今川貞世は九州南部に拠る菊池武朝と和睦し、九州も幕府の支配するところとなった。その後、足利義満が新たにから冊封されて「日本国王」となる。

後史:後南朝[編集]

詳細は「後南朝」を参照

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した正長元年(1428年)以後、激化することとなる。

嘉吉3年(1443年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主金蔵主兄弟をかついで神璽宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。

後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、長禄元年(1457年)に南朝後裔の自天王忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。

最後に史料に登場するのは、『勝山記』に明応8年(1499年)霜月(11月)、伊豆国三島に流された「王」を、早雲入道が諌めて相州(相模国)に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。

土地支配の変化[編集]

鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち天皇家・公家・寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになった。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、鎌倉時代の守護の権限であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになった。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていた。

戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になった。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなった。

後年[編集][編集]

詳細は「南北朝正閏論」を参照 時代祭風俗行列の「吉野時代」の列 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。明治時代には皇統は南朝が正統とされ、文部省国定教科書で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。

東京大学史料編纂所は『大日本史料』で「南北朝時代」を引き続き使用したが、1937年昭和12年)、皇国史観で知られる平泉澄宮内省芝葛盛らの批判を受けた。所内の協議の結果、辻善之助所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、出版は中断することになった。

第二次世界大戦後、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。『大日本史料』出版も再開された。

南北朝正閏論の名残は、21世紀現在にも確認される。例えば京都三大祭りの一つである時代祭において、風俗行列を構成する南北朝時代の列は現在でも「吉野時代」と称されているほか、足利尊氏を国賊とみなす立場から室町時代の列は長らく除外され、2007年(平成19年)になって新設されている。

文化・社会風潮[編集]

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。政治的混乱が大きい時代でもあったので、ばさら二条河原落書など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

人物[編集]

日本の南北朝時代の人物一覧」を参照

考察[編集]

南北朝期内の段階区分[編集]

南北朝時代の中での段階区分については、以下のような説がある。

林屋辰三郎は、厳密な暦年により区分するのではなく、各時代を代表とする人物によっておおまかに4つに分けている。

国史大辞典』(佐藤和彦担当)は、以下のように4つに区分している(前史を「1期」とカウントしているため、厳密には3期区分である)。

日本大百科全書』(永原慶二担当)も『国史大辞典』とほぼ同じだが、前史を除外して全3期と数えている。

  • 第1期:1336–1348年、南朝成立から、四條畷の戦いで楠木正行が戦死、後村上天皇が行宮を賀名生に遷すまで。
  • 第2期:1349–1367年、観応の擾乱から足利義詮の死まで。
  • 第3期:1368–1392年、足利義満の将軍就職から両朝統一まで。

南北朝時代の元号[編集]

西暦 1330年 1331年 1332年 1333年 1334年 1335年 1336年 1337年 1338年 1339年
南朝 元徳2年 元弘元年 元弘2年 元弘3年 建武元年 建武2年 延元元年 延元2年 延元3年 延元4年
北朝 元徳3年 正慶元年 正慶2年 建武3年 建武4年 暦応元年 暦応2年
干支 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年 1347年 1348年 1349年
南朝 興国元年 興国2年 興国3年 興国4年 興国5年 興国6年 正平元年 正平2年 正平3年 正平4年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年 貞和3年 貞和4年 貞和5年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑
西暦 1350年 1351年 1352年 1353年 1354年 1355年 1356年 1357年 1358年 1359年
南朝 正平5年 正平6年 正平7年 正平8年 正平9年 正平10年 正平11年 正平12年 正平13年 正平14年
北朝 観応元年 観応2年 文和元年 文和2年 文和3年 文和4年 延文元年 延文2年 延文3年 延文4年
干支 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥
西暦 1360年 1361年 1362年 1363年 1364年 1365年 1366年 1367年 1368年 1369年
南朝 正平15年 正平16年 正平17年 正平18年 正平19年 正平20年 正平21年 正平22年 正平23年 正平24年
北朝 延文5年 康安元年 貞治元年 貞治2年 貞治3年 貞治4年 貞治5年 貞治6年 応安元年 応安2年
干支 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉
西暦 1370年 1371年 1372年 1373年 1374年 1375年 1376年 1377年 1378年 1379年
南朝 建徳元年 建徳2年 文中元年 文中2年 文中3年 天授元年 天授2年 天授3年 天授4年 天授5年
北朝 応安3年 応安4年 応安5年 応安6年 応安7年 永和元年 永和2年 永和3年 永和4年 康暦元年
干支 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未
西暦 1380年 1381年 1382年 1383年 1384年 1385年 1386年 1387年 1388年 1389年
南朝 天授6年 弘和元年 弘和2年 弘和3年 元中元年 元中2年 元中3年 元中4年 元中5年 元中6年
北朝 康暦2年 永徳元年 永徳2年 永徳3年 至徳元年 至徳2年 至徳3年 嘉慶元年 嘉慶2年 康応元年
干支 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳
西暦 1390年 1391年 1392年 1393年
南朝 元中7年 元中8年 元中9年 明徳4年
北朝 明徳元年 明徳2年 明徳3年
干支 庚午 辛未 壬申 癸酉

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 発端となった事件はユリウス暦上では既に年が替わった1337年であるが、西暦上でも1336年を南北朝時代に含める主張もある。
  2. ^ のちには大和国賀名生・摂津国住吉・山城国男山八幡・河内国金剛寺などを転々とする。
  3. ^ 後醍醐天皇の記録としての在位期間は文保2年(1318年)2月26日 - 延元4年(1339年)8月15日
  4. ^ 明徳の和約による南北朝の合一
  5. ^ 実際には国衙領はわずかしかなかった。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 小川 2007.
  2. ^ a b 佐藤 1997a.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 永原 1994.
  4. ^ a b c d e f g h i 佐藤 1997b.
  5. ^ a b 大田 1995.
  6. ^ 呉座 2014, 第2章.
  7. ^ 横山 2011, p. 36.
  8. ^ 久木 1997.
  9. ^ a b 川本慎自「禅僧の数学知識と経済活動」中島圭一 編『十四世紀の歴史学 新たな時代への起点』(高志書院、2016年) ISBN 978-4-86215-159-9
  10. ^ 岡山 & 田村 2003, pp. 110–111.
  11. ^
  12. ^ a b c 鈴木 1981, pp. 32–34.
  13. ^ a b c 亀田 2015, 室町幕府初代執事高師直>北畠顕家との死闘>塩冶高貞の討伐.
  14. ^ 『大日本史料』6編6冊694–696頁.
  15. ^ a b c d e 林屋 2017, はしがき.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、南北朝時代 (日本)に関連するカテゴリがあります。



足利義満の平和戦略[編集]

足利義満の平和戦略

足利義満という武将を描くとき誰しも京都の金閣寺を思い出す。

金閣寺は現在は当時のものではなく昭和にはいって再建された建物であるが、

尊氏の苦労がここにきてようやく実をむすんで、

義満にバトンが手渡されたともいえる。

そして、室町文化は現代でも人々に感動をあたえている。

日明貿易

これは、もともと平清盛さんが宋という国と貿易を行おうとして頓挫した企画だったようです。

が、義満が財を成し、明に「日本国王」という称号を名乗って文章をおくり

大変良好な関係を築いたことで義満の戦略が効果を発揮したといえます。

政治の実権を自分に集中させようとして、自ら天皇になろうとしましたが、

途中で急死しましたので実現できませんでしたが、ここで室町幕府は

安定期にはいったのでありました。

室町文化[編集]

室町文化といっても東山文化と北山文化という二つの区分があります。

また貨幣文化が少しづつ導入されたのもこの時代からでした。

兼好法師とその時代

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

これは、兼好法師の有名な随筆集「徒然草」の冒頭の一節です。

兼好法師の特徴は日々の出来事をただ述べているだけでなく

庶民の姿をおおらかに描いているところが評価されています。

兼好法師の生きていた時代は、後に南北朝時代と呼ばれますが…・

このころは足利氏が天皇を擁立した北朝と後醍醐天皇が中心とする南朝に分かれていました。


徒然草第52段  石清水八幡宮

仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。

すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。


仁和寺は現在は世界遺産に指定されています。

平安時代に設立されたのがはじまりとされています。

仁和寺のある法師が年を取るまで石清水八幡宮を拝みにいかなかったのを後悔してある時ただ一人で歩いていって、

極楽寺・高良までいって拝んでありがたくかえってきたが

山の上に上っているのはなぜかは知らないが参拝が目的なので山の上までのぼってこなかった

(実はそこが石清水八幡宮なのですが・・・・・)

そこで小さなことでも案内人は必要だと結ばれています。

法師のユーモラスな行動に癒されると同時にほのぼのとした余韻を感じられる文であるとおもいます。


北山文化

北山というところに金閣寺を立てたのは足利義満さんでしたが、かって、金閣寺は鹿苑寺とよばれていました。

このころの武士は、公家文化をとりいれた鎌倉時代の武士とは違う新しい武士のスタイルを確立させました。

このころには、能とよばれ、歌舞伎の元になった芸能も誕生しました。

やがて、日本は、中国との貿易をいったん中止し、

改めて勘合貿易という形で交易を続けて莫大な財をもたらし、

室町幕府は安定期にはいるのです。

足利義政と応仁の乱[編集]

足利義政は果たして愚かな将軍だったのだろうか?

ただ現実逃避を

していただけのひとだったのだろうか?

筆者の疑問は今でも残る。

応仁の乱ほど複雑な過程をへて内乱に発展したケースは少ない。

しかし、結果をいってしまえば、室町幕府は権威が弱まり

戦国時代をへて、徳川家康が天下を取り

江戸時代につながってゆくのである。

倭寇

倭寇とは、日本近海はては中国の領海内を荒らしまわった。海賊です。

ヨーロッパにおけるバイキングとにているところもありますが

全然ちがうものです。

バイキングは、貿易を生業とする武装集団だったのに対し

倭寇は、個人的に組織された、強盗目的の集団で

今でいうテロリストに近いです。

倭寇の多くは、中国(明)と勘合貿易が発達するにつれ

衰退してゆきます。

勘合貿易は、割符とよばれる証明書をもって

交易をするシステムでした。

土一揆

室町時代も中期に入ると農村の生産が格段に上昇して幕府に対する発言手段として

おもに農民たちが組織したのが一揆です。

これが幕府を弱体化させたひとつの原因ともされています。

山城国一揆は社会に衝撃的な事件として記録されます。

細川晴元と山名宗全

この二人の武将が応仁の乱のキーポイントといえます。

細川晴元は、優秀な官僚とおもわれますが・・・・・

実は管領という政務をあずかる総理大臣のような職にたずさわり

将軍職の側近でした。ですからこの二人は最初のうちは仲良しでしたが・・・・・。

応仁の乱の最初の原因となったのは

足利義政の後継者問題だったといわれています。

足利将軍家の後継者問題[編集]

足利義満の死後、足利将軍家自体は、象徴的な権威はありましたが、

実質は守護大名の力が強くなり

三管領と呼ばれる方々が施政をになっていました。

しかしこの間に嘉吉の乱にみられるように

守護大名の利害と幕府の意見が一致しない問題もでてきました。

後継者問題もそのひとつです。

足利義政公には子供がなかなかさずからなかったのです。

そこで、将軍の弟である足利義視をいち後継者にすることで

この問題をのりきったのでした。

足利義尚公の誕生[編集]

しかしながら、ほどなくして日野富子女史に子供が誕生しました。

これが、後の将軍足利義尚公です。

ここで、政治問題が発生します。

本来なら後継者は足利義視公になるはずでした。

しかしながら,直系の子孫が誕生したことで、

義尚公の立場がどうなるのか問題になります。

文正の政変[編集]

斯波家は、鎌倉幕府討幕からずっと足利家に協力してきた。

いわば、室町幕府創設の立役者でした。

このころの斯波家は内部の対立にありました。

全く同じ事情を抱えていたのが畠山家でした。

足利将軍家の後継者問題と諸大名の家中の問題が

複雑に絡み合って起ったのが応仁の乱です。

で、この政変はなにが起ったかといいますと・・・・・・

伊勢貞親という人がこの政変の原因となります

この方は、足利義政公の叔父に当たる人です。

伊勢氏は、斯波、畠山のお家騒動に内部干渉し

そして足利義政公に足利義視公を殺害を進言しました。

これは諸大名の反発をよび

伊勢貞親氏は失脚します。

これが文正の政変と呼ばれるものです。

応仁の乱の真の勝者?[編集]

果たして、この戦乱の真の勝者はだれだったのか・・・

これからたぐってゆきたいとおもいます。

中世の荘園荘園制度[編集]

荘園制度自体動いていたのか・・・・・・。

筆者には、確認できませんが、

荘園制度の変遷は注目することはできます。

荘園制度は、律令制が制定されたころからあったという。

大化の改新といって中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)というひとが

中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに蘇我入鹿(そがのいるか)という人を暗殺します。

このころは8世紀のころで、そのまえはすべて朝廷の所有物でした。

勿論人民もそうです。

大和朝廷が成立する前はおびただしい豪族が日本の小さい部落を作って人民を支配していました。

そのうち各地で戦乱が起きたくさんのひとがなくなりこの戦乱を収めたのが

邪馬台国とよばれ女王に卑弥呼(ひみこ)という人が立ち平穏にくらしていました。

荘園は794年から1594年までつづきます。

墾田摂受の法

日本で一番古い法立です。

奈良時代につくられ、藤原武智麻呂他たくさんの官僚の力によってつくられましたが

この条文を見る限り、まだ私有地の条文がくわしくのっていないので

専門知識がなければコメントがむずかしいです。

ここで、公の領地と人民の所有する規定がはじめてできたことになります。


太閤検地

太閤検地とは、豊臣秀吉公が、石田三成という武将と諮って人民を支配する仕組みをとりだして

この時点で荘園制度自体が廃止されました。

安土桃山時代[編集]

三好長慶

三好氏は歴史ドラマの中であまり語られない武将でもありますが

とても実力があった武将なのでえがきます。

後に時の将軍足利義輝と仲たがいするのですが・・・・・・・。

織田信長にさきがけて天下を左右する武将でもあったと

筆者は思います。

ただ、史料が少なく中々評価されませんが

最後はとてもかわいそうな暗殺という形で一生を終えたとされます。

織田家の家系

織田家は現在の愛知県の領主の家老職にあった。

というのがおぼろげながらの筆者の記憶でしたが・・・・・。

もう少し調べてゆきたいです。

織田家はたくさんの親戚筋があり全部は把握していませんが・・・・・。

織田信長公の6男の織田信勝公の子孫は

今でも健在だということです。

豊臣秀吉の前半生の謎

今日にいたるまで豊臣秀吉の若いときというのが

まったくの謎とされています。


一 父木下弥右衛門ト云中々村ノ人、信長公ノ親父信秀織田備後守鉄砲足軽也。爰(ここ)カシコニテ働キアリ。就夫手ヲ負五体不叶、中々村ヘ引込百姓ト成ル。太閤ト瑞龍院ヲ子ニ持チ、其後秀吉八歳ノ時、父弥右衛門死去。


木下弥右衛門というひとが実の豊臣秀吉の父であるというのが一般的な説でしたが・・・・・。これは戦前まで伝記にのせられていましたが・・・・。

一 織田信秀備後守家ニ竹阿弥ト云同朋衆アリ、中々村ノ生レノ者ナリ、病気故中々村ヘ引込ム、所ノ者是ヲ幸ニ木下弥右衛門後家秀吉母ノ方ヘ入ル丶、其後男子一人女子一人秀吉ト種替リノ子ヲ持ツ

その後、秀吉の実の母のなかさんが竹阿弥という織田信長の配下の部下と結婚したといいます

秀吉公は実の父とはともかく竹阿弥さんとは仲が悪かったといわれます。


徳川家のルーツ


徳川家についても触れてみたいと思います。

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代徳川将軍家一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。


松平氏は岡崎城を拠点とし、織田家と今川の領地にはさまれとても苦労した小国でした。

幼名を竹千代といった東照大権現様(徳川家康公)は父上も祖父も暗殺され

今川家で人質に生活をおくっていました。

太源雪斎禅師(太源雪斎禅師)の教育によって徳川家康公の骨格ができたのもこのじきだったのでしょう

戦国時代[編集]

戦国時代はいつごろから?

実は、戦国時代という区分は学問的には存在していないのですが・・・・・・

通俗的に応仁の乱の後戦国時代に突入したというのが

中小学校で学んだ歴史のちしきです。

では、戦国時代の終了がいつのことか・・・・・・・・

筆者は、大阪夏の陣で豊臣家の当主豊臣秀頼公が自害して

おわった。とみなしています。

ちなみにウィキペデアにはこう書かれています。


日本戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

目次[編集]

名称[編集]

応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する。

一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に、「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)の永正5年(1508年)4月16日条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。

武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていたことが伺える。

ただし、江戸時代ベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である。

始期と終期[編集]

戦国時代の始期と終期については、いくつかの概念がある。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権に因む時代区分と平行して「戦国時代」と呼称される。

全国一律の始期と終期
一般に1467年応仁の乱または1493年明応の政変に始まり、豊臣秀吉関東奥羽惣無事令を発布した1587年、または豊臣秀吉が小田原征伐後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了した1590年、もしくは奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年までとされることが多い。また、一般に1568年の織田信長上洛または1573年の信長による将軍足利義昭追放で室町時代が終了し織豊時代安土桃山時代の始まりとすることが多い。長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として含まれるという見方が多い。
従来は、1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後の幕府は衰退しつつも依然中央政権として機能していた。幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、明応2年(1493年)の明応の政変により中央政権としての機能が決定的に失われた事が始まりであるとするのが、鈴木良一が提唱して近年に有力になった説である。
戦国時代の終期にも複数の見解が並立している。上記の通り戦国時代は室町時代安土桃山時代と重なる年代区分であり、織田信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、あるいはさらに後世に進み、関ヶ原の戦いを最後とする見方や、さらに後の大坂の陣を最後とする考え方(元和偃武)、島原の乱を最後とする考え方なども存在する。
地域ごとの始期と終期
戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするが、始期は地域ごとに大きく異なっている。
畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。
また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり、天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。
東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ、豊臣氏による天正18年(1590年)の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。
一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する。
以下のことを考え筆者は1461年から1615年を戦国時代と規定しました。

戦国時代 概説[編集]

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって、保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

畿内中央から、全国各地の地域に及ぶそれぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われ、旧来の上位権力による制御が困難となった。このような永続的な衝突を可能にする背景は貨幣経済の浸透と充実により国衙荘園の統治機構や畿内中央の首都経済の需要のみには依存しない地域経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことにあり、在地の経済や文化の発展が時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展して貨幣経済をさらに拡大する中で自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。こうした経済発展と頻発する武力紛争に対応して都市部では、農村部などでは惣村という重武装した新興の自治共同体が、それぞれ町人身分と百姓身分の一揆契約に基づく団体として自生・発展を続け、武家領主たちの統治単位も旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの町村へと移行する。戦国大名の領国もこの町村を背景にしたものとして組織されたものであり、後の幕藩体制や近代の地方自治体もこの時誕生した町村を基盤とすることとなる。

桶狭間の戦い[編集]

桶狭間の戦いが織田信長公を一躍有名にした戦いだったのはいうまでもないです。

この戦いのポイントは、室町時代初期からの有力大名だった今川義元公を戦死にいたらしめたばかりでなく

その後の歴史を変換させたこともいみがあるといえます。

桶狭間をどこの位置にと特定するか?

正確には桶狭間とは言わなかった可能性も高いらしいですが・・・・

田楽狭間(でんがくはざま)と歴史小説で表現する小説家の先生もおられます。

合戦の経過[編集]

合戦以前の情勢[編集]

15世紀末、駿河国の今川氏親は勢力を拡大し、今川義元は駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国武田氏後北条氏甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。

尾張国では守護斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定織田信秀(信長の父)と二代にわたり領土を広げた。今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、信秀は天文7年(1538年)までに、尾張那古野城にいた今川氏豊を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まる。

信秀は尾張東部と西三河を巡り、三河の有力国人である松平氏とも抗争していた。松平清康は東尾張侵攻中に家臣に殺害され(森山崩れ)、その子松平広忠も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は西三河と東尾張で対峙することになった。天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利したが、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌天文18年(1549年)には今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略し、織田氏の三河進出は挫折に終わった。

さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後継の織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城笠寺城(それぞれ名古屋市緑区南区)を守る山口教継が今川方に投降。加えて山口氏調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通以前の知多半島は不毛地帯であった。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の荷之上城に拠る服部友貞が今川方に与しており、荷之上城に近い蟹江城弘治元年(1555年)に今川方に攻められ、伊勢湾制海権が徐々に侵略されつつあった。

織田信長も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。天文23年(1554年)には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦善照寺砦中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦鷲津砦を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断した。尾張東北では永禄元年~2年(1558年~1559年)、松平・今川氏が押さえる品野城(瀬戸市)を攻めたが、奪取はならなかった。

合戦までの経過[編集]

永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は大軍を率いて尾張を目指し、沓掛城に入った。今川軍は、翌5月18日6月11日)夜、松平元康(徳川家康)が指揮を執る三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は軍議したが信長は雑談するばかりで、重臣は「知恵の鏡も曇る」と引き去った(『信長公記』)。『信長公記』天理本では、清洲城篭城をとの家老衆の進言を除け、信長は国境での迎撃を採用したとする。

5月19日6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞敦盛』を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城の清洲城より出発。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神宮に到着。その後、軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。

10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000人から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500人余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。

(奇襲説)一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500人余りを置き、2,000人の兵で東方に迂回して出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した。
(正面攻撃説)信長は田の間の細道を行き中嶋砦まで進軍した。

合戦後の情勢と影響[編集]

今川家の実質的な当主の今川義元松井宗信久野元宗井伊直盛由比正信一宮宗是蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。

大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹して果てようとした。その時、当寺13代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し、郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた三河岡崎城にたどりついた。

尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取った(ただし、味方の支援が受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城を落としきれずに帰国したとする説もある)。信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。

一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は美濃斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。

桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦い第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の武田勝頼に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした

姉川合戦[編集]

長篠の合戦は、近代兵器である、鉄砲を効率性を重視した。

織田信長の有名な合戦として語られていますが、

浅井長政の悲劇として語られるのが姉川の合戦です。

ここでは、合戦の背景をみていきましょう。

浅井長政との同盟(織田家)[編集]

織田信長公は、桶狭間の戦いにおいて、注目される存在になりましたが

全国の大名からみれば、それほど高いランクの家柄ではありませんでした。

美濃における斎藤家の内紛は、

織田家の存在が大きく取り上げられたはじめの一歩でした。

次の一歩は足利義昭公を京に戻すことでした。

そこで、浅井長政との同盟が重要になってくるのでした。

浅井長政は、六角氏討伐を問うして成長した戦国大名でした。

北部近江が浅井家の領土でとても強い武将でした。

本能寺の変[編集]

概説
長篠の戦い、姉川の戦いと同様、織田信長の戦いにとって重要な場面であり
これほど歴史が動いた瞬間は他にないのではと思われるぐらい。
日本人にとって有名な事件であり
色んななぞも多い事件でもあります。
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が突如謀反を起こして襲撃した事件である。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した。これにより信長、信忠を失った織田政権は瓦解。6月13日山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉豊臣政権を構築していく契機となった。

背景[編集]

天正10年(1582年3月11日武田勝頼信勝親子を天目山に追い詰めて自害させた織田信長は、3月27日、2日に名城・高遠城を攻略した信忠に、褒美と共に「天下支配の権も譲ろう」との言葉も贈って褒め称えた。信長は甲府より返礼に来た信忠を諏訪に残して軍勢を現地解散すると、僅かな供廻りだけをつれて甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら悠々と帰国の途に就いた。4月3日には新府城の焼け跡を見物。かつての敵、信玄の居館・躑躅ヶ崎館跡の上に建てられた仮御殿にしばらく滞在し、4月10日に甲府を出立した。長年の宿敵を倒し、立派な後継者の目途もついて、信長にとって大変満足な凱旋となった。

天下を展望すると、東北地方においては、伊達氏最上氏蘆名氏といった主な大名が信長に恭順する姿勢を見せており、関東では後北条氏がすでに天正8年(1580年)には同盟の傘下に入っていて、佐竹氏とも以前より外交関係があったので、東国で表だって信長に逆らうのは北陸上杉氏を残すのみとなった。北条氏政氏直親子は甲州に共同で出陣する約束をしていたが、戸倉城を攻略した後は何ら貢献できなかったので、3月21日に酒・白鳥徳利を、26日には諏訪に米俵千俵を献じ、4月2日には雉500羽、4日には馬13頭と鷹3羽と、短期間で立て続けに献上品を送って誼を厚くしようとした。しかし、この時の馬と鷹はどれも信長が気に入らずに返却されている。他方で、信長は長年の同盟者である徳川家康には駿河1国を贈ったが、家康は領国を通過する信長一行を万全の配慮で接待し、下士に至るまで手厚くもてなしたので、信長を大いに感心させた。これら信長の同盟者はもはや次の標的とされるよりもその威に服して従属するという姿勢を鮮明にしていた。

西に目を転じると、中国地方では、毛利氏との争いが続き、四国でも長宗我部氏が信長の指図を拒否したことから交戦状態に入った(詳細は後述)が、九州においては大友氏と信長は友好関係にあり、島津氏とも外交が持たれていて、前年6月には准三宮近衛前久を仲介者として両氏を和睦させたことで、島津義久より貢物を受けている。信長は天正9年(1581年)8月13日、「信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、その意向を繰り返し表明していたが、上月城での攻防の際は重臣が反対し、鳥取城攻めの際には出陣の機会がなかった。その間に伊賀平定を終えて(高野山を除く)京都を中心とした畿内全域を完全に掌握したことから、次こそ第3次信長包囲網を打倒し、西国最大の大名である毛利氏を討つという意気込みを持っていた。

甲州征伐」、「清洲同盟」、「甲越同盟」、および「中国攻め」も参照

他方で信長は、天正6年(1578年)4月9日に右大臣右近衛大将の官位を辞して以来、無官・散位のままであった。正親町天皇とは誠仁親王への譲位を巡って意見を異にし、天正9年3月に信長は譲位を条件として左大臣の受諾を一旦は了承したが、天皇が金神を理由に譲位を中止したことで、信長の任官の話もそのまま宙に浮いていたからである。そこで朝廷は、甲州征伐の戦勝を機に祝賀の勅使として勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)を下し、晴豊は信長が凱旋した2日後の天正10年4月23日に安土に到着した。『晴豊公記』によれば、4月25日に信長を太政大臣関白征夷大将軍かに推挙するという、いわゆる「三職推任」を打診し、5月4日には誠仁親王の親書を添えた2度目の勅使が訪問したと云う。2度の勅使に困惑した信長が、森成利(蘭丸)を晴豊のもとに遣わせて朝廷の意向を伺わせると、「信長を将軍に推任したいという勅使だ」と晴豊は答えた。しかし信長は、6日、7日と勅使を饗応したが、この件について返答をしなかった。そのうちに、5月17日備中より待ちわびていた羽柴秀吉からの出馬要請が届いた。これを受けて信長は出陣を決意し、三職推任の問題はうやむやのまま、本能寺で受難することになった。(続き

詳細は「三職推任問題」を参照

明智光秀の立場[編集]

四国・長宗我部問題[編集]

これより前、土佐統一を目指していた長宗我部元親は、信長に砂糖などを献上して所領を安堵された。信長は元親の嫡男弥三郎烏帽子親になって信の字の偏諱を与えるなど友誼を厚くし、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書かれた朱印状を出していた。信長も当時は阿波讃岐河内に勢力を張る三好一党伊予河野氏と結ぶ毛利氏と対峙しており、敵の背後を脅かす目的で長宗我部氏の伸長を促したのである。その際に取次役となったのが明智光秀であり、明智家重臣の斎藤利三の兄頼辰は、奉公衆石谷光政(空然)の婿養子で、光政のもう1人の娘が元親の正室(信親生母)であるという関係性にあった。

ところが、その後三好勢は凋落し、信長の脅威ではなくなった。天正3年(1575年)、河内高屋城で籠城していた三好康長(笑岩)は、投降するとすぐに松井友閑を介して名器「三日月」を献上して信長に大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになる。同じころに土佐を統一した長宗我部氏は、天正8年6月には砂糖三千斤を献じるなど信長に誼を通じる意思を示していた一方で、阿波・讃岐にまで大きく勢力を伸ばして、笑岩の子康俊を降誘し、甥十河存保を攻撃していて、信長の陪臣が攻められる状態ともなっていた。笑岩は羽柴秀吉に接近して、その姉の子三好信吉を養嗣子に貰い受けて連携しており、笑岩は本領である阿波美馬三好の2郡を奪われると、天正9年、信長に旧領回復を訴えて織田家の方針が撤回されるように働きかけた。信長は三好勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波の占領地半分を返還するように通告したが、元親はこれを不服とした。天正10年正月、信長は光秀を介して長宗我部は土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよという内容の新たな朱印状を出して従うように命じ、斎藤利三も石谷空然を通して説得を試みていたが、いずれも不調で、ついには信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになった。信長の四国政策の変更は、取次役としての明智光秀の面目を潰した。

早くも前年秋の段階で阿波・淡路での軍事活動を開始していた節のある笑岩は、2月9日に信長より四国出陣を命じられ、5月には織田勢の先鋒に任命されて勝瑞城に入った。三好勢が一宮城夷山城を落すと、岩倉城に拠る康俊は再び寝返って織田側に呼応した。変の直前、三好勢は阿波半国の奪還に成功した状態で目前に迫った信孝の出陣を待っていた。元親は利三との5月21日付けの書状で、一宮城・夷山城・畑山城からの撤退を了承するも土佐国の入口にあたる海部城大西城については確保したいという意向を示し、阿波・讃岐から全面撤退せよと態度を硬化させた信長との間で瀬戸際外交が続けられていた。

「近畿管領」[編集]

全国平定の戦略が各地で着実に実を結びつつあったこの時期に、織田家の重臣に率いられた軍団は西国・四国・北陸・関東に出払っており、畿内に残って遊撃軍のような役割を果たしていた明智光秀の立場は、特殊なものとなっていたと現代の史家は考えている。

近畿地方の一円に政治的・軍事的基盤を持っていた光秀は、近江・丹波・山城に直属の家臣を抱え、さらに与力大名(組下大名)として、丹後宮津城長岡藤孝忠興親子、大和郡山城筒井順慶摂津有岡城池田恒興茨木城中川清秀高槻城高山右近を従えていた。

高柳光寿は著書『明智光秀』の中で「光秀は師団長格になり、近畿軍の司令官、近畿の管領になったのである。近畿管領などという言葉はないが、上野厩橋へ入った滝川一益を関東管領というのを認めれば、この光秀を近畿管領といっても少しも差支えないであろう」と述べて、初めてそれを「近畿管領」と表現した。桑田忠親も(同時期の光秀を)「近畿管領とも称すべき地位に就くことになった」として同意している。津本陽は光秀の立場を「織田軍団の近畿軍管区司令官兼近衛師団長であり、CIA長官を兼務していた」と書いている。光秀は、領国である北近江・丹波、さらには与力として丹後、若狭、大和、摂津衆を従えて出陣するだけでなく、甲州征伐では信長の身辺警護を行い、すでに京都奉行の地位からは離れていたとしても公家を介して依然として朝廷とも交流を持っており、(諜報機関を兼ねる)京都所司代村井春長軒(貞勝)と共に都の行政に関わり、二条御新造の建築でも奉行をするなど、多岐に渡る仕事をこなしていた。

天正9年の馬揃えで光秀が総括責任者を務めたのはこうした職務から必然であり、(この時、羽柴秀吉は不在であったが)織田軍団の中で信長に次ぐ「ナンバーツーのポスト」に就いたという自負も目覚めていたと、野望説論者の永井路子は考えている。しかも、特定の管轄を持たなかった重臣、滝川一益と丹羽長秀が、相次いで関東に派遣されたり、四国征伐の準備や家康の接待に忙殺されている状況においては、機動的に活動が可能だったのは「近畿管領」たる光秀ただ1人であった。後述するように動機については諸説あって判然とはしないが、僅かな供廻りで京に滞在する信長と信忠を襲う手段と機会が、光秀だけにあったのである。

直前までの状勢[編集]

本能寺の変が起こる直前までの織田家諸将および徳川家康の動向を以下にまとめる。  

本能寺の変前の織田家諸将(および徳川家康)の動向
大将(与力・一門衆) 所在 配下の軍勢 状況 対立武将 対立勢力 直前の行動・できごと
織田信長 山城国 20-30から150-160 在京 - - 5月29日、信長は中国出陣の準備をして待機するように命じ、小姓衆をつれて安土より上洛した。その際、茶道具の名器38点を携えており、6月1日近衛前久を主賓として茶会を開いた。京都滞在は5日間の計画で、先に淡路で信孝の閲兵に向かうと伝えられていた。
小姓衆(森成利森長隆森長氏等)
織田信忠 山城国 数百 在京 - - 5月14日、信忠は甲州征伐から安土に帰還。21日に上洛して妙覚寺に滞在。斎藤利治は病気で、信長・信忠に心配されて御供を外されていたが、後日、病気は治ったと加治田城を出発し、兄(斎藤利堯)が留守居する岐阜城を通り過ぎてそのまま、変前日(6月1日)に京に入り、妙覚寺で信忠と合流した。同日夜、信忠は村井貞勝をつれて本能寺を訪れ、父と酒を飲み交わした。
一門衆津田長利勝長)・奉行衆村井貞勝菅屋長頼)・母衣衆福富秀勝野々村正成毛利良勝)・御供衆(猪子兵助団忠正斎藤利治)等
明智光秀 丹波国山城国 13,000 出陣 - - 天正9年の馬揃えでは総括責任者を務めた光秀であったが、甲州征伐では信長の身辺警固を命じられたのみで、活躍の場はなく安土に帰還。その後、徳川家康の饗応役に任命されて準備をしたが、備中高松城包囲中の羽柴秀吉から急使があり、援軍に赴くように信長から急遽命じられて、饗応役も長秀と交代。光秀はすぐに軍勢の支度のために5月17日に坂本城に戻り、さらには26日には領地の丹波・亀山城に向かった。
明智秀満明智光忠斎藤利三溝尾茂朝藤田行政伊勢貞興山崎長徳並河易家
明智十五郎阿閉貞征妻木広忠京極高次山崎堅家 近江国 不明 在番 - - 嫡男十五郎は坂本城に留守居。阿閉は山本山城、京極は上平寺城と、それぞれ居城にいた。(山城国の)山崎堅家は安土の館に詰めていた。
筒井順慶 山城国 - 在京 - - 筒井順慶は甲州征伐に明智配下として出征して大和郡山城に帰還。直前は順慶本人は京に滞在していた。
長岡忠興長岡藤孝池田恒興高山右近中川清秀塩川長満 丹後国摂津国 8,500以上 準備 - - 長岡忠興・池田(元助照政)・中川は、甲州征伐に明智配下として出征したが、5月17日、秀吉に援軍として向かう光秀の与力として、他2氏と共に先鋒を命じられたので、領国に戻って再び出陣準備をしていた。
羽柴秀吉 備中国 30,000

から 60,000

対陣 清水宗治末近信賀毛利輝元吉川元春小早川隆景 35,000 天正10年3月5日、秀吉は山陽道に出陣し、4月4日、宇喜多秀家岡山城に入城。14日、秀吉は宇喜多勢と龍王山と八幡山に陣した。25日に冠山城を攻略して林重真が切腹。5月2日に乃美元信が開城して宮路山城を退去し、加茂城では生石治家が寝返ったが桂広繁が(宇喜多勢の)戸川秀安を撃退して本丸は守った。7日、秀吉は蛙ヶ鼻に陣を移し、足守川を堰き止めて高松城を水没させた。15日、秀吉は信長に状況を知らせ、毛利勢の総大将が間もなく出陣すると報告した。2日後、これを聞いた信長は、明智光秀らに出陣を命じた。小早川隆景が幸山城に入り、21日、毛利輝元・吉川元春も合流して総勢3万の援軍が到着した。
羽柴秀長羽柴秀勝杉原家次蜂須賀正勝堀尾吉晴神子田正治宇喜多忠家黒田孝高仙石秀久
宮部継潤亀井茲矩 因幡国 不明 城番 - - 宮部は鳥取城。亀井は鹿野城
神戸信孝丹羽長秀 和泉国摂津国 14,000

(三好勢6,000)

準備 - - 5月11日、信孝は住吉ヘ出陣し、四国征伐の渡海準備を始めた。予定では6月2日に淡路に渡海して(中国に向かう途中の)信長も4日に来るはずであった。長秀は5月14日に家康・梅雪・信忠を番場で接待し、光秀が出た後は20日以降は4名で家康一行を接待した。堀が羽柴の伝令として派遣され、菅屋が奉行の役目で離れ、長秀は信澄と共に引き続き饗応役となるように命じられ、先に大坂に向かった。
蜂屋頼隆九鬼嘉隆津田信澄
三好笑岩十河存保三好康俊 阿波国 戦闘 香宗我部親泰長宗我部信親比江山親興江村親俊 3,000 先鋒・三好笑岩は5月に勝瑞城に入り、一宮城夷山城を攻略し、康俊が岩倉城で織田側に寝返って呼応。阿波半国を奪還して神戸信孝の本隊の到着を待っていた。長宗我部氏は畑山城からは撤退したが、海部城大西城では抵抗する構えであった。
柴田勝家 越中国能登国 48,000

(魚津城攻囲15,000)

戦闘 上杉景勝中条景泰上条政繁吉江宗信景資)・須賀盛能 3,000

または5,000 +城兵

河田長親は既に亡く上条政繁が指揮する越中の上杉勢。3月11日小島職鎮ら一揆勢が神保長住富山城を落として長住を監禁したが、織田勢が奪還。柴田・前田らは松倉城魚津城を囲み、越境して勝山城も攻めた。上杉景勝は新発田重家の反乱もあって対応に苦慮。5月16日、景勝は天神山城に後詰で入るが、魚津城の戦いの最中に長景連棚木城を奪った際にも、長連龍・前田利家による奪還(22日)に為すすべなく、勝ち目のない上杉勢は6月を前にして撤退を検討していた。
柴田勝豊佐々成政前田利家佐久間盛政徳山則秀神保氏張長連龍・椎名孫六入道
滝川一益 上野国 26,200 出陣 - - 滝川一益は当初より後北条氏との取次役であったが、甲州征伐では信忠の補佐役も務めて、3月11日に天目山で武田勝頼父子を自害させて首を取るという大手柄を挙げた。3月23日、事実上の一番手柄として、上野国と信濃2郡、名馬を与えられて、関東八州の警固役に任命されて、上野厩橋城に入城した。上州・信州・武州の諸将を与力として従え、一益はこの軍勢を糾合して、三国峠を越えて越後に攻め入る予定であった。
滝川益重津田秀政・稲田九蔵・小幡信貞真田昌幸内藤昌月由良国繁安中久繁成田氏長木部貞朝依田信蕃
河尻秀隆森長可毛利秀頼稲葉貞通 甲斐国信濃国 不明 鎮定 芋川正元・一揆勢 不明 河尻は穴山領を除く甲斐国と諏訪郡を領して府中城に、森長可は北信濃4郡を領して海津城に、毛利秀頼は伊奈郡を領して飯田城に入った。4月初旬、飯山城を一揆が攻撃して稲葉貞通を追った。長可が反撃して城を奪回し、一揆勢8千余を鎮圧した。その際に女子供を含む数千人を成敗した。信濃は不穏な状況で、長可の越後攻めは遅延していた。
木曾義昌小笠原信嶺 信濃国 不明 安堵 - - 木曾義昌は木曽谷の2郡の安堵、さらに安曇郡筑摩郡を加増された。小笠原信嶺も旧領安堵された。
徳川家康穴山信君 河内国 34 旅行 - - 家康は一貫して低姿勢で、天正3年に叔父水野信元を、天正7年には嫡男信康を、内通の嫌疑で斬った。天正10年、甲州征伐の折にも信長の帰途を誠心誠意もてなし喜ばれる。駿河を与えられた返礼として家康は穴山梅雪と共に5月中旬に安土は訪れ、信長は光秀や長秀を付けて接待させた。その後、の見物を勧められて長谷川秀一が案内人として同伴した。

※主な出典は『信長公記』、『史料綜覧』、『史籍集覧

経緯[編集]

信長と光秀[編集]

天正10年(1582年)5月14日、織田信長は(『兼見卿記』によれば)安土城に下向した長岡藤孝に命じ、明智光秀を在荘として軍務を解くから翌日に安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示した。そこで光秀は京・堺から珍物を沢山取り揃えて、15日より3日間、武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康や、金2,000枚を献じて所領安堵された穴山梅雪らの一行をもてなした。ところが、17日、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の後詰が現れたので応援を要請するという旨の手紙が届いたため、信長は「今、安芸勢と間近く接したことは天が与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と決心して、堀秀政を使者として備中に派遣し、光秀とその与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)には援軍の先陣を務めるように命じた。ただし『川角太閤記』では、単なる秀吉への援軍ではなく、光秀の出陣の目的は毛利領国である伯耆出雲に乱入して後方を撹乱することにあったとしている。ともかく、光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた。

#饗応役の解任」および「#旧領丹波・近江の召上」も参照

19日、信長は摠見寺幸若太夫をまわせ、家康、近衛前久、梅雪、楠長譜長雲松井友閑に披露させた。信長は大変に上機嫌で、舞が早く終わったので翌日の出し物だった能を今日やるようにと丹波田楽の梅若太夫に命じたが、見る見るうちに機嫌が悪くなり、不出来で見苦しいといって梅若太夫を厳しく叱責した。その後、幸若太夫に舞を再びまわせ、ようやく信長は機嫌を直したと云う。20日、家康の饗応役を新たに、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一菅屋長頼の4名に命じた。信長は家康に京・大坂・奈良・堺をゆるりと見物するように勧めたので、21日、家康と梅雪は京に出立し長谷川秀一が案内役として同行した。長秀と津田信澄は大坂に先に行って家康をもてなす準備をするよう命じられた。同日、信長の嫡男信忠も上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入った。信忠がこの時期に上洛した理由はよくわかっていないが、家康が大坂・堺へ向かうのに同行するためとも、弟神戸信孝の四国征伐軍の陣中見舞いをする予定で信長と一緒に淡路に行くつもりだったとも言う。いずれにしても、信忠はこの日から変の日まで妙覚寺に長逗留した。

26日、坂本城を発した光秀は、別の居城である丹波亀山城に移った。27日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し、その日は参籠(宿泊)した。(『信長公記』によると)光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度、三度とおみくじを引いたそうである。28日(異説では24日)、光秀は威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催し、28日中に亀山に帰城した。(『川角太閤記』によると)山崎長門守と林亀之助が伝えたところによれば、光秀は翌29日に弓鉄砲の矢玉の入った長持などの百個の荷物を運ぶ輜重隊を西国へ先発させていたと云う。

#愛宕百韻」も参照

本能寺跡碑(京都市中京区)

29日、信長は安土城を留守居衆と御番衆に託すと、「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った。信長の上洛の理由もよくわかっていないが、勧修寺晴豊の『日々記』や信孝朱印状によると、実現はしなかったものの6月4日に堺から淡路へ訪れる予定であったと云い、このことから毛利攻めの中国出陣は早くとも5日以降であったと推測され、安土より38点の名器をわざわざ京に運ばせていたことから道具開きの茶会を開いて披露するのが直接的な目的だったと考えられる。博多の豪商島井宗室が所持する楢柴肩衝が目当てで、信長は何とかこれを譲らせようと思っていたとも言われるが、別の説によればそれはついでで、作暦大権(尾張暦採用問題)など朝廷と交渉するための上洛だったとも云う。

6月1日、信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で茶会を開いた。名物びらきの茶事が終わると酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪して信長・信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わした。深夜になって信忠が帰った後も、信長は本因坊算砂鹿塩利賢の囲碁の対局を見て、しばらく後に就寝した。

当時の本能寺[編集]

出土瓦 京都市考古資料館展示。

本能寺は現在とは場所が異なり、東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた4町々(1町)の区画内にあって、東西約120メートル南北約120メートルという敷地に存在した。本能寺は天正8年(1580年)2月に本堂や周辺の改築が施された。堀の幅が約2メートルから4メートルで深さが約1メートルの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居が周囲にあって、防御面にも配慮された城塞のような城構えを持っていたことが、平成19年(2007年)の本能寺跡の発掘調査でも確認されている。当時、敷地の東には(後年は暗渠となる)西洞院川があり、西洞院大路の路地とは接せずに土居が川まで迫り出していて、西洞院川は堀川のような役割を果たしていたようである。調査では本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦、土器、護岸の石垣を施した堀の遺構などが見つかっている。河内将芳は「信長が本能寺に、信忠が妙覚寺に、それぞれいることが判明しなければ、光秀は襲撃を決行しなかっただろう」という見解を述べているが、同じ京都二条には明智屋敷もあり、動静は把握されていたと考えられる。

詳細は「本能寺」を参照

本能寺討入[編集]

燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年作)

6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。(『川角太閤記』によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容や家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時ごろ(申の刻)より準備ができ次第、逐次出発した。亀山の東の柴野に到着して、斎藤利三に命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時ごろ(酉の刻)のことであった。

光秀はそこから1半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満(弥平次)に重臣達を集めるように指示した。明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである。秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)溝尾茂朝が集まったところで、ここで初めて謀反のことが告げられ、光秀と重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」を練った。また(『当代記』によれば)この5名には起請文を書かせ、人質を取ったということである。

#諏訪で御折檻」、「#饗応役の解任」、および「#変の要因」も参照

亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが、光秀は「老の山(老ノ坂)を上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた。駒を早めて老ノ坂峠を越えると、沓掛で休息を許し、夜中に兵糧を使い、馬を休ませた。沓掛は京への道と西国への道の分岐点であったが(『川角太閤記』によれば)信長に注進する者が現れて密事が漏れないように、光秀は家臣天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた。夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した。なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つの山道、唐櫃越から四条街道を用いたという「明智越え」の伝承もある。明智軍に従軍した本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康が上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、中下級の家臣には目的が知らされていなかったことを示している。

6月2日未明、桂川に到達すると、光秀はをだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しく足半(あしなか)の草鞋に替えるように命じ、火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した。これは戦闘準備を意味した。ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長の内命によりて、其の親類たる三河の君主(家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず、相手を知らせることなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている。一方で『川角太閤記』では触で「今日よりして天下様に御成りなされ候」と狙いが信長であることを婉曲的に告げたとし、兵は「出世は手柄次第」と聞いて喜んだとしている。他方、光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは頼山陽の『日本外史』では桂川を渡る際に「吾敵在本能寺矣(我が敵は本能寺に在り)」と述べたとされることなどによるものであり、同時代史料には光秀の言葉とされるものは残っていない。

桂川を越えた辺りで夜が明けた。先鋒の斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまではや旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。

6月2日曙(午前4時ごろ)、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた。寄手の人数に言及する史料は少ないが、『祖父物語』ではこれを3,000余騎としている。南門から突入した本城惣右衛門の回想によれば、寺内にはほとんど相手はおらず、門も開きっぱなしであったという。 『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)

『信長公記』によれば、信長や小姓衆はこの喧噪は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声を上げて、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか(こは謀反か。如何なる者の企てぞ)」と蘭丸に尋ねて物見に行かせたところ「明智の軍勢と見受けます(明智が者と見え申し候)」と報告するので、信長は「やむをえぬ(是非に及ばず)」と一言いったと云う。通説では、この言葉は、光秀の謀叛であると聞いた信長が、彼の性格や能力から脱出は不可能であろうと悟ったものと解釈されている。また異説であるが、『三河物語』では信長が「城之介がべつしんか」と尋ねてまず息子である信忠(秋田城介)の謀叛(別心)を疑ったということになって、蘭丸によって「あけちがべつしんと見へ申」と訂正されたことになっている。『日本王国記』では、噂によると、信長は明智が包囲していることを知らされると、口に指をあてて、「余は余自ら死を招いたな」と言ったということである。

明智勢が四方より攻め込んできたので、御堂に詰めていた御番衆も御殿の小姓衆と合流して一団となって応戦した。矢代勝介(屋代勝助)ら4名は厩から敵勢に斬り込んだが討死し、厩では中間衆など24人が討死した。御殿では台所口で高橋虎松が奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局、24人が尽く討死した。湯浅直宗小倉松寿は町内の宿舎から本能寺に駆け込み、両名とも斬り込んで討死にした。

信長は初めを持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次にを取って敵を突き伏せて戦うも(右の)肘に槍傷を受けて内に退いた。信長はそれまで付き従っていた女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と逃げるよう指示した。『当代記』によれば三度警告し、避難を促したと云う。すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手が及んでいたが、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて切腹した。『信長公記』ではこの討ち入りが終わったのが午前8時(辰の刻)前とする。

なお、創作においては光秀が自ら本能寺に討ち入ったように描かれることが多いが、それを裏付ける史料は存在せず研究者の間でも議論されてきた。江戸時代前期の加賀藩の兵学者・関屋政春の『乙夜之書物(いつやのかきもの)』(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)には、光秀重臣・斎藤利三の三男で本能寺の変当時16歳で自らも変に関わった斎藤利宗が、甥で加賀藩士の井上清左衛門に語った内容が収録されている。史料によれば利三と同重臣・明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8km南の鳥羽に控えていたとされる(富山市郷土博物館・萩原大輔主査学芸員による読解)。奥書(書き入れ)には、政春が息子のために書き残したもので他人に見せることは厳禁と書かれていることなどから、萩原は信頼性が高い記述と判断している。従来の光秀本人が本能寺を襲ったとする説は光秀と交流があった吉田兼見の日記に「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたことなどによると考えられるが、これらの史料は噂を書き残した可能性も指摘されている。

宣教師の話

一方、本能寺南側から僅か1街(約254メートル)離れた場所に南蛮寺教会)があったので、イエズス会宣教師達がこれの一部始終を遠巻きに見ていた。彼らの証言を書き記したものが、天正11年の『イエズス会日本年報』にある。

この日、フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めた。その後、銃声がして、火の手が上がった。また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智が信長に叛いて包囲したものだという報せが届いた。本能寺では謀叛を予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入した。信長は起床して顔や手を清めていたところであったが、明智の兵は背後から弓矢を放って背中に命中させた。信長は矢を引き抜くと、薙刀というのような武器を振り回して腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋に入り、戸を閉じた。或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」としめている。

信長の首と遺体[編集]

現在の本能寺にある信長公廟

高野山金剛峯寺にある信長供養塔

大徳寺総見院の信長公供養塔

西山本門寺の伝承「信長公首塚」

他に妙心寺玉鳳院、阿弥陀寺、神護山崇福寺にも信長・信忠の墓がある

戦後、明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからなかった。光秀も不審に思って捕虜に色々と尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだった。(『祖父物語』によれば)光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった。

後世、光秀が信長と信忠の首を手に出来ずに生存説を否定できなかったために、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのであるという説がある。後の中国大返しの際に羽柴秀吉は多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」との虚報を伝え広めたが、数日間は近江近在でも信長生存の情報が錯綜し、光秀が山岡景隆のような小身の与力武将にすら協力を拒まれたところを見ると、それが明智勢に不利に働いたことは否めない。

日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中からは、当時の調査能力では特定の人物の遺骸は見つけられなかったであろうと、未発見の原因を説明する指摘もある。『祖父物語』によれば、蘭丸は信長の遺骸の上に畳を5、6帖を覆いかぶせたと云い、前述の宣教師の話のように遺体が灰燼に帰してしまうことはあり得ることである。

また異説として、信長が帰依していたとする阿弥陀寺上立売通大宮)の縁起がある。変が起きた時、大事を聞きつけた玉誉清玉上人は僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし裏道堀溝に案内する者があり、裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆する。ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺言で遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので、火葬にして隠してその後切腹しようとしているところだと答えた。上人はこれを聞いて生前の恩顧に報いる幸運である、火葬は出家の役目であるから信長の遺骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って法要も欠かさないと約束すると言うと、武士は感謝してこれで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いたと云う。また二条で亡くなった信忠についても、遺骨(と思しき骨)を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作ったと云う。さら上人は光秀に掛け合って変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとしている。秀吉が天下人になった後、阿弥陀寺には法事領300石があてられたが、上人はこれを度々拒否したので、秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので、阿弥陀寺は廃れ無縁寺になったという。この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため、享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説もあるが、この縁で阿弥陀寺には「織田信長公本廟」が現存する。ただし阿弥陀寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。

また別の異説として、作家安部龍太郎と歴史家山口稔によれば、西山本門寺静岡県富士宮市)寺伝に本能寺の変の時に信長の供をしていた原宗安(志摩守)が本因坊算砂の指示で信長の首を寺に運んで供養したという記載があるという。

『崇福寺文書』によると、信長の側室の1人である小倉氏(お鍋の方)が、6月6日、美濃の崇福寺に信長・信忠の霊牌(霊代を祭る木札)を持ち込んだとあり、同寺にも織田信長公父子廟があるが(前述の非公認を除けば)最初の墓であった。

妙覚寺・二条御新造[編集]

北北東に1.2キロ離れた場所にあった妙覚寺(旧地・上妙覚寺町)の信忠は、光秀謀反の報を受けて本能寺に救援に向かおうと出たが、村井貞勝(春長軒)ら父子3名が駆け付けて制止した。村井邸(三条京極・旧春長寺)は現在の本能寺門前にあったが、当時の本能寺は場所が異なるため、東に約1キロ離れた所にあった。前述のように本能寺は全周を水堀で囲まれて、特に西洞院川に遮られる東側からの接近は困難であり、四門を明智勢に囲まれた後では容易に入る事はできなかった。そこで彼らは二条通の方に向かって、妙覚寺に馳せ参じたのである。

(『信長公記』によれば)春長軒が「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました。敵は必ずこちらへも攻めてくるでしょう。二条の御新造は構えが堅固で、立て籠もるのによいでしょう(本能寺は早落去仕、御殿も焼落候、定而是へ取懸申すべく候間、二條新御所者、御構よく候、御楯籠然るべし)」と言うので、信忠はこれに従って隣の二条御新造(二条城)に移った。信忠は、二条御新造の主である東宮誠仁親王と、若宮和仁王(後の後陽成天皇)に、戦場となるからと言ってすぐに内裏へ脱出するように促した。春長軒が交渉して一時停戦し、明智勢は輿を使うのを禁止したが、徒歩での脱出を許可した。脱出したものの街頭で途方に暮れていた親王一家を心配し、町衆である連歌師里村紹巴が粗末な荷輿を持ってきて内裏へ運んだ。阿茶局や二宮、御付きの公卿衆や女官衆もすべて脱出したのを見届けた上で、信忠は軍議を始めた。「退去なさいませ」と脱出して安土へ向かうことを進言する者もあったが、信忠は「これほどの謀反だから、敵は万一にも我々を逃しはしまい。雑兵の手にかかって死ぬのは、後々までの不名誉、無念である。ここで腹を切ろう(か様之謀叛によものがし候はじ、雑兵之手にかゝり候ては、後難無念也。ここに而腹を切るべし)」と神妙に言った。(『当代記』によれば)信忠が毛利良勝福富秀勝菅屋長頼と議論している間に、明智勢は御新造の包囲も終えて、脱出は不可能となった。 二条御新造址(京都市中京区両替町通御池上る東側) 正午ごろ(午の刻)、明智勢1万が御新造に攻め寄せてきた。信忠の手勢は500名余で、さらにこれに在京の信長の馬廻衆が馳せ参じて1,000から1,500名ほどになっていた。信忠の手勢には、腕に覚えのある母衣衆が何名もおり、獅子奮迅の戦いを見せた。1時間以上戦い続け(『蓮成院記録』によると)信忠勢は門を開けて打って出て、三度まで寄手を撃退したほど奮戦した。小澤六郎三郎は町屋に寄宿していたが、信長がすでに自害したと聞き、周囲が止めるのも聞かずに急いで信忠の御座所に駆けつけて、明智勢を装って包囲網を潜り抜けると、信忠に挨拶をしてから門の防戦に加わった。梶原景久の子松千代は町屋で病で伏せていたが、急を聞きつけて家人の又右衛門と共に御新造に駆けつけた。信忠は感激して長刀を授け、両名とも奮戦して討死した。明智勢は近衛前久邸の屋根に登って弓鉄砲で狙い打ったので、信忠側の死傷者が多くなり、戦う者が少なくなった。明智勢はついに屋内に突入して、建物に火を放った。

信忠は、切腹するから縁の板を外して遺骸は床下に隠せと指示し、鎌田新介に介錯を命じた。一門衆や近習、郎党は尽く枕を並べて討死しており、死体が散乱する状況で、火がさらに迫ってきたので、信忠は自刃し、鎌田は是非もなく首を打ち落して、指示に従って遺体を隠した。(『当代記』によれば)鎌田は自分は追腹をするべきだと思ったが、どうした事かついに切らずじまいだった。

斎藤利治を中心に福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らと共に敵数多討取り勇勢を震い闘うが、信忠自害後「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と指違いへ忠死を顕けた。

(御新造が焼け落ちたことで)信忠の遺体も「無常の煙」となった。

討死、自害した人物[編集]

本能寺と二条城では、信長・信忠の近習など多くの人物が討ち死にした。安藤守就の家臣に松野平介と云うものがあり、安藤が追放された時に松野だけは信長によって召し抱えられたために大恩があったが、変の起こったときに遠方にいて妙顕寺に着いたときにはすべてが終わっていた。松野は斎藤利三の知り合いで明智家に出仕するように誘われたが、主人の危機に際して遅参した上に敵に降参するのは無念であると言って、信長の後を追って自害した。土方次郎兵衛というものも、同じく変に間に合わなかったことを無念に思って、追腹をして果てたという逸話が残っている。

本能寺[編集]

  • 魚住勝七
  • 武田喜太郎
  • 大塚又一郎
  • 狩野又九郎
  • 薄田輿五郎
  • 今川孫二郎
  • 落合小八郎
  • 伊藤彦作

二条御新造[編集]

  • 菅屋長頼 - 奉行衆
  • 菅屋勝次郎 - 長頼の子
  • 平古種吉 - 長頼の家臣
  • 津田元嘉
  • 永井新太郎
  • 春日源八郎
  • 種村彦次郎
  • 桑原助六
  • 桑原九蔵
  • 村瀬虎
  • 佐々清蔵 - 岳星院の夫
  • 石田孫左衛門
  • 宮田彦次郎
  • 浅井清蔵
  • 高橋藤
  • 小河源四郎
  • 神戸二郎作
  • 大脇喜八
  • 犬飼孫三
  • 石黒彦二郎
  • 越智小十郎
  • 平野新左衛門
  • 平野勘右衛門
  • 水野宗介
  • 井上又蔵
  • 飯尾敏成
  • 賀藤辰
  • 竹中彦八郎 - 重元の子
  • 河崎与介
  • 梶原松千代
  • 梶原又右衛門

※1 本能寺では上記以外に、中間衆24名が死亡したという。

※2 松野一忠と土方次郎兵衛は変後に追腹をした。

※3 『信長公記』には見られないが、『祖父物語』にある。鷹匠頭と云う。

※4 岡部以言(又右衛門)岡部以俊にはこのとき本能寺で戦死したという説がある。



太閤記の世界[編集]

小瀬甫庵の太閤記[編集]

儒学者小瀬甫庵によって書かれたもので、初版は寛永3年(1626年)、全20巻。各種の『太閤記』のうち最も有名なものがこれである。作者の名をとって『甫庵太閤記』(ほあん たいこうき)ともいう。江戸時代に幾度か発禁にされたが、以降も版を重ねている。

秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観やそれに基づく史料の解釈、改変も指摘されている。加賀藩で俸禄を給っている関係からか、賤ヶ岳の戦いにおける前田利家の撤退について名前が記載されていなかったり、前後の関係を無視して唐突に前田利家の活躍が挿入されている箇所も見られる。

小瀬甫庵について


小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年永禄7年) - 1640年10月6日寛永17年8月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての儒学者、医師、軍学者。『太閤記』『信長記』の著者として知られる。名は道喜(どうき / みちよし)、通称又次郎長太夫。甫庵は号である。甫菴甫安とも。


三河物語[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期に旗本の大久保忠教の著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料であるが、徳川史観による偏った記述が目立ち創作もある。

目次[編集]

概要[編集][編集]

寛永3年(1626年)から同9年(1632年)頃に成立した三河物語諸本のうち、奥書の年次が最も古いものは上中下巻すべて元和8年(1622年)である。しかしその内容は、元和9年に将軍となった徳川家光を「当将軍」扱いしていたり、本多正純佐竹氏に預けられた件(寛永元年=1624年の出来事)が記されていたりと、明らかにそれ以降の内容が含まれているため、このように推測されている。上・中・下の3巻からなり、忠教の実証可能な見聞や自身の事蹟にかかわるのは下巻だけで、上・中巻は諸記録や伝聞をもとにしての編述であり、その出典は挙げられていないため信憑性は定かではないとされる。

忠教は「門外不出であり、公開するつもりもないため他家のことはあまり書かず、子孫だけに向けて記した」「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」と記しているが、書かれてすぐに写本が作られた形跡があることが指摘される。

江戸時代には写本が一般に出回り、人気になったと伝えられている。ただし一般に流布したものは下巻の後ろ1/3ほどが欠けている。

戦国時代から江戸時代初期を知るための一次史料であるが、徳川びいきの記述が目立ち、創作もある。一例として、松平信康の切腹事件についての記述は、『家忠日記』や「安土日記」(『信長公記』の一部)、『当代記』などの記録と食い違っていることから、事実ではないと見られている。さらに踏み込んで、政治性を強く帯びた「譜代プロパガンダの書」だという指摘もある。また、内容には歴史著述だけでなく、忠教の不満や意見などがそのまま現れている。宮本義己は主筋の家康についても敬称を用いないことから、偽りを記さないという高言も、事実関係の是非を論じたものではなく、嘘を書かないという理解において首肯できるとしたうえで、誤字や当て字、一方的見方や邪推の類もあるが、徳川将軍家草創時期の初期資料としての価値は高いとしている。

珍しい特徴として、仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、この時代の口語体を現代に伝える貴重な資料としての側面もある。

現代語訳[編集][編集]

関連作品[編集][編集]

  • 安彦良和『三河物語』(マンガ日本の古典23)、中公文庫で再刊(2001年)
    『三河物語』そのものをモチーフとした作品ではなく、関ヶ原の戦い直後から晩年の忠教の姿を、彼に仕えた一心太助の視点から語るという体裁になっている。『三河物語』の内容そのものは、彦左衛門が語る軍談として断片的に引用されている。
  • 宮城谷昌光『新三河物語』新潮文庫(全3巻)で再刊(2011年)
    彦左衛門(作中では幼名の平助で呼ばれる)を主人公として、大久保一族の活躍と挫折を書く。『三河物語』を著した後の姿も書かれている。
  • 童門冬二『老虫は消えず 小説大久保彦左衛門』集英社文庫で再刊(1997年)
    『三河物語』が江戸城の武士らに熟読される理由「付箋」が語られている。
  • 山本周五郎彦左衛門外記新潮文庫で再刊(2004年)
    『三河物語』への直接の言及はないが、忠教の所持する記録と諸家の記録を照合した甥の手により、その原典ともいえる書物が誕生してゆく様をユーモアと諷刺を交えつつ描いたフィクション。




徳川幕府の成立[編集]

徳川幕府は明治維新で新政府軍との激しい戦闘の末

大政奉還した立場上長らく暗黒の時代と決め付けられ

誤った歴史認識が日本国民の間にうえつけられてきましたが、

最近の歴史学者の研究により徳川幕府は、きわめて

平和的に持続したまれな政権であったことがわかってきました。


江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史のうち江戸幕府徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。徳川時代(とくがわじだい)、徳川日本(とくがわにほん)とも呼ばれる。藩政が行われていた地域の郷土史では藩政時代(はんせいじだい)とも言う。

沿革[編集]

江戸時代初期・前期 [編集]

徳川家康 (1603年 - 1700年ごろ)

武断政治」および「文治政治」も参照

徳川家康征夷大将軍に就くと、自領である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。

設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都大坂長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。 皇居(旧・江戸城)富士見櫓、1659年(万治2年)築造。

また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。 徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長14年7月25日1609年8月24日)付)

また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のように、その国で重用される例も見られた。

しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため三都を中軸とする全国経済と各地の城下町を中心とする経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し(天下の台所と呼ばれた)、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、井原西鶴浮世草子松尾芭蕉俳諧近松門左衛門浄瑠璃菱川師宣浮世絵などが誕生していく。この元禄期に花開いた文化は元禄文化と呼ばれる。


江戸時代中期[編集]

ゑちご屋チラシ (1700年ごろ - 1750年ごろ)

元禄期~正徳期[編集]

詳細は「正徳の治」を参照

元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木()・三草(紅花または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれての量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、灘五郷伊丹酒造業有田瀬戸窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。

人と物の流れが活発になる中で、城下町港町宿場町門前町鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている 。18世紀初頭の京都大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。 歌川広重東海道五十三次』より「日本橋

このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んでが大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石海舶互市新例(長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸砂糖鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。

徳川吉宗の幕政(享保の改革)[編集]

詳細は「享保の改革」を参照 徳川吉宗 8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った(享保の改革)。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉(享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆打ちこわしが頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。

なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠1726年(享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、のちに幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。

その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。

江戸時代後期[編集][編集]

(1750年ごろ - 1850年ごろ)

田沼意次の幕政(田沼時代)[編集][編集]

詳細は「田沼時代」を参照 田沼意次 幕府財政は、享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年 - 1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。これを打開するため、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し、さらに大規模な新田開発蝦夷地開発を試みたのが田沼意次であった。

田沼は、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認・奨励して、そこに運上冥加などを課税した。専売制実施の足がかりとして、と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を真鍮座などの座に与えた。町人資本による印旛沼手賀沼の干拓事業、さらに長崎貿易を推奨し、特に俵物など輸出商品の開発を通じて金銀の流出を抑えようとした。また、蘭学を奨励し、工藤平助らの提案によって最上徳内を蝦夷地に派遣し、新田開発や鉱山開発、さらにアイヌを通じた対ロシア交易の可能性を調査させた。

これらは当時としてはきわめて先進的な内容を含む現実的・合理的な政策であったが、松平定信などの敵対派が「賄賂政治」とのネガティヴ・キャンペーンを行い、天明の大飢饉とも重なって百姓一揆打ちこわしが発生して失脚した。18世紀は北半球が寒冷化した小氷期の時代でもあったため、これが飢饉に拍車をかけたのである。

松平定信の幕政(寛政の改革)[編集][編集]

詳細は「寛政の改革」を参照 松平定信 続いて田沼政治を批判した松平定信1787年(天明7年)に登場し、農本主義に立脚した寛政の改革を推進した。田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約と風紀取り締まりを進め、緊縮財政で臨んだ。抑商政策がとられて株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させた。また棄捐令を発して旗本御家人らの救済を図るなど、保守的・理想主義的な傾向が強かった。

対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な鎖国姿勢で臨んだ。七分積金人足寄場の設置など、今日でいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として町人百姓に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策をとり、民衆の離反を招いた。また、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。

文化・文政期(大御所時代)[編集][編集]

大御所時代」も参照 徳川家斉 松平定信の辞任後、文化文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政がいったん潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった。

発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷河期に入り、1822年文政5年)には隅田川が凍結している。

それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。


動乱の天保期[編集]

天保の大飢饉」および「天保の改革」も参照 水野忠邦大塩平八郎終焉の地

1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。幕府は、天保の改革の一環として、幕領に対して御料所改革を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官らにとっては迷惑なことであると受け取られた。

忠邦はまた、アヘン戦争(1840年)におけるの敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画がオランダより報告されている。

同月には江川英龍高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆けめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた。 『海国図志』 中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定(望厦条約)締結、10月には清仏通商協定(黄埔条約)を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官ビッドルは2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。

こうしたなか、薩摩藩長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。

経済面では、地主や問屋商人の中には工場を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行うマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生足利結城など北関東地方の絹織物業などで行われた。






豊臣秀吉の小田原征伐[編集]

豊臣秀吉は、北条氏政が大阪に登城しない北条に対する征伐が徳川家の繁栄のきっかけになったと

かんがえられます。この徳川家康公の江戸移封は、現在の東京の礎になりました。


天正16年(1588年)、秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否する。京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。

  1. 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない
  2. 今月中に兄弟衆を派遣する
  3. 豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる

8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、北条-豊臣間の関係は一時的にではあるが安定する。武州文書によると、この頃、氏政は実質的にも隠居をすると宣言している。

天正17年(1589年)2月、評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請した。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月に氏政が上洛する旨の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡された。しかし上洛について、氏政は新たに天正18年(1590年)の春か夏頃の上洛を申し入れたが、それを秀吉が拒否したことにより、再び関係が悪化し始める。こうした状況の中の10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた。秀吉は家康、景勝らを上洛させ、諸大名に対して天正18年(1590年)春の北条氏追討の出陣用意を促した。また、秀吉は津田盛月富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求している。

これに対して氏直は、氏政抑留か国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことに対して、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城奪取事件について、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、既に名胡桃城は真田方に返還したと弁明している。

これが真に猪俣の独断であるならば、氏直・氏政の監督不行き届きが招いた結果であり、穏健派の氏規と中間派の氏直、主戦派の氏政・氏照・氏邦の対立が表面化したと言える。しかし現存している各種書状において、沼田城受領後の氏政は自らの上洛時期が当初の12月から翌春か夏にずれたものの、上洛に積極的であり、氏政・氏直が再三にわたり名胡桃城を北条が奪取したわけでないと述べていることを考慮すると、名胡桃城奪取と言われる真の状況は今をもっても不明といわざるを得ない。

上洛の頓挫については、もし氏政が上洛して臣従した場合、秀吉は当然のこと、徳川家康や宿敵上杉景勝よりも風下に置かれることとなり、それに氏政が屈辱感を感じていたのではないかという見解がある。また、北条氏への敵対意識が強い、上杉景勝や佐竹義重、北関東の諸豪族が早くから秀吉と接近していたため、秀吉の方も北条に対して非協調的、冷淡であったと指摘される。

未だに上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなし、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを発した。これに先立って駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への1月15日参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。そして天正18年3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓井峠を越えてきた真田昌幸・依田信蕃に対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡って小田原城に籠城する。その後、領国内の下田城松井田城玉縄城岩槻城鉢形城八王子城津久井城等の諸城が次々と落城。22万を数える豊臣軍の前には衆寡敵せず、

  1. 武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
  2. 氏直に上洛をさせる。

という条件で、北条氏は降伏した。

北条氏康から氏政の時代へ[編集]

戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康は、武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政足利晴氏などを排除し、甲斐武田信玄駿河今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正8年(1580年)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。[要出典]

上杉氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、織田信長とも和睦を試みているが天正10年(1582年)に信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの、時期を逸したものとなった。

しかし、同年末の本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃した直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。織田氏家臣の滝川一益の軍を敗退させた神流川の戦いを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間に天正壬午の乱が勃発した。この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からも水野忠重が援軍として甲斐に出兵していた。また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された。家康は北関東の佐竹義重結城晴朝皆川広照水谷正村らと連携しながら北条氏打倒を目指した。北条氏は一時は東信濃を支配下に置いたが、真田昌幸が離反。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、10月に織田信雄、織田信孝からの和睦勧告を受け入れ、後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった。

後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見氏を事実上の従属下に置いていた北条氏は、北関東に軍勢を集中させることとなった。

北条氏は翌天正11年(1583年)1月に早速前橋城を攻撃すると、3月には沼田にも攻め込んだ。

6月、北条氏と家康の間で婚姻が成立した。この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条の後ろ盾になってくれることを期待していた北関東の領主たちに衝撃を与えた。北関東の領主たちは家康から離れ、一斉に羽柴秀吉に書状を送り、秀吉に関東の無事の担い手になることを求めた。秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの、当時の政権内では東国についての優先度は低く、10月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった。それさえも翌天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが始まると無形化してしまった。

天正11年11月末、沼尻の合戦が起こり北条氏と北関東の領主たちは全面戦争に突入した。天正12年になると北条氏は宇都宮へ侵攻し、佐竹氏も小山を攻撃した。両者は4月から7月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した。

天正13年(1585年)から15年(1587年)にかけて秀吉が西国計略を進める裏で関東の無事は放置され、北関東の領主たちは苦境に陥った。北条氏は天正13年1月に佐野を攻撃し、当主の佐野宗綱を戦死させ氏政の六男・氏忠を当主に据えることに成功した。また同月までに館林城長尾顕長を服属させた。館林は南関東と北関東の結節点に当たり、館林攻略によって北条氏の北関東への侵攻が容易になった。9月には真田領・沼田に侵攻し、14年4月にも再度侵攻した。北条氏は並行して皆川氏にも攻撃を加えた。天正14年5月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した。皆川氏は上杉氏の助力を得て撃退に成功するが、天正15年に講和し北条氏の支配下にはいった。また、天正13年閏8月には家康が真田を攻撃し、翌14年(1586年)にも再度侵攻を計画したが、秀吉が間に入って未遂に終わった。

天正15年12月、秀吉は北関東の領主たちに北条氏の佐野支配を認めることを通知し、現状を追認することを明らかにした。天正16年(1588年)2月、北条氏直は笠原康明を上洛させ、沼田領の引き渡しを条件に豊臣政権に従属を申し入れた。

「五畿内同前」と重要視していた九州の平定を天正15年中に終えた秀吉は、天正16年4月、後陽成天皇聚楽第行幸を行った。北条氏に対して氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否した。京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。

  1. 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない
  2. 今月中に兄弟衆を派遣する
  3. 豊臣家への出仕を拒否する場合、督姫を離別させる

行幸には東国の領主たちも使者を派遣したが、北条氏は使者を派遣しなかった。

5月、東国取次の家康は北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求めた。北条氏はこれに応え、8月には氏政の弟の北条氏規が名代として上洛し、豊臣北条両勢力間の緊張は和らいだ。また、12月には氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えたがこの約束は履行されなかった。

北関東の下野国宇都宮周辺部では、壬生城および鹿沼城壬生義雄が元々親北条であり、宇都宮家の重臣で真岡城城主の芳賀高継も当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年(1589年)終にこれに屈し、佐野氏には養子を送り込み、那須一族に対しても北条氏主導的な盟約を結んだ。これにより北条氏は、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。さらに常陸国南部にも進出し、佐竹氏背後の奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなどしており、関東平野の制圧は目前に迫っていた。劣勢となった佐竹義重、宇都宮国綱、佐野房綱ら反北条氏方の諸侯は秀吉に近づくこととなる。

沼田城割譲


真田家は、そもそも徳川家と親交をもっていましたが、この事件をきっかけにとても険悪な関係になり

この後真田幸村公が大阪の陣で徳川家と会いまみえるきっかけになりました。

年が明けて天正17年2月、北条氏直家臣の板部岡江雪斎が上洛し、秀吉は北条氏が従属の条件としていた沼田城(沼田領)の割譲について裁定を行った。また、来年春または夏頃の上洛を氏政が提示したが、豊臣氏側に拒否されている。[要出典]

当時、沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った。また秀吉は、北条当主の上洛ののちに沼田を引き渡すとし、これに対し6月5日付で北条氏直より、氏政が12月初旬に上洛すると伝えた(岡本文書)。この上洛の約束より先立つ形、つまりここでも秀吉は譲歩する形で7月、秀吉家臣の富田一白津田盛月、徳川家康家臣の榊原康政の立ち合いの下、沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた。秀吉は天正13年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことはすなわち天皇の意思に背くことをも意味した。

この時点では北条氏当主の12月中の上洛が前向きに検討されており、費用の調達や調整が行われている。ただし、以降は後述の名胡桃城事件が起こるまで、北条氏から豊臣氏への音信・交渉は途絶える。[要出典]

名胡桃城事件[編集]

11月10日、秀吉は佐野房綱に対し、氏政の上洛が無い場合、北条氏討伐のために関東に出馬することを伝えた。

一方同年10月下旬、北条氏は真田領となった領分の拠点である名胡桃城に沼田城代猪俣邦憲を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した。

この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えられた。北条方からは弁明の使者として石巻康敬が上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。

しかし同時期、上野鉢形城主である北条(藤田)氏邦が下野の宇都宮国綱を攻めており、これも秀吉の施策に反する行為である。

11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。

11月21日付で真田昌幸にも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している。

11月24日、秀吉が家康へ書状を送り、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津の三枚橋城に在番させ拠点地としての用意をさせること、北条からの使者石巻康敬は北条氏の返事次第で国境で処刑することも要請した。このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。

また、 同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った。この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。

秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。

氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた


開戦[編集]

北条氏は小田原で籠城することを決定し、1月に軍事動員令を出している。徳川家康は三男の長丸(後の秀忠)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた。この人質は即座に送り返され、秀吉は徳川に対し領内の軍勢通過の際の便と、領内の諸城の使用を要求している。徳川は2月中にかけて、大軍勢の領内駐留・通過の便宜を図るべく、領内の城や舟橋、茶屋の整備を行った。

2月1日に先鋒が出立し、同月中に豊臣秀次、徳川家康、前田利家織田信雄ら各大名が出陣し、24日に国許から出立した徳川軍三万が長久保城に着陣した。この長久保城は北条方の山中城と10kmも離れていない位置関係である。24日に織田信雄が三枚橋城に到着、25日に徳川が着陣。3月3日に豊臣秀次、蒲生氏郷の軍勢が到着。

2月10日、毛利輝元の水軍が安芸国厳島を発ち、20日には播磨国兵庫港に着いた。志摩国九鬼嘉隆来島通総脇坂安治加藤嘉明長宗我部元親、その他宇喜多氏毛利氏らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。2月27日に駿河国清水港へ到着した。軍船だけではなく輸送としての任務もあり、大軍勢による長期の合戦が想定されたため、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。以降、西伊豆の防御が手薄と見た徳川水軍は小浜景隆が土肥高谷城、八木沢丸山城を占拠し、向井正綱本多重次は安良里城と田子城を、と西伊豆の諸城と重要港を落としながら伊豆半島を南下した。北条方は伊豆の南端の下田城を防衛ラインとして水軍を集結させており、西伊豆の諸城砦には少数の陸戦部隊しか配置していなかった。[要出典]

3月1日、秀吉は後陽成天皇から北条氏の討伐を名目として節刀を賜り、聚楽第から大軍を率いて東国に下向した。

北方(中仙道)からはいわゆる北国勢(前田利家・上杉景勝・真田昌幸・依田康国)らが3月15日に碓氷峠へ進軍。

近江八幡、柏原宿大垣城清州城三河吉田城を経て、3月19日に秀吉が駿府城に入り徳川がこれを迎えた。27日、秀吉が最前線の三枚橋城に到着。翌28日、秀吉は徳川と共に北条方の拠点である山中城韮山城を遠目に視察して、長久保城に入った。その他、出羽国戸沢盛安陸奥国津軽為信ら東国・東北の諸勢力も秀吉の下に参陣し、所領安堵を受けている。

翌28日、北方では松井田城攻めが開始された。29日には箱根で山中城が攻められ、こちらは一日で陥落した。


開戦までの経過[編集]

後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城山中城韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親宇喜多秀家九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送にあてがわせた。毛利輝元には水軍を供出させたが、輝元当人には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である。これに秀吉に恭順した佐竹氏真壁氏結城氏宇都宮氏大田原氏大関氏里見氏らの関東諸侯勢1万8千が加わった。

なお、天正18年3月当時の参戦した大名のうち、官位、石高などの上位者は以下の通りである。

  • 豊臣秀吉 - 従一位関白太政大臣。
  • 織田信雄 - 正二位内大臣。100万石。秀吉旧主の織田家の当主(扱い)。
  • 徳川家康 - 従二位権大納言。130万石。小田原北条氏と親族。
  • 羽柴秀次 - 従二位権中納言。43万石(豊臣家領内)。豊臣家後継者。
  • 上杉景勝 - 従三位権中納言。「豊臣景勝」。50~90万石。
  • 毛利輝元 - 従四位下参議。「豊臣輝元」。112万石(安国寺・小早川領除く)。毛利水軍は参加したが輝元本人は京都留守居。
  • 前田利家 - 正四位下参議。「豊臣利家」。80余万石。秀吉の個人的知己。

各方面での「総大将」や、講和交渉の窓口担当などにあたるのは、およそこの力関係に拠ると推測される。豊臣政権内部での序列二位の実力者と目されていた豊臣秀長(従二位大納言。100万石。実弟。)は、当時病気がちであり、畿内の留守居となり参戦していない。

豊臣側の主だった将兵

主力:豊臣秀吉徳川家康織田信雄織田信包蒲生氏郷黒田孝高豊臣秀次豊臣秀勝宇喜多秀家細川忠興小早川隆景吉川広家宮部継潤堀秀政池田輝政浅野長政石田三成長束正家立花宗茂大谷吉継石川数正増田長盛高山右近筒井定次蜂須賀家政大友義統加藤清正(兵のみ)、福島正則長谷川秀一滝川雄利丹羽長重金森長近金森可重京極高次。約17万。

推定総計約21万。

後北条側の主だった将

豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を武力で突破し、同時に水軍は伊豆半島を巡って小田原冲に展開させ海上輸送を封鎖する方針であった。 一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も、支配下の諸将に小田原籠城を命じ、5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた各城の留守居部隊には、普段は兵力に想定しない徴兵した老壮年の男などを宛てたが、守備し切れることを想定されてはいない。佐江戸城などは城が空になったため、豊臣方に無抵抗で接収されている。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは想定されていたが、それ以上に主力は東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での迎撃持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。氏邦、氏照、伊勢貞運らは野戦を主張したが、氏規や松田憲秀らは籠城策を主張した。氏邦は領内ではなく駿河国に大きく打って出て、富士川などで会戦を行いたいと主張したが、この野戦策が入れられないことに不満を持ち、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となった。こうして最終的に小田原籠城戦略が採られる事となった。 松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城などにも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、小田原・箱根西方だけではなくその他の諸拠点、特に北方からの侵入軍を迎え撃つ城にもある程度の備えは配置されていたといえる。


小田原開城へ[編集]

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出典検索?: "小田原征伐" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年1月)

5月9日、後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった。これにより、小田原城の外に北条氏を支援する勢力は無くなった。

開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。6月に入る頃、小田原を囲む豊臣軍主力の陣中の風紀が乱れ始め、乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。この包囲中、戦らしい戦と言えば、7月2日に北条氏房(太田氏房)配下の広沢重信が蒲生氏郷関一政勢に夜襲をかけ、広沢と蒲生が一騎打ちを行ったのが後北条氏側唯一と言える攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。

そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。4月9日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し、6月初旬には家康の働きかけによって、上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している。

この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、親族の徳川家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。6月7日、織田信雄家臣の岡田利世が小田原城へ入り、氏直単独と二日間面談し、内容を徳川家康に報告している。城中では講和開城の噂が流れていて、警戒が緩んでいたようであり、12日には氏直から小幡信貞に対し、城内の綱紀粛正の命が出ている。同12日に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しているが、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。

6月16日、北条氏重臣であった松田憲秀の長子の笠原政晴が、数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを、政晴の弟の松田直秀が氏直に報告することで発覚し、政晴は氏直により成敗された。

6月22日、小田原城の篠曲輪を夜半の雨中に徳川家中の井伊直政が攻撃し、占拠した。

6月23日に落城した八王子城から守備隊だった者たちの多数の首と、将兵の妻子が城外で晒し者にされたことは、後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。

残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城は6月14日に守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城もまた6月24日に開城し、北条氏規は秀吉の元に出仕した。八王子城の落城に続いて津久井城も開城した。

6月24日、黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利が小田原城に入り、降伏勧告を行った。先に降伏した氏規も小田原城に入り、降伏を説得している。 石垣山一夜城から望む小田原城 6月26日、小田原城を見下ろす石垣山に、関東初の近世城郭の威容を誇った「一夜城(石垣山城)」が完成したことも、後北条氏側に打撃をもたらした。城中では後北条氏の一族・重臣が、豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く議論が紛糾した。この印象が後世に強くなり、本来は「平時に月2回ほど行われていた、後北条氏における定例の施政方針重臣会議」を指すものであった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。また豊臣方はこの頃、城方を精神的に追い詰めるため、夜中に包囲軍全軍で城に向かって鉄砲の一斉射撃をやっていたとする話も残る。

7月2日、太田氏房勢が蒲生氏郷・関一政と織田信雄の陣に夜襲をかけた。最後の意地とも言えるこの攻撃を予想していなかった蒲生陣は一旦取り乱すが、自ら槍を取った氏郷や蒲生郷可ら主従は奮戦し、これを退けた。

7月5日、氏直と太田氏房は滝川雄利の陣に向かい、滝川と黒田孝高を通して、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。

戦後処理[編集]

7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は、自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、赦免はともかく切腹は見送られた。

当初の開城・降伏の条件は

  1. 北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
  2. 氏直に上洛をさせる。

であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして、この四者に切腹を命じた。

7月7日から9日にかけて片桐且元脇坂安治榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月10日、氏政と氏照は小田原城を出て徳川の陣所に入った。7月11日、城下の医師田村安栖の屋敷にて、石川貞清蒔田広定佐々行政堀田一継・榊原康政の検視役が見守る中、兄弟の氏規の介錯により切腹した。氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった、とも伝わる。氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、高野山に蟄居を命じられた。7月21日、氏直は家臣ら30名ほどを連れて出立し、8月12日に高野山に入った。翌年2月には早くも徳川家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月に1万石が与えられた。しかし、11月に病死した。北条氏は氏規の子孫が紆余曲折の後に河内狭山藩の大名として豊臣・徳川期と存続した。氏政と氏照の首は16日に京に送られ、聚楽第の橋に晒された。5日に松田憲秀が、19日に大道寺政繁がそれぞれ切腹している。

一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城に対し、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城した。その後、氏長の娘の甲斐姫が秀吉の側室となって寵愛を受けたため、氏長に下野国烏山2万石が与えられた。深谷上杉氏の本拠であった深谷城は、当主の上杉氏憲が北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮した秋元長朝らが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。戦後、深谷上杉氏は所領を失ったが、秋元長朝は関東へ入封した徳川氏に仕え、関ヶ原の戦い上杉景勝の投降を促した功により大名となり、後に子孫から老中秋元凉朝)を輩出した。北条方に加わって豊臣軍と戦った者が江戸時代に譜代大名になった唯一の事例である。7月12日には檜原城が落城し、八王子城の残党や平山氏らが自刃しているが、彼らに小田原開城が伝わっていたかは不明である。

7月13日、秀吉が小田原城に入った。この日、徳川氏の関東転封が公表された。ただしそれ以前からこの方針は伝えられていたようであり、徳川家臣の松平家忠の日記『家忠日記』の6月20日条に「国替わり近日の由」と記されている。また、国替えの準備のために、徳川家康は家忠に本国へ一旦帰還するよう命じている。7月初頭は豊臣氏からの所々への発給文書が多いが、7月半ば頃より徳川氏発給の書状が残る。また同時期に、榊原康政や鳥居元忠らの一部の家臣には知行が申し渡されている。ただしこの時期の徳川氏の関東経営には、いまだ秀吉陣営の幕僚の手が多く加わっている。さらに徳川家臣の井伊直政や本多忠勝のそれぞれの配地の割り当てにすら、秀吉の意見が大きく関与していたと推測される書状が残る。

翌8月1日には徳川家康が江戸城に入り、9月迄には家臣らに知行が割り当てられている。8月1日は豊臣軍は宇都宮に駐屯し、以降は奥州へ向かったたが、徳川は後述される織田信雄改易の執り成しのために、7月末に宇都宮に参陣しているため、1日に戻ってきたと考えられる。伊豆国に関しては4月中に徳川氏に与えられている。

7月16日、秀吉が小田原城を出発。秀吉はその後、奥州を平定した源頼朝に倣って、鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り鶴岡八幡宮に奉幣。

19日に江戸城着、20日に出発。7月26日、同じく頼朝に倣って宇都宮大明神に奉幣して宇都宮城へ入城し1週間ほど滞在、関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。その後、豊臣家の大軍勢は伊達政宗の案内により、北上し陸奥国へ向かった。

後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなった。空いた徳川旧領(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国一部など)への国替えを秀吉に命じられた織田信雄は、この命令を拒んだたため改易され下野国烏山城に蟄居させられた。この改易により、秀吉の旧主家の織田氏は勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼした上で国持ちの大名であり正二位内大臣の旧主家であろうとも改易できる秀吉の実権力が確定し、同時に官位・所領の両面において、徳川家康が豊臣政権の大名として一の実力者と確定した。また前述の秀吉の裁定で、真田氏が北条氏に譲っていた上野国沼田城は真田に返還された。秀吉の怒りを買った里見義康は、徳川家康が執り成したこともあり、安房国一国は安堵された。しかし上総国の所領は没収されて徳川氏に与えられた。

常陸国は一国が佐竹義宣に与えられた。この豊臣政権の御墨付きを後ろ盾として、佐竹氏は常陸中部の江戸重通大掾清幹を滅ぼし、さらに天正19年(1591年)2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして常陸国内を統一を達成した。ただし徳川氏と同様に、領内の知行割には豊臣政権の干渉があり、豊臣政権に近しかった佐竹義久に多くの所領が与えられた。

上野国の沼田城は、本来ここを北条氏と争っていた真田昌幸に与えられたが、沼田領は昌幸の長男の信幸が半独立での城主とされ、同時に徳川氏の与力大名とされた。

8月中の奥州仕置を終え、8月12日に会津黒川城を発した秀吉は、駿河国清見寺、駿府城、掛川城、清州城などを経て畿内に向かった。

9月1日、天下を手にした豊臣秀吉は京に帰還した。

のちに北条氏直は許され4,000石を与えられ北条氏規も7,000石を与えられた。




関ヶ原の戦い[編集]

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関ヶ原の戦い
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)

関ケ原町歴史民俗資料館

戦争:関ヶ原の戦い
年月日慶長5年9月15日1600年10月21日
場所美濃国関ヶ原垂井
結果:東軍の勝利。

石田三成小西行長安国寺恵瓊らの斬首

交戦勢力
西軍 東軍
指導者・指揮官
大坂城守備隊毛利輝元
本隊

石田三成

毛利秀元

宇喜多秀家

大谷吉継

小西行長

島津義弘

ほか


奥羽本隊

上杉景勝

直江兼続

本庄繁長


大津城攻撃隊

毛利元康

立花宗茂


美濃・尾張守備隊

織田秀信

本隊徳川家康黒田長政浅野幸長井伊直政福島正則細川忠興ほか
中山道軍

徳川秀忠

榊原康政


対上杉守備隊

最上義光

伊達政宗

結城秀康


大津城守備隊

京極高次

戦力
80,000以上[諸説あり] 74,000 - 104,000[諸説あり]
損害
戦死者:[諸説あり]

8,000 - 32,600

戦死者:[諸説あり]

4,000 - 10,000

関ヶ原の戦い
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関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代慶長5年9月15日西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある。


石田三成公と徳川家康公


話をさかのぼるが、豊臣秀吉の朝鮮出兵があったが、

この時、加藤清正,福島政則ら、秀吉子飼いの武将と石田三成と恩賞問題をめぐり

激しく対立した経緯がある。

司馬遼太郎氏も作品「関ケ原」においてその経緯をかいているが、

石田三成がそもそもどんな人物であったかみてみましょう。

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣家家臣。佐和山城主。

豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。


逸話と人物像[編集]

JR長浜駅前にある三献の茶の場面を表した「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」。 三成は多くのエピソードを持つ武将であり、それが三成の人物像形成に大きな影響を与えている。ただし他の戦国武将同様それら「逸話」の多くは本人死後の江戸時代に記された書物(二次史料)にのみ載せられたものがほとんどであり、安易に歴史的事実として鵜呑みには出来ない。特に出世のため他人を陥れる器の小さい野心家として描かれた逸話が多いが、三成が江戸幕府の治世下において、幕府を築いた神君家康と多くが加増された東軍諸大名に敵対した仇役という立場にあった点は注意を要する。近代に入ると渡辺世祐による『稿本石田三成』の刊行など、実証史学に基づいた奸臣三成説の見直しを中心に正確な三成像を探る研究が進められるようになった。

  • 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山観音寺(滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村(滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは飯福寺とされている。前者は石田家の本拠であった石田村に近く三成も庇護を与えていたこと、後者は三成の母方の岩田家の本拠である杉野村に近く何よりも関ヶ原の合戦で敗れた三成が落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かったと考えられる。ただし、この逸話が載せられている史料が江戸時代のもの(正徳6年(1716年)成立の『武将感状記』など)であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。


徳川家康公のウィキペディアの簡単な詳細記事をここにのせます。

関ヶ原の戦い[編集]

関ヶ原古戦場 詳細は「関ヶ原の戦い」を参照

慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治から会津の上杉景勝の重臣・直江兼続に越後にあった年貢の下半期分まで持ち出された訴えを、出羽国最上義光らからは会津の軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。さらに上杉氏の家臣で津川城城代を務め家康とも懇意にあった避戦派の藤田信吉栗田国時の二人が、会津から江戸の徳川秀忠の元へ上杉の行動に関する釈明をしようとする途中で、兼続の仕向けた使者達に襲撃され、国時が殺害される事件まで起きた。

これに対して家康は、伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、既に徳川との一戦を固めていた兼続が、『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状#真贋論争参照。)と呼ばれる挑発的な文書を記した書簡を返書として送ったことから家康は激怒。景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。

6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。

この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条におよぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。

さらに三成らは伊勢国美濃国方面に侵攻した。家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定)。

東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政大久保忠隣、本多正信らを付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、7月24日から、9月14日までの間に関ヶ原合戦に関する内容の文書だけでも、外様の諸将82名に155通、家康の近臣に20通ほどの文書を送っている。

正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。

9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲し、それに対して東軍の中村一栄有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い)。

家康は自らの軍師臨済宗の禅僧である閑室元佶(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易によるを行わせ、大吉を得た。

9月15日午前8時ごろ、美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午ごろかねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。

9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑改易減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の全国に散在していた直轄地)は東軍の諸将に恩賞として分配された。

その結果、豊臣氏は摂津国河内国和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。だが、まだ西国大名は新年の挨拶に大坂城に伺候し豊臣家が西国を支配する二重公儀体制との説がある。


概要[編集]

この戦役は、豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。

この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。


決戦までの経緯[編集]

豊臣家内部の対立とその背景[編集]

秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行、五大老によって支える体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。

政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い。

中央集権派と地方分権派の対立[編集]

太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成増田長盛らの強硬・集権派と、これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立 が抗争の背景にあったとする説である。

一方、戸谷穂高は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている。文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め、また宇都宮氏佐竹氏の改易を主導するなど 宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。曽根勇二もこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している。


朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立[編集]

慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる。

しかし、両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており、蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)。

中野等も、三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中で偶像化したものとしている。例えば、賤ヶ岳七本槍の印象から武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は、実際は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった。


秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執[編集]

文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。

しかし、三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」という本の記述に登場して以降 の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、史実として立証されたものでは無い。

「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立[編集]

「太閤様御置目」(秀吉の遺言 や死の前後に作成された掟・起請文群)に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。

家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。

一方で、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家の四奉行は秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文 を毛利輝元と作成しており、その立場は家康の行動とは相違するものである。

政治抗争の発生[編集]

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。まず秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎(長益)・京極高次伊達政宗池田輝政福島正則細川幽斎黒田如水黒田長政藤堂高虎最上義光ら30名近い諸大名が参集したとしている。

一方の大坂の利家の屋敷には毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家細川忠興加藤清正加藤嘉明浅野長政浅野幸長佐竹義宣立花宗茂小早川秀包小西行長長宗我部盛親岩城貞隆原長頼熊谷直盛垣見一直福原長堯織田秀信織田秀雄石田三成増田長盛長束正家前田玄以鍋島直茂有馬晴信松浦鎮信らが集まったとされる。

翌年の閏3月に利家が死去すると、五奉行の一人である石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の七将に襲撃される。三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった。三成を襲撃した七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている。ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。

家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった。水野伍貴は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする。

加賀前田征伐と家康の権力強化[編集]

慶長4年(1599年9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の挨拶をするためとして伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。

計画は前田利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、寛永年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。

10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、慶長5年(1600年)正月に利長の母で利家正室であった芳春院・前田家の重臣の前田長種・横山長和・太田雄宗・山崎長徳らの子を人質として江戸に送ることで落着した。また、この時、細川忠興は長男の忠隆の妻が利長の姉であったことから、利長の陰謀に組したという家康の嫌疑を受けたため、利長と同じく、同年の正月に三男忠利(15歳)を人質として江戸に送り、浅野長政も第三子の長重(15歳)を江戸に送っている。

この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言 では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。政敵を排除し政権中枢の大坂城に入った家康の権力は上昇し、城中から大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作と考えられている。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴越前府中5万石、森忠政信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌美濃岩村へ転封した。本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている。

このように政権内部での権力を強化していく家康に対して、この時期の前田玄以増田長盛長束正家豊臣三奉行は政務面で協力的であり、輝元も恭順の意を示している。また佐和山に隠居していた三成も家康暗殺計画事件の際は前田勢への備えとして軍勢を派遣し、大坂の自邸を宿所として提供するなど、家康とは比較的良好な関係であった。しかし、最終的に彼等は反家康闘争を決断することになる。

会津上杉征伐の決定[編集]

詳細は「会津征伐」を参照

こうした政治的状況下、慶長5年春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化。4月には家康家臣伊奈昭綱らが会津若松に送り込まれ、神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する。5月中旬、この要求に対して景勝は上洛の意志を伝えるとともに、秋までの上洛延期と、上杉家に謀叛の疑いを掛けた者の追及を要求するが、結局上杉側の提示した要求は受け入れられず、6月上旬に景勝上洛は中止となる。なお、家康に対して直江兼続が景勝への上洛要求を挑発的な文面で批判した、いわゆる「直江状」と言われる史料が存在するが、この文書の真贋や由来、内容解釈については諸説が存在している。

詳細は「直江状」を参照

一方家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階ですでに会津征伐を決定しており、6月2日には本多康重らに7月下旬「奥州表」に出陣することを伝えている。

『慶長年中卜斎記』では家康が6月15日に豊臣秀頼淀君に会見し、黄金2万枚と米2万石の他に正宗(あるいは政家)の脇差しと楢柴肩衝を餞別として送られたとしているが、『関ヶ原軍記大成』では「餞別の引出物」とのみ記され、『当代記』(寛永年間成立)・『関原始末記』(明暦2年成立)には会見そのものの記述が無いなど、二次史料同士での記録は一致しない。また、家康の侍医であった板坂卜斎の著書の『慶長年中卜斎記』は成立時期が不明であること。7月28日に小山評定があったと記されているものの、小山評定前後の記述など、日付や内容に一次史料と相違するところが多く、白峰旬・本多輶成などの研究者から信憑性には甚だ疑問があると指摘がなされている。

本多輶成 6月16日に大坂を発った家康は同日に伏見に入城。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている。

上杉景勝は上杉領へ侵攻する討伐軍を常陸の佐竹義宣と連携して白河口で挟撃する「白河決戦」を計画していたとされる。しかし本間宏は決戦の為に築かれたとされる防塁の現存遺構が、慶長5年当時の造営物であるか疑問であること、発給文書等の一次史料と「白河決戦」論の根拠である『会津陣物語』(延宝8年成立)『東国太平記』(延宝8年成立か)等の二次史料の記述が矛盾している点などから「白河決戦」計画の実存を否定している。

なお、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・直江兼続と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。宮本義己は慶長3年7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状の内容から西軍決起後の七月晦日の段階においても、両者の交信経路は確立されておらず、よって挟撃計画は無かったとする。


諸将の去就[編集]

関ヶ原決戦前における日本全国の大名・武将の去就を記す。西軍から東軍に寝返った大名については裏切りを参照。

西軍[編集]

西軍諸将の一覧[表示]

内応・叛応[編集]

内応・叛応した西軍諸将の一覧[表示]

中立・その他[編集]

中立勢力・その他の一覧[表示]

東軍[編集]

東軍諸将の一覧[表示]

本戦までの動き[編集]

家康の東進と毛利輝元の大坂入り[編集]

6月18日、伏見を発った家康は、7月1日に江戸に到着し、7月7日には最上義光秋田実季ら東北の諸大名に会津攻めに関する指示を出すとともに、7月21日(秀忠は19日)に出陣することを伝える。

7月5日、宇喜多秀家が豊国神社に参詣した。

一方、上方に残っていた前田玄以増田長盛長束正家の豊臣三奉行は7月12日、広島にいた毛利輝元宛に「大坂御仕置之儀」のための大坂入りを要請する書状を出し、増田長盛は家康家臣永井直勝宛に、大谷吉継の眼病と石田三成の出陣に関する「雑説」を報告。

また、宍戸元次ら輝元の家臣は7月13日付けの書状で、榊原康政本多正信永井直勝安国寺恵瓊が輝元の命令として東進していた軍勢を近江から大坂に戻していることを報告し、14日には吉川広家も同様の報告を榊原康政に出している。書状の中で宍戸らは大坂への転進について三成と吉継の関与を疑っており、輝元は関知していないことであると述べている。

7月15日、上坂要請を受けた輝元は広島を出発し、同日加藤清正に秀頼への忠節ための上洛を促す書状を送る。同日、島津義弘は上杉景勝に輝元・宇喜多秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が秀頼のため決起したことを伝え、これに「同意」することを求める書状を送っている。

7月17日、豊臣三奉行は秀吉死後、家康が犯した違背の数々を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付。また輝元と秀家も前田利長に家康の非をならした書状を送る。同日、毛利秀元が大坂城西之丸に入る。同日細川忠興家臣小笠原秀清は「奉行衆」よりの人質要求を拒否し、忠興室ガラシャらと共に大坂の忠興邸で自刃。正保5年(1648年)成立の『霜女覚書』等の二次史料はこの人質要求の主体を石田三成とするが、この時期一次史料で「奉行衆」と記されるのは豊臣三奉行のことである。また「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で知られる)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されている。

7月18日、三成が豊国神社に参詣。7月19日には輝元が大坂城に入城し、丹後方面に向けて西軍勢が出陣 する一方、家康家臣鳥居元忠らが留守を勤めていた伏見城に対する西軍の攻撃が開始され、22日宇喜多秀家勢、23日には小早川秀秋勢が攻め手に加わる(伏見城の戦い)。なお、当初島津義弘と小早川秀秋は家康に味方するため城側に入城の意思を示したが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説がある。しかし、前者は「島津家譜」、後者は「光録物語」 等、関ヶ原の戦い後江戸時代に成立した二次史料の記述を典拠としており、史実である確証は無い。


東軍諸大名の反転[編集][編集]

7月18日稲葉通孝が「関東陣沙汰」が延期になったとして国許に引き返す。 ただし、7月19日には秀忠が、21日には家康が江戸から会津に向け出陣しており、この時点では会津征伐自体は中止されていない。 しかし、7月21日付で細川忠興が家臣松井康之らに宛てた書状によれば、この時点で輝元と三成の決起の報告が上方から家康の許に続々と入っており、7月23日になると家康から最上義光に対して、三成と吉継が各地に書状を触れ回しているという「雑説」があるので会津侵入は「御無用」とする指示が出される。さらに7月26日になると関東に参陣していた畿内・西国の東軍側諸大名が西進を開始。家康も「即刻上洛」の意思を示す。 なお、この時点での東軍の戦略目標は三成の居城佐和山城であった。

7月27日、榊原康政は秋田実季に、三成と吉継が「別心」したので、家康に対して淀君・豊臣三奉行・前田利長らより上洛の要請があることと、会津方面における指揮権が家康から秀忠に移されたことを伝える書状を出している。ところが7月29日になると一転して三奉行が「別心」した事を伝える家康の書状が黒田長政田中吉政・最上義光に出されている。この時点で黒田・田中の両勢はすでに西へ向かっており、7月30日には藤堂高虎に対しても西進の命令が出されている。

なお、7月25日に下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したいわゆる「小山評定」が行われたとされる。しかし「小山評定」についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義を巡っては様々な説が出されている。

西軍の伊勢侵攻と東軍の岐阜城攻め[編集][編集]

7月26日付の書状で、豊臣三奉行は中川秀成に輝元勢2万は瀬田と守山の間で陣取り、東軍の西進があれば迎撃する予定であること、また秀家と秀秋の両勢が醍醐・山科・大津に展開していることを伝える。7月29日に三成が伏見に到着。

8月1日、伏見城が落城した。同日輝元・秀家と豊臣三奉行に三成を加えた四奉行は、木下利房に木下勝俊と共に、加賀国小松に進出した前田利長に備える為北ノ庄へ向かうように指示を出すが、8月3日に西軍側山口宗永の籠もる加賀大聖寺城は前田利長によって攻め落とされ、宗永は自害。

8月4日、家康は西進する福島正則・池田輝政ら諸大名に対して井伊直政を派遣したので、その指示に従うようにとの書状を出す。

8月5日、家康は小山から江戸に戻り、同日三成も佐和山に戻る。この頃西軍は尾張清洲城に入った福島正則を説得中であり、これが成功すれば西軍は三河侵攻、失敗すれば清州を攻撃する予定であった。

8月8日、吉川広家と安国寺恵瓊が指揮を執る約1万の軍勢が長束正家勢とともに伊勢へ出陣。また、三成も岐阜城主織田秀信と相談のうえ尾張方面に出陣。この時点では輝元が3万の兵力をもって、浜松で家康を迎撃する予定であった。

8月17日、島津義弘が美濃垂井に着陣し、20日には本国薩摩に向け増援の要請を出している。

8月19日、黒田長政らは井伊直政・本多忠勝に対して家康の出馬を待たずに、木曽川を越えて犬山城方面に進出することを報告。

8月22日、東軍諸大名は清須周辺に集結し、同日木曽川を渡った池田照政麾下の部隊が秀信勢と戦いこれを破る。翌23日には福島正則以下各隊が秀信の居城岐阜城を攻め秀信を降服させ、救援に駆け付けた三成・島津勢も撃退。

8月24日、徳川秀忠は信州上田攻略のため宇都宮を立つ。岐阜城と同じ西軍側の犬山城に対して、井伊直政が同日付の書状で、城主石川貞清とともに籠城している竹中重門らに城の明け渡しを勧告。

8月26日より秀家・行長・三成・義弘・秀頼の馬廻衆ら2万人が守る大垣城に対して、東軍8万人による包囲が開始され、城方は毛利勢に救援を要請する。

8月27日、岐阜落城の知らせを受けた家康は岐阜攻めに参加した諸大名に戦功を賞する書状を出し、福島正則には自分と秀忠勢が到着するまで軍事行動を控えるよう指示する。

一方、伊勢に侵入し、安濃津・松坂の両城を降伏させた西軍は尾張へ向かう。

決戦と抗争終結[編集]

9月1日、家康が江戸を出立。同日付書状で、この頃垂井に集結していた福島・池田らの東軍主力諸将に、自分の到着まで自制するよう再度指示を出し、堀直寄には大垣城を水攻めで落とすつもりであることを伝えている。

9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が北国口を抑える為に関ヶ原南西の山中村に布陣。

9月3日、犬山城が開城。同日細川幽斎が籠城する丹後田辺城に向け、和平の使者として日野輝資中院通勝・富小路秀直が出立。この頃より城主京極高次の寝返りにより東軍の城となった大津城に対する西軍の攻囲が始まる。ただし、京極高次の動向については彼の影響下にあった弟の高知が東軍として行動していることや7月時点で東軍諸将の間でも既に高次は東軍の一員として認識されていることから「最初から東軍方であった」と見るべきで、西軍諸将が高次が淀殿の義弟であることや一時的に西軍に靡く素振りを示したことで、高次が西軍につくと思い込んでいたために、あたかも高次が寝返ったかのように認識されたとする見解もある。

9月5日一度は徳川秀忠に降伏を申し出た真田昌幸が一転して抗戦を表明。砥石城を放棄して上田城に撤退。

9月7日、毛利秀元、吉川広家が南宮山 に着陣。

9月9日、家康は岡崎に、10日に熱田、13日に岐阜と軍勢を進め、14日には赤坂に着陣。享保12年(1727年)成立の『落穂集』には島津義弘が、赤坂の家康本陣への夜襲を提案するも、島左近が反対し、三成がそれに従った結果作戦が採用されなかったとする逸話が載せられている。ただし、この夜襲策について記された一次史料は確認されない。

9月12日、田辺城に籠城していた細川幽斎が勅命を受け入れて退城。

9月13日前後に東西両軍間で和睦が成立して大津城が開城し、9月15日に毛利元康が大津城に入る。

9月14日、小早川秀秋が関ヶ原の南西にある松尾山城に、伊藤盛正を追い出して入城。続いて、9月14日夜に大谷義継が関ヶ原に着陣する。

9月15日、関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ東軍勝利。同日家康は佐和山にまで軍を進める。

9月17日、毛利元康が大津城を退去し、同日佐和山城落城。同日に大垣城内にいた相良頼房・秋月種長・高橋元種は熊谷直盛・垣見一直・木村由信父子の三名を殺害し、その首を持参して投降。城に残った福原長堯はその後20日過ぎまで抵抗を続ける。この頃より輝元と家康との間で黒田長政・福島正則を介した交渉が始まり、現毛利領が安堵される条件で和睦が成立(但し10月になってこの約束は反故にされ、周防・長門2ヶ国に減封される)。

9月25日、家康と秀忠は福島正則・黒田長政ら5名の大坂入城を確認し、輝元は大坂城から退去した。

9月27日、家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と「和睦」。

10月1日、恵瓊・行長・三成の3名が京六条河原にて斬首された。

9月15日の布陣と戦闘経過[編集][編集]

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過についての記録のほとんどは、合戦後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物、または軍記物といった二次史料であり、信憑性の高い一次史料による記録は僅かである。二次史料同士の記述は、同じ戦闘を扱っているにも関わらず内容に食い違いが生じていることも少なくなく、『関ヶ原合戦史料集』の著者藤井治左衛門はそれら史料群について「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部正しいと思われるものは殆どない。」と評している。 関ヶ原周辺略地図 関ヶ原合戦図屏風

鉄砲

一次史料による合戦当日の記録[編集][編集]

(本項は白峰旬「関ヶ原の戦いにおける9月15日当日の実戦の状況について(その1)」(『別府大学紀要』54号、2013年)を参考としている)

合戦終了2日後の慶長5年9月17日に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状 の内容は以下通りである。

(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。

(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。

(3)その後追撃戦によって島津豊久・島左近・大谷吉継・戸田勝成・平塚為広らが討ち取られた。

9月15日付伊達政宗宛家康書状 には午の刻(午前12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとある。

二次史料による合戦当日の記録[編集]

関ヶ原の戦いに関する軍記・家譜・覚書類は非常に数が多いため、それらにおける合戦当日の記録すべてをここで記述・比較することは不可能である。そこで、まず『内府公軍記』における9月15日の記事を要約して記し、比較材料として明暦2年(1656年)成立の『関原始末記』 と、正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』から西軍の布陣とおおまかな戦闘経過を抜き出す。 『内府公軍記』の著者は『信長公記』の著者として知られる太田牛一。合戦の翌年慶長6年には原本が成立しており関ヶ原関連の二次史料群の中で最初期の書物といえる。複数の自筆本・写本が現存するが、ここでは初期の原本を模写したものと考えられる杤山家所蔵本を底本とする。

『内府公軍記』 家康が赤坂に着陣すると大垣城の石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の各隊は山中まで引き、翌朝には垂井の南にある岡が鼻山に毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家ら計2万が弓鉄砲を前衛に陣を構える。家康はこの方面に池田輝政・浅野幸長を送り込み、自らは旗本衆の指揮を執って野上と関ヶ原の間に陣を張った。 15日朝は霧と降雨によって視界不良であったが、巳の刻(午前10時ごろ)には晴天となり視界も開け、物見の部隊が戦闘を開始する。石田・小西・島津・鍋島の各隊は藤子川(藤川)を越え、小関村の南に南東へ向け陣を敷き、石原峠にいた大谷吉継・宇喜多・平塚為広・戸田勝成の各隊は峠を下りて谷川を越え、関ヶ原より北の平野へ進出し、西北の山を背後にして南東へ向け兵を出す。東軍は先陣の福島正則隊が道筋(中山道)を西へ、その南側を藤堂高虎・京極高知隊が進み、中筋(北国街道)からは織田有楽斎・古田重然・猪子一時・船越景直・佐久間安政の各隊が参戦し激戦となる。金森長近・細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政らの部隊も先を争って攻めかかる。戦いの半ば小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が寝返り、そこへ松平忠吉隊が乱入し、忠吉は数ヶ所の傷を負いながら組み討ちで功名を挙げた。井伊直政隊も松平隊に随伴して参戦し、直政も負傷しながら力戦。吉継は馬上で切腹し、島左近父子・平塚・戸田は討ち死に。 西軍は中筋を通って突入してきた本多忠勝隊の攻勢に堪えきれず、追い討ちによる多数の死者を出しながら玉藤川(藤川)を下って伊吹方面に敗走を始め、南宮山の西軍各隊も敗走。家康は首実検を行い、兵士に休息を与えると、その日のうちに佐和山城を包囲した。

『関原始末記』 西軍の布陣は、小関村の北の山際に島左近隊を先手とした石田隊、その左の山際には織田信高と大坂黄母衣衆。石田隊後方に島津隊。小関村の南、北国街道と関ヶ原本道(中山道)に挟まれた地域に宇喜多・小西・大谷・平塚・戸田隊。本道の南、松尾山に小早川・脇坂・朽木・小川隊。南宮山の後方に長束・安国寺・吉川・長宗我部隊。 開戦時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。先陣は福島・京極・藤堂・松平・井伊・本多で、田中・細川・黒田・加藤・金森ら二番手は石田隊を攻撃。宇喜多・島津隊は松平・井伊隊の攻勢により敗走し、これを追撃した直政は島津兵の銃撃で負傷。本多隊が突入したところで小早川ら松尾山の諸隊が寝返り、その攻撃を受けた大谷隊は崩壊。吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、石田隊は裏切りによる混乱を起こして敗走。西軍の死者約8千人を残して、戦闘は午の刻(午前12時ごろ)に終了。南宮山方面の西軍諸隊は戦闘を行わず、吉川隊は家康に内通していたため動かなかった。東軍は翌16日に三成の居城佐和山城を攻める。

『関ヶ原軍記大成』 宇喜多隊は石原峠を背後に南東の方角に向け山の尾根の先。西軍側から見てその右に戸田・平塚ら。さらにその右、松尾山の麓に大谷・朽木・小川・脇坂・赤座直保ら。松尾山に小早川。石田隊は小関山に本陣を置き、島左近・舞兵庫・蒲生頼郷ら先手は小池村の前に柵を立て陣を敷く。毛利・宍戸元継・長宗我部・鍋島勝茂らは栗原山。吉川・福原広俊・長束・安国寺は南宮山。宇喜多隊の左に小西・島津・織田信高。 先陣の福島隊は宇喜多隊へ向かい、井伊・松平隊は福島隊を出し抜いて島津隊と交戦。石田隊には細川・黒田・加藤・田中・生駒一正・竹中重門の各隊が殺到し大谷隊には織田有楽斎長孝父子・藤堂隊が向かう。辰の時に始まった戦闘は巳午(10~12時)になっても勝敗が決しなかった。 黒田長政の手引きで裏切る手筈であった小早川隊が動かないのを不審に思った家康は様子見のため小早川隊の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。しかし藤堂高虎に内通していた脇坂とともに小川・朽木・赤座の各隊が大谷隊に攻めかかると小早川隊もこれに続く。吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、宇喜多隊は敗走。石田隊は大谷隊を突破した織田・藤堂隊をも相手にしてしばらく持ちこたえるが蒲生以外諸士が討ち死にし伊吹山方面へ敗走。西軍全体の潰走で退路を断たれた島津隊は敵中突破を試み、豊久を失い、わずか50名ばかりに兵力を減じながらも戦場を脱出。井伊直政は撤退中の島津隊の銃撃を受け負傷落馬する。毛利秀元は長束正家からの出陣要請に応えようとしたものの、毛利勢先鋒の吉川広家が家康に内通して動かなかったため戦闘に参加出来ず、勝敗が決すると上方へ向け戦場を離脱。西軍の戦死者は約32600名で、戦闘終了は未の刻(午後2時ごろ)。15日夜長束・安国寺・長宗我部・鍋島の各隊も戦わずして山を下り始め、翌16日未明には撤収完了。16日より佐和山攻め。

以上のように午前中に戦闘が始まり小早川らの裏切り以降西軍が崩壊するという大筋は共通しているが、そのほか細部においては違いが見られる。また合戦当日にまつわる逸話として、福島正則と井伊直政の先陣争い、家康による小早川秀秋の陣への銃撃、島津隊の敵中突破などがよく知られるが、それらも史料によって内容が異なる。

主な両軍の大名

  • 下表内の兵力数は主に『日本戦史関ヶ原役』に拠る。『日本戦史関ヶ原役』は東西両軍の兵力の実数は不明であるとしたうえで、石高100石あたり3人で算出した動員可能兵力の推測値を載せている。

(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)

武将 石高(万石) 兵力 武将 石高(万石) 兵力
西軍 毛利輝元 112.0 東軍 徳川家康 256.0 約30,000
毛利秀元 (20.0) 約16,000 松平忠吉 (10.0) 3,000
吉川広家 (14.2) 井伊直政 (12.0) 3,600
大友義統 本多忠勝 (10.0) 500
上杉景勝 120.0 前田利長 84.0
島津義弘 73.0 約 1,700 伊達政宗 58.0
宇喜多秀家 57.0 17,220 堀秀治 45.0
佐竹義宣 54.0 最上義光 24.0
小早川秀秋 37.0 15,675 福島正則 24.0 6,000
長宗我部盛親 22.0 6,660 加藤清正 20.0
小西行長 20.0 6,000 筒井定次 20.0 2,850
増田長盛 20.0 細川忠興 18.0 5,100
石田三成 19.4 5,820 黒田長政 18.0 5,400
織田秀信 13.5 蜂須賀至鎮 17.7 不明
小川祐忠 7.0 2,100 浅野幸長 16.0 6,510
安国寺恵瓊 6.0 1,800 池田輝政 15.2 4,500
毛利勝信 6.0 不明 生駒一正 15.0 1,830
長束正家 5.0 1,500 中村一栄 14.5 4,350
大谷吉継 5.0 1,500 藤堂高虎 11.0 2,490
大谷吉治 3,500 堀尾吉晴 10.0
木下頼継 2.5 750 加藤嘉明 10.0 3,000
田丸直昌 4.0 不明 田中吉政 10.0 3,000
真田昌幸 3.8 京極高知 10.0 3,000
脇坂安治 3.3 990 京極高次 6.0
赤座直保 2.0 600 寺沢広高 8.0 2,400
平塚為広 1.2 360 山内一豊 5.9 2,058
朽木元綱 1.0 600 金森長近 3.9 1,140
戸田勝成 1.0 300 有馬豊氏 3.0 900
河尻秀長 1.0 300 滝川一時 1.4 不明
石川貞清 360 織田長益 0.2 450
織田信高 不明 古田重勝 1,020
毛利元康 (-) 徳川秀忠 (-) 約15,000
小早川秀包 13.0 榊原康政 (10.0) 3,000
立花宗茂 13.2 大久保忠隣 (6.5)
筑紫広門 1.8 酒井家次 (3.7) 900
  • 松平忠吉等の所領は徳川家康の、毛利秀元吉川広家毛利元康の所領は毛利輝元の領地に含まれる。
  • 安国寺恵瓊小早川秀包ら秀吉取り立てによる毛利系大名は、毛利輝元の領地に含まれない。
  • 毛利秀元の兵力は毛利輝元と吉川広家の兵力の合計。
  • 島津義弘の兵力は島津豊久隊との合計。

地方への波及[編集]

美濃関ヶ原での戦いと連動して、その前後、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大名とが交戦した。

奥羽[編集]

詳細は「慶長出羽合戦」を参照

上杉征伐のきっかけは、堀秀治の讒訴というのが定説であるが、近年秀治が西軍側につこうとしたことを示す書状などが発見されている。家康は三成挙兵により反転する際、結城秀康を主力に、上杉領に面した最上義光や、その近隣の秀治や伊達政宗に対して景勝監視の命を下した。上杉領を自領が分断する形になっていた最上義光は、上杉勢との衝突は避けられなかった。義光は奥羽諸将と連合し上杉勢と戦おうとしたが、関ヶ原開戦の報を受けると諸将は自国安定のため引き上げていった。数の上で不利を悟った義光は、嫡子を人質とすることを条件に上杉勢に和睦を申し入れたが、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため成立しなかった。9月9日、米沢城方面から直江兼続が指揮を執る軍が、また庄内から志駄義秀・下対馬軍が最上領に押し入った。さらに小野寺義道も最上領湯沢城を攻撃した。

伊達政宗は東軍につき徳川家康が勝利した暁には、政宗の旧領7郡を加増し百万石の領地を与えるという、家康から「百万石のお墨付き」(仙台市博物館蔵)を受け取っていた。伊達勢は上杉領の白石城を攻撃し占領するも、これを返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。

最上義光は9月12日の畑谷城落城をうけて9月15日嫡男最上義康を伊達政宗に派遣し援軍を要請。伊達家内では「上杉勢と最上勢を戦わせた後に攻めれば、上杉勢を退けることが出来、山形は労せずして我が物になる」という片倉景綱の進言も出たが、最上潰滅は上杉景勝の脅威をまともに受けることにつながるので(一説には山形城に居るの身を政宗が案じたとも)留守政景を総大将名代として9月17日に援軍を出撃させた。9月15日直江兼続本隊が長谷堂城攻撃を開始。9月21日伊達氏援軍が山形城東方の小白川に着陣する。兼続は最上勢の鮭延秀綱らに苦戦し、志村光安が守備する寡兵の長谷堂城を攻略しきれなかったことで戦局は膠着状態となったが、9月29日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し、流れは最上勢に傾いた。

兼続は撤退を命令し、自身で殿軍を努め撤退を開始した。最上軍・伊達軍は追撃を開始し、義光自ら先頭に立ち攻撃を仕掛けた。この追撃戦は混戦となり、義光は兜に銃弾を受けるなどしたが、最上義康らの軍勢が追いつき難を逃れた。兼続勢は10月4日に米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ、下秀久など降伏する者が相次いだ。また、伊達政宗も10月6日には2万の軍勢で上杉領の信夫郡福島城に攻めかかったが、福島城代の本庄繁長と梁川城代の須田長義の抵抗に遭い攻略に失敗して撤退した。(松川の戦い)

北陸[編集]

前田利長は上杉攻めを支援すべく、7月26日に金沢を出発。8月に入り山口宗永が篭る大聖寺城を包囲、3日で落城させると青木一矩の北ノ庄城を囲んだ。しかし、「大谷吉継の大軍が後詰でやってくる」という虚報(吉継自身が流したと言われている)に引っかかり、急いで金沢に引き返そうとした。

利長は途中軍勢を二手に分け、丹羽長重が篭る小松城に別働隊を送り込んだ。8月9日、別働隊に長重の篭城軍が攻撃して、別働隊を破った長重はさらに利長の本隊も襲い、損害を与えた(浅井畷の戦い)。こう着状態になったあと長重は和睦、小松城を明け渡した。金沢に戻った利長は軍を建て直し、9月12日に再度金沢を出発したが、結局関ヶ原には到着できなかった。この時、大聖寺城攻撃には参加していた弟の前田利政は、居城である七尾城に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった。利政はかねてより西軍への参加を主張していたとも、西軍の人質となっていた妻子が救出されるまで動くべきではないと考えていたとも言われ、結果的に領地没収となった。


畿内近国[編集][編集]

大津城[編集][編集]

詳細は「大津城の戦い」を参照

田辺城[編集][編集]

詳細は「田辺城の戦い」を参照

四国[編集][編集]

伊予でも東軍についた加藤嘉明松前城に対し、毛利軍が戦闘をしかけた。平安時代から続く旧伊予守護家・河野氏当主であった河野通軌河野通直の養子。実父は毛利氏重臣・宍戸元秀)を始め平岡直房曽根高房ら河野氏遺臣、村上武吉村上元吉父子ら伊予に縁のある毛利家臣が三津浜に上陸し、陣を敷いた。松前城に対し開城を要求したが、加藤家の留守居役佃十成らに夜襲を受け、村上元吉らが討ち死にし(三津刈屋口の戦い)、その後も毛利方が不利のまま関ヶ原での西軍敗北を受けて毛利軍は撤退、関ヶ原の戦いに乗じた河野氏再興はならなかった。また阿波の蜂須賀領、讃岐の生駒領は父が西軍、子は東軍になったが、父の西軍参加は消極的なものであった。そのため、彼の領地は毛利氏に占領されている。このように、戦国時代より領土を拡張していった毛利氏は関ヶ原の戦いの前後の政変に於いて、豊臣政権の名において四国に対する各方面での攻略を行ったが、関ヶ原の本戦で西軍が一日にして敗北すると兵を収め、その反徳川的行動から所領の多くを失うこととなった。

阿波方面[編集][編集]

阿波の領主のうち赤松氏は、毛利輝元などによる豊臣政権としての動員命令に従って、西軍となった。蜂須賀家政は嫡男の至鎮を東軍として派遣していたが、少数(一説には18騎)であり、多くの兵力が国元の阿波に止まっていたと考えられる。輝元が大坂城に入城して豊臣政権から親徳川勢力を一掃すると大坂に居た家政は親徳川的な態度を咎められて逼塞処分の後、剃髪して高野山へ追放され、家臣団は豊臣家の馬廻衆に編入されて北国へ出陣されることとなった。また、毛利氏が阿波の対岸の大坂を抑えるために豊臣政権としての命令が出され、本国の阿波は関ヶ原の帰趨が決すまでの一時期、毛利氏の占領下に置かれた。西軍による伏見城攻撃中の7月29日、大老の毛利輝元と、奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の著名により毛利氏家臣の佐波広忠と村上元吉・景親兄弟に蜂須賀家家臣と共同して阿波の管理をするように指令している。8月には村上兄弟に代わって毛利氏家臣の椋梨景良・仁保民部少輔・三輪元徳が阿波の管理に派遣された。

9月19日、輝元は関ヶ原の趨勢が決したことを受け、家康と和議進捗中で阿波の占領を解いて占領軍に大坂への撤退を命じ、家政への返還を申し入れている。阿波占領軍は25日、蜂須賀家の益田彦四郎に徳島城を引き渡し、阿波占領は終了した。

讃岐方面[編集][編集]

讃岐の生駒氏に関しては関係史料が少ないが、阿波と似た様な状況にあり、生駒親正は生駒一正を東軍に付けており、岐阜城の戦いでは家康より感状を受領する程奮戦しているが、本国では蜂須賀氏と似たような状況であり、毛利氏の意向を受けた豊臣政権の圧力を受けて同じように剃髪して高野山へ一時追放され、讃岐を占領され、後に復権した。占領中に生駒氏の軍は西軍に編入されて田辺城攻めに使われた。このような状況は関ヶ原の戦いの結果が出るまで続いた。

伊予方面[編集]

伊予の領主のうち小川氏・池田氏・来島氏は毛利輝元などによる豊臣政権としての動員命令に従って西軍となった。大規模な戦闘に至らなかった阿波や讃岐と違って伊予方面では毛利輝元の意を受けた伊予攻略軍が東軍の加藤嘉明と藤堂高虎の領地に対して調略を行った。加藤領に対しては直接の軍事行動を起こし、旧河野家の後継者的立場にあった宍戸景世(河野通軌に比定)が総大将格となり、他に桂元綱、伊予国人の曽根景房、因島村上氏や8月に阿波方面から抽出された村上元吉が伊予に派遣された。9月17日に三津浜に上陸した伊予攻略軍は佃十成が指揮を執る加藤家の留守部隊に急襲されて村上元吉や曽根景房が戦死した(三津浜夜襲)。毛利氏ではこの敗戦に対して、宍道政慶木屋元公を増派している。加藤家の編纂資料である『明公秘録』ではこの三津浜の戦闘で加藤軍にも多くの戦死者が出たとされており、三津浜を引き払った伊予侵攻軍は内陸部に侵攻し久米の如来院を占領して荏原城で蜂起した旧河野家家臣の平岡直房や正岡氏に呼応している。19日には如来院で戦闘が行われ、加藤家の指揮官の黒田九兵衛直次が戦死している。23日の三津ノ木山での戦闘を最後に、翌日には関ヶ原の戦いの結果を受けて伊予攻略軍は撤退した。

また、毛利氏は藤堂高虎の領地には直接の侵攻を行なわなかったが、旧西園寺氏の家臣の久枝氏や山田氏などの在地勢力に蜂起工作を行った。その結果、宇和郡松葉村の三瀬六兵衛が毛利氏に内通して一揆を起こし、鎮圧軍では足軽大将の力石治兵衛(力石是兵衛)が戦死するなど、一度板島へ引き上げた後に宇都宮氏の旧臣栗田宮内の働きにより、ようやく鎮圧された。

土佐方面[編集]

土佐の長宗我部氏は毛利輝元などによる豊臣政権としての動員命令に従って西軍として行動した。

九州[編集]

九州では主に領国に所在した黒田如水と加藤清正が西軍大名領に攻め込む形で戦いが発生した。

黒田如水[編集]

7月に石田三成が挙兵すると孝高は徳川家康につき九州で挙兵する意思を示し、これが家康に認められると9月9日に中津城より豊前・豊後に出陣した。孝高の最初の目標は豊後国東の垣見一直富来城熊谷直盛安岐城であり、両領主は美濃の大垣城に所在しており、留守を家臣が守っていた。両城の攻撃は大友義統による豊後上陸と杵築城(木付城)攻撃に対応と石垣原の戦いにより一時中断されるが、9月17日よりから再開され、24日には両城とも開城・接収された。毛利高政領の本城日隈城及び支城の角牟礼城も19日以降に開城・接収されている。侵攻中の19日に孝高が藤堂高虎宛てに送った書状では、如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成して欲しいと依頼している。佐賀の鍋島直茂は息子の勝茂が西軍についたが在国の直茂は9月下旬に孝高・清正につき領国を保った。小早川秀秋領の名島城は領主留守中に黒田軍が秋月まで侵攻したが、留守居役と交渉して久留米攻めに合意して東軍となり小早川領を維持した。毛利秀包領の久留米城は領主留守中に黒田・鍋島軍の攻撃を受け、10月14日に孝高により開城・接収された。中川秀成は配下の宗像・田原氏が離脱して石垣原の戦いに参加したため西軍と疑われたが黒田軍について佐賀関の戦いで被害を出したものの太田一吉領の臼杵城を10月頃に開城させて東軍であることを証明した。城は最終的に黒田孝高が接収した。

毛利勝信[編集]

毛利勝信(吉成)は毛利輝元や奉行衆の使者として8月18日に熊本城の加藤清正の下へ派遣され、西軍参加を説得した(ただし、途中で伏見城攻撃時に自軍が甚大な被害を受けた報を聞き、急遽小倉に引き返したため勝信の家臣が清正に書状を渡したもいわれる)。毛利勝信は子の毛利勝永(吉政)が指揮した伏見城攻撃時に多くの家臣(毛利九左衛門、毛利勘左衛門など)を失い、続く安濃津城攻撃や関ヶ原本戦時に吉政は輝元家臣と共に安国寺恵瓊の指揮下に編成されるなど単独の軍事編成が失われ、家中も混乱状態にあった。東軍についた黒田如水が軍勢を整えて攻撃を仕掛ける様相を呈している中で、領国同士が海峡を挟んで隣接し、西軍の盟主でもあった毛利輝元は家臣の三沢為虎・和田重信などを勝信領の門司城に派遣し、同じく主城の小倉城も輝元勢の統制下に置いて対抗した。本戦の結果により輝元も手を引き、毛利勝信領の小倉城は10月19日以前に如水により開城・接収された。

加藤清正[編集]

加藤清正は関ヶ原の戦いの前年に発生した薩摩・島津家中の内紛である庄内の乱の際に、反乱を起こした伊集院忠真を秘かに支援していたことが家康に知られ、庄内の乱の収拾を図っていた家康の怒りを買った結果、上杉征伐への参加を認められなかった。清正と家康の疎遠化という事態に対し、西軍は毛利輝元らが書状を送って西軍への参加を求めて説得工作を行った(前述の毛利勝信の派遣もその一環である)。しかし、清正は家康から上杉遠征軍に自らの家臣や小姓を随行させる許可を得て、万が一の際に家康との連絡を取る態勢を整えていた。そして、家康は小山評定の直後に随行していた清正の家臣に書状を託して帰国させ、家康が尾張に到着するまでは勝手な軍事行動を控えるように指示して実質東軍への参戦を認めた。この家臣が帰国して家康の書状を清正に渡したのは8月後半と推定されているが、その間にも清正は黒田如水や松井康之(細川忠興重臣・杵築城守将)と連絡を取り協力を約していた。肥後では宇土城の小西行長と人吉城相良頼房が西軍として出兵中であり、8月12日付け書状により家康より加藤清正は肥後と筑前は切り取り次第であることを認められた(ただし、この使者が清正の許に到着したのは9月10日のことである)。領国の熊本城を9月15日に進発した加藤清正は、当初は大友義統に攻められた豊後・杵築城の救援に駆けつける予定であったが、この日に発生した石垣原合戦で大友軍は壊滅、黒田如水からの書状で事情を知った清正は17日に豊後入りを取りやめてそのまま兵を小西領に向けて方向を転じた。19日より宇土城へ攻め寄せて21日には城下を焼き払った。小西行長の本城宇土城は城代の小西行景南条元琢内藤如安と共に堅守して加藤軍を苦しめると共に島津に援軍を要請し、島津義久島津忠長新納忠元らを肥後に派遣し、肥後水俣城に籠もり、芦北を攻めるなど加藤軍と戦った。本戦の結果を受けて10月20日に小西行景が開城に応じて自刃すると島津勢も薩摩へ帰還した。なお、先立つ10月17日に清正家臣の吉村左近は小西領八代城を接収しており、宇土城も清正により11月には占領統治が開始されている。

立花宗茂[編集]

立花宗茂は、当初西軍に属した後に岐阜城陥落の報を契機に大津城に籠城して東軍となった京極高次を毛利勢と共に攻撃して開城させ、関ヶ原本戦には参加できなかった。本戦後、大坂城経由で海路領国の柳川城へ10月初めに帰城すると、黒田・加藤・鍋島の攻撃を受ける。10月20日には柳川北方で鍋島勢と衝突し(江上合戦・八院の戦い・柳川合戦)立花了均(鎮実)・立花統次新田鎮実らの重臣を失い、宿老の小野鎮幸も重傷を負うなどの大打撃を受けた。家康により身上安堵の朱印状を受領した後に、加藤清正と25日に和睦が成立した。柳川城は清正家臣の加藤正次が受領した。この後、孝高と清正は加藤・黒田・鍋島・立花からなる九州連合軍を編成して島津攻めの準備に掛かる一方、宗茂を仲介として和平交渉を行っている。11月になると家康は薩摩攻めの中止を指示し、企画されていた徳川秀忠による島津攻めは計画のみに終わった。なお、佐土原の島津豊久は本戦で戦死したが、領国は薩摩の庇護を受けて維持した。

その他諸将[編集]

その他、伊東祐兵は病のために大坂に滞在していたものの、早くから家康に通じて領国の兵が東軍として戦ったために所領を安堵された。

相良頼房・秋月種長・高橋元種は東軍に内応して大垣城を占拠したことで現状維持したが、高橋元種の支城であった宮崎城は伊東祐兵に占領された。

その他[編集]

関東[編集]

常陸の大名であった佐竹義宣は三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいたといわれる。だが父・佐竹義重や弟で蘆名氏を継いだ蘆名盛重、重臣筆頭である佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し義宣の西軍加担に強硬に反対した。隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交と板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。すなわち配下の武将を中山道進軍中の秀忠隊に派遣し、従軍させたのである。配下の多賀谷重経や、小勢力の山川朝信相馬義胤岩城貞隆は景勝に通じていたが、これには宇都宮氏一族で結城秀康の家督相続によって当主の座を追われて浪人となった結城朝勝(佐竹義重の妹が生母)の動きが背後にあった。

伊勢[編集][編集]

関ヶ原に進出途上だった毛利勢らが、道中にあった安濃津城など伊勢の諸城を攻め立てた。安濃津城の富田信高は降伏・出家、松坂城の古田重勝は和睦で時間稼ぎしつつ持ちこたえた。桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟は当初中立を宣言していたが西軍の圧力に押されて西軍に加担した。その後西軍は福島正頼(正則の弟)が籠もる長島城を攻略しようとしたが、東軍が清洲城に集結したとの報に接し美濃方面へ転進している。

伊賀[編集][編集]

安濃津城攻略向け進軍してきた西軍は3万の兵で伊賀上野城を攻める(上野城の戦い)が、筒井玄蕃高野山へ逃亡・謹慎し、城を交戦せずに明け渡し、新庄直頼が入った。会津征伐に出陣中の城主筒井定次は、徳川家康に許しを得て伊賀国に引き返し、伊賀衆と共に上野城を攻撃する。戦闘の末新庄親子は降伏し、退却した。上野城を奪還した定次は関ヶ原へ引き返し、石田三成らと交戦した。

合戦後の動き[編集][編集]

東軍諸大名への論功、および西軍諸大名への処罰やその後の動向については関ヶ原の戦いの戦後処理を参照。

大垣・佐和山落城[編集][編集]

関ヶ原での本戦が東軍の大勝利で終わったその日、家康は首実検の後、大谷吉継の陣があった山中村へ陣を移し、休養を取った。明くる9月16日には裏切り組である小早川、脇坂、朽木、赤座、小川に三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政のほか軍監として井伊直政が加わり、2万を超える大軍を以って近江鳥居本へ進軍。家康は平田山に陣を構えて攻撃を命じた。佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家、大坂からの援兵である長谷川守知ら2,800の兵が守備しており、6倍以上もの兵力差に加えて御家安泰のために軍功を挙げねばならない秀秋らの攻撃を津田清幽らの奮戦で退けた。正澄は家康の旧臣だった清幽を使者に降伏交渉に入ったが、正澄の自刃、開城とひきかえに他の一族、城兵、婦女子を助命するという条件でまとまった9月17日に長谷川守知が寝返り東軍の兵を引き入れ三の丸が陥落すると翌18日早朝に田中吉政隊が天守に攻め入り落城。正澄ら三成の一族は自刃して滅んだ。清幽は家康に違約を激しく詰問し、三成の三男佐吉をはじめとする生き残った者を助命させた。赤松則英は逃亡後福島正則を頼って投降したが、後に切腹を命じられた。重家は脱出して京都妙心寺に入り、後に助命されて同寺へ出家させられた。

一方、関ヶ原本戦直前まで、西軍の前線司令部であった大垣城には、福原長堯を始め垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子などが守備の任に就いていた。これに対し東軍は松平康長、堀尾忠氏、中村一忠、水野勝成、津軽為信らが包囲し対陣していた。関ヶ原本戦が西軍の敗北に終わると、城内には動揺が広まったが、逸早く行動に出たのは三の丸を守備していた肥後人吉城主・相良頼房であった。会津征伐に従軍中、三成に東下を阻止された頼房は、長堯の指揮下に入り、同じ九州の大名である秋月種長・高橋元種と共に三の丸を守備していた。西軍敗北の報を受け、頼房は重臣である犬童頼兄の助言もあり、妹婿の種長及びその弟である元種と相談の上、かねてより音信を取っていた井伊直政を通じ、家康への内応を密かに連絡した。連絡を受けた直政は家康に報告、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じるが、長堯ら本丸・二の丸に陣取る大名の戦意は高かった。このため頼房・種長・元種の三将は、9月17日頃軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見・熊谷・木村父子を暗殺し二の丸を制圧した。これを知った長堯は本丸で頼房らを迎撃し奮闘したが、包囲軍に属していた西尾光教の説得によって、9月23日城を明け渡して伊勢朝熊山へ蟄居した。家康は長堯を許さず切腹を命じ、長堯は9月28日同地で自刃した。内応した三将は領地を安堵されている。

伊勢方面では、西軍の敗報に接し多くの将が退却している。9月16日には伊勢亀山城が開城し、城主であった岡本良勝は自刃を命じられた。嫡男・重義も近江水口で自刃した。桑名城も同日開城、当初東軍に加担するつもりが、西軍の圧力で止む無く西軍へ加担した氏家行広・行継兄弟は、山岡道阿弥に城を明け渡し、後改易された。長島城を包囲していた原長頼は逃走したが捕縛。美濃駒野城に籠城していた池田秀氏や、伊賀上野城を占拠していた新庄直頼・新庄直定は、城を放棄して退却している。鍋島勝茂は父・鍋島直茂の命で伊勢・美濃国境付近で傍観していたが、西軍敗走の報に接するや直ちに大坂へ退却、その後、伏見城に赴き家康に謝罪している。志摩鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦した九鬼嘉隆は伊勢答志島へ逃走した。守隆は父の助命を家康に懇願、当初家康は拒否したが、加増の内示を受けていた伊勢南部五郡を返上して父の助命嘆願を行った守隆に免じ、助命を許した。しかし助命の報が届く直前に嘉隆は自刃する。嘉隆と共に行動した堀内氏善は、紀伊新宮城に籠城したが、城を捨てて逃走している。

論功行賞と三成の処刑[編集][編集]

家康は西軍の首謀者で、敗戦後逃亡し行方不明となっている三成や宇喜多秀家、島津義弘らの捕縛を厳命。一方で大坂城無血開城を行うべく、福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との、開城交渉を命じている。家康は現在の近江八幡、日牟禮八幡宮で戦勝祈願の後、9月20日に京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まった。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長が、西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流している。家康は両名の懇願を排し、改易処分とした。また家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流している。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒、しばらく目通りを許さなかったが榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っている。

一方、逃亡していた西軍諸将であるが、まず9月19日に小西行長が竹中重門の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送された。続いて三成が9月21日、近江伊香郡古橋村(後の高時村)において旧友である田中吉政の兵に逮捕された。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていた。しかし三成は発覚したことを知ると自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されている。捕縛後9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会した。この時のエピソードとして福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けている。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられている。9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送された。この三名は9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際、大坂へ護送された。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城へ戻っていたが、これを知った家康は池田輝政・長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かった。途中丹波亀山城において父と再会、田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友別所吉治川勝秀氏藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始した。重勝は徹底抗戦の構えを見せたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城、城下の寺へ謹慎した。

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城。豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始する。9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下に、ようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始した。

10月15日以降、論功行賞が順次発表された。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となった。しかしいずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。詳しくは「関ヶ原の戦いの戦後処理」を参照のこと。

また、豊臣氏の蔵入地が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津河内和泉65万石余りに事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都長崎を始めとする大都市や佐渡金山石見銀山生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地とした。また豊臣恩顧の大名が家康の論功行賞によって加増された事は、彼らが豊臣家の直臣から切り離され、独立した大名家となった事を意味した。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。

ただし、かつてはこの一連の論功行賞で豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的であったが、豊臣家がなお特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかったとする説 が現在では一般的である。

10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の3名及び伊勢で捕らえられた原長頼 は京都六条河原において斬首された。首は三条大橋に晒されている。10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒された。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃した。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられている。この他赤松則英垣屋恒総石川頼明斎村政広などがこの10月に自刃を命じられている。家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという、両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は、家康から捕縛を厳命されていたが、薩摩へ逃亡を果たした。

輝元の大坂城退去と毛利氏の処分[編集]

毛利輝元は、吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、福原広俊ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任していたが、関ヶ原の敗北後もなお秀頼を擁して大坂城にあった。立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張しており(『立斎旧聞記』)、秀頼の命と称して篭城抗戦が行われる可能性も残されていた。

家康は大野治長を大坂城に遣わし、秀頼と淀殿が今回の戦に関係あるとは家康は全く思っていないと説得させた。淀殿は礼の手紙を持たせて大野を送り返している。一方で、関ヶ原本戦において功のある吉川広家が「輝元の西軍総大将就任は本人の関知していないところである」と家康を説得し、家康はその説明に得心したと回答する。これを知った輝元は、福島正則と黒田長政の開城要求に応じる。福島・黒田に加えて家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に領地安堵の意向があることを保障する起請文を輝元に差し出し、それと引換えに、輝元は9月25日に大坂城西の丸を退去した。退去後、輝元が京都付近の木津屋敷に引き篭もっていた頃に長雨が続いた。その屋敷の外れには、「輝元と 名にはいへども 雨降りて もり(毛利)くらめきて あき(安芸)はでにけり」、と戦わずして退去した輝元を皮肉る落首を記した高札が立てられたという。

9月27日、家康は大坂城に入城して秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻して秀忠を二の丸に入れた。だが、10月2日に家康は黒田長政を通じて広家に対し、実際には輝元が積極的に西軍総大将として活動していたという証拠(具体的には、諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて、豊後を錯乱したことなど)が多数発覚したため、広家の説明は事実ではなかったことが明らかになり、である以上は所領安堵の意向は取り消して「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」、と通告した。その上で広家には彼の「律儀さ」を褒めた上で、その広家に周防国長門国を与えて西国の抑えを任せたいという旨を同時に伝えた。

毛利氏安泰のための内応が水泡に帰した吉川広家は進退窮まる形になった。謀反人の宿老であるにも関わらず「律儀さ」ゆえに彼のみは破格の扱いを受けるという形になった以上、今更「輝元の西軍への関与は知っていたが、自分の努力でなるべく動かないようにさせたので免責してほしい」などと前言を翻し実情を述べて交渉することもできなくなった。そのため、自分自身に加増予定の周防・長門(現在の山口県)を輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、輝元が今後少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す、という起請文まで提出した。家康としても、九州・四国情勢などの不確定要素がある以上は毛利を完全に追い詰めることは得策ではないため、吉川広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏本家改易決定を撤回し周防・長門29万8千石(現在の山口県)への減封とする決定を10月10日に下した。 輝元は出家し、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居する。

毛利領が、安芸ほか山陽・山陰8か国(112万石)から防長2か国(29万8千石、のち高直しにより36万9千石)まで一気に減らされたことから、吉川氏に対し毛利本家は、残された毛利領より3万石(岩国領、後に高直しして6万石)を割き与えたものの諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行った。しかし、吉川広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて、吉川広家の功に報いた。

その後、毛利氏が本拠地を周防山口として申請したが、幕府からは長門にするよう命じられた。

なお、慶長4年(1599年)閏3月21日に家康と輝元は起請文で、家康を兄、輝元を弟とする義兄弟の契りを交わしていたが、それを西軍決起によって輝元に反故にされている。

島津氏の処分[編集][編集]

関ヶ原本戦において、敵中突破を敢行した島津義弘は、堺より立花宗茂と共に海路逃走し、鹿児島へたどり着いた。義弘は桜島で自ら謹慎したが、当主である兄・島津義久ら島津氏首脳は家康の攻撃を予測して、領内の防衛体制を強化し、臨戦態勢を採った。一方家康は先に大垣城開城において中心的な役割を果たした相良頼房・秋月種長・高橋元種に、島津征伐の準備をするよう命じており、家康は当初、島津氏を武力で討伐する方針を固めていた。

九州では関ヶ原の戦いが終了しているこの時期でも、戦闘が繰り広げられていた。10月6日には黒田如水が豊前小倉城を攻撃して毛利勝信を降伏させている。また、加藤清正は松浦鎮信有馬晴信大村喜前と共に小西行長の居城である宇土城を攻撃していたが、西軍敗戦の報が届いたことで10月12日に城将・小西行景が自刃し開城した。薩摩から肥後へ攻め入った島津の軍勢は、清正家臣の加藤重次が守る佐敷城に阻まれ、これを攻め落とせないまま撤退。肥前佐賀の鍋島直茂と勝茂の父子は、伏見で家康に西軍加担を謝罪した際に、本領安堵の条件として筑後平定を命じられ、直茂父子は帰国後直ちに筑後平定に掛かった。まず小早川秀包の久留米城を開城させ、続いて立花宗茂の籠る柳河城10月19日より包囲した。鍋島軍と立花軍の間で激戦が繰り広げられたが、包囲軍に加わった如水・清正の説得によって、10月25日に宗茂は開城、降伏する。

宗茂降伏後、家康は直ちに島津義久討伐を九州の全大名に命じた。最終的に家康に従った、九州の全大名が兵を動員して出陣し肥後水俣に進軍。これに対し島津義久は、ここで最終決戦を行おうと兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めた。島津軍の指揮は、当主・島津義久みずからが執った。対する九州連合軍は、黒田、立花、鍋島、加藤である。

11月22日、義弘が、家康に謝罪の使者を送ったため島津征伐は中止となり、九州連合軍は撤退、以降家康と島津氏の間で交渉が行われた。島津義弘は関ヶ原の退却戦において傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼したところ、直政はこの仲介要請を受諾し、以降徳川方の窓口として、島津義久、島津忠恒と戦後交渉をした。家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否し、交渉は長期化した。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張した。

その後2年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、慶長7年(1602年)3月に薩摩大隅日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定された。決定後義久の名代として、忠恒が12月に上洛し謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入った。このように粘り強い外交により、島津家は減地されることなく本領安堵を得ることができた。薩摩という、大坂から離れている地理的な利点は大きかったが、早い段階で家康に全面的な降伏をした毛利氏、上杉氏が大幅に減封されたことと比較すると、対照的な結果となった。

なお、薩摩に匿われていた宇喜多秀家は家康に引き渡され、前田利長と忠恒による助命嘆願により死罪を免れて、慶長11年(1606年)に八丈島に流罪となった。

上杉氏・佐竹氏の処分[編集][編集]

10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪したことにより、西軍に加担した大名で処分が未決となっているのは、上杉景勝と佐竹義宣の2人となった。

景勝は最上軍と長谷堂城を中心に戦闘を繰り広げたが、9月30日に西軍敗走の一報が伝えられると撤退した。最上義光は上杉に占領されていた最上郡・村山郡を取り戻す過程で尾浦城主・下秀久を帰順させ庄内地方へ攻撃を開始した。伊達政宗も10月6日より桑折への侵攻を開始している。景勝は防戦する一方で家中に今後の対応を協議した。この中で直江兼続や甘糟景継竹俣利綱らは徳川との抗戦を主張するが、本庄繁長千坂景親らは和睦を主張している。最終的に10月23日に和睦の方針が決定され、主君の意を汲んだ兼続は主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けた。交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、以後正信を始め東軍の対上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼した。彼らの取り成しにより、当初領地没収を予定していた家康も、次第に態度を軟化させていった。

年が明けた慶長6年(1601年)春、最上義康酒田城志駄義秀を攻めて降伏させ、最上氏は庄内地方一円を奪取した。伊達政宗も福島城を数度に渡り攻めたが上杉の守りに阻まれた。7月1日、千坂・本庄両名の報告などから和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、8月8日結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪した(『上杉家御年譜』)。上杉氏への処分は1ヶ月ほど経った8月16日に言い渡され、陸奥会津120万石から75%減の出羽米沢30万石(出羽置賜1郡および陸奥伊達・信夫2郡)へ減封となった。景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動した。

一方、佐竹義宣自身は、三成との親交から西軍への加担を決め、景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃する方針を採っていた。このため、上杉征伐では動かず、与力大名である岩城貞隆、相馬義胤、多賀谷重経もこれに同調した。しかし、佐竹家中では父である佐竹義重、弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張した。特に父・義重は、東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ、兵300と共に派遣するという、曖昧な態度を取った。しかし、家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置。秀忠も義久ら派遣部隊に対して、謝絶している。

西軍敗北後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなった。その上、謝罪すら行っていなかったが、それでも義宣は動かなかった。しかし、義重の説得により慶長7年(1602年)4月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。しかし家康は義宣の観望について『寛政重修諸家譜』の中で「上杉景勝より憎むべき行為だ」として厳しく非難したと記されている。死罪は許されたが、常陸一国など、佐竹氏勢力の54万石は没収され、出羽久保田に20万石格での減転封となった。また与力大名である岩城・相馬・蘆名・多賀谷の各大名も改易となった。義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動したが、転封に反対して車斯忠らが一揆を起こしている。佐竹氏の石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代になってからである。

織田氏の処分[編集][編集]

織田信忠の遺児で、幼名三法師とよばれていた織田家嫡流の織田秀信は改易となり岐阜城を追われ高野山に追放となった。おなじく織田秀雄も改易され江戸に居住することを命じられたが父に先立ち夭逝。織田信雄も改易となるも後に許され大和で大名となった。信雄の子孫は、天童藩2万石と柏原藩2万石の2家が明治に至る。織田信包は西軍に属していたが、そのまま所領を安堵された。

その後[編集][編集]

佐竹氏の減転封が決定されたことで関ヶ原における一連の論功行賞と西軍諸大名への処罰は終了した。慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開き、西軍に加担して改易されていた立花宗茂、丹羽長重滝川雄利の3名が大名に復帰させている。その後相馬義胤など数名が大名に復帰するなど大名家は少しずつ復帰していった。西軍に加担した大名の中には明治維新まで存続したものも多く、島津氏の薩摩藩や毛利氏の長州藩は倒幕に活躍した。

しかし、領地を没収された西軍加担大名及びその家臣の多くは浪人となった。幕府旗本や諸藩の藩士として天寿を全うする者もいたが、長宗我部盛親毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)などは、10数年後の大坂の陣で豊臣方の浪人衆として幕府軍と戦い、戦死することになる。

影響[編集][編集]

戦役に関する論功行賞は形式上反秀頼勢力の討伐に対する褒賞として行われたものであるが、実態は親徳川勢力への豊臣直轄地の割譲であり、戦役前222万石あった直轄地を65万石にまで削減された豊臣家の経済力は大きな打撃を受けた。加増・安堵を受けた諸大名は家康と知行充行状を介した直接の主従関係を結んだわけではなく、また勝利に貢献した旧豊臣系大名への大幅な加増など、なお家康には課題が残されたものの、加増・改易等の主導権を握ったことにより実質的に全国諸大名を支配下におくこととなる。

また、かつて秀吉が主導していた諸大名への武家官位叙任は戦役後家康が取り仕切るようになり、その一方秀頼推挙による叙任は秀頼の直臣級の者にしか行われなくなる。豊臣政権は諸大名を官制上の序列に組み込み、その頂点に豊臣氏が立つことによって権威を確立・補強していたが、その枠組みに関する決定権は豊臣家から家康(徳川家)に移ったのである。

首塚[編集][編集]

共に合戦での戦死者を弔うために建立されたもの。国の史跡

  • 東首塚:岐阜県関ヶ原町関ヶ原908-3。関ヶ原駅から約300m。
  • 西首塚:岐阜県関ヶ原町関ヶ原2236。関ヶ原駅から約700m。

関ヶ原の戦いに関する諸説[編集][編集]

関ケ原合戦祭 関ヶ原古戦場

三成の関ヶ原転進の理由[編集][編集]

大垣城に篭っていた西軍首脳の石田三成他の関ヶ原転進については、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、大坂へ向かう」という流言を流した家康に三成がおびき出されたという説が一般に流布しているが、これには疑問な点も多い。

玉城説[編集][編集]

NHK「決戦!関ケ原」によると、関ケ原の西側には玉城という豊臣方の要衝(野戦築城)が存在した。その城の規模は大きく、岐阜城を超えるものだった。各辺200mに及ぶ山城は、戦国時代の日本では他に類を見ない。石田三成らは、それを起点に両脇の松尾山城、菩提山城とも連携して、関ヶ原を見下ろす山々全体を要塞化することによる徳川家康迎撃計画を立てた。航空機からレーザーを照射し、赤色立体図を作成することにより、そうした新事実が新たにわかった。バチカンのイエズス会ローマ文書館では「毛利方は12000人が籠れる戦いの為の城砦を準備している」という関ヶ原の戦いに関する宣教師の記録が見つかり、この新説の補強となっている。しかし、歴史とは勝者によって書かれるものであり、敗者の事情・観点は必ずしも記録されるとは限らない。こうした説が2020年12月19日にNHKで報道された。NHKや外岡慎一郎千田嘉博(共に奈良大学教授)による新説であるとしている。この説によると、三成が当初、大垣城に寄ったのは、玉城完成までの時間稼ぎと西軍諸将との連絡・交渉の為だとしている。また、当時の史料には大谷吉継が山中村に陣した、とあるが、現代、山中村があったとされたところには陣の跡は見当たらず、玉城跡にはあり、玉城も山中に含まれているので、史料とも整合するとしている。また、航空レーザー測量から判明したところによれば、南宮山山頂には陣跡はなく、毛利方が陣した位置はおそらくその北側山麓であり、小早川秀秋も松尾山山頂ではなく関ヶ原寄りの山麓に陣しており、後者は当初のおそらく西軍計画から逸脱した配置であった。小早川は当初から寝返りを考えており、その為、高所にではなく、関ヶ原に進出しやすい山麓に陣を敷いた。それは、西軍諸将にも容易に判明し、実際、吉川家文章には「秀秋に逆意あり」ともあり、このような小早川の不信な動きは、西軍諸将の疑心暗鬼を一層強くし、西軍の中に消極的に動く者が相次いだ。一方で、小早川の動きを見た大谷吉継は、松尾山に対する備えをする一方で、残る全軍を急遽、玉城から降ろし、関ヶ原へと進出させた。こうして計画は当初(山々が連携しての消耗戦)とは大幅に狂ってしまい、史実のような結果になったと推定する。白峰旬(別府大学教授)も、三成が陣したのは関ヶ原の西側ではなく、玉城であったと推測する。航空レーザー立体図によると関ヶ原西部には本格的な陣跡は見当たらず、玉城にはあり、合戦直後の家康の手紙には、戦いがあった場所は山中とあり、近衛前久の書状には「三成たちは山に取り上った」とあるからである。また、石田方が関ヶ原に布陣した、という記載は後世の史料には出てくるが、一次史料には存在しない。

西軍の首謀者と結成の過程[編集][編集]

西軍の結成については、石田三成がまず決起し、続いて決起に反対の立場であった大谷吉継を引き入れるとともに、安国寺恵瓊と共同で毛利輝元と豊臣三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)を説得して、反家康闘争に踏み切らせたと説明されることが多い。また、豊臣三奉行は当初三成と吉継の決起を反豊臣の謀反と捉え、その鎮圧のために輝元を大坂に呼び寄せる一方、家康にも協力を依頼したが、三成の説得により方針を180度転換したとする説もある。しかし慶長5年7月17日の西軍決起に至るまでの三成の動向と西軍首脳部との交渉過程そのものについては、一次史料によって詳細が明らかにされているわけではい。

三成の単独決起説も江戸時代成立の軍記物・逸話集などの二次史料の記述が主な根拠であり、さらにそれぞれの内容にも食い違いが見られるなど検討の余地が残されている。水野伍貴は、政権中枢から外されて協力者もいない三成に、反家康闘争に消極的な毛利輝元・宇喜多秀家の両大老が同調する構図は不自然であり、むしろ両大老に積極性があったとする。そして、挙兵計画は会津征伐が回避不能になった頃から水面下で進められていたと推測する。布谷陽子は、慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に輝元・秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が会津征伐にあたって談合したことが記されていることから、三成を含めた複数人の合議のもと西軍の形成が事前に進行していたとする。谷徹也は布谷説を肯定しつつ、増田長盛が永井直勝書状を送った7月12日の直前、恐らくは家康が江戸城に到着した第一報が大坂方面に届いたとされる7月2日頃から三成の挙兵に向けた具体的な行動が開始されたと捉え、第一の目的は家康を江戸城に釘付けにするものであったと推測している。

毛利輝元は三成と恵瓊の説得に引きずり込まれる形で西軍の総大将になったため、大坂城に留まって積極的な行動をとらなかったとされる。しかし、対家康戦への消極的な姿勢とは対照的に、豊臣三奉行よりの要請を受け取った後の輝元の大坂入りは極めて迅速なものであり、毛利軍も四国・九州において活発な軍事行動を展開している。これらの点から光成準治は、西国における勢力拡大を目的として奉行衆と事前に協議したうえで決起に加わったとし、三成や恵瓊の甘言に乗せられたとする説を否定している。また、秀吉の死後、家康が毛利秀元の給地問題や小早川隆景の遺領問題など毛利家中の問題に介入したことで、自己の権力強化を目指していた輝元が家中の問題を自分の思い通りにできなかったことを屈辱に感じ、それが輝元の決起に繋がったと考察している。

大谷吉継の参加も消極的なものであったかどうか、その意図を含めて見解が分かれる。吉継が三成との友情を捨てられず、負け戦を覚悟のうえで西軍に加わったとする説は江戸時代成立の二次史料の記述をもとにしており、その真偽については不明である。石畑匡基は、宇喜多騒動における家康の裁定を豊臣政権の弱体化策と捉え、それ以降家康に抱いていた不満から西軍に参加したとする。

小山評定をめぐる諸説[編集][編集]

「小山評定」とは慶長5年7月25日に下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指す。その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた「小山評定」であるが、軍議における家康や諸大名の言動は「慶長記」・「関原始末記」等寛永・慶安期以降に作成された二次史料に記されているものであり、一次史料からは確認されない。 白峰旬は 7月25日より前の7月19日の時点ですでに福島正則に上洛命令が出されていること、また家康が諸大名に小山召集を命じた書状や、家康や諸大名が作成した書状の中に小山での評定に言及したものが無い点などから、評定そのものがフィクションであるとする。そして8月12日付伊達政宗宛家康書状に福島正則・田中吉政・池田輝政・細川忠興から再三「上方仕置」を優先するよう要請があったため家康は江戸に帰陣したと記されている点から、会津征伐中断と上洛はそれらの進言を考慮したうえで家康が決定したものであり、一度の評定によって決定したものでは無いとする。 また肯定派が「小山評定」実施の証拠とする慶長5年7月29日付大関資増宛浅野幸長書状についても7月25日前後の浅野幸長の動向についての情報を提供するものの、「小山評定」の実施については直接の記述が無い点等から通説の「小山評定」を肯定する史料たり得ないとする。 さらに白峰説では家康は、豊臣三奉行の「別心」を黒田長政らに伝えた7月29日以前の7月24日には、すでに7月17日に三奉行が出した「内府ちがひの条々」を入手していたが、諸大名の離反を恐れてその事実を隠し、7月27日時点でも三奉行や淀君が味方であるかのように装っていたとする。

これら白峰説に対して本多隆成は、家康が直接の主従関係に無い諸大名に一方的に命令を下したとは考え難く、諸大名の合意と納得を得るために小山評定が開かれたとする等の反論を行っている。また「内府ちがひの条々」の内容や三奉行の加担もいずれは東軍諸大名に伝わるものであり偽装工作は無意味とする。 笠谷和比古は7月25日の時点では「内府ちがひの条々」は家康や東軍諸大名の許には届いておらず、未だ三成と吉継の謀反という現状認識しかない諸大名が家康に従うのは当然であったとし、むしろ一豊による居城明け渡しの献策が三奉行加担判明後の東軍分裂を防いだと評価する。また東海道の諸大名の居城明け渡しと徳川譜代武将の入城という大規模な行動を評議なく行うことは不可能とする。水野伍貴は、上方からの情報によって、家康は7月23日頃に毛利輝元の西軍関与を確信しており、その事態に対処するため東軍諸大名と合議する必要があったとする。そして宮部長煕が寛永10年(1633年)に記した身上書にある、小山評定に関する記述などを根拠に虚構説を否定している(一方、水野は白峰説について、定着には至っていないものの、歴史的事実とされてきた小山評定に、検証が加えられる転機になったとも評している)。ただしこれら評定肯定説は主に当時の政治的状況や経緯から、実施の妥当性を主張するものであって「小山評定」を一次史料によって直接立証したものではなく、また二次史料に記された「小山評定」の内容を無条件に肯定するものでもない。

島津義弘の夜襲策について[編集][編集]

島津義弘の夜襲策の逸話については徳川家康の年代記として享保12年(1727年)に成立した『落穂集』に載せられたものが詳しい。それによると本戦前日の9月14日の夜、島津豊久は島津義弘の発案した家康本陣への夜襲作戦を三成に提案。三成がこれに困惑していると、島左近が古来より夜襲で少勢が大軍に仕掛けて勝利した例が無い。明日の一戦での勝利は疑い無く、久しぶりに家康が敗走する姿が見られるであろうと反対し、三成もそれに従った。豊久は左近の口出しに不快を覚えつつも、左近が家康の敗走を見たのはいつのことかと尋ねると、左近は武田家臣山県昌景の配下として出陣した時に掛川城の近くで敗走する家康を追いかけたことがあると答えた。豊久はそれは下劣なたとえで杓子定規な物言いである。その頃の家康と今の家康を同じ人物と考えるのは間違いであろうと言い、苦笑いをして三成の陣を去ったという。『落穂集』の作者である大道寺友山は島津帯刀に会った際、この件について訪ねたところ、詳しい事はわからないが伝え聞くところでは義弘と豊久が夜討ちをかけるつもりであった、という返答を書き記している。

桐野作人はこの逸話について、数万の家康本陣への夜襲という非現実な作戦を義弘が発案したとは考えがたく、また左近が山県昌景の家臣であったとする経歴も不審であり、さらに島津家側の史料に夜襲に関するものがほとんどない点から史実では無いとする。そして本戦当日、島津勢が傍観を決め込んだ理由が、作戦を却下されたことに恥辱を感じた義弘・豊久の三成への悪感情にあったとする説を否定している。

なお元禄元年(1688年)に貝原益軒が著した『黒田家譜』では、豊久と左近は登場せず義弘の提案を三成が却下している。

吉川広家による毛利氏救済について[編集][編集]

吉川広家は、西軍に属しながら家康に通じ、関ヶ原本戦で東軍との戦闘を回避した事が評価され、戦後に中国地方において1カ国もしくは2カ国を与えられることとなったが、それを辞退するかわりに本家毛利氏の存続を願い出たため、毛利氏は取り潰しを免れたとされる。しかし、この説の根拠となる書状群 は原本が存在せず、またそれらを掲載する岩国藩(藩祖が広家)編纂の「吉川家譜」はその典拠を明らかにしていない。

江戸時代、岩国藩は吉川家の家格を上昇させるため様々な宣伝活動を行ったが、その一環として藩外で作成された軍記物に対する、記事の内容改変や吉川家関連書状の掲載を推し進める工作を行っている。宮川忍斎著の「関ヶ原軍記大成」には関ヶ原の戦いにおける広家の行動を正当化する記事とともに「吉川家譜」掲載の書状群が収められているが、これは水面下での岩国藩による働きかけの結果であり、著者や周辺関係者には報酬として金銭が提供・用意されている。また、香川宣阿著の「陰徳太平記」は岩国藩による極秘の資金提供と指示のもと編纂されたものであるが、これにも広家を正当化する記事・書状が載せられている。「陰徳太平記」の編纂過程において岩国藩は偽文書の作成を容認しており、「吉川家譜」掲載の書状群についても偽文書の可能性が指摘されている。

福島正則と井伊直政の先陣争い[編集][編集]

福島正則と井伊直政の先陣争いについて『黒田家譜』は以下のように記している。

合戦前に陣列を整えていた福島正則隊の陣中を、中軍 の先手の井伊直政隊が松平忠吉隊を引き連れて押し通ろうとした。これを福島隊の先手を務めていた可児才蔵が、この方面の先陣(「当手の御先手」)は福島隊であると指示されており通すわけにはいかない、と押し留める。直政は家康から物見(偵察)の命令を受けているとして通行の許可を求めると、才蔵は物見ならば部隊の主力は置いて行くようにと答えたため、直政は約300名の手勢で先へ進み、忠吉は功名を挙げた、という内容である。

一方『関ヶ原軍記大成』では福島隊の陣中ではなく、陣の前を約300名の忠吉・直政隊が通ろうとしたと記しており、先に進んだ時の兵数も約40騎ないし50騎と、話の細部が異なっている。

笠谷和比古は、戦闘の前に定められた軍法で抜け駆けは厳禁されており、また戦闘後に正則が抗議を行った記録も無いことから、実際の直政の行動は正則に配慮して抑制されたものであったとする。また物見のため戦闘当日に発生した霧に紛れて前進したところ、たまたま敵に遭遇したというかたちを作ることで、徳川武将に一番槍の実績を残そうとしたと推測する。 ただし『黒田家譜』を含め戦闘開始時点では霧が晴れていたとする書物は複数存在する。また抜け駆けの逸話自体江戸時代成立の二次史料を出典とするものである。

小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃[編集][編集]

関ヶ原の戦いを主題とした映画や小説では、戦いが昼になる頃になっても去就を明らかにしない秀秋の陣に向け、家康が裏切りを催促する銃撃を行い、意を決した秀秋の命令で小早川勢が西軍に襲いかかる場面が半ば定番化している。しかし前述したように秀秋・脇坂らが裏切ったタイミングは、戦闘開始からまもなくのことであり、また銃撃に関する記録は江戸時代成立の二次史料にのみにしか存在しない。

白峰旬はこの銃撃の逸話について

(1)『内府公軍記』・『当代記』・『三河物語』・『藤堂家覚書』・『関原始末記』・『武徳編年集成』等江戸時代前期成立の史料では銃撃の記事そのものが存在しない。

(2)寛文から正徳期の間に成立した諸史料では逸話の内容に差異がある。たとえば『井伊家慶長記』では家康の命ではなく藤堂高虎が自身の判断で銃撃したとするが、『黒田家譜』では家康の指示により福島正則隊が銃撃している。また『井伊家慶長記』・『黒田家譜』・『石田軍記』等では、銃撃を受けても小早川隊はすぐには裏切っていない。

(3)家康配下の部隊による銃撃の直後に小早川隊が裏切ったとするパターンは享保12年(1727年)成立の『落穂集』に登場しているが、これはそれ以前に存在していた銃撃の逸話を改変したものである。

とし、家康の神格化のため、天保期成立の『天元実記』・『徳川実紀』に『落穂集』の逸話が採用され後世に広まったとする。

藤本正行は当時の信用できる史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする。三池純正は地形上の疑問点として、轟音が響き渡り、黒煙が視界を塞いでいる中で、家康が打ちかけた鉄砲だけを、松尾山で峻別できたのか、家康が打った鉄砲だけを峻別するのは難しかったとし、家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川に西軍を攻めよとの合図のようにも受け取れるとしている。

秀秋裏切りの理由[編集][編集]

秀秋の裏切りの理由は、秀秋自身が真相を語ることなく合戦から2年後にこの世を去ってしまったため明確ではない。諸説のうちの一つとして、幼少の秀秋の親代わりを努めていた秀吉正室北政所が東軍支持であった一方、北政所と対立していた秀吉側室淀君が西軍支持であったため、最終的には東軍に寝返ったとするものがある。しかし、当時の北政所の動向は必ずしも東軍支持といえないものであり、また淀君との対立も確証のある説ではない。

また、石田三成への反感を原因とする説もある。慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、在番していた釜山から蔚山へ駆け付け戦闘に加わった秀秋の行動を、釜山を危険に晒す軽挙であるとして三成が秀吉に讒言。結果秀秋は罰として越前へ転封となるところであったが、家康のとりなしによって免れる。以降秀秋は三成を憎む一方で家康に心を寄せるようになり、それが寝返りに繋がったとする説である。この説は寛文12年(1672年)成立の「朝鮮物語」に載せられた逸話を典拠としているが、実際には秀秋の蔚山戦参加を裏付ける一次史料は確認されず、また越前転封も実行されている など逸話の内容は史実と大きく異なっている。

ともあれ、秀秋に対する東軍側からの勧誘は8月28日以前より行われていたことが判明しており、そのような工作の結果小早川家中では戦闘開始前から裏切りが決定していたとも考えられる。

毛利氏による妨害説[編集][編集]

光成準治によると、秀頼が出馬しなかった原因に毛利輝元の意向もあった、とされる。当時、毛利氏は東西南の隣国の東軍諸国に積極的に侵攻しており、秀頼の出馬によって、戦いが短期間に決着がついてしまうと、それ以上の領土拡大が見込めなくなるので、それを嫌った輝元や毛利氏は、三成らの戦いが長期化するのを望み、関ヶ原での攻勢や秀頼の出馬促進に消極的になった、とする。


大坂の陣[編集]

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大阪の陣
大阪夏の陣図屏風(黒田屏風)右隻(大阪城天守閣所蔵)
戦争:大阪の陣
年月日慶長19年(1614年11月 - 慶長20年(1615年5月
場所摂津国河内国和泉国
結果江戸幕府軍の勝利。豊臣氏の滅亡。
交戦勢力
江戸幕府 豊臣氏
指導者・指揮官
徳川家康徳川秀忠 豊臣秀頼淀殿
戦力
冬の陣:約200,000

夏の陣:約165,000

冬の陣:約90,000

夏の陣:約55,000

損害
不明 不明(40000人以上)
大坂の陣
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大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。大阪の陣とも表記する。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれている。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。


端緒[編集]

豊臣秀頼徳川家康 豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍の指揮を執り三成ら西軍を撃破する。家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)を東軍への恩賞という形で全国にあった220万の内ほぼ4分の3を削減してしまった。これにより、 豊臣家の所領は摂津河内和泉の約65万石程度まで削がれた。

慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城征夷大将軍に就任、江戸城を始め普請事業を行うなど、政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり、別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。

同年7月、家康の三男・徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。

慶長10年(1605年正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗奥羽大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍の指揮を執り上洛した。

同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承が豊臣家にではなく徳川家であることを天下に示したものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。

5月8日、秀頼が臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は六男の松平忠輝を大坂に遣わし、融和に努めている。

慶長16年(1611年3月後水尾天皇の即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。

慶長17年(1612年)、前年上洛していなかった東北関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。

二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、兵糧浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。

豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲大筒の製作を命じ、他にも石火矢鋳造イギリスオランダに対し大砲焔硝(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。

こうしたなかで生じた方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。

且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。

  • 秀頼を江戸に参勤させる
  • 淀殿を人質として江戸に置く
  • 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する

この案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。

且元は慶長18年(1613年)に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあり、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。秀頼による且元殺害の企ての報を10月1日に受けた家康は、これを根拠に同日諸大名に出兵を命じて大坂の陣が勃発した。


方広寺鐘銘事件[編集]

方広寺の鐘銘 慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺文英清韓に選定させている。

且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。

8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。それに加えて、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では「実名」を書くことが尊敬の念を示すものとして扱われていた。

  • 国家安康」について五山の僧の見解を、江戸中期の宝暦2年(1752年)に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)は次のように伝えている。
東福寺
御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄
(名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。)
国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨、(守藤)
(国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。)
天龍寺
御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰)
(家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。)
南禅寺
銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最)
(銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない。)
第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪)
(何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。)
相国寺
銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)
(銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。)
建仁寺
銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)
(銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。)
  • 林羅山の見解と清韓の弁明
右僕射源朝臣家康
右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)
(右僕射源朝臣は「源を射る」と読む意図と考えられる。)
右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)
(右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。)
国家安康
国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山)
(国家安康は、諱を侵している。無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。)
鐘ト申ス物ハ、奇特不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後ノ大幸也、(清韓)
(鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。)
君臣豊楽
君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事、(林羅山)
(君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。)
是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓)
(これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)

宮本義己は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。 この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても、当時のに関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま元和7年(1621年)に没している。

方広寺事件[編集]

この時代、国家の安泰を願う大名が多く

豊臣家も徳川家もこぞって神社や寺に寄進することが多かったが、

この方広寺の事件は歴史上もっとも有名な事件です。

この寺の創建は文禄15年だそうです。

まだ豊臣秀吉が生きていたころには、

この寺は存在していたことになります。

結果を言えばこの方広寺の梵鐘の名妙に

徳川家が異議を唱えて大阪の陣が起こりました。

こんにちでも、この『国家安康」の銘が

徳川家康公のことをおとしめようとしたものなのか

筆者自身にはわかりません。


家康の天下普請[編集]

家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に藤堂高虎の協力で築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城篠山城亀山城北ノ庄城名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城姫路城上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業として御手伝普請を課し、いわゆる天下普請を行った。この中で駿府城の普請は、普請に対する主従関係の希薄な五百石夫(知行高五百石につき人夫一人)という形で行われ、これは秀頼の所領に対しても賦課された。駿府城の改修により、家康は大御所政治を始動する。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。


秀頼の寺社造営[編集]

秀頼・淀殿は、秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮石清水八幡宮北野天満宮鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。

これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の(約28万)と約2万4千枚の(約24万両)が幕府に没収されている(『駿府記』)。


大坂冬の陣[編集]

冬の陣布陣図(慶長19年12月)拡大

豊臣方の準備[編集]

慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・の建築なども行った。秀頼の援軍要請に応じる大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、島津家久からは人質も取り黒田長政ら両名に対して重点的に馴致工作を行い、西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある。

集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐を考える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は異なるが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。

豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重ので囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。

同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。

幕府軍の出陣[編集][編集]

10月11日、家康は軍勢の指揮を執り駿府を出発した。

12日、豊臣方の真木島昭光の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。

23日、家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢の指揮を執り江戸を出発した。

25日、家康は藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。

11月1日摂関家の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である鷹司信尚のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られてしまう。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った禁中並公家諸法度の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている。

幕府方の動員した兵力は約20万に上った。なお豊臣恩顧の大名である福島正則や黒田長政、加藤嘉明旗本平野長泰は江戸城に留め置きとされた。彼らは関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣した。

諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家家老本多富正が軍の指揮を執り越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。

11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。

18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。

緒戦[編集]

11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後26日には鴫野・今福で(鴫野今福の戦い)、29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。

攻囲戦[編集]

豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10から5・6町まで接近していった。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している。

この接近時に起こった真田丸の戦い12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は4日に岡山に着陣し、家康が和議を考えていると知り家康に総攻撃を提案するが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下している。

5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し、8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕の事)の構築を命じている。 カルバリン砲と半カノン砲 9日、家康が11月23日より伊奈忠政福島忠勝毛利秀就角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了し、大和川があるため干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる。大和川の塞き止めも行われ、諸隊に命じて毎夜三度(の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)。この頃より大坂城総構への方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は松平忠明隊は20から30、藤堂隊は7間に近接している。

10日には降伏を促す矢文を送り、11日には甲斐佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁石垣を破壊する為の坑道の掘削を始めた。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている。更に、船場の堀の埋め立ても命じた。また、大坂方武将への調略も行われ、本多正純が、弟で前田家家老の本多政重真田信尹(徳川軍使番・真田信繁の叔父)と協力して、信繁を徳川軍に寝返らせるよう指示した文書が残されている。

15日、後述する和議交渉が暗礁に乗り上げると、翌16日から、全軍より一斉砲撃が始められる。方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に打ち込まれ、また、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理石衛門により鍛造で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理石衛門製の大砲は靖国神社遊就館に奉納されている。

6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比類)も含まれていると思われる。

豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)。 大砲も使い、塙直之蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげた(本町橋の夜襲戦)。

和議[編集][編集]

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徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、真の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と大野治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。 15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。

豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。

朝廷から後陽成上皇の命により、17日武家伝奏広橋兼勝三条西実条を使者として、家康に和議を勧告した。家康は朝廷の介入を許さず、これも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。

交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として

  • 本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。
  • 淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

が提出され、これに対し徳川家が

  • 秀頼の身の安全と本領の安堵。
  • 城中諸士についての不問。

を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある)。

堀の埋立[編集]

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和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。

城割(城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も破壊されている。

幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる。

大坂夏の陣[編集][編集]

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大坂城炎上 1663年絵図 大坂夏の陣絵図

和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年(1615年)3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4日、家康は九男・徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。冬の陣で江戸に留め置かれていた黒田長政と加藤嘉明は本人の出陣が許されたが、福島正則は引き続き江戸に留め置かれた。

家康が名古屋城に入った10日、秀忠は江戸を出発している。12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう家康に伝えてくれと依頼している。

21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。

5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。

豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人や、大野治房らが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大坂城を去るものが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8000に減少した。一方、大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む事が決定された。 なおこの頃、織田有楽斎は大坂城を退去している。

樫井の戦い[編集][編集]

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豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日筒井定慶の守る郡山城を落とし(郡山城 (大和国)#郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であったを焼き打ちする。(堺焼き討ち)

大野勢は、29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死した(樫井の戦い)。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行った。

道明寺・誉田合戦[編集][編集]

詳細は「道明寺の戦い」を参照

5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出したが、伊達政宗、松平忠明ら2万以上から攻撃を受け、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、兼相らが討死した。

さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。

八尾・若江合戦[編集][編集]

詳細は「八尾・若江の戦い」を参照

同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず、盛親隊が霧の中で藤堂高虎隊5,000と対峙した。この戦いで盛親は堤の上に将兵全員を下馬のうえ伏せさせ、敵が充分に近づいた頃合いを見計らって突撃するという戦法を取った。この勢いで藤堂隊は藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡した。藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され、撃退された。この時点で長宗我部隊は勝利していたが木村隊の敗走により幕府方の井伊直孝の援軍に挟撃されることを恐れ後退した。重成は高虎隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦の末に討死した。

藤堂勢および井伊勢はこの戦闘で大きな被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえなくなった。

5月6日の戦闘の結果は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。

天王寺・岡山合戦[編集][編集]

夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図(慶長20年5月7日)拡大 詳細は「天王寺・岡山の戦い」を参照

5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。

天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣した。

これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。岡山口には前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。

正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、いくつかの隊が壊滅し、家康・秀忠本陣は混乱に陥り、家康が切腹を一度覚悟するまでに至り、ついにはその場を逃げだすなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した勝永の指揮により、豊臣軍は大坂城本丸に総退却した。

終局[編集][編集]

本丸、掘り返した堀以外の堀を埋められて裸同然となっていた大坂城に、殺到する徳川方を防ぐ術はもはやなく、真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入した。遂には秀頼の下で大坂城台所頭を務めていた大角与左衛門が徳川方に寝返り、手下に命じて城の大台所に火を付けさせるという事態も発生し、全体に延焼した大坂城は灰燼に帰し、落城した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤に染まる大坂の空の様が見えたという。

なお、大坂城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り、城に火を放って逃亡を図るが適わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている。

7日申の刻(午後四時頃)に治長は家臣の米倉権右衛門を使者として遣わし、千姫を脱出させた上で自身以下が切腹する替わりに秀頼・淀殿の助命嘆願を行う。家康は秀忠に判断を任せたが、翌日8日に秀忠は秀頼らに切腹を命じて、秀頼らが籠もる山里丸にある焼け残りの蔵を包囲した井伊直孝勢が午の刻(午前十二時頃)に鉄砲を放つことでこれを伝えた。これにより秀頼ら三十二人は自害をし、後に蔵内から火が挙がった。

大坂夏の陣図屏風[編集]

現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた大作の屏風絵大坂夏の陣図屏風」通称、「黒田屏風」(重要文化財)の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。落城後の混乱の中でも豊臣勢の抵抗はしばらく続いた。

見しかよの物かたり[編集]

ある町人が残した記録「見しかよの物かたり」には

男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも
目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ
夫婦の中も離ればなれに
なりゆくことの哀れさ
その数を知らず

と、その悲惨さが語られている。

諸大名の対応[編集]

島津氏は秀頼からの書状に対し「豊臣家への奉公は一度済んだ」と返事したが、徳川方としての出陣は冬の陣・夏の陣とも結果的にかなわなかった(夏の陣では、鹿児島を発ち平戸に到着した時に大坂の役の情報を聞いて引き返している)。これは当時、薩摩藩島津忠恒が進めていた藩政改革がうまく行かず、家臣団の統制すらままならなかったからであるが、島津の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となった。この一件以後、島津氏は藩政改革を一気に推し進め、また幕府の行う事業や島原の乱への出兵など積極的にこなしていった。

戦後処理[編集][編集]

秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の天秀尼は僧籍に入ることで助命された。

長宗我部盛親はじめ残党の追尾は10年以上に亘って行われた(徳川幕府転覆を企てた由井正雪の片腕とされた丸橋忠弥は長宗我部盛澄といい盛親の側室の次男という)。盛親以外には、細川興秋は父・細川忠興から自刃を命じられ、増田長盛は盛次の罪を背負う形で配流先の岩槻で、また古田重然は豊臣に内通したという疑いから自刃させられた。明石全登の行方は定かではないが、その息子・明石小三郎は寛永10年(1633年)に薩摩で捕まっている。また、長崎代官の村山等安は豊臣家に肩入れしたことと、キリシタンを庇護したことで1619年に江戸で斬首となり、妻子も1622年の元和の大殉教で処刑された。

家康は畿内の寺社などに対して落人やその預物の探索を命じており、この背景には有力武将に止まらず、下々の武将までも捕縛し、豊臣方に与した者を許さないという強い意思を内外に知らしめようとしたといえる。

その一方で、仙台藩では、捕虜となった長宗我部盛親の姉妹の子である柴田朝意(父は長宗我部家臣の佐竹親直)が仙台藩の奉行になったり、信繁の子の真田守信が仙台藩重臣片倉重長に匿われて、後に仙台藩に仕官したりしており、実際の残党狩りは藩により温度差が生じている。

また、室町幕府の幕臣であった真木島昭光がかつての同僚である細川忠興らの嘆願で助命されたり、織田昌澄が旧主の藤堂高虎の嘆願で助命されるなど、特別な事情で処刑を免れた事例もあった。

さらに、秀頼に内通したとして、福島正則の弟で大和国宇陀松山藩主の福島高晴が改易となった。蝦夷松前藩では、松前由広が内通の疑いで父・松前慶広の命令で斬られた。織田有楽斎の嫡男とみられた織田頼長は、豊臣軍の武将として徳川軍と戦ったため、有楽は所領を相続させず、頼長の弟2人に分与した。毛利輝元の密命で豊臣軍に加わった内藤元盛は戦後、徳川軍に捕縛されたが、毛利家は無関係だと主張し、自刃した。輝元は、内藤元盛の子2人を斬り、孫を幽閉して、いったん内藤家は断絶となったが、元盛の曾孫の代になって毛利家の家臣として復活を許された。

大坂城の焼け跡からは、金・銀が幕府によって回収された(『駿府記』)。没収された金は二万八千六十枚、銀は二万四千枚に上ったとされる。また、豊国社は廃絶され、家康の指示で大仏の鎮守にするために方広寺大仏殿の裏手に遷された。

戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降、大坂は将軍家直轄となった。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。

一方、松平忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参したことが理由の一つとなり、翌年に改易となった。松平忠直は、大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであったことを不満としており、後に乱行の末、改易となった。

領地加増[編集][編集]

戦後に新しい領地が幕府より与えられた例としては、伊達秀宗伊達政宗の長男)に伊予国宇和島藩10万石、前田利孝(前田利家の5男)に上野国七日市藩1万石、織田信雄大和国宇陀松山藩5万石が与えられ、蜂須賀至鎮には淡路国8万石が加増され、井伊直孝藤堂高虎には、それぞれ5万石が加増され、水野勝成には三河国刈谷藩3万石から大和国郡山藩6万石へ加増転封となった。松倉重政には大和国五条藩1万石から肥前国日野江藩4万3千石へ加増転封、佐久間安政には近江高島藩2万石から信濃国飯山藩3万石へ加増転封となった。

元和偃武[編集]

この戦いを境に応仁の乱より断続的に続いていた大規模な戦闘が終焉した。これを元和偃武と言う。

詳細は「元和偃武」を参照

伝承[編集]

真田信繁[編集]

大坂夏の陣での真田信繁(幸村)の活躍はまず、屏風絵に見られる。最初に黒田長政によって作成された「大坂夏の陣図屏風」(黒田屏風)に始まり、後世、版画の錦絵に描かれるなど、徳川政権下でも後世へ語り継がれた。文献では特に、江戸中期頃に書かれた「真田三代記」は信繁のみならず真田一族の名を高めるのに貢献した。天王寺合戦は江戸時代後期に書かれた島津家の伝承を集めた「薩藩旧記」で「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議したという「大久保彦左衛門覚書」(三河物語)も残っている。

また、信繁以外にも毛利勝永、大野治房らも天王寺・岡山の戦いで活躍した(『日本戦史 大坂役』)。信繁は徳川軍の中を敵中突破した一方、勝永と治房らは自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させたと言われている(『日本戦史 大坂役』)。 さらに、真田隊が強行突破できたきっかけとなったのは、毛利隊の快進撃を何とか防ごうと、松平隊の背後にいた浅野隊が毛利隊に当たろうとし、その動きを松平隊が「浅野隊が寝返った」と思い、混乱したことでもあるとする説もある(『日本戦史 大坂役』)。

真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の創作である軍記、歌舞伎、錦絵や再現イラスト、歴史漫画では様々な様子が描かれている。また、家康の周囲にいた人間も小栗又一、大久保彦左衛門など本によって様々である。

信繁討死についても諸説があるが、一般的には「安居神社で石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安井神社は天王寺公園・茶臼山の北にある一心寺の北に所在する。これは明治時代に当時の大日本帝国陸軍参謀本部が制定したものとされ、安井神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に際しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。

信繁を討ち取った西尾宗次が属した越前松平家の文書が近年発見され、これによると、西尾は生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で休息していた信繁を討ち取ったといい、安居神社説は誤伝とみられる。

秀頼生存伝承[編集][編集]

鹿児島県には、「信繁は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼·重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という説がある。京都大坂では陣の直後頃に、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」という京童に歌われたという。

家康討死伝承[編集][編集]

堺市にある南宗寺には「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝を伝えている(『南宗寺史』)。当地にはかつて東照宮もあり、元和9年(1623年)の将軍宣下の折に2代秀忠(7月10日)、3代家光(8月18日)が相次ぎ参詣している。戦災で失われ、現在の「東照宮 徳川家康墓」と銘のある墓標は、かつての水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年(1967年)に再建したものだが、墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文も残る。

大坂城攻城法伝承[編集]

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出典検索?: "大坂の陣" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年12月)

大坂冬の陣で家康は一旦和睦し堀を埋め立てた後に再度、兵を挙げることで大坂城を落としているが、この方法は家康が存命中の秀吉に直接聞いたものという逸話がある。

参加武将[編集]

豊臣軍(豊臣家)[編集]

出自 氏名 備考
豊臣家譜代 豊臣秀頼
速水守久青木一重(夏の陣には不参加)、伊東長実堀田盛重中島氏種真野頼包野々村吉安杉善右衛門 七手組
大野治長大野治房大野治胤木村重成渡辺糺

竹田永翁木村宗明郡宗保津川近治山口弘定六角定治(佐々木定治)、 篠原重之細川頼範山名堯熙山名堯政京極備前守赤座直規生駒正純野々村豊前守毛利重能内藤長秋織田昌澄津田元信真木島昭光赤星親武薄田兼相黒川貞胤佐藤春信今木正祥武光忠棟吉田好是粟屋助太夫遊佐高教白井甚右衛門島津義弘 (播磨家)麻植成経麻植成政古田九郎八伏屋一盛岡村百々之介

浪人 明石全登後藤基次真田信繁長宗我部盛親毛利勝永 五人衆
明石景行真田信昌長宗我部康豊長宗我部盛恒毛利勝家

塙直之御宿政友大谷吉治新宮行朝堀内氏久北川宣勝木村清久山川賢信福島正守福島正鎮淡輪重政岡部則綱箸尾高春氏家行広細川興秋早川長政真田信倍増田盛次(冬の陣は幕府方)、伊木遠雄井上時利米田是季浅井長房浅井政高仙石秀範石川康勝佐藤方政樋口雅兼毛利秀秋赤松祐高服部正栄平塚左馬助青木久矩木下秀規仙石定盛喜多村政信玉置永直玉置小平太内藤元盛大庭土佐守吉田康俊十河存英稲木教量宮島兼与戸田為重高松久重三浦義世二宮長範岡田縫殿助小倉行春川崎和泉守湯浅正寿結城朝勝多田藤弥斎藤野半弥内藤忠豊南部信景平井保延平井保能名島忠純森宗意軒小笠原権之丞岡平内木曾義春(義成)、和久宗是明石内記明石宣行蘆田作内雨森三右衛門江原高次小川次郎兵衛金森掃部布施左京亮山中幸俊湯河太郎五郎湯橋吉信三田村又右衛門村上高国丹羽正安竹田兵庫高田吉春高田吉次木村又蔵高原五郎七山縣昌重

井上頼次飯田家貞小山隆重矢野正倫平子正貞蘆塚忠右衛門南条元忠(冬の陣で幕府方に内応、切腹) 冬の陣で死亡
公家・僧侶 持明院基久持明院基征富小路秀直田村輪蔵院正徳院山口智徳院コミチャ文英清韓 持明院基久は天王寺・岡山の戦いで戦死
町人 安井道頓伊藤祐道(織田信長旧臣)
内通者 朝比奈正成小幡景憲
その他 織田長益織田頼長 夏の陣直前に大坂城を退去

幕府方[編集][編集]

冬の陣[編集][編集]

各将の配置は史料により異同がある。

城包囲時の持ち口 氏名
森村・中浜 本多忠朝浅野長重真田信吉真田信政佐竹義宣上杉景勝丹羽長重堀尾忠晴戸田氏信牧野忠成
大和橋口 秋田実季本多康俊植村泰勝小出吉親
黒門口 松下重綱仙石忠政酒井家次水谷勝隆小出吉英
平野口 南部利直
真田丸正面 前田利常
八丁目口 井伊直孝松平忠直松倉重政榊原康勝桑山一直古田重治脇坂安元寺沢広高
谷町口 藤堂高虎
松屋町口 伊達政宗伊達秀宗
西南 毛利秀就徳永昌重福島忠勝
西 船場 浅野長晟蜂須賀至鎮池田忠雄石川忠総戸川達安山内忠義松平忠明稲葉典通鍋島勝茂森忠政
北西 中之島 山崎家治加藤貞泰一柳直盛
福島 九鬼守隆向井忠勝千賀信親小浜光隆
今橋口 有馬直純
浜筋 立花宗茂分部光信
天神橋 本多忠政有馬豊氏
天満橋 池田利隆中川久盛加藤明成
川崎口 松平康俊岡部長盛
京橋口 能勢頼次関一政竹中重門別所吉治市橋長勝
東北 京街道 長谷川守知本多康紀片桐且元片桐貞隆石川貞政宮城豊盛蒔田広定林武吉木下延俊花房正成花房正盛
不明 京極高知京極忠高生駒正俊松平信吉新庄直定松平康長相馬利胤稲葉紀通黒田忠之佐久間安政佐久間勝之本堂茂親
本営 岡山 徳川秀忠
茶臼山 徳川家康
その他 在国 津軽信枚脇坂安治
参陣できず 島津忠恒
江戸城留守居 福島正則黒田長政加藤嘉明蜂須賀家政平野長泰最上家親

夏の陣[編集][編集]

方面軍 氏名
河内方面軍 先鋒 藤堂高虎井伊直孝
右備 榊原康勝小笠原秀政仙石忠政諏訪忠恒保科正光藤田信吉丹羽長重
左備 酒井家次松平忠良松平信吉牧野忠成松平成重
二番手 右備 本多忠朝真田信吉浅野長重秋田実季松下重綱植村泰勝
左備 松平康長相馬利胤水谷勝隆六郷政乗稲垣重綱内藤忠興
三番手 右備 松平忠直
左備 前田利常
大和方面軍 先鋒 水野勝成堀直寄松倉重政奥田忠次桑山元晴桑山一直本多利長丹羽氏信神保相茂
二番手 本多忠政古田重治菅沼定芳分部光信稲葉紀通織田信重
三番手 松平忠明徳永昌重一柳直盛西尾嘉教遠山友政堀利重
四番手 伊達政宗
五番手 松平忠輝村上義明溝口宣勝
紀伊方面軍 浅野長晟
本営 一番手 右備 酒井忠世脇坂安元新庄直定
左備 土井利勝佐久間安政
二番手 本多正純立花宗茂
本陣 徳川家康徳川秀忠
後詰 徳川義直徳川頼宣
城北方面 京極高知石川忠総池田長幸池田利隆有馬豊氏堀尾忠晴
水軍 九鬼守隆向井忠勝小浜光隆
不明 黒田長政加藤嘉明細川忠興本多康俊本多康紀宮城豊盛佐久間勝之森忠政
内通者 古田織部
その他 京都警備 上杉景勝本堂茂親
在国 津軽信枚脇坂安治
参陣できず 蜂須賀至鎮山内忠義稲葉典通島津忠恒佐竹義宣福島忠勝
江戸城留守居 福島正則最上家親

その他[編集][編集]

日本国外の記録史料[編集][編集]

オランダ人商人(東インド会社駐在員)が陣前後の各地の様子を書き残した文書がオランダのハーグ国立文書館(オランダ語版)で見つかった。「家康に寝返る大名がいたが、寝返る前に秀頼によって突き落とされ死亡した」などの記述がある。

2018年4月に広島県立歴史博物館が、冬の陣、夏の陣の詳細な陣形を記録した最古級、最大級の陣図が見つかった、と発表した。冬の陣図は4枚組みで、中心の1枚(縦1.89メートル、横1.15メートル)に大坂城の本丸から茶臼山付近まで、他の3枚には城外で戦いに加わった大名などの配置が記録され、全体で2.5メートル四方の大きさ。夏の陣図は1枚(縦1.89メートル、横1.15メートル)で、冬の陣の中心図と対になる構成になっている。

大坂城で自害した32人(淀殿をいれて33人)は以下の通り。 淀殿大野治長大野治徳速水時之速水出来丸毛利勝永毛利長門高橋半三郎高橋十三郎埴原八蔵埴原三十郎中髙将藍中髙半三郎津川近治竹田永翁堀対馬守武田佐吉小室茂兵衛土佐庄五郎加藤弥平太片岡十右衛門森島長意伊藤武蔵守土肥勝五郎真田幸昌氏家行広寺尾勝右衛門阿古御局大蔵卿局宮内卿局右京大夫局玉局饗庭局






島原の乱[編集]

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島原の乱
一揆軍が籠城した原城址
戦争:島原の乱
年月日1637年12月11日 - 1638年4月12日
場所原城
結果:幕府軍の勝利
交戦勢力
幕府側 一揆軍
指導者・指揮官
松平信綱板倉重昌   天草四郎(益田時貞)  

有家監物入道休意  

戦力
125,800 37,000(幕府側記録)
損害
死傷者8,000人以上 全滅
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島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)、島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)とも呼ばれる。


概要[編集]

島原の乱は、寛永14年10月25日1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日1638年4月12日)終結とされている。従来、信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面も再評価する説が出ている。

鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。また、江戸幕府が経験する最後の本格的戦争となった。以後、大政奉還後の戊辰戦争に至る230年間、三桁の死者が発生するような紛争が記録されていないという、人口千万以上の国家としては、世界史にも類を見ない太平の時代が到来する。


勃発まで[編集]

島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタンカトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業漁業手工業商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルポルトガル船長の記録に残っている。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。

天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。

上述のように宗教弾圧以外の側面もあることからかは不明であるが、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままである。

乱の勃発[編集]

首を落とされた地蔵。蜂起した信者が切り落としたと伝わる。

天草四郎が使ったとされる旗印天草切支丹館所蔵)

島原の一揆[編集]

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。

この一揆は、島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、組織化された集落の領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった。反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。

島原藩の対応[編集]

島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する。

天草の一揆、島原と合流、原城篭城[編集]

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

篭城した一揆軍の竪穴建物群[編集]

原城の本丸西側からは立て籠もった一揆軍が使用したと推測される竪穴建物跡群が検出された。一辺が約2~3mを測る方形の竪穴建物跡である。竪穴建物跡群は規格性があり、同一集落を基本とした家族単位で使用したと考えられている。さらに冬場の籠城であるにもかかわらず、竪穴建物では、個別に炉やカマドといった暖房や煮炊きにかかわる遺物や遺構の痕跡が見つかっていない。それらのことから、籠城中に失火で火災を起こさないようにした大名軍勢並みの軍規の存在を物語るといえる。

ポルトガルの援軍期待説[編集]

一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタン(16世紀末の最盛期には日本の人口の10%を占めていた[要出典])を蜂起させて内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる。実際、一揆側は日本各地に使者を派遣しており、当初にはポルトガル商館がある長崎へ向けて侵行を試みていた。これに対応するため幕府は有力大名を領地に戻して治安を強化させていた。この時期にポルトガルが援軍を送ることは風の関係で実際には困難であった。乱後、天草四郎等の首は長崎・出島のポルトガル商館前にさらされた。

原城の籠城戦[編集][編集]

戦闘の推移[編集][編集]

海から見た原城の遺跡 原城包囲の図

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣した。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さく、大大名の多い九州の諸侯はこれに従わなかったため、軍としての統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。『常山紀談』には重昌が派遣される際、柳生宗矩が”小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5,000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗する”と考えて反対したという話がある。

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定した。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を行うが策もない強引な突撃であり、連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終わった。この報せに接した幕府は1月10日2月24日)、増援として水野勝成小笠原忠真に出陣を命じる。

新たに着陣した信綱率いる、九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲した。大目付中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けたオランダ商館長クーケバッケルは、船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行った。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また細川忠利ら諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。しかし信綱は、ポルトガルからの援軍を期待している一揆軍に心理的に大きな衝撃を与えることこそが狙いで、日本の恥との批判は的外れであると反論している。実際この砲撃による破壊効果は少なかったが一揆軍の士気を削ぐ効果はあったと考えられている。

このオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の援助について、当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(英語版)(1603〜1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、中世研究家の服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。

討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが、成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻を兵糧の足しにした。松平信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。

2月24日4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続を、水野勝成は総攻撃を主張するが、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わることもあり、信綱は総攻撃を行うことを決定した。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるが、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始した。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。『常山紀談』によると、このとき本丸への一番乗りを水野勝成嫡子の水野勝俊と有馬直純嫡子有馬康純が争ったという。

幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。 わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。

全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・栖本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(栖本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。また、島原及び天草地方の全ての住民が一揆に参加したわけではなく、幕府軍に加わったものも少なくなかった。

幕府軍[編集]

原城虎口遺構(長崎県南島原市) 原城瓦片(長崎県南島原市)

幕府討伐軍側は総勢13万近くの軍を動員。死傷者数は諸説あるが、『島原記』には死者1130・負傷者6960、『有馬一件』には死者2800・負傷者7700、『オランダ商館長日記』には士卒8万のうち死者5712と記されている。

籠城軍[編集]

詳細は「島原の乱における一揆勢の主要人物」を参照

総計 約37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢を除き27,000人とするなど異説あり)。

幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったと言われる。

ただし、幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにも関わらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった。一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例、正月晦日の水汲みの口実で投降した例などがあることが各種史料から確認されている。そして、幕府軍の総攻撃の前には、原城の断崖絶壁を海側に降りて脱出する一揆勢の目撃情報があったとされ[要出典]、また、幕府軍の総攻撃の際にも、一揆勢の中に脱出に成功した者や、殺されずに捕縛された者も決して少なくはなかったとする見方もある。幕府軍への投降者の数は、1万人以上と推測する説があるが、記録がなく実数は不明である。

処分[編集][編集]

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされたのは、この1件のみである。同様に天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。

また、軍紀を破って抜け駆けをした佐賀藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。当初の上使・板倉重昌の嫡子である板倉重矩は父の戦死という悲運に見舞われたが、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際に勝手に参戦し奮闘した。ただし軍令違反と父親の戦死の不手際を問われ、同年12月までの謹慎処分を受けている。

この一件で幕府はポルトガルと国交を断絶することとなるが、オランダとの貿易がポルトガルとの貿易を完全に代行できるか不明であったこともあり、国交断絶までにはなお1年半が必要であった。

島原の乱以後の天草[編集]

島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことと、天草の実情を無視した統治を行った事にある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。その後の是正には、島原の乱の鎮圧から30年以上の年月が必要となる。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となり、富岡藩が成立したが、3年で讃岐国丸亀藩に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成はの教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。 鈴木重辰が畿内に転出した後、三河国田原藩から移封された戸田忠昌を藩主に戴いて再び富岡藩が立藩された。忠昌は寺沢広高が構築した富岡城を破却し、残した三の丸に機能を移した陣屋造りとした。これは、領主の藩庁を石高相応に簡素化することによって、城の維持管理からくる領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、天草は温暖ではあるが離島が多く農業生産力が低いため私領には適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。その後も、天草は幕府の直接の統治下に置かれ、明治維新まで藩の設置ならびに他藩への編入が行われる事はなかった。一方で、島原藩は松倉氏の後に入った徳川氏譜代の家臣である高力・松平・戸田の3氏によって統治されることとなり、安永3年(1774年)に深溝松平家を藩主に頂いたあと、廃藩置県を迎えた。

天草の場合は、乱の平定後も下島の一部などにキリシタンが残存した。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコフカヒレなどの海産物の乾物(俵物)が同じく幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。[要出典]1806年(文化2年)に天草地方の4村に対してキリシタンの検挙がおこなわれ、5000人以上の存在が発覚したが、幕府側は踏み絵と誓約だけで赦免している(天草崩れ)。

脚注[編集][編集]

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注釈[編集][編集]

  1. ^ 非戦闘員含む。異説もある。
  2. ^ 諸説あり。
  3. ^ 山田右衛門作を除く。1万人以上が落城前に幕府軍に投降していたという説もある。
  4. ^ 副使の石谷は旗本であり、大名ですらない。
  5. ^ 将軍徳川家光の異母弟で幕府の大政参与だった保科正之の派遣も検討された。
  6. ^ 島原の乱の前年にも、当時オランダ商館の次席であったフランソワ・カロンは、長崎奉行榊原職直に対して、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案している
  7. ^ 元の副使・石谷貞清も、板倉重昌の嫡子重矩と共に突入している。
  8. ^ 旗本では江島生島事件の中心人物絵島の兄・白井平右衛門勝昌などの例がある

出典[編集][編集]

  1. ^ a b 煎本増夫、「島原・天草一揆」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。
  2. ^ オランダ商館長日記 p116-118、1637年12月17日。[信頼性要検証]
  3. ^ 神田 2005, p. 125.
  4. ^ 神田 2005, p. 14.
  5. ^ a b 神田 2005, p. 24.
  6. ^ 神田 2005, p. 18.
  7. ^ 神田 2005, pp. 18-22.
  8. ^ 神田 2005, pp. 125-126.
  9. ^ 神田 2005, pp. 134-136.
  10. ^ 神田 2005, pp. 145-148.
  11. ^ 神田 2005, p. 159.
  12. ^ a b 松本2004、284・286頁
  13. ^ 服部、P194
  14. ^ 服部、P184
  15. ^ 服部、P185
  16. ^ 服部、P196
  17. ^ 神田 2005, p. 131.
  18. ^ 神田 2005, pp. 162-164.
  19. ^ 常山紀談19巻、388条[信頼性要検証]
  20. ^ 神田 2005, pp. 167-169.
  21. ^ オランダ商館長日記 p146、1638年1月10日。[信頼性要検証]
  22. ^ オランダ商館長日記 p159-173、1638年2月26日-3月13日。[信頼性要検証]
  23. ^ 服部、P194。原史料は「綿考輯録」第五巻p409。
  24. ^ 服部、P195-P196
  25. ^ 神田 2005, pp. 184-187.
  26. ^ 神田 2005, p. 197.
  27. ^ 神田 2010, p. 199.
  28. ^ 天草四郎History 全てを知る唯一の生存者 山田右衛門(2010年7月22日時点のアーカイブ[信頼性要検証]
  29. ^ 神田 2010, p. 197.
  30. ^ a b c 神田 2010, p. 198.
  31. ^ a b 「天草崩れ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』(コトバンク)

参考文献[編集]

隠れキリシタン[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動マリア観音(主に中国製の慈母観音像を、聖母マリアに見立てて信仰の対象としていたもの)

隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代江戸幕府禁教令を布告してキリスト教を弾圧した後も、密かに信仰を続けたキリスト教徒キリシタン)信者である。以下の2つに分けられ、かつては両者を区別しなかったが、現代では前者を「潜伏キリシタン」と呼ぶことも多い。

  1. 強制改宗により仏教を信仰していると見せかけ、キリスト教(カトリック)を偽装棄教した信者。
  2. 1873年明治6年)に禁教令が解かれて潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信者。

潜伏する必要がなくなった現在でもその信仰を続けている信者は自身で「古キリシタン」「旧キリシタン」などと称するとされる。

目次[編集]

潜伏キリシタン[編集][編集]

キリスト磔刑木像 (茨木市立キリシタン遺物史料館) キリスト磔刑木像の筒 日本では、1549年宣教師フランシスコ・ザビエルが来日して以降、キリスト教の布教が行われて次第に改宗する者(キリシタン)が増えていった。しかし、豊臣秀吉による禁教令に続いて、江戸時代には徳川家康1614年禁教令を発布してキリスト教信仰を禁じた。さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。段階的に強化された鎖国により、宣教師の来日も密入国以外には不可能になった。

邪教#江戸時代」、「日本のキリスト教史#江戸時代」、および「鎖国#背景」も参照

当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ。

「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組織を作って密かに祈祷文(オラショ)を唱えて祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画やメダイロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けたりするなどして、信仰を守り続けた。これらの信仰の形式は地方によって異なる。

「潜伏キリシタン」は、当初は国内広く散在し、九州から北海道(当時は蝦夷地)に至るまで遺物が現存している。多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、長崎県をはじめ熊本県天草大分県臼杵などでは、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けた信仰が広く浸透していたことから、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。 大浦天主堂 幕末の開国後の1865年慶応元年)、長崎大浦天主堂を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになった。

詳細は「大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂」および「ベルナール・プティジャン#信徒発見」を参照

その後、浦上の他にも長崎県の外海五島などでも信仰を表明する者が多数現れた。しかし、キリスト教はいまだ禁教であったため、信仰を表明した信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧に遭った。

詳細は「浦上四番崩れ#流配」および「崩れ#江戸時代末期から明治時代初期」を参照

五島列島#五島のキリスト教史」も参照

大政奉還後も明治政府は江戸幕府からの政策を継承する形で高札により禁教令を継続し(五榜の掲示)、信徒への激しい弾圧は続いた。これはキリスト教圏の欧米諸国から非難・批判を招いた。明治政府は1873年(明治6年)2月24日、太政官布告により禁教の高札を廃止し。結果としてキリスト教が黙認されることで江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が事実上廃止された。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、再宣教のために来日したパリ外国宣教会などによって、一部を除く多くのキリシタンたちがキリスト教信仰を表明し、カトリック教会の信仰に復帰した。

詳細は「日本のキリスト教史#カトリック教会の復興とキリスト教解禁」および「禁教令#明治政府による禁教令と政教分離」を参照

浦上四番崩れ#帰郷」および「邪教#明治時代」も参照

現在では日本国憲法第19条および日本国憲法第20条により法的にも信教の自由が保証されているため、定義上、潜伏キリシタンは現存しない。

カクレキリシタン[編集][編集]

江戸時代に潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教神道、民俗信仰などとも結びついた。あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とする内容に変化していった。

このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、地域によっては半数以上のキリシタンは改宗に応じなかった。その後も独自の信仰様式を継承している人たちが、長崎県の一部地域に現在でも存在する。

かくれキリシタン[編集][編集]

これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「かくれキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している。少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つになっているとも考えられている。最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の平戸市平戸島生月島(旧北松浦郡生月町)、長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)や五島列島などの地域が挙げられ、世界文化遺産長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産も、これらの地域に集中している。

枯松神社と祈りの岩

長崎市外海地区、および隣接する旧三重村の樫山(現・長崎市樫山町)などは、江戸時代から多くの潜伏キリシタン組織が継承されてきた地域で、その後カトリックに復帰した者も多かったが、いまも旧外海町の黒崎出津にはかくれキリシタンの組織が残っている。このうち黒崎には、潜伏キリシタンおよびかくれキリシタンの神社(枯松神社)があり、「サン・ジワンさま」を祀っている。黒崎の潜伏キリシタンは、明治になってカトリックに復帰した者、かくれキリシタンを匿った天福寺(長崎市樫山町、仏教曹洞宗)の檀家に留まった者、かくれキリシタンとして先祖の信仰を維持した者とに分かれ、三者の間で互いにわだかまりが残っていた。1998年(平成10年)にこの地のカトリック黒崎教会に主任司祭として赴任した野下千年神父はこれを憂慮し、三者が心を寄せ合う場として枯松神社で共に集い、信仰を守り抜いた先祖を慰霊する祭を実施するよう呼びかけ、2000年に三者の協力による「枯松神社祭」が行われ、現在も毎年行われている[要検証ノート]

小田平集落#歴史」も参照

五島列島奈留島五島市奈留町)の火葬場の裏には現在も聖母マリアの姿をしたがいくつも置かれている[要出典]。五島列島ではかくれキリシタンの組織は大半が既に解散してしまい、信仰の道具の一部が福江島堂崎天主堂キリシタン資料館に収蔵されているが、いまも福江島や奈留島、および中通島(旧南松浦郡若松町)にわずかに組織が残っていて信仰が受け継がれている。

平戸島では、かくれキリシタンの集落単位の信仰組織は全て解散・消滅してしまったが、地元の殉教者・殉教地はいまも大切に崇められていて、カトリック教会と合同で慰霊祭が継続して行われている地区もある。また、代々信仰の対象となってきた聖画・聖具などの一部が平戸市切支丹資料館に収蔵されているほか、いまも各家庭で聖画等を保管して個人的に信仰を受け継ぐ信者もいる

そして生月島では、現在最も多くかくれキリシタンの組織が残っており、独自の信仰行事がいまも伝承されている。平戸市生月町博物館「島の館」には、生月島のかくれキリシタンが信仰の対象としてきた「納戸神」の一部が展示されているほか、かくれキリシタンの人たちによるオラショがCDに収録されて出版もされている。

カトリックに戻らないかくれキリシタンが存在する理由[編集][編集]

禁教令が解かれた以降もカトリックに戻らないかくれキリシタンが存在する理由については、様々な要因が考えられている。主なものとしては、

  1. 先祖からの伝統形態を守り続けることが正しいとする考え方。
  2. 仏教、神道を隠れ蓑として来たが、長い年月のうちに精神と生活に定着し、カトリックへ復活することによって神仏像や先祖の位牌を捨てることへの抵抗感。
  3. 先祖から受け継いだ習慣を放棄することへの抵抗感。

などが挙げられている。カモフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなってキリスト教の信仰理解が失われてしまい、かくれキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を、本来のキリスト教の意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それが先祖に対する子孫としての務めと考えられている。また、明治初期のカトリック教会による宣教の際には、前述の浦上四番崩れなど直前にあった激しい迫害や差別を恐れたり、当時のカトリックの教義が厳格であったりしたため容易に戻って行けなかったことなども、理由として考えられている。

そして現代においては、カトリックとかくれキリシタンの間での認識の違いも生じていて、カトリック教会・信者の側はかくれキリシタンもカトリックと同じ信仰だとみなしているが、かくれキリシタンの人たちは「カトリックとは違う」と意識している例が見られる。あるいは、現代日本において仏教や神道でも見られるように、強い信仰心が失われて単なる伝統として宗教を受け継いでいるに過ぎず、かくれキリシタンもまたその例外ではなく、それゆえにあえてカトリックに復帰する必要性を感じないというケースも見られる。ただ、前述の外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とかくれキリシタンの信仰を堅持した者が混在している例は多い。

教義の変容[編集][編集]

一部の隠れキリシタンの神話では、アダムとイヴ禁断の果実を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、というものがある。旧約聖書の神とは明らかに異質なものとなり、西方キリスト教(ラテン教会)の中核ともいうべき原罪の観念が消滅している。

海外からの視点[編集][編集]

バチカンの対応[編集][編集]

フランシスコ教皇2014年1月15日の一般謁見演説で、「日本のキリスト教共同体は17世紀の初めに聖職者は追放され一人の司祭も残らず、共同体は非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。約250年後に宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」と公式コメントを声明、これをうけバチカンローマ教皇庁は隠れキリシタンを「古いキリスト教徒であり、キリスト教徒とみなさない理由はない」とし、信教の自由文化的自由を認め、キリスト教の裾野の広さ、寛容さや多様性を示そうとした。

高祖敏明(聖心女子大学学長)が『潜伏キリシタン図譜』を日英対訳で刊行した際、フランシスコ教皇は「慰めとインスピレーションを得ることが出来る」との言葉を寄せたという。

英語表記[編集][編集]

隠れキリシタン(潜伏キリシタン・かくれキリシタンいずれも)の一般的な英訳は「Hidden Christians」になる。これは明治期の来日宣教師が本国やバチカンへ送った書簡に見られるもので、長崎の教会群とキリスト教関連遺産として世界遺産を目指す活動の中でユネスコ世界遺産センターへ提出した推薦書や関係史跡での英語解説にも用いられている。「hide」には「隠れる・潜伏する」「秘めた」「人知れず」といった意味があり、自らの意思による積極性と、追い詰められやむなくの消極的な意味合い双方に解釈でき、微妙なニュアンスが伝わりにくいともされる。

その他[編集][編集]

(大宝寺、長野県塩尻市)

  • 長野県木曽谷を通る旧中山道沿いの各所には隠れキリシタン信仰の名残が散在している。塩尻市奈良井の大宝寺には子育て地蔵として隠し奉っていたのだが、首を落とされてしまったというマリア像があり、木曽町日義には折畳みマリア像、大桑村の妙覚寺には千手観音に姿を借りたマリア観音像、天長院には子育地蔵と呼ばれているマリア地蔵がある。
  • 岩手県一関市の大籠地区は、隠れキリシタンの里である。1640年寛永17年)には約3万人の信者がいた。現在は、大籠キリシタン殉教公園として整備され、資料館などの施設が建てられている。また、周辺にはいくつかの処刑場の跡が残されている。
  • 福島県郡山市如宝寺には、江戸時代の隠れキリシタンの墓が残っており、市指定重要有形文化財に指定されている。
  • 兵庫県加西市の大日寺で、1972年(昭和47年)に背面に十字を刻んだ石仏(背面十字架地蔵)が発見される。また加西市は羅漢寺の北条石仏(五百羅漢)など多数の石仏で知られるが、うち150体ばかりについて隠れキリシタンとの関連を指摘する意見がある。
  • 大分県竹田市竹田には、隠れキリシタンが礼拝を行うために溶結凝灰岩を刳り貫いて造った、全国でも例を見ない「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)と、それに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の南蛮人宣教師を匿った「キリシタン神父の住居趾」がある。これらはいずれも藩の家老であった古田家の私邸敷地内であった(現在は私邸敷地内ではない)。また、キリシタンの遺物と言われる1612年に製造された「サンチャゴの鐘」が、歴代の岡藩主を祀る中川神社に奉納されている。
  • 島根県津和野町には、明治時代初期に長崎から連行されてきた隠れキリシタンの殉教地跡に建てられた「乙女峠マリア聖堂」があり、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ乙女峠祭が行われている。
  • 愛知県名古屋市には処刑されたキリシタンを弔うために建立された栄国寺があり、境内にはマリア観音など関連資料を展示する「切支丹遺跡博物館」が置かれている。
  • 福岡県三井郡大刀洗町には国の重要文化財の今村天主堂がある。この教会堂が建つ旧筑後国今村地区は大友宗麟の支配下にあり豊後からキリシタンが移住。1867年(慶応3年)に隠れキリシタンが発見された。
  • 熊本県天草市には民間キリシタン資料館のサンタマリア館がある。
  • 宮崎県延岡市松山町にはキリシタン塚と呼ばれる場所があり、現在は墓地となっている[要出典]

隠れキリシタンを題材とした作品[編集][編集]

音楽[編集][編集]

小説[編集][編集]

漫画[編集][編集]

映画[編集][編集]

脚注[編集][編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集][編集]

  1. ^ たとえば外海五島ではマリア観音が特に重要な信仰対象となっていた例が多いが、生月島ではマリア観音は見られず、聖画を掛け軸に仕立てて納戸に秘蔵していた例が多い。
  2. ^ しかし、明治初期にはカトリックの宣教を全く受け入れなかったわけではなく、長崎県のかくれキリシタンは多くの地域でカトリックの宣教師と接触していたと思われ、カトリックに復帰せず、かくれキリシタンに留まった地区・組織でも、明治期に宣教師からもたらされた十字架やロザリオなどをいまも信仰の対象として大切に保管している例が、生月島や五島列島などで見られる。
  3. ^ 語源はポルトガル語の“São João”(サン・ジョアン=聖ヨハネ)と思われ、長崎で布教した司祭を指すとも、洗礼者ヨハネを指すともいう。
  4. ^ 長崎ウエスレヤン大学講師の加藤久雄は「当時(明治初期の禁教令廃止の頃)のカトリックの教義が厳格であったこと、そして信仰するにあたって様々な負担もあって、なかなかカトリックには入って行けなかった。しかし、1960年代の第2バチカン公会議以降、日本語ミサや地域への順応など教義が寛容になった。もし、明治初頭の禁教令廃止の際に今のような寛容な教義だったら、潜伏キリシタンは皆カトリックになっていたと思います。」と述べている。
  5. ^ 五島列島でも、カトリックとかくれキリシタンが混在している集落が複数ある他、現在かくれキリシタンが最も多い生月島でも、少数ながらカトリック信者が共存している[要ページ番号]
  6. ^ 英語版Wikipediaには「Kakure Kirishitan」とローマ字読み表記の項目がある。
  7. ^ 各宣教師の母国語やバチカン宛のラテン語によるものの英語対訳。

出典[編集][編集]

  1. ^ a b c 高祖敏明:潜伏キリシタン 多彩な姿◇失われゆく全国の遺物・習俗を調査、ありのままの生き方を検証◇『日本経済新聞』朝刊2021年5月17日(文化面)2021年5月19日閲覧
  2. ^ 片岡 1967, p. 13.
  3. ^ 宮崎 2003, pp. 132-134.
  4. ^ 明治6年(1873)2月 キリスト教禁止の高札が撤廃される 簿冊番号:太00223 国立公文書館(2021年5月19日閲覧)
  5. ^ “島の館”. 平戸市生月町博物館 島の館. 2013年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月15日閲覧。
  6. ^ 米村 1980, p. 28.
  7. ^ 宮崎 2003, pp. 140, 210.
  8. ^ a b 宮崎 2003, pp. 44-48.
  9. ^
  10. ^ リンデンの長崎ケルン 第10回枯松神社祭(「沈黙」の原点)
  11. ^
  12. ^
  13. ^ “島の館”. 平戸市生月町博物館 島の館. 2012年1月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月15日閲覧。
  14. ^ “平戸市切支丹資料館|かくれキリシタンの里・根獅子ヶ浜”. 平戸市切支丹資料館. 2019年3月15日閲覧。
  15. ^ 宮崎 2003, p. 283.
  16. ^
  17. ^
  18. ^ 宮崎 2003, p. 不明.
  19. ^ 河合隼雄 「隠れキリシタン神話の変容過程」『物語と人間の科学』岩波書店、1993年
  20. ^ “教皇フランシスコの2014年1月15日の一般謁見演説”. カトリック中央協議会. 2016年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月15日閲覧。
  21. ^ 内閣官房内閣広報室 (2019年(令和元年)11月25日). “ローマ教皇フランシスコ台下との会談等”. 首相官邸. 2021年2月2日閲覧。
  22. ^朝日新聞』2014年3月26日※記事名不明
  23. ^ “市指定文化財 大日寺石仏群 観光 兵庫県加西市”. 加西市. 2019年3月15日閲覧。
  24. ^ “五百羅漢(ごひゃくらかん)石仏”. かさい観光Navi. 加西市観光まちづくり協会. 2019年3月15日閲覧。
  25. ^

参考文献[編集][編集]

主な執筆者の50音順

関連項目[編集][編集]

関連資料[編集][編集]

発行年順

キリシタン全般
建築
  • 板倉元幸(写真・文)『昭和末期の長崎天主堂巡礼』Art Box インターナショナル、2014年。「奈留島」ほか。
音楽
  • 『隠れ切支丹』日本フォノグラム、1973年、NCID BA83421644。
  • 長崎フィルハルモニア合唱団、中世音楽合唱団(演奏)『洋楽事始』Toshiba Records、Toshiba-EMI(発売)19--年、NCID BB24436919。LP盤
    • 録音CDに改版、長崎フィルハルモニア合唱団、中世音楽合唱団(演奏)『洋楽事始』Yamano Music、1998年、NCID BA39796207。
      • CD 1. サカラメンタ提要 : 長崎版、1605年(慶長10年) = Cantus Gregorianus e "Manuale ad Sacramenta" : Nangasaquij, 1605
      • CD 2. 隠れキリシタンのオラショ : 長崎県生月島 = Oratio Christianorum occultorum in insula Ikitsuki
  • 隠れキリシタンの歌オラショ : 長崎県生月島 = Oratio Christianorum occultorum in insula Ikitsuki
    • Cantus Gregorianus : "Laudate Dominum" -- "Nunc dimittis" -- "O Gloriosa"
  • 横田庄一郎『キリシタンと西洋音楽』朔北社、2000年、ISBN 978-4-931284-60-9
  • 『Oratio of the Crypto-Christians in Ikitsuki isle』Fontec、2000年、NCID BA52313884。録音資料。
  • 皆川達夫『洋楽渡来考 -キリシタン音楽の栄光と挫折-』日本キリスト教団出版局、2004年、ISBN 978-4-8184-0531-8
    • 皆川達夫『洋楽渡来考 : CD&DVD版』、日本伝統文化振興財団(発売)、2006年、NCID BA77629403。録音資料、解説書付き、CD、DVD。
  • 『Oratio, the prayers in Ikitsuki Island』Seven Seas、King Record〈The world roots music library:145 East Asia ; Japan〉、2008年、NCID BA90090660。録音資料。
  • 「《だだんやす(聖母マリアの連祷)》 : かくれキリシタンのオラショ」『Tokyo Cantat(トウキョウカンタート)15年, そのあゆみと音の世界』、Nippon Acoustic Records、2010年、NCID BB03534046。録音資料。別題『Fifteen years of the Tokyo Cantat a quest for sonority of our spirit』。
  • 『長崎・生月島のオラショ』King Record〈世界宗教音楽ライブラリー:15〉、2015年、NCID BA55333560。録音資料。
  • 皆川達夫『キリシタン音楽入門 -洋楽渡来考への手引き-』日本キリスト教団出版局、2017年、ISBN 978-4-8184-0970-5

江戸時代の古代史研究[編集]

概略

徳川家が260年もの間、安定した幕府運営が図られ庶民の間でも安定した生活を送れるようになりました。

表現の自由が今、現在ほど保障されたものではなかったので、大変だったといわれています。

そんな中でも、古代の日本の事を研究していた学者はいました。

徳川光圀公を始め、先人たちの残した史料が現在の研究にやくにたっていることはいうまでもありません。

徳川幕府初期の古代史研究[編集]

徳川光圀公の大日本史[編集]

徳川光圀公といえば「水戸黄門漫遊記」で有名ですが・・・・

史実の光圀公は日本の歴史書の編纂にとても力を入れた方でした。

その研究成果は光圀公が没した明治時代に完成しました。

光圀公が「大日本史」を編纂するきっかけになった話は

筆者自身とても印象に残るお話でした。

若い光圀公はとても手の付けられない非行に走っていたといいますが

筆者は「まさか」と最初は思いますが…・

光圀公の父「徳川頼房公」と光圀公の母久子姫の間で

光圀公が生まれた時、頼房公は堕胎をすすめたそうです。

この時の命令はとても謎で、光圀公もよくわからないとはなしていたようです。

光圀公が転機のきっかけになったといわれるのが

中国の書物の「史記」をよんでからだといわれています。

史記とは?[編集]

史記』(しき)は、中国前漢武帝の時代に、司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。

二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価(史漢)を得ており、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。

日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。

江戸時代[編集]

元和2年(1616年)10月、徳川家康駿府の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により江戸城内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる。

また、徳川光圀が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『大日本史』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。

なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、南宋時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。1195年1201年建安で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。妙心寺の僧侶である南化が所有していたが、直江兼続に譲り、その後米沢藩藩校興譲館」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は国宝となり国立歴史民俗博物館で保管されている。


伯夷・叔斉[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動 伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。

一説には二人の墨胎、伯夷の公信、叔斉の諱は・字は公達で、はそれぞれのであるとされる。なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。



評価[編集]

死後、儒教の聖人として扱われる。孔子は『論語』において、伯夷・叔斉は事を憎んで人を憎まない人であるから怨みを抱いて死んだのではない、と評価している。

しかし、司馬遷は『史記』において采薇の歌を挙げ、彼らは怨みを抱いて死んだのではないかとして、正しい人が不幸な目にあうことを疑問に思い、伯夷列伝を『史記』列伝の筆頭に置いて『史記』を貫く大テーマのひとつともいえる「天道是か非か」を問いかける題材にあげている。後花園天皇長禄・寛正の飢饉の際に、臨死の際の詩の「首陽山」を引用し足利義政を諌める漢詩を読んだ。徳川光圀は18歳のころに読んだ伯夷列伝に感銘を受け、自分と兄(松平頼重)の関係に重ね合わせ、それまでの蛮行を改め、学問を目指すきっかけとなり、『大日本史』編纂、さらには水戸学の端緒となった。

孟子は、伯夷について次のように語っている。「伯夷は其の君に非ざれば事えず、其の友に非ざれば友とせず、悪人の朝に立たず、悪人と言わず」。 最後にこのことを「伯夷は隘(こころせま)し」と評している

参考[編集]

徳川光圀(ウィキペディア)

史記


伯夷・叔斉

江戸時代後期の諸藩の記録編纂[編集]

徳川実紀[編集]

御実紀』(ごじっき)、通称『徳川実紀』(とくがわじっき)は、19世紀前半に編纂された江戸幕府公式史書。全517巻。編集の中心人物は林述斎成島司直であり、起稿から35年近い事業の末、天保14年12月(1844年1月から2月)に正本が完成。国史大系に収録されている。徳川実という表記は誤りである。

編纂の経緯[編集]

寛政11年(1799年)に大学頭林述斎が公式史書の編纂を建議、享和元年(1801年から1802年)に正式に決定した。総括は述斎だが、編集主任として実務にあたったのは奥儒者成島司直(なるしま もとなお、柳北の祖父)であり、はじめ御実紀調所(編集所)も司直の邸宅に置かれた。司直配下の編集者は御徒(下級武士)から石原多助、岸本寛蔵、桜井庄五郎、荻野八百吉らが参加し、後に黒沢新八郎、中村伝之助、小川留三郎、小林鉄之助らが増員された。司直の子である筑山は副本作成に関わり、孫である柳北は訂正に参加している。

文化6年(1809年)2月起稿。天保12年7月14日(1841年8月30日)、発起人・監修者である述斎が死去した。さらに正本完成の直前である天保14年(1843年)10月24日、主幹の司直が突然御役御免隠居謹慎を命じられ、子の筑山も連座して解任されるというトラブルに見舞われる。解任の理由は不明だが、司直がその才気から将軍家慶の寵愛を受け学者なのにたびたび政治に口を出すために恨まれたからだという説、同時期の老中首座水野忠邦失脚と関連があるという説がある。司直罷免により、御実紀調所は昌平坂学問所に移る。天保14年12月(1844年1月から2月)に正本が完成し12代徳川家慶に献上、嘉永2年(1849年)11月に副本が完成(副本完成の功績で筑山は賞賜され、名誉回復)、安政4年(1857年)4月に日光東照宮奉納献上本の浄書完成、12月(1858年)に献納。


原典の構成[編集][編集]

巻頭に成書例を置き、編纂方針と凡例を記している。各代の記録と附録の巻数は以下の通りである。なお「東照宮御実紀」の巻数が少ないのは、より詳細な史料集である『朝野旧聞裒藁』が同時期に編纂されているためである。

徳川実紀[編集][編集]

  • 成書例・総目録           -1巻
  • 東照宮御実紀  徳川家康の記録-10巻/(附録25巻)天文19年-弘治元年欠
  • 台徳院殿御実紀 徳川秀忠の記録-60巻/(附録5巻)
  • 大猷院殿御実紀 徳川家光の記録-80巻/(附録6巻)
  • 厳有院殿御実紀 徳川家綱の記録-60巻/(附録2巻)
  • 常憲院殿御実紀 徳川綱吉の記録-59巻/(附録3巻)
  • 文昭院殿御実紀 徳川家宣の記録-15巻/(附録2巻)
  • 有章院殿御実紀 徳川家継の記録-15巻/(附録1巻)
  • 有徳院殿御実紀 徳川吉宗の記録-62巻/(附録20巻)
  • 惇信院殿御実紀 徳川家重の記録-31巻/(附録1巻)
  • 浚明院殿御実紀 徳川家治の記録-55巻/(附録3巻)
    • 正本献上本は本編467冊、附録68冊、成書例・総目録・引用書2冊で計517冊(稿本は全291冊、日光東照宮奉納献上本は全516冊)。

続徳川実紀[編集]

  • 文恭院殿御実紀 徳川家斉の記録-72巻/(附録5巻)68-70巻欠
  • 慎徳院殿御実紀 徳川家慶の記録-17巻/附録なし
  • 温恭院殿御実紀 徳川家定の記録-6巻/附録なし
  • 昭徳院殿御実紀 徳川家茂の記録-8巻/(次記3巻)
  • 慶喜公御実紀  徳川慶喜の記録-3巻/附録なし
    • 以上114巻

黒船来航[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子(場所不明)

黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から明治維新における大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。

ペリーの目的

黒船が日本にやってきた目的が長年の研究でもわからなかったのですが、

当時はアメリカでは、捕鯨が盛んにおこなわれていて

中継基地と呼べるものもない、補給もできない。

そんな状況の

中で日本に目をつけたともいわれる

産業革命が行われたイギリスやフランスの動向もきになっていた

そこで、アメリカは日本に貿易をしないかと持ち掛けてきたのです。

当然幕府も困りはてていたのです。

幕府の中には、開国して海外の情報を吸収しようとかんがえていたひともいたのですが

古来からの日本の伝統を守る目的で強硬に反対する人も多かったのです。

そんな中で吉田松陰という思想家が

黒船に密航しようとして幕府に捕縛され

後に処刑される事件がおきました。

水戸斉昭公の尊皇攘夷論[編集]

水戸藩は、徳川光圀公以来天皇を尊重して徳川家が施政を施す主張をほどこしてきました。

それは、「大日本史」によくあらわれていました。

当時は、諸外国の船が日本近海に現れ、当時の人々はとても不安でした。

徳川家光公以来に日本は、完全ではないにしろ鎖国をしていたので尊皇(天皇をたすけ)

海上防衛の必要性に迫られていました。

水戸斉昭公は、強硬に諸外国に武力によって対抗すべしと主張していることになっていますが、

外国の優れた文化を吸収することにも興味をしめしていました。

吉田松陰は、この主張に影響をうけたとされ

のちの徳川政権打倒に大きな功績をのこします。


尊皇攘夷という文言の元々は中国の文献から斉昭公が創作したといわれているそうです。

ただ、当時の幕府の兵器の性能はかなり古典的な武装であったため

攘夷実行しても歯が立ちませんでした。

それは、のちの薩英戦争や長州があらそって下関を占領されたことでもよくわかることでした。

尊皇攘夷は次第に影を潜め変わって開国幕府討幕運動に発展します。

井伊直弼の安政の大獄[編集]

井伊直弼は徳川創成期からの譜代大名の井伊家から出た人物です

あの当時の日本の勢力では欧米に勝てないと判断し

強引に日米和親条約を締結します。

これに対して当時の日本国内で根強い反発が起こり治安が悪化しました。

これに井伊直弼が怒りを覚え

当時の知識人を処刑しました。


安政の大獄(あんせいのたいごく)とは安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行なった弾圧。 当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。

幕府の大老井伊直弼老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊王攘夷一橋派大名公卿志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。形式上は13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発した。ただし、家定の台命として行なわれたのは家定死去の直前である7月5日、尾張藩主・徳川慶勝福井藩主・松平慶永水戸藩徳川斉昭慶篤父子と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間に限られる。

日本の開国[編集]

18世紀の出島 日本は江戸時代に200年以上に渡って鎖国を続けており、対外的な窓は長崎出島に限られ、日本人の海外渡航や大船建造の禁止など統制が行われていた。この間の幕府の対外情報源は、出島において貿易を許可されていたや、オランダオランダ商館オランダ風説書薩摩藩経由での琉球王国からの情報が主であった。他に朝鮮通信使からも情報を得る機会はあったが、朝鮮もまた日本と同様に、海外との付き合いを制限していたため、ヨーロッパなどの情報は得られなかった。ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティのように、密かに入国してくる者もいなかったわけではないが、これは稀有な事例であった。

18世紀後半になると、異国船の目撃例が増える。幕府は、寛政3年(1791年)には異国船に対する通達を出した。翌寛政4年(1792年)にはアダム・ラクスマン蝦夷地に来航するが、鎖国が始まってから外国政府が日本に正式な通商を求めてきたのは、これが最初であった。弘化元年(1844年)には、オランダのヴィレム2世が開国を勧める親書を幕府に送り、また、弘化3年(1846年)にはアメリカ東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが通商を求めてきた。何れの場合も、江戸幕府はこれを拒絶している。

他方、文化8年(1811年)のゴローニン事件、文化5年(1808年)のフェートン号事件のような摩擦・紛争をきっかけに異国船打払令が出され、逆に非武装商船に対する発砲事件(モリソン号事件)への反省から薪水給与令が出されるなど、幕府の対外政策は揺れ動いていた。

嘉永2年(1849年)、難破捕鯨船員と密航者ラナルド・マクドナルドの返還を求めてジェームス・グリンが来航し、長崎奉行の仲介で解決する。幕府はこれらアメリカ人をオランダ船で送り返す予定であったが(前年もそうしていた)、アメリカ人が日本人に虐待されていると情報が誤って伝わったために、グリンは強硬な姿勢で交渉に臨んだ。この強硬策の成功が後のペリーの砲艦外交による開国要求の一因となった。 黒船来航 続いてアメリカは東インド艦隊司令長官に任命されたマシュー・ペリーを派遣する。ペリーは共和党フィルモア大統領から米海軍の作戦行動として日本との条約締結を命じられるが、アメリカでは交戦権が上院に属するため、発砲は禁止されていた。ペリーは蒸気船を配備した東インド艦隊を率いて、嘉永6年6月3日(1853年7月8日浦賀沖に来航し、6月9日(7月14日)に開国を求めるアメリカ合衆国大統領国書を提出した後、日本を離れた。幕府では老中阿部正弘らを中心に、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めた。[要出典]先例を破って朝廷に事態を報告、対策を協議した。翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーは国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航した。3月3日(3月31日)、アメリカ合衆国日米和親条約が結ばれ、下田箱館を開港し、8月にはイギリス日英和親条約が、12月にはロシア帝国日露和親条約がそれぞれ締結される。

並行して、幕府は嘉永6年9月には大船建造の禁を緩和、10月には海外渡航が解禁される。嘉永7年9月にはオランダ商館に蒸気船2隻を発注した。その内の一隻である咸臨丸は、安政7年1月(1860年2月)に木村芥舟勝海舟らを乗せて横浜を出航、太平洋を渡った(米国軍艦で渡米した万延元年遣米使節の護衛が名目であった)。

安政3年(1856年)7月、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが修好通商条約締結のため来日し、57年10月には江戸城へ登城。老中堀田正睦はこれを京都の朝廷に上奏したが勅許を得られず、13代将軍徳川家定将軍継嗣問題とも関係して南紀派、一橋派の抗争となる。安政5年(1858年)に大老に就任した井伊直弼は、日米修好通商条約を締結、紀州藩主徳川慶福を14代将軍にした(安政の大獄桜田門外の変参照)。同様の条約がイギリス、フランスオランダ、ロシアとも結ばれた(安政五カ国条約)。

安政6年(1859年)には箱館、横浜長崎(下田を閉鎖)が開港され、本格的な貿易が開始された。貿易相手国は主にイギリスであった。日本からは生糸などが輸出され、毛織物綿織物艦船武器などが輸入された。なお、続いて新潟神戸、の開港、江戸大坂などの開市も予定されていたが、攘夷運動の高まりにより、これらは大幅に延期された(両都両港開市開港延期問題文久遣欧使節)。

安政五カ国条約は「領事裁判権」、関税自主権の放棄(協定関税率制)、片務的最恵国待遇など、日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった(但し、条約調印時にその不利が十分認識されていたわけではない)。金銀交換比率の内外差による金の流出(幕末の通貨問題)、外国商人が日本商品(特に絹)を高く購入したことにより生じた物価上昇などが、尊王攘夷運動の激化や一揆打ちこわし等を招いた。幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、60年に五品江戸廻送令を発して貿易の統制を図ろうとするが失敗する。 神戸居留地 海岸通 1885年頃

条約港となった横浜神戸長崎などでは外国人居留地も設置された(但し、同時に外国人の国内旅行は制限されていた)。明治政府外交政策にとって、この是正は重要な課題のひとつとなるが、逆に一部の国粋主義者からは居留地の存在が外国の思想宗教から日本の伝統・文化を守る防壁としての役割を果たしているという見地からの存続論も登場して複雑な論争を招くことになった(内地雑居の開始は1899年)。

江戸幕府を倒した薩摩藩長州藩を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。むしろ領事裁判権が問題になったのは明治になってからである(幕末には攘夷思想を持つ武士などによって、外国人が被害者になるケースが多かった)。領事裁判権は1899年に撤廃された。また国内産業の発達に伴って、国内商品と外国商品との競合が始まると、国内産業保護の観点からも関税自主権の獲得は重要課題となったが、その獲得は1911年のことであった。

日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を維持することとなる。

大政奉還[編集]

筆者は大政奉還をもって、江戸時代の終了とします。

江戸時代において、徳川将軍家がとても権威あるもので、

朝廷との関係を考えるにつけ新政府が江戸を東京と改名した時点で明治時代のはじまりとします。

所説あるかもしれませんがここでひとくぎりとします。


大政奉還(たいせいほうかん)とは、慶応3年10月14日1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜政権返上を明治天皇奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したこと。

概要[編集]

江戸時代、徳川将軍家は日本の実質的統治者として君臨していたが、「天皇が国家統治を将軍に委任している」とする大政委任論も広く受容されていた。

幕末になると、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における朝廷と幕府との不一致により、幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになった。

文久3年(1863年)3月・翌元治元年(1864年)4月に、それぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。

幕末の朝幕交渉において再確認された「大政」を天皇に返上したのが、慶応3年(1867年)10月の慶喜による大政奉還だが大政奉還・時点では慶喜は征夷大将軍職を辞職していない。慶喜は将軍職・辞職願を10月24日に提出したが、引き続き諸藩への軍事指揮権を有する将軍職・辞職願が勅許され、幕府が廃止されるのは12月9日の王政復古の大号令においてである。

大政奉還の目的は、内戦せずに幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにあった。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派によるクーデターが起こったのである。

転じて、天皇への政権返上の比喩的用法として、大企業の経営者人事で非創業者一族から創業者一族へ経営権が還る時にマスコミ等により用いられる。

明治維新[編集]

この時期は、江戸時代は、終わったとはいえ

形式は江戸時代と変わりはありませんでした。

明治時代も中頃から明治憲法が制定され

国家も富国強兵がさけばれました。


明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration)とは、明治時代初期の日本において薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動および、それに伴う一連の近代化改革を指す。その範囲は、中央官制法制宮廷身分制地方行政金融流通産業経済文化教育外交宗教思想政策の改革・近代化などを含む。


概要[編集]

改革の時期[編集]

開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、西南戦争終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権)を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。

西南戦争[編集]

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年明治10年)に現在の熊本県宮崎県大分県鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後内戦となっている。

背景[編集]

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
  • 信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2018年1月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年1月)

近因(私学校と士族反乱)[編集]

明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島縣令大山綱良の協力の元で県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。

一方、近代化を進める中央政府1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例発布した。この2つは帯刀俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こった。日当山温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられたことに対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。

他方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その一つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。私学校徒達はこれを不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。

赤龍丸と弾薬掠奪事件[編集]

1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われたことが記録されている。

陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。

後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、オランダ商社を通じて、イギリス製のパトロン(薬莢)製造機械を輸入し、1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。 現存するボクサーパトロン10発入りパッケージ(左)と同弾薬の断面 火薬弾丸雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければ銃として機能しない。

薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因の一つだった。

また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていたこともあり、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出したことに怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。

スナイドル弾薬の製造設備を失ったことは、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、すでに旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなったことを意味しており、後装式と前装式の連射速度の違いがもたらす決定的な戦力差を戊辰戦争に従軍した西郷はじめ多くの薩摩士族達は、実体験を通じて良く理解していた。[要出典]

2月2日、政府側は赤龍丸に弾薬400箱を積んで鹿児島から撤退させたが、私学校側の弾薬接収にはほぼ無抵抗であり、この際に私学校青年により約84000発の弾薬と多数の小銃が接収された。また私学校側ではこれ以外にも弾薬の備蓄を行っており、西南戦争を通じて薩摩軍が使用できた弾薬は約300万発ともいわれる。後述の柳原前光が勅使として鹿児島入りした際、鹿児島でスナイドル銃の弾薬約30万発や、弾薬の原料が多く残っているのを発見し、「薩摩側は1年は戦える備えがあった」と述べている。

西郷隆盛暗殺計画[編集][編集]

1月30日、私学校幹部の篠原国幹河野主一郎高城七之丞ら七名は会合し、谷口登太に中原ら警視庁帰藩組の内偵を依頼し、同日暮、谷口報告により中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としていることを聞いた。

篠原・淵辺群平池上四郎・河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、小根占で狩猟をしていた西郷隆盛の元に彼の四弟の西郷小兵衛を派遣した。また、弾薬掠奪事件を聞き、吉田村から鹿児島へ帰ってきた桐野利秋は篠原国幹らと談合し、2月2日に辺見十郎太ら3名を小根占へ派遣した。

西郷小兵衛と辺見から弾薬掠奪事件の顛末を聞いた西郷は「ちょしもたー」(しまった)との言葉を発し、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰った。帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数に上っていた。

2月3日、私学校党は中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問が行われた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられ、多くの私学校徒は激昂して暴発状態となった。

西郷軍の結成と出発[編集][編集]

明治政府が大綱に掲げた「新政厚徳」(「しんせいこうとく」厚き徳をもって新しい政をなす)をスローガンに用いた薩軍 挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」 フランス新聞雑誌ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。

フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像である。

2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。翌5日、私学校幹部および分校長ら200余名が集合して大評議が行われ、今後の方針が話し合われた。

別府晋介と辺見は問罪の師を起こす(武装蜂起)べしと主張したが、永山弥一郎は西郷・桐野・篠原の三将が上京して政府を詰問すべしと主張した。この永山策には山野田一輔・河野主一郎が同調した。しかし、池上は暗殺を企む政府が上京途中に危難を加える虞れがあると主張して反対した。そこで村田三介は三将に寡兵が随従する策を、野村忍介は野村自身が寡兵を率いて海路で小浜に出て、そこから陸路で京都に行き、行幸で京都にいる天皇に直接上奏する策を主張した。

こうして諸策百出して紛糾したが、座長格(西郷を除く)の篠原が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前豊後を経て四国・大阪に出てそこから東上、一は熊本佐賀福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された。

2月8日に部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義海軍中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。一方、鹿児島では2月9日に鹿児島県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保利通も関与していたと考えられるに至った。

西郷軍では篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長と呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊長が務めた)。

いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた独立大隊は2大隊合計約1,600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。

2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による一番〜五番大隊の閲兵式が行われた。別府晋介が率いる独立大隊はこれに参加せず、先鋒として加治木より熊本へ向けて進発している。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍は鹿児島から熊本方面へ進発した(西南の役開始)。17日には西郷も桐野と共に発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な輜重への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。一方、鹿児島から帰京した川村中将から西郷軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を決定した。


征討軍派遣[編集][編集]

西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)

ウィキソースに熾仁親王ヲ鹿兒島縣逆徒征討總督ニ任スルノ勅語の原文があります。

大山綱良は山口県兵庫県などの他県に西郷軍の宣伝文を届ける専使を長倉訒に命じる。長倉は2月10日に鹿児島を出たが、同年2月14日に福岡県久留米で逮捕される。

薩軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことが分かる。

熊本鎮台でも西郷たちが鹿児島を発した2月14日の夜、指揮官たちを招集しての作戦会議が行われ、全軍による熊本城籠城が決定される。会議に参加した小倉の歩兵第14連隊長(心得)乃木希典少佐にも部隊を率いて熊本城に入城する様指示が出され、乃木は17日夜に小倉に帰還、準備を開始している

明治政府は有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。

また、薩摩・長州の均衡をとって西郷の縁戚である川村を加えて薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。山縣有朋もかつて西郷の元で御親兵・陸軍省創設のために働いており、鹿児島私学校徒を激昂させた鹿児島スナイドル弾薬製造設備の搬出では薩摩閥の大山巌に協力するなど、薩摩閥内部の西郷vs大久保の争いに長州閥が便乗する構図となっていた。

当初、第1旅団(野津鎮雄少将)・第2旅団(三好重臣少将)・別働第1旅団(高島鞆之助大佐)・別働第2旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼大警視が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと誤認されたりした(実際に元新撰組隊士も所属していた)。

台湾出兵時に西郷従道が装備したガトリング砲も九州へ送られるなど、徴兵で構成された政府軍は精強な薩摩士族相手に戦うために、相当な意気込みを見せたが、一番肝心な歩兵銃の弾薬調達でトラブルが発生していた。

開戦原因の一つとなった鹿児島属廠のスナイドル弾薬製造設備は、2月13日に大阪砲兵工廠に設置されたが、鹿児島から搬出した際に部品の不備や破損が生じていたため、稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。また各鎮台から九州への本格的な動員が開始されると膨大な量の弾薬が必要となり、6,000発/日程度の生産数では焼け石に水の効果しかないことが明らかだったため、更なる増産が図られて弾丸用の鉛溶解炉や雷管製造所を併設した新工場が建設された。

スナイドル銃が陸海軍に制式採用されてから以降、その弾薬供給が鹿児島属廠に独占されていたため、重要拠点である東京・大阪の鎮台兵には、後装式ながら紙製薬莢を使うツンナール銃(ドライゼ銃)を装備した兵が多かったが、ツンナール銃とスナイドル銃は全く違う弾薬を使用していた。

補給の混乱を防ぐために、陸軍省は九州へ派遣される兵の装備をいったんスナイドル銃に統一させてから送り出していたが、動員規模が拡がるにつれて早くも3月にはスナイドル弾薬500万発の備蓄を使い果たして弾薬が欠乏した。この時期、九州では依然として激戦が続いており、更に1,800万発の調達が必要と見積もられていたこともあって、大量の弾薬在庫が残されていたツンナール銃を九州に送る案が検討され、実際に和歌山(旧紀州藩)の臨時召集部隊は藩兵時代から使い慣れたツンナール銃装備のまま九州へ派遣されたほか、大阪鎮台の医歩兵など後方部隊もツンナール銃を装備して派遣されていた。

この他にも、後に村田銃の開発で有名になった村田経芳が、旧幕府から引き継がれたシャスポー銃を、スナイドル銃とは別の金属薬莢を用いる弾薬用に改造しようと計画するなど、さらに補給を混乱させかねない事態が進行していた。

スナイドル弾薬の調達を担当した陸軍省の西郷従道と原田一道は、大量の弾薬を調達すべく、海軍省から弾薬製造設備を借り受けたり、外国商人から空薬莢500万個の購入を計画したり、あるいは清国から弾薬を借り受けたりと、前線で戦う兵士達の火力を支える弾薬調達に東奔西走した。 薩軍に投降を促す官軍のビラ「官軍に降参する者はころさず(殺さず)」

経過[編集]

熊本城強襲と植木・木葉の戦い[編集][編集]

2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中櫓に延焼し、天守までも焼失した。この火災の原因は今もって不明である。天守閣には籠城1か月分に相当する兵糧や薪炭が備蓄されていたが、何とか運び出せた弾薬以外は悉く灰になってしまった。更に火は城下にも飛び火し城の東側、東南側の城下町を焼き尽くした。またこの日小川にまで到達していた先鋒の独立大隊に熊本士族で学校党首領の池辺吉十郎が訪れ別府と面会し協力を申し出るが、熊本城攻略の方策を尋ねた際の別府の「鎮台兵がもしわが行路を遮ぎろうとしたら一蹴するのみ。別に方略などない」という発言を聞き、薩摩人の剽悍にのみ恃む気風を危惧していた自身の予想が当り内心失望を覚えている。

2月20日、先鋒の独立大隊は川尻に到着。同日深更、鎮台参謀長の樺山資紀中佐の発案で派遣された偵察隊が独立大隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。この際捕虜とした伍長の証言で熊本鎮台側が籠城の構えである事を知った薩軍は、川尻に到着した幹部が集まり21日夜軍議を開いた。

軍議では池上が主張する当初の「熊本に抑えを置き、主力東上」策と篠原らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用された。2月21日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し熊本城を包囲した。桐野の第四大隊・池上の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、および永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当、また薩軍に同調して合流した熊本士族で学校党首領の池辺吉十郎率いる熊本隊の隊士が薩軍各隊の教導役として参加している。

一方、鎮台側は熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。この時の戦力比は薩軍約14,000人に対して、鎮台軍約4,000人であった。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。

熊本城攻撃[編集][編集]

22日夜明け前、薩軍の熊本城攻撃は池上隊への鎮台側の砲撃から始まった。池上隊2000名は千葉城の堡塁や京町口の埋門を攻撃したが鎮台側の激しい砲撃で堡塁の一塁も抜けず、県庁付近に肉薄した桐野隊800名も撃退されてしまう。城の西端藤崎台の西の段山は城内へ突入する際の有力な橋頭保となりえた為、薩軍は篠原、村田、別府の各隊計3000名が殺到したが、鎮台側も精鋭の歩兵第13連隊第三大隊(大隊長:小川又次大尉)など強固な防御態勢を敷いて応戦。この日最大の激戦となった段山の戦いは10時ごろに薩軍が多大な犠牲を出しながら占領に成功する。薩軍は段山の山頂から猛射を浴びせ鎮台側に多くの損害がでてしまい、11時頃には同地で指揮をしていた歩兵第13連隊長の与倉知実中佐が狙撃され、翌23日に死亡している。それでも鎮台側は薩軍の猛攻に耐え、こうして熊本城攻撃の初日は薩軍は鎮台側の予想外の奮闘で城郭の一角にも取り付くことが出来ないまま攻撃を終えた。

植木の遭遇戦[編集][編集]

14日の会議で熊本籠城が決まり、これに合流することを命じられた乃木希典少佐は17日に帰着後、先発して2個中隊(第一大隊の第三第四中隊)を熊本に先行させる。中隊は19日には熊本城に到着し籠城戦に参加することになる。乃木は準備のできた第三大隊を率いて19日に2方向から南進を開始し、22日に高瀬に到着した。そこで熊本の方向に遠く白煙があがるのが見た乃木は60名ほどの兵を率いて先行し植木に向かった。

午後になって歩兵第14連隊の進出を聞いた薩軍は、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊を植木に派遣した。午後6時ごろ、山鹿方面から来た第四中隊と合流した乃木は植木の西南に進出して薩軍を待ち構えた。午後7時、先行してきた村田隊が乃木率いる200名と交戦し撃退される。しかし後続の伊東隊が加わると薩軍の兵力は乃木らの倍近くとなり形勢が逆転。更に一部が乃木らの後方に回り込もうとしたことで退路が断たれる恐れが出たので、乃木は後方の千本桜まで後退する事を決断する。しかし夜間の撤退戦は混乱を生み、この間伊東隊の岩切正九郎が歩兵第14連隊の軍旗を分捕る事態が起こっている。

こうして勝利を収めた薩軍だが、村田隊・伊東隊双方とも疲弊しており、乃木らを追撃することなく引き上げてしまう。

長囲戦への転換・木葉の戦い[編集][編集]

22日夜半、本荘に移された本営で作戦会議が開かれた。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍介が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する。

23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は2手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。

植木、木葉で立て続けに勝利した薩軍では一気に第14連隊を追撃して進出すべきとの意見も出たが結局は植木まで兵を引いてしまう。更に熊本城強行策を捨てきれない篠原や別府らの隊は、23日も引き続き熊本城攻撃を続行。砲隊も加わり翌24日も攻撃を続行するが戦果ははかばかしくなく、結局包囲を池上隊3000名で実施しつつ、桐野隊が山鹿方面、篠原隊が田原方面、村田隊別府隊が木留方面に進出し、南下してくる政府軍主力を待ち構える事となり、小倉への電撃作戦は失敗した。

薩軍主力北部進出と高瀬の戦い[編集][編集]

熊本城攻撃が始まった2月22日、神戸を発した第1旅団、第2旅団合わせて5600名は博多に上陸し、順次南下を開始する。24日、久留米で木葉の敗戦報告を聞いた野津鎮雄三好重臣両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。歩兵第14連隊は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。

一方の薩軍は24日より増援部隊が次々と熊本より進発し、3方向から北上をしていた。

  • 山鹿 - 野村忍介(5個小隊)
  • 植木 - 越山休蔵(3個小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
  • 伊倉 - 岩切喜次郎児玉強之助ら(3個小隊)、佐々友房ら(熊本隊3個小隊)

25日未明、歩兵第14連隊は高瀬進出を企図して山鹿街道へ1個中隊を派遣し、本隊の3個中隊は高瀬道を進撃した。払暁には高瀬に無事に入った第14連隊はそのまま菊池川の堤防沿いに部隊を展開させ薩軍を待ち構えた。

第1第2旅団は25日には南関に入って本営を設けた。第1旅団の野津少将はただちに貴下の歩兵第1連隊長谷川好道中佐指揮の4個中隊を高瀬へ増援に送る。その頃、征討軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊も長谷川隊などの増援を得た第14連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。

高瀬の戦い[編集][編集]

2月26日、越山の3個小隊は征討軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3個小隊および岩切・児玉らの3個小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。これに対し征討軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断に基づき、三好少将指揮の第2旅団を基幹に次のように部署を定めた。

  • 第一陣
    • 前駆 - 乃木希典少佐(4個中隊)
    • 中軍 - 迫田大尉(2個中隊)
    • 後軍 - 大迫大尉・知識大尉(2個中隊)
  • 第二陣
    • 予備隊 - 長谷川中佐(4個中隊)
    • 山鹿方面守備隊 - 津下少佐(3個中隊)
  • 応援(総予備隊) - (2個中隊、1個大隊右半隊)

26日午前5時、前衛の乃木隊は石貫を発ち、菊池川を渡河して薩軍右翼の越山隊を強襲する。これに後衛の知識大尉指揮の1個中隊も加わった事で正午には越山隊は植木方面に敗走する。乃木の第14連隊はこれを猛追し木葉を経て田原坂上まで進出、乃木は第2旅団長の三好に田原坂の確保を具申するが、三好はこれを認めず後退を指示。この判断が、後々征討軍に苦戦を強いることになる。

この頃、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬および高瀬に進撃しつつある征討軍を挟撃する計画でいた。

  • 右翼隊(山鹿方面) - 桐野利秋(3個小隊約600名)
  • 中央隊(植木・木葉方面) - 篠原国幹・別府晋介(6個小隊約1,200名)
  • 左翼隊(吉次・伊倉方面) - 村田新八(5個小隊約1,000名)

薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。中央隊は田原坂を越え、木葉で征討軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉大浜を経て岩崎原に進出した。第2旅団は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦が行われた。

午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。

薩軍左翼隊は菊池川下流より攻勢を強め、中央隊に属する西郷小兵衛の隊らと共同して邀撃してきた歩兵第8連隊と交戦し、これを退却させた。こうして劣勢ながら全体では優勢に進めてきた薩軍だが、午後2時頃になって中央隊が弾薬の欠乏を受け、左右の隊に断りもなく突然撤退を開始してしまう。援軍を得た征討軍中央諸隊はこの機を逃さず反撃に出た。西郷小兵衛・浅江直之進・相良吉之助三小隊も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが征討軍の増援に押され、西郷小兵衛は繁根木の堤防の上で胸に被弾し戦死する。左翼隊は苦戦に陥り午後4時ごろ伊倉に退却、戦場に取り残された右翼隊は3方から攻撃を受ける羽目になり、更に南下してきた野津鎮雄少将の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、桐野の率いる右翼隊も敵わず、江田方面に退いた。征討軍側も疲労で追撃する余裕は無かった。

高瀬の戦いは薩軍中最高の野戦指揮官(桐野、篠原)が揃い踏みし、野戦で攻勢に出た唯一の戦いであった。しかし無断撤退をした篠原や、山鹿に10小隊を残置して3小隊のみ率いて戦った桐野など、その作戦指揮に問題がなかったとは言えなかった。桐野にもう1000名の兵力があれば稲荷山の奪還も不可能ではなかったという意見もある。ともかく薩軍は乾坤一擲の決戦に敗れ、これ以後は守勢に回ることになる。

田原坂・吉次峠の激闘[編集][編集]

田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画、明治10年3月)。

田原坂の戦い。左が官軍(警視抜刀隊)、右が西郷軍(「鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画、明治10年4月)

3月1日から3月31日まで田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。

高瀬の戦いで敗れた桐野は3月3日、党薩隊の協同隊、飫肥隊などの増援を加えた総勢約3000名で南関攻撃に向かった。薩軍は官軍の激しい抵抗を受け、協同隊隊長の平川惟一など多くの犠牲を出したが征討軍本営までわずか10km程まで進撃し、警視隊(後に別働第3旅団)参謀長の福原和勝大佐を負傷(後日死亡)させているが、翌4日未明に「薩軍田原で大敗」の誤報を受け撤退してしまう。

征討軍は日増しに戦力を増強させていた。2月25日には山県有朋参軍が、三浦梧楼少将率いる第3旅団と共に博多に到着。征討軍総督の有栖川宮熾仁親王も川村純義参軍と共に翌26日に到着している。だが、征討軍が攻勢準備のため兵力集中を図るために時間をかけた事は、薩軍にも兵力配備と守備陣地の構築に時間を稼ぐ事を可能とした。薩軍は田原を重点的に防御を固めるとともに北は味取山から野出までの各拠点に薩軍30小隊、熊本隊8小隊、佐土原隊、高鍋隊など最終的に総勢7000名を配備して待ち構えた。

田原坂の戦い[編集][編集]

田原は高瀬から植木に至る途上の小丘陵で標高は高くても100mほどでしかなく、地勢的にさして天険というほどではないのだが、その坂は屋根伝いにくねった切通しの坂道で防御に適した地形だった。そして博多から熊本をつなぐ道で大砲を引いて通れるだけの道幅があるのはこの田原坂の道だけだった。

3月4日、征討軍は田原方面を主攻、吉次方面を助攻とする全面攻勢を開始する。田原方面は近衛歩兵第1連隊第一大隊(大隊長:山口素臣少佐)基幹の本隊が平原・大平を、歩兵第14連隊の1部からなる右翼隊が田原坂を攻めたが強固な薩軍の陣地に突破は失敗し、野津少将自ら樽木まで出向いて督戦するも、遊軍が二俣台地(田原丘陵と谷を隔てて向かい合っていた)を占領したに留まった。

同じ頃、征討軍と薩軍は吉次峠でも交戦を開始した。第2旅団参謀長の野津道貫大佐が自ら率いる支隊が払暁からの濃霧を利用して吉次峠北隣の半高山を占領しようとした。これを見た篠原、村田の両隊長は反撃に出て、両軍は激戦となった。この際近衛第1連隊第二大隊長の江田国道少佐は外套に銀装の太刀を帯びて指揮する篠原を視認し部下に狙撃させる。被弾した篠原は戦死するが、激怒した薩軍の猛攻で江田少佐は戦死し、野津支隊は原倉まで後退した。

木葉まで進出した征討軍本営は、3月7日に田原、吉次の同時突破を断念し、田原からの突破に1本化することに決める。4日に占領した二俣台地を攻撃正面とし、以後幾度となる激闘が行われるが、征討軍は田原坂を抜くことが出来なかった。

横平山の奪取と抜刀隊の投入[編集][編集]

官軍は田原坂防衛線突破のため、3月9日横平山の攻略にとりかかった。ここは半高山から張り出す支脈の一つで、ここを抑えれば二俣台地の右翼を防衛し、かつ薩軍の長大な防衛線の中央に突出して攻略の足掛かりにある場所であった。しかし攻撃は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、征討軍は薩軍の抜刀白兵戦への早急な対処を迫られることになった。

薩軍の抜刀攻撃に対抗するため、征討軍は3月13日、植木口警視隊(編成は下記)の中から剣術に秀でた警察官を選抜して抜刀隊を編成した。3月14日、征討軍は田原坂攻撃を開始し抜刀隊も投入される。抜刀隊はたちまち3つの堡塁を奪うが後続が続かなかったので薩軍の反撃を受け後退した。しかし、抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かった。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて軍歌『抜刀隊』が作られた。

征討軍は3月15日、横平山攻撃に抜刀隊50名を加え猛攻をかける。彼らは薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日初めて征討軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。16日は、戦線整理のために休戦した。17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることはできなかった。この間、3月4日からの征討軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名に上った。

田原坂突破す[編集][編集]

征討軍本営では3月18日、野津鎮雄少将(第1旅団長)、三好重臣少将(第2旅団長)、野津道貫大佐(第2旅団参謀長)、高瀬征討本営の大山巌少将などによって作戦会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするために行われた。これまでの戦いの中で、征討軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。

20日早朝、征討軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊(19個中隊)は豪雨と霧に紛れながら、二俣から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二俣の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は征討軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなった。また七本には昨夜ついたばかりの高鍋隊が守っており状況把握が出来ないまま征討軍の猛攻を受け敗走した。これに貴島、佐土原、熊本の諸隊も連鎖反応を起こして潰走、植木方面に敗走した。こうして征討軍は激闘17日、田原坂を抜くことに成功した。

田原陥落を受け、山鹿の薩軍も隈府まで後退する。征討軍はは田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、吉次峠の薩軍は踏みとどまり(4月1日に陥落)、途中で薩軍の攻撃にもあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築き上げた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。

3月1日に始まった田原をめぐる戦いは、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも現地では当時の銃弾が田畑や斜面からしばしば発見されている。征討軍の弾薬の損耗は1日平均32万発、多いときは60万発にも及び、戦場に大量に銃弾が飛び交ったことで行合弾(銃弾同士が空中で衝突する現象)も多数発見されている。

薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。征討軍も3月20日の田原での戦死者だけで495名、4日からの田原方面での戦死者総数は2401名に上った。薩軍の戦死者数は不明ながら参加した30小隊(党薩隊除く)の小隊長のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。


植木・木留の戦い[編集]

3月23日に征討軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入した。24日にも征討軍は再び木留を攻撃し、25日には植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移した。30日、征討軍主力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日には半高山、吉次峠を占領した。2日、征討軍は木留をも占領し、薩軍は辺田野に後退し、辺田野・木留の集落は炎上した。5日には征討軍本営にて軍議が開かれた。8日、辺田野方面は激戦となり、征討軍は荻迫の柿木台場を占領した。12日に薩軍は最後の反撃をしたが、15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方面へ退いた。これを追って征討軍は大進撃を開始した。


鳥巣方面[編集]

鳥巣では、3月10日に薩軍がこの地の守備を始めてから4月15日に撤退するまでの間、征討軍との間に熾烈な争いが繰り広げられた。まず3月30日の明け方に近衛の2隊が二手に分かれて隈府に攻め入ってきた。始めは人数不足で不利な状況だった薩軍であったが、そのうち伊東隊による応援もあり、どうにか征討軍を敗退させることができた。

4月5日、第3旅団は鳥巣に攻撃をしかけ、薩軍の平野隊と神宮司隊が守備している真ん中に攻め入った。虚を衝かれた両隊はたちまち敗走した。これを聞いた薩軍の野村忍介は植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦するが、結局、この日一日では決着はつかず、7日に征討軍がこの地にいったん見切りをつけ、古閑を先に攻略しようとしたことにより、一時的に休戦状態になった。一方古閑では、平野隊・重久隊の必死の抗戦により征討軍はやむなく撤退してしまった。

薩軍は勇戦し、4月9日、再び隈府に攻め入った征討軍を撃退したが、弾丸・武器の不足によりこれ以上の戦闘を不可能と考え、赤星坂へ撤退した。10日から13日にかけて征討軍による鳥巣の再攻略が始まり、薩軍もこれに対して勇ましく応戦したが、いよいよ武器が尽きてしまった上に、鳥巣撤退命令が下されたため、この地をあとに大津に向かった。

衝背軍の日奈久上陸と熊本城解放[編集][編集]

薩軍の主力が北部戦線に移った後も熊本城の長囲は続けられていたが、城中の兵糧が尽きるのを待って陥落させるという長囲策を採る薩軍が砲戦を主としたので、守城側はそれに苦しんだ。薩軍主力が北方に転戦したため鎮台の守城負担は幾分減ったとはいえ、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることでしのいでいた。池上率いる長囲軍は当初、21個小隊・1個砲隊、計4,700名近くもいたが、長囲策が採られると16個小隊・2個砲隊に減少し、3月になって高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣してさらに減少した。そのために長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。一方、鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。

長囲軍が減少した薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて水攻めを行うべく、3月26日石塘堰止を実行し、坪井川井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は一大湖水に変じた。この策によって薩軍は城の東北および西部に配する兵を数百名節約できたのであるが、その一方、鎮台に対し城の西部を守る兵の削減を可能とさせ、結果的には鎮台側を益することになってしまった。

田原坂の戦いが進展しない3月14日、政府は黒田清隆中将を参軍とし、高島鞆之助大佐を司令長官(心得)とする別働第2旅団(後に第1旅団に改称)を基幹とする衝背軍を編成し、八代方面から上陸し薩軍の後方を脅かし、鹿児島と薩軍を引き離そうとした。別働第2旅団は歩兵4個大隊と警視隊1200名を擁する総勢約4000名の大部隊で、18日に第一陣として歩兵2個大隊と警視隊700名が輸送船扶桑丸、金川丸、玄海丸に分乗、伊東祐麿海軍少将率いる春日鳳翔孟春の護衛を受けて長崎を出発した。

衝背軍上陸[編集][編集]

3月19日、日奈久から上陸しようとした別働第2旅団は、薩軍300名が征討軍上陸に備えて警戒しているとの報を受け、3キロ南方の洲口の浜に上陸地点を変更する。上陸した黒木為楨歩兵第12連隊長率いる2個大隊と警視隊500名は薩軍1個小隊の迎撃を受けるも、鳳翔の援護射撃もありこれを撃破。部隊は八代まで進撃を開始し、14時には球磨川を渡って八代を制圧した。夕方には高島大佐も上陸し、八代に橋頭保を確保した。

薩軍本営は衝背軍の上陸に衝撃を受け、南下軍の編成に取り掛かる。三番大隊長永山弥一郎自らが指揮官をかってで、それまでの小隊編成を整理し3個中隊を編成、南下を開始し宮原・鏡付近で衝背軍と遭遇し交戦する。

21日には黒田参軍が別働第2旅団の残余を率いて日奈久に上陸。更に25日には山田顕義少将率いる別働第2旅団(従来の別働第2旅団は別働第1旅団に改名)、川路利良少将率いる別働第3旅団(警視隊を基幹に新たに編成)が上陸。衝背軍は総勢8000名の大部隊に増強された。

小川の戦い[編集][編集]

黒田参軍の指揮のもと、衝背軍は左翼に別働第1旅団、中央に同第2旅団、右翼に同第3旅団に展開し26日に進撃を開始、海上からは海軍艦船が援護した。激戦の末、薩軍を撃退して小川を占領した。この時永山弥一郎は「諸君何ぞ斯(かく)の如く怯なる、若し敵をして此地を奪はしめんか、熊本城外の我守兵を如何にせん、大事之に因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯此時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」と激励したが、戦況を逆転することはできなかった。

松橋の戦い[編集][編集]

小川が制圧された薩軍は松橋に撤退。衝背軍は3個旅団の並進を崩さず、30日には松橋へ進撃を開始する。黒田は別働第3旅団に松橋東方の豊野村を占領させ、残り2個旅団で松橋を包囲する。しかし薩軍は頑強に抵抗し、折からの大雨と、薩軍が故意に御船新田の水門を破壊して一帯に海水を流入させた事で攻め手は泥まみれとなり疲労は極限に達していた。それでも高島少将(昇進)は攻撃続行を主張、各隊は前進地点で露営し、翌31日、引き潮に乗じて別働第1旅団は進撃を再開し山背と本道の両面から松橋を攻撃、別働第1旅団は北豊崎から御船に進み、薩軍の右側を攻撃した。これに耐えきれず、薩軍は川尻に後退し正午には松橋を制圧した。部隊は翌4月1日にも攻勢を続け宇土を占領、緑川を挟んで両軍は対峙する。衝背軍は熊本城まであと10kmまで迫っていた。しかし衝背軍の戦線は広がり、兵力不足となっていた。そこで新たに別働第4旅団(司令官:黒川通軋大佐)約2600名が衝背軍に配属となり、7日には宇土半島に上陸した。

鎮台兵の出撃[編集][編集]

その頃、熊本城では薩軍の包囲兵力が減少したこともあり、部隊を城外に出して偵察や後方攪乱を幾度か行っていた。最初の城外出撃は2月27日に行われ、大迫尚敏大尉率いる偵察隊は坪井方面の威力偵察に出撃した。3月26日、植木方面で銃声を聞くが征討軍が現れないので、後方攪乱部隊を3隊に分け、京町口・井芹村・本妙寺に出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を撃退したものの、逆襲に遭い撤退した。

籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、および予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺中牟田健軍隈庄を経て宇土に到達する。侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある720・小銃100挺などを奪って引き揚げた。

衝背軍は突囲隊と合流したことで城内の糧食が欠乏している事を知り、早急に救援に向かうべく、12日を期して総攻撃を開始する事を決断する。しかし衝背軍は背後を逆に薩軍に脅かされる事態となる。

薩軍の八代急襲[編集][編集]

この頃、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25日、26日の両日で1500名ほどを徴兵し9番10番大隊を編成したものの、衝背軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。31日に協同隊の宮崎八郎が来着し、桐野からの指示を受け人吉から下って、衝背軍の兵站基地となっていた八代を攻撃し、衝背軍の退路を断って孤立させるという作戦の下で行動することになった。

4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の衝背軍(別働第2旅団の1個中隊)を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の衝背軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって衝背軍が一時敗退したが、13日に援軍が投入され、薩軍・衝背軍共に引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、1個大隊に薩軍の右翼を付かせる作戦が成功して衝背軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。

御船の戦い[編集][編集]

黒田参軍は衝背軍を部署し、次の方面への一斉進撃を企図した。

  • 甲佐・御船・吉野 ─ 別働第3旅団
  • 隈庄・鯰村・上島 ─ 別働第1旅団
  • 上記旅団の予備隊 ─ 別働第1、第2旅団の一部
  • 緑川下流・川尻 ─ 別働第2旅団
  • 同上 ─ 別働第4旅団

4月12日、別働第3、第1旅団は一斉に攻撃を開始した。別働第1旅団は宮地を発して緑川を渡り、薩軍を攻撃した。薩軍は敗戦続きに気勢揚がらず、民家に放火して退却した。この時、負傷を押して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は酒樽に腰掛け、敗走する薩軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。かくして御船は衝背軍に占領された。

同12日、別働第2旅団は新川堤で薩軍の猛射に阻まれ、別働第4旅団も進撃を阻止された。翌13日、別働第2旅団と別働第4旅団は連繋しながら川尻を目指して進撃した。別働第4旅団の一部が学科新田を攻撃して薩軍を牽制している間に、主力が緑川を渡り、薩軍と激戦しながら川尻へと進んだ。川尻に向かった別働第4旅団と第2旅団は両面から薩軍を攻撃して退け、遂に川尻を占領した。

衝背軍の熊本入城[編集][編集]

4月13日、別働第2旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て機逸すべからずと考え、兵を分けて自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入、翌14日16時頃遂に城下に達した。城中皆が救援部隊の到着に喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。

13日夜、二本木の薩軍本営にいた西郷は、川尻が攻撃されたことを受け、村田新八、池上四郎と共に木山方面に移動した。薩軍も熊本城の包囲を解き14日に木山方面に撤退し、北方の植木・木留・鳥巣方面の諸隊4000名も続々と撤退を開始。城南方面の立田山南麓の新南部村付近に集結した。こうして2月22日以来50余日に渡り奮戦した薩軍の戦線は全面崩壊し、薩軍は熊本城東方の白川と木山川一帯の扇状台地に新たに戦線を構築するも、袋小路に追い詰められてしまった

城東会戦[編集][編集]

薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する征討軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた。(計約8,000名)

  • 大津 - 野村忍介指揮諸隊
  • 長嶺 - 貴島清指揮貴島隊および薩軍6個中隊
  • 保田窪 - 中島健彦指揮5個中隊および福島隊
  • 健軍 - 河野主一郎指揮5個中隊および延岡隊(約750名)
  • 木山 - 薩軍本営
  • 御船 - 坂元仲平指揮20個中隊(計約1,300名)

対する官軍も、山縣参軍らが熊本城で行った軍議で各旅団を次のように部署した。(計約30,000名)

  • 片川瀬 - 第3旅団
  • 竹迫 - 第1旅団
  • 立田山 - 別働第5旅団
  • 熊本城東部 - 熊本鎮台
  • 熊本城 - 第4旅団(予備軍として)
  • 川尻 - 別働第1旅団
  • 隈庄 - 別働第2旅団
  • 堅志田 - 別働第3旅団
  • 八代 - 別働第4旅団

薩軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。4月20日黎明、第1・第2・第3旅団は連繋して大津街道に進撃したが、野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。

4月19日、熊本鎮台・別働第5旅団・別働第2旅団は連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して征討軍を撃破した。征討軍は別働第1旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともしがたかった。征討軍はさらに援軍を得てやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。

別働第5旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた征討軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。

長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第5旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山縣参軍は品川弥二郎大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第4旅団を戦線に投入するありさまであった。

薩軍最左翼の御船へは坂元指揮の諸隊が熊本に入った征討軍と入れ替わる形で進駐していた。別働第3旅団は4月17日、熊本から引き返して来て御船を攻めた。坂元の諸隊はこの攻撃は退けたが、それに続く別働第1・第2・第3旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。

このように両軍の衝突は4月19、20日に征討軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、第1・第2旅団は大津に進入し、次いで薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。第3旅団は大津に進出してここに本営を移した。

このように「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。しかし征討軍は最右翼の大津と最左翼の御船から薩軍本営の木山を挟撃する情勢になった。これに対し桐野は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺の必死の説得で桐野は遂に翻意し、撤退し本営を東方の矢部浜町へ移転することに決し、自ら薩軍退却の殿りを務めた。こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野戦であった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。


薩軍の三州盤踞策と人吉攻防戦[編集][編集]

4月21日、薩軍は矢部浜町の軍議で、村田新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩摩・大隅・日向)盤踞策を採ること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。この時に決められた諸隊編成および指揮長は以下の通りである。

  • 奇兵隊 - 指揮長野村忍介
  • 振武隊 - 指揮長中島健彦
  • 行進隊 - 指揮長相良長良
  • 雷撃隊 - 指揮長辺見十郎太
  • 干城隊 - 指揮長阿多壮五郎
  • 常山隊 - 指揮長平野正介
  • 正義隊 - 指揮長河野主一郎
  • 鵬翼隊 - 指揮長淵辺群平
  • 勇義隊 - 指揮長中山盛高

この後即日、薩軍は全軍を二手に分けて椎原越えで人吉盆地へ退却した。

4月27日、人吉盆地に入った薩軍は本営を人吉に置いた。28日に江代に着いた桐野はここに出張本営を置き軍議を開いた。江代軍議で決められたのは、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐次実行に移された。この時、桐野が人吉を中心に南北に両翼を張る形で薩軍を以下の通りに配置した。

  • 薩軍諸隊配置
    • 豊後口方面 - 指揮長野村忍介
    • 鹿児島方面 - 指揮長中島健彦
    • 同上 - 指揮長相良長良
    • 大口方面 - 指揮長辺見十郎太
    • 江代口方面 - 指揮長阿多壮五郎
    • 中村・加久藤・綾方面 - 指揮長平野正介
    • 神瀬・小林方面 - 指揮長河野主一郎
    • 佐敷方面 - 指揮長淵辺群平
    • 川内方面 - 指揮長中山盛高
    • 高原口方面 - 指揮長堀与八郎

対する官軍の配置は以下の通りである。

  • 官軍旅団配置
    • 健軍・木山方面 - 第1旅団(野津鎮雄少将)
    • 砂取・川尻方面 - 第2旅団(三好重臣少将)
    • 高森方面 - 第3旅団(三浦梧楼少将)
    • 鹿児島方面 - 第4旅団(曾我祐準少将)
    • 同上 - 別働第1旅団(高島鞆之助少将)
    • 南種山・五箇庄方面 - 別働第2旅団(山田顕義少将)
    • 佐敷・水俣・大口方面 - 別働第3旅団(川路利良少将)
    • 比奈久・球磨川口方面 - 別働第4旅団(大山巌少将)
    • 矢部浜町方面 - 熊本鎮台(谷干城少将)

神瀬方面[編集][編集]

5月8日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺はそれぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4個隊を率いて神瀬箙瀬方面に向かった。征討軍との戦闘は9日に始まったが、15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1個中隊が征討軍に降るという事件が起きた。これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。

万江方面[編集][編集]

別働第2旅団(山田少将)は5月19日、人吉に通じる諸道の一つ万江越道の要衝水無・大河内の薩軍を攻撃した。これを迎え撃った薩軍の常山隊七番中隊はいったん鹿沢村に退き、5月21日に水無・大河内の征討軍に反撃したが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き揚げた。28日、今度は征討軍が鹿沢村の常山隊七番中隊を攻撃した。常山隊は必死に防戦したが、弾薬が尽きたために内山田に退き、翌日29日に大村に築塁し、守備を固めた。

大野方面[編集][編集]

5月5日、田ノ浦に征討軍が上陸。材木村は田ノ浦から人吉に通じる要路であったため鵬翼隊四・六番中隊は材木村に見張りを置き、大野口を守備した。6日、征討軍が材木村の鵬翼隊四番中隊を攻めたので、薩軍はこれを迎え撃ち、いったんは佐敷に退却させることに成功した。しかし9日、征討軍は再び材木村の鵬翼隊六番中隊を攻めた。激戦が行われたが、薩軍は敗れてしまい、長園村に退いた。このとき淵辺が本営より干城隊八番中隊左半隊を応援に寄越したので、征討軍を挟み撃ち攻撃で翻弄し、塁を取り戻した。また、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊は征討軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の薩軍と共に塁の奪還に成功した。さらに鵬翼隊二・五番中隊、干城隊四番中隊、その他諸隊は佐敷方面湯ノ浦の征討軍を攻めたが失敗し大野に退却した。16日、征討軍が一ノ瀬の鵬翼隊五番中隊を攻撃した。薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参戦により征討軍を退けることができた。

20日、別働第3旅団が久木野に進入した。大野本営にいた淵辺は干城隊番三・四・八番中隊に命令して久木野の征討軍を襲撃させ、退却させることに成功した。この戦いは薩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た。22日、淵辺は佐敷口の湯ノ浦に進撃することを決め、干城隊三・四番中隊、鵬翼隊六番中隊、その他2隊に進軍を命じた。またこの日、大野の本営にいた辺見は久木野に進撃することを決意し、淵辺に応援を要求した。淵辺は干城隊八番中隊を久木野に寄越した。そこで、たまたま大野口から湯ノ浦に進撃していた干城隊三・四番中隊と合流し、征討軍を退けた。23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の薩軍を次々と破り、大野に進入してきた。鵬翼隊五番中隊左小隊、干城隊二番中隊は防戦したが、敗れて石河内に退却した。久木野にいた干城隊八番中隊も参戦しようとしたが、大野の塁は征討軍に奪われてしまった。淵辺群平は、塁を奪還するため夜襲を命じたが、征討軍の反撃で退却した。この日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊の塁にも官軍が襲来した。三番中隊は大野口の敗報を聞き、左小隊を鎌瀬、右小隊を植柘に分けて退いた。その後神ノ瀬方面も敗れたという報告を聞き、舞床に退いた。鵬翼隊二番中隊は岩棚より程角道三方堺に退却した。

28日明け方、征討軍が舞床の鵬翼隊三番中隊を襲った。この日は防戦に成功したが征討軍は29日に再び鵬翼隊三番中隊右半隊を攻撃。薩軍は塁を捨てて後退したが、鵬翼隊三番中隊左小隊の活躍により塁を取り返し、銃器・弾薬を得た。この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足のため背進した。このため舞床の薩軍は鵯越に退いた。札松方面の鵬翼隊二番中隊が人吉に退却したため、振武隊二番中隊・干城隊八番中隊は程角越の応援のために進撃し、振武隊二番中隊は程角本道の守備を開始した。鵬翼隊二番中隊も同じく程角越に進撃した。30日の夜明け頃、征討軍が程角左翼の塁を攻撃し薩軍は敗北した。征討軍は勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番小隊を攻めた。薩軍各隊は大いに苦戦し、次々と兵を原田村に引き揚げた。激しい攻防が続き、勝敗は決まらず夜になった。翌日薩軍各隊は原田村に兵を配置した。

6月1日早朝、諸道の征討軍が人吉に向かって進撃した。諸方面の薩軍はすべて敗れ、人吉や大畑に退却した。これを知った中神村の鵬翼隊六番中隊・雷撃隊五番中隊・破竹隊一番中隊、その他2隊、鵯越の鵬翼三番中隊、戸ノ原の鵬翼隊五番中隊等の諸隊は大畑に退却した。原田村の干城隊八番中隊・振武隊二番中隊・鵬翼隊二番中隊・振武隊十六番小隊、郷之原の破竹隊四番中隊、深上の雷撃隊一番中隊、馬場村の雷撃隊二番中隊等は人吉の危機を聞き、戦いながら人吉に向かった。

人吉攻防戦[編集][編集]

4月30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、5月3日から7日までの宮藤の戦い、10日から14日までの平瀬の戦いで、征討軍は中村中佐の活躍によりこれらを敗走させることに成功した。中村中佐は21日、横野方面の薩軍を襲撃し、岩野村に敗走させた。一方、尾八重を守っていた干城隊二番中隊は岩野村を守備し、22日、前面の征討軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたこともあり、米良の西八重に退却した。

別働第2旅団は7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦を立て、5月1日から9日までこの作戦を遂行した。まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めたが、街道は大部隊が通るには困難な地形であったために官軍は各地で薩軍に敗退した。しかし、人員・物資の不足により、薩軍は当初の勢いがなくなった。そこを突いて12日、別働第2旅団は球磨盆地の北部にある五家荘道等の5つの街道から南下し始めた。薩軍の球磨川北部の守りが薄かったので、別働第2旅団は12日から25日までの13日間に五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させた。 西郷札(表) この頃桐野は宮崎から鹿児島方面および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、28日に軍務所と改称した。別働第2旅団の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが相談して安全をはかるために、29日池上に随行させて狙撃隊等2,000名の護衛で西郷を宮崎の軍務所へ移動させた。31日に西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍の本営となり、軍票西郷札)などが作られ、財政の建て直しが図られた。

山田少将が指揮する別働第2旅団の主力部隊は30日、五家荘道・照岳道などから人吉に向かって進撃した。これと戦った薩軍は各地で敗退し、五家荘道の要地である江代も陥落した。また神瀬口の河野主一郎、大野口の淵辺は共に人吉にいたが、薩軍が敗績し、人吉が危機に陥ったことを聞き、球摩川に架かる鳳凰橋に向かった。しかし、官軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺は銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されたが亡くなった。

6月1日早朝、照岳道の山地中佐隊に続いて征討軍が次々と人吉に突入した。そして村山台地に砲台を設置し、薩軍本営のあった球磨川南部を砲撃した。これに対し村田新八率いる薩軍も人吉城二ノ丸に砲台陣地を設け対抗した。しかし薩軍の大砲は射程距離が短いために適わず、逆に永国寺や人吉城の城下町を焼いてしまった。この戦いは三日間続いた。薩軍本隊は大畑などで大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、征討軍のさらなる南下を防ごうとしたが失敗し、堀切峠を越えて、飯野へと退却した。こうして人吉は征討軍の占領するところとなった。

4日になると、薩軍人吉隊隊長犬童治成らが部下と共に別働第2旅団本部に降伏し、その後も本隊に残された部隊が征討軍の勧告を受け入れ次々と降伏した。人吉隊の中にはのちに征討軍に採用され軍務に服したものもあった。

大口方面の戦い[編集][編集]

4月22日に雷撃隊(13個中隊、約1300名)の指揮長に抜擢された辺見は日ならずして大口防衛に派遣された。これに対し征討軍は5月4日、別働第3旅団の3個大隊を水俣から大口攻略のため派遣した。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の薩軍を撃退しながら大口の北西・山野まで進攻した。

辺見は征討軍を撃退すべく大口の雷撃隊を展開した。5月5日、雷撃隊と征討軍は牛尾川付近で交戦したが、雷撃隊は敗れ、征討軍は大口に迫った。辺見は雷撃隊を中心に正義隊・干城隊・熊本隊・協同隊などの諸隊を加えて大塚付近に進み、8日の朝から久木野本道に大挙して攻撃を加え、征討軍を撃退、征討軍は深渡瀬まで下がった。

久木野・山野を手に入れた辺見は5月9日、自ら隊を率いて征討軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。11日、雷撃隊は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣した。人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺率いる鵬翼隊6個中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。また池辺率いる熊本隊(約1500名)も矢筈岳・鬼岳に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。12日、鵬翼隊は佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的に優る征討軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわれるほどの奮戦をした。これを見た征討軍は増援を決定し、第3旅団を佐敷へ、第2旅団を水俣へ派遣した。

征討軍は23日、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で薩軍を攻撃した。熊本隊は奮戦したが、支えきれずに撤退した。対して26日未明、佐々友房深野一三らが指揮する約60名の攻撃隊が矢筈岳の官軍を急襲したが、征討軍の銃撃の前に後退し、熊本隊はやむなく大口へと後退した。

6月1日、三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、薩軍本隊は大畑へ退いた。3日に官軍の二方面からの大関山への総攻撃が始まった。官軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃した。球磨川方面からは別働隊が攻撃した。雷撃隊はこれらを激しく邀撃したが、二面攻撃に耐え切れず、大口方面へ後退した。これを追って官軍は久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領した。

7日に久木野が陥落し、薩軍は小河内方面に退却した。翌日、征討軍はこれを追撃して小河内を占領した。13日、山野が陥落した。征討軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第2旅団は飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に攻撃を加えた。結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。

征討軍は17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、別働第2旅団は小林攻略と大口方面での征討軍支援、別働第3旅団は大口攻略後、南の川内・宮之城・栗野・横川方面を攻略するという手筈が整えられた。これにより雷撃隊は官軍の戦略的脅威の範疇から完全に外れることとなった。

18日、征討軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見は砲弾の雨の中、必死に征討軍を食い止めていた。だが、北東の人吉からの別働第2旅団の攻撃、北西の山野からの別働第3旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が別働第2旅団の手に落ちた。結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全に包囲された。

征討軍は6月20日、高熊山の熊本隊と雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る白兵戦が繰り広げられた。しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、さしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口は陥落した。雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」と嘆いたといわれる。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。

6月25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて官軍と戦ったが、覆水盆に返ることなく、相良率いる行進隊と中島率いる振武隊と合流し、南へと後退していった。ここに大口方面における約2か月もの戦いに幕は下りた。

鹿児島方面の戦い[編集][編集]

鹿児島で激突する官軍と西郷軍(「薩肥海鹿児島逆徒征討図」早川松山画、明治10年3月)

まだ戦争の帰趨が覚束なかった2月末、政府は鹿児島の人心を収攬し、薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父であった島津久光元老院議官柳原前光勅使として、兵士千数百名とともに派遣し、3月7日に鹿児島に到着した。しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。

勅使らは中原らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。これにより薩摩軍はその後の戦闘に大きな支障をきたすことになる。

熊本城の包囲が解けた4月23日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第1旅団(旅団長高島鞆之助)・別働第3旅団2個大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。しかし、27日に上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第4旅団(曾我祐準少将)・別働第5旅団(大山巌少将)1個大隊を派遣した。川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等を行わせた。5月3日になると、新県令岩村通俊が赴任し、西郷に告諭書を送った。

城山・重富・紫原の戦い[編集][編集]

城山の戦い 城山を取り囲む帝国陸軍の要塞

薩軍では、4月28日の江代の軍議の後、中島健彦を振武隊など11個中隊の指揮長として鹿児島方面に派遣した。監軍貴島清を伴って出発した中島健彦は途中で別府晋介・桂久武らと会して5月1日に軍議を開き、別府晋介が横川に本営を置いて鹿児島方面を指揮し、前線部隊の中島らはさらに進んで山田郷から鹿児島に突入することとなった。5月5日には遅れて到着した相良を指揮長とする行進隊など10個中隊が振武隊と合流した。

薩軍は当初、山田街道から城山北方に出、背面から官軍を攻撃しようとしたが、5月3日は雨に阻まれ、4日は激しい抵抗にあって冷水へ後退した。6日には西方に迂回して甲突川を越えて急襲しようとしたが、渡河中に猛烈な射撃を受けて大敗し、伊敷へ後退した。この頃、薩軍は各郷から新兵を募集し、新振武隊15個中隊を編成した。また上町商人からなる振武附属隊も作られた。

11日から13日にかけては、催馬楽山の薩軍と海軍の軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦が行われ、14日から17日にかけては、征討軍によって薩軍の硝石製造所・糧秣倉庫等が焼却された。薩軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第1旅団は24日、武村を攻撃したが敗退した。29日、第4旅団が薩軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、これも撃退された。

22日、川村参軍は第4旅団1個大隊半・別働第3旅団2個中隊を右翼、別働第1旅団2個大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて薩軍の後方を攻撃させた。また、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。左右翼隊の健闘でさしもの薩軍も遂に重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け、北方に敗走した。こうして征討軍は重富を確保した。これに対し、23日、中島・貴島・相良は征討軍に反撃し、行進隊8個中隊と奇兵隊2箇中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。

24日、別働第1旅団と別働第3旅団は大挙攻勢に出、涙橋付近で交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩軍を敗走させた。逆襲した薩軍と壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた征討軍の猛攻に弾薬乏しくなった薩軍は耐えきれず、吉野に退却した。この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は鹿児島方面で行われた最大の激戦で、征討軍211名、薩軍66名の死傷者を出した。翌25日、第4旅団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃し、吉野へ追い落とした。26日には同旅団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、薩軍は抵抗することなく川上地方へ退却した。

征討軍主力の鹿児島連絡[編集][編集]

大口南部の薩軍を退けた川路少将率いる別働第3旅団は6月23日、宮之城に入り川内川の対岸および下流の薩軍を攻撃した。一斉突撃を受けた薩軍は激戦の末、遂に鹿児島街道に向かって退却した。別働第3旅団の部隊は翌24日には催馬楽に至り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には悉く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。こうして征討軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。

退却した薩軍は都城に集結していると予測した川村参軍は29日、別働第1旅団を海上から垂水・高須へ、第4旅団を吉田・蒲生へ、別働第3旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第4旅団の1個大隊を残した。

都城方面の戦い[編集][編集]

人吉方面撤退後の6月12日、村田新八は都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸隊を集め、都城へ進撃する征討軍に対する防備を固めた。薩軍の配置は戦闘によって大幅に入れ替わりがあるので確定しがたいが、北からほぼ以下のようになっていた。

  • 最右翼(霧島山高千穂北麓
    • 小林・高原方面 - 破竹隊など
  • 右翼(霧島山・高千穂南麓)
    • 財部・庄内方面 - 破竹隊など
  • 中央
    • 敷根・福山・清水方面 - 振武隊・奇兵隊など
  • 左翼
    • 岩川・末吉・大崎・百引方面 - 雷撃隊・行進隊など

対して、都城に攻め入ろうとする官軍の配置は北からほぼ以下のようになっていた。

  • 左翼
    • 小林・飯野 - 別働第4旅団の一部・第2旅団
  • 中央
    • 庄内方面 - 第3旅団(国分本営)
    • 庄内・福山の中間 - 別働第4旅団(国分本営)
    • 福山方面 - 第4旅団(敷根本営)
  • 右翼
    • 岩川・末吉方面 - 別働第1旅団(高隈本営)

小林・高原方面[編集][編集]

6月19日、河野主一郎は破竹隊を率いて別働第2旅団が守る飯野を21日まで猛撃して奪取をはかったが、征討軍は善戦し、陥とすことはできなかった。逆に横川から転進してきた第2旅団が7月14日、小林から高原を攻撃し高原を占領した。高原奪還を目指す薩軍は17日、堀与八郎を全軍指揮長とし雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9個中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の征討軍を奇襲し、あと一歩のところで奪還するところであったが、征討軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げた。一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。この戦い以降、征討軍は警戒を強め、17日に堡塁や竹柵を築いて薩軍の奇襲に備えた。21日薩軍は再び高原を攻撃するため征討軍を攻撃するが、強固な守備と敵の援軍の投入により、高原奪還は果たせず、庄内へと退却した。

踊・大窪・財部方面[編集][編集]

横川方面が征討軍に制圧されてしまったため、7月1日、薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊に退却し、陣をこの地に敷いた。征討軍は6日、国分に進入して背後より踊の薩軍を攻撃し、薩軍は大窪に退却した。薩軍は襲山の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から征討軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。また、征討軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで征討軍は第二旅団全軍をもって大窪の薩軍を攻めた。

12日、辺見は赤坂の征討軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、征討軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から征討軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。

17日、辺見は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の征討軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。辺見らの諸隊は征討軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と征討軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。19日には都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見は23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。

敷根・福山・岩川方面[編集][編集]

第3旅団が7月10日、敷根・清水の両方面から永迫に進撃し、行進隊十二番中隊を攻撃したので、行進隊は通山へ退却した。一方、敷根・上段を守備していた行進隊八番中隊は、征討軍の攻撃を受け、福原山へと退却した。行進隊八・十二番中隊は上段を奪回しようと征討軍を攻撃するが、破ることができず、通山へ退却した。15日早朝、行進隊・奇兵隊は嘉例川街道を攻撃したが、征討軍の守りは堅く、加治木隊指揮長越山休蔵が重傷を受けたため、攻撃を中止し通山へ退却した。

23日、征討軍が岩川に進出したとの報を受け、高野から雷撃隊八・七番隊・干城隊七番隊を率いてきた辺見と合流し、辺見・相良を指揮長として岩川へ進撃し征討軍と交戦した。16時間にも及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、薩軍は征討軍を破れず、末吉へと退却した。

恒吉・百引・大崎方面[編集][編集]

7月7日、振武隊大隊長中島は国分より恒吉に到着した。このとき征討軍は百引・市成に進駐していたので、この方面への攻撃を決定した。振武隊は夜に恒吉を出発し、8日に百引に到着した。ここで三方面から征討軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた征討軍は二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、征討軍の死傷者は95名ほどで、その上大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。

一方、越山・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊・振武隊・加治木隊も8日に市成に到着した。越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、征討軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。戦闘は激しいものとなり、夕方、征討軍は民家に火を放ち、二川に退却した。薩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

大崎に屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊は7月11日、征討軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却した。一方、後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の征討軍と遭遇し、半日に渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した。12日、蓬原・井俣村の奇兵隊は大崎に進撃したが、荒佐野の征討軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突した。当初、戦況は薩軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し、征討軍に快勝した。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示した。

官軍の都城進撃[編集][編集]

都城への全面攻撃を始める前の7月21日、山縣参軍・川村参軍・大山少将・三浦少将らは軍議して、以下のように進撃部署を定めた。

  • 田野口・猪子石越・庄内方面 - 第3旅団
  • 福山・通山方面 - 第4旅団
  • 市成・岩川・末吉方面 - 別働1一旅団
  • 正部谷・財部方面 - 別働第2旅団
  • 霧島山麓方面 - 第2旅団の一部

都城方面[編集][編集]

別働第3旅団は7月24日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。薩軍が都城に退却したため、別働第3旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。第4旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第3旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第4旅団は都城に入ることができた。別働第1旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見)・行進隊(相良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。

要所である庄内方面・財部方面が征討軍に占領された結果、都城の各方面で薩軍は総崩れとなり、この日官軍は都城を完全に占領した。これ以降、薩軍は征討軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を征討軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。

豊後・美々津・延岡方面の戦い[編集][編集]

豊後・日向方面は、4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後方から指揮・支援する池上とその部隊の働きで薩軍の支配下に置かれたが、征討軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった。

三田井・豊後・日向方面[編集][編集]

早くも2月には征討軍の軍艦「孟春」が西郷挙兵を知って横浜を出帆し細島に向かっている。3月1日夕刻には細島港に入港した。港湾内測量を行い3月3日には、下関に向かって出港した。3月29日には、下関から軍艦「浅間」が南下し細島港に入港したが、戦闘はなかった。4月29日、細島港に再び「孟春」と「浅間」2隻の軍艦が入港し、上陸する。富高新町(細島西方)の大区事務取扱所に入り区長、副区長を尋問する。

4月30日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町の守備および細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。これを後援するために5月4日に三田井方面に派遣された池上指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1個中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3個中隊を延岡に配置して、征討軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。

以後、池上は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。5月14日、高城率いる正義隊など6個中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第1旅団は25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、征討軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への征討軍の進出を阻止し続けた。

豊後方面[編集][編集]

詳細は「茶屋の辻の戦い」を参照

奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4個中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。14日には後続の4個中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、征討軍は15日に熊本鎮台と第1旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して征討軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日に臼杵を占領したが、7日の野津道貫大佐の指揮する4個大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。

野尻方面[編集][編集]

破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第2旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第2旅団が翌22日に野尻を占領した。

宮崎方面[編集][編集]

7月24日、第3旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第1旅団は末吉を攻撃し、別働第2旅団は財部を攻撃した。そしてついに第3旅団・別働第3旅団・第4旅団が都城を陥落させた。25日、薩軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第3旅団に敗北した。この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

薩軍は都城敗退後、官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を以下のように配置した。

  • 宮崎方面 - 桐野利秋・村田新八・別府晋介・島津啓二郎
    • 常山隊(指揮長平野正介)・狙撃隊(中隊長小倉壮九郎)・宮崎徴募隊
  • 延岡・三田井・豊後方面 - 池上四郎
    • 奇兵隊(指揮長野村忍介)・中津隊(中隊長増田宋太郎)・正義隊(指揮長高城七之丞)
  • 学の木・清武方面
    • 雷撃隊(指揮長辺見十郎太)・振武隊(指揮長中島健彦)・破竹隊(指揮長河野主一郎)・行進隊(指揮長相良長良)・鵬翼隊(指揮長新納精一)・熊本隊(大隊長池辺吉十郎)・協同隊(中隊長有馬源内)・加治木隊
  • 天包山・尾泊方面
    • 干城隊(指揮長阿多壮五郎)・佐土原隊(司令鮫島元)・志布志隊(中隊長堀木井喜蔵
  • 飫肥方面
  • 佐土原方面
    • 佐土原隊
  • 高鍋方面

7月27日、別働第3旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第2旅団は28日、別働第2旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により征討軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、征討軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。

都城・飫肥・串間をおさえた第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は7月30日、宮崎の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。31日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため征討軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、宮崎から撤退したため、征討軍は宮崎を占領した。次いで第2旅団により佐土原も占領した。

そこで宮崎・佐土原と敗北した薩軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて征討軍の進撃に備えた。これに対し征討軍は、広瀬の海辺から第4旅団・第3旅団・第2旅団・別働第2旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第3旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。

8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。

米良方面[編集][編集]

7月13日、人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。29日、越の尾を攻めてきた征討軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。

美々津方面[編集][編集]

8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

別働第2旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、6日山蔭の守備を固めた。西郷はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。

奇兵隊三・六・十四番隊は別働第2旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。

延岡方面[編集][編集]

征討軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第2旅団が14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第3・4旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、征討軍と雌雄を決しようとした。この時の薩軍(約3,000〜3,500名)は和田峠を中心に左翼から以下のように配置していた。

  • 友内山・無鹿山方面(2箇中隊)
  • 神楽田・和田峠(7個中隊)
    • 相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊)
  • 和田峠北・小梓峠
    • 山崎定平(熊本隊)
  • 小梓峠・長尾山
    • 野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊)

また長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5個中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平佐藤三二が指揮する5個中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。

対する官軍(約50,000名)は山縣参軍指揮のもと、延岡から北嚮きに

  • 右翼
    • 方財島方面 ─ 新撰旅団
  • 中央
    • 無鹿方面 ─ 第4旅団
    • 和田峠・堂坂方面 ─ 別働第2旅団
  • 左翼
    • 長尾山方面 ─ 第3旅団

と攻撃主力を部署し、西部の可愛岳(えのたけ)山麓には

  • 可愛岳南麓 ─ 第3旅団
  • 可愛岳西麓 ─ 第1旅団

熊田の北部には

  • 熊本鎮台・別働第1旅団2個中隊

と配備し、薩軍を包囲殲滅しようとした。

和田越決戦地の碑

15日早朝、西郷は桐野・村田新八・池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。一方山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。当初、別働第2旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第2旅団は危機に陥った。しかし、第4旅団の左翼が進出して別働第2旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて征討軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は征討軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、征討軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に征討軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。

可愛岳突囲[編集][編集]

8月15日、和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。16日、西郷は解軍の令を出した。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。

これより降伏する者が相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた首脳は17日午後4時、征討軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島を置き、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛した(「鎮西戦闘鄙言」では村田・池上が中軍の指揮をとり、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。この時の突囲軍は精鋭300〜500(『新編西南戦史』は約600名)であった。17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた征討軍を見たところ、警備が手薄であったため、突囲軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた征討軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため突囲軍は、その地にあった征討軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。

一方で深夜に敢行されたことで、深壑に落ちた石井貞興や戦傷もあって西郷と合流できずに自害した小倉処平のように西郷に合流できなかった者も存在した。

山岳部踏破と帰薩[編集][編集]

可愛岳を突破した突囲軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。21日、突囲軍は三田井へ到着するが、ここで桐野は征討軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから突囲軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、22日深夜、突囲軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。

これに対し、西郷達による可愛岳突破に衝撃を受けていた征討軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、西郷達の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける突囲軍の前に失敗に終わった。これは、西郷達の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の征討軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。

8月24日、西郷達は七ツ山・松の平を抜け、神門に出たが、ここで別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。同日、西郷達は小林平地からの加治木進出を図るが、南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第2旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた西郷達は9月1日、征討軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。

城山籠城戦[編集]

西郷隆盛らが籠城した西郷洞窟(位置:北緯31度35分59.12秒 東経130度33分0.96秒)
戦争:西南戦争
年月日1877年9月24日
場所日本 鹿児島県鹿児島府下
結果日本の勝利(西南戦争終結)
交戦勢力
日本東京警視本署 薩摩藩士族
指導者・指揮官
山縣有朋 西郷隆盛桐野利秋など
戦力
約70,000人 約372人
損害
西郷・桐野を含め全滅
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西郷軍最後の進軍路。 西郷自決の場所から西郷洞窟の方向を振り返る 南洲翁終焉之地の碑(位置:北緯31度36分5.79秒 東経130度33分20.13秒) 9月1日、鹿児島入りすると、辺見は私学校を守っていた200名の征討軍を奇襲して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷達に傾いており、住民も協力していたことから、西郷達は鹿児島市街をほぼ制圧し、征討軍は米倉の本営を守るだけとなった。しかし、9月3日には征討軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た西郷達は9月4日、貴島率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第2旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。こうして征討軍は6日、城山包囲態勢を完成させた。この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていたので、編制を小隊(各隊20名から30名)に改めた上で以下のように諸隊を部署した。

  • 狙撃隊 - 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警護
  • 城山方面 - 小隊長藤井直次郎
  • 岩崎本道方面 - 小隊長河野主一郎
  • 私学校・角矢倉方面 - 小隊長佐藤三二
  • 県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔
  • 大手・本田屋敷方面 - 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎
  • 上の平・広谷・三間松方面 - 小隊長河野四郎左衛門
  • 新照院・夏陰下方面 - 小隊長中島健彦
  • 夏陰 - 小隊長岩切喜次郎
  • 後廻 - 小隊長園田武一
  • 後廻・城山間 - 小隊長市来矢之助

官軍の参軍山縣有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策を立てた。この頃の征討軍の配備は以下のようになっていた。

  • 丸岡・浄光明寺・上の原 - 第2旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
  • 高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 - 第3旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
  • 多賀山・鳥越坂・桂山 - 第4旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
  • 甲突川・西田橋・朽木馬場 - 別働第1旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
  • 下伊敷 - 別働第2旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
  • 米倉方面 - 警視隊(本営米倉)

西南戦争が最終局面に入った9月19日、薩軍では一部の将士の相談の下、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将の元に出向き、捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の檄」を出し決死の意を告知した。

今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。

翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山縣からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

9月24日午前4時、征討軍の砲台からの3発の砲声を合図に征討軍の総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。

西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺見・山野田・岩本平八郎らは再び岩崎口に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、あるいは私学校近くの一塁に籠もって戦死した。

午前9時頃、銃声は止んだ。戦死を肯んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・佐藤三二・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第4旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている)。

余談ながら、現在史跡として残っている西郷洞窟は二つあるが、実際は11個あった。昭和49年まで放置され、そのまま自然にままにされていたため、崩れてしまい。消滅したからである。実際に行ってみると、深さは4、5メートルくらいで浅い。西郷をはじめとする上級指揮官は一人一窟与えられたが、その他は4、5人が一窟に押し込められていた。残っている洞窟に実際に西郷が居住していたという記録があるわけではない。


戦後処理[編集][編集]

西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社(日本赤十字社の前身)が活躍した。また、特に顕彰されたわけではないが、類似した例に熊本の医師・鳩野宗巴が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ実施したことが挙げられる。宗巴の行動は戦後、利敵行為として裁判にかけられたが、結局無罪判決を下されている。

当時の鹿児島県令大山綱良は官金を西郷軍に提供したかどで逮捕され、戦後に長崎で斬首された。

また、元会津藩上席家老で都都古別神社(現・福島県東白川郡棚倉町)の宮司を勤めていた西郷頼母が、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、宮司を解任されている。高知では、同年8月に挙兵を企てたとして立志社林有造片岡健吉らが逮捕、投獄されている(立志社の獄)。

編成[編集][編集]

薩摩軍[編集][編集]

 
新政大総督 征伐大元帥西郷吉之介
参謀格兼本営附護衛隊長:淵辺高照 副官:仁礼景通

党薩諸隊[編集][編集]

各隊内訳は主な隊長・指揮者

征討軍[編集][編集]

鎮台[編集][編集]

熊本鎮台の指揮官および幕僚。 前列左より福原豊功少佐、中村寺利司契、谷干城少将、樺山資紀中佐、別役成義少佐。 後列:小川又次大尉、副島仲謙軍医正、児玉源太郎少佐、林隼之助少佐、塩屋方圀大尉

  • 大阪鎮台
    • 歩兵第8連隊大阪
      • 連隊長:厚東武直中佐
      • 副官:佐藤誠道大尉(4月5日戦病死)
      • 第1大隊(士官20名、下士官80名、兵卒530名)-大隊長:大島義昌陸軍歩兵少佐、 副官:林隆夫中尉
      • 第2大隊(士官20名、下士官91名、兵卒506名)-大隊長:桑原力陸軍歩兵少佐(4月6日戦死)→河越重幸大尉
        • 第1中隊
        • 第2中隊-中隊長:宮崎政光大尉
        • 第3中隊
        • 第4中隊
      • 第3大隊(士官22名、下士官90名、兵卒554名)-大隊長:波多野毅少佐
    • 歩兵第9連隊大津
      • 連隊長:津田正芳陸軍歩兵少佐(4月10日戦病死)→石本綱少佐代理
      • 連隊附:木越安綱少尉試補
      • 第1大隊(士官36名、下士官94名、兵卒556名)-大隊長:石本綱大尉
        • 第1中隊-中隊長:五藤正誼大尉(3月9日戦死)→和智重任大尉
        • 第2中隊-中隊長:井関千仭大尉(3月13日戦死)→嶋野翠中尉(代理)、清水生清中尉
        • 第3中隊-中隊長代理:脇阪葦雄少尉、松本箕居中尉
        • 第4中隊-中隊長:伊藤光善大尉
      • 第2大隊(士官19名、下士官75名、兵卒545名)-大隊長:鈴木良光大尉
      • 第3大隊(士官21名、下士官84名、兵卒520名)-大隊長:稲村真少佐、事務取扱:上利勝也大尉
    • 歩兵第10連隊(大阪)
      • 連隊長心得:茨木惟昭陸軍歩兵少佐
      • 第1大隊(士官17名、下士官79名、兵卒590名)-大隊長:永田貞仲陸軍歩兵少佐(5月24日戦死)、 副官:清水中尉
        • 第1中隊
        • 第2中隊-中隊長:後藤大尉
        • 第3中隊-中隊長:加藤大尉
        • 第4中隊-中隊長:中村大尉
      • 第2大隊(士官25名、下士官90名、兵卒567名)-大隊長:吉田道時大尉
      • 第3大隊(士官22名、下士官86名、兵卒557名)-大隊長:吉田章文少佐
        • 第1中隊-中隊長:瀧本美輝大尉→尾越大尉
        • 第2中隊-中隊長:水野慎大尉
        • 第3中隊-中隊長:柳生房義大尉、山村政久大尉
        • 第4中隊-中隊長:岡煥之大尉
  • 仙台鎮台
    • 歩兵第4連隊仙台
      • 連隊長:山地元治陸軍中佐
      • 第1大隊(士官14名、下士官62名、兵卒672名)-大隊長:岡村静彦大尉、 副官:石田武真中尉
        • 第1中隊
        • 第2中隊
        • 第3中隊
        • 第4中隊
      • 第2大隊(士官8名、下士官47名、兵卒297名)
        • 第1中隊※戦役には不参加
        • 第2中隊※戦役には不参加
        • 第3中隊
        • 第4中隊
    • 歩兵第5連隊青森
      • 第1大隊(士官6名、下士官30名、兵卒299名)-大隊長:井戸順行少佐

近衛兵・教導団・屯田兵[編集][編集]

  • 陸軍教導団
    • 別働狙撃大隊(士官25名、下士官137名、生徒398名)-大隊長:河野通好少佐、 副官:高島三造中尉
    • 教導団選抜大隊(士官4名、下士官33名、兵卒392名)
      • 第1中隊
      • 第2中隊
      • 第3中隊
    • 教導団工兵第1大隊(士官7名、下士官44名、生徒37名)-大隊長心得:土屋元成大尉 副官:栗山留吉少尉 会計官:松原敬太軍吏補 医官 矢野利之軍医試補 下副官:堀本礼造曹長 会計附属:吉田正忠軍曹
      • 第1小隊長:坂田之重少尉
      • 第2小隊長:成沢知行中尉 小隊附:川村益直少尉
  • 屯田兵‐本部長:堀基陸軍准大佐
    • 第一大隊(士官16名、下士官69名、兵卒377名)-大隊長:永山武四郎陸軍准少佐
      • 第1中隊(琴似)244人-中隊長:門松経文准大尉
      • 第2中隊(山鼻)239人-中隊長:家村住義准大尉

警視隊・その他[編集][編集]

警視隊

川崎伊達氏(内分中津山藩)[編集][編集]

遊撃歩兵隊[編集][編集]

  • 遊撃歩兵第1大隊(士官12名、下士官103名、兵卒492名)-大隊長:三好成行少佐
    • 第1中隊
    • 第2中隊
    • 第3中隊長心得:横浜中尉
    • 第4中隊長:中島大尉 小隊附:平井信茂少尉
  • 遊撃歩兵第2大隊(士官18名、下士官89名、兵卒772名)-大隊長:美濃部正直大尉、大隊附:浅田信興中尉、軍医:土肥淳朴
  • 遊撃歩兵第3大隊(士官8名、下士官83名、兵卒701名)-大隊長:三巻弘義大尉、大隊附:梅地庸之丞中尉、軍医:副梯文造
  • 遊撃歩兵第4大隊(士官26名、下士官43名、兵卒710名)-大隊長:井街清顕少佐
    • 第1中隊
    • 第2中隊
    • 第3中隊
    • 第4中隊
  • 遊撃歩兵第5大隊(士官23名、下士官39名、兵卒758名)-大隊長:村井清少佐、副官:山東苔吉少尉試補
  • 遊撃歩兵第6大隊(士官19名、下士官45名、兵卒800名)‐大隊長:栗原一郎右衛門少佐
    • 第1中隊
    • 第2中隊
    • 第3中隊
    • 第4中隊
  • 遊撃歩兵第7大隊 - 大隊長:粟屋市太郎 以下山口県壮兵約600名、副官:時山襲造、岡部東三他2名
    • 軍医補:滝野盤
    • 第1小隊長:下司操
    • 第2小隊長:熊為東士郎→時山龔造
    • 第3小隊長:村上旗輔(8月18日戦死)→粟屋信雄
    • 第4小隊長:石丸?助→阿部三郎
    • 第5小隊長:白木清太郎
    • 第6小隊長:田辺美竒
  • 遊撃歩兵第8大隊(士官22名、下士官53名、兵卒921名)
    • 第1中隊
    • 第2中隊
    • 第3中隊
    • 第4中隊

後備歩兵隊[編集][編集]

砲兵隊[編集][編集]

  • 近衛砲兵大隊(士官13名、下士官50名、兵卒235名)
    • 大隊長心得:宇都宮茂敏陸軍大尉(6月より少佐)、副官:高橋直重中尉(7月28日戦死)、大隊附:深沢巳吉中尉(5月大尉)
    • 砲兵第1大隊(士官10名、下士官53名、兵卒213名)山崎成高大尉(10月~)、医官:武谷豊軍医試補(4月11日~)
    • 予備砲兵第1大隊(士官10名、下士官32名、兵卒163名)-大隊長心得:江見重明大尉、計官:野崎貞知軍吏副(~9月30日)
      • 第1小隊-小隊長:瀬崎久誠大尉
      • 第2小隊-小隊長:久徳宗義大尉
        • 分隊長:新井少尉、福永宗之助中尉
    • 予備砲兵第2大隊(士官10名、下士官26名、兵卒200名)
      • 第1小隊-小隊長:村井忠和大尉
        • 右分隊長:杉田豊実少尉→石川高宗中尉
        • 中央分隊長:野間駒少尉
      • 第2小隊
    • 砲兵第4大隊(士官12名、下士官46名、兵卒225名)-大隊長:河津祐賢少佐
      • 第1小隊-小隊長:花形勝則大尉
        • 分隊長:居藤高次郎少尉、三毛敏徳中尉
      • 第2小隊-小隊長:黒瀬義門大尉、予備隊長:木村起善大尉
        • 分隊長:松村孝男少尉、田宮信方少尉試補、西村精一少尉
    • 砲兵第6大隊(士官12名、下士官49名、兵卒65名)-大隊長:塩屋方圀大尉、 副官:出石猷彦少尉、 下副官:貴志一郎曹長
    • 予備砲兵第3大隊(士官5名、下士官28名、兵卒64名)-大隊長:佐乙女英武大尉
      • 第1小隊
      • 第2小隊

工兵隊[編集][編集]

  • 近衛工兵小隊(6名、下士官25名、兵卒145名)小隊長:藤井巴諸大尉
    • 第1分隊
    • 第2分隊長:入江倫愛中尉
    • 第3小隊
    • 第4分隊
  • 工兵第1大隊(士官13名、下士官50名、兵卒221名)大隊長:山内通義少佐 副官:坂本中尉
  • 工兵第2大隊(士官7名、下士官46名、兵卒190名)-大隊長:村井寬温大尉、 副官:高橋是哉少尉
    • 第1小隊-小隊長:諫早清春大尉(3月7日戦死)
    • 第2小隊 - 小隊長心得:近藤正近中尉(5月より大尉、小隊長)
    • 工兵第6小隊(士官4名、下士官23名、兵卒76名)小隊長:筒井義信大尉、小隊附:島尾政之助少尉(3月24日戦傷死)

その他各部隊[編集][編集]

  • 遊撃別手組(士官3名、下士官8名、兵卒180名)
  • 別働遊撃隊(士官8名、下士官11名、兵卒313名)
    • 第1中隊
    • 第2中隊
  • 警備隊(士官9名、下士官44名、兵卒254名)-警備隊司令:高田吉岳大尉(8月6日戦死)
    • 第1小隊
    • 第2小隊

征討軍編成[編集][編集]

上記鎮台戦力や近衛兵、屯田兵などの部隊を随時征討軍に編成し、各旅団を編成した。 官軍各旅団の指揮官ら 西南戦争時の官軍兵士の絵

  • 第1旅団:計6400名、うち本部附計175名
    • 司令長官:野津鎮雄陸軍少将
    • 第1連隊
      • 第1大隊(歩兵第1連隊第1大隊)
      • 第2大隊(歩兵第8連隊第2大隊)
    • 近衛歩兵第2連隊第1大隊第2中隊(5/1~5/5編入)
    • 近衛歩兵第2連隊第2大隊(5/1~5/5編入)
    • 歩兵第1連隊第3大隊(5/1~5/5編入)
    • 歩兵第3連隊第3大隊2・3・4中隊(4/27編入)
    • 歩兵第9連隊第2大隊(3/10編入)
    • 歩兵第12連隊第2大隊第1中隊(4/27編入)
    • 歩兵第14連隊第2大隊第2・3中隊(3/7編入)
    • 遊撃歩兵第6大隊(6/19、8/3編入)
    • 遊撃歩兵第8大隊(6/19編入)
    • 予備砲兵第1大隊第1小隊(5/1~5/5編入)
    • 工兵第1大隊第2小隊(5/1~5/5編入)
  • 第2旅団:計6300名
    • 司令長官:三好重臣陸軍少将(2月29日-)、大山巌陸軍少将(3月10日(別働第1旅団司令長官兼任)-)、黒川通軌陸軍大佐(5月13日-)
    • 近衛歩兵第1連隊(2/19編入)
    • 歩兵第2連隊第1大隊第1中隊(5/2編入)
    • 歩兵第6連隊第3大隊第4中隊(5/2編入)
    • 歩兵第8連隊第3大隊(3/10編入)
    • 歩兵第9連隊第1大隊(3/10編入)、第3大隊第2中隊(5/2編入)
    • 歩兵第10連隊第2大隊、第3大隊第2中隊(5/2編入)
    • 歩兵第11連隊第2大隊大3・4中隊、第3大隊第1・3・4中隊(3/10編入)
    • 遊撃歩兵第7大隊第1・2・3中隊(7/24編入)
    • 別働狙撃大隊(7/17編入)
    • 砲兵第1大隊(5/5編入)
    • 砲兵第4大隊第2小隊(5/2編入)
    • 工兵第2大隊第2小隊(5/5編入)
    • 近衛工兵隊第1小隊第1分隊(5/2編入)
  • 第3旅団:計5000名
    • 司令長官:三浦梧楼陸軍少将(3月10日-)
    • 近衛歩兵第2連隊第1大隊第1・3・4中隊(2/25編入)
    • 歩兵第2連隊第1大隊第2中隊(5/4編入)、第3大隊1・2・4中隊(2/25編入)
    • 歩兵第3連隊第3大隊第1中隊(2/25編入)
    • 歩兵第6連隊第1大隊(2/25編入)、第3大隊第1・2中隊(5/4編入)
    • 歩兵第8連隊第1大隊(2/25編入)
    • 歩兵第9連隊第3大隊第3・4中隊(3/28編入)
    • 歩兵第10連隊第3大隊第1・3・4中隊(2/25編入)
    • 歩兵第11連隊第1大隊第3中隊、第3大隊第2中隊(2/25編入)
    • 歩兵第12連隊第2大隊第2・4中隊(4/26編入)
    • 歩兵第14連隊第1大隊第1・2中隊(3/7編入)
    • 予備砲兵第2大隊第1小隊(3/14編入)
    • 予備砲兵第4大隊第1小隊(2/25編入)
    • 工兵第1大隊第1小隊第1分隊(3/11編入)
    • 工兵第2大隊第1小隊(2/25編入)
  • 別働第1旅団:計4200名
    • 司令長官:大山巌陸軍少将(2月27日-)、高島鞆之助(3月28日-)
    • 独立第1大隊(4/22編入)-大隊長:沖原光孚大尉
      • 歩兵第2連隊第1大隊第3中隊、第2大隊第1中隊、第3大隊第3中隊
      • 歩兵第11連隊第1大隊第1中隊
    • 独立第2大隊(4/22編入)
      • 歩兵第5連隊第1大隊第3・4中隊
      • 歩兵第6連隊第2大隊第3・4中隊
    • 歩兵第7連隊第1大隊(3/16編入)
    • 歩兵第10連隊第1大隊第2・3・4中隊(3/16編入)
    • 歩兵第11連隊第1大隊第4中隊(3/16編入)
    • 歩兵第12連隊第1大隊、第3大隊第2・3・4中隊(3/8編入)
    • 歩兵第13連隊第1大隊(4/9編入、4/16還付)
    • 遊撃別手組(5/10編入)
    • 近衛砲兵大隊第1小隊(4/25編入)
    • 近衛工兵第2・3・4分隊(6/5編入)
  • 別働第2旅団:歩兵4個大隊約2800名、および警視隊約1200名
    • 司令長官:山田顕義陸軍少将(3月28日-)
    • 歩兵第1連隊第2大隊(3/21編入)
    • 歩兵第3連隊第1大隊第1・2・4中隊(3/21編入)
    • 歩兵第6連隊第2大隊第1・2中隊(3/20~3/24編入)
    • 歩兵第7連隊第2大隊(4/22編入)
    • 歩兵第12連隊第2大隊第3中隊、第3大隊第4中隊(3/21編入)
    • 遊撃歩兵第7大隊第4・5中隊(8/2編入)
    • 後備歩兵第2大隊(4/26編入)
    • 屯田兵第1大隊(4/26編入)
    • 教導団選抜隊(3/25編入)
    • 狙撃隊(3/25編入)
    • 砲兵第1大隊第2小隊(3/28編入)
    • 工兵第1大隊第1小隊(3/28編入)
  • 別働第3旅団:警視隊員4759名、うち本部附154名
    • 司令長官:川路利良陸軍少将兼大警視、大山巌陸軍少将(6月28日(別働第5旅団司令長官兼任)-)
    • 参謀長:福原和勝陸軍大佐(3月23日戦死)、山地元治陸軍中佐、田辺良顕陸軍中佐兼少警視
    • 第1大隊(412名)-大隊長:迫田利綱権少警視、副官:小野田元熈三等大警部兼陸軍歩兵中尉
      • 第1中隊、 第2中隊、 第3中隊
    • 第2大隊(403名)-大隊長:八木信守中尉
      • 第1中隊、 第2中隊、 第3中隊
    • 第3大隊(589名)-大隊長:宇都純隋中尉(6月4日 -)
      • 第1中隊、 第2中隊、 第3中隊
        • 第3中隊第1小隊長:加治木正衛二等少警部(4月20日戦死)
    • 第4大隊(564名)-大隊長心得:川畑種長大尉
      • 第1中隊、 第2中隊、 第3中隊
        • 第1中隊第2小隊長:小林作助二等少警部(5月11日戦死)
    • 第5大隊(607名)-大隊長:藤崎供秀二等中警部兼中尉
      • 第1中隊-中隊長:大浦兼武陸軍少尉
      • 第2中隊
      • 第3中隊
    • 徴募隊(10個小隊815名)-指揮長:江口高確少佐
    • 新徴募隊(10個小隊992名)-指揮長:上田良貞中尉
    • 砲隊:56名-隊長:丸田近方中尉
    • 遊撃隊:70名-隊長:池田兼視中尉
    • 輜重隊:70名-指揮長:某二等少警部
    • 歩兵第3連隊第1大隊1個中隊(前述)
  • 別働第4旅団:計1700名
    • 司令長官:黒川通軌陸軍大佐
    • 歩兵第2連隊第1大隊第4中隊、第2大隊第3中隊(3月下旬編入)
    • 歩兵第3連隊第1大隊第4中隊(3月下旬編入)
    • 歩兵第4連隊第2大隊第3・4中隊(3月下旬)
    • 歩兵第10連隊第1大隊第1中隊(3月下旬編入)
    • 遊撃歩兵第1大隊(3月下旬編入)
    • 遊撃砲兵第1中隊(4・5編入)
  • 別働第5旅団(4月21日に解団)
    • 司令長官:大山巌陸軍少将(4月13日-4月21日)
    • 教導団歩兵1個大隊、同工兵1個大隊(4/13編入)
    • 後備歩兵1個大隊(4/13編入)
    • 東京鎮台より歩兵2個中隊(4/13編入)
    • 広島鎮台より歩兵1個中隊(4/13編入)
    • 混成大隊より歩兵2個中隊(4/13編入)
    • 混成大隊より砲兵1個小隊(4/13編入)

海軍[編集]

西南戦争の意義[編集]

官軍と西郷軍の激突を描いた錦絵

経済的意義[編集]

1871年廃藩置県で全国の直轄化が完成した明治政府だったが、反面、各の借金および士族への俸禄の支払い義務を受け継ぐことになり、家禄支給は歳出の30%以上となってしまった。政府は、赤字財政健全化のため、生産活動をせずに俸禄を受けている特権階級の士族の廃止を目的に四民平等を謳い、1873年徴兵令1876年秩禄処分を行った。これで士族解体の方向が決定付けられてしまったため、士族の反乱が頻発し、西南戦争に至る。

政府の西南戦争の戦費は4100万に上り、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大になった。政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し(→国立銀行)、インフレーションが発生した。このため、のちの大蔵卿松方正義は、増税、官営企業の払い下げ、通貨整理を行って兌換紙幣発行に漕ぎ付け、通貨の信用回復により日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られた。しかし、この過程で松方デフレが発生し、農民小作化が進んで(小作農率の全国平均38%→47%)、大地主が発生した。また、小作を続けられないほど困窮した者は都市に流入し、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、都市部の貧困層が拡大した。また、財政難となった国は、「原則国有」としていた鉄道の建設が困難になり、代わって私有資本による鉄道建設が進んだ(→日本の鉄道史)。

西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成できなかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアートを増加させた。その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となった。結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差は拡大した。

政治的意義[編集]

官僚制の確立[編集]

官僚制が確立し、太平洋戦争による敗戦まで続く、内務省主導の政治体制が始まった。

軍事的意義[編集]

西南戦争は日本最後の内戦となり、士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させて終焉した。士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着した。

一方で、兵力と火力に勝っていながら、鎮台兵は戦術的戦闘ではしばしば西郷軍の士族兵に敗北し、両軍の死傷者数は結果的に大差なかった。田原坂の戦いでは、薩摩軍側は「雨、赤帽、大砲」を脅威としてとらえていた。雨は薩摩軍の主力である前装式銃に不利であり、赤帽は官軍側の旧士族による近衛兵切り込み部隊のことで、平民歩兵は脅威の度合いが比較的低かった。ただし官軍兵の後装式銃は、薩摩軍側の突撃を撃退する際には威力を発揮した。官軍側は小銃弾をひたすら浪費した。この戦争で官軍側が使った小銃弾は約3500万発で、これは2000発撃って薩摩軍兵士一人を殺傷した計算となり、日露戦争時の日本軍側の500発/ロシア兵一人と比べても際立っている。また官軍側の動員した野戦砲は54門であり、大砲は総じてさほど重視されなかった。一方で両軍の海軍力の差は決定的なものであり、海路で鹿児島を衝いた柳原勅使隊は戦局に大きな影響を与え、人吉戦以降の兵士海上輸送も有効に働いた。

兵士の戦意、士気の問題は政府軍にとって解決すべき課題であった。西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まった。西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになった。

スナイドル弾薬製造装置を取り上げられても西郷軍がエンフィールド銃で戦い、巨額の戦費を費やしてこれを鎮圧せざるを得なかったことを反省して、旧式ではあっても継戦能力に優れた前装銃が各地に分散保管されている状況を危険視した政府は、西南戦争後の明治11年からこれらを回収し、まとめてスナイドル銃に改造して、軍による造兵施設の独占と軍用銃の所持を厳しく規制することで、国民の武装を封じて内乱の再発を防ごうと努めた。

警察的意義[編集]

川路利良は、明治6年(1873年)10月に警察制度について非公式に建言した。フランスなどヨーロッパの警察を視察した上で、フランスなどでは「地方の一揆暴動」に対してみだりに兵(軍隊)を動かすのは恥と認識されており、警察による出動で対処していると報告した。

警視庁は、士族の反乱に対処するため、地方への出動を合法化するため一時「東京警視本署」と改称し、西南戦争でも大きな戦力となった。

しかし、西南戦争の終結後、警察は内乱への対処から、日常的な秩序維持へと機能の再転換がはかられた。明治14年(1881年)に東京警視本署は警視庁に戻され、定員は6000人から半減し、半数は新設の陸軍東京憲兵隊に移された。また、陸軍から借りていた小銃などの武器も返された。

現在の警視庁平成26年(2014年)に行った「140年の重大事件」アンケートにおいて、警視庁職員によるアンケートで「西南の役(西南戦争)」は9位に挙げられている。

西南戦争を題材とした作品[編集]

歌舞伎
小説
映画
テレビドラマ
ウォーゲーム
  • 伏見基行【激闘、田原坂】,季刊タクテクス No.13,ホビージャパン
※タクテクス末期の季刊時代に、通常ページに掲載されたミニゲーム。
※同じ号の「燃えよ!姉川の戦い」と共に発表されたいわゆるセカンドゲーム。1時間強でプレイできる小品。
※入門者向けの2時間程度でプレイできる小品に、歴史解説を添付した同誌の典型的な形式のゲームムック。
音楽
スウェーデンのヘビーメタルバンドの楽曲。

文明開化[編集]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動検索に移動 文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代日本西洋文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていた。 近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。その社会が変化していく時代を強調し「開化期(かいかき)」、「御一新(ごいっしん)」とも呼ばれる。

目次[編集]

概要[編集][編集]

3代歌川広重「東京名所之内 銀座通煉瓦造 鉄道馬車往復図」(1882年) 「文明開化」という言葉は福澤諭吉が『文明論之概略』明治8年(1875年)の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。この中では単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、さらには既存文化を西洋風にアレンジしたものなど多岐に渡り、過渡期的には熱病の如き流行となって様々な社会階層に受け入れられていった。

この時代を象徴する言葉として有名なものに「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という言葉があり、散切物と呼ばれる歌舞伎芸能の新形態発生などといった現象がみられ、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』にある「牛鍋食わぬは開化不進奴」(現代風に意訳すれば「牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だ」)といった食文化の変化などが、大衆の生活にも取り入れられていった様子が窺える(後述)。

明治新政府が推進した殖産興業富国強兵脱亜入欧などの一連の政策の推進や西洋建築(→西洋館擬洋風建築)、散髪、洋装、洋食などの奨励がみられる。ただ、こういった西洋化は都市部や一部の知識人に限られた西洋文明の摂取でもあったとも指摘されており、地方町村部では場所により昭和に入る頃まで明かりといえば菜種油行灯を灯し、郵便電信など西洋化の恩恵は中々届かず、また長らく江戸後期の伝統や風習が続くなど、生活の変化は遥かに緩やかなものであった。

開国以来、日本を訪れた外国人によって日本の習俗は好奇な視点で報じられていた。西欧化を目指す明治新政府は新しい日本を誤解されないために、日本土着の習俗や信仰を「悪弊」「旧習」と呼び、民衆の「迷蒙」を啓くための政策を取った。新政府の方針に従い自治体主導で従来の生活文化や民俗風習の排除が行われ、文明開化政策の影響で縮小や途絶した民俗風習も多い。例えば、明治5年の太陽暦の導入によって、七夕初盆など太陰太陽暦農事暦によって定められていた「遊び日」は改良された。また、廃仏毀釈とともに、明治6年の教部省の通達によって山伏などの加持祈祷シャーマニズムは公には認められなくなった。さらに、和人文化だけに止まらず、刺青イオマンテ熊送り)などが禁止されアイヌ文化琉球の文化にも影響を与えた。明治5年に東京府が布達した違式詿違条例では、屋外で裸体になることや、理由の無い女性の断髪は軽罪とされるなど、風俗を一様にするための事細かい規定が設けられ、開化政策の影響は生活の隅々に及んだ。

なお、急速な西洋化の一端には、西洋列強国が当時盛んに植民地経営で、莫大な富をアジア諸国から吸い上げていたことに対する危機感も見出される。[要出典]この中では、上に挙げた富国強兵の一環で西洋軍事技術の導入も盛んに行われ、軍隊では兵隊の腕力や体力を強化する目的で、提供される食事(軍隊食)までもが西洋化された。ただ、当時発足したばかりの日本軍は地方農村部などの次男・三男を集めた集団であり、米飯日本食で育った彼らの中には、あまりに異質な西洋の料理に対して拒否感を示す者も見られた。このため海軍などでは米飯とカレーを組み合わせる・肉じゃがのように醤油味の折衷料理を開発するなど工夫を凝らした。カレーライスは後に横須賀海軍カレーとして、また肉じゃがのような料理も軍港周辺部へと広がっていき、時代を下って昭和時代にもなると、一般的な家庭の味として広く受け入れられている。

文明開化に関する事象[編集][編集]

制度の近代化

交通・通信

建築・都市

官営工場

人名

服飾文化

  • 明治4年(1871年)に断髪令が出された。 - 「頭を叩いてみればの音がする。を叩いてみれば王政復古の音がする。を叩いてみれば文明開化の音がする。」
  • 廃刀令
  • 軍隊の制服
  • 洋服
  • こうもり傘

食文化

教育

ジャーナリズム・出版

舞台芸術

お雇い外国人

日清戦争[編集]

当時の中国は清という国が統治していた。

ここでウィキペディアの記事でおおよその概略をのせます。

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。

講和条約の中で日本は、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾澎湖諸島遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費及び皇室財産となった。[1][2]

戦争目的と動機[編集]

日本

‘’’宣戦詔勅’’’ 「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」

『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある。 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。

三谷博並木頼寿月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会2009年)の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。

清国

宣戦詔勅「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」

西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)を近代的な宗主国と植民地の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした。

前史1:日本の開国と近代国家志向[編集]

日清戦争について1)江華島事件(外交面)を、2)1890年代の日本初の恐慌(経済面)を、3)帝国議会初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある[1]。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。

西力東漸と「日清朝」の外交政策等[編集]

19世紀半ばから東アジアは、西洋列強の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった。

詳細は「アヘン戦争」および「アロー戦争」を参照

大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ。

詳細は「黒船来航」および「明治維新」を参照

日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権文明開化富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。

前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢[編集]

朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変[編集]

朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が既定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した。

詳細は「壬午事変」を参照

1882年(明治15年)7月(光緒8年6月)、首都漢城で、処遇に不満を抱く軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な大院君らの思惑も重なり、日本人の軍事顧問等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の花房義質に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった。8月30日7月17日)、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。

日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた。その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識を持つ翰林院張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。

詳細は「甲申政変」を参照

1884年(明治17年、光緒10年)、ベトナムを巡って清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日10月17日)にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。

政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した。なお、日本国内では、天津条約が締結される1か月前の1885年(明治18年)3月16日時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。

詳細は「天津条約 (1885年4月)」を参照

1885年(明治18年)4月18日(光緒11年3月4日)、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。

朝鮮情勢の安定化を巡る動き[編集]

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年) 日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。

旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった。しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。

清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日3月1日)に巨文島を占領した。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫してしまう。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した。

朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日日英通商航海条約に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった。

日本の軍備拡張[編集]

明治維新が対外的危機をきっかけとしたように帝国主義の時代、西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、血税一揆士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された。ただし、1877年(明治10年)の西南戦争後、陸軍の実力者山縣有朋が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。

軍拡路線への転機は、1882年(明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した壬午事変であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した(同年度の一般会計歳出決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌1883年(明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の1892年(明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった。

軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、1888年(明治21年)に山縣は、内閣総理大臣伊藤博文に対し、次のように上申した。

我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り。

現実に1884年(明治17年、光緒10年) - 翌年の清仏戦争(ベトナムがフランスの保護領に)、1885年(明治18年、光緒11年) - 1887年(明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、露朝密約事件(ロシアと朝鮮の接近)、ロシアのシベリア横断鉄道敷設計画(1891年(明治24年)起工)があった。

その上、1884年(明治17年、光緒10年)の甲申政変(日清の駐留軍が武力衝突)、1886年(明治19年、光緒12年)の北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」等)来航時の長崎事件など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定で考えられていた(1885年(明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦であった)。

なお、1885年(明治18年)5月、兵力倍増の軍拡計画にそった鎮台条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに1888年(明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された近衛師団を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略に替わり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため、後記の通り、日清戦争の大本営「作戦大方針」に制海権で三つの想定があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、元勲第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の井上馨宛てに次のように書き送った。

平壌陥落は実に意外の結果……引き続き〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外……(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)

軍拡の結果、現役の陸軍軍人・軍属数は、西南戦争前年の1876年(明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の1893年(明治26年)に73,963人となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)となった。

日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立[編集]

1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように朝鮮の中立化を構想した。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革を図ろうとした。

しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の青木周蔵、陸軍大臣の大山厳、海軍大臣の樺山資紀が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など元勲の指導する前者が優位に立っていた

1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、第2次伊藤内閣第1次山縣内閣と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣(陸奥宗光)と軍部(参謀次長川上操六陸軍中将)の連携が再現されることとなる。

朝鮮に関する開戦前年の「日清」関係[編集]

甲申政変後に締結された天津条約(1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された独立党が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の1893年(明治26年、光緒19年)、日本公使大石正巳の強硬な態度により、日朝間で防穀令事件が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、大鳥圭介が公使に就任)。

このように開戦前年の伊藤内閣は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌1894年(明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。


戦争の経過[編集][編集]

両軍の進撃経路

開戦期[編集][編集]

朝鮮国内の甲午農民戦争[編集][編集]

詳細は「甲午農民戦争」を参照

1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた。1894年(光緒20年)春、朝鮮で東学教団構成員の全琫準を指導者に、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。5月31日4月27日)、農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。なお、6月10日または11日(5月7日または8日)、清と日本の武力介入を避けるため、農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結んだとする話が伝わっている(一次資料が発見されていない)。

日清の朝鮮出兵[編集]

当時の第2次伊藤内閣は、条約改正のために3月に解散総選挙(第3回)を行ったものの、5月15日に開会した第六議会で難局に直面していた。同日、駐英公使青木周蔵より、日英条約改正交渉が最終段階で「もはや彼岸が見えた」との電報が届き、18日に条約改正案を閣議決定した。悲願の条約改正が先か、対外硬六派による倒閣が先か、日本の政局が緊迫していた。その頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、外務大臣陸奥宗光が伊藤首相に「今後の模様により……軍艦派出の必要可有」と進言した(5月21日付け書簡)。

5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案が可決されたため、伊藤首相は、弾劾を受け入れて辞職するか勝算のないまま再び解散総選挙をするか、内政で窮地に陥った。翌31日、文部大臣井上毅が伊藤首相に対し、天津条約に基づく朝鮮出兵の事前通知方法と、出兵目的確定について手紙を送っており、首相周辺で出兵が研究されていた。

開会から18日後の6月2日、伊藤内閣は、枢密院議長山縣有朋を交えた閣議で、衆議院の解散(総選挙(第4回))と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成旅団(戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した。5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上初めて大本営を設置し(実態上戦時に移行)、大本営の命令を受けた第五師団長が歩兵第九旅団長に動員(充員召集)を下命した。ただし、派兵目的が公使館と居留民の保護であったこともあり、陸軍に比べて海軍は初動が鈍く、また修理中の主力艦がある等この時点で既存戦力が揃っていなかった。

日本が大本営を設置した6月5日5月2日)、清の巡洋艦2隻が仁川沖に到着。日清両国は、天津条約に基づき、6日(3日)に清が日本に対し、翌7日(4日)に日本が清に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日(5日)から12日(9日)にかけて上陸させた陸兵2,400人を牙山に集結させ、25日(22日)に400人を増派した。対する日本は、10日(7日)、帰国していた公使大鳥圭介海軍陸戦隊警察官430人をつけ、首都漢城に入らせた。さらに16日(13日)、混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。




















夏目漱石の文学[編集]

明治時代に日本文学の向上に夏目漱石先生の貢献は、非常におおきいです。

初期の「吾輩は猫である」や『坊ちゃん』にみられるように

明るくユーモラスな作風で人気を博した。

晩年の「こころ」や「三四郎」ではどこか暗いイメージの中に

人間とはどうあるべきかを問いかけるメッセージ性のつよい作風になりました。

生涯[編集]

夏目漱石先生は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に生まれました。

あの時代、太陰暦だったため混乱をするかもしれませんが、ここにのこします。

先生の生まれた地は江戸の下馬込馬篭







日露戦争とその時代[編集]

日露戦争  日本軍の起源と軌跡[編集]

日露戦争は明治末期にロシアと戦争を繰り広げ世界に1等国の評価を与えたおおきな出来事として評価されている。

この記述を通じて日本人とは何であったのか考えてゆきたい。

このころの日本は、日清戦争で、清に勝ちはしたものの遼東半島の租借権をロシアの三国干渉で、放棄されて、

ロシアに対して宣戦布告せよとの気運が高かった。

ロシアの南下政策は、日本に危機感をもたせた。

1年間という期間でありながら、満州や遼東半島の帰属問題など、後に太平洋戦争にも相通じる問題もみえる。

発端

この戦争の発端となった事件が実は、定かではない。

近年は、ロシア軍の兵士が、朝鮮の山林を日本に無断で伐採をはじめたことを日本側から抗議したことが、

両国の間で問題となった。

確認は、できないが、ここに記す。

伊東博文のロシア訪問[編集]

司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」からを参考に短いがふれてみる。

伊東博文元老は、幕末の志士時代に諸外国列強の力による外交、

いわゆる砲艦外交には本当に苦い思いをもっていたよう問いかけるです。

帝国主非常義とは、強い軍隊の後押しにより多くの植民地をもち

そこから国の資産を勝ち取ることを意味します。もちろん、ロシアに対抗できる国力なんてこのころはないです。

小村寿太郎の意見書[編集]

伊東博文の意見に対して、小村寿太郎という外交官の意見書は、イギリスと同盟を結びロシアに対抗しようというものでした。

このころのロシアは、ユダヤ人政策に物凄く手を焼いて、国がまとまらないようになってゆきますが、

後にロシア革命が発生し、共産主義が誕生しようとはだれも予測はできませんでした。

これ以前の日本は、外国との条約といえば、アメリカ、フランスとのあいだで江戸時代末期に結ばれた日米通商条約、日米修好条約などがありましたが、

日本に取っては、あまり満足のいくような条約ではありません。

小村寿太郎という人の先輩に陸奥宗光という有名な外交官が世界をまわって苦労して不平等条約の改善につとめました。

日英同盟[編集]

この同盟は、戦後の日米同盟の手本になったのではないかと筆者はおもうのですが・・・・。

ここは少し勉強しながら書きこんでゆきます。

当時のイギリスは大英帝国と呼ばれ、インドに東インド会社を設立し、世界中に植民地をもっていました。

強い海軍をバックボーンとした。とした。その戦略は日本のお手本になりました。

バルチック艦隊[編集]

バルト海を拠点としたロシアの艦隊で当時は世界最強を誇ったといわれる。

旅順艦隊が中国で進駐して日本艦隊と交戦していたが、日本は封じ込め作戦を発動して次第に劣勢になってゆく。

そんな時当時は信じがたいことであったのだろうか。日本陸軍により旅順が陥落したというのである。

これは、ロシアにとって一大事であった。

奉天の戦い[編集]

このころのロシアの情勢は厳しさがあとをたたなかった。ロシア革命がおきていたので、ロシア側派兵をアジアにむけることができなくなっていた。旅順での戦いは予想以上に戦力の消耗を招いていたが、ロシア軍は巨大で存在感があった。

逆に日本側をみても戦力の消耗が激しく戦争継続が困難になっていた。

そこで、陸軍は奉天を占領することで戦局を有利に終わらせようとかんがえました。

奉天攻略も予想以上に激しい戦闘が続き奉天はついに陥落しました。

日本海海戦

このころの海軍は、悲壮感がただよっていた。

旅順に進駐していた。ロシア海軍とバルチック艦隊に迎撃されては、とても太刀打ちできないことは、だれもがわかっていることだった。

だからこそ、戦力の消耗を招いてでも、203高地を奪取することを海軍が主張したのでありました。

陸軍は203高地にそれほど価値はないと最初は考えられていましたが、乃木将軍の機転の利いた攻撃で、203高地が占領することに成功し、

旅順艦隊は全滅するに至り、これは、ロシア軍をおどろかせました。

バルチック艦隊は、地中海から遠征してきたため十分な補給や補充もできないことも災いした。

よって東郷将軍に、指揮された。連合艦隊は、対馬沖においてバルチック艦隊を撃破した。

ポーツマスにおいて講和条約が結ばれ、これで日露戦争は、幕を閉じる。

東郷平八郎と連合艦隊[編集]

東郷平八郎大将は、そのまま海軍の歴史を歩んできたといっていいほど、日本海軍初期に多大な貢献をしたといっていい。

その名は海外でも聞かれ、とても人気のある軍人であり、現在では、軍神となっている。

東郷平八郎の人生は日本軍の創成期をいきたものといっていい

そして東郷提督の仕事は日清戦争のころまでさかのぼる。

東郷平八郎の略歴[編集]

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日1848年1月27日) - 昭和9年(1934年5月30日)は、日本海軍軍人。最終階級元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階従一位勲位大勲位功級功一級爵位侯爵

日清戦争では「浪速艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山海の東郷」「東洋のネルソン」と呼ばれた。

山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で、ホレーショ・ネルソンデヴィッド・ファラガット東郷平八郎の3名について特記している。

明治時代日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

誕生地 弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現・県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎。14歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久3年(1862年)、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟箱館まで転戦して阿波沖海戦箱館戦争宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、壮年期においては料亭「小松」で芸者から随分もてたとされる。


イギリス留学[編集]

留学時の東郷(1877年) 明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。

よく知られる逸話に、東郷は当初、鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定したという風説があるが、実際には小笠原長生が東郷から直接聞いた思い出話に西郷や大久保の名前は無く、選抜の成否がわからなかったので易者に占ってもらったと述べているのみである。

当初ダートマス王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミー(英語版)で学び、その後に商船学校ウースター協会(英語版)で学ぶことになる。留学先では「To go, China」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。

この留学の間に国際法を学んだ。後年、東郷は日清戦争時に防護巡洋艦浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)。英国留学で得た知識により、撃沈は国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、この時の沈着な判断力が、後に連合艦隊司令長官に人選される要素となった。

帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。

ハワイでのクーデターに際して[編集]

明治26年(1893年)、ハワイ王国リリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。 女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。

日清戦争[編集]

明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦高陞号事件を含む)、黄海海戦威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。

日清戦争後に一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。

日露開戦前の緊迫時期の明治36年(1903年)10月、海軍大臣山本権兵衛に呼び戻され、日高壮之丞に代わり常備艦隊司令長官に任命される。同年12月に連合艦隊が編成されることになると、第一艦隊連合艦隊司令長官に任命された。日高がそのまま連合艦隊司令長官になると見られていたが、山本が我の強い日高を嫌って、命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えて指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われているが、内田一臣によれば「この人が、ちょっといいんです」だったという。

日露戦争[編集]

連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮をとる東郷、1905年

「日本海から、東郷提督の意気揚々の帰還」(1907年)

明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。旅順封鎖作戦時の触雷による戦艦「初瀬」「八島」の喪失を報告されても周章狼狽せずに両艦の艦長を労い、海軍内の動揺を収めた。6月6日には大将に昇進している。

そして明治38年(1905年5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦クニャージ・スヴォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した(#東郷の肉声も参照)。東郷は敵前で大回頭を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。この回頭は「トウゴウ・ターン」と称された。

この海戦における勝利は、東郷の名とともにロシアのバルチック艦隊の壊滅的敗北が世界中に伝えられ、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。評論家の松本健一は、アンカラにあったトーゴー通りは数年前に「アタテュルク通り」と改名されたと自著の中で述べている。ただし、「トーゴー通り」の名称は「Toygar sokagi」で、「Toygar」はヒバリを意味するトルコ語なので、東郷とは何の関係もない可能性もある[要出典]

日露戦争後[編集]

日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦。

明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。1911年には英国ジョージ五世戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王乃木希典とともに随行。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王閑院宮載仁親王だけだった。また、『タイム』誌の同年11月8日号において、表紙を飾るカバーパーソン初の日本人となった。

晩年[編集]

第一次世界大戦後の海軍軍縮において、末次信正加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用して軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型である。その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。

壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代に内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。


死去[編集]

東郷平八郎の国葬(1934年6月5日)

昭和9年(1934年)5月30日、喉頭癌膀胱結石神経痛気管支炎の悪化のため満86歳で薨去。薨去の前日に侯爵に陞爵。薨去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。 侯爵東郷平八郎へ賜誄の碑文(多磨霊園) 6月5日国葬が執り行われた。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍支那艦隊の重巡洋艦サフォーク」(司令長官ドレーヤ(英語版)大将、艦長マナーズ(英語版)大佐)、アメリカ海軍アジア艦隊(英語版)の重巡洋艦「オーガスタ」(司令長官アッバム(英語版)大将、艦長ニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」(司令長官リシャール少将、艦隊参謀長兼艦長ルルー大佐)は儀仗隊を葬列に参加させ、日本艦隊と共に横浜港半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」(艦長兼極東イタリア海軍首席指揮官ブリヴォネジ大佐)の横浜入港は夕刻となった。中華民国練習艦隊の巡洋艦「寧海」(司令・王壽廷中将、艦長・高憲申大佐)は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、「寧海」の横浜入港は翌6日となった。

葬儀委員長には有馬良橘海軍大将、副委員長には内閣書記官長堀切善次郎が5月30日に任命された。 しかし、有馬が明治神宮宮司を務めていたため、神官が葬儀に関わることを禁止した通達(『神官葬儀ニ関スヘカラサル事』 明治十五年一月二十四日内務省達 乙第七号)に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり、6月8日には辞任となった。 16日、葬儀委員長に副委員長から堀切善次郎が、副委員長に委員から長谷川清が昇格した。 更に、斎藤実内閣から岡田啓介内閣への交代に伴い、7月10日に葬儀委員長は河田烈へ交代した。

当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。

大正時代[編集]

昭和とまたがって短い期間ですが、この時代はとても重要なので注目してゆきたいとおもいます。

大正時代は、日本元号の一つ。 明治の後、昭和の前。大化以降245番目の元号である。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで。日本の元号として初めて、元年から最終年である15年までの全期間グレゴリオ暦が用いられた。元号が大正であった期間を大正時代(たいしょうじだい)という。



関東大震災[編集]

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年大正12年)9月1日11時58分32秒(11時58分31.6秒、日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。 死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。

概要[編集]

当時の東京府東京市東京15区

円太郎バス(旧:交通博物館蔵) 震災後の神奈川県庁 神奈川県および東京府(現:東京都)を中心に隣接する茨城県千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。

一般に大震災と呼ばれる災害ではそれぞれ死因に特徴があり、本震災では焼死が多かった。また阪神・淡路大震災兵庫県南部地震)では圧死東日本大震災東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い。本震災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み(風害参照)、木造住宅が密集していた当時の東京市東京15区)などで火災が広範囲に発生したためである。

この災害は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前の日本においては、史上最大規模の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃して国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われた。しかし、内閣総理大臣加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死していたため、外務大臣の内田康哉内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁は世界恐慌昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止になった。

この震災により東京市・横浜市から大阪府愛知県など、のちに三大都市圏となる地域に移住する者も多くみられ、特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた(参照)。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため、東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。電話の自動交換機も普及した


状況[編集][編集]

東京帝国大学理科大学教授寺田寅彦は、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災している。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。

T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。

− 駐日フランス大使だったポール・クローデルは罹災しながら、

被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。

と当時の日本人の様子を書いている。

避難[編集]

日暮里駅(移転前)での8620形蒸気機関車牽引の避難列車。

靖国神社に設置された仮設住宅

東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査によれば、9月5日に避難民1万2千人以上を数える集団避難地は160か所を記録。もっとも多い場所は社寺の59か所、次いで学校の42か所だった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑宮城前広場などに設営された。また9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査では、市・区の管理するバラックが101か所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化した。一部ではスラム化の様相を見せたため、翌年には内務省社会局・警視庁・東京府・東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去にあたっては、東京市が月島三ノ輪深川区猿江に、東京府が和田堀・尾久王子に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。

軍は橋をかけ、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号)という評価は、町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた。

震災後、日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された。

被害[編集]

190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞読売新聞国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋京橋下谷浅草本所深川神田殆んど全滅死傷十数万」「電信電話電車瓦斯山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが続いた。




太平洋戦争プロローグ 戦争以前の日本[編集]

太平洋戦争以前の日本は、国際協調を中心とした論調だったといわれています。

大正年間は第一次世界大戦の時代だったのですが、

積極的な兵員の増強もなく、せいぜい山東省出兵とシベリア出兵

ヨーロッパの大西洋上のドイツ軍の潜水艦に対抗するために巡洋艦を数隻出した程度でした。

サラエボ事件

オーストリアという国はドイツと隣接した国でありフランスとも関わりがあり、

大国であった。この国の皇太子が暗殺されたとされる事件が、世界に大きな衝撃を与え、

世界を巻き込むと誰が想像できただろう。

ユトランド沖海戦

これは、日本の動向とは直接関係ないのだが、日本軍の大艦巨砲主義のそもそもの動機になった海戦でもある。

この海戦はドイツの戦艦がイギリスの戦艦に多大な損害を与えながら結局ドイツの戦局を好転させたわけではなく、

そのままドイツが敗戦したのだが、潜水艦による通商破壊作戦や戦艦の設計思想は、

日本に多大な影響をおよぼしていたかもしれないのである。

対華二十一条の要求

この要求は、のちの日本と中国の関係を悪化させていったと筆者は考える。

これは加藤高明政権のときのできごとで、もちろん当時の日本にも中国の有力者とパイプをもっていたひとがいて、

意見をだしていたかもしれないが・・・・・。

現実には中国との関係に溝ができてしまったのである。

その詳細は次の通り、ウィキペディアの記事を参考にさせていただきます。

ここでは、第5条までしかのせられませんが・・・・・・

  • 第1号 山東省について
    • ドイツ山東省に持っていた権益を日本が継承すること
    • 山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
    • 芝罘または竜口膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
    • 山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること
  • 第2号 南満州及び東部内蒙古について
    • 旅順大連関東州)の租借期限、満鉄安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2002年まで)
    • 日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
    • 日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
    • 日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
    • 他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
    • 政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
    • 吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
  • 第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について
    • 漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
    • 漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
  • 第4号 中国の領土保全について
    • 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
  • 第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他
    • 中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
    • 中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
    • これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること
    • 一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
    • 武昌九江を連絡する鉄道、および南昌杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
    • 福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
    • 中国において日本人の布教権を認めること


太平洋戦争 開戦の記憶[編集]

第1章 太平洋戦争前夜[編集]

日中戦争は、 日本と中国が15年に渡ってくりひろげられた戦争である

太平洋戦争ともつながりが深いものもある

きっかけは、盧溝橋事件とよばれる事件がおこり

それによって、日本軍が中国の満州地方を制圧したところから話は始まる

国際連盟脱退

当時の松岡洋祐外相は、東条英機の考えに近い人でした。

日本は、満州国を建国して国の基盤をととのえようとかんがえていましたが、

中国の考えていることと相いれられるわけでは、ありませんでした。

一等国といわれていても、諸外国ではたらいていた。

日本人は、よい扱いをうけてこなかったのです。

それでも日本人はがまんしつづけていました。

しかし、我慢にも限界があり、国際協調という考えに疑問をもっていたひともおおかった。

それが、国際連盟脱退につながります。

満州国建設

今の中国の東北地方一帯を昔日本軍の関東軍が支配していました。

満州は、モンゴルに近いので、開拓団が組織されました。

満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とよばれます。

満州鉄道(まんしゅうてつどう)も創設され中国にインフラが整備されてゆきます。

しかし、実際は、ここは中国の土地であり中国の人は、あまりこころよくおもっていません。

そこで、清王朝最後の皇帝でもあった溥儀(ふぎ)という人を招待して皇帝となりました。

満州国は、その成立過程で、日本に都合のよいといえば怒られるかもしれないが、

当時の中国はとても反発し世界の論調も日本に批判的でした。

満州鉄道爆破事件

当時の日本は、中国の土地いわゆる山東省に租借権を、もっていました。

第一次世界大戦以降日本経済は、不況を通り越して世界恐慌の波をかぶって、

国民は、明るい展望を未来に見いだせない状況にありました。

満州の開拓は、中国の人に助けになると同時に自分たちにもいい状況がうまれるのではないか?

生活水準の低い一般国民は、満州で暮らすことを夢のようによろこんだものでした。

軍人の人たちも元々は農民出身の人たちが多かったので、

でも、中国の人々の理解を得られることはありませんでした。

そんな中で、満州鉄道爆破事件は起きたのでした。

当初は、事件の犯人は中国の人が鉄道を爆破したという話でした。日本人は多くがこの問題に反発し、

中国に対して敵意を抱くようになりました。(その陰で日本軍が情報を隠し真実をゆがめていたとわかるのは戦争が終わって40年後でした。)

満州事変

これは、支那事変(しなじへん)ともよばれた。この時の参謀が石原莞爾(いしわらかんじ)という人だということだが、正確には満州鉄道爆破事件には

関わっていないとも、関わっていたともいわれ今日まで議論が重ねられている。

もちろん、日本人の中にも中国と戦争するべきではないという意見もありました。

当時は、日本人も中国人も感情的な議論の応酬で、冷静な議論が尽くされていなかったのではないか?と見えるが、日本の世論の雰囲気がとても切羽詰まったものがあり、それがこの戦争になったのではとのおもいがあります。

この時の教訓は現代社会にも生かされるものとかんがえる。

1 太平洋戦争とはいったいどんな戦争だったのか[編集]

ここでは、太平洋戦争の概略を説明したいと思います。

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で日本は世界から注目される国になりました

同時に世界から警戒される国にもなりました

特に中国から警戒され

アメリカからの圧力がありました

それは、大変なものでした

資源の少ない日本にとってアメリカの石油やゴムの規制は

深刻な政治問題となりさまざまなところで

アメリカと話し合いがもたれましたが

解決にはいたりませんでした

中国にとっては日本は侵略国であったかもしれないのですが

日本はとても悩んでいました

折からの日中戦争は

とても長く続けられいつ終わるのか全くめどもたちませんでした

そうしたなかではじめられたのが太平洋戦争でした

2 太平洋戦争の背景[編集]

日中戦争から換算すると日本はこの時期は十五年ほど戦っていたといわれます

日中戦争のもともとの発端は、盧溝橋事件という

出来事がもとになり戦争がはじまりました

3 フランス領インドシナ進駐[編集]

タイ国とインドシナ国の国境線は、いつも緊張関係にあっただから

ここは、治安が悪かった・・・・・

それを見かねたのが日本政府だった

しかし、当時の西欧列強はインドシナの独立をみとめなかった

第一フランス自体が政府自体がナチスの占領下にあり

とてもインドシナまで目が届かなかった

そこで日本が調停に乗り出し昭和16年に和平が成立した

アメリカはこの行動を侵略と認識して

日米関係は悪化した

3.1蘭印作戦[編集]

当時のインドは西インドはイギリス領、東インドはオランダが支配していた

チャンドラボース=スパスという独立運動の指導者がいた

この時期を期に日本に独立の仲立ちを訴えた

はじめこそは日本はこの訴えに難色をしめしていたが

そのうち戦略的にこれは有効な外交カードになるとして

この作戦が実行された

オランダは戦力が整わないうちに日本が攻めてきたので

あっけなく東インドは制圧されてしまった

これは当初は有効だったが

物量が乏しくなってくるとしだいに日本軍は追い詰められてゆくことになるのだが

これで開戦当初の日本の快進撃がはじまるのである

東条英機の登場[編集]

東条英機は軍人出身で、中国戦線の最前線にいた人でした。

もちろんアメリカとの戦争は避けて通れないと考えていたひとだったので、

戦争回避を積極的に推し進めてこなかったので

アメリカとの外交関係は、とても悪かったのでした。

このころの日本は、アメリカから石油の禁輸、鉄くずの輸入差し止めなどの金融制裁がとられていて、

資源確保の問題に直面していました。

第2章 マレー作戦[編集]

山下兵団

山下奉文大将が率いた兵団のことを山下兵団と言う

マレー半島を本拠地に大活躍した師団でもある

山下兵団の輝かしい記録はマレー作戦から始まる

コタバルから上陸した山下兵団は加藤健夫少佐率いる加藤隼戦闘隊の支援をうけて

イギリス軍の航空兵力と沿岸部の守備隊を攻撃した

パーシバル将軍は有能な将軍だったのだが日本軍の戦力を見極めきれなかった

それが随所で決断をにぶらせてしまった

山下将軍は電撃作戦によりイギリス軍を撃破

ついにクレアルンプールを制圧した

結果シンガポールは陥落した

「イエスかノーかはっきりさせてほしい」

降伏をしぶるイギリス軍将校にこの台詞をつきつけて

降伏文書を作成した

のちにこの台詞は有名になった

マレー作戦の目的[編集]

日本が戦争にふみきった理由のひとつが南方の石油資源の確保である

ジャワの天然ゴム、マレー半島の石油資源の確保は日本軍の至上命題であった

第3章 珊瑚海海戦[編集]

珊瑚海海戦は、世界で始めて空母同士で対戦した海戦であった

この海戦は、日本側の記録では大勝利とされ

長く実像が明らかにされなかった海戦でもある

1初めての空母同士の海戦

ここで、初めて日米の航空母艦同士が会いまみえる形となった。

この時期は、アメリカ軍は飛行機の重要性には薄々気がついては、いたのですが、

空母の台数は日本軍のほうが多かったのです。


戦時下の当時の世の中の動き[編集]

この時期のおもな政治の動きも合わせて書き込んでみたいと思う

1941年 昭和16年

「戦艦大和」の就役年はこの年のことといわれている。

この年の3月には松岡洋介外務大臣により日ソ不可侵条約の更新もなされた

この年の11月の御前会議にて対米戦争が決定された

タイ王室のビブン首相が謎の行方不明の騒動のち報道陣の前に姿を現すという事件が起こる

この時期タイ国とフランス領インドシナの和平調停がおこなわれ

日本軍によるフランス領南インドシナ進駐が行われる

これはアメリカの反発を招いた

 1942年 昭和17年の日本の動き[編集]

戦争の前半期は、日本にとってとても有利な展開ですすんだ。

この年の大きな誤算だったのは、東京初空襲を許してしまったことだった

このドーリットル隊のB-24による東京の爆撃は、さほどの被害はなかったが

後のB-29の東京大空襲にもつながるものだったといえる

7 1943年 昭和18年の日本の動き[編集]

この時期の戦局は非常に重要な局面に日本の将来を左右する

日本にとって山本五十六少将の死はかなり打撃であった


8 1944年 昭和19年の日本の動き[編集]

この時期では、早くも連合国同士の首脳が戦後の政治について話し合いをもたれていた

日本は参加していない。その手始めが、ヤルタというところで、アメリカ、ソビエト、中国、イギリスの4か国で会議がもたれた。

そこで、ソビエトの日本に対する宣戦布告が決定した。

9 1945年 昭和20年の日本の動き[編集]

日本海軍は、この時期おもだった艦艇を戦争で失い思ったような作戦を行うことができなかった。

沖縄にアメリカ軍が進出し、大和による、特攻作戦が発動されたが、結局ヤマトは沈没した。

8月に広島に原爆が、続いて長崎にも同じく原子爆弾が投下され

ついに昭和の天皇陛下の聖断がなされ無条件降伏をアメリカ軍の戦艦ミズーリにおいて文書に調印した。

そして・・・・・・。70年後の今、令和の時代は平和の時代にいたる。

太平洋戦争の日本軍の動き[編集]

1941年 12月8日~1945年 8月15日の間に日本とアメリカとの間に戦われた戦争のこと この戦争で多くの兵士、原子爆弾による広島の一般市民への被害や悲劇は いまだに多くの深刻な問題をかかえている また、この戦争の影響で韓国の従軍慰安婦問題が、最近とりあげられ 両国にとって解決させなければならない重要な問題となっている

太平洋戦争の背景

太平洋戦争の背景とするものはいくつかある。


1リットン調査団における中国大陸の欧米列強の分割計画の地図を日本軍が秘密里に入手し、軍部をおこらせたとする説


2 ABCD 包囲陣に見られるアメリカの対応に対し、やむにやまれぬままふみきったとする説


3、当時のアメリカ大統領ルーズベルトが、日本軍の暗号を解読した情報からわざと日本軍に真珠湾を襲撃させたとする 謀略説・・・・・


謀略説は、東京裁判でも追及されたふしがあるが「まさか・・・」ととなえる専門家もいる


いずれにしても真実は藪の中だということが現代の歴史研究家の結論である


もっとも、真珠湾攻撃がアメリカ側からなぜ「だまし討ち」とうけとられたのかは、現代の研究であきらかになった当時のアメリカ軍の宣伝材料になってしまった。


事実「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな!)」当時のアメリカ兵の 合言葉だったといわれている。 それは、当時のアメリカ総領事館の事務員の初歩的なミスにより 日本側の宣戦布告宣言がおくれたことが、後々「だまし討ち」の表現で日本軍を倒す原動力になりました


明治以降、日本人はブラジルや南米に移住して生活するひとも現れ


その人達の仕事ぶりが評価されていたこともあるが、 その現実は、過酷で厳しい生活だったといわれている。

逆にそれを脅威と恐れられたところもなかったのではないだろうか?


それは、今後の研究結果がまたれる




日本海軍の戦闘の変遷[編集]

日本海軍の組織的な戦闘作戦は、どの範囲まで続けられたのか? 諸説ある。ハワイの真珠湾攻撃から昭和19年のレイテ沖海戦までとする説 戦艦大和による沖縄特攻作戦までとする説などさまざまだが、 ミッドウェー海戦までの変遷を追ってみた

真珠湾攻撃[編集]

1941年 12月8日未明 単冠湾に停泊していた日本軍連合艦隊が

ハワイ島にある海軍基地およびアメリカ太平洋艦隊を攻撃した ことがきっかけとなり日本とアメリカは戦争状態となる この当時、日本の零式戦闘機は、まだ無名に近い戦闘機だったが、 この戦闘によって全世界に知れ渡るようになった。 この戦闘で日本は初の酸素式魚雷を投入した この魚雷は酸素ポンプを利用して魚雷の航跡を残さずに攻撃できるので 連合国側の艦艇には最大の脅威となった

ミッドウェー島砲撃

この事実はあまり知られていない史実であるが一応ふれておきたい

この作戦は、2隻の駆逐艦によるミッドウェー島の砲撃を指令されおこなったものである

結果的には成功したのであるが、

この砲撃は後のミッドウェー作戦を立案するひとつのきっかけになったと思われる


真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、: Attack on Pearl Harbor日本時間1941年昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、第二次世界大戦において日本海軍が、アメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊基地に対して行った、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃である。当時の大日本帝国側呼称は布哇比海戦ハワイ海戦、はわいかいせん)である。

太平洋戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦開始に次いで実施され、日中戦争を戦っていた日本は米英など連合国との全面戦争に突入した。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失。開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという作戦目的を達成した

マレー沖海戦[編集]

真珠湾攻撃に呼応して陸軍師団がマレー沖に進出しはじめた


これに危機感をいだいたイギリス政府は戦艦プリンス・オブウェールズと巡洋艦レパルスを派遣した


これに対し日本海軍は陸軍師団に支援するかたちで第22航空戦隊を差し向けた

その内訳は96式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機からなる爆撃機編隊であった 当初、日本側はプリンスオブウェールズをなかなか見つけられなかったが


元山航空隊の索敵によってとうとうプリンスオブウェールズを発見した


長時間の戦闘の末 戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは撃沈された

この作戦の成功により日本軍はマレー半島を制圧し

シンガポールは陥落した

ウェーク島の戦い[編集]

ウェーク島の戦いは真珠湾の戦いのあとで日本海軍陸戦隊とアメリカ海軍海兵隊との戦いで開戦初期の激しい戦いで

結果は日本軍が勝利して占領した

しかしその後もアメリカ軍の抵抗がものすごく激しかった

セイロン島沖海戦[編集]

セイロン島とはインド洋に近い島でありここでイギリス軍の東洋艦隊が再編されるきざしがあった

ここから背後からイギリス軍に挟撃されるのは非常に危険であると判断された日本軍は

ここの東洋艦隊を撃滅させるべく作戦が提案された

結果、イギリスは空母を失ったばかりか植民地も失った事態に陥り

アメリカに協力を要請することになる

珊瑚海海戦[編集]

この戦闘ではじめて日米の空母どうしがあいまみえることとなる この戦闘はアメリカの空母が大破、沈没してしまい 別名「血の海軍記念日」ともいわれる衝撃をうけたが 日本側もベテランの零戦パイロットの消耗が激しく 空母祥鳳を失い双方が痛み分けの結果になったようなイメージを受ける しかし、この時点では、日本側の優位がゆるがなかった

ポートモレスビー攻略作戦は延期せざるを得ずさらなる 問題はこの後のミッドウェー海戦やガタルカナル攻防戦あたりからで、 ここから日本の立場が苦しくなってゆくのであった

ミッドウェー海戦[編集]

太平洋戦争の転回点ともいえる重要な海戦 この海戦で多くのゼロ戦ベテランパイロットを失い また空母赤城(あかぎ)をはじめとする4隻もの空母をうしなった これは、いろんな原因がいわれているが もし、日本軍が、アメリカの艦隊を早く見つけていれば事態は違ったものになったのではないかとかんがえられている

戦艦大和の初陣がミッドウェー海戦だったといわれる。

空母赤城の沈没地点は、あまりはっきりしたところがなく

今もなお捜索が必要とおもわれる。



ガタルカナル島攻略[編集]

ガタルカナルとは、小さい島ではあったが、戦略上とても重要なところでもあった。 なぜなら、オーストラリアやパプア・ニューギニアの日本軍の前線基地にとても近い位置にあったため 自然にこの島の争奪戦は壮絶な消耗戦となった。 地図の上では小さい島ではあったものの実際にはジャングルが生い茂り 視界も悪く疫病に悩まされた 補給もまともにうけられない状態では、早く撤退できればよかったものの 軍令部はガタルカナル等に固執してしまったのであった この誤算は他の軍事作戦に大きく影響をあたえたのだった

太平洋戦争年表[編集]

ここでは、日本軍の軍事作戦の流れを追ってみたいと思います 陸軍よりも海軍による島嶼作戦の意味合いが重要なのがわかります

年表概略[編集]

1941年[編集]

(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃
(昭和16年)12月8日 日本軍 ミッドウェー島砲撃


大日本帝国、アメリカ、イギリスに対し宣戦布告


(昭和16年)12月10日 マレー沖にて 日本軍 イギリス戦艦プリンスオブウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈 (昭和16年)12月10日 日本軍 グアム島を占領 日本軍台湾を占領

(昭和16年)12月11日 ウェーク島沖海戦

 (昭和16年)12月22日 日本軍ウェーク島占領 日本軍がシンガポールに進出


できごと[編集]

1月[編集][編集]

2月[編集][編集]

3月[編集][編集]

4月[編集][編集]

5月[編集][編集]

6月[編集][編集]

7月[編集][編集]

8月[編集][編集]

9月[編集][編集]

10月[編集][編集]

11月[編集][編集]

12月[編集][編集]

1942年[編集]

マッカーサー将軍率いるコレヒドール要塞攻略作戦

(昭和17年)4月18日 アメリカ軍ドーリットル隊による東京初空襲


(昭和17年)6月8日  ミッドウェー海戦

(昭和17年)8月9日  第1次ソロモン沖海戦

(昭和17年)8月29日第2次ソロモン沖海戦
(昭和17年)11月17日第3次ソロモン沖海戦
アッツ島の日本軍守備隊全滅(アッツ玉砕)
キスカ島撤退作戦発令される


1月[編集][編集]

2月[編集][編集]

3月[編集][編集]

4月[編集][編集]

5月[編集][編集]

6月[編集][編集]

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8月[編集][編集]

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10月[編集][編集]

11月[編集][編集]

12月[編集][編集]

1943年[編集]

1943年(昭和18年)4月18日 連合艦隊司令長官 山本五十六大将 ブーゲンビル島上空にて戦死

1944年[編集]

サイパンレイテ沖海戦

硫黄島の守備隊全滅
ペリリュー島の奮戦

インパール作戦発動

1月[編集][編集]

2月[編集][編集]

3月[編集][編集]

4月[編集][編集]

5月[編集][編集]

6月[編集][編集]

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8月[編集][編集]

9月[編集][編集]

10月[編集][編集]

11月[編集][編集]

12月[編集][編集]

芸術・文化・ファッション[編集][編集]

詳細は「1944年のスポーツ」を参照

1944年の野球」も参照

  • 1944年の音楽

詳細は「1944年の音楽」を参照

詳細は「1944年の映画」を参照

1945年[編集]

このころから日本各地でアメリカ軍による空襲が頻繁に起こる

8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾が投下される

(昭和20年)8月15日 日本ポツダム宣言受諾 終戦


できごと[編集][編集]

1月[編集][編集]

2月[編集][編集]

3月[編集][編集]

4月[編集][編集]

5月[編集][編集]

6月[編集][編集]

7月[編集][編集]

8月[編集][編集]

9月[編集][編集]

10月[編集][編集]

11月[編集][編集]

12月[編集][編集]

周年[編集][編集]

周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください、また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください

以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。

芸術・文化・ファッション[編集][編集]

1945年の映画
1945年のスポーツ
1945年の音楽




 ガタルカナル攻防戦から終戦まで[編集]

第1次ソロモン海戦

この海戦はその後3次までおこなわれ激しい攻防戦が米軍との間でおこなわれたのだった 第1次ソロモン海戦は、三川軍一中将のもとで重巡洋艦鳥海を旗艦とする第4戦隊が 担当した
第1次ソロモン海戦は日本軍の勝利におわった しかしこの勝利で戦局がよくなったわけではなかった


第2次ソロモン海戦 この作戦は、ガタルカナルにおいて兵員輸送をおこない支援をしようという目的で行われた作戦でしたが 結果は失敗におわりました

日本軍の損害は空母龍譲に搭載飛行機多数が犠牲になりました

第3次ソロモン海戦 これまでの日本軍の作戦からすると単調な作戦に終始してしまいとうとうガタルカナルの陸軍一木支援隊は 全滅しアメリカ軍に占領されてしまいました

この日本軍の失敗の原因は本来輸送目的に作られた目的ではない駆逐艦を輸送作戦に転用してしまったことが

作戦にあまり効果をもたらさなかったのが理由のひとつに考えられます

アッツ島玉砕 キスカ島撤退作戦[編集]

アッツ・キスカは、アリューシャン列島につながる島々で、アラスカを見渡せる位置にあった ここを抑えることによって北からのアメリカ軍を牽制できる立場にあったが ミッドウェー海戦にて、日本は惨敗してしまったのでここは戦略的な意味がなくなってしまい 逆にアメリカ軍に攻撃しさらされる危険な立場にあった そこで、撤退作戦が提案された しかしアメリカ軍の守備が堅く到底現実には無理な作戦だった そこで木村少将があみだしたのが「木隠れ戦法」と呼ばれるものだった 詳しく語ればアリューシャンの気候が一時的に霧が発生するパターンがあることを利用して 敵から味方の艦影を消しその間に守備隊を収容しようと言うものだった 最初から難題が多い作戦だった もっとも悲劇的だったのはアッツ島の守備隊であった アッツの守備隊は補給もままならない中でも奮戦しとうとう全滅してしまった 奇跡だったのはキスカ島の守備隊である たまたま・・・・たまたまだっのだ 霧がたちこめて接収に絶好の天候だった 海軍はこの期をのがさず 撤退を実行にうつした 後にアメリカ軍はこの作戦に舌を巻き 高い評価を得た戦場だった

ブーゲンビル島航空戦[編集]

山本五十六暗殺計画[編集]

山本五十六元帥は、真珠湾攻撃を企画した中心人物でもありこの人物の重要性を認識していた アメリカ軍は暗殺計画を画策していた

そしてアメリカ軍は山本五十六がブインを視察するという暗号を解読し計画を実行に

うつした

そして1943年4月18日日本は優秀な人材を失った・・・・・・

山本元帥は最後までアメリカとの戦争に反対した人だった

その後の日本海軍の軍事作戦[編集]

マリアナ沖海戦

この海戦の特徴としてあげられるのは、日本軍によるアウトレンジ戦法と呼ばれるものがある

要するに遠方からの敵に対して大口径の大砲による射撃を行い打撃をあたえる戦法といわれる。

ただこの段階で日本の読み違いは、レーダーによる防御力に守られたアメリカ軍にこの戦法が通用しなくなってしまった。

マリアナの七面鳥狩りと呼ばれる。ゼロ戦のアメリカ軍の対空火器による損害は大きかった。

レイテ沖海戦

この海戦において、日本海軍は大損害を受けサイパンにおける制空権を失い、

日本各地における空襲のリスクを回避できなくなります。

硫黄島守備作戦

これは、日米とも大変な被害をこうむった。

大規模な作戦であり。映画になったことも記憶に新しい。

沖縄特攻作戦

アメリカ軍の沖縄占領を阻止するため戦艦大和を投入し100機以上のアメリカの戦闘機と

よく戦ったが撃沈されてしまいました。

日本の終戦工作[編集]

日本の政治家はこの当時大変な状況におかれていました。

言論統制が軍部によって厳しく管理され

思ったように発言ができなかったのです。

その中で、対米講和を、画策していたのが、のちに総理大臣になる吉田茂という政治家がいました。

ポツダム宣言[編集]

1945年の7月にポツダムというところで、連合国の首脳があつまり日本軍の武装解除と

降伏勧告がここで採択されました

この採択にも陸軍は全く耳を傾けることはなかったといわれています。

鈴木貫太郎首相の登場

鈴木貫太郎総理は、もともと海軍出身者で、戦艦長門の艦長の経験者で、軍人は政治に口をだすべきではないと、

当初は組閣の下命を断っていました。

しかし戦局は厳しい状況下にあり、陸軍の若い将校にも人望があり、断り切れなくなって、

では、一期だけと条件を出して応じたのでした。

あの頃は、本土決戦をいつにするか?日本軍にはには戦力がなかったとはいえ数多くの戦闘機や戦闘艦が残されていて、まだ兵士も戦争をつづけるつもりでいました。

ターニングポイントは、広島に新型爆弾が投下されたあたりからでした。

阿南陸軍大臣との対立

阿南陸軍大臣は、陸軍において本土決戦を強く主張した強硬派の代表だった。

陸軍が戦争で多くの被害をうけてもなおここまで強硬に本土決戦を唱えた本当の理由はいまだに謎である。

阿南陸軍大臣すら、日本はもう負けると自覚していたとの話が伝わっていたが、定かではないのである。

しかし、原爆が投下され、日本にこれ以上勝機はないと実感がわいてくると軍のなかにも嫌戦気分がでて、

引き締めるのがむずかしくなってきた。

若い将校たちの暴発もあり、手が付けられなくなり、

そこで、昭和天皇が玉音放送という形で国民に直接語り掛けて戦争を終わらせよう。という工作が始められていく

それでも、陸軍は本土決戦を唱えたが、8月15日、日本は連合国、アメリカに降伏し、玉音放送がラジオ放送された。

その日、阿南大臣は、割腹自殺したという。

沖縄の悲劇[編集]

唯一の本土上陸

アメリカ軍の出方を、日本軍が予想できなかったのは、とても大きな誤算だった。サイパンから、から、外に出れば、日本軍に有利とふんで、

警戒を怠っていたのも、この悲劇を防げなかったのが原因である。

戦艦大和の悲劇

ともあれ、戦艦大和の力によって、アメリカ軍を本土に近づけさせないようにする。ことが重要だが・・・・・。

アメリカ軍と日本軍の戦力の差はこの時点においてはっきりしていたといっていい。

飛行機の援護もない、片道の燃料での出撃だったという。

ひめゆり挺身隊の悲劇

ひめゆり隊とは、看護婦さんが銃後の兵士に手当をすることを任務とした

当時は17歳から20歳の少女たちで編成された部隊だったようです。

現在でも慰霊碑が沖縄にあり多くの人たちが弔問におとずれます。

日本の戦後の始まり[編集]

マッカーサー元帥の日本上陸[編集]

日本は、昭和20年のころ、東京はアメリカ軍の空襲によって焼け野原となり、

物資、特に鉄が不足し、食料不足になやまされていました。

全国的に日本人が貧しい暮らしだったので暴力事件もたえませんでした。

マッカーサー元帥がまず目指したのは、日本国の復興であり、昭和天皇との会見でした。

マッカーサー元帥との昭和天皇の会談

あの当時のアメリカの政策はソビエト連邦(現在のロシア共和国)への対抗策として、アジアに資本主義経済を確立させて

アメリカの国力を増強させようというねらいがありました。

日本の陸海軍の解体や、農地改革、財閥の解体、日本国憲法の交付は、その布石ではなかったかと、筆者は考えています。

そのうえ、昭和天皇の戦争責任を問う声もありましたが、マッカーサー元帥は強くそれに反対しました。

昭和天皇は、自身の責任を取るため退位を口にされたと言う。

そこでマッカーサーはおどろいたという昭和天皇の器量に感動したマッカーサー元帥は日本人のために何ができるのかをかんがえるようになったという。

東西冷戦

エルベ川でアメリカ軍とソ連軍の兵士が友情を分かち合ったエピソードは人々に感動を与えたが、現実にはアメリカとソ連は次第に意見対立する場面が

このころからおおくなってきた。その最もたる出来事がベルリンの壁と呼ばれ東西ドイツに分割されたことであった。

スターリンの影響力は物凄くはげししく。日本でもたくさんの支持者がいました。

1989年に、ゴルバチョフソビエト大統領とブッシュアメリカ大統領との首脳会談で、冷戦が終了するまで、つづいた。

サンフランシスコ講和条約

吉田総理大臣を全権大使とした。講和会議は、敗戦の痛手により暗く落ち込んだ日本が、外交デビューに復帰するまでに回復した活気あふれるニュースだった。

それと同時に国際連合への再加盟が実現し、平和への道筋がはかられた。

所得倍増計画[編集]

朝鮮半島の分断

第2次世界大戦の悲劇は同じ民族なのに全く違う国家を実現させてしまった。

敗戦国となったドイツは東ドイツと西ドイツに分かれ

朝鮮半島は、韓国と北朝鮮という国になってしまった。

これは、アメリカ合衆国とソビエト連邦の対立が引き起こした。

そんな中で、分断を免れた日本は、

昭和29年には、景気が上向きはじめ、池田速人という総理大臣が国民一人の所得を増やそうという計画

を公約にあげるようになった。

いわゆる所得倍増計画のはじまりとなる。

東京オリンピックと高度経済成長[編集]

朝鮮特需[編集]

北朝鮮と南朝鮮(韓国)との対立は混迷を深め

ついに国連軍(実はアメリカ軍が主体となって行動した。)が仁川上陸作戦を発動した。

原因は突如北朝鮮軍がソウルに向かって進撃を開始した。

日本は警察予備隊と呼称された部隊が創設され国防の任をたくされた。

日本にアメリカから大量の物資が輸入され物凄く景気に影響を与えた。

これが朝鮮戦争による朝鮮特需となるのである。

東京、オリンピック候補地になる。

東京は、戦前にもオリンピックが計画されていたが、戦争が泥沼化して、

平和的な話し合いもできなくなり、断念せざるをえなかった。

しかし、オリンピックに対する選手の熱意により、政治的な問題もあったが、

ようやくオリンピックが開催されることに白書に

そして、1963年10月10日、快晴の青空のもと開会式がおこなわれた。


「もはや戦後ではない」

1950年代に入り日本は世界の中でも驚がく的なスピードで経済成長をなしとげ

経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれるほど

日本は復興して今日にいたるのである。

逆にこの平和な時代にあっても

地域紛争はどこかでこかで起きていて

たくさんの庶民が犠牲にあっていることを

忘れてはいけないのではないでしょうか?

佐藤栄作の沖縄返還外交[編集]

この佐藤栄作首相のノーベル平和賞受賞は沖縄返還の大事業による苦労のたまものであったのではないかと

筆者はかんがえます。

佐藤 榮作(さとう えいさく、1901年明治34年〉3月27日 - 1975年昭和50年〉6月3日)は、日本鉄道官僚政治家。氏名表記は略字の「栄」が使われることが多い。

「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、内閣総理大臣として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。2,798日の連続在任記録を持ち、「人事の佐藤」と評された(連続在任記録及び戦後最長在任記録は大甥の安倍晋三が更新した)。1974年ノーベル平和賞を受賞した。2020年時点では日本人唯一の平和賞の受賞者である。

旧制山口中学校旧制第五高等学校東京帝国大学出身。運輸次官内閣官房長官第4代)を経て政界に転身。造船疑獄で危機に陥るも、衆議院議員(11期)、郵政大臣第3代)、電気通信大臣第3代)、建設大臣第7代)、北海道開発庁長官(第42122代)、大蔵大臣第64代)、通商産業大臣第22代)、科学技術庁長官(第1213代)、内閣総理大臣(第616263代)などを歴任した。

この項目の次は平成の時代をふりかえってみる。

平成元年と昭和天皇(1989年~)[編集]

昭和天皇崩御

昭和の時代は63年つづいてきたが

折から、天皇の容態がよくない状態はつづいていた。

元号制定と後継問題は宮内庁内部で国民には秘密裡に

話し合われてきた。

天皇の崩御は一つの時代が終わったものとみてよかった。

平成をふりかえってみる。

確かに災害が多く暗い出来事も多かったが

明るい善き時代だったと思う。

昭和天皇[編集]

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昭和天皇
1956年(昭和31年)11月撮影

第124代天皇
在位期間

1926年12月25日 - 1989年1月7日

大正15年/昭和元年12月25日 - 昭和64年1月7日

即位礼 即位礼紫宸殿の儀

1928年(昭和3年)11月10日京都御所

大嘗祭 1928年(昭和3年)

11月14日15日仙洞御所大嘗宮

元号 昭和: 1926年12月25日 - 1989年1月7日
内閣総理大臣 一覧参照[表示]
先代 大正天皇
次代 明仁

摂政宮
在位期間

1921年11月25日 - 1926年12月25日

大正10年11月25日 - 大正15年/昭和元年12月25日

天皇 大正天皇
内閣総理大臣 一覧参照[表示]

誕生 1901年明治34年)4月29日

22時10分 日本 東京府東京市赤坂区

青山御所

崩御 1989年(昭和64年)1月7日

午前6時33分 (宝算87) 日本 東京都千代田区千代田 吹上御所

大喪儀 葬場殿の儀

大喪の礼 1989年平成元年)2月24日

新宿御苑葬場殿

陵所 武蔵野陵東京都八王子市長房町
追号 昭和天皇(しょうわてんのう)

1989年平成元年) 1月31日追号勅定

裕仁(ひろひと)

1901年(明治34年)5月5日命名

別称 昭和帝(しょうわてい)
称号 迪宮(みちのみや)
若竹(わかたけ)
元服 1919年(大正8年)5月7日
父親 大正天皇
母親 貞明皇后
皇后 香淳皇后(良子女王)

1924年(大正13年)1月26日 結婚

子女 一覧参照[表示]
皇嗣 秩父宮雍仁親王

皇太子明仁親王

皇居 宮城・皇居
栄典 大勲位
学歴 東宮御学問所修了
副業 生物学者
親署
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束帯姿の昭和天皇。袍は黄櫨染御袍、冠は立纓御冠 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年明治34年〉4月29日 - 1989年昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位:1926年大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。裕仁(ひろひと)、御称号迪宮(みちのみや)。お印若竹(わかたけ)。

1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。

60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である。

生涯[編集]

幼少時代[編集]

旭日旗を持つ幼いころの迪宮裕仁親王。 昭和天皇は1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の第三皇男子で皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と皇太子嘉仁親王妃節子(後の貞明皇后)の第一男子として誕生した。身長は168(約51センチメートル)、体重800(3,000グラム)であった。 皇室典範の規定による「皇孫」の誕生であった。

祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせた。

出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。皇族身位は、親王

他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。

  • 」は『書経』の「允厥徳謨明弼諧」「恵吉従逆凶」に取材した。
  • 」は『易経』の「益徳之也」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有」、『書経』の「好問則自用則小」、『礼記』の「寛者仁之作也」に取材した。

同じ日には宮中賢所皇霊殿神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている。

生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官川村純義海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長乃木希典陸軍大将)に教育された。また、幼少時の養育係の一人には足立たか(のち、鈴木姓。鈴木貫太郎夫人)もいた。

皇太子時代[編集]

闕腋袍に空頂黒幘を被った裕仁親王 1916年頃(少年時代)撮影 1919年(大正8年)4月、陸軍歩兵大尉の正衣を着用して撮影された18歳の裕仁親王。

1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所立太子礼を行い正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、帝国議会貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。

大正天皇の病状悪化のなかで、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランスベルギーオランダイタリアヨーロッパ5か国を歴訪した。1921年5月9日イギリス国王ジョージ5世から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された。

皇太子裕仁親王の欧州訪問」も参照

皇族摂政への就任

同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。旧皇室典範で定められた近代立憲君主制下で、天皇に代わって大権を行使する皇族摂政に就任したのは、裕仁親王(後の昭和天皇)の1人のみであり、2021年令和3年)4月現在、日本史上最後の摂関となっている。

第一次世界大戦戦後処理の時期であり、1921年には太平洋に関する四国条約、1922年には支那に関する九国条約山東懸案解決に関する条約ワシントン海軍軍縮条約日波通商航海条約に調印した。このように対華21カ条要求ベルサイユ条約山東条項に基づく要求を放棄した一方、国内においては1922年、刑事訴訟法改正による起訴便宜主義の法制化や外国人も対象とする破産法の新設などを行って法曹が関与する分野を増やし、また金融政策においては台湾事業公債、関東州事業公債を創設し横浜正金銀行の事業を推進した。1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。

日本統治時代の台湾台湾総督府に到着した摂政時の皇太子を出迎える騎兵隊(1923年4月)

台湾行啓」も参照

9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦長門樺太を視察、10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子/第1子・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。

即位[編集]

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、「昭和(読み:しょうわ)」と改元。なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日継宮明仁親王の誕生まで続いた。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女/第2子・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。

1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女/第2子の久宮祐子内親王が薨去(夭折)。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所即位の大礼を挙行。11月14 - 15日、仙洞御所内に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行する。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社を参拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。

1931年(昭和6年)1月、宮内省(現宮内庁)・文部省(現文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。

1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇、現:上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝溥儀朝最後の皇帝)を東京駅に迎えた。11月28日には第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。

日中戦争と第二次世界大戦[編集]

昭和天皇御前の大本営会議の様子 (1943年(昭和18年)4月29日 朝日新聞掲載)

1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。

1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、大東亜戦争が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月21日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定する。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日ラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。この放送における「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の一節は終戦を扱った報道特番などでたびたび紹介され、よく知られている。

昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また、同年には神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。

「象徴天皇」として[編集]

1956年(昭和31年)11月、国家元首国賓としては戦後初となるエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世を迎えての宮中晩餐会にのぞむ昭和天皇と香淳皇后。

戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。行幸に際しては、迎える国民に向かって食事のことなど、生活に密着した数多くの質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の「涼しくなってからでいいのでは」との反対を押し切り、「東北の農業は夏にかかっている」という理由での季節時期を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにしたとされる。

1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、昭和天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。

1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男の継宮明仁親王への譲位、当時まだ未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟秩父宮雍仁親王結核を患い療養下にあったため、次弟高松宮宣仁親王摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。

1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともにイギリスオランダなどヨーロッパ各国を歴訪し、1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。

1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として東京都立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日)から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。

1981年(昭和56年)、昭和天皇は新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され、継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。




晩年[編集]

1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中、嘔吐症状で中座した。8月以降になると吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明された。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。

手術にあたり1987年(昭和62年)9月14日の拡大侍医団会議では、「陛下の体(玉体)にメスを入れるのはいかがなものか」といういわゆる玉体論が噴出した。侍従からは「輸血をしては万世一系の血脈が途絶えるのではないか?」との声もでたという。

しかし、1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日全国戦没者追悼式が天皇として最後の公式行事出席となった。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内を映し出されたのが最後の公の姿となった。

昭和天皇は9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌9月19日の午後10時ごろ、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行った。その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸尿毒症を併発、マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道し、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した。死因は、十二指腸乳頭周囲腫瘍腺癌)と発表された。神代を除くと、歴代の天皇で最も長寿であった。午前7時55分、藤森宮内庁長官と小渕恵三内閣官房長官(のちの内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表した。これに伴い、昭和天皇第一皇男子の皇太子明仁親王がただちに皇位継承して第125代天皇に即位した。

その直後、竹下登内閣総理大臣(当時:竹下改造内閣)が「大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話」を発表した。

1989年(平成元年)1月31日、天皇明仁が勅定、在位中の元号から採り「昭和天皇」(しょうわてんのう)と追号した。

同年2月24日新宿御苑において日本国憲法・現皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる。

ソビエト連邦の崩壊[編集]

共産党宣言がマルクスとユルゲンスによって世界規模の変革をもたらした

コミンテルンでしたが、時代の変遷にマルクス主義がついてゆけなくなりはじめます。

そこに登場するのが、レーニンという人でした。

帝国主義という概念を作ったのがレーニンでそれを純粋に実行し支持をあつめたのが

スターリンという人です。

スターリン元帥は、ソビエト連邦を巨大な超大国にそだてあ







  1. ^ 中塚明「日本近代史研究と朝鮮半島問題」『歴史学研究』No.867、2010年、7頁。